母成峠

母成峠

戊辰一八六八 その21

慶応四年八月

 二本松城陥落を受けて、会津藩は急遽二本松方面の防御線を張る必要が出て来た。既に藩の主要部隊は西側の越後や南側日光口に出兵していて、猪苗代方面への守備兵確保ができなかった。そこで、会津藩軍参謀は若松城下で待機していた大鳥圭介率いる伝習第二大隊に、二本松からの敵の進軍を防ぐよう母成峠への出兵を命じた。八月三日のことである。

 直ちに大鳥は伝習第二大隊を率いて、母成峠に向かい本陣を置き、陣営計画の為の偵察を行った。峠の東側に無数に伸びる間道があることから、大鳥は伝習第二大隊だけで守備陣を張ることは困難だと判断した。一旦、城下に戻った大鳥は、会津藩家老に守備兵が足りないことを訴えた。

「明日、土方さんは一旦ご城下に戻られます」

 福良本陣の夕餉の席で、千鶴は相馬主計から土方が軍議に参加する為に急ぎ若松に戻ると知らされた。千鶴は早朝に出立する土方の為に、フロックコートに火熨斗をかけて、着替えを準備した。翌朝、馬引きと一緒に、相馬と野村が徒歩で街道を上って行った。その後中津に駐在している回天隊との軍議に出る為、斎藤は朝餉を手早く済ませて島田たちと共に出掛けて行った。千鶴は千手院に向かい、陽が暮れるまで病人や怪我人の世話をした。

 斎藤が戻ったのはその日の夜、遅い帰陣だった。斎藤は勝手口で夕餉を済ませ、千鶴に先に風呂を使うようにと指示した。それから、夜半まで島田や安富、各指図掛を集めて話し合いを始めた。

「まだ寝ておらぬのか」

 夜半に斎藤が部屋に戻った時、千鶴は繕い物をしていた。濡れ髪に、無造作にシャツの前を合わせただけの斎藤は、軍議の後に直接風呂場に立ち寄ったようだった。千鶴は、手を止めて、斎藤から上着を受け取って衣文掛にかけた。明け放したままの北側の窓辺に立った斎藤は、背中を向けたまま手拭で髪の毛を拭いている。

「お茶を煎れてきましょうか」

 千鶴が尋ねると、斎藤は水差しに水があれば欲しいと答えた。千鶴は湯飲みに水を注いで差し出した。斎藤は一気に水を飲み干すと、背中を向けてズボンを脱いで寝間着に着替えた。千鶴は、畳に置かれたズボンや靴下を畳んで着物入れに置くと、斎藤の寝間を整えた。斎藤は、北側の窓の外をずっと見詰めている。宿の裏山の林は鬱蒼としていて、ぼんやりと月明かりの広がる雲に覆われた空が見えていた。夜間は冷えるようになってきた。風呂上りの斎藤には冷たい空気が心地いいのか、髪を乾かしがてら涼んでいるようだった。

「土方さんは、三日後にお戻りになられるそうです」
「そうか」
「中津の回天隊は出兵準備を終えている」
「それでは、こちらも?」

 斎藤は頷いた。出陣は近い。千鶴は覚悟を決めた。兵糧は十分に準備出来ている。

「土方さんは仙台で大きな軍隊を構える方が得策だとお考えのようだ」

 斎藤は振り返って千鶴にそう言うと、再び窓の外に顔を向けた。千鶴は、ずっと正座したまま斎藤のことを見ていた。

「会津領内では武器の調達が難しい。越後からの敵の進攻を防ぐ必要もある」
「物資の調達が可能な大きな藩は、米沢、庄内、仙台」
「仙台なら幕府軍が結集し、大きな軍隊を構えることも出来るだろう」

 千鶴は、土方が伝習第一大隊と新選組を率いていずれは会津を発ち更に北へ向かう事になるのだろうと思った。

「だが、その前に中通りから会津を守らねばならん」

 斎藤の声が一際よく響いた気がした。千鶴は、斎藤の顔が見えるように首を伸ばして覗き込んだ。ずっと窓の桟に手を掛けている斎藤の表情は、千鶴からは見えない。

「猪苗代湖西方面の守備を固めて、会津を死守する」

 窓の向こうの暗がりに向かって、斎藤はそう宣言した。千鶴は、「はい」と返事をした。暫くの沈黙の後、斎藤は静かに窓を閉めた。

「今夜はもう遅い。休め」

 振り返った斎藤は静かにそう言った。千鶴はこっくりと頷いて、縫物と針箱を仕舞い布団の中に入った。行灯を消した斎藤は、布団の上に正座をしたまま何かを考えているようだった。

