会津新選組

会津新選組

 

戊辰一八六八 その23

慶応四年八月の終わり

 

 仙台へ向かった土方と別れた斎藤達は、翌日伝習隊と共に塩川に移陣した。新選組小隊は歩兵を含め二十名。器械方の荷車が一台。後方に兵糧と行李を積んだ小さな荷車を歩兵三名と千鶴が一緒に押して歩いた。

 

 塩川代官屋に宿陣中、大鳥は会津領内に駐屯している幕府軍に戦況確認の伝令を送った。会津に隣接する藩の内、西に位置する越後では既に新潟港が新政府軍に包囲され、武器の補給経路が断たれてしまっており、只見方面の越後津川口に敵軍が進軍して来ているということだった。三日間の休陣中、塩川において改めて新選組小隊は「会津新選組」として編成され、伝習隊と共に西方面にある山三郷への出陣が決定した。

 

 斎藤たちが小布施の集落に着いたのは、翌日の昼過ぎ。大鳥は会津藩守備方に越後口での戦いに武器弾薬の援助要請を送ったが、守備方からの返信は一切なかった。唯一、大川沿いの神指城に詰めている幕府軍衝鋒隊より、二個中隊の移動が可能だという報せがあった。斎藤たちは先行隊として只見方面に向かい、峠越えの山間集落に身を寄せて休息した。

 

 行軍中、千鶴の兵糧集めは目を見張るものがあった。兵糧方として「会津新選組」証文を村落に提示し、穀類、芋、乾物の供出を募った。陣に戻る道すがら、木の実を拾い野草を摘んで帰る。いつの間に作ったのか、麻袋に肩紐を縫い付けたものを背負い、帰路に着く頃には背中の袋が食糧で膨れあがり、大きな亀の甲羅を背負うようにゆっくりと戻ってくる。隊士たちは、そんな千鶴の姿を見て「亀甲羅兵糧守」と揶揄った。

 

 陣営でも千鶴は伝習隊の軍医を手伝い、怪我人や病人の世話をしている。既に伝習隊にとっても千鶴は陣営から欠く事が出来ない存在になっていた。只見陣ケ峰での敵軍との一騎打ちになった時、千鶴は本陣の救護掛として待機し負傷者を素早く手当てした。千鶴のお陰で伝習隊士達はすみやかに戦線に戻ることが出来た。砲門を持たない斎藤たちは、小銃と刀を用いて果敢に戦い、敵の進軍が緩やかになったところを急遽、北方の長窪の守備に向かうことになった。一日と置かずに、二十里の距離を行軍する。会津北方は越後口、木曽口の両方から敵が侵攻してくる恐れがあった。

 

 翌朝、木曽口で新選組と伝習隊は街道を攻めて来る敵軍を迎え撃ったが、弾薬が足りずに昼前に敗走した。その日は小田村まで退却し、大鳥は会津軍へ三度目の援軍要請を送った。伝習隊に負傷者四名、新選組に負傷者が三名。いずれも軽症だったが、連日の過酷な行軍で隊士達は疲労困憊している。大鳥の判断で、援軍が到着するまで集落で休陣することになった。

 

 

 

慶応四年九月二日

 

 翌日、長窪に送った斥候から敵軍は徐々に南下してきていると報告があった。

 

 幕府衝鋒隊から援軍に向かうと伝令が届いたのが、夕方近く。間もなく二個中隊が到着した。早速軍議が開かれ、衝鋒隊隊長の古屋より会津城下の状況報告があった。

 

「城兵は城を死守するために奮闘しています」
「敵軍に城を包囲された時、会津軍第一砲兵隊が天寧口から突撃しましたが、敵軍に一斉に撃たれて、大勢犬死しました」
「我々は、その時に天寧口から撤退して」
「朱雀四番隊寄合中隊は、狙撃隊を連れて三日前に入城に成功したと聞いています」
「ですが、それ以外はなかなか」
「城内には二千の兵がいます。籠城戦に入って十日あまり。敵兵が城郭の周りを取り囲み、会津軍は郡山から大きな守備部隊が戻って来ましたが、城の中に入ることもできない状態です」
「二日前に敵軍の一斉砲撃が始まって」
「城外総督の率いる部隊が千の兵を連れて西追手門から反撃に出たそうですが、太刀打ちできず……」
「敵は焼玉を城にも撃ち始めて。火の手で城下は丸焼けになっています」

 

 悔しそうに語る古屋の隣で、衝鋒隊の軍目も憤るように拳を握り絞めている。

 

「甲賀口は絶対に落としてはならない」
「北方からの侵攻を防ぐのが急務と思い。それゆえ、こちらへ急ぎ援軍に参ったのです」
「城北の守りは?」

 

 大鳥の質問に、「高久村に会軍が百の布陣。我々は後方の神指城の守備陣でしたが、不急の布陣だと判断しました」と衝鋒隊隊長の古屋は答えた。斎藤は、台上に広げられた布陣図をずっと見詰めたまま黙っている。斎藤は、城北の会津守備陣営が手薄な状態に愕然とした。

