斎藤さんと刀の話

斎藤さんと刀の話

慶応四年九月五日 如来堂にて

 ひとたび会津来たりたれば、
 今、落城せんとするを見て志を捨て去る、
 誠義にあらず

 北方での死線を潜り抜け、再び城北に戻った斎藤達は、神指城跡に布陣する幕府軍の援護に向かった。大川沿いに洲を下って行くと、低い石垣と土塁に囲まれた城跡はもぬけの殻だった。斎藤たちは、そのまま神指城に陣を張ることにした。

 城跡の北東で詰めていた斥候が、高久村の街道を大軍がゆっくりと上って来るのを確認した。薩摩と肥後藩の旗。敵兵は三百を下らぬ。直ぐに南詰に待機する斎藤に敵の進軍を伝えた。斎藤は部下に向かい、

「新政府軍のこれ以上の進軍を許してはならぬ」

「城跡を背にして、敵を食い止める」

 そう言うと、抜刀して先頭をきった。千鶴は斎藤の指示で、城跡の外れにある如来堂の中に隠れていた。会津若松城の北西四厘に位置する神指城は四方を二重の土塁と石垣で囲った平城で、大川を背に、外側の土塁に守られる様に、如来堂が建っていた。二軒程の御堂で、中は板敷。御本尊の木造の阿弥陀如来立像は小さいが、優しい表情で暗がりに浮かび上がって見えた。千鶴は、御仏に手を合わせて斎藤達の無事をひたすら祈った。外は一時期鳴り響いていた銃砲が止んで、怒声が聴こえる。

 もう日没も近い、どうかご無事にお戻りください。

 斎藤達は城跡を敵にとられ、後退りする様に如来堂に辿り着いた。敵は、土塁の周りをぐるりと取り囲む様に布陣した。四方に篝火が見えた状態で斎藤達は、一先ず生き残った者達で御堂の中に入った。千鶴が入り口に駆け出して来て、怪我をした者の手当てを始めた。板敷きの間には筵が並べられ、竹水筒と北方から持ち込んだ食料が直ぐに食べられるように用意してあった。皆は水を飲み、食べ物を貪るように食べた。干し芋、乾燥させた蕎麦粉のお焼き、噛み締めると仄かに味噌の風味がした。旨い。「こんな美味いものは食った事がない」と皆が呟き震えながら噛み締めた。

 斎藤以外、全員が何処かしらに怪我を負っていた。千鶴は、止血と消毒をして、筵を身体に掛けて少しでも休むようにと伝えた。北方では、戦場から一歩外に出ると百姓が暮らしていて、食料の確保が出来た。千鶴は行軍の合間に、畑や野原で雑草を摘んだ。山では、食料になる草木の実を集めた。蕎麦粉は百姓の家で三升も分けて貰え、千鶴は湧水を汲んで水と食料の確保をした。斎藤達が無事に転戦に成功していたのは、隊が小さかった事と、千鶴の食料確保が的確だった事が大きな要因であった。

 斎藤は夜が更けて辺りが静かになると、再び物見を送った。四方どころでは無く、八方ぐるりと取り囲んだ敵陣は、大砲部隊と鉄砲隊を前に、いつでも撃てる準備をしているという。絶体絶命の危機。

 一方、報告を受けた斎藤は落ち着いていた。

「闇討ちの心配はない。敵はこの御堂を潰すような事はしないであろう。城攻めの支城にするやもしれん」

 斎藤は、皆を車座に座らせて、脱出の段取りを説明した。

「夜明けとともに、敵は撃ってくるだろう。俺が御堂の玄関で敵を引き付ける、その隙に御堂の裏手の土塁を駆け下りて、大川へ廻れ」

 斎藤は、昼間の死闘から撤退する時に、部下が囮になって砲撃を逸らし、仲間を撤退させた瞬間を思い出した。母成峠の死線も潜り抜けた強者の部下を一人また一人と失って行く。

