居候
斗南にて その2
明治三年六月
会津での敗戦を迎えてから一年以上が過ぎた。
越後高田での謹慎を解かれ、高田港を発った斎藤と千鶴は、旧会津藩士と共に野辺地の港へ降り立った。六月なのに、まだ根雪が解け切らずに残っている海岸線。強風が吹きすさぶ中、荷物を抱えて眺めた斗南の地には灰色の風景が広がる。そこに春を過ぎた様子は一切見えなかった。海風から千鶴を庇うように隣を歩く斎藤は、大きな敷石を跨ぐ千鶴の為に右手を差し出した。千鶴はその手を取った。微笑むように自分を見守る斎藤の横顔を見て千鶴も自然と頬が綻んだ。斎藤さんと暮らす新天地。目の前の風景とは反対に、胸の中から暖かくなる。千鶴は幸せだった。強風の中を斎藤達一向は半日歩いて野辺地から田名部に移動し、円通寺に一泊して身体を休めた。
その後続々と陸路を通って斗南入りした会津藩士たちも増えて、田名部も遅い夏を迎えた。開墾を奨励する藩政に従い、多くの藩士たちは北の荒涼とした土地の開拓に取り掛かった。
斎藤は藩邸から山辺に入った場所にある古い小さな家に暮らす事になった。越後高田から共に移った元新選組隊士たちと、勿論千鶴も一緒である。建屋は陸奥の国によく見られる直家で、玄関には庇がかかり雪を落とす造りになっていた。入り口の土間は広く、炊事場とそのまま奥に風呂釜が設えられていた。小さな囲炉裏端があり、その奥に六畳一間。この家で隊士四名と斎藤と千鶴の六人で寝起きすることになった。大番係りとして働く斎藤は、毎日藩邸に向かい、隊士たちは開墾先を見廻る。斎藤達を毎朝送り出した千鶴は、日中は洗濯や炊事をして、夕方に戻る皆を迎えて世話をした。
斎藤には家禄が下りることが約束されていた。直家は村落の家主から借り受けているもので、藩より支給された五十両から家賃を払うことになっていた。それ以外は、新政府から手配された支給米の配給を受けていた。食料と支給された現金で、部下を含め六人の所帯をやり繰りする必要があった。千鶴は、僅かな米と、近隣の畑で育った野菜に野山で摘んだ茸や山菜で献立を考える。それは京の屯所で、少ない食材の量を増やして満足感が出るように工夫していた千鶴にとって、決して困難なことではなかった。長い戦と謹慎生活を経て、やっと斎藤と千鶴は共に暮らすことが出来るようになった。
平和で穏やかな毎日。 夕方に斎藤達が無事に戻ると、夕餉を囲み語らって夜更けに休む。奥の間では、古い小さな衝立で千鶴の横になる場所は間地切られていた。夏でも夜間は涼しい斗南。斎藤の部下は、月明かりの射す囲炉裏端で、白湯を飲みながら語らって夜を過ごす。翌朝、早くに目覚めた千鶴は、板の間で布団に包まって雑魚寝する部下たちを、起こさないようにそっと土間に下りて、朝の仕度を始めた。屯所での生活が戻ったように楽しい。
千鶴は、朝に玄関の外に出て、藩邸に向かって出かけて行く斎藤と部下を送り出し、洗濯を終えてから陽が高くならない内に、山へ山菜摘みに向かうのが日課になっていた。
斗南の山はヒバの木が多い。中にはそびえ立つように高く伸びた林があって、その中を抜けてどんどんと山の奥深くまで入っていく。山菜は、多く摘めるわけではないが、一通り林を抜けるまで探してから、隣の村落との境にある崖の所まで出る。いつもの休憩場所。そこは滝がある気持ちのいい場所だった。千鶴は、そこで持って来たおむすびを取り出して食べて、滝の脇にある湧き水を竹水筒に汲んで帰った。
——清涼な水を斎藤さんに飲んで貰う。
