夏の終わり

夏の終わり

濁りなき心に その17

慶応元年八月

 茹だるような京の暑さも漸く朝夕が過ごし易くなって来た夕刻、千鶴は山崎の部屋に呼ばれた。

「雪村くん、此れを見て欲しい」

 山崎は、隊士の健康状態を記録した帳面を千鶴に見せた。

「治療中の者は、松本先生から治療方法も聞いて記してある。もし、自分に何かあった時は、この帳面を参考に君に隊士の看護をして欲しい」

 千鶴は目を見開いて、帳面を見た。びっしりと細かい字で記録された診断帳。此れを作った山崎の労力を思った。

「私に山崎さんの代わりは務まりません。ですが、私で良ければお手伝いします」

「有難う。正直、君にしか頼めないと思っていたから。本当に心強い。来月から暫く屯所を留守にして西国に出向かなければならなくなった」

 千鶴は、山崎の突然の任務に驚いた。

「今年に入ってから、近藤さんはずっと幕府に西国視察の嘆願書を出しておられた。隊士募集ではなく、長州や周辺諸国の偵察だ」

「来月、長州訊門使として西国に下られる。幕府大目付の永井主水様にお伴するそうだ」

「山崎さんも近藤さんに同行されるのですね」

「いや、俺はおそらく別行動になる。局長より先に行って、偵察をしながら諸国を回る」

 千鶴は山崎の任務の重大な事とそれに伴うであろう山崎の身の危険を思った。

「山崎さん、必ず戻って来て下さい。お留守の間、隊士さんのお世話をして待っています」

「有難う、雪村くん。西国は俺の親戚も方々に暮らして居る。土地に明るい事もあってこの任務に就いた。俺は、西洋の医術にも興味があるんだ。西国で新しい薬草や医術書を探す楽しみもある。必ず、良薬を持ち帰って、沖田さんを治す」

