祇園社

祇園社

濁りなき心に その19

慶応元年十二月

 近藤達一行が西国より戻った。長州への入国が叶わない為、会津藩への報告の為の帰洛だった。

 黒谷への報告書には、周辺国の征長への士気が低く、長州が恭順の姿勢を見せる限り戦を起こす必要無しと記した。近藤は帰洛後も黒谷に連日出向き、屯所へ戻ったのは、年の瀬に近くなった頃であった。山崎は芸州で仕入れた薬草を屯所に持ち帰り、再び千鶴と一緒に総司の看護にあたっていた。土佐藩での遊説が概ね成功した伊東は、攘夷の機運は一層高まり、開国で朝廷の守備が一層需要なものに成ったと、連日、広間に隊士達を集め講義を開いていた。

 近藤が会津藩や幕府との連携を強める一方で、伊東の持論は依然【勤皇攘夷】であり、互いの主張が相容れないものであるにも拘わらず、近藤は再び、年明けに長州訊問使として伊東と西国へ下ることを決めていた。

 慌ただしい近藤を余所に、幹部達は西本願寺での初めての年の瀬を迎えた。大晦日に台所の片付けも終わり、部屋へ戻ろうとする千鶴に斎藤は声を掛けた。

「雪村、俺は今から出掛けるが。あんたも一緒に行かぬか?」

「今からですか?」

「ああ、祇園社に詣ろうと思う」

「連れて行ってください。すぐ支度します」

 千鶴は、部屋に戻って、羽織を着ると襟巻きをして表門に向かった。斎藤も羽織を着て待っていた。

 西本願寺の除夜の鐘が響く中、二人は門を出て堀川通りを上って行った。

「二年詣りにはならぬかもな」

「そうですね」

 梵鐘の音が遠ざかる中、通りを二人で歩いた。

「冷えるな。寒くはないか?」

「いいえ。でもさっき根菜の晒し水に手を入れた時は、本当に冷たくて」

「八木の屯所より今の炊事場は風が通る故、よく冷える」

「ほんとに」

「斎藤さんの羽織の綿打ち、お正月に間に合って良かったです」

「刀を振る時に邪魔に思えて、昔から着ることはなかったが、此れは軽くて気に入っている」

「本当に、黒八丈の上等なものですね。隊服は動き易く工夫されているので、其れを真似してみました」

「綿入りは温かい。礼を言う」

 千鶴は嬉しそうに頷いた。

「斎藤さんは、羽織や袴はお嫌いなのかと思っていました」

「袴は調練で必要だから身に付けている。馬に乗るからな」

「そうですか。だから、袴の内裾が傷んでるんですね。お洗濯の時にいつも気になっていました」

「お正月の内に当て布をつけておきます。内側から目立たないようにすれば、きっと大丈夫です。斎藤さん、何か他にも必要なものはありませんか?」

「いや、特に不自由はしていない」

「お馬に乗られるのでしたら、袴下に股引の様なものや膝当ても。江戸の御行列で見た事があります。馬上のお殿様が真っ白な股引と立派な編草履を履いてらっしゃいました。あと緞子の膝当てや肘当ても」

「いや、必要無い」斎藤は、笑いながら応える。

「俺がその様な出立ちで調練所に出向いたら、皆に大笑いされるだろう。左之は、脚絆をつけている。俺も今度巻いてみようと思っている」

「そうですか。沖田さんもお元気な頃は毎日脚絆をつけていらっしゃいました。丈夫な生地で出来ています。あれと同じもので良ければ用意します。巻きやすい様に紐を縫い付けますよ」