斎藤の羅刹の発作を防ぐ為。千鶴は越後高田を出てから、ずっと一緒にいる斎藤が時折羅刹の発作に苦しむ姿を目にしていた。少しでも清涼な水で、羅刹の毒を中和できるようにと願っていた。部下の話では、長時間陽の光の中に居ると、気を失ってしまう時もあり、藩邸で一番奥にある部屋で休むようになっているらしい。千鶴は、一緒に暮らす斎藤の部下から、必ず斎藤の日中の様子を知らせて貰うように頼んでいた。そして、発作が起きた日は、帰宅した斎藤に自分の血を飲んで貰うようにした。斎藤は、吸血するのを嫌がった。千鶴は部下の居ない時を見計らって、自分から耳朶に傷をつけて、斎藤の肩に掴まってそっと血を啜って貰う。いつも遠慮がちに斎藤は瞳を伏せて千鶴の耳に唇をつけた。斎藤の呼吸が落ち着くのを傍に感じて千鶴は安堵した。斎藤は千鶴の気遣いに感謝しながらも、身体に起きる目まぐるしい変化に気を取られていた。苦痛からの開放。それと同時に身体が軽くなり全身が温かさに包まれる。それまでの灰色の風景が、真っ白な輝く光に溶けていくように。なんとも言えない多幸感が訪れる。千鶴の身体に回した腕に思わず力が入る。
傷が塞がった後も、決して千鶴は自分の腕の中から身を離そうとしない。至福のひととき。
斎藤はゆっくりと千鶴の首元から顔を離した。優しく微笑むような千鶴の表情が己の後ろめたさを打ち消してくれる。ありがたい。心の底から感謝する。だからこそ、これ以上は。そう思いながら身を離した。胸のあたりが締め付けられる。雪村、ありがとう。本当に済まない。
「すまない」
「直ぐに夕餉の仕度をしますね。今夜は、茸の御鍋です」
自分の謝罪に笑顔でそう言った千鶴は、台所に向かって炊事を再開した。
*******
栗山の滝
「雪村君、村の見廻りで聞いた。いつも栗山の滝の上まで登っているって」
夕餉の時に、斎藤の部下の吉田俊太郎が千鶴に訊ねた。千鶴が山菜取りに向かう栗山は、家から一番近い山だが、滝の上は山の一番奥にありその向こうは村境である。
「来月には雪が降って、滝の上までは行けなくなるそうです」
「炭炊きしか、あの山には入らない」
「雪深いのは会津と変わらねども」
北国出身の部下も声を揃えて、山に入るのは気をつけろと千鶴に注意した。千鶴は、初雪が降るまでに出来る限り沢山の山菜を集めて、保存食を作ろうと思っていた。このままお米の支給がないままだったら猶更、食料は必要になる。千鶴は、心配する隊士たちに「気をつけます。ありがとうございます」と返事して、給仕し続けた。
十月に入って間もなく、初雪が降った。斗南の秋は実りの乏しいもので、雪と共にやってきた厳しい寒さは会津藩士たちにも堪えた。千鶴は、道がある間は栗山に入り、清涼な湧き水を汲みに出掛けた。月が改まり、本格的に根雪となる雪がどっかりと降った。千鶴は真っ白な風景を眺めて、寒さは厳しいけれど、新雪は本当に綺麗だと言って喜んだ。
藩邸から戻った斎藤がずっと静かに考えこんでいる夕方。千鶴は、そっと囲炉裏で白湯を沸かしがてら、炭を起こした。
「どうされました」
「お疲れの様子です。今夜は早めにお休みになってください」
白湯の入った湯飲みを差し出しながら心配そうに自分を見詰める千鶴に、斎藤は「藩の支給米が底をついておる」と呟いた。今、家にある米一俵で暫くは凌がなければならない。斎藤の表情は陰ったままで、心配そうに炊事場や土間の食糧庫を眺めた。
「食べるものは心配なさらないでください」
「夏の間に準備しておいた保存食があります」
「お米の代わりになるものも」
千鶴は立ち上がると、食糧庫としてつかっている木箱から芋蔓の干したものや、蕎麦や大麦を土間の上り口に並べて見せた。
「栗山の向こうの村落には、市が立つそうです。あちらは野辺地からの行商も通るので物資も出回っていると聞きました」
「本格的に雪が積もって通れなくなる前に、わたし行ってまいります」
「大丈夫です。斎藤さん」
「わたし、決して皆さんにひもじい思いはさせません」
——土方さんと約束しましたから。
鬼は決して約束を違えません。
気づくと、千鶴は小鼻を膨らませて土間に背筋を伸ばして立っていた。小さな千鶴が奮起してそう宣言する様子は、少し滑稽で斎藤は思わず笑いが込み上げた。
「何が可笑しいんです?」
千鶴はきょとんとした顔をして土間から斎藤を見上げる。斎藤は右手の甲を口元に持っていき肩を震わせている。さっきまでのどこか哀しそうな表情が消えていた。千鶴は嬉しくなった。
「雪村にばかり、苦労はさせておれん」
「俺も、手下の者と一緒に近隣の村落をまわって食い物を確保せねばな」