「組長、私が表に出ます。組長は雪村君を連れて、必ずご城下に。我等も、直ぐに後を追いかけます」

 元三番組隊士がそう言って頷いた。暫く、黙ったままだった斎藤は、口を開くと静かに言った。

「夜明けまで暫くある。皆、眠れる者は眠っておけ」

 斎藤は千鶴を自分の側に座らせ筵を掛けた。千鶴は、斎藤の隣で横になり丸くなって眠った。斎藤は薄暗い御堂の中で疲弊した部下達がうずくまる姿を眺めた。誠義の為。北へ向かう土方と別れ、会津に残ると決めた自分に千鶴も手下の者も皆が付いて来た。義に死すとも不義に生きず。その思いは変わらぬが、千鶴はどんな事をしてでも守らなければならぬ。仲間もだ。必ず生きて此処を全員で脱出せねば。

 巳の刻ぐらいであろうか、斎藤は、御堂の奥の壁に凭れて半分眠っているかの様な状態になっていた。ふと仏壇の前が明るくなった様に見えた。

 其処には、青白く光る人影があった。片膝をつく様に頭を垂れる男の影に、斎藤は、傍らの打刀をとった。すると、斎藤が手をかけた国重も同じ様に青白く光っていた。鞘の内側から漏れる青い光は、辺りを明るく照らす程で、斎藤は、この光が敵に見つかる事を避ける為に自分の身に近づけ脇に下ろした。

「その方、何者だ」

 斎藤は、千鶴を庇う様に立つと刀の柄に手をかけて構えた。

 男が放つ光はだんだんと薄くなり、頭を上げたその顔を見て、斎藤は驚いた。男は、斎藤が京で時々出会っていた池田長兵衛だった。

「池田殿か、」斎藤は驚きのあまり、名前を口にするのがやっとであった。

 池田長兵衛。伏見の研屋で出逢った会津藩士。そして恐らく、会津藩の間者。斎藤は洛中で時折出逢ったこの不思議な浪人風の男を藩抱えの密偵と思っていた。そして今、目の前に現れた池田は、額から頰にかけて傷を負っていた。肩や腕を包帯の様な布で覆い。着物も袴も傷んでいた。

 斎藤の呼び掛けに、静かに頷くと微笑みをたたえた顔を見せた。

「主、ご無沙汰しておりました」

「此処へはどうやって参られた」斎藤は驚いたまま、呟く様に問うと。

「私は、主と共に戦って参りました」

(主、会津中将様のことか)

 斎藤は心中で合点がいった。そして、池田に近づくと、目の前に腰かけた。

「不思議な事があるものだ。此処に逃げ込んだのは、我々だけだと思っておった」

「四方を敵に取り囲まれているが、大川から石垣を超えられたのか」

 池田は静かに首を振った。

「敵は、夜明けと共に出撃をします。鉄砲隊が百人、スナイデル銃百丁」

 池田は静かに、敵の状況を斎藤に伝えた。斎藤は頷くと、静かに応えた。

「御堂の表で敵を引き寄せる。裏の土塁は下まで土だけで繋がっている、そこをつたって河の洲まで出られよ、よいな」

「城下に幕府の衝鋒隊が布陣している。そこへ参られよ」

 斎藤は、床の上に指で御堂の場所と河川までの抜け道をなぞるようにして池田に説明した。

「脱出の手立てが御座います」

 池田は斎藤を遮る様に言うと、真っ直ぐに斎藤の顔を見つめた。池田の眼光は鋭く、斎藤はそのまま沈黙して池田の真剣な眼差しを見つめ返した。

「あと半刻程で、夜が明けます。明けの明星と共に、陽が射し込みます。その少し前に、この御堂から南南東に抜け道を伝って行けば。決して敵の手が触れる事もなくご城下に」

「南南東。敵陣に突っ込むのか」

「日輪の道は敵を遮り伸び、決して敵は我々を触る事はございません」

「日輪の道」

「はい、此処は阿弥陀如来が在わす場所。我が大日の力に於いて、日輪の道を開く事が」

「そなたは何を言っておるのだ」

 斎藤は、池田が発する言葉が一切理解出来ずに茫然とした。

「主、荷物をお纏めに。御堂の前から南南東に向かって走られれば、ここに居られる全員無事に此処を抜け城に」

「日輪は獄卒を焼き尽くす灼熱となりましょう。ですが、私が主をお守り致す。必ず走り続けられますよう」

「……そなたは、一体何を言っておるのだ」

 斎藤は、目の前の池田が間者ではなく、それどころか人でもない様な気がして来た。

「そなた、一体。何者なのだ」

(これは、夢か)

