鬼の鬱屈【西行と仄かな懸想と】
濁りなき心に その26
慶応二年十月 祇園 井筒屋の一室にて
偵察から戻った天霧が座敷の障子を開けた。降り出した雨に濡れた羽織を脱ぐと、「只今、戻りました」と挨拶をした。
開け放った窓の桟に座り外をじっと眺めている風間は、まだ寝間着のままで、傍らに書物を開き、ゆっくりと煙管を吹かしている。
「朝餉もお済みになっていないようですが、如何なされました」
天霧は、朝の膳が全く手付かずのまま置かれているのを見て尋ねた。
「今朝は、もうよい」
風間が一言、そう応えたので、天霧は膳を下げさせた。
数週間前、上洛して直ぐに、風間は薩摩藩邸に喚び出された。
家老が待つ座敷に案内され、其処に土佐藩から軍備の要人が来て居ると【雪村綱道】と【南雲薫】を紹介された。二人は薩摩藩で羅刹開発をする盟約を結び、年内に薩摩へ下ると云う。既に土佐藩で開発された変若水で羅刹軍が結成されていると説明を受けた風間は、終始黙って家老と雪村綱道のやり取りを聴いていた。
綱道の開発した変若水は最新の改良型であること。従来の日中の陽の光に苦しむ羅刹の発作は改善しつつあり、薩摩藩で開発をすれば昼夜を問わず行軍出来る羅刹を編出すことも可能。新しい日の本を造る為に役立てる事が綱道の望みである。
綱道は風間に向かい、自分は東国の鬼の末裔であると名乗った。東国は失われてしまったが、こうして西国の風間家と手を携える事を光栄に感じる。鬼の矜持にかけて、変若水を更に進化させて行きたい。そう言って深々と頭を垂れた。
家老から、綱道が薩摩に入国した折には、風間達が身柄を保護する様にと指示があった。風間は目を伏せがちに肯いた。其れを見て、雪村綱道の口角が俄かに持ち上がった。風間は、綱道が発した【鬼の矜持】という一言が気になった。
「土佐藩で結成された羅刹軍は上洛しておるのか」
風間は単刀直入に綱道に問うた。
「はい、山内のご老公様と一緒に今月、一旦大坂に入港した後。別隊として上洛致しました」
「幕府雄藩も変若水を造っていると聞くが、幕府の羅刹とそなたの羅刹とが戦を交えるとして勝算は如何に」
「圧倒的に此方が有利で御座います」
自信を持った綱道の口調に風間は、フッと笑うと。
「洛中では、会津藩御預の新選組が羅刹を開発していると聞くが」
「はい、幕府の変若水は私が開発を致しました。ですが、あれは未完成の試薬。新選組の羅刹は質において劣性。我々の最新型羅刹とは比べ物にはなりません」
得意気に話す綱道に向かい家老は終始笑顔で頷いていた。
「雪村綱道。其方の娘が、新選組の屯所に身を置いている事は」
風間が静かに話し出すと、背後で天霧が顔を上げた。雪村綱道の表情から笑みが一瞬消え、間を置いてから、静かに応えた。
「はい、この度上洛した折に知りました。私は、今の立場では、会津藩に出向く事も出来ず。千鶴の身柄を引取る事も叶いません。ですが、薩摩に出向く時に、千鶴を是非引取り一緒に連れて行きたいと思っております」
これを聞いた家老が、「何と、ご息女が」、「あの新選組に」と、驚いた様に呟いていた。
「其方が薩摩に出向く暁と申したな」
「はい」
綱道は、両手を畳に付くと頭を下げた。
「風間様の元で千鶴を保護して貰えれば、幸甚に御座います」
その背後で、南雲薫が物凄い形相で風間を睨みつけていた。その敵意剥き出しの表情を風間は一瞥すると。
「其れについて、否やはない」
「有り難う御座います。千鶴は雪村の血を引く貴重な娘でございます。何卒良しなに……」
風間の眼孔は赤く光った。無表情のまま綱道を見下ろし、其れから南雲薫を見詰めた。南雲薫は、傍らの太刀を握り締め風間を見つめ返す。
(大通連か。雪村千鶴と同じ顔立ち。この者も雪村の)
風間は、漸く目の前の南雲薫の正体に思い至った。東国の鬼の里が焼き討ちに会った時に生き残った雪村千鶴の片割れか。しかし、この鬼からは一切の力を感じぬ。
家老が、おもむろに、風間達に向かって密偵の指示を出した。一橋慶喜が大名を集めて諸侯会議を目論んでいる。京都守護職や桑名藩の動向も調べる必要があるという事だった。
風間は指示を承諾すると、雪村綱道達を後に藩邸を辞した。