 

(このまま北方から進軍してくる敵が高久を攻めた場合、後方支援なくば城下への接近を許す事になる)

 

「衝鋒隊は、ここ小荒井で戦う所存」
「わかった。神指城は空くが仕方があるまい。会津軍の後衛にまわる必要はないだろう」

 

 大鳥は古屋の判断に納得し、小荒井の布陣を衝鋒隊軍目と相談し始めた。小砲隊を持つ衝鋒隊は、砲門を二門武備している。街道を封じ込める形で砲台を築くには、街道封鎖は間に合わない。集落の入り口を砦にしようと言って、軍目たちが騒然とし始めた。

 

「新選組は会津軍の後方支援に向かいます」

 

 斎藤の声が一同の発言を止めた。その場は一瞬静かになり。皆が顔を上げて斎藤の顔を見た。

 

「神指城の守備を欠く事はできません。高久の会津軍に猪苗代から敵が撃ってくる可能性もあります」
「会津軍への援助は不要だ、山口君」

 

 きっぱりと大鳥が応えた。

 

「会津藩軍参謀の意向は、我々に近隣藩からの援助を受けるよう謀れという事だ」
「母成峠の敗戦から、会津に援軍要請を再三行ったが返信は来ない」
「我々の資金も底をつきかけている。会津から支援が受けられない今、戦える地に向かい隊を立て直すのが得策だろう」
「ですが、城下の防衛網にあたる神指城の陣が空くことは、決してあってはなりません」

 

 斎藤は台上の上に置いた拳を握りしめた。

 

「会津新選組は、会津を守る為に」

 

 その時、衝鋒隊隊長の古屋が声を上げた。

 

「無謀だ。神指に五百の兵が一気に街道を攻めてくるなら、砲台を何門も構えて何百と兵が要る。我々が百名そこらで迎撃しても、勝算は見込めん」

 

 その隣で大鳥も大きく頷いた。

 

「山口君、僕も新選組が会津軍の援護にまわる必要はないと思う」
「会津がどれだけ持ちこたえるかは、わからない。恐らくあとひと月か……。城が落ちるのは時間の問題だろう」

 

 大鳥は静かに斎藤の眼を見て云った。

 

「城が落ちるからといって、このまま見捨てることはできません」
「それは我々の志を捨てることになる」
「……私の思う武士の誠義ではありません」

 

 背筋を伸ばし、斎藤は大鳥の眼を真っ直ぐに見て云い放った。大鳥は、何かを云おうと口を開きかけたが、ぐっと唇を閉じると静かに頷いた。その場に居た者は、斎藤の決心に驚いていたが、会津新選組として義を通す覚悟に諾するしかなかった。

 

「わかった。君が隊を率いて神指城に向かうのなら。衝鋒隊と入れ替わりに会津新選組が守備につくと私から高久の萱野殿に伝令を送ろう」

 

 その後、小荒井から塩川、猪苗代の広範囲での守備陣営の話し合いが行われた。軍議が夜半に解かれると、斎藤は部屋に戻った。

 

 

 

*****

 

 隊士達が宿陣している家屋に斎藤は軍目の久米部を連れて向かった。

 

「皆、聞いて欲しい。これより新選組は編成より離れることに相成った」

 

 車座になった隊士達に、斎藤は伝習隊を離れ城下への援軍に向かう意向を説明した。

 

「我々、会津新選組はこれより高久村に向かう。会津軍の後方援護にまわる」
「武器弾薬に乏しい我らが、前線で戦うには厳しい状況であることに変りはない」

 

「ここに残りたい者は残ってよい」

 

 斎藤は座する隊士達全員を見回しながらそう言って立ち上がった。

 

「布陣先は神指城だ。発てる者は持てるだけの武器と兵糧を持って陣屋前に集まれ。明け四つに出立する」

 

 そこに居たほぼ全員が「承知しました」と返事をした。斎藤は、そのまま本陣に戻った。奥の部屋で千鶴が起きて待っていた。既に、荷物が綺麗に纏められ、千鶴は靴足袋の繕いをしている手を休めて立ち上がった。

 

「すぐに寝間を」

 

 斎藤の上着を受け取って。布団を広げると、薄い掛け布団を置いて、その上から陣羽織を重ねるように掛けた。斎藤は横になった。千鶴は斎藤が身体を横たえなければ、決して自分は休もうとはしない。斎藤はこれから先、このように畳の上での休息は望めそうにないと思い、千鶴の手を引いて抱きしめた。

 

 行軍中、軍目以上の者は投宿先に部屋を確保されている。大塩宿から塩川に戻って以来、襖で間地切られただけの小部屋に斎藤は千鶴と一緒に身を休めている。陣屋によっては、襖が開け放たれたまま、隊士達と雑魚寝になる時もあった。それでも斎藤は自分の腕に千鶴を抱きしめて床につく。