 青白く浮かび上がる池田を眺めながら、自分は夢うつつになっているのだろうと斎藤は思った。

 池田は、斎藤の目をしっかり見詰めて応えた。

「我が銘は【池田鬼神丸国重】、市寸島比売命の分祠として、刀身を依代としております」

 斎藤は目を見開いた。国重を我が銘。一体、何を言っておるのだ。国重は諱か。刀身を依代。【いちきしまひめのみこと】とは、斎藤は酷く混乱した。

「この様に、己が人の姿になったのは、伏見で主に会った時より」

 そう言って、斎藤の持つ国重に目をやった。国重は池田と同じ様に青白い光を発したままだった。

「何を言っている。刀身を依代……」

「……其方は、刀に宿る精霊の類か」

 斎藤は、その様な話を確か総司から聴いたことがあった。

「はい、我が身は、厳島の市寸島比売命より分祠され、大島と海を禍から守っていました」

「池田長兵衛様が厳島神社で打ったのが我が依代。鬼神が災いを退治する様にと。銘は鬼神丸と刻まれました」

「奉納刀なのか」

「はい、遠い昔の事」

「小さな社に独り。飢饉、疫病、天災。辺りにはあらゆる災い、禍事が起きておりました。私はずっと戦っておりました」

「ある時、社の外に連れ出されたのです。外は闇。それから私は随分長い間暗い闇の中で動く事もなくただじっとしていました」

「戦う事も忘れ、依代は錆びついたまま、私は眠り続けた。久しぶりに鞘から出た時は、世は太平。私は江戸という場所に居りました」

 斎藤は、以前国重は戦乱の時代から江戸幕府が起きた頃に打たれた古い刀だと聞いていた。摂州国住みの刀工、池田国重は諸国で修行し、薩摩や江戸でも刀を打ったと書物で読んだ事がある。斎藤の国重は斎藤の父親が御家人株を買って士分となった時に、江戸の刀匠より買い取った打刀で、父親から斎藤の兄に渡り、斎藤が出奔する時に兄から手渡された。斎藤は東海道を通って京に上った。途中、鞠子の峠で山賊に襲われた時に初めてこの国重を抜いた。斎藤は柄を握った時の共鳴が大層気に入った。以来、ずっと大切に手入れをして常に帯刀して来た。国重は斎藤にとって、共に戦って来た同志であった。

「主が私を研ぎに出された折、私は初めて人の形になりました。この身を研がれ、傷を癒し、手入れをされると、再び生き返った心地が。太平の世には災いや禍事は無く、私は主の剣となった。主人と共に戦う刄に」

「京で会ったのは、研ぎに出していた時であったのか」

「はい、私は分祠のため、社や仏閣で顕現致します。此方の御堂に於いても阿弥陀如来の御加護で再び。これも何かの縁で御座いましょう。さあ、主、皆を起こして下さい。そろそろ明けの明星が輝く頃。その瞬間に我が依代で道を開きます。隊を一列に、駆ける備えを」

 そう言って、池田は仏壇の如来像に手を合わせ、祝詞を唱え始めた。それは伏見の研師が唱えて居たもので、己が身を清められるものだった。

 斎藤は皆に声をかけ、脱出の準備をした。

「夜明けと共に、全員で此処を脱出する。御堂の玄関に集まれ。此処から南南東に突き進む」

 部下達は、驚いた。玄関に一度出れば、目前に敵陣が構えている。

「組長、私が表に出ます故、どうか御堂の裏にお周り下さい」

 斎藤は、土間に降り立ち、もう一度指示をした。

「土塁の裏には誰も行かぬ。玄関から参る。巳の方に走り抜けよ。全員でだ。皆、抜刀せよ」

 斎藤は、国重を抜いた。青白く輝く刀身を見て、皆が驚き息を呑んだ。

 傍らに佇む怪我を負った見知らぬ男が、斎藤から国重を受け取った。

「この者は池田長兵衛。我々と共に戦う者である。この者について皆でここを出る。南南東に向かい、城下の幕府軍衝鋒隊に合流する」

 皆は土間に集まった。御堂の外は白やみ、数間の先に敵部隊が待機している。入り口を開けた瞬間が肝要。斎藤は千鶴を一番後方に下がらせた。隊士達は千鶴を取り囲む様に待機し頷いた。千鶴は荷物を抱えて斎藤に頷き返した。