 笑顔で澄んだ瞳で真っ直ぐと千鶴を見つめながら、山崎はそう断言をした。

「はい」千鶴も笑顔で答えた。



***

 八月も終わりのある日。千鶴は近藤に呼ばれて、表階段に向かった。

 近藤は大きな西瓜を抱えて、千鶴に向かって笑顔を見せた。

「雪村くん、立派な西瓜だろう? 多磨でも此処まで良く育ったものは見たことが無い。今から井戸に置いておけば、夕刻には良く冷えて美味いぞ」

「はい、近藤さん。それでは井戸で冷やしておきます」

「そうか、俺が井戸まで運ぼう」

 近藤はそう言うと、裏手の井戸まで千鶴と一緒に西瓜を運んだ。

「まだまだ、日中は暑いなあ。今日は此れからまた黒谷へ戻らねばならん」

「お役目、御苦労様です。近藤さん、冷やし飴を飲んで行ってください。今、お持ちします」

 井戸で汗を流す近藤を置いて、千鶴は台所に走った。台所で井上に会った。

「今、近藤さんが一旦戻られたので、冷やし飴を持って行きます。井上さんも如何ですか」

「そうかい、勇さんが。此処の所、忙しいようで、屯所にも来ることがなかったからね。私は飲み物は要らないよ。冷やし飴はさぞかし勇さんも喜ぶだろう」

「はい」と千鶴は笑顔で応えると湯呑みと酒瓶に詰めた冷やし飴とお茶をお盆に載せて、近藤の元へ戻った。

 近藤は、集会所の前の石段に腰掛けて、汗を拭っていた。千鶴が飲み物を勧めると、喜んで飲み干した。

「近藤さんの声がすると思ったら。やっぱりそうだ」

 振り仰ぐと、周り廊下の上に総司が立っていた。

「おお、総司。今部屋に顔を見に行こうと思っていた。どうだ具合は?」

「こう暑いと部屋の中で茹だりそうですよ。今も厠へ行きがてら、廊下で涼んでたんです」

「そうか、起きていて大丈夫なら、こっちに来んか。今、雪村くんが飲み物を用意してくれてな」

 近藤が話している内に、総司は柱を器用に滑り降りてきた。

 千鶴は空いた湯呑みに冷やし飴を注いで総司に勧めた。

「これ、千鶴ちゃんは薬だからって、毎日僕に飲ませるんですよ」

 腰掛ける総司を眺めながら、近藤は頷き微笑む。

「ずっと屯所を留守にしていた。黒谷と二条城に行っていてな。おそらく、来月早々に将軍様が大坂から御上洛なさる」

「何か決まったの?戦になるとか」

「ああ、新しい勅命が下るだろう。長州藩主への御沙汰をいろいろと理由をつけて先方は拒んでいる。幕府も長州を恭順させるのに手を焼いている」

「総司、俺は来月から西国に下る。長州訊門使の役につく」

「敵地に乗り込むんですね。僕も連れて行ってください、近藤さん」

「ああ、連れて行きたいのは山々だが、今回は西国諸藩の偵察任務だ。各地で遊説も行う。我々が攘夷の意志がある事を西国諸藩に知らせるいい機会だ」

「遊説って。伊東さんを連れて?」

「ああ、伊東先生と武田くんと同行する。我々は幕府大目付の永井様の御付きとして周る故、幕臣として振る舞わねばならん」

「ふーん、武田さんと伊東さんか。じゃあ、僕は、近藤さんに何かあれば、直ぐに助けに行けるよう準備しておきますよ」

「おお、そうか。総司、心強い。留守中は新選組を宜しく頼む。あと、俺が留守中に多磨から便りがあれば、俺は心配ないと代わりに返事をしておいてくれ」

 総司の瞳が光った。一瞬、真剣な表情をしたが、直ぐに笑顔になった。

「僕が返信するんじゃなくて、近藤さんの字で文を書いておきますよ」

「おお、真似字か。あれはウチのでも見分けが付かんらしい。ハハハ、悪気の無いものでなければ良しとしよう。総司、頼んだぞ」

 近藤は笑顔でそう言うと、立ち上がった。

「雪村くん、ご馳走になった。此れから黒谷に出向いて、屯所には西国に向かう前に戻る。水菓子は幹部皆で食べてくれたまえ」

「はい、近藤さん、どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」

 千鶴と総司は近藤を見送った。

「沖田さん、近藤さんが大きな西瓜を下さったんです。井戸で冷やしているので、夕刻にお出ししますね」

「千鶴ちゃん、僕此れから昼寝するから、起こさないで」

 総司はそう言うと、周り階段まで柱を器用に登った。

「はい、それでは、夕餉の準備が出来たらお声掛けします」

「うん、そうして。僕、今夜は広間で食べるよ」

 千鶴は周り廊下の角に消える総司を見送ると、お盆を下げて台所に向かった。

 夕餉の並べられた広間に久し振りに総司が現れ、幹部の皆と食事をした。顔色は悪いが、いつもと違い良く食べ、水菓子にも手をつけた。食事が終わると、総司は斎藤に近づいた。

「はじめくん、今夜御堂の稽古。僕も行くから」

 そう言って笑うと、部屋に戻って行った。

 斎藤は、そのまま山南の部屋に向かい、裏の御堂の埃払いがしたいと申し出た。山南は日没後なら、羅刹隊で清掃することは可能だと請け負ってくれた。斎藤は、夜四つまで総司に待つように伝えると、急いで御堂の扉を開け放って清掃した。
 窓や扉を四方開けると御堂は至って風通しが良く快適な事に気付いた。

 隙間を上手く開けて、蝋燭を灯さずにおけば、部外者には判るまい。

 斎藤は、道場の準備を整えると、総司を呼びに行った。その夜から、総司は朝の巡察と御堂での闇練に励むようになった。そして日中は良く眠る様になり、食欲も少し出てきた。千鶴は張り切って、総司の献立を考えた。

 この夏の終わりの鍛錬を、後年、斎藤は時折思い返す様になる。

 総司の剣は凄まじい強さで、山南を始め羅刹隊を震撼させた。

 斎藤も、御堂での鍛錬の為に日中時間を見つけては仮眠を取るまでになった。

 千鶴は斎藤が牛の乳を飲むと眠くなるというので、仮眠しやすい様に甘く味付けて冷やした乳や寒天固めを常に用意した。

 総司も、睡眠しやすいという暗示で我慢して斎藤と一緒に牛乳を飲んだ。

 診察に来た松本良順が、総司の容態が良好な事に喜んでいた。一方で、羅刹隊が血に狂う傾向が強くなっている事を危惧した。山南に羅刹の発作を抑える薬を与えたが、まだ試薬段階で、飲み続けると効かなくなる可能性が高い事を説明した。

 山南は改良型変若水の開発と良順の与える薬の成分の調査に取り掛かった。



******

寒露の頃

慶応元年十月

 九月に再征長の勅命が下り、近藤は長州訊門使役として西国へ下った。

 芸州藩迄は順調よく進んだが、長州の関所で役人に足留めされた。幕府の手形は通らず、藩境での長州藩要人との面会も叶わず、近藤達一行は長州藩入りを諦めざるを得なかった。