 

「雪村君は、君の【わいふ】同然だね」

 

 大鳥にある朝、言われた【わいふ】という言葉。千鶴の事を「猥婦」と言われたと思い、斎藤は憤慨しかけたが。

 

「ワイフは西洋で【細君】という意味さ。彼女は君の大切な人なんだね」

 

 大鳥は冷やかすような表情で眉毛を上げて笑顔を見せた。全身が紅潮し否定も肯定も出来ず斎藤が周章狼狽した朝。手水場での、二人のやり取りを斎藤の部下が聞いていたのかはわからぬ。だが、新選組一同歩兵に至るまで、大塩宿より移陣してからこのかた、宿陣先で斎藤と千鶴が二人で休めるように苦心しているらしく、狭い陣屋でも極力斎藤達が二人きりで過ごせるように一間を確保しているようだった。

 

 斎藤にとって、部下たちの気遣いや「見て見ぬふりをする」振る舞いは有難かった。千鶴も同様で、片時も斎藤から離れることなく傍に居られる幸せに自然と顔がほころぶ。戦地に赴く悲壮な状況とは裏腹に、斎藤の腕の中で過ごす幸福を取りこぼすことのない想いで一杯になりながら、一瞬一瞬を過ごしていた。

 

「あと数刻の内に出立する」
「今の内に眠っておくとよい」

 

 腕の中の千鶴はこっくりと頷いて目を瞑った。

 

*****

 

神指城

 

慶応四年九月四日

 

 夜明け前、まだ暗い内に会津新選組小隊は小荒井を出立した。

 

 街道途中の熊倉で、薩兵小隊が待機する建屋が見え、速やかに下街道に身を隠した。まだ陽も上がらぬ蒼い風景の中、空気はしんとしている。斎藤は夜目の効く様子で辺りを素早く確認し、隊士達に大川に沿って警戒を怠らず林の中を進むよう指示した。

 

 朝日が東の背炙り山の頂上から昇ってくると、眩しい光の中に高久村が見えてきた。斎藤は隊を先に向かわせ、千鶴と一緒に川沿いの林の影を陽の光を避けながら進んだ。会津軍は下街道の東側に鎮座する八幡社に陣営を構えていた。会津新選組が幕府衝鋒隊と入れ替わりに神指城で守備にまわると伝えると、軍営より小銃弾薬が支給された。

 

 会津軍陣営より南に三里の場所にある神指城は、四方を高い土塁で二重に囲んだ平城跡で、本丸の南西の隅に一番高い土塁、その背に大川の州がある。土塁の上には如来堂が鎮座し杜は木で囲われていた。斎藤はお堂の中に千鶴を匿い、陣を置いた。斥候を北東と南東の隅に置き、本丸の一番深い塹壕に鉄砲小隊を五名待機させた。残りの隊士五名と歩兵三名を斬り込み隊として、槍や刀で迎撃することに決めた。

 

 斎藤たちが神指城に辿り着いた時、既に会津軍も幕府軍も陣を完全に引き払っており、広大な城跡の土塁は打ち捨てられた状態だった。北方からの侵攻、猪苗代からの敵軍の進軍を止めるためにも、街道を移動する敵をこの城跡から迎撃し阻む。たった十数名の小隊だが、斎藤達新選組は街道を守る為、全力で戦うつもりでいた。

 

 日没前に隊士達は一旦帰陣し、街道に敵の姿はなしという報告が斥候より伝わった。木曽口からの敵の進軍は想定より緩やかで、斎藤は夜間に隊士達に十分に休息するように指示した。千鶴の報告で、越後口で負傷した隊士の傷はほぼ塞がり、刀が振るえる状態であることが判った。御堂の中は、板の間に筵が広げられ、奥の須弥壇の前に御簾が下ろされている。うっすらっと蝋燭の光の向こうに小さな阿弥陀像が立っているのが見えた。千鶴は、持って来た兵糧を全て本尊に供物として捧げるように須弥壇の前に並べて置いていた。手を併せてから、食糧を下げて隊士達に配ると、皆が貪るように食べた。全く火のない陣営。夜間はぐっと冷え込む。空腹が紛れた直後に、隊士達は身を寄せ合って温まり、筵で身体を覆って横になった。

 

 外は月明かりもなく暗闇が広がっている。

 

 斎藤は大川の流れの音を聞いていた。淀みない水流は、そのまま辿れば遠く城近くまで行きつく。前日に衝鋒隊隊士から聞いた城下の風景が思い浮かぶ。

 

 燻る黒煙に黒焦げの藩士の館
 逃げ遅れた町人や女子供の遺体が転がり
 砲弾で肩や足を失くした兵士たちの姿
 顔や地面に黒々と流血淋漓するさま
 血生臭い風
 止まぬ砲撃の音と激しい弾雨

 

 会津がどれだけ持ちこたえるかは、わからない。恐らくあとひと月か。
 城が落ちるのは時間の問題だろう。

 