 斎藤が池田に頷くと、池田は輝く国重を持ったまま皆に背を向けて、御堂の扉に手をかけた。背後の斎藤に向かい。

「主、打刀の鞘には、厳島大権現の護摩札が内側に貼られて居ります。決して身から放さぬよう」

そう言って扉を開け放ち、一歩外に出た。そして腕を伸ばし、国重を水平に高く掲げた。

「高天原にめまします天照大神、いざやかしこみ結いでさせ給え乞い願ぎまつらく申す……」

 池田が佇む向こうに、敵兵が銃を構える姿が見えた。斎藤は咄嗟に池田を庇おうと前に走った。その瞬間。

「顕成哉」

 池田がそう叫び、地面に刀剣を突き刺した。

 敵陣の発砲の音と共に、刀剣が刺さった地面から、眩しい光が放たれ、そのまま辺りは無音になった。真っ白な宙は霧に包まれた様になり、その向こうに敵陣がゆっくりと動いている姿が見えた。

「主、さあ、この光の道の上を走られよ。日輪が昇りきるまでに早く」

 斎藤達は一気に駆け出した。まるで結界が張られたかのように、光の道は敵も大砲も攻めて来ない。霧の向こうに見える敵は、奇妙に動きが止まってしまっているかの様にゆっくりと波打つように見えた。

 斎藤は一歩踏み出す度に全身が焼かれる様に熱く、足には炎が付いている様に感じた。隊士達に先に走るように叫ぶと、千鶴が「斎藤さん」と叫び呼ぶ声が聞こえた。

「構うな、走れ」

 叫び返す喉も焼け付くようで、自分の吐く息と一緒に炎が出ているのが見えた。斎藤は自分が羅刹に変幻している事を自覚した。そして、全身を巡る羅刹の毒が日輪の光に焼かれてしまっている事を。熱い、光が己身を焼き尽くす。それでも、斎藤はひたすらに足を動かした。走らねば。
心の臓に手をやった。ずっと万力で掴まれ潰されていくかの如く、激痛が続く場所にも真っ黒な炎が渦巻いていた。

 斎藤は、前を見た。千鶴が泣き叫ぶ姿。大丈夫だ。大事はない。そう伝えたいが声が出ぬ。斎藤は右手で腰の鞘を握った。冷んやりとした感触で幾らか灼熱が緩いだ気がした。足を前に、前に。宙を眺め、唯ひたすらに前に進もうとしたが、もう目を開けて居るのかも己がどこを見ているのかも定かでなくなって来た。

 その時、背後から池田が走って来た。うずくまる斎藤を助け起こし、肩に手を掛けて前に進んだ。千鶴が泣き顔で引き返し、斎藤に駆け寄った。日輪の光が消えかかって来た。もう時は無い。

 池田は斎藤を地面に降ろした。全身が炎に包まれた斎藤は、銀色の髪に真っ赤な瞳で、左腕を伸ばし千鶴に先に行けと言っているようだった。池田は、国重を斎藤に翳すと、再び祝詞を唱えた。其れから刀身を口に含み離した瞬間、青い霧が刀身と池田の口から立ち上がった。冷たい青い息はそのまま斎藤の全身に降りかかった。炎が消えて、斎藤は再び息を吹き返した様に見えた。池田は斎藤の身体を助け起こすと、千鶴と一緒にまた走り始めた。

 真っ白な日輪の光がだんだんと陽の光に溶け込み、斎藤達の走る周りの景色がいつの間にか緑の森の様な場所になっているのに気がついた。さっきまで無音だった辺りは、樹々の風にそよぐ音と一緒に、自分達の踏みしめる地面も光の上ではなく土に変わっていた。森はそのまま建屋のみえる場所に繋がっていた。先頭を走って居た隊士が叫んだ。