 暗がりに目が慣れてくると、千鶴は身体を横にして斎藤のことを確かめた。

 いつものように無心になられている。

 己を消して、ただ静かに。千鶴は、斎藤が出陣に向けて心を落ち着かせているのだろうと思った。土方さんが戻られたらすぐに出陣。私も準備をしなければ。そう思いながら、目を瞑って自分の心も静かになるようにと願った。


****

 それから三日後、土方が福良本陣に帰陣した。

 会津城下から猪苗代亀ケ城と中津村に立ち寄って来た土方は、日没後に到着すると、簡単な夕餉をとり部屋に籠もった。相馬と野村の話では、日の出に若松城下を出立して休みなく移動し続けた為、土方は疲労困憊しているという事だった。軍議が翌朝に開かれると聞いた隊士たちは、それぞれの部屋で早々に休んだ。

「失礼します、斎藤さん」

 夜も更けた頃、廊下から相馬の声が聞こえた。千鶴が障子を開けると相馬が立っていて、土方が部屋で待っていると伝えると、千鶴にも一緒に土方の部屋に来るようにと伝えて廊下を戻って行った。千鶴は、寝間着の上に羽織を着て足袋を履いた。斎藤は、上着を着て刀を持つと千鶴と一緒に土方の部屋に向かった。

 薄い行灯の灯った部屋で土方は文机の前に座っていた。斎藤たちを部屋に招き入れると、振り返って右足を前に投げ出すように腰をかけ直した。土方は寝間着の上に羽織を肩から掛けている。斎藤たちが正座すると、土方は傍にあった脇息を引き寄せて寄りかかった。

「遅くにすまねえ。もう休んでいたか」

 土方は斎藤と千鶴の両方を見て訊ねた。二人は「いいえ」と言って首を横に振った。

「城下で松本良順先生に会った。先生は歩兵隊と一緒に会津入りしていてな」

 土方は松本良順が幕府軍の軍医として従軍していて、会津城下で面会してきたと話した。

「先生は元気だ。日新館で病院を開いている」

 千鶴は、松本良順が会津藩の負傷者や病人を精力的に治療している事を知って嬉しく思った。そして、土方に足の傷を先生に診て貰えたのかと聞こうと口を開きかけた、その時。

「お前たちに知らせておく事がある」

 土方の顔から笑みが消え、真剣な表情になった。

「総司が息をひきとったそうだ」
「五月だ。この五月の終わりに……」

 千鶴も斎藤も衝撃で息を呑んだようになり動かない。

「良順先生は、上野の戦の後、怪我人の治療で暫く忙しくしていたそうだ」
「千駄ヶ谷の離れにいる総司の元に向かったときには、もう手遅れだったらしい」
「総司は最期まで、北上している俺等を追いかけると云っていたそうだ」

 千鶴が両手で顔を覆って嗚咽を始めた。総司の亡骸は姉の沖田みつが引き取ったという。斎藤と千鶴はただ頷くしかなく、土方も眼に涙を溜めているのを気づかれないように横を向いて黙ってしまった。

「報せたかったのはそれだけだ」

 拭っても拭っても涙が止まらない。千鶴は肩を落としたまま土方の声を聞いていた。斎藤が、退出の挨拶をする声がした。千鶴はそれに続くように頭をさげて部屋から下がった。涙で滲む廊下に斎藤が歩く背中が見える。足早に進む裸足は、全く音を立てていない。千鶴は、その後を追いかけた。斎藤は離れの廊下とは反対方向の玄関に向かって行く。暗い廊下で斎藤が急に立ち止まった。

「部屋に戻れ」

 背中を向けたまま斎藤はそう言った。突き放すような厳しい響き。千鶴は立ち止まった。はらはらと涙が頬を伝う。斎藤は暗闇の中に消えて行った。

 千鶴は、離れの部屋に戻りずっと起きて斎藤を待った。行灯の油も切れて暗くなった。ぼんやりと月明かりが障子越しに部屋の畳を照らしている。千鶴は本陣の外に出て行った斎藤が、深い悲しみに打ちひしがれている事を思った。沖田さん。江戸を発つ前にお会いしたのが昨日の事のようなのに……。


****

慶応四年三月 彼岸の中日

 千駄ヶ谷にある静かな一軒家の離れ。そこが総司の療養場所だった。

 金子邸を朝早くに発って、墨田川を両国橋まで下った。そこから江戸川を平川まで下り、陽が高くなる頃には飯田橋に着いた。街道を四谷で田端の広がる一角に下ったところに目印の水車小屋が見え、千鶴は一気に走って兵五郎の家の玄関に着いた。

