天満屋

天満屋

濁りなき心に その32

慶応三年十二月八日

 斎藤さんには生きて欲しい
 皆さんにも生きて欲しい

 屯所を出て紀州藩の公用方三浦休太郎の護衛に付いて二週間が経った。ここ天満屋は西本願寺の正面門を堀川通りを隔て、裏通りの油小路沿いに建つ旅館。二階の大座敷と両側二間分を借り切って、三浦と三番組隊士七名で寝泊まりしていた。三浦は、非常に人好きのする豪胆なところがあり、無類の酒好きであった。斎藤達が天満屋に着いて三日も経たぬうちに隊士達と打ち解け、部屋で籠るには、此れだと、酒瓶を出して飲み始めた。三番組隊士は、酒好きが集まっていたので、大いに付き合った。斎藤達は宿周りの見廻りに出る者二名を輪番で回し、部屋に常に隊士五名で護衛についていた。

 今日も明るい内からの酒宴。斎藤は、窓の外を見て、荷車が宿の裏口に廻ったのを見た。斎藤は伍長の伊藤に、酒を控えるように合図を送った。伊藤は、酒瓶を並べながら酒量を測ると、斎藤に頷いた。

 陽が傾き、階下から誰かが階段を上がって来る音が聞こえ、「山口様」と呼びに来た。斎藤は、今、【山口二郎】と名乗っている。斎藤が階下に下りると、旅館の玄関に千鶴が独りで立っていた。嬉しそうに笑顔で「斎藤さん」と駆け寄って来た。驚いた斎藤は、宿の外に出て土方からの文を受けとった。

 四条にて土佐藩士の家捜し
 小具足鎖帷子送り候
 荷車の筵確認されたし

 やはり、荷車は屯所からか。斎藤は、宿の裏に周りお勝手の竈の火に文を焼べた。屯所は近く二条城に移転と聞いているが、千鶴は何も知らないようだった。文を届けた用が済んでも帰る様子がない。数軒先に山崎の影が見えた。それならば、暫く話をしても障りは無かろう。そのまま 千鶴と大通りから外れた軒下に移動した。

 久しぶりに見た千鶴の顔は、どこか不安そうで。翳りを見せる笑顔が気になった。総司と平助の様子を聞いてみた。総司は小康状態のまま。ずっと臥せていると言う。平助は日中は部屋に篭ったまま眠り続け、夜になると屯所の庭に姿を現すという。今迄と様子は変わらない。そうか、ならば他の羅刹同様、正気を保っていると言う事か。

 千鶴とただ黙って佇んでいる内に、黄昏がどんどん深まり。辺りは暗い紫がかった夕闇、空には青い月が出始めた。千鶴は息を両手の平に吹きかけながら、そっと温めている

 変若水を飲んだ平助の事からか、いきなり千鶴が思い詰めた様な顔をして訊いてきた。

「斎藤さんも、必要なら変若水を飲まれるんですか」

「必要なら、飲む」

 斎藤は即答した。余程、変若水の事を気に病んでいるのか、千鶴は泣きそうな顔をしていた。無理もない。剣を振る己と新選組に身を置くだけの千鶴とは、立場も違う。そう思った斎藤は、愛刀の国重を抜いた。月明かりを反射して青白く輝く抜身を千鶴に見せて、自分の覚悟と決心を語った。自分にも言い聞かせるように。

 千鶴は別れ際に、「どうかご無事で」と何度も振り返っては首を傾けるように会釈して通りを帰って行った。斎藤は、さっきから感じていた背後の影に、鯉口を切りながら振り返った。

「先ほどから、何用だ」

 斜向かいの建屋の陰から姿を現したのは、池田長兵衛だった。会津藩お抱えの間者。濃藍の長着に袴、藍の襟巻きに髪は後ろで束ねている。暗がりに光る眼孔は鋭い。斎藤に向かい、跪き頭を下げている。

「ご無沙汰しております」

「池田殿、であったな」

 斎藤は、幾分警戒を解いて尋ねた。池田は、頷くと、立ち上がった。そして、通りを五条方面に目をやりながら、警戒した様子を見せた。

「土佐藩士が此方に向かって居ります。刺客十四名。皆、相当の手練れ。打刀、十四振り。脇差、十四振り。短銃、一丁」

「主、迎え撃つ準備を」

 そう言うと、斎藤の隣を過ぎて、足早に建屋の路地に消えて行った。斎藤は、天満屋の二階を眺めた。座敷には、灯りがともっている。敵は十四名。池田の情報通りなら、一刻を争う。斎藤は、池田の消えた路地を振り返ると、急いで宿の裏口に走って行った。お勝手の外に置かれた荷車に筵が被せてあり、剥ぐと、鎖帷子と小具足が人数分載っていた。斎藤は、帷子を掴むと建屋の二階に急いで上がった。

