変わらぬもの

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濁りなき心に その29

慶応三年三月

 日差しの明るさに春を感じながら、斎藤は東山の泉涌寺(せんにゅうじ)に向かって歩いていた。

 九州の遊説から戻ると、伊東甲子太郎は早速、三木三郎、阿部十郎、斎藤を集め御寺(みてら)に向かわせた。二月に御所が公けにした孝明天皇崩御に伴い、陵が泉涌寺に建てられた。伊東は、天皇陵を守護する任務を根回しをして取り付けていた。幕府の禁裏頭取にも近づき、薩長の動向を探る名目で私設警備隊の発足を宣言した。

 斎藤は、伊東が創設する天皇陵を守る別働隊に新選組を抜けて入隊する意向だった。斎藤を含め、十五名が志願している。活動拠点を御寺に置きたいという伊東の指示で、斎藤は三木三郎と泉涌寺住職と会談したが、士分の滞在は認められず、代わりに長命寺、五条善立寺での交渉に向かった。この間、新選組の隊務の合間に度々外出する斎藤を、千鶴はさして気に留める事もなく、具合の安定しない総司の世話にかかりきりになっていた。

 伊東は、斎藤に勘定方になるよう命令した。すでに九州遊説中に、薩摩藩からも資金を調達し、伊東は金三百両を持ち帰っていた。これに禁裏頭取より三百両、計六百両を手始め資金とし、早速帳簿の管理を斎藤に任せた。斎藤は、今日、三木と禁裏頭取の山稜奉行に東山で面会して証文の受け取りをした後、四条で三木に酒に誘われて居酒屋に立ち寄った。三木は、普段は伊東に飲酒を止められていると言う。「嗜む程になさい」と怒られると笑って話す三木に、斎藤は黙ったまま、徳利から酒を注いで付き合った。

 屯所に着いたのは、夜中を過ぎていた。表階段が騒がしく、訝しく思った斎藤は、其処にウロウロと歩く伊東の姿を見た。側には近藤の姿もある。斎藤は、禁裏頭取との面会で遅くなった旨を伝えると、伊東は急ぎ自分の部屋に来いと斎藤と三木に云って、身を翻して廊下を急いだ。取り残された近藤に向かって、

「近藤さん、先程の事も含めて、改めて朝にお話があります。今は、身の安全の為、失礼しますわ」

 伊東はそう言うと、自室に斎藤達を入れてピシャリと障子を閉めた。

 斎藤は、山稜奉行の証文を伊東に渡した。酒臭い息の三木はだらしない様子で胡座をかいている。伊東は、証文を受け取り斎藤に礼を言うと、改めて身仕舞を整えた。

「明日、ここを出ます。良くてね」

 三木にキツい目線を送りながら、伊東は狡猾な表情で微笑んだ。

「さっき、屯所で凄惨な斬り合いがあったの。おそらく、御堂の例の者が暴走したのでしょう」

 斎藤は目を見開いた。

「雪村くんが斬られて、幹部が血に狂った隊士を斬り殺したのよ。悍ましい」

 斎藤の動きが止まった。

「私が駆けつけた時には、雪村くんの部屋は血の海よ」

 伊東は興奮を止められないように首を振りながら、震えだした。「其処に、死んでいたと思っていた山南さんが現れたのよ」

「だから、俺が言ってた通りだろ、兄貴。山南が羅刹の親玉だってよ」

「お黙り、三郎」

 伊東は、三木を睨むと、斎藤に向かって笑いかけた。

「斎藤君は良くご存知よね。【羅刹】の御堂での活動も」

 斎藤は、ずっと沈黙したままだった。

「明日、近藤さんに【羅刹】の秘密を引き合いに、離隊を承諾させます。朝の内に、五条善立寺へ」

 斎藤は黙ったまま頷くと、足早に部屋を出た。

 雪村、雪村が斬られた

 斎藤は廊下を走った。千鶴の部屋は、開け放たれたまま、誰も居らず。廊下に血だらけの畳が立て掛けてあった。今、さっき水で洗い流された様な濡れた廊下と、血飛沫がついた壁も見えた。斎藤は愕然とした。