 離れの部屋には暖かな陽射しが開け放った障子の中に入り、総司は布団の上で横になっていた。布団から見える首周りに膏薬を塗った晒しを巻いている。ここの所、咳の発作が酷く、眠りが浅くて昼間もうつらうつらとしていると女主人が教えてくれた。千鶴は、静かに総司の枕許に腰かけた。斎藤が隣に座って、刀を畳に置いたと同時に、総司がゆっくりと眼を開けた。

「誰かと思ったら」

 総司の声は少し掠れて、唇が渇いている。

「具合はどうだ、総司」

 斎藤が尋ねると、総司はゆっくりと両目を伏せるようにして頷いた。少し口元は微笑んでいるように見える。千鶴は、傍にあった桶の中に小さな晒しを畳んだものを浸けると、そっと総司の口元を湿らせた。総司は、布団から手を出すと、肱をついて起き上がろうとした。千鶴は背中に手を廻して支えた。少し微熱がある。千鶴はそう思った。布団の上に広げてあった長羽織をとって、総司の背中にかけた。総司は背中を丸めるように両手を布団にもどして座っている。眩しそうに開け放たれた障子の向こうを見た。

「外はいい天気だね」

 斎藤は、眩しい陽の光を避けるように壁の影に移動していて、そこから「そうだな」と応えた。

「江戸を離れるのはいつ?」

 総司は斎藤に尋ねた。三日前に近藤がやってきて、「幕府参謀の命に従って、江戸を離れることになった。隊を立て直す」と言って帰って行ったと、総司は話した。

「僕はここで養生していなきゃならないって」

 千鶴は、障子を閉めていた手を放して、総司の傍に戻って座った。総司は、小さな咳をし始め、苦しそうに肩で息をしている。千鶴は総司の背中を優しく擦った。総司は右手で口元を覆うようにして咳を堪えている。千鶴は、総司の背中の腎肺の場所に掌を当てて、とんとんと何度も揺することを繰り返した。こうすると、息の通る管の異物が振るい落されて、息がしやすくなる。京ではいつもやっていた。総司の呼吸は少し落ち着いてきた。

「横になりましょう」

 千鶴は優しく総司を支えて布団に身体を横向きにして寝かせた。総司は溜息をついた。

「五兵衛新田には、大きな養鶏場があって新鮮な卵を沢山わけて貰えました」
「沖田さんの好きな、茶わん蒸しを作ってきました」
「少し召し上がりませんか」

 千鶴は、総司の布団の傍らにあるお盆の覆いをとった。お盆には冷えたお粥が一膳と沢庵が小鉢に添えられていた。きっと朝餉に用意されたものだろう。一切手つかずのまま。千鶴は、総司の手を見た。一段と細くなった指。きっと食が進んでいないのだろう。少しずつでも、何か滋養のあるものを食べられれば。

 千鶴は総司が返事をしないのを、もう一度顔を覗き込むようにして、「ひと匙だけでも、どうです?」と勧めてみた。総司が頷くので、千鶴は持って来た重箱から、小さな蓋つきの茶碗を取り出して、木の匙で総司の口に茶碗蒸しを運んだ。

「美味しい」

 総司は、横になったまま二口めも運んでもらい、満足そうに笑った。吸い飲みで白湯を合間に取りながら、総司は茶碗蒸しを半分食べると。「もう、お腹いっぱい」と言って目を瞑った。

 静かに息をしている総司に、千鶴は布団を掛け直した。総司は左手を布団の中から横にそっと出す。千鶴の膝の前に差し出された手を千鶴は両手で包み込むようにして擦った。少し冷たい手。温めよう。総司は、両目を伏せて時々瞼を上げる。

「土方さんをお願い」

 ずっと何も言わなかった総司が呟くように千鶴に頼んだ。千鶴は「はい」と返事をして、一層強く総司の手を擦り続けた。斎藤は、刀置きにある総司の打刀の状態を確かめた。よく手入れがされてあった。

 一点の曇りのない刀身。
 きっちりと結ばれた下げ緒。

 いつでも手にとって出られるように。そんな総司の心意気が伝わってくる。斎藤は刀を戻した。それから、半分眠っているような総司を斎藤と千鶴はずっと見守った。その日の午後に、沖田みつが総司の世話をしてにやって来ると聞いていた千鶴は、五兵衛新田から持ち寄った滋養の高い自然薯と鶏卵を包んだものを手紙と一緒に部屋に置いた。