「有難い。そうして貰うと助かる」

「ふふふ」千鶴は口許に両手をあてて笑っている。

「何が可笑しい?」

「馬上の斎藤さんは、きっと素敵だろうな、と思って」

「……俺は、緞子の膝当てなど付けて居らぬ」

「袴着と羽織で調練にお出掛けになられる時も良く似合ってらっしゃいます」

「……そうか」

 斎藤は、前を向いたまま黙ってしまった。雪村に面と向かって褒められるのは非常に嬉しいが、どう応えればよいのかわからぬ。

 千鶴は、黙ったまま歩き続ける斎藤の背中を眺めた。斎藤の羽織姿をいつも内心で素敵だと思っていたのを伝えられて良かった。千鶴は、頰がじんわりと熱くなって来て思わず両手で頰を覆った。

「あんたは、何かないのか?」

「はい?」

 斎藤は振り向きながらたずねた。

「何か、欲しいものはないか?」

「私ですか。いいえ。何も」

 千鶴は、頰から両手を下ろして首を左右に振った。斎藤は微笑むと、四条通の角を曲がった。

 初詣の参拝で賑わう通りを歩いた。通りは灯篭で明るく、露店が連なっている。二人は出店を眺めながら、ゆっくり参道を歩いた。御飾りや、飴売りの屋台が色とりどりで綺麗だった。

 祇園の社は人でおおいに賑わい、ゆっくりと前に進めた。本殿を詣でた後に裏手に回って美御前社に参った。混雑は幾らか引いていた。姿も心も美しくなるという謂れの水を婦女子達が列を成して手に取っている。千鶴も御神水を手にとって顔に付けていた。

 斎藤は離れた場所から千鶴の様子を眺めていた。年頃の女子なのだなと思う。ふとその時、視線を感じた。社の側に男の影が見えた。斎藤は千鶴から目を離さないように、歩を進めた。社の柱の前に立っている男は、近ずく斎藤をじっと見つめると、会釈をしてから膝を付いた。

 斎藤は男を思い出した。眼光鋭く浪人風の出立ち、濃紺の長着に髪を後ろで縛っているこの男は、伏見で以前に出会った。確か池田長兵衛と名乗る、会津藩駐屯所の者。

「暫く振りだな、池田殿。顔を上げられよ」

「はい、無沙汰をしております」

「伏見でまた相見えると思っておったが、久しく伏見には参って居らん」

「はい」

「時に、池田殿。真五郎は息災にしておるか?」

「はい」

「年明けに此れを研ぎに出すつもりだ。また伏見で会おう」

 斎藤は右手で愛刀の柄を持ち上げた。

「はい」 池田長兵衛は笑顔で応えた。

 普段あまり見知らぬ人間に話し掛ける事のない斎藤だが、自分でも不思議と池田には親しげな言葉がするすると口をついて出て来た。人混みに消えて行く池田の背中を眺めながら、どうせなら、手合わせをしたいと申し伝えておけば良かったと後悔した。



****

「斎藤さん、お待たせしました」

 背後から千鶴が声を掛けてきた。二人は本殿に戻った。斎藤は火縄と白木を買い求めて【をけら灯篭】から【おけら】を取った。斎藤は、一本目の白木に火を移すと行灯の中に上手に仕舞った。燻っている火縄はゆっくり燃え続けた。

 参道の露店で、千鶴が飴細工に見惚れていたので、斎藤は白鷺の飴を千鶴に買ってやった。

「有難うございます。綺麗。こんなに見事だと、食べるのが勿体無いです」

 千鶴は目の前に飴を掲げながら、嬉しそうに眺めている。

「それならば、飽きるまで飾ってから食べてしまうのがよい」

「代わりにどんぐり飴を買ってやろう」

 斎藤は別の屋台で、どんぐり飴をそれぞれの色を買い求めて、千鶴の口に赤い大きな飴玉を放り込んだ。自分も鼈甲の飴玉を頬張った。

「凄く大きい。双紙絵の瘤取り爺みたい。鏡で見てみたい」

 千鶴は膨らんだ自分の頰を触りながら笑った。

「どれ、俺が見てやろう」斎藤は千鶴の顔を覗き込んだ。

「立派な瘤取り小姓だ」斎藤はからかう様に笑った。

「酷いです、斎藤さん。斎藤さんだって」千鶴は真っ赤な顔をして頰を隠している。

「冗談だ。じきに溶けて小さくなる。この飴は美味い」

 千鶴は 笑顔でこっくりと頷いた。

 二人は【おけら】を絶やさない様に上手に屯所の台所に持ち帰る事が出来た。竈に火を移して蓋をした。こうしておけば、炭に火が移って新年の食事の支度が出来る。それから千鶴は、斎藤と二人で燃え残った白木と火縄を結んで、竈の上の棚に飾っておいた。