 大鳥の言葉。城の二千の兵が城を取り囲む敵を迎え撃つなら。城外部隊の我らが出来ることは、城下の敵軍を討つ事。敵の補給路を断ち、敵の援軍を阻む。

 

 ——俺はこれを仙台に届けなくてはならなくてな。

 

 土方が大塩宿で手に取って斎藤に見せた会津軍嘆願書を思い出す。

 

 会藩元より必死を決し候上は
 成敗を天に付し
 寧口義を以って死候とも
 不義を以生きず
 報国の二字を骨に銘し奸賊を誅戮す

 

 これはご家老が書かれたものだと土方さんは言っていたが、徹底抗戦を望む会津藩士、大殿と守の殿の御意志でもあった。

 

 義に死すとも、不義には生きず。

 

 たとえこの命が尽きても、俺は義の為に戦おう。

 

 板の間に横たわる隊士たちを見回しながら、斎藤は静かに語りかけた。

 

「我らの誠義のために」

 

 傍らに斎藤の陣羽織を掛けて丸くなるように眠っている千鶴を見た。小太刀を抱えて、小さな手を祈るように組んでいる。斎藤は、千鶴の頬にかかる髪をそっと後ろに梳かし、背後から抱え込むように千鶴を抱きしめて横になった。どれだけこうしていられるだろう。

 

 あとどれ程の時を……。

 

 暗闇の中でも、こうして抱きしめていればぬくもりを感じられる。

 

 恐れることなどない
 決して……。

 

*****

 

如来堂の戦い

 

慶応四年九月五日(新暦十月二十日)

 

 陽が上がると同時に、北東詰めの斥候が「敵軍が街道を上って来た」と駆け戻って来た。斎藤たちは高久村の八幡社の会津軍が破れたと思った。敵の旗は、三川から船で湯川を下り神指の手前の州から進軍していることが判った。高久村の会津軍との合流は間に合わない。斎藤たちは小銃隊を構えさせ敵兵に向けて攻撃を開始した。

 

 凄まじい銃撃の音が続いている。

 

 千鶴は、御堂から出て行った隊士達全員の無事を祈った。敵軍は、神指城を取り囲むように隊列を成して移動し始めた。塹壕の中を斎藤たちは、敵に気付かれずに北から南側へと移動し、近づく敵の歩兵部隊を一刀両断で倒して行った。斥候の報告で、敵兵は背後に砲門部隊が控えているにもかかわらず、前線には歩兵と小銃隊だけを並べている事が判った。

 

「敵軍は恐らく城下への武器輸送部隊であろう。兵站を襲えば、我らの武器確保が叶う」
「敵の進軍を阻む」
「歩兵を討ち、小銃部隊に斬り込む」

 

 隊士達は頷いた。続々と街道に並ぶ敵兵は、その数二百を下らぬ。全員を討ち取ることは無理でも、前線の歩兵を一人でも多く討ち取れば、敵の進軍を阻み、高久村の会津軍が北方からの敵軍を抑え込む助けになる。

 

 敵軍は、塹壕から突然斬りかかる斎藤たちに、動揺の様子を見せた。羅刹と化した斎藤は、鬼神の如く銃兵を斬り倒していく。敵の小銃部隊は蹴散らされ、包囲陣に綻びが生じた。前線の歩兵部隊は全員倒した。敵は十軒先から小銃を砲火するが、深い塹壕に身を隠す新選組部隊には届かない。敵兵は、城跡の土塁に誘い込まれる事を警戒している様子だった。高久村の会津軍に伝令さへ送ることが叶えば、街道を背後から挟み撃ちにすることが出来る。だが、斎藤たちの部隊は、一人も隊士を欠く事はできない。

 

 敵とのにらみ合いが続いた。恐る恐る近づいてくる敵の第二歩兵隊を、一人一人と塹壕の中に誘い込み討ち取る。その数、三十以上。敵兵の遺体で塹壕が埋まるほどになった。こうして斎藤たちは、敵の小銃隊から銃と銃弾を奪った。吉田は、俊足を活かして外側の塹壕を北へ向かって走り、北詰めから銃砲を放ち、直ぐに南側に戻り空砲を撃つ。敵軍は、神指城に小銃部隊が四方に潜んでいると警戒し、北詰めを攻める様子を見せない。

 

 暮れ四つに外は暗くなり始めた。斎藤は敵兵が大川の州を背後に、一番高い如来堂の土塁周りに移動し始めたのを警戒し、隊士全員を御堂に呼び戻した。陣を完全に取り囲まれている。斎藤は隊士たちを集めて、奪った武器と兵糧を纏めさせた。

 

「皆、よく聞け」
「御堂の裏手より川に出る。州の奥の林に身を隠し、湯川に抜けて舟で城下に下る」
「今夜は月も出ず、敵は篝火を灯すだろう」
「俺が御堂の表より出て、敵兵に斬り込む。お前たちは、その隙に土塁を駆け下りろ」
「斬り込み隊なら、俺が」
「わたしが行きます」
「隊長は、雪村君を連れて裏に逃げてください」
「俺等は後を追います」
「いや、俺が行く。俺は夜目が効く。篝火の前なら敵は銃を放つだろう」
「銃弾は全て、俺が叩き落とす」
「その隙に逃げろ。よいな」