 昼過ぎに、千鶴と斎藤が総司に暇を告げると、総司はゆっくりと頷いた。

「近藤さんに、僕はすぐに追いつくよ。そう伝えておいて」

 その声は、いつもの総司の声で、部屋に元気に響いた。両目を見開いた総司の瞳は、透き通るような色でじっと斎藤の眼を見詰めていた。斎藤は、「ああ」と答えた。縁側の廊下を曲がる時に、千鶴が振り返った。総司が布団から左手を出して僅かに手を振っているのが見えた。街道に戻って飯田橋に下る道を斎藤も千鶴も何も言わずに歩き続けた。江戸川で、上りの舟に乗った時に陽が橋の影になった。それまで斎藤に自分の身体で日陰をつくるように半腰になっていた千鶴は、安堵したように板の上に深く腰掛けた。

「総司は、隊服を用意しておった」

 船頭の声や他の客の声でかき消されそうな小さな声で斎藤が呟いた。総司の部屋にあった行李の上に、洋装の隊服と革靴、脇差が綺麗に置かれてあった。沖田さんは、いつでも出陣できるように準備されているのだろう。

「きっと追いついて来られます」

 陽射しが船底に跳ね返る中を、千鶴は陽射しを遮るように袖を広げて斎藤の隣に座り直した。舟は再び別の橋の下を通り気持ちの良い影が出来た。斎藤は小さく息を吐いている。そして、「そうだな」と応えた。

 両国橋で屋形舟に乗り換えた。日差しを避けた暗がりに二人で腰かけながら、再び江戸を離れた。

 あの日が沖田さんに会った最後。千鶴は、総司が布団の中から掌だけを出して、手を振っていた姿と最後に力強く「すぐに追いつくよ」と言っていた声を思い出した。再び涙があふれる。沖田さん、沖田さん、沖田さん。せめて、生きて江戸に居て下されば……。

 斎藤が部屋に戻ったのは明け方。千鶴は羽織を着たまま布団の上で丸くなって眠っていた。涙で布団が濡れていた。ずっと起きて、泣き疲れて眠ったのだろう。斎藤は千鶴を布団の中に寝かせて、布団をそっとかけた。そして、着替えを済ませて軍議に出るために、大広間に向かった。

*****

出兵命令

慶応四年八月十八日 明六つ

 二本松方面への出兵命令が下りた。本陣玄関に集まった新選組は斎藤率いる小隊と副長の安富が率いる第一分隊に分かれて出陣した。猪苗代湖西岸沿いに街道を上り、湖北に位置する亀ケ城を目指した。昼過ぎには城下を過ぎて山間部に入り、日暮れまでに木地小屋村に到着した。平地の城下に比べて気温がぐっと下がる。既に宿陣していた回天隊、若松城下から移陣して来た伝習第二大隊と合流し軍議を開いた。

 大鳥圭介は猪苗代の山陵が描かれた地形図を広げて、二本松から安達太良山麓を石筵から登って来る敵軍を将軍山の母成峠で防ぐ必要があると説明した。

「峠の地形は西側が崖、南側と東側を防御すれば抑え込むことは叶う」
「各藩の複数小隊を南側と東側に配置し、二重の防衛線を張る」

 大鳥は布陣に自信が持てると云って笑顔を見せた。軍議は早々に解かれ、各自宿陣先に戻り翌日の移動に備えた。一方、若松城下の軍参謀は二本松城陥落から十日を過ぎても、新政府軍が攻め入る様子がないことから、伝習第二大隊に、会津、仙台、二本松の藩兵を率いて、再度二本松に攻め入るよう伝令要請を送って来た。

慶応四年八月十九日

 翌日、最後に母成峠に入った斎藤率いる新選組と一分小隊は、急遽二本松に向かう事になった伝習隊を見送る形になった。母成峠の伊達路を下り途中の石筵川から川上に向かって険しい河岸の山に分け入り、大きな岩が重なるように連なる石舞台の上に出た。

「ごごいらは、勝岩だ」

 路を案内する人夫について断崖絶壁の巌に上がった斎藤は、崖下の河向こうから敵が攻めて来ても、容易に突破は出来ないだろうと思った。

「勝岩とは随分幸先がいい」
「そうだ、将軍山の勝岩は絶対に勝つ」

 新選組隊士たちは、陣を張りながら地の利を得ている事に大いに自信を持って士気が上がった。斎藤は、早朝に二本松に侵攻していった大鳥達が新政府軍を藩境で抑え込むなら、敵の進軍まで十分に間があると思った。そこで、隊士たちに水場と休息場の設置を命じ、峠の山頂本陣への間道確保の為に部下を連れて獣道に分け入った。

 斎藤たちが母成峠の山頂付近の間道を虱潰しに確認していた頃、二本松に向かった伝習第二大隊は、藩境で新政府軍の猛攻撃に遭っていた。敵の迎撃の凄まじさに、伝習隊の後方に続いていた会津、仙台、二本松の三藩兵は恐れをなして逃走してしまった。伝習隊は奮戦したが、敵の圧倒的な兵数に撤退を決意し、日暮れに命からがら伊達路を後退して勝岩の新選組と合流した。疲れ果てた様子の伝習第二大隊の兵士たちに、新選組は食糧を補給し休息のための陣地を開放した。

