ブログ【小説更新情報】母成峠
皆さん、こんにちは。
戊辰一八六八の最新話「母成峠」をアップしました。
上の図は、母成峠の古戦場慰霊碑の傍に掲示されている地図です。当時の布陣を書き加えてみました。黄色で囲っている戦場が、斎藤さんが陣を構えた「勝岩」です。地図の左側が会津領、地図の下方面に猪苗代湖があって、地図の右が二本松藩領になります。北側は裏磐梯。その向こうが米沢藩領です。大まかですが、この地図をもとに二次小説の敗走ルートを捏造しました。
斎藤さんの敗走ルートは、勝岩からこの地図を左斜めに対角線上に進んだ場所にある大きな大滝山に向かいました。(このページの見出しの画像は「銚子ケ滝」勝岩から下った場所にある小さな滝で、石筵村はこの更に川下。この滝は斎藤さんが布陣した場所の風景に近く、こういった岩がごつごつの渓谷を必死に渡って斎藤さんは潰走したと設定)。実際の敗走経路は諸説あり、私は以前FRAGMENTSシリーズの「城下」で描いたエピソード(猪苗代経由)を踏襲しています。実際は、もっと過酷な敗走状態だったと推測されます。母成峠の闘いは旧暦八月二十一日。現在の暦では十月六日。記録では朝から霧が立ち込めていて、昼過ぎからは激しい雨が降りました。峠の標高は高いので、気温はかなり低かったと思います。15℃ぐらいかな。もっと低いかも。
薄桜鬼の大鳥圭介は、物腰が穏やかで軍議の場面に出て来るだけで実際に戦う姿が描かれていません。ちよろずルートでは、大鳥圭介は斎藤一と一緒に会津戦争で死線を超えます。二次小説は伝習隊の行軍記録を下敷きにして描きました。母成峠の闘いに至るまで、大鳥圭介の率いる伝習第二大隊は広範囲に渡って戦いを繰り返して来ています。旧幕府軍の立ち位置は微妙で、大鳥圭介は同盟軍の指揮官として戦っていますが、白河口戦線以降は、会津藩から物資や武器の補給を受けていて、会津藩軍参議の指示に従わなければなりません。会津軍の参議の意思決定は大鳥圭介の納得のいくものではありません。それでも彼は果敢に戦場に向かっています。
そういった大鳥の頑張りにかかわらず、戦場での各藩の動きはバラバラで、会津藩兵も含め、何度も同盟軍兵は戦の最中に裏切るように先に逃げ帰ってしまいます。大鳥は部隊統率がとれずにジレンマを抱えながら、少ない兵で母成峠の闘いに挑むことになります。
ここに旧幕府軍と同盟軍諸藩との溝が生れていて。これ以降の会津戦線での旧幕府軍の闘い方は会津藩に対してシビアになっていきます。大鳥圭介は、戦術家として西洋的な合理的な考えかたをする一面と、義理や恩義のような武士らしい考え方も持ち合わせています。これは私の勝手な解釈ですが、大鳥圭介は実は土方歳三ととても似通った精神構造を持っています。土方歳三は足の怪我で前線に立てない為、物資供給の面で「交渉役」として素早く動いています。もし、実戦参加可能だったら、大鳥圭介や斎藤一より積極的に最前線で戦っていたことでしょう。
事の経過で一番歯がゆい思いをしていたのは土方歳三です。
歴史にifはありませんが、土方歳三が早い段階で足の怪我が全快して最前線に出て闘っていたら、三藩兵が戦いを放棄して逃げ帰ったりしただけで烈火の如く怒りまくっていたことでしょう。会津藩軍参謀にも食ってかかって抗議しに行ったかもしれません。でも、薄桜鬼の土方さんは、この頃は急激に性質が穏やかになっていて、死線を何度も超えた事と相手の立場を理解する事に努めるようになり、情けをみせる部分もありました。ゲームでは雪村千鶴の視線で、土方歳三の変化に触れられています。
諦観の域に達していた土方さん。
宇都宮の闘い以降は、そんな土方歳三の姿を想像してしまいます。なので、軟そうで実は骨太の大鳥さんと、喧嘩っぱやい性質の土方さんが戦いの中で悟りに達した状態というのは、非常に良い取り合わせだったのだろうと思います。薄桜鬼では土方さんと大鳥さんの描き方が絶妙で土方歳三ルートは余り深く描かれていないにもかかわらず蝦夷における人間関係の広がりが面白い。合わなさそうで、実は絶妙な二人の相性。
大局を見る大鳥圭介は、会津戦線には欠かせない指揮官です。ゲームの中の斎藤さんは、そんな大鳥さんに礼節を持って接しているような気がします。(これは銀星の抄の個別ルートで顕著です)
今回は暗い展開で書いていてしんどかったです。総司君が江戸で亡くなったことを、斎藤さんがどのタイミングで知ったのか、ずっと考えていて。長く書きそびれていた斎千が江戸で総司君を最後に見舞ったエピソードを描くことにしました。
母成峠の闘いの三日間、斎藤さんと千鶴ちゃんは物理的に離れていました。これから斎千はずっと離れずに行軍していきます。ゲームとは違う独自設定の流れですが、会津戦線で互いの気持ちを確かめ合う斎千を描いて行きたいです。
ここまで読んでくださって、有難うございます。
ちよろず