斎藤も土間に下りて、二人で食糧の確認と整理をした。越後高田から持ち寄った物資が有難い事にこの家には豊富にあった。千鶴は、押し入れの奥から自分の行李を取り出して、着物や帯を取り出した。敗戦の後、会津で謹慎している千鶴に八瀬の千姫が物資を送ってくれていた。高価な反物で作られた着物や帯。必要であればこれを売ってお金にすればいいと文に書かれてあった。千鶴はお千の気遣いに感謝した。そして、今こそ、その時だと思った。風呂敷に着物と帯を畳んで、その夜は早く床に入って休んだ。
(明日は、山向こうの村に行こう。沢山食糧を持ち帰って冬に備えないと)
千鶴は、翌朝斎藤たちを送り出すと、早速荷物を持って栗山の山道に入って行った。山道は雪かきがされていて、容易に登っていくことが出来た。千鶴は山越えをする自信があった。夏の終わりに、滝のある崖を駆け下りたことがあった。この事は、斎藤にも、斎藤の部下にも、近所の知り合いにも誰にも知られてはいない。千鶴の秘密。それは偶然に見つけた、最短で隣村に行くことの出来る道程。滝のある崖をそのまま天辺から降りて行く。絶壁にほぼ近い岩の壁に突き出ている岩の上を、岩から岩に飛び降りて。岩と岩の間は、広い所で一軒はある。それを難なく飛び降りる事が出来る。それは自らは気づかぬ内に発揮された鬼の力。
素早く自分の足を下ろす場所を察知して、飛び上がる。岩の上に着地して、次の岩を目指す。千鶴は気づいていない、自分の瞳が金色に輝き、その黒髪が銀色に輝いていることも。
普通、山道に慣れている者でも一刻はかかる道筋を、千鶴は崖を駆け下りる事で、半刻もかからずに隣村に着くことが出来た。物資の乏しい田名部と比べると、色とりどりの食材や物品が出回っている隣村の市は眩しいぐらいだった。千鶴は上絹の着物と帯を売って、買えるだけの食材を買って背中に担いだ。まだ昼過ぎ。急いで向かえば夕餉の仕度には十分に間に合う。千鶴は山道に踏み入って行った。斎藤の好物の凍り豆腐を沢山買えたのが嬉しくて、早く家に帰りたくて堪らない。胸に抱えているのは、濁り酒の瓶。お酒好きな部下が揃っている家で、たまには晩酌も必要だろう。大変な日々を過ごされたのだから。
——やっと、皆さん落ち着かれたのだから。
千鶴は気が付くと、滝つぼの麓に向かって急ぎ足で歩いていた。飛び降りる事が出来た崖を登ることは到底無理。それなのに、千鶴は物資を入手出来た悦びで、そんな事を一切考えることもなかった。岩に足を掛けると、思い切り飛び上がった。自分でも気づかない内に、どんどんと岩から岩へ飛び登っていく。大切に抱えた酒瓶。気持ちがいい。雪の上を踏みしめて次から次へ。その時だった、ふと何かが岩に当たる音がした。振り返った瞬間、自分の髪の毛が解かれて下におりて広がった。白銀の髪は白い雪の光を跳ね返す。
あ、私の櫛が。
そう思った時には、視界から小さな櫛が滝つぼの中に落ちて行くのが見えた。千鶴は、大急ぎで岩を反対側に飛び越えて降りて行った。丁度滝の途中の岩の上に櫛がひっかかている。千鶴は、思い切って大きな岩場に飛び移ると、荷物を下ろした。そして、岩の縁に立って、一歩滝に向かって踏み出した。
*****
吉田俊太郎の災難
斎藤が田名部から野辺地までを見廻りしていた午後、部下の高田文二郎が血相を変えて走って来た。
「組長、大変です」
大声で叫ぶ高田は、「雪村くんが、山で溺れて」と身振り手振りで斎藤に知らせた。斎藤は、そのまま千鶴が家に運び込まれたと聞いて、一目散に家に向かって走って行った。
直家には既に近隣に住まう者たちが集まっていた。斎藤が掛けつけると。奥の間の布団の上に千鶴は寝かせられていた。髪の毛は濡れたままで隣に住まう、おたねが一生懸命手拭で水分を拭きとっている。
「栗山の滝つぼに落ちたところを、権兵衛が見つけて」
「なんとか引き上げて」
斎藤が見た時、千鶴の顔は血の気を完全に失っていた。真っ白な顔に、唇は紫色を通り越して青くなっている。斎藤は頬と首を触ってみた。体温が下がりすぎている。