「斎藤、こっちだ」

 背後から声が聞こえた。土方が暗い廊下の角に立っていた。斎藤は、土方に促されて土方の部屋に向かった。灯りもない部屋に、土方は斎藤を引き込むと障子をそっと閉めた。

「雪村は無事だ。腕を斬りつけられた。命に別状はねえ。今、おまえの部屋の布団に寝かせている」

「よりによって、お前の留守中に。おまけに山崎も居ねえ夜にな」

 土方は眉間に皺をよせて、悔しそうに拳を握り締めている。

「御堂から暴走した古い羅刹だ。完全に血に狂ってやがった。原田と平助と俺で始末したが、物音を聞きつけて、伊東が出てきやがった」

「あの野郎が大騒ぎして、其処に山南さんまで出てきたから収拾つかねえ」

「近藤さんが、伊東をその場から離したが、ずっと騒ぎたててやがった」

「副長、伊東は明日ここを出ると言っています」

 斎藤は冷静に、伊東の計画を伝えた。朝の内に、離脱の申し立てと五条善立寺への移動が決定している事。

 土方は、溜息をつくと部屋の奥に腰を下ろした。斎藤はその場で正座をした。

「奴は獅子身中の虫だ。山稜奉行も噛ませて、俺らがぐうの音も出ねえ様に」

「局長へは羅刹隊を引き合いにだすと」斎藤は続ける。

 暫くの沈黙の後、土方が腕組みをして静かに呟いた。

「報告と連絡方法は前に打ち合わせた通りだ」

 それから土方は、文机の引き出しから、藍色の水引を取り出した。

「俺の用がある時は、この根付けを御堂の裏門の軒下にぶら下げる。時間は亥の刻。門は開けておく」

 黙って斎藤は、根付けを確認すると頷いた。

「長くて孤独な任務になる」

「覚悟は元より」斎藤は、土方の目を見詰めて答えた。

「必ず帰ってこい」

「はい」

 斎藤は伏せ目がちに答えると、立ち上がって部屋を出た。土方は大きな溜息をついて、近藤の部屋へ向かった。



*****

変わらぬもの

 斎藤は、自分の部屋の障子をそっと開けた。部屋の真ん中に敷いた布団の中に千鶴が横になっている姿が見えた。よかった、静かに寝息を立てている。斎藤は、千鶴が眠っていられる状態に安堵した。そっと、部屋に入ると障子を閉めた。斎藤は、刀を置き、千鶴の枕元に腰掛けた。斬られた場所を確かめたいが、布団を剥ぐと目を覚ましてしまうと思いやめた。千鶴は手に桜の模様の手拭いを握っていた。其れは、昔、斎藤があげたもので、出掛ける時に特別に使っていると云っていた。そして、枕元に白い絹の布に包んだ小太刀。暗がりに輝くように浮かぶ光沢のある布地。其れは、この前伏見に千鶴と行った時に、斎藤が買い与えたものだった。

 伏見の研ぎ師に 総司の打ち刀を研ぎに出したのを引き取りに行った時、斎藤は千鶴に何か欲しいものはないかと尋ねた。近く離隊する斎藤は、千鶴とも、この様に出掛ける事はもう最後になるやも知れぬと思った。千鶴は、特に何も無いと笑ったが。何か気に入ったものがあればと、斎藤が引き下がると、笑いながら、伏見の研ぎ師さんを気にいっている。裏の小さな祠とお社。研ぎ師さんが、最後にまっ白な絹の布に刀を包んで渡すのも、大好きだと。だから、伏見に連れて来て貰えて嬉しいと御礼を云って笑った。

 斎藤は、嬉しそうに笑う千鶴の横顔を見て、鳩尾がふわりとなる感覚がした。そんなに気に入っているのなら。そう思った斎藤は、通りにあった反物屋に入って、千鶴に絹の布地を買ってやった。斎藤が一両小判をポンと出して、高価な反物を買うのに千鶴は目を丸くしたが、布地の包みを渡すと、後生大事にすると抱きしめる様に抱えて笑顔を見せた。

 スヤスヤと安らかに眠る千鶴の寝顔を見ながら、斎藤は伏見での事を思い出し微笑んだ。そっと指を伸ばし、千鶴の額にかかった前髪に触れてみた。頰にかかる髪をそっと耳に向かって梳かした。小さな耳朶がみえた。頰に触りたくなった。斎藤は掌を握り締めて自分の膝に戻した。明け方まで。今暫く。側に付いていよう。そしたら、俺は出て行く。

 斎藤は、布団の上掛けをちゃんと掛け直し、静かに寝息を立てている千鶴を見守り続けた。そして、障子の外が青白く明るくなって来ると、腰に刀を指して、押入れから纏めておいた荷物を持って、部屋を後にした。

