庇の影 その三 【閑話】
文久三年一月 江戸
「総司、今日はもう終いか」
上野練兵館道場の門を出た所で、背後から声を掛けられた。出稽古が終わった午後。通りの陰から顔を見せたのは新八さんだった。顔を見るのは久しぶり。数日前に僕は日野から江戸に戻ってきた。道場に近藤先生は不在で、門人で手分けをして出稽古に出ている。新八さんはずっと於玉ヶ池で稽古をしていた。
「出稽古の後に講武所に立ち寄って来た。近藤さんは、松平主税助様と面会中だった」
「そう」
「正式に御上から浪士集まりの命が下ったそうだ。一両日中に、近藤さんも戻って準備を始めんだろ」
「そうなんだ」
「そのめえにあれだ」
新八さんは「息抜きだ」と言って、仲へ冷やかしに繰り出そうと誘われた。まだこんなに陽が高いのに。そんな風に思いながら、用があるからと断った。新八さんの話では、夕方には平助が合流するという事だった。平助は実家に戻っていて暫く顔を見ていない。上洛の前に、身内に挨拶をしておくと云っていたけど、引き留められているのか音沙汰がない。
「じゃあ、戻りは明日だね」
「ああ、平助もな」
新八さんは浮足立った様子で通りの向こうに歩いて行った。「野暮用」と言って断ったけれど、本当は違う。これから本郷に立ち寄る。本当は平助にも来て欲しかった。もう半月近くになる。突然、はじめくんが道場に来なくなった。最後に会ったのは去年の暮れ。朝に突然稽古に来て、それきり。一緒に日野で出稽古と挨拶まわりをする筈だったのに。仕方がないから独りで江戸を出た。向こうでは門人の皆が浪士集まりに名を列ねると張り切っていた。
佐藤の家で、上洛の為に米二十俵を持って行けと、帳付けの手伝いまでさせられた。いつもは中に入れて貰えない土蔵に連れて行かれて、そこに集められた大量の鎗や刀を見せて貰った。刀を吟味しろと云われて確かめたけれど。殆どが錆びついていた。はじめ君が居たら、もっとちゃんとより分け出来たのに。
それにしても、なにしてんだろう。
お腹を下したとか、熱でも出して寝込んでいるとか。年越し蕎麦を喉に詰まらせて死んじゃったとか。
まさかね。
でも、死んだのかも。じゃないとおかしい。いくらなんでも、何の音沙汰もなく稽古に来なくなるなんて。三度の飯より稽古好きなのに。
「身内に不幸があったんじゃねえの」
「道場に来れねえって。よっぽどだって。急な用向きで来れねえとかさ」
平助はそう言っていたけど。どっちにしろ、無断で稽古を休むなんて、あの生真面目なはじめくんがする訳ない。そんな事をつらつらと考えながら、神田を過ぎて、本郷の通りに出た。いつもはじめ君と別れる道角。たしか、弓町って言ってたっけ。楠の大木が見える。あの角を曲がって歩いていくはじめ君を見たことがある。きっとあの辺りだろう。はじめ君の家は。
今日は正月に姉上に貰った羽織を着て来た。兄上のおさがりだけど、物はいい。袴も新しいのを履いてきた。初めて訪ねる先に失礼があってはいけない。後で姉上に怒られるのも嫌だからね。
「よそ様を訪ねる時は、必ず下ろしたての足袋を履くのですよ」
もう何度同じことを言われただろう。はい、姉上。足袋は新品ですよ。でも、もう砂埃で汚れている。尋ねた先で、もし上がる事になったら、足の埃を払う為に手拭をもうひと揃え。持って来ましたよ、ちゃんと。懐に手をいれて姉上から貰った新品の手拭を取り出してみた。緑の松葉模様。これから上洛を控える僕に「縁起物」だと云って持たせてくれた。懐には一緒に書状が入っていた。小さな文。これはあの人からの言づけ。
「これを、江戸に着いたら山口に渡してくれ」