「山入村から馬場平、一帯は夥しい兵が列挙していた」
「陽が昇れば、敵は攻めてくる」

 大鳥は二本松に攻め入った事で、大打撃を被ったと悔しそうに語った。敵軍の砲台の数は同盟軍の数倍はあると云って、ただちに各藩の軍目に伝令を送り母成峠、将軍山山頂の本陣を死守するように布陣を命じた。

慶応四年八月二十日

 会津藩軍参謀より母成峠への出陣の命が下った。

 母成峠将軍山頂付近に本営。会津小隊と二個小隊が布陣。手前の中軍山と八幡前に第二台場。二本松藩兵三百、伝習第一大隊百五十名が布陣。峠の本道の東側、和尚山方面からの迂回攻撃の防御として、勝岩の崖上に伝習第二大隊と新選組が布陣。兵数は二百名。山麓の前線に位置する萩岡に第一台場。そこに物見として会津藩兵が少数で詰めた。西側は切り立った崖の為、守備兵は配置しなかった。夕方には布陣配備を終えて、いよいよ臨戦態勢となった。

 一方その頃、母成峠の西側に位置する猪苗代湖北に土方歳三は、小姓役三名と少年兵を連れて移動していた。亀ケ城に到着したのは、日暮れも近い頃。母成峠の本陣より、防衛線の布陣が整ったと伝令があった。土方は、幕府軍総督として猪苗代城より指揮を執る。既に、新政府軍が二本松より伊達路を進軍開始したと報せがあった。少年兵たちを城から東側にある大寺に移動させ、そこで先に伝令を受け取るように命じた。

 千鶴は、福良本陣より運んだ行李の整理に追われた。新選組の全ての荷物。中には、会津藩から支給された物資が詰め込まれた木箱もあり、しっかりと分けておかなければならない。日に日に夜間の冷え込みが強くなってきた。これから北上するなら、着物や綿入れなどを決して失くしてはならない。

 亀ケ城の城代は、幕府軍が城内に滞在することを許可しているが、物資は殆ど置かれておらず、ほぼ持抜けのような雨風がしのげるだけの場所だった。土方は、万が一、同盟軍が城に退却して集まった場合、敵を迎撃するには、城郭の守りが薄く脆いと危惧していた。

 土方の厳しい表情から、千鶴はいつでも移陣が出来るように準備を怠らなかった。伝令役として忙しい相馬主計と野村利三郎と連携して、荷車に兵糧を確保して待機した。行灯の油も極僅かしか用意されていない部屋は、早々に消灯され。千鶴は、漆喰の壁に開いた明かり取りの窓から入る僅かな光の下で、筒袖姿のまま横になった。心に思うのは、斎藤が出陣していった後ろ姿。

 ご無事に。どうか、必ずご無事にお戻りになりますように。

 胸の前で手を合わせて、千鶴は祈った。

*****

解夏

 住職に頼んで、弔い札を立てて貰った。

 斎藤の声が耳に響く。これは夢だろうか。千手院の境内での情景が鮮明に心に蘇った。福良を出立する前日、斎藤が千手院に現れた。夕暮れにそろそろ本陣へ戻ろうとしたところを、本堂の入り口から斎藤が千鶴の名を呼んだ。千鶴は、荷物を持って、斎藤の後について行くと、本堂の裏庭の端に線香を灯した弔い札が立ててあった。

「この前は、安居の最中だったゆえ。弔いは頼めずに手を併せただけだった」

 呟くようにいう斎藤は、しゃがんで手を併せている。千鶴もその隣で手を併せた。

 新選組沖田総司享年二十六歳

 札に書かれた名前を見て、千鶴は総司を思った。京の屯所での日々、いつも傍で。お強くて、何よりも新選組を大切に守られていた。沖田さん、どうか新選組の皆さんを御守りください。

 千鶴が顔を上げた後も、斎藤はずっと手を併せたままでいた。どれだけの事を語り合いたかったのだろう。さっき、弔いを頼みに来たのは二度目だと仰った。きっと、土方さんから沖田さんが亡くなったと聞いた夜、あの日にお寺に向かわれたのかも……。確かに、昨日やっと千手院では夏安居が明けた。ご住職をはじめ、寺の小僧さんまでが御堂に長く籠もられていて、今朝久しぶりに境内で挨拶を交わすことが出来た。

