風呂場騒動

風呂場騒動

濁りなき心に その16

慶応元年七月

 日中の巡察から戻った夕刻、斎藤は隊務報告の為、土方の部屋に向かった。土方は昼過ぎに、急用で京都守護職に呼び出され黒谷に行ったまま戻っていなかった。

 三番組隊士たちは、夕餉までの半刻が大浴場の使用割当だったので、汗を流しがてら入浴していた。通常は斎藤も入るが、土方への報告を終えてからで、いつも千鶴を伴って浴場に来る。隊士達の後に千鶴が風呂場を使う間、斎藤は外で見張り番をしてから、入れ違いで風呂に入り、先に千鶴は外で待つ三番組隊士と部屋に戻る事になっていた。

 三番組隊士が風呂から上がると、千鶴だけが脱衣所の外でぽつねんと立って居た。

「あれ、雪村くん。組長は?」

「此処にはいらっしゃいません。もう先に入られてると思って。待って居ました」

「風呂には組長来てないですよ。まだ副長の所でしょう」

「そうですか、それなら私は、斎藤さんを部屋でお待ちしてから出直します」

 そう言って、千鶴が踵を返すと。

「いや、雪村くん。組長は長くかかるでしょう。良かったら先にどうです?俺らは今全員上がりましたから。此処で見張っておくので、御心配なく入って来て下さい」

「有難うございます。それでは、急いで入って来ます」千鶴は隊士に頭を下げると脱衣所の中へ入って行った。

 茹だるような暑さの中、巡察で歩き回り全身汗だくだった千鶴は、湯浴みをするとスッキリした。髪も解いて洗って、全身丁寧に洗って汗を流した。湯船に浸かると、ちょうど良い湯加減で疲れが吹き飛んだ。脱衣所の外では、三番組隊士達三名が夕涼みがてら廊下に座って風呂場の番をして居た。

 そこへ突然、大勢で渡り廊下を走って来る大きな音が聞こえた。

「疲れたぜ。返り血と汗に砂埃で人間安倍川が出来ちまってる」

「一気に頭から水かぶりてえ」

 大声で笑いながら、男達は脱衣所の戸を開けようとした。三番組隊士達は立ち上がって、

「ちょっと待った。今は俺ら三番組が風呂を使っている。九番組は後にしてくれ」戸口に立って遮った。

「はあ? 何言ってんだ。お前らの割当はもう終いになってんだよ。こっちは乱闘騒ぎで大捕物して来たんだ。其処を退いて、とっとと消えやがれ!」

 そう言って、戸を無理矢理開けると脱衣所の中に入って行った。三番組隊士達は慌てて、脱衣所から外に出るよう大声で叫びながら、九番組隊士を引っ張りだした。

 三番組隊士の剣幕に後から来た九番組隊士達も激昂し、廊下や縁側での乱闘になりかけた。その時、斎藤が現れた。

「何の騒ぎだ」

 三番組隊士は斎藤の姿を目にした途端手を止めて、直立不動になった。

「組長、雪村くんが。此奴らが勝手に風呂場を使おうとして」

 三番組隊士が説明し出した途端、乱闘から抜け出した隊士が、

「三番組の後は俺らが使う事になってんだよ」

 そう捨て台詞を吐くと、そのまま濡れ縁を上がり、脱衣所に入って行った。もう一人の隊士もそれに続いて行った。

 斎藤は、一瞬目を瞑った後、素早く抜刀した。その場が凍りついたようになった。

「俺が良いと言うまで、誰も風呂場に入ってはならぬ」

 斎藤は、そう言うと脱衣所の中に入って行った。

 物がぶつかる音がしてから静かになり。再び斎藤が戸を開け放った。三番隊士に目配せすると。

「速やかに運び出せ」と静かに指示した。

 三番組隊士は、脱衣所の簀の上で伸びている隊士達を廊下に引き摺り出した。斎藤が戸を閉めようと振り返った瞬間、千鶴が風呂場の戸を開けて出て来た。

 大きく見開いた目で立ち竦んだ千鶴は斎藤と目を合わすと、慌てて手拭いで身体を隠した。

 斎藤は物凄い勢いで、後ろ手にピシャリと脱衣所の戸を閉めた。

「もう一度言う。俺がいいと言うまで、風呂場に誰も近づくな。九番組の者には追って連絡する故、自室で待つよう」

 斎藤は声を大きくしてその場に居る全員を見据えた。

「何だって?」

 廊下の向こうから、三木三郎が現れた。気を失った隊士を抱えた九番組隊士達は味方を得たとばかりに沸き立つと、三木に訴えた。

「組長、風呂場が使えないんです」

 三木は斎藤の前に立つと、威圧的に斎藤を見下ろした。

「今我々は巡察から戻った。四条で乱闘騒ぎがあって、隊士達は返り血を浴びて居る。三番組で風呂場を独占する道理は通らぬ。皆、騒ぎで気が立っている。黙って、其処を退け、三番組組長さん」