***

 部屋に入る前に、斎藤が袂から何かを取り出して千鶴に見せた。

「さっき露店で、見つけた」

 斎藤の掌には、梅の花が描かれた合わせ貝の容器が載っていた。千鶴の手を取るとそっと貝を載せた。

「膏薬だ。霜焼けやあかぎれに効く」

 斎藤はもう片方の千鶴の手もとって、自分の顔の側に持って行き、指や手の甲を確かめた。

「毎日水仕事をしているのに、大丈夫そうだな。それを付けておくと霜焼けを防ぐそうだ」

「……雪村、頰が赤いが。霜焼けか」

「いいえ、大丈夫です」

 千鶴は手をひっこめた。

「塗っておくとよい」

「はい、ありがとうございます」

 千鶴は頭を下げて部屋に入っていった。斎藤も自分の部屋に入って、朝まで休んだ。千鶴は、斎藤に買って貰った白鷺の飴を文机に飾った。貝殻の中の膏薬を手の甲に刷り込んだ。

 あかぎれや霜焼けは、冷たい水を触っていると毎日の様に出来る。
 有り難い事に一瞬で癒えている。私の秘密。

 でも、斎藤さんが気に掛けて下さったのが嬉しい。

 千鶴は自分の手を取った斎藤の温かい手を思い出した。

 千鶴は寝間に入ると、貝の容器を大切に握ったまま明け方まで眠った。



******

初音香

慶応二年一月

 年が明けて正月が過ぎた頃、土方は近藤の妾宅に招かれた。

 土方は久し振りに近藤と二人で膳を前に軽く杯を空けた。夜も更けて人払いをした後、近藤は居ずまいを正して土方に向かった。

「トシ、永井様と来月京を出立する。長州の恭順策が真のものか、確かめなければならん」

 近藤は幕府大目付の永井と再び西国に向かう話を始めた。

「黒谷で聞いたが、小倉口は戦場らしいな」

 土方は真剣な表情で話す。

「俺に万が一の事があれば、トシ、お前が局長になって欲しい。新選組を頼む」

「縁起でもねえ。近藤さん、山崎を先に偵察に向かわせるんだ。自分から危ない道にのこのこ出ていく事にはならねえ筈だ」

 土方はじっと近藤の眼を見詰めた。

「万が一の話だ。長州は会津藩と新選組を目の敵にしている。今回は変名を使うが、身許がいつ暴露るかわからん。一寸先は闇というだろう」

 静かに話す近藤の影が、背後の床の間の壁に映って揺れている。土方は、何も言えずにずっと黙っていた。

「これを預かって貰いたい」

 近藤が一振りの刀を差し出した。井上真改。会津藩から新選組の隊名を授かった記念に近藤が刀匠から買った打刀。近藤は愛刀の長曾根虎徹と同様に大切にしていた。

 土方は黙って両手で真改を受け取った。

「試衛館は総司に継いで貰う。江戸にもそう書いて文を送った」

「総司には元気になって貰わねえとな」、と土方はしみじみとした調子で答えた。

「ああ、四月には戻る。暫く苦労をかけるが、宜しく頼む。此れは証文だ」

 土方は近藤より証文を受け取り懐にしまった。

「必ず、戻って来てくれ。其れ迄これは預かっておく」

 土方は真改を見詰めた。

 こうして近藤が決死の覚悟で西国に向かう準備を進める最中、西国では長州藩は薩摩藩と同盟を結んでいた。長州征討において、すでに幕府軍への不参加を表明していた薩摩藩は、物資面で長州を援助する盟約があった。長州藩は薩摩藩を介して大量の武器を調達し、最新式の大砲や銃で武備していた。

