武士の矜持と鬼のそれと

武士の矜持と鬼のそれと

濁りなき心に その30

慶応三年六月

 雨上がりの蒸し暑い夜、西本願寺の東側裏門に向った斎藤は、根付に文がくぐり付けてあるのに気付いた。

千に妙客あり
待機

土方の字で走り書きされた紙を懐に仕舞うと、斎藤は一旦裏門から離れ、島原方面に繋がる路地に入り建屋の軒下に身を隠した。亥の刻も近い、屯所に斯様な時間に訪れる客。それも千を丸で囲ってある。千鶴、雪村の事か。斎藤は、懐から文を再び取り出して月明かりに照らして眺めた。

 一刻近く過ぎた頃、屯所から騒々しい剣戟の音が聞こえた。斎藤は、西本願寺の塀の屋根から黒い影が降り立ち、此方に向って走って来るのが見えた。走ると言うより飛ぶ様な勢い。斎藤は直感で突進して来る大柄な影が鬼だと思った。刀の柄に手をかけると、一撃で仕留めようと構えた。

 斎藤の隠れる建屋の一歩手前で鬼は足を止めた。横抱きに白い寝巻き姿の千鶴を抱え、斎藤に「出て来い」と声をかけてきた。月明かりに見えた姿。天霧久寿。

薩摩藩の手の者が雪村を攫ったのか。 妙客。屯所を襲うとは)

斎藤はじっと相手を睨んだ。だが、天霧は構える様子も見せず、静かに話し続けた。

「私の目的は雪村千鶴の保護。斎藤、貴方と此処で剣を交えるつもりはありません」
 と、天霧が言い終わらぬうちに、青い閃光が走った。天霧は千鶴を抱いたまま素早く下がった。空を斬り裂く音が響く。身を躱すだけに留める天霧に、斎藤は憤りを覚えた。

(目的が雪村ならば)

 斎藤は、陰の構えから思い切り斬りつけた。案の定、天霧は千鶴を庇うように肩で遮った。千鶴の瞳はずっと斎藤の眼差しを見詰めている。「わかっています」と言う様にゆっくりと瞼を伏せた時、うっすらと微笑をしている様にも見えた。目前で光を放つ刃に全く動じる様子を見せない千鶴を見て、天霧は斎藤が天霧のことを千鶴もろとも斬りつけてでも、奪い還す策である事を察し、手の中の千鶴を放して地面の上に立たせた。雪村千鶴は斎藤の元に駆け寄り、斎藤は庇うように前に立った。一度は薩摩への同行の覚悟を決めたかの様に見えた雪村千鶴が、怯える様子もなく明確に天霧に向かって「薩摩にいく気はない」と意思を示した。天霧は、これ以上の無理強いは、己の意に反すると思い諦めた。天霧は後ろへ一歩退き。

「斎藤、今宵は貴方の策に乗りましょう」
 といって、千鶴に一礼したあと暗闇に一瞬で姿をくらました。斎藤は辺りを警戒し、周りに敵が居ない事を確認してから刀を鞘にしまった。千鶴は助けて貰ったお礼を言って、微笑みながら佇んでいる。離隊してから、千鶴と言葉を交わすのは初めてだった。斎藤が屯所に戻れと言っても、千鶴はその場を動かずにいた。足元をみると裸足だった。斎藤は、千鶴の手を引き横抱きで抱えた。千鶴は驚いた顔をしたが、やがて落ち着いた様子で斎藤に運ばれるままになっていた。

 斎藤はゆっくり歩いた。裸足の寝巻き姿。寝込みをそのまま拐われたのか。斎藤は乱暴で執拗な鬼の仕打ちに憤った。千鶴は、黙って歩く斎藤に、そっと尋ねた。

「斎藤さん」

「もしかして、新選組に戻って来てくださったんですか」

「勘違いするな、たまたま通りかかっただけだ」
 と、斎藤は素っ気なく答えた。千鶴は、納得が行かない表情をしたが、そのまま黙って俯き気味に本願寺の土塀を見ていた。斎藤は千鶴の横顔を眺めた。長い睫毛に口元は微笑んでいるかの様に見える。髪からはいつもの千鶴の甘い香りがした。裏門をくぐって境内に入った。御堂を過ぎ、阿弥陀堂の裏廊下に千鶴を登らせるように持ち上げた。千鶴は欄干をしゃがんでくぐり、膝をつくような姿勢で振り返った。懐から手拭いを出して渡すと、千鶴は濡れた足を拭った。手を差し出す斎藤に、千鶴は「洗ってお返しします」と首を横に振って手拭いを胸にあてた。斎藤は踵を返すと、足早に裏門の外に出た。軒先からは、いつの間にか根付が外してあった。斎藤は、そのまま屯所を後にして、新しい御陵衞士の詰所である高台寺に帰った。