翌日から、風間と天霧は二条城と黒谷を偵察した。洛中の雄藩の藩邸は一年前とは違って、何処も軍兵を置いていた。風間達は戦が近く起こる予感に、早急に西国の鬼の新しき郷に一族を移す必要を痛感した。だが、薩摩藩の指示半ばで京を離れる事が出来ぬ。風間は、焦慮するまいとした。
(では如何すれば良い)
風間にしては珍しく策がなかった。決して八方塞りではない。だが。苛立つ気持ちを持て余した風間は、偵察を途中でやめて二条城より姿を消した。
風間が独り向かった先は、下京。西本願寺に着くと、そのまま参拝するかのように門をくぐって境内に入った。鬼の気配を感じない北集会所の前を通り過ぎ、阿弥陀堂へ向かった。お堂の裏へそのまま進むと、裏の華池の周りを掃き掃除している少女の姿が見えた。風間は気配を消して、池の畔の紅葉の低木の陰に隠れた。
千鶴は風間には気付かず、鼻歌を歌いながら時々苔の上に落ちた紅葉を拾い、暫く眺めた後に手拭いを取り出して丁寧に挟んでしまっていた。
「随分と機嫌が良いようだな」
千鶴は背後から、いきなり話しかけられて、飛び上がる様に驚くと振り返った。
「お前は、掃き掃除のような雑用をここでやらせれているのか」
紅葉の陰から姿を現した風間を見て、千鶴は箒を持って後ずさった。驚愕の表情で風間を見つめ返し警戒する様子に、風間はそれ以上近づく事はやめた。
「雪村の血を引く女鬼よ。お前に雪村綱道のことを尋ねたい」
風間が綱道の名前を出すと、千鶴はハッとした表情を見せた。
「雪村綱道は私の父です」
「父は、京の火事で」
思い詰めた様な表情をする千鶴を見て、風間は父親の身を案じている千鶴を不憫に思った。同時に、己の出自も知らず、父親が敵方に身を翻している事を露とも疑わない、その真っ直ぐな心延えに、愚かさは全く感じず。寧ろ好感を持った。思わず、微笑みがこぼれた風間に、千鶴は驚きの表情を見せると、
「父を、父さまの行方をご存知なのですね。父は、何処に」
「雪村綱道は、我々の側についた。薩摩藩に」
「薩摩」、千鶴は驚いた。
「そうだ。雪村綱道は幕府を見限った。お前が身を寄せる新選組の敵側だ」
「新選組の敵側」
千鶴は、風間の言った事を鸚鵡返しに呟くと茫然とした。
「近々、お前を薩摩に」
「西国の鬼の郷へ連れて行く」
千鶴は、目を見開くと持っていた箒を落とし、次の瞬間には腰の小太刀に手を掛けた。
「私は、」そう言って、身構える千鶴は、風間に強い意志を見せた。その力強い様子は驚く程に高貴で、風間に千鶴が真の女鬼である事。東国を統べる頭領の素質を全身に宿している事を実感させた。風間は、千鶴の様子に目を見張った。
その時、阿弥陀堂の裏から数人の男が飛び出してきた。二条城の夜に出会った新選組の連中か。
刀を抜いて、千鶴を囲み守る男達に邪魔をされ、風間は一瞬怒りを覚えた。愚かな人間どもが。
「雪村千鶴。今日はお前に雪村綱道が我々の側についたと教えに来てやった。いずれ、近い内に迎えに来る。其れ迄、幕府の犬どもの許にお前を預けよう。番犬代わりにはなるだろう」
風間は、そう言うと華池から立ち去り姿を消した。
***
鬼の鬱屈
二条城の偵察途中で突然居なくなった風間を、天霧は三条大橋で漸く見つけた。風間は、幕府の動向も、朝廷の動きにも関心を持ってはいない。むしろ、薩摩藩へ反発を感じ、それが更に人間への嫌悪に繋がっている様子だった。風間は、京や江戸の様な人間が多く集まる場所に来ると、度々厭世的な態度を見せた。幼少の時から変らぬ、それは風間の性分の一つであった。天霧は、長年寄り添って来た己の主人が、ヒトの世の波を忌み嫌い、突然出奔されて仕舞われないかと心配になった。
風間は、「宿に戻る」と一言呟き。井筒屋の座敷に着くと、式鬼で書物を取り寄せて邪魔をするなと独り室に引き篭もってしまった。
其れから、京は秋の長雨が始まった。表に出ない風間の代わりに天霧は洛中を駆け回った。風間は薩摩の命を無視し続けた。
食事も摂らずに書物を読み耽る主人に、天霧は苦言をした。
「風間、聞いておられるのですか」
風間は、煙管を吸って煙を吐き出すと、
「西行は高野で人造人間を造って失敗した。鬼が人間の骨を集めて反魂の秘術を持ってしても、色悪く心が無い。中には、四条の大納言に名を連ねている者もいるが、正体を明かすと、秘術で自分の身も消える」
風間は、仄かに微笑みながら、時雨る外を眺めて呟く。