 静かに立ち上がった斎藤は、ゆっくりと境内を横切って街道に下りる山道に向かって行った。

「総司の魂は新選組と共にある」
「我らは共に戦う」

 前を向いたまま斎藤はそう言って、静かに前を歩いて行く。千鶴は頷いて、その後について行った。その後、軍議に出てから戻った斎藤とは言葉を交わす機会がないまま朝になり、斎藤は出陣していった。

「土方さんを頼む」

 相馬主計と野村利三郎にそう告げて、斎藤は踵を返すように行軍列の先頭についた。「ご武運を」と声をかけることも出来ず、千鶴はその背中を見詰めているしかなかった。

*****

勝岩

慶応四年八月二十一日(十月六日)払暁

 母成峠のある将軍山より南側の山麓、萩岡に布陣する会津藩一個小隊は、新政府軍が麓近くに進軍してきたことを確認した。千名を超える兵数。砲隊が何列にも連なる敵軍を見て、萩岡陣地の兵士は、敵軍接近の合図の木砲を放った。

 新政府軍は、本道を進む中央隊、間道を進む左翼隊と右翼隊で三方から攻めよせて来た。

 萩岡の台場は直ぐに崩された。八幡前より中軍山に新政府軍が押し寄せた。一方、二本松から伊達路を進んで来た兵数千ほどの新政府軍は、濃霧がたちこめる中、斎藤たち勝岩守備陣と正面対決した。

 勝岩渓谷の断崖絶壁から砲撃を放った斎藤たちは、新政府軍右翼隊の進軍を見事に防いだ。一方、二本松藩が守る中軍山は、新政府軍中央隊に突破され、勝岩側にまわった部隊が、新選組が布陣する勝岩を背面から攻撃して来た。斎藤たちは、母成峠への間道に分散するように塹壕で構えて、敵を迎撃した。

 峠への本道は、中軍山を突破された後、会津軍は山頂に退却して本営から迎撃することにしたが、新政府軍の凄まじい砲撃により敗走し、その際山頂に火が放たれた。勝岩に居た新選組と伝習隊は間道を峠に向かうが、火災の為に退路を断たれた。

「引け」

 大鳥の声が背後から聞こえた。それでも斎藤は、敵の砲撃隊を目指して斬り込もうと一歩前に出た。

「山口くん、退却だ」

 大鳥の叫び声と一緒に、敵の一斉砲撃が始まった。塹壕に身を潜めていた部下たちが、石舞台から滑り下りるように退却していく。斎藤も後に続き、間道をひたすら下って行った。雨が降り出した。渓谷の下を西に向かう。それしか考えなかった。石筵川から更に西の山に入った。林の中に敵兵が潜んでいる可能性があった。身をかがめて進む。後に続いていた部下の姿はもう見えない。皆、四方八方に散らばるように逃げた。本営が破られた今、向かう先は会津城下しかない。

 西へ、城へ。

 再び間道を抜けて本道に出ようとした時、発砲音がした。十間先の林から敵兵が攻撃して来た。林の根本に臥せてやり過ごした。全身の血が逆流する。次の銃砲と同時に地面を蹴るように前へ出た。薬莢の匂い、銃弾がゆっくりと止まったように宙に浮かんでいる。斎藤は、全力で駆け抜けた。空中の砲弾を叩いて前に進む。西へ、西の山へ向かおう。

 背後から弾が飛んでくる、目の前に見えたのは川。

 深さも何も考えず、勢いを付けて飛び込んだ。川底の岩を蹴り、飛び上がるように向こう岸に立つた。再び銃砲音が聞こえる。目の前の絶壁に駆け込んだ。丁度大きな木の枝が伸びた場所に身を隠すようにして、絶壁を見上げた。太い蔦が這うように垂れ下がっている。無我夢中で掴んだ。羅刹の力で、岩壁の突起に足を掛け飛び上がると一間先の岩の窪みに手を掛けることが出来た。四軒はある高さを一瞬で上り終えた。崖の上は細い峰伝いになっていた。雨が酷くなってきた。西方向にひたすら走った。再び林に下りて、間道を伝うと敵兵が見えた。北側に向かって走ったが、途中で間道も途絶えた。獣道を己の勘だけで進む。雨が降る林の暗闇でも斎藤は、陽の位置を感じることが可能だった。それは息苦しくなる道。雨雲からの光にあたっても、心の臓が締め付けられてくる。それでも斎藤は西を目指すことを止めなかった。

 日没前に亀ケ城に辿り着いた。会津藩旗が見えた時、斎藤は九死に一生を得たと思い初めて溜息をついた。門番が独りだけ立っている城門を過ぎて、追手門から本丸に入ると、入口の広間に土方が待機していた。