 前回、西国訪問中の伊東甲子太郎の動向について、近藤は全く把握していなかった。土方は留守中に屯所や黒谷へ伊東から報告書が全く届いていない一方で、屯所の三木三郎へは頻繁に私信が届いていた事を近藤に報告した。

 三木は伊東の実弟で、伊東家の養子に入った兄を異常に慕っている。

 近藤は自分が西国訪問中に直接伊東より知り得た情報を土方に教えた。西国に三木を同行させないのも、伊東の実家の後継問題だと話した。土方は、伊東が西国遊説に出掛けた途端、三木が屯所内や幹部を執拗に監視し始めた事を報告した。

 大方、三木は伊東の差し金で動いていると、土方も近藤も検討が付いていた。だが、体術指南や鍛錬を理由に三木が隊士達を道場に集めて手合わせする事を止める訳にもゆかず、三木が水戸派に人を取り込もうとしているのを黙認する形になってしまっていた。土方は屯所内の現状を近藤に伝えた。

 三木と九番組への警戒を強めている。

 近藤はそれを聞いて頷いた。

「俺も西国視察中、土佐藩と薩摩藩の動向を探る為に、山崎を偵察に送ろう。伊東の遊説先での動向を探らせる」

 近藤の決定に土方は頷いた。そして、土方は引き続き屯所内で水戸派の隊士達の様子を探る事にした。

 土方は斎藤にその任務に当たらせる事を近藤に伝えた。



***

十六夜 土方の部屋にて

 土方は夜半遅くに斎藤を部屋に呼んだ。

「遅くに悪い」

「何でしょうか」斎藤は土方の前に火鉢を挟むように座ると静かに尋ねた。

「隊内の偵察だ。九番組と二番組、伊東さんの息のかかった奴等の動向を調べて欲しい」

「はい」

「伊東さんは来月、近藤さんと西国に出立する。篠原も同行する。伊東さんが居ねえ間は、三木が主に動くだろう」

「承知しました」

 斎藤は、静かに応えた。暫くの沈黙の後、斎藤は顔を上げて話し出した。

「副長、伊東さんは来月会津藩邸で催される香道の会に雪村を伴って行く事になっています」

「ああ、中将様の全快祝いか。江戸から照姫様が御上洛される」

 胡座をかいた土方が、火鉢の向こう側でそう話すのを聞いて、斎藤は続けた。

「雪村は局長の伝手で三井の奥方より、香道具を入手して準備をしています。伊東さんは雪村に正装の用意をと言い付けた様で」

「それは手配済みだ。お前に護衛を頼むつもりでいた。雪村は伊東さんの付き添いで行くだけだ」

 土方は全て準備が終わっていると告げた。

「雪村は会津藩の預かり者。出自は秘匿事項。これは藩邸内でも守られている。伊東がどう探ろうが、綱道さんの情報は漏れる事はない」

「はい」

「だが伊東の様子は見ておけ。雪村を懐柔しようとするかもしれねえ」

「はい」

「表向きは協力する様子を見せれば、問題無いだろう」
「これは近藤さんと俺しか知らない任務だ。苦労をかけるが、よろしく頼む」

 土方の深い紫色の瞳は、まっすぐ斎藤の瞳を捉えた。

「承知しました」

 斎藤は静かに応えて頭を下げた。斎藤が部屋を出て行った後、土方は大きな溜息をついた。

 斎藤は自室に戻る前に千鶴の部屋の前を通った。灯りは消えて、千鶴はもう休んでいる様子だった。廊下から境内を眺めると、辺りはしーんと静まり返り、月には青くぼんやりと雲がかかっていた。