****

鬼の矜持

 沢山の事が一晩の内に起こり、混乱した千鶴はよく眠れないまま朝を迎えた。東国の鬼である自分の出自、西国の鬼の風間が自分を狙う理由。お千ちゃんが、鬼であること。自分は、本当に屯所に居ても良いのかと気が咎める。でも、千鶴は屯所を出て行きたくなかった。そっと起きて、身支度をすると、手拭いを洗濯した。白地に紺の麻葉模様の手拭いは、斎藤が好んで使っている手拭いだった。それから、斎藤にお礼の文を書いた。文箱から、水引の根付を取り出して、表玄関の門の軒先に下げておいた。きっと直ぐに、葵が現れる。

 昨夜、千姫から八瀬の里から葵を使いに送っていると打ち明けられた。いつも屯所に現れ、優しく微笑み、千鶴の【用聞き】に協力してくれる葵。葵に、斎藤さんへの文を託けよう。きっと御陵衞士の詰所に届けてくれるはず。千鶴は、手拭いに火熨をかけて、丁寧に畳んだ。葵を待つ間、大広間に行ってみると、近藤達が集まり、屯所を移動する話をしていた。鬼の襲来が原因で、本願寺から新選組は出ていくように言われたらしい。千鶴は、自分が鬼である事が原因で新選組に迷惑をかけていると、再び気が咎め暗い心持ちになった。

 午後になり、小原女の姿で屯所に現れた葵は千鶴の文を預かった。必ず、斎藤様にお届けするからと千鶴の手に、杜若を一輪持たせ笑顔で屯所を後にした。御陵衞士と新選組隊士との接触は禁じられている。斎藤に助けて貰った事も、文を送った事も千鶴は土方達に秘密にしておいた。昨夜の斎藤は、以前と変わらず自分を守って下さった。そして土方を【副長】と呼んでいた。千鶴は、斎藤が変わらずに土方や新選組を見守ってくれていると信じたかった。

 高台寺の斎藤の部屋の前に、手拭いと杜若が一輪置いてあった。丁寧に畳まれた手拭いの間に小さな文と水色の水引の根付が挟んであった。杜若は千鶴が好んで屯所の大広間に活けていた。斎藤の瞳の色に似て【武士らしい新選組に似合う花】と。斎藤は、千鶴の文を読むと、根付と一緒に懐にしまった。杜若を壁の一輪挿しに刺して、微笑んだ。手拭いは、昨日会った千鶴の香りがした。

 それから数日後の夜中、斎藤は屯所の裏門から侵入して、土方の部屋を訪れた。土方から鬼の襲来と本願寺を立ち退き西九条村へ屯所移転する事になったと説明があった。鬼が千鶴を襲いに来たが、幹部で追い返したと。斎藤は、あの晩、屯所の外で待機中に、天霧と対峙して千鶴を取り返したと報告した。土方は、千鶴は屯所内で逃げ切って難を逃れたと思っていたらしく、酷く驚いた表情をした。暫く考えた後。

「千鶴は、お前と接触した事をひた隠しにして、お前を守っている」

 そう言って、眉尻を下げて困った様に苦笑いした。それから土方は、斎藤にお千という女と面識があるかと尋ねた。

「輪違屋の君菊の知り合いの娘です。置屋に出入りしています。雪村とは懇意にしている様子です」
 と、斎藤は答えた。

「あの晩の妙客は、そのお千って女だ。お千の正体は、八瀬の里の千姫。鬼なんだとよ」

 土方は真面目とも見える表情で鼻で笑うような声をたてた。

「やっこさんは、風間が千鶴を娶るために浚いに来るってきかねえ。同じ鬼の一族である千鶴を風間から守る為に、八瀬に引き取りたいと云いやがった」  

 斎藤は驚いた。風間が雪村を嫁に。雪村を八瀬に引き取る。どういうことだ。

「自分も鬼だと言ってるが、風間同様、胡散臭い連中に変わりはねえ」

 土方は腕を組んで、きっぱりと言った。

「俺らは新選組だ。風間達が鬼だろうと、どんな手練れだろうが、誰にも千鶴を差し出す事はねえ。千鶴も八瀬には行かず、俺らと一緒がいいと、はっきり言っていた。あいつが此処に居てえっていう限り、守り抜く」

