お題『可愛い人』『寂しさ』

お題『可愛い人』『寂しさ』

福良の山中にて

 互いの気持ちを確かめ合った後、斎藤と千鶴は青い月夜の下で暫く手をつないで佇んでいた。

 こんなにも大切な
 決して離れたくない

 二人でやっと気持ちを伝え合えた。お互いがずっと長く想い合っていたことを、温かい手のぬくもりで実感する。
斎藤は、千鶴と供に最後まで生きると決心した。さっき迄かたくなに己の信じる道を進むと決めていた。たった独りで。だが今は違う。どんな事をしても千鶴を守ろう。

 千鶴も同時に、今、この一瞬を供に。生まれて初めて、こんなにも確かな気持ちを感じたと思った。斎藤さんのお傍に。それだけでいい。

 辺りは青白い光に包まれ、時折ひんやりとした風が吹く。秋の虫の声がしている。遠くに街道沿いの民家の灯りが見えていたのが、一つ一つ消えていく。

 斎藤は千鶴の顔を見た。同時に千鶴も斎藤を見詰め返す。つないで居た手を握って、また千鶴を引き寄せ、
胸にしっかりと抱きしめた。

 千鶴は斎藤の背中に手を回した。斎藤の上着の襟が頬に当たる。

 ドクン、ドクン

 斎藤さんの心臓の鼓動。千鶴は、じっとその確かな音を聞き続けた。全ての事が初めてで、どう振る舞えばよいのかも解らない。でも、ただ全てが大切で愛おしい。

 夜露でしっとりと濡れた髪からはいつもの千鶴の甘い香りが漂っていた。斎藤は、千鶴の髪を撫でた。手袋越しに伝わる、冷たい髪の毛の感触。

 いま一度。

 今度は、ゆっくりと千鶴の唇に口づけた。さっきより長く。

 ずっとこうしていたい。

 時が止まって永遠のように感じるのは、私だけだろうか。斎藤さん、私は幸せです。こうして、斎藤さんの腕の中にずっといたい。

 二人は、ずっと抱きしめ合っていた。

 夜明け前に、斎藤達は行軍して白河に陽が高くなる前に着いた。斎藤は、仮眠もろくにとらずに軍議に参加し、千鶴は翌朝に決戦が始まると、皆が武器の準備をする中、斎藤が部屋に戻ったら、直ぐに横になって休めるように、身の回りのものを片付けていた。

 斎藤は、午後遅くに戻ってきた。倒れ込むように畳に膝をついた斎藤を千鶴は支えて。床を敷いて横にならせた。斎藤は「すまぬ」そう一言云って気を失うように眠りについた。千鶴は、斎藤の上着の釦を緩めた。白河は夕方に急に冷え込む。千鶴は、斎藤に布団をかけた。

 濃い碧色の髪。顔にかかった髪の毛をそっと指で梳かすように横にやった。綺麗に整った斎藤の顔を改めてじっくりと眺めた。引き込まれるような目の色で気づかなかったが、睫が長い。そう思いながら、瞼や、頬を触ってみた。指先で触れる斎藤は温かく、千鶴は生きている実感がして、ただ幸せで嬉しかった。

 そっと唇に触れてみた。眠っている斎藤さんは、なんだか無防備で可愛らしい。

 気がつくと、千鶴は自分から口づけてしまっていた。

 ごめんなさい、斎藤さん。眠っている斎藤さんに。はしたない事をしてしまって。

 心の中で謝りながらも、千鶴は目を瞑ったまま、また永遠を感じていた。

 愛しいひと 可愛いひと

 溢れる想いに、ただどうする事もできず、その後も何度も斎藤に口づけた。



おわり


******

お題『可愛い人』

 西本願寺に屯所があった頃の話。

 北集会所の廻り廊下の西側の端に一歩奥に引っ込んだ納戸部屋があった。そこには、法要で使わなくなった旧い祭壇の道具などが仕舞われ、本願寺の僧侶も寄りつかない。普段より使用禁止の為、入り口には細く切った白い紙が入り口に渡されていた。

 新選組は新しく募集した隊士で、隊員の数は大幅に増えた。平隊士達は、自分たちの部屋は持たず、大部屋に雑魚寝。壬生の前川邸よりは広いが、それでも自分の自由にできる広さは、せいぜい二畳分しかない。そして、その頃は隊士の間で、武士の嗜みとして「義兄弟の契り」を交わす者も多かった。