日野を発つ日に土方さんから文を預かった。正月の出稽古にはじめ君が来なかったことを、一番残念がっていたのは土方さん。なにか約束でもしていたのと訊ねても、何も教えてくれない。まあ、いいけどね。あの人はどうせ、上洛する前に江戸に出て来るんだし。甲良屋敷で大きな顔して、あれやこれや皆に言いつけて、用事をいっぱいこさえるんだから。
迷惑なんだよね。そう言うところが、あのひと。
大楠を超えた角の家で、山口の家がどこか尋ねてみた。だが相手は首を横に振っている。路地に入って、奥の家の戸を叩いて、中から出て来た人に尋ねたが辺りに山口と名乗る家はないと云われた。もう一度通りに出て、今度は一つ向こうの角を曲がったところにある家で尋ねてみた。
「山口さんはいないよ」
「真砂町に移るって、大八車押してるの見たから」
男は大通りを指さして、真砂町はその向こうにあると教えてくれた。なんだ。家を引っ越したのか。それで稽古に来ないとか。
再び表通りに出て、鐙坂に向かって歩いて行った。大名屋敷の土塀が続く道を上って行くと、細かな段のある天辺に出た。急に狭くなる道を眺めていると、荷物を抱えた人がゆっくりとこちらに向かって上ってくる。年の頃は二十歳かそこらの女。黒髪を小さく結い上げたすっきりとした鬢。切れ長の瞳。大きな風呂敷包みを持った女に道を譲ると、相手はそっと会釈をした。
「すみません。この辺りに山口さん宅はありますか」
「弓町から最近引っ越してきた山口さんを探しているんです」
女は「うちがそうです」と応えた。そして「山口右介の家の者です」と言って頭を下げた。この人、もしかして。
「はじめくんの家の方ですか」
「試衛館で一緒に稽古をしている者です」
女の人は、「はじめの」と言って目を丸くしている。正面から見ると、はじめ君とそっくりの顔だちだ。御姐さんかな。
「はじめ君が道場に来ないので、どうしているかと思って」
「一は居りません」
そう答えて、はじめ君のお姉さんらしき人は、頭を下げて前を通り過ぎようとした。急ぎ足で歩く姿は、どこかぎこちない。なに、これだけ。呆気にとられていると、立ち去りかけたその人は振り返った。そして、辺りをきょろきょろと見回すと、「宅はこちらです」と言って、道の先を指さした。
はじめくんの家は、古い板張りと土壁で出来た小さな屋敷だった。玄関の戸の中に呼ばれて入ると、暗い土間が続いていて炊事場が見えた。はじめくんの御姐さんらしき人は、勝手口から入ってきて、僕を出迎えるように上り口から「どうぞ」と声を掛けて来た。そして、丁寧に膝をついて、両手で僕の刀を受け取った。
「一は留守にしておりますが、父が居りますので」
「ありがとうございます」
上り口から狭い廊下を通って奥の間に通された。暫くすると、廊下の障子が開いて、静かにはじめくんの御父さんが入って来た。中肉中背の精悍な佇まい。
「はじめの父でござる」
「試衛館道場の沖田総司と申します。突然お邪魔致し申し訳ございません」
まっすぐに目を見詰めてくる。静かに待っている様子ははじめくんと似ている。
「暫く道場に顔を見せないので、どうしているのかと」
「倅は江戸にはおりません」
「あれの母親の親戚の元へ用で出ておる」
親戚の所に出掛けている。どこだろう。遠方なのかな。訊ねようと思ったけど、はじめ君のお父さんはじっと黙っている。
「わかりました。今日はこの文を言付かって来ました」
「土方歳三兄からです。日野の佐藤道場の門人で、正月の稽古の時に預かって来たものです」
「はじめくんに渡してください」
「相承知した」
はじめ君のお父さんは丁寧な仕草で文を受け取って、懐にしまった。