 

 伍長の志村、軍目の久米部が先頭に立ち、千鶴を取り囲むように隊士達が連なった。全員が合切袋と武器を抱え、御堂の入り口の土間に降り立った。

 

「よいか。俺が先に出る。御堂の左手に廻れ。橡の木が三本ある、二番目の根本から土塁を滑り下りろ。塹壕は深い」
「二手に分かれた州の左側が湯川だ」

 

 皆が頷いた。斎藤が御堂の開き戸を押した瞬間、千鶴は全てがゆっくりと動くように感じた。暗闇の向こうには、橙に光る篝火が見えた。誰かが強く手を引っ張る。

 

 橙の光に向かって走る斎藤の背中が見えた。
 濃い碧の髪が揺れて、白く変わった。
 さむはら、さむはら、さむはら。
 どうかご無事で。必ず一緒に。

 

 千鶴は強く背後に手を引っ張られるまま、身を低くして移動した。辺りに銃砲の音が響いた。大声で叫んだ。

 

 斎藤さんを撃たないで。どうか。
 斎藤さん、斎藤さん。

 

 目の前に、木々や土、草がぐるぐると回っている。自分がどこにいるのかもわからない。ただひたすらに足を動かし身体を低く小さくして、引き摺られるように動いていった。「こっちだ」「こちらだ」という囁くような声。遠くに銃砲音が鳴り響いている。

 

 斎藤さん、斎藤さん、斎藤さん。

 

 千鶴は目の前が涙で滲んで、何も見えない。気づくと、器械方の高田文二郎の腕の中に抱えられるように木の根の上で座っていた。

 

「静かに。ここは湯川のほとりです。隊長が来るまで。ここで隠れていましょう」

 

 砲撃の音はいつの間にか止んでいた。千鶴を抱える高田、隣の木の陰に伍長の志村、久米部の姿が見えた。他の人たちは……。聞きたくても、声がでない。全員で御堂を出た筈。斎藤さん、斎藤さんは……。千鶴は震える手で口元を抑えて、泣き声が漏れるのを堪えた。

 

「裏手の土塁の上で、吉田と池田が引き返した」

 

 久米部がようやく話し始めた。如来堂から塹壕を真っ直ぐに進むと大川の林があった。その距離は五間ほど。ここに居ない隊士たちが、あの時全員御堂に戻った。あの銃撃戦の中に。千鶴は、両手で口元を覆って嗚咽を始めた。むせび泣くその声は、川辺から通る冷たい風に吹き消され、水流の音だけが響いている。

 

 半刻ほどが過ぎただろうか。がさがさという音が聞こえた。高田が、千鶴を庇うように木の前に立ち刀を抜いて構えた。志村が前に立ち、久米部も刀を抜いて身を低くした。

 

「うわっ、」
「おっと」

 

 聞きなれた声。吉田さん。千鶴は、身を乗り出すように高田の背中から顔を出して前を見た。暗がりの向こうから人影が近づく。林の中を進むのは、隊士達だ。

 

「こっちだ。その声は吉田か?」

 

 伍長の志村が呼びかけた。ざざざっと土の上を滑り下りる音が聞こえ。林の影から顔が見えた。吉田俊太郎だった。背後に池田七三郎の顔も見えた。

 

「ご無事でしたか」
「やっと見つけた」

 

 近づいた吉田は笑顔で木の根の上に降り立つと、「斬り込み隊は逃げ切りましたよ」と伍長と久米部に報告した。千鶴は一気に笑顔になった。

 

「私らは、ここより上手の森に逃げ込んで無事です。皆を呼びに参りましょう。ここで待っていてください」

 

 それから四半刻ほどして、斎藤たちが林の中を移動してきた。千鶴は、声を立てずに斎藤に駆け寄り縋り付いて大泣きした。

 

「皆、無事だったか」

 

 集まった隊士達は、黙ったまま頷いた。斎藤が先頭を切って、敵陣に切り込み。篝火の傍の小銃兵を五名斬った。土塁の下から引き返したのは、吉田俊太郎、池田七三郎、清水卯吉。この三人は新選組三番組の手練れ。斎藤と一緒に次々に敵兵を斬り殺し、篝火を消し去って逃走したらしい。

 

「荒井は撃たれた」

 

 河合鉄五郎が泣きながら報告した。斎藤は「そうか」と残念そうに呟いた。また、部下を失った。身を切られるような思い。己が判断を謝ると、こうして仲間を失くすことになる。項垂れる隊士たち。どうしようもない悔しさに、斎藤は敵より先に城下へ辿り着かなければと強く思った。

 