「湯を沸かせ。酒瓶に入れて温める」
部下にそう伝えると、上着を脱ぎ始めた。制服を脱ぎ、下着だけになった斎藤は千鶴の布団の中に入った。おたねに向かって、「医者をお願いします」と頼んだ斎藤は千鶴を布団の中で抱きしめて、肩や胸を擦り始めた。部下の吉田が湯を入れた酒瓶を持ってくると、斎藤はそれを厚布で包んで千鶴の足元に入れるように指示した。
「お前も、服を脱げ」
斎藤に言われた吉田は、制服を脱ぎ始めた。
その時だった、玄関から村の若衆が駆け込んできて医者が昨日から出払っていて来るのは明日だと云う。それを聞いた皆がざわざわと騒ぎだした。斎藤は集まっている者に礼を言って、静かにして貰うように頼んだ。
「吉田、反対側にお前も入れ。雪村の背中に身をつけて温めろ」
吉田は、斎藤の指示に驚いた。危急なのはわかる。わかるが。雪村君の床に下着だけで入るなど。それも、身をつけて温めるなど。俺は出来ん。
「はよ、せぬか」
斎藤の怒った声が響く。ええい、ままよ。吉田は目を瞑って布団の中に入った。冷たい。氷みたいだ。雪村君。ここまで冷たくなってるって、もう駄目なんじゃ……。そう思った時。
「手を伸ばして、身を擦れ。摩擦で温めろ」
「高田、布団、着物、なんでもよい上に掛けてくれ」
斎藤の指示は的確だった。上に着物が一枚かかるだけで、吉田の身の温かさが増した。それでも、隣で動かない千鶴の蒼白な顔を見ていると、完全に身体の芯から冷え切っていて、体中の血が凍ってしまっているのではと思う。
斎藤は、ずっと自分の体温を千鶴に移すように擦り続けていたが、千鶴の着ている着物が濡れている事に気づいた。濡れた着物のままか。斎藤は身体を起こすと、千鶴を腕に抱えて腰ひもを解いた。襦袢を開いた時、思わず隣で布団の中に居た吉田は飛び上がって布団からでて背中を向けた。腕で眼を覆うようにして、ずっと壁に向かって謝っている。
「すみません、組長。雪村さん、私は見ていませんから」
斎藤は、千鶴の下着を全て取り払った。直肌は凍るように冷たい。千鶴を布団に寝かせると、乾いた手拭で心の臓の上を擦った。合間に自分の下着もとって行った。下帯一枚になって横たわる千鶴を抱きしめて布団の中に潜った。自分の体温で絶対に血行を戻す。斎藤は千鶴の肩や腕をさすり続けた。
「何をしておる。お前も下着をとってそっちから温めろ」
静かな声だが、厳しい響きで指示をされた吉田は背中を向けたまま振り返った。組長と雪村くんが抱き合う布団に自分がどうして入ることが出来よう。これは拷問だ。はやくしろと叱責の声がしてくる。吉田は泣きそうになりながら、下着をとった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
吉田は目を瞑ったまま手を併せて、「お許しください、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら布団に潜り込んだ。
「お前の体温を雪村に移せ。そうだ」
斎藤の囁くような声がする。吉田はどうしようもなかった。南無阿弥陀仏。神様仏様。なんとかお助けください。雪村君を。そして自分も……。
それから、高田が何度目かの酒瓶の替えを布団に運び込んだ時、ようやく千鶴の唇に血の気の色が戻って来た。心なしか、首筋や胸に体温が戻ってきていた。斎藤はそれでもずっと千鶴の身体が温まるまで擦り続けた。吉田は身体を固くしたまま。人間湯たんぽで居る事に徹した。目をぎゅっと瞑って。決して目の前の光景を目にしないようにした。千鶴の手の先まで温かさが戻ったのを確かめると、漸く斎藤は布団から外に出た。下着を着て、吉田にも布団から出るように指示をすると。部屋の外に出るように言った。
部屋の外で待っていた隣屋のおたねに頼んで、千鶴に寝間着を着せてもらうように頼んだ斎藤は、囲炉裏の傍で着替えをする吉田に頭を下げた。
「礼を云う。よくやってくれた」
「体温は戻った。あとは気がついてくれるといい」
吉田は恐縮した。高田が二人に囲炉裏の上の鉄瓶から熱い湯を湯飲みに注いで渡した。