「それは御苦労であった。だが、まだ三番組で風呂が終わって居ない者が居る。終わったら、直ぐに報せる故、ここは引き取って貰いたい」

 斎藤は静かにそう言うと、刀を目の前に持って来た。

「気が立って居るのは、俺とて同様だ」

 斎藤の鋭い眼光が三木を射抜いた。体術に長けて居る三木でも斎藤の刀を躱すのは不可能。察知した三木は皮肉な表情で笑いながら、部下を引き連れて下がって行った。

 三番組隊士達が、斎藤に向かい頭を垂れて謝り出した。

「組長、すみません。俺らで雪村くんの風呂番をしていたのですが、突然あいつらが来て」

「すみません」、次々に頭を下げた。

「俺が報告に手間取って居たのが悪かった。雪村の番をしてくれた事に礼を言う。間も無く雪村も出てくるだろう。苦労をかけるが、九番組隊士に風呂場が空いたと周知して欲しい。俺から、三木には改めて話をして置く故、今日の事は互いに遺恨を残さぬよう」

 斎藤がそう言うと、ようやく隊士達はほっとしたように笑顔になった。その直後、千鶴が脱衣所の戸を開けて、そっと出て来た。

 俯きがちで、「すみません、大変お待たせしました」と頭を下げると。斎藤は、隊士達を北集会所へ走らせた。

 それから無言で渡り廊下を先に歩いて行った。千鶴は斎藤の背中を見上げると、斎藤の横顔が赤らんで見えた。

(どうしよう。やっぱり、私斎藤さんに見られてしまった)

 千鶴は恥ずかしくて、そのまま縁の下に隠れてしまいたかった。あまりにお湯が気持ちよくて長湯してしまった自分が悪い。斎藤さんが戸口に立ってたのは、きっとお風呂に入る時間がなくて声を掛けようとしてくださったから。本当に申し訳ない。どうしよう。

 千鶴が後悔の念で苛まれている間、斎藤も前を歩きながら、不躾に湯上がりの千鶴を目にしてしまった事を申し訳なく思っていた。

(決して故意ではない。あれは仕方がない。でも雪村は大層驚いていた。隠す間も無かった)

 隠す。隠す前に、俺は見てしまったのだ。雪村を。雪村の裸を。

 斎藤の足が猛烈に速くなった。

(いかん。いかん。忘れねば。思い出すのも己に禁ずる)

(雪村に申し訳が立たぬではないか。それに、俺は雪村に謝っても居らぬ)

(今、此処で謝ろう。謝罪の意は伝えないと、雪村も浮かばれないであろう)

 急に斎藤が足を止めた為に、千鶴は斎藤の背中にぶつかって後ろによろめいた。斎藤は咄嗟に振り返ると、千鶴の手を引いた。そのまま千鶴は勢いで斎藤の腕の中に収まった。千鶴の洗い髪から甘い香りがした。

「すまぬ、大丈夫か?」

「はい」

 千鶴は返事をしたまま俯いていた。斎藤は一歩下がると狼狽しながら頭を下げた。

「さっきは、すまなかった。不躾な事をしてしまった」

「いえ、私が長風呂をしてしまった為に、斎藤さんがお風呂を使えなくなってしまって申し訳ありません」

 二人で俯いたまま暫くそのまま立っていた。

「ねえ、其処に居るのはじめくーん?」

 北集会所の周り廊下から平助の呼ぶ声が聞こえた。

「夕餉が始まってるよ。一緒に居るの千鶴?二人とも早くー」

 斎藤は顔を上げると、平助の方を振り仰いだ。千鶴が見上げると、夕焼けの光を受けて、斎藤の頰が赤いままの様に見えた。

 千鶴はそのまま斎藤の後に続いて広間に入った。二人とも、表面は何も起きなかった様に無言で食事を終えた。



***

 その日の夜、九番組組長の三木三郎の部屋を斎藤は訪ねた。

「斎藤だ、入って良いか?」

 三木は、障子を開けた。部屋で晩酌をしていた三木は酒臭い息で、風呂場の件で斎藤に悪態をついた。

「今日の風呂場の件は、三番組の割当時間中に起きた事。この暑さと隊務で気が立っている隊士の気持ちも解るが、今後、三番組の風呂番が居る限り、あんたも含め九番組隊士には風呂場には近づかないで貰いたい。良いな?」