「川沿いを移動する」
「敵兵が潜んでいるやもしれん。舟を見つけ次第それに乗って城下へ下る」

 

 俺が先頭に、と斎藤が林の中を進んで行った。斎藤は暗がりでも路を難なく見つけることが出来た。林や堤の向こうの野原に潜む動物の動き、遠く潜む敵陣の音も聞き分けることが可能だった。完全に研ぎ澄まされた状態で、木々の間を飛ぶ様に進む斎藤の背中を、千鶴と隊士たちは、その腰に巻いた白い晒を目印に追いかける様に付いて行った。

 

 

 

******

 

城外部隊総督

慶応四年九月六日

 

 湯川沿いに城下に入った斎藤達は、寺町長命寺の会津藩城外部隊に合流した。

 

 陣営の張られた境内で漸く背負ってきた荷を下ろした隊士たちは、早速薩兵から奪った武器弾薬を会津軍器械方に持ち寄り、扱い方を習うことになった。敵軍の銃は、砲弾が大きく威力が強いと説明を受けて、高田文二郎は新選組が分捕った小銃と弾薬五百発分は、立派な戦利品だと得意になった。

 

 斎藤は、城外部隊総督の佐川官兵衛に面会していた。佐川とはずっと以前、京の黒谷や会津藩調練所で顔をあわしていた。佐川は豪胆な剣豪で刀を振るう者を鋭く観察する。身分貴賤に関係なく強い者を認め身近に置き、会津藩の為に戦ってきた。斎藤が城外部隊への援助を申し出ると、佐川は大いに喜んだ。

 

「高久村は補給路を敵軍に封鎖された。萱野隊は塩川に向かったと聞いている」
「城北は、小綱木より朱雀四番隊が萱野隊に至急合流する手立てだ」
「我々は敵軍の補給路を断つために、城南で敵を撃つ」
「後詰めとして、正規軍の援護に廻ってもらいたい」

 

 小銃と刀で戦う新選組は佐川率いる城外部隊と共に大川沿いに南へ下った一ノ堰に移陣することが決まった。

 

「一ノ堰は我が藩の食糧補給路に繋がる。南の藩境からかろうじて兵糧を確保している」
「敵軍に経路を封鎖されぬよう南方へ行軍する」

 

 斎藤は編成書を見せられ、そこに別撰隊と野田隊の名前を確認した。野田隊は会義隊の一小隊。野田進が二十名の歩兵隊を率いていることが判った。斎藤は、野田と共に行軍することを心強く思い、新選組が待機する陣屋に戻り、翌朝に一ノ堰に移陣することを隊士達に伝えた。

 

 焦土と化した城下から大川沿いに一ノ堰に行軍した新選組は、大川を超えた本郷で敵軍と戦った。敵兵は前日に一ノ堰より撤退していた小部隊だった。新選組が前衛で斬り込み、背後に廻った野田隊との挟み撃ちで敵軍を壊滅させることに成功した。総督の佐川は戦果を大いに喜んだ。

 

「猛々しい限りだ。斎藤殿、このまま南方の敵軍蹴散らしに参る」

 

 一ノ堰一帯から敵を追い出した会津軍は、佐川の振る旗印の元、南山通りを南下していった。

 

 途中杉下で軍は隊を二手に分かれた。佐川率いる砲兵隊、飯田隊、鈴木隊、水戸兵を引き連れて面川に向かい、新選組は野田隊、進撃隊と共に大内峠へ向かった。九月九日に斎藤達は朱雀三番士中隊、同じく朱雀三番寄合隊と合流し街道をひたすら南下していった。佐川の率いる隊は、さらに田島に向かって行った。

 

 昼間でも山道は鬱蒼とした木々に囲まれて薄暗い。

 

 千鶴は時折空を見上げ、雲一つない空の下に赤や橙に染まる秋の峰を眺めた。隊の先頭を行く斎藤は、ずっと俯きがちに木々の影の中にいる。塩川を発ってから羅刹の発作は起きていない。山間に湧き出る清涼な水を飲んでいると、身が軽く楽になると斎藤が言っているように、千鶴は、斎藤の顔色が良いことに安心していられた。だが戦場での火薬と血の匂いは随分と斎藤を苦しめている事を千鶴は知っていた。隊士の傷の手当をする千鶴の隊服にも血の匂いが染みついている。

 

 どこかで休陣が叶えば、全て洗い流してしまえるのに。

 

 千鶴は山中で無患子の実を集め、洗える限り隊士たちの身につけるものを清潔に保った。連日の厳しい行軍で、同道している進撃隊、野田隊には病人が出ていて行軍がままならない状態だった。新選組隊士全員が、腹を下すことも風邪をひく事もなくぴんぴんとしているのは、千鶴が尽力して兵糧を用意し衛生を保ったことによる。

 

「思ったんです。わたしたちは長沼の山中で猿に近くなったんじゃないかって」
「鴉組のちっこい人も人間っていうより猿に近かったな」
「久太って呼ばれていた人か、あの人は蝙蝠と猿の合いの子だってよ」