 斎藤は此れから自分が就く任務について、後戻りは出来ないと思った。

(決して誰にも悟られない様に)

 この夜以降、斎藤は隊務報告以外に夜間に土方の部屋を定期的に訪れるようになった。

***

黒谷にて 香道の会

 二月に入って直ぐ、会津藩邸にて香道の会が開かれた。

 斎藤は正装に身を包んだ千鶴が乗った籠に護衛として歩いた。黒谷に到着すると、千鶴は居心地の悪そうな表情で伊東に引き連れられる様に藩邸の離れに消えて行った。会が終わるまで、斎藤は控えの間で待機することになっていた。
 ふと、斎藤は障子の向こうにひと気を感じた。刀を取るとそっと廊下の外を伺った。中庭に袴着の男が立っていて、斎藤に気づくと一礼した。それは【池田長兵衛】だった。斎藤が声を掛けようと部屋を出ると、池田は踵を返す様に素早く中庭の向こうの建屋の角に消えて行った。

 斎藤は廊下から庭に下りて草履を履くと、急ぎ庭を横切って池田の後を追った。建屋の向こうに出ると、そこには袴着の男が二人、居合の試し斬りをしていた。二人は斎藤を見て手を止めた。

「その方、何用で御座る」

 向かい側に立っていた背の高い男がよく響く声で斎藤に訊ねた。

「失礼仕った。それがし新選組三番組組長、斎藤と申す者。本日の香道の会へ御付きとして罷り越した。先刻、知り合いの者を中庭で見かけたので探して追ったところ、此方へ」

「貴殿の邪魔をしてしまい申し訳ござらぬ」

 斎藤は深々と頭を下げた。

「斎藤殿ではないか、面を上げられよ」

 手前に立っていた男が、斎藤に歩み寄って来た。斎藤が顔を上げると、声を掛けてきた男は会津藩剣術師範の町野主水だった。町野は斎藤が御前試合で手合わせした相手で、調練所で時折顔を合わせていた。

「よう来られた。今、新しい刀の試し斬りをしておった」

笑顔で斎藤に話かける町野は、振り返り一緒にいる者に斎藤を紹介した。

「佐川、此方は新選組の斎藤一殿だ。居合の達人で在られる」

「斎藤殿、此方は守護職戦別隊隊長の佐川官兵衛だ。江戸より照姫様の護衛で見えている」

 佐川と呼ばれる男は、精悍な大男で。眼光の鋭さは眼を見張るものがあった。

「其方が居合の斎藤殿か。新選組の武功は殿より聞き及んでおる」

 大柄な佐川は、一礼すると斎藤に近づいた。斎藤は畏まって、一礼をした。

「香道の会の御付きと申されたが、会は午後まで続く。斎藤殿、障り無ければ、居合の形見せをお願い出来ぬか」

 町野は笑顔で斎藤に尋ねた。

「それがしで良ければ」

 斎藤は畏まって応えた。

 町野は直ぐに控えの間に使いを送って、斎藤が町野の元に喚ばれていると申し伝えさせた。そして新しい巻藁を用意した。斎藤は身仕舞いを正し、精神統一すると、一気に抜刀して斜め袈裟懸けに斬った。