「ずっと読んでおられるのは、【撰集抄(せんじゅうしょう)】ですか」天霧は風間の傍らにある書物に目をやって溜息をついた。
「馬関で不知火に会った折、高杉は西行を真似て東行(とうぎょう)と名乗っておった」
風間は、天霧に言い忘れていたとでも言う様に呟いた。
「奴は、東を討つ」
「不知火は、高杉の容体芳しくなく上洛は叶わぬと報せて来ています」
天霧は、風間に不知火から式鬼が届いた事を伝えた。風間がこの様な話をするのは、不知火が看病する高杉を思うが故か。西行を読み耽る風間は、西国へ気を置かれて居るのは確か。ただ、鬼が人の骨を集め、砒霜(ひそう)という薬を骨に塗り人造人間を造る奇妙な物語は、雪村綱道の羅刹開発を思わせた。
「西行は、失敗した人間を破壊せぬわけにはいかぬだろうと、高野の奥の人も通わぬ場所に捨てた。もし偶然に人が見かけたら、化け物と思って恐れるだろうとな」
「愚かな話だ」
「しかし失敗を持って人造りをやめられました。私は西行が会得した話だと解釈しておりますが」
天霧は、遠い昔に読んだ書物について覚えている限りを応えた。風間はふっと笑うと。煙管を盆に打ちつけた。
「成功したとあれば、」
風間は、また窓の外に目をやって呟いた。
「何にせよ、愚かである事に変わりはない」
天霧は、正座した状態から両手を前に着いて膝行り寄ると風間に報告を始めた。
「今朝は、下京に立ち寄り、西本願寺の雪村千鶴様の安否を確認して参りました」
「千鶴様は北集会所の南側の一室で、繕い物をしておいででした。ご壮健な様子」
風間は天霧の報告を聞くと。また窓の外に目をやった。
「あの女鬼は、人間どもの下女の様に雑用に明け暮れている」
「もう、千鶴様にお逢いになられたのですか」天霧は、驚きの声を禁じ得なかった。
「雪村綱道の安否を知らせてやった」
「綱道が幕府を見限ったとな」
天霧は、肝心なところを確認した。
「千鶴様の西国への同行は叶いますか」
風間は、ふっと笑うと、「適時に」と呟いた。
「途中で新選組の邪魔が入った」
「田舎侍が「千鶴は絶対に渡さない」と」
風間は笑顔を見せてはいるが、その紅い眼孔には愉快さを微塵もたたえていない。
「雪村千鶴は、幕府の犬どもが護っている」
(余程、あの者たちの庇護欲を掻き立てるのか。あの女鬼は)
「風間、本願寺に直接出向くのは控えられますよう。昨今の会津藩と薩摩は互いに牽制し合う中、不用意な訪問は避けるべきかと」
天霧の注意で、風間が行動を控える事は無いであろうが、用心に越した事はない。
風間は返事もせず、ずっと窓の外を眺め続けた。
北の空から強い風で雲が低く流れているのが見えた。そして一旦雨が止んでいた空から再び時雨が降り出した。
(唯一のよすがの父親に捨て置かれ、敵に寝返ったと知って。それでも人間と共に生きるのか)
風間は、千鶴の黒い大きな瞳を思い返した。二条城の夜に見たときも印象的だった眼差しは、また同じ様に己を真っ直ぐに見据えて来た。所詮はまだ幼い少女だと高を括っていたが、今回はあの瞳に女鬼の強い力を醸し出していた。
もう少しすれば、大人の色香も出てくるか。
風間は、仄かに微笑んだ。たった二度の相見で、千鶴を郷に迎え入れ護りたいと思う己を風間は不思議に思った。
天霧は、微笑む主人を暫くそっとしておこうと黙って部屋を出た。襖を閉める時に、また風間は傍らの書を手に取り、想いに耽り始めたようだった。
いま、暫くは……。
其れにしても、此処まで、東国の姫に気を取られて居られるとは……。
天霧は風間の変化に驚いた。雪村綱道の羅刹開発への冷淡な態度。鬱憤はそこからか。あの風間が独りで雪村千鶴に会いに行くなど、想像もつかなかった。ここ暫くの内に、八瀬の千姫の許を訪ねる必要もあるだろう。西国に雪村の姫を迎え入れる意向について、八瀬の里の了承を取りさえすれば。だが、千姫は恐らく承諾はせぬ。
雪村の姫は如何であろう。父親と供にならば、西国行きを承知するやも。嫁取りに一切興味を示さぬどころか、縁談話をするだけで憤慨する主人に手を焼いて居たのが嘘の様だ。洛中滞在中に上手く話を進めよう。天霧は気が逸った。
こうして天霧自身も主人の為に、雪村千鶴を西国へ無事に迎え入れたいと強く思う様になった。
つづく
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