 

 隊士達は夏の長沼山中の間道開拓の話で盛り上がっている。

 

「ここで塹壕を掘って凌げって言われてもへっちゃらですよ。わたしらは」

 

 斎藤は微笑みながら、部下たちの話を聞いている。元気な隊士達の存在は有難い。日に日に寒さが増す中で、夜間の野営は厳しいものがあった。千鶴が死守していた綿入れの陣羽織は、十名の隊士全員に行き渡っている。もう一つ、「油紙の胴巻き」が役立っている。傷の手当に使う油紙を千鶴は丸めて筒にしたものを行李の隙間に確保していた。ある日、千鶴が油紙を背中と腹に巻けと言って、皆に配ってまわった。冷え込みが厳しくなってきた夜。下着とシャツの間に油紙を挟むように巻いて、隊服を着ると身が温まった。以来、皆が油紙の胴巻きを重宝して使っている。

 

 新選組が南山通りを順調に南下していた頃、既に城下には敵軍が侵攻し、包囲軍は更に増強されていた。城下の新政府軍への物資兵站輸送部隊を攻撃する為、斎藤達は、進撃隊、野田隊と共に山間部での一掃作戦を行った。山岳戦は、会津軍が圧勝し本道を一気に峠超えをすることが叶った。

 

 進撃隊を先頭に斎藤達が大内宿へ辿り着き宿陣した九月十四日。城下では新政府軍の総攻撃が始まっていた。田島から急遽城下へ戻った佐川隊は奮戦するも、近隣藩が次々に降伏し、後詰めの援軍を期待できないまま籠城兵は窮地に追い込まれた。

 

 それから三日後、新政府軍の降伏勧告の書状を持って、米沢藩の使者が容保公へ謁見し、会津藩は降伏の意を固めていくことになった。九月二十一日、御前会議で容保公が降伏を決意し、城北、城南、南会津で奮戦する会津兵へ降伏の伝達を送った。

 

 九月二十二日。会津藩は降伏の白旗を本丸より掲げ。城下では新政府軍が小田山と七日町より大砲を交差させるように放ち、止戦を知らせた。降伏を知らせる親書が各地の会津軍に送られたが、新選組の戦う大内では、残存兵との闘いが続いていた。

 

******

 

降伏親書

 

 九月二十五日。大内に容保公より親書が届けられた。降城した旨、抗戦は直ちに止めるようにという公からの命令。城下からの使いには米沢藩士が付き添い、降伏命令を受領するように触れ回った。

 

 前日より、敵軍の攻撃は止まっていた。新選組は大内峠の間道に潜んでいたところを、進撃隊からの伝令で降伏を知る事になった。

 

 終わった。

 

 その場にいた誰もがそう思った。城が落ち敵の手に下った。この事実に愕然とする。伝令に来た者は、肩を震わせ涙をぬぐいながら会津降伏を報告し、斎藤と野田進に、「山を下り、大内宿で署名に応じなければなりません」と言って、一礼して走って行った。

 

 斎藤は、隊士達全員に荷物を纏めて移動するように伝えた。半刻ほどの移動の間、殆ど言葉を発することのない部下たちは、全員肩を落とし俯いたままだった。途中、千鶴がどうしても湧き水を汲んでおきたいと言いだし、本道をそれて別の尾根の麓まで下りて行った。そこは大きな泉が湧き出る場所で、隊士達は顔を洗い、手足の汚れを落とすことが出来た。清涼な水を飲んだ斎藤は、一気に身体が軽くなる感覚が走り、何度も手で掬って飲み続けた。千鶴は持てるだけの竹水筒に水を汲んで荷台にも積むと、乾き飯を皆に配った。つぶした米粒に味噌が挟んであり、竹皮ごとしゃぶりながら食べる。それから千鶴は、椎の実を袋から取り出して配った。

 

「少しでもお腹の足しに」
「ああ、これは美味い」

 

 隊士達は、木の実を「ありがたい」と言って、歯で割って中の実を食べている。その間、斎藤は器械方の高田と一緒に手持ちの武器と弾薬がどれだけ残っているかの確認をしていた。そして、千鶴に白い布を用意させ、隊旗を交換するように吉田に指示した。下ろされた新選組の誠の旗を千鶴は丁寧に畳んで、行李に仕舞った。

 

 湧き水の泉を発って、大内宿に投降した時は既に午近く。米沢藩士が待機する番屋に斎藤は向かい、降伏親書を受領した署名と新選組隊士の名簿を書き込んだ。

 

 会津新選組 
 隊長 山口二郎  
 伍長 志村武蔵
 軍目 久米部正親
 小幡三郎
 清水卯吉
 吉田俊太郎
 池田七三郎
 河合鉄五郎
 円尾桂次郎
 高橋渡
 高田文二郎
 雪村千鶴

 