「御見事」

 町野が歓声を上げた。傍で大きく頷いた佐川が斎藤に向かって尋ねた。

「そこもとの刀を見せて貰えぬか」

 斎藤は腰から愛刀を抜くと、佐川に渡した。佐川は刀身をゆっくり抜くと、つぶさに鑑賞した。

「面白い。返りが浅いのに、あの鋭い切れ様は。此処まで細身の様にも見えなかった。銘は」

「摂州鬼神丸国重です」

「ふーむ、摂州住み国重か。面白い。しかと覚えておこう」

「此れは、正宗だ。どうだ、試しに斬ってみるか」

 斎藤は、はい、と答えて。佐川から刀を受け取った。国重に比べて、大振りで刀身が重い。今度は青竹が用意された。斎藤は、一歩下がった所で構えた。

 一瞬で抜刀し、一斬りした後にもう一度振り下ろした。青竹は斜め平行に二つ切れて滑り落ちた。

「ほう、お見事だ。斎藤殿」

 佐川は、手を叩いた。斎藤は、流れる様に刀身を鞘に納めると、一礼した。そっと腰から打刀を抜いて佐川に差し渡した。

「どうだ。斎藤殿。名刀正宗の切れ具合は」

「はい、良く斬れる刀です。 踏ん張りが強く【物打ち】からの抜けが良い。刃肉が厚い故、返す時は重心を散らさぬ様身内に近付ける必要が有るかと」

「わーはっはは」佐川は手を打って笑った。

「斎藤殿は、如何なる刀でも一瞬で手に取って打つ事が出来ると見た。いや、見事だ」

 佐川は豪快に笑いながら話す。

「実を言うと、此れは正宗では御座らん。わーはっはは」

「会津三善長道だ。わしは此れを【正宗】と呼ぶ事にしておる」

 斎藤は佐川の嬉しそうな顔を見て、自分も笑顔になった。

 その後、斎藤は町野の部屋に招かれて、佐川と三人で歓談した。佐川は照姫の護衛の後は京に暫く留まると話し、京都日新館で文学師範、守護職で物頭も兼任するという。佐川は斎藤が藩の調練に新選組から参加している事聞いて大層喜んだ。

「実に心強い。此れから長州を討つことになる。斎藤殿、我々は鍛錬を怠らんよう共に精進しよう」

 控えの間から、午餐の用意が出来たと呼び戻されるまで、斎藤は町野の部屋で佐川の激励を受けた。部屋を下がる時に、斎藤は町野に【池田長兵衛】殿が藩邸に来ているか尋ねた。

「池田長兵衛。聞いた事がない名だ。会津藩士と名乗られていたのは確かかな」

「いえ、会津藩お預かりの者と申しておりました。伏見駐屯所近くで会う事がありましたので」

「駐屯所でしたら、出入りはあるやも。もしお探しでしたら、此方で申し送りいたそう」

「いえ、其れまでには至らない故……。有難う御座いました」

 斎藤は深く礼をして、部屋を下がった。

 確かに、中庭に立っていた男は池田だった。そう言えば、池田とは調練所でも顔を合わせた事がない。斎藤は池田が藩邸で身を隠す存在なのではと思い至った。

(間者の類か。池田長兵衛は変名やもしれん)

 斎藤は辺りを警戒した。香道の会が開かれている離れには藩邸の警備の者が付いていた。斎藤の心配を他所に、諸藩からの客人に怪しい者は見かけなかった。



***

 午餐が設われた広間で斎藤は食事を終えた。暫くすると、千鶴が斎藤の元に上気した表情で現れた。

「斎藤さん、無事に恙無く終わりました。【初音香】で、私と伊東さんは一番最初に「正」を頂きました」

 千鶴は、半紙に「初音香之記」と書かれた表を広げて嬉しそうに笑っている。

「良かったな」斎藤は千鶴に一言。千鶴の興奮した様子を微笑ましく思った。不安そうな顔で離れに向かった千鶴が、今はこの様に喜んでいる。一仕事終えて安堵したのと、会は成功したのだろう。

 千鶴と斎藤は身支度を整えると、廊下に出て伊東に合流した。藩邸をでて屯所に戻った時は、夕方近くになっていた。籠から降りた伊東は上機嫌で、迎えの者に荷物を持たせると千鶴に振り返り声を掛けた。

