斎藤さんと馬の話
斗南にて その8
明治四年八月
廃藩置県に伴い、斗南藩は七月に斗南県となった。
それ迄の藩主が領地を統治するものではなくなり 、国が県政を統べるようになると説明を受けた斎藤は、藩政の変化に大差は無いであろうと大方の予想はつけた。元会津藩藩主松平容保公は、東京の鳥取藩邸で謹慎蟄居の処分を受けていたが、一旦和歌山藩に預け替えとなった。この度の廃藩置県に伴い斗南への移動が赦され、ひと月余り田名部に滞在した。
斎藤は馬廻役として、容保公の領内の見聞の補佐についた。容保公は「陽の光の元に日がな過ごすのは会津戦争以来だ」と馬上から振り返り笑顔を見せた。斎藤は、短い斗南の夏を大殿に見せる事が出来るのが嬉しかった。大殿の言葉の端はしに東京での蟄居生活は鬱屈で惨めな様子だった事が伺えた。容保公は小参事を連れて毎日精力的に領内を視察した。
「森林が豊かだが、其れを活かす術は無いか」
田名部に向かう道すがら、大殿は背後の山々を指差し、少参事の広沢安任に訊ねられた。
「あの山々の樹々は防風林となって居ます。この地は、山からも海からも強い風が吹きます故、山からの樹々の切り出しは非常に困難でございます。材木利用は非常に資金がかかる故、勘定方の試算ではこれから十年は掛かるかと」
「……皆が善処している事は重々解った」
大殿は思案に耽る様子で、田名部の館に着くまで終始無言だった。
翌日の朝、斎藤は田名部に出向くと、容保公はまだ休養中だった為、午後に出直す事になった。藩屋敷に戻ると、斎藤は大参事の山川に呼び出された。
「大殿は酷くお疲れのようだ。昨日、視察から戻られた後に勘定方が呼ばれた。大殿から直に県政の財について質問を受けた。民が糧とする生業を見つけるには、どのようにすれば良いか、と訊かれてな」
斎藤は、黙ったまま、畳を見詰めていた。
「藩政改革に、真剣に取り掛かれと尻を叩かれた」
山川は、無理に笑顔を作るような表情で明るく話す。
土壌が悪く、作物が育たない不毛の地である事は、財の確保には大きな痛手である。知行が大幅に減らされた現状では、これから訪れる厳しい冬をどう生き延びるかが大問題だ。領民が飢えや寒さで苦しむことは避けなければならない。
「統治を長い大きな目で見ておられる大殿に、我々は日々生きるのが精一杯と伝えるのは難しいです」
斎藤が静かに言った言葉に、山川は真顔になると、立ち上がって縁側にでた。
「我々の暮らし向きは、重々解っておいでなのだ」
山川は、空を仰いだ。
「なあ、藤田。今日の午後は、そなたの居合のお披露目をしないか?」
「大殿にだ。馬場でやってる、あの居合をお見せしよう」
驚いたような表情を見せた斎藤を見て、山川は微笑した。
「無理にとは言わん。そなたも馬も連日の視察で疲れておろう」
「いいえ、今から準備致します」
斎藤は一礼し、早速立ち上がり部屋を辞そうとした。
「青竹は、充分に用意しろ」
「はっ」
力強く返事をする斎藤に向かい、山川が再び呼び掛けた。
「藤田、我等は殿の愍然たる想いを断ち切ろうぞ」
斎藤は、腰に刺した愛刀を力強く握ると急ぎ足で馬場に向った。
****
「愍然たる想い、か」
斎藤は、夏の初めの頃を思い出した。あの日も寝覚めの悪い夢を見た。戊辰の戦の風景。斎藤は何年も同じ夢を見続けていた。会津での戦争も終盤の頃、母成峠で死線を潜り抜けた。戦況は悪く撤退を余儀なくされた。だが砲弾を浴びる様な状況で、敵陣に背中を向けて逃げるには危険が大きすぎた。敵の砲弾部隊に斬り込みさえすれば、その間に伝習隊は撤退出来る。そう思った斎藤は霧が立ち込めて来た辺りに砲火が光るのを見て、独り立ち向かった。背後から、大鳥圭介の「山口君、引き返せ」という叫び声が聞こえた。斎藤は羅刹に姿を変え走り続けた。全てがゆっくりと動き出す。斎藤を援護しようと再び刀を抜き敵陣に向かう若い会津兵の姿が見えた。「来るな」と斎藤は叫び返す。濃い霧が纏わりつく様に斎藤を阻む。砲弾部隊の陣に幾ら走っても近づけぬ。早く、早く。