 差し出された降伏条件書は、薩摩、土佐、長州、大垣藩の連名で、負傷者は城南の青木村の病院に入院させること、客兵も含め降伏兵は塩川へ連行されること、武器弾薬は大内で没収となること、腰の大小のみ帯刀は許可されていることが書かれてあった。

 

 番屋近くの待機場で千鶴たちは、斎藤が戻るのを待った。野田隊の隊士は負傷兵が五名。千鶴が手当てをして、足の怪我が酷い者は荷車に載せられて移動することになった。二列で米沢兵に付き添われ、その背後に薩兵が続いていた。峠の途中で、薩兵より握り飯が配られた。斎藤は、差し出された食事を拒んだ。隊士たちは、それを見ると、一旦手に取った飯を戻した。伍長の志村と久米部は、残った飯を内飼袋にそっとしまった。無言のまま腰をあげ、斎藤を見詰めた二人は、唇を真一文字に結んだまま深く頭を下げた。斎藤は小さく頷いた。

 

 米沢兵に断りを入れて、新選組隊士たちは用を足しにそれぞれ、林の中に入って行った。戻って来たのは、吉田俊太郎と高田文二郎、清水卯吉と池田と河合のみ。志村と久米部は、逃走した。朝に湧き水を汲んだ別の峰の向こうに逃げ果たせれば、強者の二人なら無事に生き延びられるだろう。斎藤はそう思った。

 

 隊士が逃走した事は、米沢藩士より薩摩兵に報告されたが、後続の新政府軍兵士は誰も逃走した者を追う様子はなかった。降伏した新選組隊士達は肩を落としているが、その足取りはしっかりとしていて、それとは対照的に後に続く勝者の薩兵や長州兵は、疲労困憊し生気がなかった。

 

 それから山越えに二日かかった。関岳を下る道から本郷の平野が見えた時、遠くに煙がくすぶる城下が霞んで見えた。

 

 終わった。

 

 改めてそう思う。前を行く野田隊の隊士が、腕で顔を覆いむせび泣く声が聞こえた。野田進の率いる下士身分の隊は、皆会津に生まれ育った者ばかり。国をとられ、断腸の思いで慙愧に堪えない様子に斎藤は己の無力を痛感し自責の念にかられた。助けにならずに申し訳ない。斎藤は自分の部下たちをひとりひとり見詰めた。志を共にし、新選組本隊から離れ会津に残った者たち。こんな俺に命を預けてくれた。皆には感謝の念しかない。これから事は善き方向に運ぶことはないだろう。だが俺は全力でお前たちを守ろう。

 

 斎藤は傍らにいる千鶴の手をとった。

 

「これから城下を通る。塩川宿まで大小を差す事を許されている」

 

 真っ直ぐ千鶴の眼を見詰めると斎藤は瞳を伏せた。

 

「最後まで武士として戦うことが出来た」

 

 斎藤の手を千鶴は強く握り返した。どれほどの思いで、ここまで。喉に熱い塊が込み上げ、千鶴はそれをなんとか抑えるようと息を止めた。

 

「倉沢様にお前の事を頼んである」
「城下で佐川さんに文を言づけた。女子供は捕虜になることはない。領内の安全な場所で身は守られる」

 

 千鶴は首を横に振っている。大きな瞳に涙が溜まり、ぽろぽろと零れた。

 

「若年寄の倉沢右兵衛様だ。覚えているか」

 

 千鶴は首を横に振り続けている。震える肩、噤んでいた口元から泣き声を漏らした。

 

「千鶴、頼みがある。塩川に着いたら、此れを預かって欲しい」

 

 斎藤は腰の打刀と脇差の柄を握って見せた。千鶴は頷きながらぽろぽろと両目から涙を零した。「はい」と小さな声で答えると、斎藤に身を寄せてさめざめと泣き始めた。

 

「いつになるかはわからぬ。処遇が下れば」
「生きて、逢う事も叶う」

 

 千鶴は斎藤の胸に縋り付くように顔を埋めた。嫌です。絶対に。声は言葉にならないまま、嗚咽に変った。頭上では斎藤の優しい声が響いていた。

 

「必ず。かならずだ」

 かならず。千鶴も繰り返す。斎藤は震える肩を抱きしめ。髪をいたわるように撫でた。涙で濡れた顔を上げた千鶴は、斎藤の眼を見てしっかりと頷いた。

 愛おしい者。

 斎藤は涙に濡れた頬を手で拭い。そっと抱きしめた。このぬくもりを互いの印に……。

 どれだけの間、そうしていたのだろう。いつの間にか隊士達はその場を離れ、本道に待機する隊列に戻っていた。

 言葉にはできない想いを互いに伝え合った気がする。

 必ず生きて
 最後まで共に

 山の東から、強い風が吹いて辺りの木々がきしめく音がした。山の斜面に寒風吹きすさぶ中、斎藤は千鶴を温めるように腕で包み込み、深く想いのたけで口づけた。

 

 

 

つづく

 

→次話 戊辰一八六八 その24

 

 

(2020/09/16)

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