 斎藤は、鬼が千鶴を執拗に追う理由を知って愕然とした。風間が雪村を嫁に。そして、新選組に手を携えているお千が鬼であると……。

「そっちはどうだ?」

 土方が、訊ねる声で、斎藤は我に返った。

「隊士が増員される予定です。今月水戸から六名、尾張から五名。山稜奉行からは活動資金が下りず、伊東と篠原は、幕府雄藩を周って、金子の借入れを始めています」

「金が弱味か」土方が呟いた。

「恐らく、金子の工面で新選組に伊東から接触があるでしょう」

「わかった。次はお前と西九条村の屯所で会う。出入りについては、移ってから連絡する。それまでは、置屋に文で報告してくれ。君菊には協力を頼んである」

「承知」

 斎藤は、そう言って立ち上がると、足早に廊下を去って行った。帰り際、千鶴の部屋は、障子の外から様子を確かめるだけにした。屯所を後にずっと東山に向かって歩きながら、千鶴の事が頭から離れなかった。新選組の幹部は、皆、千鶴をどこか、幼な子を預かり大切にして居る様子があった。特に近藤や土方はそうだった。斎藤もそうだ、新八は、いつも千鶴の事を、「可愛い妹分だ」と言っている。左之助も、軽鴨隊はひよっ子だと笑う。総司に至っては、「手のかかる子供だ」と。平助も同じだ。千鶴は護るべき存在。その様な千鶴に、突然、嫁取りが来た。

(いつだったか、近藤さんが、雪村は実に色々な事が身に付いていると感心していた。何処に出しても恥ずかしくない立派な娘御だと)

「恐らく、綱道さんは、将来大名屋敷に奉公に出すつもりで、雪村くんに茶道や香道を習わせたのだろう。幕府の御典医ともなれば、大奥勤めも夢ではない。雪村くんは、いずれ、大名家に輿入れする様になるやも知れん」

 

 それを聞いた土方が、「ま、奥付の伊庭辺りの御身分が相当だろうよ。だが、うちにだって士分でいい相手はいるぜ」 と言って、斎藤に笑いかけていた。

 斎藤は、その時、土方と近藤が千鶴の事を、自分の娘の様に、その将来を考えてやっているのだなと思って話を聞いて居た。まだ幼い千鶴を心配する親心。そんな日は遠い先の事だと漠然と思っていた。だが違う。千鶴を嫁にと言い出す者が出て来た。それも相手は、力ずくでも千鶴を奪って行こうとしている。

(渡してなるものか)

 唯、無性に腹立たしかった。幾ら相手が強かろうが、鬼だろうが、此処で雪村を差し出すのは、武士の名折れ。斎藤は、足早に歩きながら、土方が守り抜くと決めている限り、己も其れに従おう。そう強く心に誓った。



****

祇園 井筒屋の座敷にて

 東国の姫を西国に連れ帰る。そう決心していた風間は、天霧が妨害にあい、雪村千鶴を手放したと報告を受けて憤った。

 天霧は東国の姫に西国に赴く意思がないの一点張りで話にならぬ。薩摩藩は今月の終わりに兵を挙げて上洛する。開国に伴い、朝廷と市中を武備するという表向きの理由だが、密かに倒幕挙兵の計画が進んでいる。薩摩入りした雪村綱道の生み出した羅刹兵も洛中に送られて来るだろう。風間は雪村千鶴をこれ以上人間と接触させたくなかった。同時に、雪村千鶴の親である雪村綱道、そして南雲薫からも千鶴を遠ざける必要があると感じていた。