 近藤達が動けずにいた間、伊東は武田を伴い安芸から土佐へと渡り遊説を行った。土佐藩で、薩摩藩の要人と秘密裏に接触。九月に薩摩藩は朝廷と幕府に長州征討には不参加の意を表明していた。列強が開国を迫る中、薩摩藩では幕府の攘夷鎖国論ではもはや立ち行かず、新たな日本を作ろうとする大久保利通や西郷隆盛などの強硬派が台頭。伊東は自説の勤皇攘夷論を展開し、薩摩藩への協力を申し出た。

 山崎は幕府目付永井と近藤の身の安全の確保の為、芸州内を奔走。この間の伊東の動きについて知る術はなかった。近藤達の西国出張中に、英国、アメリカ、オランダの軍艦が神戸港に再び入り開国を要求。家茂将軍は朝廷の許しを得ないまま、開国要求を受け入れ、朝廷の怒りをかう事態になった。この軋轢を解消する為、京都と大坂を奔走し、最終的に勅許を得たのは将軍後見役の一橋慶喜であり、朝廷内でも将軍家茂への失望が広がった。

 幕府の力が急速に弱まる中、諸国雄藩も財政悪化で長州征討への士気が下がっていた。近藤は各藩を周りながら、再征討は困難だと実感した。

(長州藩が恭順の姿勢を見せている限り、戦を仕掛ける必要はない)

 同時に新選組局長という名目は非常に反感を買い、長州への入国拒否に合うことも痛感する事となった。近藤が西国の現状を目の当たりにしている間、京の新選組は会津藩から戦への要請もなく、通常の任務についているだけであった。

 夏の終わりから続けていた御堂での闇練は、十月に入ってから総司が発熱を頻繁に起こすようになり、斎藤が独りで行うようになっていた。千鶴は夜半も総司の看護につくことがあった。

 冷え込んだある朝、斎藤は自分の隊服を探していた。千鶴が持って来た洗濯物の中にもなく、千鶴は朝方に部屋に戻って眠っていたので、斎藤は朝餉を千鶴の部屋に置くと、行李から黒い羽織を引っ張りだして巡察に出た。

 北風が強く吹く中、二条まで見廻りして屯所に向かって歩いていると、壬生馬場町で誰かに呼び止められた。斎藤が振り返ると、八木邸のお雅が大きな風呂敷包みを抱えて立っていた。

「斎藤はん、やっぱり。巡察、御苦労さまでございます」

 お雅は会釈をすると、斎藤に近づいた。

「ご無沙汰しております」斎藤も笑顔で挨拶した。

「此れから屯所へお戻りですか?」

 斎藤がそうだと答えると、お雅は其れならと手に抱えた荷物を掲げて斎藤に見せた。

「これ、柿の実です。知合いにお土産に頂いたものです。余りに仰山で、ご近所に配ろうと思ってここまで抱えて来たんですが、えろお、重うて。丁度良かった。もし、ご迷惑でなければ、新選組の皆さんで召し上がって貰えまへんやろか」

 斎藤は、お雅の荷物を下から支えようと前に出ると、そのまま風呂敷包を受け取った。

「あー、しんどかった」お雅はほっとした表情で笑った。

「八木邸までお持ち致そう」斎藤は微笑して、三番組に壬生に向かう様に合図した。

「いいえ、そないな事をお願いしたら、主人に怒られてしまいます」

 お雅は首を振って固辞するので、斎藤はお雅を壬生町の通りまで送って別れた、結局柿の包みを隊士が抱えて屯所まで持ち帰った。屯所の台所に柿の籠を置くと、その中から二つ実を持って千鶴の部屋に向かった。

「雪村、いるか」

 障子が開くと千鶴が笑顔で「おかえりなさい。巡察お疲れ様です」と斎藤を招き入れた。

「お茶をお持ちしますね」と言って台所に向かった。

 千鶴は繕い物をしていたらしく、斎藤の隊服が座布団の前に拡げてあった。部屋の中は暖かく、ほんのりと甘いいつもの千鶴の香りが漂っていた。斎藤は柿の実を千鶴の文机に置いた。腰の大小を抜くと、羽織を脱いで胡座をかいて座った。

 突然、背後から

「千鶴ちゃん、もう一刻過ぎたー?」

 総司の気だるい声が聞こえた。斎藤は跳び上がって後ろを振り返った。 屏風の裏を覗くと、千鶴の蒲団の中で総司がうつ伏せていた。

「あれ、はじめくん。もう巡察は終わったの?」総司が振り返りながら、斎藤を見上げた。

「ああ」と答えながら、斎藤は火鉢に仕掛けてある鉄鍋を見て、総司が手当をされているのに気がついた。

「じゃあ、もう昼八つ?」

 総司は腕を重ねて枕にした。

 その時、「お待たせしました」と千鶴が障子を開いて戻って来た。斎藤を見て、「沖田さん、お目覚めですか?」と笑顔で尋ねる。

「ああ」、斎藤が答えると、千鶴はお盆のお茶を斎藤の前に置いた。それから、総司の上蒲団を剥ぐって、背中に置いた湿布を取り除くと手拭いで汗を拭った。総司の顔色は青白く夏の頃より痩せて見えた。