「最初に雪村君を見たのは、山マタギの兵吉さんで」
「崖の岩場から、丹頂が飛び立ったのが見えたと思ったそうです」
「その後に大きなドボンという音がして」
「中腹にある滝壺に、雪村君が落ちてたそうで」
「これです」
「これを握っていたそうです」
高田が斎藤に小さな櫛を手渡した。桜模様のつげ櫛。いつも千鶴は髪を右に纏めて、この櫛を留めている。それにしても、なにゆえ、この雪の中を栗山の滝つぼに落ちるようなことに。
「さっき、その兵吉さんと権兵衛さんが引き揚げてきた、雪村君の荷物です」
そう言って、高田は大きな葛籠と風呂敷包みと酒瓶を斎藤に見せた。
「おそらく、これを山向こうの集落まで出て買って帰る途中だったのでしょう」
「この辺りの者でも、この雪で、一日で山越えは難しいのに」
「それも、あの滝に近づくのは。夏でも危険です」
斎藤は黙ったまま部下の云う事を聞いていた。これだけの食糧を。独りで運んで帰ろうとしていたのか。乾物や豆、当面の食糧になる。そして酒まで。
——決して、皆さんにひもじい思いはさせません。
なんという事だ。米の支給が途絶えたことで。雪村にこれまでの苦労をさせるとは。斎藤は全ての事が身につまされた。そして、部下と一緒に千鶴の荷物を解いて、食糧を仕舞って片付けた。ちょうど、奥の間の戸が開いて中からおたねが出て来た。着替えを終えて、温かく布団の中で千鶴は静かに眠っている。そう斎藤たちに報告した。斎藤は重々におたねに礼を云った。明日、医者を連れてくるからと言って、おたねは帰って行った。
その夜は、部下が食事の支度をした。斎藤は、ずっと千鶴につきっきりで夜中も起きていた。冷える夜だったが、部下たちは斎藤と千鶴に遠慮して囲炉裏端に布団を敷いて横になった。
翌朝、ようやく千鶴が目を覚ました。千鶴は酷く驚いていた。滝つぼに櫛を落として拾いに降りてから記憶がないという。斎藤は、千鶴が手に握っていた櫛を千鶴に渡して安心させた。
「また、斎藤さんが見つけてくださったんですね」
「ありがとうございます」
「わたし、この櫛を失くしてしまってばかり」
「大切な宝物なのに」
千鶴は両手で櫛を持ったまま胸にあてて微笑んだ。斎藤は、滝の傍の岩の上に食糧の入った大きな葛籠と酒瓶があった。そう言って、滝つぼに落ちた千鶴を助けた兵吉と権兵衛の話をした。
「マタギの兵吉さんは、滝つぼに動くものを見て、鉄砲を向けたらしい」
「丹頂が飛び立つように見えたと言っていた」
「ぞっとする。雪村に銃が向けられるなど」
斎藤は黙ってしまった。
「竹水筒は? 竹水筒、わたし忘れてきてしまった」
千鶴は急に起き上がろうとしたが、斎藤が制止した。「水筒はあった」と答えると、千鶴はほっとしたような表情で。「湧き水です。斎藤さん、飲んでください」と手を伸ばして斎藤の手を握った。斎藤は千鶴の小さな手を握り返した。温かい、良かった。あんたが無事で。
「ああ、飲もう。あの湧き水を飲むと生き返った気がする」
そう答えた斎藤の瞳は、優しく千鶴の大きな瞳を見つめ返した。
この二人の様子を木戸の隙間から覗いていた部下四名。そっと木戸から離れて土間に歩いて行った。
「やっぱり。そうですよね」
誰彼ともなく、そう呟いた。残りの三人は大きく頷いている。四人で土間に蹲ったままぼそぼそと話し合った。
「わたしは京に居た時から、そうじゃないかと思ってました」
「なんで、それを先に言わん」
「いや、ずっと一緒でございますから」
「二人が抱きしめ合ってるの。私も見てました」
「長沼宿に宿陣した時」
「俺も見てたよ」
「じゃあ、ずっとそういう仲だったんじゃないですか」
「ああ」
「ああ、って知ってて、そのずっとでございますか」
「なんだ」
「だからです。ここに住まうって事になった時も、どうして高田さんは居座ったんです」
「なんだ、居座ったとは」
「わたしは、てっきり数日寝泊まりさせてもらって、他に移ると思ってましたよ」
「まあな、でも雪村君の飯は美味いし。気心も知れてる」