 座敷には、隊士が七名。一番手前に伍長の伊藤が座っていた。斎藤は隣の部屋に、伊藤を呼び、直ぐに武備するように指示した。伊藤は、三浦を警戒させない様、三名ずつ交代で、階下の具足を取りに行かせ、鎖帷子を着物の下に着る様に指示した。

「組長、皆、酒は抜いてあります」

 伍長は、窓際で鉢金を結わえながら、斎藤に笑いかけた。最後に、宮川が隊士と階段を上がって来て、着替え始めた。三浦の警護には最初三番組から十四名が選ばれた。その後、京都守護職より、二条城の警備の要請があり屯所の人員が手薄と言う事で、急遽、七名は二条城に行き、天満屋には残りの七名で任務に当たっていた。

「刺客は十四名。ここで迎え撃つ。灯りを消せ」

「敵が、全員二階に上がったら、三浦殿を奥の間から、廊下に逃す。良いな」

 斎藤は、指示をして。座敷に戻った。三浦は、酒に酔いながらも、「来たか」と冷静に、脇に刀を寄せる様に置いて、斎藤に頷いた。階下から、人の声が聞こえ、階段を駆け上がる音が聞こえた。斎藤は、座敷の奥の襖の影に隠れた。隊士達は、隣の部屋の入り口の壁に隠れる様に立った。廊下の障子が開いて、浪人風の男が一人部屋に入った。

「三浦氏は、其こもとか」

 そう言って三浦に向かって刀を振り下ろした。その瞬間、襖の陰から青い閃光が走った。浪人風の男は、呻き声をあげた。左の二の腕から下が斬り落とされ、身体が傾き膝をついたところを二撃目は、横から首を返すように斬られ、仰向きになって絶命した。三浦は、頰を斬られ、打刀を抜いたまま、後ろへ後ずさっている。座敷は次々に上がってくる土佐藩士達と入り乱れ、所狭しと怒号と剣戟の音が凄まじい。

 斎藤は一人、また一人と斬り捨てて行った。左側の部屋の壁沿いに、三浦が逃げて行く姿が見えた。そこに襲い掛かる敵の姿が見えた。斎藤は、駆け寄って、低く構え様とした。背後から、「そうはさせるか」と大きな叫び声が聞こえた、殺気を感じた斎藤が振り返ろうとした瞬間、「組長」と叫ぶ声が聞こえた。

 斎藤の背後に立った平隊士の梅戸が目を大きく見開いたまま背後から斬られ崩れた。斎藤は、梅戸を斬った男が再び刀を構え様とした瞬間、斜め袈裟懸けに斬り捨てた。暗闇で敵も見方も入り乱れる中、廊下から、「三浦を討ち取った」と叫ぶ声が聞こえた。三番組の大石の特徴のある声だった。その声が聞こえると、撃ち合いを辞めて、敵は次々に階下へ逃げて行った。三浦は、奥の間から、廊下の更に奥の、納戸の中に逃げて無事だった。

 絶命した敵は、七名。新選組は、斎藤を庇って斬られた梅度が重症。そして、奥の間を果敢に守った宮川が絶命していた。階下では、三浦の護衛の和歌山藩士二名が負傷。斎藤は、怪我人を屯所に搬送した。自分の甥である宮川信吉の死を、近藤は深く悲しんだ。その日の内に屯所の広間で通夜が開かれた。

 千鶴は、広間の片隅で静かに泣いていた。宮川とは歳も近く、巡察中もよく言葉を交わしていた。いつも明るく、千鶴同様に斎藤を慕い、三番組に居られる事が自慢だといつも言っていた。斎藤も宮川を信頼していた。土方と江戸に隊士募集で向かった時に、日野の道場で出会ったのが宮川だった。叔父の居る京に行きたい。即日で入隊が決まり、そのまま隊士募集の旅の間、土方の小姓役も引き受けた。斎藤は自分を慕い信を置いてくれる大切な仲間を失った。部下の死は辛い。自分の身を斬られたかのようだ。

 翌日、公務を取り止めた近藤は、壬生光縁寺に赴き三番組全員で宮川を弔った。その後和歌山藩より、天満屋の騒動で新選組は三浦の護衛任務を解かれた。新選組は、二条城警備の任に就いていたが、将軍の徳川慶喜は大坂城に急に本陣を移すと通達があり、京都守護職の松平中将も京を離れた。