「斎藤さん」

 暗がりから千鶴が飛び出して来た。斎藤の両腕にしがみつくように強く掴むと、目から涙をぽろぽろと流している。

「よくご無事で」
「本営が焼き討ちにあったとさっき伝令を受けて……皆さん、どこに」
「わからん。伝習隊は俺の背後にいた。皆、陣を捨てて逃げた。峠の上は火の海だった」
「七三郎と河合は俺の後ろを走っていた」
「久米部と吉田とは途中ではぐれた」
「西に向かえと伝えてある。日没まで間がある。皆ここに辿り着くだろう」

 土方は、斎藤に労いの言葉を掛けた。

「よく戻った。ここは明日には発たなければならねえ」
「城代が【焼き捨て】を取り決めた」

 斎藤に土足のままでいいと言って、奥の間で休むように指示すると、土方は再び城代との合議に出て行った。

 千鶴が上着を脱いで腰を下ろした斎藤の前に竹皮に包んだ握り飯を差し出した。斎藤は貪るように食べた。千鶴は自分の腰の後ろから包みを解くと、その中から小さな握り飯を出して、「どうぞ」と差し出す。

「いらん。あんたの分だろ」

 千鶴は首を横に振って差し出す。「食べてください」そう言って笑顔になった。斎藤が飯を頬張ると、千鶴は斎藤の首の後ろや腕、足に怪我をしていないかを確かめ始めた。暗い部屋には蝋燭も灯もなく、顔を近づけた千鶴は遠慮をしない様子で、斎藤を触って確かめている。

「シャツも濡れています。脱いでください。替えを持って参ります」
「どこも怪我はありませんか」
「ない」
「靴の中は、チマメは?」

 斎藤が返事をする前に、千鶴は斎藤の革靴を思い切り引っ張って脱がした。足を引き摺られるような形で尻もちをついたような恰好になった斎藤に、「すみません」と云いながらも、千鶴はもう片方の靴にも手を掛けて勢いよく脱がせた。

 靴足袋を取って、つぶさに足の指を確かめている。足の裏に千鶴の息が吹きかかりくすぐったい。斎藤は両足を引っ込めた。

「怪我はない。血豆ができてもすぐに癒える」

 斎藤は正座して竹水筒の水を飲み干した。千鶴は足袋を裏返して、「やっぱり、血がついています」と不満そうに呟いた。

「怪我をされているじゃありませんか」

 口を尖らせて睨んでくる表情は、黒目勝ちの眼が一段と丸くて暗がりに光っているように見えた。さっきまで泣き顔だったのが、笑ったり怒ったりと忙しい。斎藤は鼻から抜けるような声をたてた。いつものように肩を揺らして声を立てずに笑っている。

「何が可笑しいんです」

 千鶴は余計に怒り始め、口をつぐんで頬を膨らませた。そのまま、ぷいと横を向いて斎藤の脱いだシャツと靴下を持って、千鶴は行李の詰んである部屋に行ってしまった。その時だった、入口から相馬主計の声が聞こえた。

「吉田さんがお戻りです。久米部さんも」

 斎藤は、上り口の間に走って行った。次々に隊士達が到着してくる。良かった。皆、無事に逃げ切れたか。

「隊長」
「よくぞご無事で」

 次々に玄関から入ってくる隊士達を斎藤は迎えいれた。潰走中、死を覚悟していたと云って、力尽きたように土間で膝をつき、腕で目を覆って泣き出す者もいた。

「よく戻った。伊達路の東側を昼過ぎまでは守ることが出来た」
「敵の進軍は、あと両日かかる」
「陣を立て直す」

 斎藤は、力強くそういって部下たちを助け起こした。千鶴は張り切って、奥の間に兵糧を用意して隊士達に食べさせた。蝋燭を一つだけ灯した部屋は薄暗く。皆で車座になって、敗走の様子を報告し合った。土方が途中から座に加わった。

「戻ったばかりで済まないが、城は焼き捨てる」
「明日は七つ発ち。同時に火を放つ」
「本丸も二の丸も全てだ」

 城代から、会津藩兵も退却に合意して準備をしていると知らされた。土方は戌の刻に軍議が開かれると云うと、それまでに奥の間で休息しておくようにと皆に命じた。そして、斎藤達軍目以上の者は本丸大広間の軍議に向かった。

「山口殿」

 蝋燭灯だけの薄暗い大広間に入ると、聞き覚えのある声で名を呼ばれた。立ち上がって自分に駆け寄って来た者の顔をよく見ると、それは野田進だった。会義隊隊長を務める野田は、白河戦線で別れたまま、斎藤達が大平口に敗走した時に、会義隊は須賀川宿で会津軍原田隊と無事に合流したと聞いていた。