斎藤は腕を伸ばしたまま跳び起きた。寝汗で髪まで濡れている。深く溜息をついた。隣の千鶴は眠っている。その安らかな様子に安堵した。明り採りの窓からは、少し白んで来た空の様子が伺えた。明け六つも近い。斎藤はそっと蒲団から出ると、着替えて身支度をした。
外に出て顔を洗い、辺りを見渡した。霧が立ち込める様子は夢と似ている。再び戦場の喧騒が聞こえるような気がした。千鶴に「用向きがあるから早くに家を出る」と置き書きをして家を出た。
斎藤は厩に着くと、颯の様子を見た。足踏みをして今すぐ走りに行きたそうだ。斎藤は、厩を一旦出て日新館の庭から青竹を持って来た。 馬場の柵の外に数軒ずつ間合いを取って青竹を地面に埋めた。作業が終わる頃には陽も完全に昇り、厩別当も起き出して来た。
「藤田様、斯様な早い内に。馬の準備が必要なのでしょうか」
「ああ、早くからすまぬ。さっき、草やりはしておいた。颯を準備して貰いたい」
別当は、颯に鞍と鎧を付けた。蹄鉄は昨日新品な物に付け替えたばかり。朝の早駆けに出たくて、うずうずする様子の颯に別当は「良し良し」と言いながらブラシをかけた。
斎藤は、颯を馬場で走らせた。周回する内に調子が上がった。一旦馬から降りると、斎藤は愛刀を持って来て、馬上に再び上がった。腰に刀を天神差しにした。抜刀すると刃向きが逆になる。斎藤は何度も抜刀しては鞘に戻すことを繰り返した。そして、「良し」と納得した様に手綱を引いて馬場の外に出た。
斎藤は颯を全力疾走させた。青竹の近くで抜刀し斬りつけた。二本目の青竹は上から振り下ろす様に斜め袈裟懸けに。
引き返すと、厩別当が口をあんぐりと開けて見ている。斎藤は、馬から降りると。立て掛けた青竹を抜いて新しい物に変えた。別当も手伝った。
「藤田様、斯様なものは。私は見た事も聞いた事も御座いません。流鏑馬は私も稽古を積みましたが、打刀で居合をなさるとは」
「京の調練場で、町野様と時々やっていた」
「左様で御座いますか。見事で御座います。其れにしても凄い」
別当は切れた青竹の切り口を眺めて、ひたすらに感心している。
「颯の調子が良い。馬で掛ける速さで切るので、普通の居合より力が違う」
「戦で、騎馬部隊で斬りこめば、敵を蹴散らすのは容易だった」
斎藤はそう呟くと、また颯に乗って疾走した。
早番で出勤した、大番の部下が馬場に現れて挨拶をした。
「藤田先生、おはよう御座います。新しい稽古ですか」
「ああ」
斎藤は返事をすると、再び青竹を交換した。部下も一緒になって手伝った。
最後の青竹になった時に、斎藤は水平に二回斬りつけた。ただ青い閃光が走っただけで、別当にも集まっていた藩士達にも、何が起きたのか判らない。竹は真っ直ぐ平行に斬られ、直立に重なったままだった。
どよめく部下達の声が聴こえる中、斎藤は刀を鞘に収めた。其れから、颯の手綱をゆっくり引いて厩に戻って水を飲ませた。馬が汗をいっぱいかいている。斎藤は颯を大布で何度も拭った。厩別当が世話の後を引き継ぎに戻って来た。斎藤は労いの言葉と礼を伝え、馬場の片付けに向かった。
日新館に荷車で青竹を運び戻すと、部下は斎藤に「馬上居合」のコツを聞きたがった。斎藤は井戸端で汗を拭いながら、普段の居合と変わらぬと静かに答えた。青竹の切り口を眺めながら、部下は首を捻って感心した。