 五月の初めに、薩摩で風間への面会を申し出た雪村綱道は、千鶴を正式に風間に「献上したい」と申し入れた。

「その方、まるで娘をモノの様に差し出すつもりなのだな」

 風間は、千鶴とは全く真逆に、接触すればするほど嫌悪の走る目前の綱道を睨みつけた。

 雪村綱道は、畏まりながら答えた。

「千鶴は、雪村の純血の鬼の血を引く女鬼です。力の強い、一族の長になる存在。どうか、風間様とより強い純血の鬼の血脈を守り。鬼の世の再興を。それが我々の願いです」

「鬼の世の再興?貴様、随分と大きく出たものだな」

 風間が笑みを見せたのをみて安堵したように、綱道は続けた。

「羅刹兵さえあれば、鬼に金棒で御座います。いずれ起きる戦も我等が圧勝しましょう」

 風間は、返事はせずに沈黙していた。やはり思っていた通りだ。雪村綱道は羅刹で軍を率い、人間の世を討つ腹積もり。この酔狂に西国が手を貸すと思うか。

「其方は、雪村千鶴とは血縁ではない、唯の育ての親。だが我々鬼は格式を重んじる故、婚姻の許可を受けた事としよう」

「だが、綱道。此れより先は、東国の姫の先行きに一切口出しするのを禁ずる、その方と行動を共にする南雲にもそう伝えよ」

 綱道は風間に釘を刺されたことで、それ以上は何も言えず、無表情のまま頭を下げて座敷から下がっていった。

 六月に入り、上洛した風間は久しぶりに不知火と合流した。長州と薩摩に近く、倒幕の勅命が下りるという情報を不知火から知らされた風間は、不知火から挙兵の時期を探りたいと問われ、以来洛中に一緒に潜伏している。不知火は長州藩の味方ではないが、腹心の友である長州藩士高杉晋作が望んだ「新しい日ノ本」を見届けるつもりでいるらしい。

 昨夜、新選組の屯所に風間が向かう時にも、不知火は一緒について来た。不知火は、「新選組の中にも骨のある奴はいる。遊ぶのには、丁度良い」と、気紛れに笑っていたが、新選組幹部の鬼達の撃退振りは凄まじく。舌を巻いて、早々に退散した。

「結局、お姫さんも奪えずかよ。風間」

「其れにしても、女の寝込みを攫うってのが、俺にしちゃあ、無粋の極まりだったな」

 祇園の宿の座敷で、リボルバーを手で弄びながら、不知火が笑う。

 風間は、不機嫌そうに沈黙したまま、酒を飲んでいる。

「風間、明日出航する船の手配が整っています。京を朝の内に出発し、昼過ぎに大坂を発ちます。今宵は、もう控えられますよう」

 天霧が膳を下げさせ、風間と不知火に休む様に促しても、風間は酒を放さず、沈黙し続けた。

「ま、薩長が挙兵すれば、京都守護職は一日で陥ちる。新選組がその時までに在るかって話だ」

 不知火は、畳に横になると天井に向かって言った。

「だが嫌がる女を手籠めにするってえのは、鬼の矜持に反するぜ」

 風間は、窓辺の桟に腰掛けたまま、杯を傾けていた。

 雪村千鶴。このまま京で戦になり、羅刹兵と人間の禍事に巻き込まれるのは見えている。雪村綱道の目指す鬼の再興に自分と東国の姫の血が使われるのも許せぬ。風間は、唯一の手立てと思い、新選組屯所に赴いた事が、徒労に終わった事に憤った。天霧が妨害されたのは、新選組を抜けて御陵衞士になっている元幹部だと云う。その様な雑魚に東国の姫との行く末に水が差された。其れこそ、鬼の矜持が許さなかった。

 何処までも不機嫌な風間に、不知火は首を振って苦笑いをした。挙兵となれば、必ず上洛する。何か手が必要なら式鬼を送ってくれと風間と天霧に挨拶するとそのまま、座敷を後にした。

 

翌日、風間は天霧と京を発ち薩摩に戻った。風間は滞っていた新しき鬼の郷造りを再開した。 薩摩藩は土佐藩と盟約を結び、土佐藩主の山内容堂は戦を回避するために幕府に政権返上の建白書を提出した。一方で薩摩藩、長州藩、芸州藩の討幕派は密かに武備し戦に備えていた。在京家老からの再三の要請に応えて、風間千景が再び上洛したとき京は晩秋を迎えていた。そして神無月、薩長倒幕派の圧力で、とうとう徳川慶喜が政権を朝廷に奏上した。大政奉還である。徳川幕府の終焉を示すこの出来事は、薩長の新しい日ノ本造りの第一歩に過ぎなかった。風間は薩摩藩の指示で、既に洛中に待機している薩摩藩兵の護衛をしなければならず、雪村綱道と羅刹兵にも監視の目を置き続けた。

 この間にも、数度、風間は西九条村の新選組屯所に出向き、千鶴に西国へ来る様に言って連れ帰ろうとしたが、頑なに拒まれた。

 千鶴と話をしていると、新選組幹部は必ず邪魔をして来る。あの人間どもは、脆弱で愚の骨頂だ。風前の灯火の幕府を守り闘おうとしている。

 東国の姫も新選組が【本当の武士】であるからこそ信じていると云う。あそこまで人間に信を置くのも一向に解せぬ。だが、千鶴が真っ直ぐな性分である事、その頑なな部分は風間の認める【鬼の美徳】に通じるものがあった。いつもほんの束の間の接触だが、会えば、不思議とより惹かれる。

 風間は、千鶴こそが我妻となる存在だと確信していった。




 つづく

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→次話 濁りなき心に その31

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