「フン、三番組さんは、特別なこった」

「副長のあの小姓をお殿様扱いかよ」

「さぞかし、やんごとなき御身分なんでしょうな」

「雪村は新選組で預かっている客人。三番組で護衛している事を忘れるな。これは局長の命。それを侵す者がいたら、隊士といえども我々は粛清する。幹部とて同じだ」

 斎藤はそう言うと、障子を開いて背を向けた。

「出たよ。お得意の禁令。気狂いだぜ、あんたら」

 口角を上げて皮肉な表情で揶揄する三木に、斎藤は鯉口を切りながら呟いた。

「俺は躊躇はせん」

 背後を睨みつけると、部屋を後にした。

 廊下を暫く行ってから、立ち止まり溜息をつくと鯉口を塞いだ。

 斎藤は、部屋に戻る前に総司の部屋に立ち寄った。

「総司、起きているか。入るぞ」

 斎藤が障子を開けると、山崎が総司の布団の傍らに座っていた。

「すまぬ、取り込み中だったか。邪魔をした」

「いいえ、今、薬を飲んで貰っていたところです。私の用は終わりました。沖田さん、夜半に何かあれば、いつでも呼んで下さい」

 そう言うと、山崎は襖の向こうに下がった。

「はじめくん、聞いたよ。今日、九番組の隊士を風呂場で斬ったんだって」

「斬ってはおらぬ」

「千鶴ちゃんのお風呂覗く奴は殺さないとね」

 総司は両腕を伸ばして伸びをすると、両手を組んで頭の下に入れた。

「馬鹿を言うな。九番組は今日四条で大捕物をした。土佐の浪士が大店から金子を脅し取ろうとしていたらしい。捕縛したのは十名だが、斬り合いで半分は死んだらしい」

「ふーん、土佐藩か。九番組にしては頑張ったんじゃない。あの三木って人。目付け役の時から張り切ってたけど」

「あの人、体術師範でしょ。あの剣で組長やってるのって、土方さんも伊東さんに推されて仕方なくらしいよ」

 斎藤は、黙って聞いている。

「僕とはじめくんで巡察してたら、全員捕縛出来てたよ」

「ああ」

「さっき山崎くんが、九番組の子達の手当てして来たって。はじめくん、かなり強く首の後ろ平打ちにしたでしょ。ひと月は動けないってさ。もう一人は、首と胸板に酷い打撲だって」総司は自分の胸を押さえながら話す。

「どこ使ったの?」

「……柄頭だ。歯向かう者は容赦せん」

「二人とも、はじめくんの顔が鬼みたいだったって、震え上がってたって」総司は嬉しそうに笑う。

 斎藤はまんじりと黙っている。

「それで、その子達千鶴ちゃんの裸見たの?」

「あの者達は見ては居らぬ」

「じゃあ、はじめくんと三番組の子達は見たんだ」

「誰も見ては居らぬ」斎藤は声を荒げた。

「ふーん、それでどうだったの?」総司は身体を横にして、腕枕をした。

「千鶴ちゃん、どうだった?」

「……雪村は、無事だ」

「はじめくん」、総司は揶揄する様に下から斎藤の顔を覗き込む。

「耳まで真っ赤だよ」

 斎藤は、何も言えず俯いたまま。総司は、くっくくと音を立てて一頻り肩を震わせた。其れから、斎藤の膝下へ鼻を寄せると。

「はじめくん、ちょっと臭うよ。お風呂入ってないでしょ」

 斎藤は、風呂に入りそびれて居た事に気付いた。自分の腕を嗅ぎながら、

「すまぬ、臭うか? 今日も暑かった故、汗をかいた。着替えもしていないからな」

「早く入って来なよ」

「ああ」斎藤はそう言うと、腰を上げた。

「ねえ、はじめくん、今夜も山南さんと稽古するの?」

「ああ」斎藤は振り返った。

「明け方に御堂に行っている」

「今度、僕も行っていい?」

「ああ」

「山南さんも。羅刹隊も腕を上げている。一筋縄では行かぬぞ」

「へーえ、それ聞くと。益々行きたくなったよ」

 総司は不敵な表情で微笑んだ。斎藤も微笑しながら部屋を出た。

 それから斎藤は、風呂場に向かった。がらんとした大浴場で独り湯に浸かった。長い一日だった。

 湯気の向こうに風呂場の入り口を見た時、千鶴の姿を思い出した。

(いかん。いかん)

 斎藤は自分の身を深く湯船に沈めた。湯船から上がると桶で何度も頭から水をかぶった。

 不埒な己を散々諌めた後、御堂に向かい稽古で気を張った。

 その明け方、夜の巡察から帰った新八達が水浴びしようと浴場に行ったら、風呂場の水置きが空っぽだと大騒ぎになっていたのを、斎藤はだいぶん後で知った。




 つづく

→次話 濁りなき心に その17

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