翌日から、早朝に馬上居合の稽古をするのが日課になった。一緒に稽古をする斎藤の部下は抜刀するのがやっとで、青竹にかすりもしない。中には、落馬する者も居て、居合の稽古は騎馬訓練に長けている者にしか許可は下りない事になった。
朝の稽古の後に、汗を拭う斎藤に元三番組の部下が尋ねた。
「組長、馬上居合。何故また此処で始められたんです」
「……戦で」
「馬で攻め込みたかった」
部下は斎藤が遠くを見る様な目をしているのに気づいた。
「母成峠では、敗走の際多くの仲間を失った。敵の砲撃隊は一丁先に陣を張っていた。彼処さえ潰しておけば全員無事に撤退できた」
「俺の力不足だ。羅刹の力がありながら斬り込む速さが足りなかった」
斎藤は、シャツを着直すと。
「後悔のない様、訓練するまでだ」
そう言って、刀を持って道場に戻って行った。
馬場での訓練の様子と井戸端での会話を一部始終、大参事の山川が聞いていた。
斎藤の居合の腕は有名だった。戊辰での武功の誉れは藩内だけでなく、旧幕府内にも知れ渡っている。あの闘い振りで、まだ思い置く事が有るのだな。山川は己が内にある忸怩くとした想いを、この者も持っているのだろうと感じた。
****
山川から、容保公への馬上居合の披露目をするよう指示をうけた斎藤は、厩別当の元へ出向くと、颯と青葉に鞍を付けるように指示をした。午後に馬場で居合のお披露目会を開くと告げると、別当は其れでしたらと、斎藤専用の鎧を用意し始めた。
斎藤は次に部下を呼び出すと、お披露目の準備に取り掛からせた。会場は馬場の横に直線で青竹を立て、馬揃えも見られる様に馬場の地均しもする必要があった。居合に使う青竹は二十以上は常備してあると報告を受けると、斎藤は青竹を立てる位置を指示し、部下と一緒になって荷物運びを始めた。
「組長、此処は我々でやっておきますんで。身仕舞いの御仕度に行って下さい」
「身仕舞い?」
「折角の馬上御披露目です。筒袖を召されてはどうです。それに、刀を佩かないと」
斎藤は、訝しむ様に自分の身なりを眺めた。この暑い中【フロックコート】はやり過ぎかも知れぬが、西洋式正装だと山川様も言っておられた。それに、刀だ。腰帯で佩かなければならぬな。何れにしろ一旦家に戻らねばなるまい。
斎藤は部下に作業を頼むと、急いで自宅に戻った。
「はじめさん。如何されたんですか」
千鶴は息を切らして玄関を開けた斎藤を見て驚いた。上り口で斎藤から刀を受け取ると、直ぐに台所から水を汲んで来て、斎藤に飲ませた。
「午後に、大殿に居合の披露目をする事になった。正装に着替えねばならん」
「まあ、それなら、直ぐに準備しなきゃ。はじめさんは、お昼を召し上がっていて下さい」
斎藤は、台所に用意してあった昼餉を膳に載せて、急いで食事を済ませた。
千鶴は行李から、フロックコートを取り出すと、火熨で皺を伸ばし衣紋掛けにかけた。斎藤は、食事を済ませると、押入れから桐の箱を取り出し、蓋を開けた。佩刀用の腰帯が中に入っていた。八瀬の千姫から結婚の御祝いに贈られたもので、豪華な革細工と意匠が施されている。古より八瀬の里に伝わる宝物だと言う。元々は太刀を佩く為に使われていたものだが、馬上の斎藤が刀を抜きやすい様に、千姫が京の細工師に腰の右側で打刀を留める事が出来る様に工夫をして貰った物である。
斎藤は、愛刀の國重の鞘を腰帯に差し込んだ。下げ緒を一旦外し、足金物を足間を調節しながらずらした。それから、兵具鎖の捩れを戻して、腰帯に取り付けた。直接腰に差すより、柄が下に離れるが、馬上では丁度良い具合に太腿の上に柄が来る筈だ。斎藤は丁寧に下げ緒を巻き直した。