「会津の旗だ。組長、城下の陣が見えます」

 皆の足取りは一気に早まった。斎藤は、己が身を引き摺る様に走りながら、全員で会津藩の陣に合流出来た事に安堵した。森は城下の阿弥陀寺の境内に繋がっていた。会津藩の陣が張られ、斎藤達は合流を許された。斎藤は境内の木陰で千鶴に介抱された。「大事はない」といくら伝えても、千鶴は首を振って大きな瞳からポロポロと涙を流していた。池田は、斎藤の安否を確認すると、ゆっくりと国重を斎藤の腰の鞘に納めた。千鶴は、池田を振り仰いで、「有難う御座いました。池田さま、今お手当てを」と笑顔をみせたが、もうその瞬間には、池田の姿は見えなくなって居た。

 斎藤は、キョロキョロと辺りを見回す千鶴の手を握った。

「池田殿は、我等と共に戦って居られる。また相見える事もあろう」

 そう言って斎藤は右手を腰の愛刀にかけた。国重はいつもの様に共鳴した。

 この後、斎藤達は阿弥陀寺から長命寺の本陣へ移り、新政府軍の城攻めを防御した。斎藤達の戦いぶりは鬼神の如く。新政府軍は激戦となった甲賀町口門跡で背後から斎藤達に攻められ一進一退を繰り返し、砲撃戦へと攻撃を変えて行った。砲台を城の背後の山に備え。最新型の大砲が一気に集中砲火を始めた。

 如来堂の夜から、約二十日後の、九月二十二日に会津藩は降伏宣言をした。斎藤達は、塩川に連行され新政府軍の沙汰が下るまで謹慎となった。千鶴は、身柄を会津藩主松平容保公の姉君、照姫に保護された。照姫は会津妙國寺での謹慎蟄居となり、千鶴は照姫の元で会津に留まることが決まった。塩川の斎藤達は帯刀を許されず、武器弾薬は全て没収。斎藤は予め、妙國寺に移る千鶴に、愛刀の国重と脇差を預けた。

 千鶴はどうやって持って居たのか、京で斎藤が買い与えた真っ白な絹の布地を手に拡げて斎藤から刀を受け取った。大切そうにそっと刀を包むと、泣き顔のまま笑顔を見せた。

「千鶴を宜しく頼む」

 斎藤は、鬼神丸国重に千鶴を託した。焼け野原で全てが灰色の中、千鶴の抱える刀は真っ白な絹の布地に輝く様に浮かんだ。髪をなびかせる千鶴の笑顔。斎藤は、手を伸ばして千鶴を引き寄せると、思い切り強く抱き締めた。

 生きて、生きて必ず。

 斎藤は、千鶴に必ず生きて再び会おうと誓った。



****

明治二年一月 越後高田へ

 会津での敗戦から数ヶ月の後、年が明け塩川から越後へ移動する事になった。凍えながら高田藩榊原家に移った斎藤達は、座敷牢の様な部屋に会津藩士達と共に留められ、監視付きで暮らした。

 塩川にいる間は、時折妙國寺の千鶴から文が届くこともあった。謹慎中の照姫は、気丈に鶴ヶ城の明け渡し後の残務処理に忙しく、千鶴は姫付きの従女として身柄は守られ、無事でいた。文の後半はいつも、ちゃんと食事を摂れているか、眠れているか、無理をしていないか、と斎藤を気遣う質問で埋め尽くされていた。五回に一度、返信を送ることを許された斎藤は、元三番組隊士と共に、沙汰が下るのを待っている。大事はない、と簡潔な文を送った。

 越後高田へ移動になってからは、斎藤は会津の千鶴の元へ安否を報せる事も出来ずにいた。江戸に謹慎蟄居となった松平容保公への御沙汰は厳しいものであったと高田藩の役人より伝え聞いた。松平家お取り潰し。新政府軍の会津藩への処分は更に厳しいものになるであろう。斎藤は覚悟を決めた。