 急遽、新選組は、伏見奉行所での取り締まりを命じられた。斎藤達は、屯所の引越し作業に追われた。千鶴は、病人と怪我人の搬送に就いた。近藤の指示で、必要最低限のものだけを持ち出し、他は全て処分をするという事だった。移った先の奉行所は不動村の屯所程ではないが、十分な広さだった。

 この頃、既に王政復古の大号令が発せられた。幕府は廃絶。公儀は朝廷に。京都守護職も廃止されていた。正式に新選組にその知らせが公にされたのは、伏見奉行所への移動が終わって数日後の十二月十六日だった。幹部も含め、新選組は百名に満たず。薩長の京への進軍に備えろという名目だが、先行きは判らず、新選組から逃げ出す隊士も多かった。土方は常に眉間に皺を寄せ。近藤は雄藩との会議で毎日の様に出掛けている。騒つく奉行所内の空気は重く、沈み込んでいた。だが、ただ黙々と、隊務をこなしている斎藤を見て、千鶴は不安に思う事はやめた。

 その日の午後、葵が千姫の文を携えて奉行所に現れた。戦が近い、洛中は戦火になる。今直ぐ八瀬に来て欲しい。短い文だが、千姫の気持ちは充分に伝わった。千鶴は、改めて新選組を離れないと自分の決心を文に綴って葵に託した。葵は、何度も千鶴の手を握っては、どうかご一緒に八瀬にと繰り返す。千鶴は笑顔で答えた。

「私は、新選組を離れません。私は、大丈夫だと。お千ちゃんに伝えて下さい」

 葵は目に涙を溜めていた。もう何年もずっと千鶴に寄り添うように、見守り続けて来てくれていた葵。優しい姉の様な存在。千鶴は、今生の別れの様な気がして胸騒ぎがしたが、笑顔で打ち消した。

「葵さん、此れを、お千ちゃんに」

 千鶴は、自分の髪を結わえている組紐を解いて、葵に託した。今迄の千姫への恩義に何も返せない。せめて、此れを。葵の掌に綺麗に結われた真紅の組紐を載せると両手で葵の手を取った。葵は、涙を零しながら頷くと、一礼をして帰って行った。



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 それから、数日後の夕方、近藤が襲撃された。

 二条城に会議で出掛けていた近藤は、伏見街道を馬で帰って来たところを銃で撃たれた。銃槍は酷く、弾は貫通していたが、鎖骨と肩の骨が砕けてしまっていた。墨染に待ち伏せていたのは、高台寺派の残党。伊東暗殺の夜に、薩摩藩邸に逃げ込み匿われていた者たちで、近藤襲撃は伊東暗殺への報復だった。そして武器を用意し、扇動したのは、土佐藩の南雲薫だった。

 近藤は一命を取り留めたが、銃槍は深く、山崎が大坂城の松本良順の元に搬送した方が良いだろうと土方に進言した。長く寝たきりだった総司は、近藤が襲撃された事を知ると、夜中に独りで報復しに奉行所を抜け出した。そして、奉行所の周りにたむろする高台寺派の残党を斬りつけた。南雲薫は、剣を振って力尽きた総司を斬り殺そうとしたが、其処に斎藤、山南と平助が現れたのを見て、その場から立ち去った。

 総司は虫の息だった。そのまま夜明けに近藤とともに大坂へ搬送されて行った。土方は、千鶴に総司への付き添いを命じようとしたが、戦が始まる事を考えると、奉行所での救護人員が必要になる為、思い止まった。千鶴は、監察の任務につく山崎の代わりに、今迄通り、奉行所で病人や怪我人の世話にあたった。近藤が不在の今、以前の様な幹部会議は開かれず、集まれる時に奉行所の広間に人が集まり決定がなされる。

 そんな殺伐とした空気のまま年末を迎えた。千鶴は、せめてもと井上と入手した丸餅を使って、雑煮を作って新年に振る舞った。

 新八や左之助は喜んだ。こんな風に正月が迎えられるとは思っていなかったと笑いながら。そして、餅を食べて元気が出たから、薩長を追い返してやる、そう言って腕まくりをして千鶴に力瘤を見せて、笑わせた。