千鶴は、新しいシャツも用意して斎藤の着替えを手伝った。フロックコートを着た斎藤は凛々しく立派で、千鶴は斎藤を見上げうっとりと眺めた。それから、鏡の前の物入れから櫛を取って来ると、斎藤の髪を梳かした。
「そこまで、せずとも。そんなに見苦しいか」
斎藤は苦笑いした。
「いいえ、ちっとも。旦那様が余りにご立派なので、私が気後れしてしまいます」
千鶴が「旦那様」と呼ぶのは、珍しい。斎藤は、照れ臭い気分でいっぱいになった。腰帯を一旦外して刀を置いて、コートを脱いだ。衣装入れにコートと腰帯を仕舞った。千鶴は上り口で、斎藤の革靴を手拭いで磨いていた。
「礼を言う。急いで行ってくる」
斎藤は靴を履くと荷物を持って、玄関を出ようとした。千鶴は、「はじめさん」と呼び止めた。
「あの、私も観に伺ってもよろしいでしょうか」
「何をだ」
「はじめさんの居合を」
「厩の陰からで良いんです。遠くからでも観られる事が出来るなら。決してお邪魔はしませんから」
「今から一緒に出られるのか」
「ええ、それは」
千鶴は自分の身仕舞いを眺めた。
「この格好だと、着替えないといけません。はじめさん、先にお戻り下さい。私は仕度をして追いかけます」
「あいわかった。では先に行く。馬場は人の出入りで騒がしい。玄関に周った方が良い」
「はい」
千鶴はそう返事をすると、急いで家に戻って、着替えをした。
****
斎藤が藩邸に戻ると、急拵えにしては大層立派な御披露目会場が出来上がっていた。陣幕が張られた馬場の近くの主屋の縁側に敷物の上に床几が並べられて居た。彼処からだと馬場が一望出来る。
斎藤は、厩別当に馬の調子を尋ねた。青葉は少し興奮気味で、颯は妙に何時もに比べると大人しいと云う。斎藤は、二頭の馬を眺めた。颯は背後の斎藤の気配に気付きながらも、耳を欹てたまま、尻尾を左右に振っては下ろし、振っては下ろすという動作を続けている。斎藤は、思わず笑いがこみ上げた。まるで、道場破りが現れた時の総司そのものの態度ではないか。
「颯、そう気を逸らせるな。落ち着いて行くぞ」
斎藤は、そう言って微笑むと、颯の横をすり抜けながら、横目でその表情を伺った。颯は、挑発的な目をして笑う様に瞼を下ろした。其れから一声嘶いて足踏みをした。武者震いをしているかの様なその動きに、斎藤は苦笑いをした。この聡い相棒をどうしたものか。斎藤は、一旦主屋の座敷に戻って、着替えをした。あと四半刻ほどで、田名部から大殿が見えるという。
フロックコートの釦をゆっくり留め、腰帯を付け佩刀した。鞘には右手を添えず、手綱を持つように右手を上げた状態で左手を伸ばし抜刀した。國重の刀身は冴えている。良し。斎藤は刀を前に構えて瞑目した。暫くの精神統一の後ゆっくりと鞘に収めた。其れから部下に呼ばれて、馬場と馬揃えの段取りの確認に外に出た。
容保公が到着すると、暫くの休憩の後に御嫡男の容大公の手を引いて馬場の観覧席に現れた。そして、席に着くと。大参事、小参事が一緒に並んだ。
山川の合図で、お披露目の会が開始された。
斎藤達、大番の騎馬部隊が列を作って、観覧席の前に立ち最敬礼をした。
「最初に、馬揃え足踏みをご覧頂きます。その後に、馬上居合を披露致します」
斎藤が、敬礼をすると。
「颯か。颯を走らせるのだな」
容保公が、斎藤に尋ねた。
「はい、颯号でお披露目致します」
容保公は嬉しそうに頷いた。
斎藤達はもう一度敬礼をしてから、馬の準備に戻った。