「わたしは近々浪士集まりに参加して上洛することになっています」
「試衛場の門人は、皆申し書きに名を列ねています」
「そろそろ出立の準備を始めるとはじめ君に伝えてください」
「その申し書きは取り下げ下さらんか」
「もし、倅が申し書きを出していたのなら、集まりには参加できぬ旨を沖田殿から道場主様にお伝え願いたい」
僕は言葉が出て来なった。取り下げる。どうして。返事をしかねていると、お父さんは畳に両手をついて深く頭を下げていた。
「書状から一切名を下げて貰えるようお頼み申す」
なんで。直ぐに訊き返したかった。でも、目の前の人の様子と僕みたいな者に頭を下げる切迫した雰囲気に何も言えなくなった。
「承知いたしました。道場主の近藤にそう申し伝えます」
頭を下げ続けるはじめくんの御父さんがなにか気の毒な気がした。何があった。一体。この家に。はじめくんはきっと、何かこの家に居られない理由があるのかも。もう浪士に加われないなにか。お金。お金かもしれない。
——山口さん、もういないよ。所替えしたから。
はじめくんはもういない。借金でもこさえたの? 御姐さんもお父さんもどこか、心苦しそうだ。
「お忙しいところを、お邪魔して申し訳ありません」
暇の挨拶を済ませると、早々に山口の家を後にした。はじめ君の御姐さんは玄関の外に出て来て、僕が通りに出るまでずっと見送ってくれた。僕は二度振り返って頭を下げた。小さなお姉さんはその度に頭を丁寧に下げていた。そんな仕草がはじめ君にそっくりだった。
*****
翌日、近藤先生が久しぶりに道場に戻って来た。
「浪士取締役の山岡さんに面会してきた。道場の門弟以外も浪士を募れと仰せだ」
「総司、明日ここを発って小野路村へ行こう」
「浪士御集まりに参加すると挨拶をしにな」
「小島さんは、出資も申し出てくれている。実に有難い」
先生の目は輝いている。僕は「はい」と返事をして、小野路村に出向く仕度をした。翌朝早く甲良屋敷を出立した。先生と一緒に小島家に行くのは一年振り。近藤さんが歩きながら話すことは、上洛のことばかり。先生は支度金に金十両が支給されると云って笑っている。本当に嬉しそうだ。
「近藤先生、僕はどこまでも先生にご相伴します」
「そうか」
「山南くんも言っておった。京でも、大坂でも、なんなら地獄へでも御相伴仕るってな」
近藤先生は、わはははと大声で笑った。山南さんは、先に小野路村に向かっている。小島さんに上洛のための暇乞いをすると言っていた。あの人も律儀な人だ。
「地獄だなんて、山南さんも大袈裟だなあ」
「わからんぞ、京の都は天誅と名売って狼藉を働くものがひしめいておる」
「そういう人たちを成敗すればいいんですよね」
「我々らは大樹公を護衛し攘夷を目指す。そのための上洛だ、総司」
「はい」
悪い人達は斬って差し上げますよ、先生。将軍様を守る先生を僕が助太刀する。必ず守ってみせます。
「日野で浪士に名を列ねる者が集まる。明後日は佐藤道場で申し書付けをせねばならん」
「忙しいですね」
「ああ、道場での取りまとめは彦五郎さんに任せている」
「何かあれば、手伝って欲しい」
「はい、先生」
「トシも忙しく奔走しているそうだ」
僕は返事をしなかった。小島の家に土方さんが山南さんと先に行っていると聞いて、今夜はあの人と一緒に夕餉を食べることになると思うとうんざりした。小島の家で、どこまでも大きな顔をするあの人が嫌い。
(夜朗大もいいところだよ、まったく)
「なんだ、総司」
「いいえ、夜朗自大だなって。思っただけです」
「夜朗、なんのことだ」