 皆が皆という訳ではなかったが、「己が信頼する志を同じくする者」これだけで、相手への想いは十分だった。自分を慕う者。それはただ可愛いく。己も相手からかわいがられる。

  もっぱら睦み合う場所は、人目を避けて陽が落ちてから。自室を持つ幹部などは、自分の部屋に招けば済むことだが、平隊士ではそうも行かぬ。誰が、どう見つけたのか、廻り廊下の西側の納戸部屋を睦み場所として利用するようになった。

  入り口の白い紙が外されていると使用中。
 決して、戸を開けてはならぬ。
 使用後は、白い紙を元のように戻しておく。
 これが、睦み部屋の使い方だった。

 この睦み部屋を指して【しろがみ】という隠語も出来た。

  新選組内衆道大流行。そして、皆が羨む仲がいた。新選組副長とその小姓。眉目麗しい二人の噂は平隊士の妄想をかき立てた。

 毎夜、刀の先から杯に酒を垂らし、菊花を浮かべたものを二人で飲み交わしている
 雪村、ゆきむら、むらゆき
 副長は愛(う)い小姓をそう呼んで愛でている

 転じて、隊士たちが相手を「可愛いひと」と呼ぶ代わりに【むらゆき】と呼びかけるようになった。

 ある日、千鶴の部屋の廊下に菊の花が一輪置いてあった。茎には文が巻き付けてある。千鶴は、島原の君菊が自分へ書いた手紙だと思い開けてみた。

 貴殿をその名で呼びたく候
  むらゆき
 むらゆき
 今宵亥の刻に城が実へ

 いつもの君菊とは違う手蹟。千鶴はどなたかが手違いで置いて行った手紙かと思った。その時、隣の部屋から斎藤が出てきた。「お出かけですか」と千鶴が尋ねたが、斎藤は道場へ稽古に向かうという。千鶴は、廊下にあった文を斎藤に見せた。斎藤は訝しげに目を通していたが、だんだんと表情が険しくなり、「誰からの文だ」と千鶴に尋ねた。

「わかりません。私に届いたものとも思えません」
と千鶴が答えると、斎藤は、この文を預かるといって廊下を足早に歩いて行ってしまった。

 その夜、斎藤は千鶴の部屋の廊下から声をかけてきた。
「雪村、起きているか。入るぞ」
と言って、斎藤は部屋に入って来た。

「夜遅くに済まぬ。昼間の文の件で、今すぐ副長の部屋に行ってもらいたい。特に何もないが、副長の部屋で暫く待機していてくれ」
 千鶴は、訳がわからない様子だったが、斎藤の後について土方の部屋に行った。土方は、文机の前で書き物をしていた。千鶴が部屋に入ると、「暫くここに居ろ」とだけ言って、また文机に向かった。
 千鶴は手持ち無沙汰だった。お茶を入れに行くといっても、土方は部屋から決して出るな、というだけで、千鶴はずっと正座したままじっとしていた。

 四半時ほどして、斎藤が土方の部屋に来た。
「やはり、五番組の中村四郎でした」
  斎藤は、座りながら土方にそう言った。
「そうか」
 と言って、土方は溜息をついた。
「めんどくせーな。だが、仕方ねえ。おい、千鶴」
「今日、お前の部屋の前に置いてあった文は、あれは恋文だ。お前宛に平隊士が寄こした」
 千鶴は、きょとんとした顔で聞いている。
「お前を逢い引きに誘う文だ」
「相手は、お前を男だと思った上で誘ってんだ。わかるか?」
 千鶴は、目を丸くしたまま聞いている。
「今回は、斎藤が気づいたから良かった」
「お前が俺の小姓ってことで、余計にお前を誘いたくなるっていう奴もいる」
  千鶴は、理解が及ばぬという表情で、じっととしている。
「あー、しゃらくせえ」
 土方は頭をかきむしった。
「いいか、男の格好していてもお前の身は危険って事だ」
「今度、今日みてえな変な文が届いたら、直ぐに斎藤か俺に知らせろ。わかったな?」
 千鶴は「はい」と返事した。
「それから、北集会所の西側の廊下にある納戸部屋には絶対近づくな、西側の廊下も極力通らねえようにしろ。あそこは、お前の鬼門だ。いいな」
 千鶴は、土方の真剣な表情を見詰めて、こっくりと頷いた。
「斎藤。千鶴の傍を離れるな。お前は、こいつと『義兄弟の契り』を交わした仲だ。決して浮気はさせないように守ってろ」
  土方は、斎藤をからかうような表情で命令した。
  斎藤は、頬を赤くしていたが、「承知」と答えた。横目で千鶴を見た斎藤は、きょとんとしている千鶴を見て安堵した。