馬揃えは、興奮気味だった青葉が落ち着いた様子で皆を統制し、見事な出来映えだった。皆で順番に抜刀すると、午後の光が刀に反射して眩しいぐらいであった。容大公は席から立ち上がり、手を振って喜ばれている様だった。順番に馬場から下がると。斎藤は、颯を引いて、馬場の外の定位置についた。厩の横の影で千鶴がそっと立っている姿が見えた。斎藤は、馬引きを呼んで、一旦颯から降りると、直ぐに戻ると行って千鶴の元に走った。
「来ていたのだな」
「はじめさん、間に合って良かった。ご立派な馬揃えでした」
千鶴は興奮気味で、嬉しそうに斎藤を見上げている。
「これから、居合だ」
「ここからでも観られるが、主屋側が日陰になって観やすい」
そう言って、千鶴の手を引いて観覧席に向かった。山川が千鶴を連れた斎藤の姿を見つけて、手招きをした。床几を置いた場所を指差し、千鶴を座らせる様に指示した。
「大殿、藤田の妻君、千鶴殿でございます」
山川が千鶴が来たことを知らせた。容保公は千鶴の姿を見ると、立ち上がり笑顔を見せた。
「おお、そなたであったか」
千鶴が最敬礼で丁寧に挨拶をすると、
「藤田は、実に良くやっておる。さ、前に参れ」
大殿は容大公を自分の膝の上に座らせると、若殿が座っていた場所に千鶴を座らせた。千鶴は恐縮した様子だったが、席に座ると馬場が見下ろし一望出来る事に感動した。そして何よりも、数年振りにお会いした元藩主の大殿様が、自分を覚えていて、心安い様子で側に座ることを許された事が嬉しかった。斎藤は、千鶴が観覧席についたのを確かめると、容保公と山川に一礼して馬場に戻った。
斎藤が、颯に乗って定位置に着いた。容保公が膝の上の嫡男に、
「今から真の居合が始まる、しかと見ておこう」
そう言って、山川に合図をした。
山川は立ち上がると、軍配を上に掲げ、斎藤に用意をさせ、思い切り振り下ろした。
斎藤は、手綱を振り下ろし、鎧で颯に駈けろ、と合図した。
颯は全力疾走した。斎藤は午後の眩しい光の中で風を感じた、颯の飛ぶ様な軽い跳躍に自分はただ一緒に駆け抜ける。目印の青竹が遠くに見えた。斎藤は素早く刀の柄に手を掛けて、抜刀した。全てがゆっくりと時が止まった様に感じる。國重の重心が自分の身体と同じ様に先に移る、此れだ、此の儘の角度で斬る。
どよめきが聴こえる中、楓は更に掛け続ける、まるで空駆けるような軽さだ。斎藤は刀を構えて、身を低くした。颯の跳ぶ瞬間、蹄が地面を完全に離れ四肢が浮く時に斬る。斎藤と示し合わせたかの様に息を合わせ、颯は最後の青竹の前を通り過ぎた。馬場の終わりまで走り込むと、手綱を引いて、前脚を挙げた後に、踵を返してゆっくりと主屋に向かって常歩で戻ってきた。皆が立ち上がって手を打って斎藤と颯を讃えた。
斎藤は容保公と容大公の前で、颯を馬揃えた。颯はじっと首を掲げ、「如何だ」とでもいうばかりの表情である。斎藤は刀を上に掲げ、山川が軍配で合図を送ると、宙を翻してから、鞘に収めた。其れから、馬から降りて、膝をついて藩主と容保公に敬礼をした。
大殿と容大公が縁側から降りて来た。
「見事であった。そなた、また腕を上げておるのお」
そう言って笑顔を見せる容保公に、斎藤の部下が、最後に斎藤が斬った青竹を持って来て見せた。
「一寸違えず、水平じゃ。ほら、慶三郎見てみよ。見事な切れ口だ」
容大公は、輪切りにされた青竹を手に取ると二つを打ち合わせて、カンカンと音を立てた。皆が其れを見て笑い。そのまま大竹を容大公の記念の玩具にしても良いかと大殿が斎藤に尋ねた。斎藤は畏れ多く、これ程の喜びはないと応えた。
厩別当が、三方の上に、人参を載せて容保公と藩主に献上した。容保公は野菜を取ると、
「ほら慶三郎、お馬に褒美を取らせよう」