「組長も何も仰らず、ここは居心地がよい」
「確かにそうですけど」
「わたしら、完全にお邪魔虫ですよね」
「……」
「まあな」
「野暮の。骨頂ですよね」
「でも組長は出ていけとは仰っておらん」
「だからでしょ」
吉田は、囁き声ながらも声を荒げた。
「あんたらは、知らないんだ。裸になって、裸の雪村君と同衾するのが、どんなことか」
「それも組長の目の前で」
「二人が抱き合ってる中に入れって」
「あれは、仕方がない」
「戦と同じだ。命の問題だ」
残りの二人は頷いている。
「わたしは御免ですよ。もう。雪村君と組長に合わす顔がない」
吉田は両手で顔を覆ってしまった。
「俺も思った」
「俺等がここを出て行きさえすれば、組長は身を固められるだろう」
「わたしもそう思った。お二人はもう夫婦みたいなもんだ」
「二人きりでここで暮らせば、旨く収まる」
「で、行く宛てがあるんですか?」
「まあ、今は季節が悪いが、こればかりはなあ」
「藩邸の土蔵にでも間借りするしかあるまい」
「これから、ご家老様に掛け合ってみる」
「食い扶持も自分らで賄うには、それなりの働きをせねばならん」
「そうだ。こんな、雪村君に死ぬ思いをさせてまで、世話を掛ける事もなくなる」
「では、これから朝餉を食べて、藩邸に参ろう。組長は雪村君についておられるだろう」
そう言って四人は、朝餉を食べると藩邸に出勤し、家老に話をつけてその日の内に世話になる家に二名ずつ分散して暮らす事になった。夕方に家に戻った四人は千鶴の無事を確かめると、そのまま奥の間で斎藤と千鶴に別の家で暮らすことになったと挨拶をした。斎藤も千鶴も急な事で驚いたまま。「どうして、急に」と千鶴は引き留めたが、四人は、「私もそろそろ独り立ちしたい」「開墾の仕事につきたい」「見廻りに便利な家を見つけた」などと適当な理由をつけて、断った。
「わたしは、京に居た頃からずっと三番組で組長と雪村君には世話になって来ました」
「お二人が、末永くお幸せに居てくれることを心より願っております」
「わたしも」
「俺もです」
ここまで明確に挨拶をしているのに、斎藤も千鶴も言われている内容を全く理解していないようだった。千鶴は布団から起き出し、羽織を羽織って四人を引き留めた。
「夕餉を一緒に食べていけ」
「わたし、今すぐ用意しますので」
二人で、奥の間からでて台所に立とうとする。四人の部下は、固辞した。
「ですから、お二人で、どうぞごゆっくり」
皆でそう言って斎藤と千鶴を奥の間に押し返しても、二人は言われている事を解していないようだった。結局千鶴は玄関まで斎藤と出て来て、四人を見送った。ずっと手を振っている千鶴の傍に立つ斎藤は、自分の羽織を脱いで、千鶴の背中に掛けている。
「ああやってると、夫婦みたいですね」
「だろ?」
「戦がなければ、江戸で祝言挙げてもおかしくなかった」
そうなんですか。部下の一人が驚きの声をあげた。
「どっちにしろ、俺等はこれで、お邪魔虫ではなくなった」
「組長も身を固められるだろう」
「そうですね」
四人の部下は呑気にそんな事をいいながら山道をそれぞれの家に向かって歩いて行った。
こうして、田名部の山側にある小さな直家は、斎藤と千鶴が二人で住まう家になった。部下たちが願ったように、末永く幸せに暮らすことになる二人だが、この十一月に起きた事件から更に数か月を経て、祝言を挙げるのは翌年の春のこと。
ずっと後になって、部下の高田が溺れて気を失った千鶴を斎藤が裸になって温めた事を話題にした時、斎藤は全くその事を覚えていなかった。不思議な事だが、何度問い詰めても、あの常に冷静沈着な斎藤が、蒼白な顔で布団に横たわった千鶴の姿を見てから翌日までの出来事は、気が動転していて全く記憶にないという。
「目覚めた、千鶴が驚いたような顔をしたのはよく覚えておる。頬が赤らんで」
「俺は生きた心地がした」
そう言って微笑む斎藤を見て、部下の高田は斎藤が身を固めた事を心の底から良かったと思った。
つづく
→次話 斗南にて その3へ
(2019/07/15)