「雪村くん、今日は御苦労でした。素晴らしい御点前でしたわ。組香をあの様に楽しめたのは、わたくし初めてよ。照姫様も中将様も大層御喜びでした」

 頭を下げる千鶴に、伊東は微笑むと。

「後で、わたくしの部屋に来るように。照姫様から新選組にと戴いた御香木をお渡します」

 千鶴は、笑顔で応えた。

「はい、此方こそ今日は有難う御座いました。伊東さんがご教示下さったお蔭で、滞り無く御点前が出来ました」

 伊東は、嬉しそうに微笑むと部屋に戻って行った。



***

 千鶴と斎藤はその後、伊東の部屋に呼ばれた。

「お二人とも、今日は御苦労様でした。雪村くん、貴方が古典に明るい事が良くわかりました。わたくし、【初音】は随分前に読んだきりでした。貴方が【薄氷】の譜から【鏡】を導いたのは素晴らしかったわ。照姫様が今日の集いで六条院をお見立てに成られたのも、とても趣のあるものでした」

「それから、斎藤くん。今日は護衛頂き有難うございました。最近は雄藩の籠を狙う輩が居ると聞いています。今後また雪村くんを連れて黒谷に出掛ける事もあるでしょう。その時はよろしくお願いします」

 丁寧な様子で頭を下げる伊東は上機嫌だった。

「此れは、今日の御褒美にと照姫様から賜ったものです。ご香木です。此方は、三井の奥方様に御礼にお渡ししましょう。こちらは雪村くんへ」

 千鶴は、御礼を言って、伊東から小さな包みを受け取った。

「私は、今月の終わりに西国視察に参ります。留守中は講義をお休みしますが、雪村くん、私の蔵書はいつでも読みに来られて結構よ」

「有難う御座います」千鶴は頭を下げた。

「四月には帰洛します。斎藤くんも雪村くんも、私が講義を再開したら是非参加して貰いたいわ」

 斎藤と千鶴は伊東の部屋を後にした。上機嫌の様に見えた伊東だが、香道の会で一つ腑に落ちない点があった。会津藩邸で藩士の誰もが千鶴の存在を意識していなかった。藩主の松平容保を始め、ご家老、お目付も、千鶴とは初対面の様な振舞いだった。

(あの子、一体何者かしら。ご落胤といっても松平ではなさそうね)

 その夜、伊東は三木を呼び出し、留守中に千鶴を監視するよう言い渡した。

「会津藩に所縁のない者なら、是非私の側に置きたい。斎藤くんも一緒に付いて来るでしょう。彼の剣の腕は確かよ」

「兄貴の仰る通りに」

 三木は伊東と目を合わせ互いに微笑した。



***

 千鶴は長い一日で、部屋に戻ってから暫く火鉢の前に座りぼんやりとしていた。

 江戸に居た頃は、父様の勧めでお茶や香道の手習いを続けていたが、思わぬところで役立てる事が出来て良かった。父様は書物を読む事をとても大切だと良く言っていた。私がお武家さんと一緒に手習いをする事も厭わずにいて下さった。お隣のお夏さんに、女の子なのにとよく心配されていたっけ。千鶴は江戸に暮らしていた頃の事を思い出し、自然と顔が綻んだ。

 文机の上の香木の包みを手に取ると、匂い袋を作ろうと思い立った。裁縫箱に斎藤の羽織の綿打ちをした時の紬が残っていた。小さな袋を縫うと。和紙に包んだ沈香と伽羅を入れて袋口を藍の組紐で結んだ。自分用に紅絹で袋を作って白檀と伽羅を入れてみた。組紐は以前斎藤から買って貰った白い組紐を選んで結んだ。

 寝間の準備をして、枕元に匂い袋を並べて置いた。

「いい薫り。お内裏様とお雛様みたい」

 千鶴は二つの匂い袋を眺めて微笑んだ。

 翌日、千鶴から匂い袋を貰った斎藤は懐に入れて過ごした。甘い薫りは千鶴の芳香を想わせるもので、心中が穏やかで温かくなった。
 三番組隊士は斎藤が着物に香を焚いてでも居るのかと陰で訝しがったが、面と向かって斎藤に問う勇気のある者は居なかった。

 唯一、総司は斎藤を「抹香臭い一くん」とからかった。




 つづく 

→次話 濁りなき心に その20

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