 近藤の部屋に向かうと、其処に平助の姿があった。近藤が寂しそうな表情で正座する前で、平助は離隊の意思を辛そうに伝えた。斎藤も隣に座って、同じく離隊を申し出た。近藤の横で土方が腕組みをして黙って座っていた。

「平助も斎藤くんも、意思は固い様だな」

 近藤の穏やかな声が心に響いた。隣の平助はずっとうな垂れた様に俯いている。

「これから、伊東先生に新選組に留どまって貰えるよう話す。だが、もし其れが無理な場合は、君達の離隊を許そう」

「一緒に京に居るんだ。天子様を敬い洛中を取り締まる。我らの志に大差はない。なあ、平助」

 優しく笑う近藤に、平助は更に辛そうな表情になって小さくなった。

「そうはいかねえ」

 土方が厳しい表情で言った。

「隊を割って出て行く奴と、手を携える必要なんてねえよ」

「新選組は伊東の隊との接触は一切なしだ。出て行きたい奴らは出て行くがいい」

 土方は、平助たちを睨むと、

「お前ら覚悟は出来てんだな」と念を押した。

 立ち上がった土方を見上げて、平助と斎藤は頷いた。

 土方は、此れから伊東と話し合う、お前らは隣の部屋で待機だ、と言って襖を開けると斎藤達を奥の間へ移した。そして、伊東を部屋に迎えて、話し合った。

 こうして、伊東の言う【発展的分離】の名目の元、水戸派の隊士 二十名が離隊する事が決まった。昼前には、幹部以外の隊士にも伊東達の離隊が知らされた。千鶴は、斎藤と平助の突然の離隊が信じられず、二人を必死に引き留めに追いかけてきた。西本願寺の境内で、斎藤に新選組が変ってしまったから出て行くのかと、悲しむ千鶴に、斎藤は、時と共に全てが移ろう、でも

 俺は【変わらぬものこそ】信じている

 そう斎藤は伝え、屯所を出て行った。



******

 善立寺の朝は早い。斎藤は、早朝に境内で独り稽古をしてから、朝の帳簿付けをする。伊東は講義に熱心で、隊士を増やす為に洛中を遊説して周り始めた。それ以外の隊士は、ほぼ全員一緒に市中に出る。巡察は陽が高くなってから始める。四条界隈をぐるりと周るだけの簡単なものだ。

 斎藤は、新しい別働隊にあまり資金がない事を真っ先に土方に報告した。持ち出しは、伊東のみ。隊士からは、大した給金も支給されていないにも拘わらず、不満の声は聞こえない。ただ、講義で熱に浮かされたように勤皇論を語る隊士達は、いずれは自分たちが朝廷の公儀の元に洛中を護る存在になると信じて疑わない。

 質素堅実。寺の生活はそれに尽きた。屯所内の飲酒も禁じられ、外で遊ぶしかない。その割には誰も出歩かぬ。もし、新八が別働隊に来ていたら、余りの辛気臭さに三日と持たぬだろう。斎藤は、屯所の外でも、本願寺の境内でも、酒を飲んで陽気に楽しむ新八や左之助の姿を思い出した。そして、いつも二人と一緒に呑み騒いでいた平助は、さぞ寂しかろうと思った。平助は、善立寺に移って直ぐに、自分から志願して、新しい隊士募集の為に独り江戸へ旅立った。

 斎藤は、三木に誘われて祇園や島原に酒を飲みに出かけた。三木は、酒が好きな様だが、量は入らぬ。気分良く直ぐに酔っ払う。其れは良いが、酒に飲まれて、注意散漫になる。勿論隙だらけだ。伊東が心配するのは無理もない。斎藤は、いつも正体を無くす寸前の三木を伊東に気付かれぬ様に善立寺に連れ帰った。

 土方との約束の日、斎藤は皆が寝静まった屯所に侵入した。御堂の裏門から、本願寺の境内に入り、土方の部屋に向った。土方は文机で書き物をしていた。斎藤が、畳に座ると同時に土方は言った。