「本宮宿で敵と撃ち合い、母成峠に向かいましたが間に合わずこちらへ」
「我らは勝岩から敗走した。二本松から三千の兵が押し寄せて来ている」

 野田は、会義隊はこれから若松城下へ帰陣すると云った。

「城を守らねばなりません」
「そうだな」

 斎藤は頷いた。それから二人は着座して軍議に加わった。猪苗代湖北に敵軍が進攻したら、藩境の十六橋を落とし、滝沢峠への侵入を防ぐ必要がある。土方は急ぎ伝習第一大隊を連れて、十六橋を目指す事に決まった。会義隊は城下へ背振り山経由で戻る。斎藤は、新選組小隊を連れて若松城下に戻り、会津藩家老に物資を詰めた行李を戻す役目を引き受けた。

 土方は、猪苗代湖南の中地口の会津守備陣営に援軍要請を送った。

 亥の刻までに亀ケ城へ辿り着いた新選組隊士は二十五名、歩兵十三名。新選組の約半分の小隊になった。残りの半小隊は、大鳥提督率いる伝習第二大隊と共に大原村方面に敗走して行ったという。

「塩川宿へ向かわれたと思います」

 峠を北側へ敗走されたのか。斎藤は、隊士達が大鳥たちと無事に逃げ果たせている事を願った。塩川宿へは、土方が先に少年兵たちを移動させた。きっと隊を塩川で立て直すことになる。

 軍議の最後に、新選組半小隊が若松城下に移動することが決定した。斎藤が隊を率いて、千鶴も随行する。会義隊とともに明け七つに背振り山を目指すことになった。千鶴は、夜中の内に二の丸の城郭東門まで物資を積んだ荷車を用意した。そして、七つに城は火が放たれた。土方は馬に乗って、相馬と野村を従えて滝沢峠に向かった。滝沢本陣での軍参謀との軍議に出席する為だった。

「塩川で落ち合おう」

 土方は斎藤たちにそう言って、先に出立した。千鶴は兵糧を積んだ荷車を隊士達と押しながら背炙り山へ向かった。空は暗い雲がたちこめていて、直射日光が当たらない道行は千鶴を安心させた。隊の先頭を行く斎藤は、会義隊の野田と並ぶように歩いている。会義隊は東山への道に詳しく、城下には日没までに辿り着くという事だった。山の中を行軍していると、雨が降って来た。冷たい雨。泥濘の中を、荷車を押しながら進んだ。

「大丈夫か」

 気付くと、斎藤が隣で荷車を押し上げるのを手伝っていた。山頂の尾根を越えて、山道が下りになった時、千鶴は足を滑らせそうになった。斎藤に腕を掴まれて道の横に引き揚げられた。脇の木の根の上に足を引っかけて泥濘から抜け出すように上がった。

「来い」

 斎藤に手を引かれて、千鶴は一歩前に出た。その瞬間横抱きに持ち上げられた。斎藤は器用に脇道の木の根から木の根に飛び越えるように道を下り、前を行く荷車に追いついた。そして、隊士に声を掛けて荷車を停めさせると。斎藤は筵をめくって出来た隙間に千鶴を腰かけさせた。

「掴まっておれ」

 千鶴に荷台の板の端を持たせると。斎藤は荷台に縄をかけて、隊士達と後ろから引きながら道を下りて行った。木々の隙間から見える城下は霞みの向こうに広がり。千鶴はやっと会津に戻ることが出来たと安堵した。夏の始めに城下を出立した頃は、緑の中だった。今は冷たい秋雨の中をこうして……。

「城が見えたぞ」

 誰かが叫ぶ声が聞こえた。天守が霞みの向こうに見えた。千鶴は荷台から身を乗り出して、遠くに見える城の姿を確かめた。帰って来た。そんな風に思った。傍に立った斎藤が、感慨深い様子で山道に立っている。その横顔は、どこか希望に満ちた表情で。千鶴は、甲府から江戸に斎藤と二人きりで戻った時を思い出した。夜の街道を歩きながら、斎藤は力強く歩を進め、その横顔は士気が漲るような。瞳は碧く。ずっと前を見ている。あの夜と同じ。

 決して諦めていらっしゃらない。

 千鶴は身の内に温かいものが沸き立つような気がした。斎藤の力強さに、その表情に勇気づけられる。絶対に。絶対にわたしも諦めずについて行きます。

 千鶴は荷台の板に両手をつくと、足を地面に下ろして荷台から下りた。そして、斎藤の隣に立って、道端の木々の向こうに見える天守をしっかりと眺めた。

つづく

→次話 戊辰一八六八 その22


(2020/08/23)

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