 膳を抱えたまま、声をたてて笑う千鶴の横顔を見た斎藤は、久しぶりに千鶴の笑顔を見た気がした。

 この和やかな新年の朝餉から二日後、鳥羽で戦が始まった。



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千姫の祈り

 八瀬に戻った葵から千鶴の文と組紐を受け取った千姫は、千鶴の決心を思い、暫く胸に組紐を抱いて涙した

「葵、お願いがあります。【追儺(ついな)の式】を執り行います。どうかそなたの力を貸しておくれ」

 葵は、深く頷き、二人で早速準備を始めた。まず、市中に留まる君菊を呼び寄せた。追儺の式の間は、千姫の全霊が上界に集まる為、八瀬の結界が一時期外れる。京が戦になる今、追儺を行うのは、非常に危険だった。八瀬の里を守る千姫が、何故、この時期に。君菊は、八瀬に向かいながら、朝廷に一大事が起きたのか。若い天子様に禍事かと、胸騒ぎがした。

 君菊が八瀬の御殿に着いた時には、千姫は既に禊に入っていた。式鬼を集める祭壇には、三方の上に千鶴の組紐をが置かれ。式鬼の身なりに着替えた葵が結界を引いて準備を進めていた。君菊は傍に置かれた千姫への千鶴の文に目を通した。そうですか、千鶴様の為に。君菊は、もう八瀬に保護をされていると思っていた千鶴が、伏見奉行所の新選組の元に留まっている事を知った。

 直ぐに、君菊は八瀬の結界を張る作業を始めた。追儺の式の後は、姫様は丸二日は目醒める事がないだろう。純血の千姫がその類い稀なる力を使って行う追儺は、鬼の一生のうちに一度行えるか。其れほど大掛かりで重要な儀式だった。

 千姫は、一昨年孝明天皇が倒れた時に、追儺を行なった。だが既に病に倒れていた天子様の身に入った毒を式鬼で取り除く事が出来ずに、天皇は薨(みまか)られた。その事を千姫は大層悔やんでいた。今度の式では、戦火に立ち向かう千鶴の禍を祓う。どうかご無事に、全てが執り行えます様に。君菊は全身全霊を込めて祈った。

 千姫の追儺は葵が式を進める。葵は旧い術を執り行う血筋の女鬼だった。葵の祖母も、その母もト術士で、祖先は戸隠の鬼女。八瀬の里に残るこの旧い血筋は、今は葵だけとなっていた。古の術を執り行えるのは、もう日ノ本でもこの葵以外にはいないであろう。

 八瀬の里の葵は、千姫が幼き時より守って来た。不知火の様に、葵の術の力を頼って来る他国の鬼も居る。実際、昨年は、不知火が直接八瀬に現れ、病に倒れた人間を一人助けて欲しいと懇願して来た。千姫は、葵の馬関行きを許した。葵のト術で、不知火の腹心の友である【高杉晋作】は、瀕死の状態から床を上げて、自分の足で海岸まで歩き、砂浜で三味を弾いて、一晩中不知火と語り合ったという。その四日後に高杉は息を引き取った。八瀬に葵を送り届けた不知火は、恩義は一生忘れない。巫女の姫さん(不知火は葵のことをそう呼ぶ)に何か有れば、地の果てからでも駆け付けて護る。そう言って膝まづいて葵と千姫に誓って八瀬を後にした。以来、長州や聞いた事もない西国の街から、【巫女の姫さん】宛てに貢物が届く様になった。

 葵はその力は全て八瀬の里で培われたものだと信じて居る。八瀬の豊かな自然、草木や美しい山々に。里で摘んだ花を市中に運び、毎回千鶴に渡す度に術をかけた。千鶴様の哀しみは消え、喜びを見いだせますように。水引を使ったやり取りも、とうとう途絶えてしまった。どうか、千姫様の追儺で、禍事から守られますよう。

 千姫の追儺の式は丸二日続いた。千鶴の身を傷つけるものは無く、凡ゆる武器や術、毒は無効。鬼の力で傷は一瞬で癒え、力尽きる事はない。千姫は全身全霊を込め祈り、追儺は無事に終わった。

 深い眠りについた千姫の寝所の扉を閉じると。君菊は葵を労った。この年明けとともに執り行った式は、きっと千鶴様をお守りします。我々は、いつか千鶴様が訪れになられる日を楽しみに八瀬の里を護りましょう。

 この追儺の効力は、その後何年も続いた。千鶴は鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争をずっと無事にくぐり抜ける事となった。千鶴の鬼の力は、千鶴の意思とは関係なく発揮される様になった。危険察知、身体の漲る力、歩き走る速度。

 年明けに勃発した鳥羽伏見の戦でも、千鶴は伏見奉行所で怪我人の世話や食事の支度、時には伝令の為に、奉行所の外に出て戦火の中を駆け抜けた。




 つづく

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→次話 濁りなき心に その33

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