 榊原家では、日中に藩邸の蔵の中へ斎藤達は連れて行かれ、米俵や塩、炭などの運び込みなど、人足作業をさせられた。最低限の食事で極寒の中、長い夜は疲労とひもじさで眠りも浅かった。隊士達と身を寄せ合って、暖をとっていたある夜。斎藤は眠れずに、身を起こして、座敷牢の明り採りの窓から、雪に映った月明かりが射し込むのを見詰めていた。ふとした瞬間に、ひと気を感じて傍らを見ると、其処には池田長兵衛の姿が見えた。

 青白く輝く様に輪郭が浮かぶその姿は、如来堂に顕現した時と同じであった。斎藤は、飢えと寒さで幻影が見えるのだと取り合わなかった。そして手許にない国重を思った。池田は、斎藤に向かい膝をついて一礼すると、

「主、御無事で何より」

「千鶴様より、此れを」

 そう言って、懐から文を取り出し床に置くと、

「近いうちに、この地へ参り、また再び……」

 そう言いながら、その姿は段々と薄くなり、宙に消えてしまった。瞬きをする内に起きた一瞬の出来事だった。斎藤は、夢だと思ったが、池田が消えた床には文と黒い風呂敷包が置いてあった。

 文を手に取ると。【山口二郎様】と千鶴の手跡で書かれていた。

 御無事で居られる事をひたすら願っており候
 近く妙國寺での謹慎が解かれ、照姫様は江戸に向かわれます
 私はご城下で高木様の御息女と共に待機することになりました。
 綿入れと足袋を皆様に
 会津藩への御沙汰が下れば、必ずお近くに参ります
 早くお会いできますよう
 千鶴

 風呂敷には、綿を打った背当てと足袋が入っていた。足袋と背当ての内側に紅花で染めた絹が張ってあった。冬の間に千鶴が染めたもので、身の毒を吸い取り身体を温める働きがあると一緒に入っていた紙に書かれていた。風呂敷包を抱えると、仄かに千鶴の香りがした。斎藤はそのまま包みを抱きしめて朝まで眠った。

 翌朝、監視の目を避けて、背当てと足袋を部下に配った。皆、喜んで身に付け。温かい、天地の差があると驚き、斎藤に感謝した。斎藤は千鶴に返信を送るにはどうすれば良いか考えあぐねた。越後に移ると文に書いてあったが、高田藩領に来るのか。斎藤は、ずっと待ち侘びた。

 暖かくなるにつれ、座敷牢の監視係ともう打ち解け、榊原家の主人も謹慎する斎藤達に同情的で、昼間は木刀を使っての剣術稽古や、藩邸の庭に出ることも許されるようになった。朝から雨が降りしきる、五月の終わり。日々の作業に勤しむ斎藤のもとに、北に向かった土方達が蝦夷の地で新政府軍に敗れたという報せがあった。斎藤は土方戦死の報告に耳を疑った。高田藩での足留めで、幕府軍へ再び合流する事も叶わず。斎藤は改めて敗戦の苦渋を味わった。

 謹慎蟄居の身では、季節の移り変わりは作業をする土蔵の窓から見上げる空や、庭木の様子で感じるだけだった。陽の光を避けるのは変わらぬ。そうして短い夏が過ぎ、秋が訪れ、再び寒い冬がやってきた。ある朝、斎藤達は広間に集められ、高田藩家老より東京で謹慎蟄居の身となっている藩主松平容保公の家名存続が新政府より許されたと報告があった。詔書が読み上げられ、晴れて容保公の逆賊の汚名は返上された。会津藩士たちは、涙を堪えて斗南藩への国替えの沙汰を耳にした。

 越後高田へ移って一年が過ぎた頃、窓からの雪明りで明るい晩、斎藤はまた眠れずに独り牢の壁にもたれていた。斎藤は千鶴がもう既に会津を出て、近くに来ている予感がした。

 ふと目の前が明るくなり、池田長兵衛が現れた。髪をスッキリと結い上げ、着物も袴も新調したかのように随分と立派な様子で、腰には国重を差し堂々と佇む姿に斎藤は驚いた。

「主、長い間の無沙汰をお許しください」

 そう言って、膝をついて一礼をすると、腰の打刀を斎藤に差し出した。斎藤は、国重を受け取ると、柄に手を掛けて刀身を抜いた。如来堂の夜の様に、明るい光を放った刀身は眩しく、斎藤は周りの者や、監視を起こしてしまうかと慌てた。しかし、斎藤が周りを見回すと、其処には元隊士も会津藩士の姿はなく、牢の監視もいつの間にか居なくなっていた。そして、もう斎藤の立って居る場所は牢ではなく、ただの白い空間になって居た。