そう言って、親子で睦まじく人参を馬に食べさせた。頭を垂れて、頭や鼻先を容大公に撫でて貰い、颯はご機嫌な様子を見せた。まだ小さな若殿は、物怖じしない様子で、更に近づき自ら頰を付け、耳の付け根を撫でた。斎藤は、容大公が颯が撫でられて一番悦ぶ場所を知っている事に驚いた。気紛れな颯が、この様に自分から寄り添う。最初、千鶴に対しても、颯がよく似た態度を取って居たことを思い出した。
(そうか、総司と同じなのだな)
斎藤は、優しい微笑のまま藩主親子が馬と馴染んでいる様子を眺めて居た。観覧席で千鶴が笑顔で座っていた。その日の夜は、宴会が開かれ、容保公は田名部には戻らず、容大公と共に藩邸に滞在した。宴席に千鶴も招ばれた。
斎藤と並んで座る千鶴を見た容保公は、終戦後、妙国寺に謹慎となった姉の照姫が大変世話になったと千鶴に労いの言葉をかけた。会津藩が降伏し、斎藤が謹慎蟄居で塩川に連行された折、照姫が雪村千鶴を預かると申入れをしてくれ、それから半年の間、千鶴は照姫と御付きの数名と一緒に暮らした。照姫は、敗戦の哀しみに打ち拉がれた様子を決して表には見せず、戦で散った命を弔おう、そして生き延びた我々は会津の誇りを失ってはならぬと皆を励まし続けた。
殆ど外出も儘ならぬ生活だったが、照姫は風流を好み、和歌や読書、謎解き遊びの様なものを考案されて、千鶴は毎日が刺激的で愉しい生活であったと今も思い返す事があると容保公に語った。
「そなたが斗南に赴き。藤田に嫁いだと聞いて、姉上は大層御喜びであった」
「藤田、山川が言っておったが。祝言を挙げておらぬそうだな」
「はっ」
「夫婦の盃は交わしました」
「そうか。どうだ、わしが居る内に、祝言を挙げるのは」
「わしは会津の為に命をかけてくれた其方に万分の一も返せておらぬ。斗南にも赴いてくれて、まだ会津に尽くしてくれておる。そうやって、直ぐに首を振って断る」
「だが、儂は千鶴殿とそなたには感謝して居るのだ。此処にいる藩士全員そう思っておる。東京に居られる姉上も」
山川が隣の席でそうだと頷いていた。こうして八月の終わりに斎藤と千鶴の祝言を挙げる事が決まった。仲人は山川浩、上仲人に容保公がなった。
千鶴は、千姫に斎藤の馬揃えの御前披露が立派だった事、千姫が贈った太刀帯を使う事が出来て嬉しかったと式鬼を送った。八月の終わりに正式な祝言を挙げる事も報せた。吉報に喜んだ千姫が、八瀬の御所車で現れ、白無垢と角隠しを用意した。京で新選組と暮していた頃に、八瀬の遣いとして、千鶴を助けた「葵」が前年に嫁いだ時に纏った衣裳だと聞いて、更に嬉しさが増した。
宴席は、非常に豪勢なもので。容保公は自ら能を舞って見せてくれるなど、終始和やかで幸せな気分に包まれるものであった。
千鶴たち夫婦は、千姫がこうして身内の様に接してくれている事に感謝した。祝言の翌日に、八瀬に帰る千姫に、千鶴はとても幸せだと伝えた。千姫は千鶴達を取り巻く状況が、国やまつりごとに依って激変しないことを祈った。国の中心は東京に移り、目紛しく世の中は変わっている。でも千鶴なら、どんな状況でも斎藤と手を携えて乗り越えて行くだろう。笑顔で手を振り続ける千鶴を振り返りながら千姫は思った。
祝言の後、間も無く容保公が東京に戻る事になった。港まで千鶴は見送りに行った。容保公は再び身柄を東京の和歌山藩邸にお預けとなる。斎藤と千鶴は、大殿が斗南での夏を忘れないで居てくれる事を願った。斎藤は、騎馬訓練を剣術同様精進させると元藩主に誓った。
こうして、斗南での短い夏が終わった。斎藤と千鶴にとってキラキラと眩しい季節であった。
つづく
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