「僕、一刻以上眠ってたみたいだね」

「ぐっすり眠ってらっしゃいました。気分はどうですか?」

「うん、夢をみてた。寝間着を着替えたい」

「はい、お着替えしたら、敷布も取り替えましょう」

 千鶴は総司の首の後ろや背中に手を当てて熱があるか確かめると、手際よく着替を手伝った。総司が着替えている間に敷布を取り替えて蒲団を整えた。

「白湯をどうぞ。お腹は空いていないですか?」

 総司は首を横に振った。

 千鶴は、寝間着や敷布を片付けると、斎藤の側に火鉢を移動した。

「今日は真冬みたいに風が冷たいですね。斎藤さん、巡察に羽織が間に合わなくてすみません」

「いや、今日は自分の羽織を着て行った。帰りに八木のお雅さんに会った。柿の実を貰った故持って来た」

 斎藤が文机の柿を見せると、千鶴は喜んで、一緒に食べましょうと言って台所に向かった。



***

寒露の頃

「さっき、近藤さんの夢を見たよ。僕が小さい時の。試衛館の道場で稽古をつけてくれて、宗次郎、来い、って笑うけど、僕の木刀はどうやっても近藤さんに届かない」

「……局長は芸州の広島藩邸に留まられているそうだ。副長が言っておられたが、戦は暫くは無いらしい」

「そう、それじゃあ、近藤さんまだ戻って来ないんだ」

「会津藩が動けば、我々も長州に向かう事になるだろう」

「土方さんは、何しているの?近藤さんが身を張って敵陣に向かってるのに」

「副長は、新選組を守っておられる。今日も朝から黒谷で軍議があるからとお出掛けだ。夜には戻って幹部が集まる事になるだろう」

「今は、神戸の港が夷狄に占領されていると聞く。場合によれば、御所を護衛するよう、新選組が守護職から要請されるやも知れぬ」

 総司は、ずっと天井を見つめたまま黙っていた。

 その時、千鶴がお盆を抱えて戻って来た。屏風をずらして、斎藤が座る場所を作ると、柿の実の載った皿を斎藤に差し出した。総司には、小さく一口大に切った実を楊枝で刺して食べさせた。幼な子の様に口に食べ物を運ばれている総司を見て斎藤は微笑んだ。

「なに、はじめくん」

「童の様だな」

「はじめくんも、して欲しい?」

「馬鹿を言うな」

「千鶴ちゃん、はじめくんにも、あーん、てしてあげて」

 千鶴は、斎藤の顔とお皿を交互に眺めると、「それでしたら、もうちょっと小さく切ってくれば良かったですね」と笑った。

 斎藤は、千鶴の構わない様子に、段々と恥ずかしさが募って来た。

「いや、俺はこれで良い」

 そう言う自分の頰が熱くなっているのを感じた。

「こうして、屏風で囲われた中に居ると、小さい時みたい」

 千鶴はそう言うと、ふふふと嬉しそうに声をたてて笑う。

「小さい時に、家の中で独りで遊ぶ事が多くて。戸棚の間に衝立や布で小さな部屋を作ってお菓子を持って入って遊んでたんです」

「そのお部屋には、私の兄様がいて、二人で菓子や飲み物を分けて、美味しいねって」

「千鶴ちゃん、お兄さんがいるの?」

 千鶴は首を横に振って、

「いいえ、でも小さい時は、自分には兄様が居るものだと思い込んでました。兄様はお優しくて、お菓子も最後には私に全部食べなさいと」

「それで全部食べっちゃったんだ」

 千鶴がこっくりと頷くと。

「君って、本当に変な子だね」と言って総司は肩を震わせて笑った。

 斎藤は微笑みながら、千鶴を眺めた。

 総司は夏の無理が祟って、此処のところ寝込みがちだ。近藤さんが居ないと不貞腐れ、副長に八つ当たりをするのが常だが、こうして千鶴が居ると、総司は良く笑う。俺をからかうのも元気な証拠だ。斎藤は、総司が大丈夫だと思った。千鶴がこうして総司の世話を続け、局長が戻り、山崎が新しい薬草を持ち帰って、総司はきっと良くなる。

 斎藤は、総司がまた自分と一緒に剣を振るうと信じて疑わなかった。




 つづく

→次話 濁りなき心に その18

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