「この前、先生が言っていた『史記』を読んでみたんです」
「滇王、漢の使者に言いて曰はく、『漢と我と、孰れが大なるか』と。夜郎侯に及びてもまたしかり」
「以道不通故各自以為一州主 不知漢廣大。まさにそうだ。総司」
「俺は世の中をまだ見ておらん。西国も信濃から向こうは一度も行ったことがない」
「そんな俺だが、志を以ってすれば将軍様をお護りして夷狄を追い払うことも叶う」
「そんなふうに思っちゃあいかんか」
振り返りながら自分を見詰める先生の眼は夕日にあたって茜に染まっていた。白い歯を見せて、大らかな笑顔で「なあ総司」と問い掛けながら。僕は何も言えなくなる。先生、僕は先生のためなら何でもします。
「僕は先生について、どこまでも行きますよ」
大きな掌が僕の頭に触れた。力強いその大きな手。僕が小さな頃とちっとも変わらない。いつも髷がぐしゃぐしゃになる。目だけ上に向けて見ると、先生は「そうか、そうか」といって嬉しそうに笑っている。
「すっかり陽も暮れたな。急ぐぞ」
先生は踵を返して早足で歩きだした。僕は荷物を持ち直して先生を追いかけて行った。
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文久三年二月 江戸甲良屋敷
早朝の稽古を終えた後、部屋の片づけをした。障子の近くに文机を移動させて、墨を磨った。僕の部屋の前から離れの廊下に積まれた行李や木箱。朝から左之さんと平助が何度も玄関から往復して荷物運びをしている。僕は机の上に新しい紙を置いて、文鎮でとめた。傍らの文入れの中から書状を取り出した。浪士御集申書付。上洛のために江戸を出立するまであと五日。日野で新たに加わった浪士の名簿を清書しなくてはならない。先生が山南さんに頼んだ名簿作りを、僕が代わりに清書をしたいと願い出た。先生は許してくれたが、土方さんは「山南さんにやらせろ」と文句を言って怒りだした。あの人、本当に何もわかっちゃいない。
日野から参加する浪士は全部で六名。江戸の道場からは六名。一月に書いた申し付書を取り出した。
江戸本郷 山口一
日野宿 谷定次郎
二名を墨で塗り潰して消した。日野の谷さんは昨日早文が届いて上洛をとりやめる旨が書かれてあった。はじめくんからは結局何の音沙汰もない。あれきり僕も真砂町の家には出向いていない。墨を乾かしがてら障子を開けたままにしていたら、廊下を通りかかった土方さんが、書状を確かめた。
「なんだこれは。みっともねえ」
塗りつぶしの書付けを浪士取扱役人に差し出す訳には行かないって。この人の云い方。本当に頭にくる。
「わかりましたよ。書き直せばいいんでしょ」
「いい、俺が書く。硯を寄こせ」
「嫌です。僕の硯だから」
あの人は苦虫を噛み潰したような顔をして廊下を歩いて行った。舌打ちしてぶつぶつ言うのはお決まりだね。誰が触らせるものか。姉上から貰った大事な硯なんだから。
はじめ君と谷定次郎さんを除いた門人の名前と所書きを清書し直した。これで文句はないでしょ。土方さんは、はじめ君が道場に来なくなったことを詮索しない。でも絶対に気にしている。僕に当たり散らさないで貰いたいね。残念なのは、僕も同じなんだから。
書付けをそのまま机の上に置いておいた。立ち上がって、中庭を覗いて見た。煙が立っている。僕は机の上の塗りつぶした書付を掴むと、廊下から中庭に下りて塵屑を燃やしている火の中にくべた。塗りつぶした墨がめらめらと燃えて、煤が宙を舞って空に向かって飛んで行った。
煙が伸びる向こうには真っ青な空がただ広がっていた。
つづく
→次話 庇の影 その四へ
(2020/03/04)