「五番組の中村四郎。奴が犬だ」

 斎藤は、伊東が息のかかった隊士を新選組に置いているのを予想していたが、中村が間者とは特定していなかった。

「山南さんの羅刹隊を嗅ぎ付けてやがる」

 土方は腕組みをして眉間に皺を寄せたまま障子の向こうを見詰めて考えている。

「中村が別働隊に接触して来た時に対処します」

 斎藤は静かに答えた。

「新選組では泳がせておいて下さい。伊東側に情報を持って来た時を狙います」

 土方は伊東の間者を斎藤が手に掛けるのは危険だと思い反対した。だが、斎藤は「心配には及ばない」の一点張りで、そのまま腰を上げた。

「伊東達は新選組隊士がいつ襲撃して来るか戦々恐々として居ます。そこを逆手に取れば済む事」

 土方は、漸く納得した。

「あいつの部屋は、壁も塗り替えて蒲団もお前のを使って戻っている。ここのところ、総司の世話と屯所の用事を黙々とやってる」

 斎藤は障子に手を掛けたまま、背後で土方が話すのを聞いた。

「此方からの報告は、島原へ置きます」

「次はたぶん月が変わってからだ」

「承知」

 斎藤は、障子を静かに開けて会釈をして下がった。廊下には誰も居ない。斎藤は気配を消して、足早に廊下を進んだ。角を曲がって、千鶴の部屋の前を通った。部屋は真っ暗で寝静まっている。斎藤は、そっと障子を開けた。いつもの屏風は無く、部屋の奥に千鶴が蒲団の中で休んでる姿が見えた。

 そうか、この前の騒動で屏風も処分したのか

 斎藤は、がらんとした千鶴の部屋を見回した。近くで千鶴の顔を見たいと思ったが、不躾な気がしてやめた。夜中に無断で障子を開けて部屋を覗くのも十分不躾だ。だが、千鶴が静かに休む姿が見れて安堵した。斎藤はそっと障子を閉めて、廊下から降りると御堂の裏から屯所を出て帰った。

 それから、間も無く。五番組の中村四郎が離隊したと大広間に墨書きで知らされた。噂では、ある日突然、屯所から逃げ出したと言う。千鶴は五番組隊士とは殆ど接触がなかったので、名前を聞いても顔も思い出せなかった。斎藤と平助が離隊してから、三番組も別の組に隊士は分けられ、千鶴は主に、二番組の新八と十番組の左之助と出かける事が多くなった。 屯所内では相馬と野村が、「斎藤さんの代わりに俺らがお守りします」と言って、此れまで以上に千鶴を補佐し、護衛した。軽鴨達の奮闘ぶりは、土方や近藤にも認められ、幹部達との広間での食事に加わって良いと許可が下りた。千鶴は、斎藤が座っていた席に、相馬と野村が座って食事をするのに徐々に慣れて来た。軽鴨達は、千鶴が食事当番の日を指折り数えて待ち、千鶴の作った夕餉を美味い美味いと感激して食べた。二人の喜ぶ姿を見ると、千鶴は斎藤と平助の居ない寂しさから少しだけ解放される気がした。でも斎藤の湯呑みを戸棚で見る度に、千鶴は心が痛んだ。斎藤の好物を作っても、食べて貰えぬ虚しさで、ぽっかりと心に穴が空いてしまった様に感じた。ぼんやりとする事の多い千鶴を、総司がからかい、ワザと我が儘を言って千鶴を忙しくさせた。そうしている内に時間が過ぎていくようだった。

 一方、中村四郎を別働隊に近づいた理由で斬り殺した斎藤は、別働隊で更に畏れられる存在になった。三木は中村と昵懇だったらしく、斎藤が中村に手を掛けた事に腹を立てて、仇を打ってきそうだった。斎藤は、この際、三木も処分しようと覚悟を決めていた。伊東は、斎藤の非情なまでの腕と別働隊への献身的な態度を益々気に入り、信頼を深めた。そして、憤る三木を宥めて、隊士募集の任務につけて尾張に向かわせた。以来、斎藤は独りで祇園や島原に出掛けて飲み歩いた。土方への報告は文を書いて、輪違屋の置屋に託ける。君菊が葵に新選組屯所へ届けさせた。

 善立寺の隊士達は、陰で斎藤の噂話をした。

 祇園と島原にそれぞれ馴染みを置いている
 新選組では衆道だったが女狂いが始まった
 目が合うと斬られる 
 隊長の腰巾着

 概ね別働隊の中で斎藤は浮いた存在だった。ひたすら黙って剣術の稽古をして、講義を熱心に傾聴する振りをし、そして毎晩の様に出かける。斎藤は、帳簿付けをしているので、金の持ち出しは自由だった、島原から土方に報告の文を送った。もっと頻繁に土方の元へ報告に行きたいとまで思ったが、不用心に屯所内に入るのは控えた。毎晩、御堂の裏門の軒先きに土方の根付がぶら下がって居ないか、確かめに行った。

 外側から新選組を守る。雪村を守る。斎藤の中では、なんら以前と変わる事の無い毎日だった。




 つづく

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→次話 濁りなき心に その30

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