「今宵は、お連れする事が叶いました」

 池田がそう言って、微笑んだ背後に千鶴が立っていた。

 笑顔で斎藤に駆け出して来た千鶴は、そのまま斎藤の腕の中に飛び込んだ。斎藤は、驚きながらも千鶴を傷つけないよう国重の刀身を出来るだけ離して持ちながら、右手で千鶴を抱きしめた。そして胸に顔を埋めたまま涙を流す千鶴の髪を撫でた。我慢出来なくなって、斎藤は国重を手放し、両手で力強く千鶴を抱き締めた。

 長い抱擁の後、ようやく千鶴は顔を上げて斎藤を見詰めた。笑顔をみせて、越後にやっと来られた、斎藤さんのおそばにずっと居たい。そう言って斎藤の胸に再び頰を寄せた。斎藤は、千鶴の髪を撫でて、頰の涙を親指で拭ってやった。それから、顎に手をやって上を向かせその愛らしい唇に口付けた。それから千鶴を姫抱きにすると、そのまま胡座をかいて座り、千鶴を膝に載せた。長い髪を下ろし、女物の着物、桜色の頰に口許に薄っすらと紅を差した千鶴は美しく、逢えなかった日々を斎藤は心の底から悔やんだ。

 千鶴は、斎藤の手を握って、その骨張った指が少し細くなっている事、斎藤の頰も痩けて、少し痩せてしまっている事に心が痛んだ。榊原家での謹慎生活がさぞかし苛酷なものだろうと推測した。千鶴は笑顔で、会津の花豆を持って来た。今朝炊いたからと言うと、風呂敷包を抱えて、また斎藤の膝の上に戻って来た。

「照姫様は、江戸に戻られる時に、沢山の物資をお寺と私達に残して行かれました」

「お砂糖や糖蜜も。住職様が越後に移る私達に、沢山の食料をもたせてくださいました。斎藤さん、さあ、召し上がってください」

 そう言って、煮豆の入った木の器を斎藤に差し出した。

 斎藤は、甘い花豆を腹一杯食べた。この様な満腹感は久しく感じていなかった。身体が温まり、力がみなぎった。千鶴は嬉しそうに笑って、「次はもっと沢山作って来ますね」と言って、懐紙を取り出すと斎藤の口許をそっと拭いた。

「この様に美味い豆は産まれて初めて食べた」

 そう言って、千鶴のこめかみに口付けた。いつ迄もこうしていたい。謹慎生活は苦では無いが、千鶴を手離すのはもう嫌だと心底思った。

「斎藤さん、ここへは池田様が連れて来てくださいました」

 斎藤は、それを聴くと顔を上げて、池田を見たが。其処に池田の姿はなかった。自分の隣には、いつの間にか鞘に収められた国重が置いてあった。

「満月の夜に。こうして会えると」

 千鶴は、嬉しそうに国重を眺めながら話す。

「妙國寺で、私が小太刀と一緒に斎藤さんの国重の手入れをした時に、池田様が現れて」

「沢山お話しをして下さいました」

「古の神様のお話し、長兵衛様は【いちきしまひめ】の分祠だと」

「宗方三女神のお話しは、むかし書物で読んだ事がありました」

「天羽々斬(あまはのつるぎ)です。天照大御神が劔を口に咥えて、そこから霧が出て三人の女神が産まれました。とても勇敢な神様たち」

「池田様は如来堂の時も、国重を咥えて出た青い霧で。羅刹の炎を消しました」

 斎藤は、それを聴いて驚いた。日輪の道で己身が焼け苦しんだ事は記憶があるが、視界は閉ざされたまま、気付けば阿弥陀寺で横たわっていた。池田の助けが無ければ、今こうして自分が生きている事も無かった。斎藤は、国重を手に取って池田に感謝した。千鶴は、国重を眺めながら、

「斎藤さん、あのときの池田様は、天照大御神のようでした。斎藤さんの刀は【あまはのつるぎ】ですね」千鶴はそう言って笑う。

「スサノオが八岐大蛇を退治した剣だ」

 千鶴が笑顔で話すのを、見ながら斎藤が続けた。

「大蛇の尻尾にあった、何かに刃が当たり欠けた。スサノオは、尻尾を水平に切るとそこには立派な太刀があった。草薙剣だ」

「俺は、幼き時にスサノオの絵双紙を好んでいたそうだ」

「私も大好きです。乱暴者ですが、とても勇敢で」

 斎藤が刀を大好きなのは小さい時から。以前にも斎藤から聞いていた千鶴は、そんな斎藤の元へ現れた池田には何か深い縁があったのだろうと思った。そして、池田が斎藤を守り、こうして自分をまた斎藤に逢わせてくれた。千鶴は、池田に心から感謝をした。

「暁まで」

 千鶴は静かにそう言うと、斎藤の胸に頰を寄せた。

「次の満月にまた逢いに来ます。次はもっと沢山お召しあがりになれるものを」

 そう言って、斎藤の手を握った。

「ああ」

 斎藤は、腕の中の千鶴の温もりをかき抱く様に強く抱きしめた。何も話さずに、ずっと。

 傍らの国重の刀身が明るく輝き始めた。斎藤は、千鶴に深く口付けると、立ち上がり刀身を抜いた。青く光る輝きの向こうに再び池田が現れた。

「池田殿、礼に尽くしがたい。感謝する」

 斎藤はそう言うと、池田に一礼した。

「千鶴を頼む」

 そう言って、刀身を鞘に納めると国重を池田に預けた。そしてまた一度千鶴を強く抱きしめた。

 千鶴は名残惜しそうに、斎藤の手を離さなかった。だんだんと、白い霧が晴れていく様に、千鶴の姿は池田と共に消えて行った。周りの景色が戻ると、もう夜明けで隊士達がそろそろ起き出していた。

 次の満月を心待ちにしながら、斎藤は日々を過ごした。千鶴との逢瀬は、四月に再び叶った。雪解けも進み、越後に暖かい春がやって来た。沢山の食料を用意した千鶴は、斎藤が食べるのを満足そうに眺めた。ただ膝に千鶴を載せて他愛のない話をするひと時を斎藤は楽しんだ。

 次の満月は五月の終わり。ある日、作業を中止され斎藤達は大広間に集められた。高田藩の役人より、会津藩への新政府の沙汰が下りたと説明があった。越後高田で謹慎中の者は、北の陸奥国斗南に移る事が決定された。同時に、江戸から東京へと改称されていた地から斎藤へ文が届いた。容保公に付き添い江戸に駐在していた参事の山川浩と倉沢平治右衛門の連名で書かれた文には、斎藤に是非会津藩士として斗南に移るよう申し出があり、藩の大番格として手厚く迎え入れるように容保公から直に要請があったと綴られていた。斎藤の身元は部下と共に保証され、新政府への投降の必要はないとも書かれていた。倉沢は京都守護職の公用方で京に居た頃より斎藤は面識があった。

 ——貴殿を会津藩士として附籍致し候

容保公が元より、倉沢氏がここまで心に留め置いてくれたことが有難かった。

 それから間もなく、満月の夜に現れた千鶴は、一緒に斗南に赴くと喜んだ。縁も所縁もない土地。越後より更に極寒であろう。それでも、二人で一緒に居られれば。それだけで十分過ぎるぐらいに十分だと、千鶴は笑う。斎藤は、腕の中の千鶴を、愛おしいそうに眺めた。

 誠義の為に。斎藤は国重を手に取り決心をした。会津藩士として生きて行こう。微衷を尽くす事が、己が生きる道。

(そうであろう)

 斎藤は、国重を眺めた。

 掌の中で池田鬼神丸国重は強く共鳴した。そして心の中に、池田の声が響いた。

 「はい、我は主と共に」




 

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