 千鶴は、土方の言っていることの半分も理解していないようだった。二人で土方の部屋を後に、廊下を歩いた。

「斎藤さん、ありがとうございました。助けていただいて、感謝しています」
 千鶴は、斎藤の顔を見上げて礼を言った。
 月明かりが、千鶴の黒い瞳に写っている。

 (むらゆきか……)
 可愛いいひと。

  斎藤は、千鶴の顔を見詰めながら、心の中で呟いた。言い得て妙だ。部屋の前で「おやすみなさい」と挨拶をして障子の向こうに消えていった千鶴。

 確かに、可愛い。

 斎藤は、独り廊下で微笑んだ。




******

お題『寂しさ』


 朝からひんやりとしたある日。千鶴は大広間の掃除を済ませると、境内の掃き掃除をした。

 だんだんと色づき始めた楓や紅葉の葉が、所々砂利の上に落ちている。千鶴は、何枚か形の美しい落ち葉を拾って、手拭いに挟んだ。
 掃除を一通り終えてから、建屋の中に入ると外は雨が降り出した。細かい霧が舞うように。回り廊下はだんだんと風に吹かれて、入り込んだ小さな雨粒で濡れていった。そんな外を眺めていると、背後から声が聞こえた。

「ひと雨ごとに寒さも深まりますわね、雪村君」

 伊東が書物を手に持って立っていた。千鶴は「はい」と答えた。

 竜田川もみぢ葉流る
 神なびの
 みむろの山に時雨れふるらし

 伊東は、周り廊下から見える楓を眺めながら、歌を詠むと。

「これから、もっと色づいてくるのが楽しみ。時雨は心さみしさを呼びますが、わたくしは神無月が一年でも一番趣があって好きなの」

 そう言って、微笑んだ。千鶴は、「わたしも秋が好きです」と言って、懐から手拭いを出して中に挟んだ紅葉の葉っぱを伊東に見せた。

「まあ、綺麗だこと」

 伊東は随分とご機嫌なようすで、千鶴に微笑むと。今日は、生憎の天気ですけど、これから黒谷に講義を行いに出掛けます。お夕飯は要りませんと言って、廊下を歩いて行った。
 千鶴は、それから午後はずっと、部屋で繕い物をした。今日は皆が出払って、屯所はしーんと静かだった。障子を締めきっているのに、床下か、縁側の下か、どこかにいるのだろう蟋蟀が鳴いているのがきこえる。

 りー、りー、りー

 小さな、小さな声。

「肩刺せ、裾刺せ、綴れ刺せ。肩刺せ、裾刺せ、綴れ刺せ」

 千鶴は、蟋蟀の鳴き声を真似ながら、針を動かした。斎藤の長着を袷に仕上げたが、裾の擦り切れが酷いので、折り返して縫い上げた。身八ツ口も綻んでいたので、そこに足し布をして着丈が変わらないようにした。

 肩刺せ、裾刺せ、綴れ刺せ。肩刺せ、裾刺せ、綴れ刺せ。

 よほど夢中になっていたのか、七つを報せる鐘が鳴ったのに気がついて、あわてて夕餉の支度にとりかかりに台所に向かった。台所には、いつも当番が一緒の井上の姿はなかった。かわりに置き手紙が置いてあった。

 本日、幹部全員外出也
 夕餉不要

 千鶴は、井上の書き置きを読んで、夕餉の支度が必要なくなったと理解した。冷や飯は少し残っている。後で自分の食事は済ませよう。そう思った千鶴は、暗くなり始めた外を眺めた。この時間に静かな屯所は珍しい。さっきまで止んでいた雨が、また降り出して来た。ぽつん、と頬に雨粒を感じた時に、さみしい気分になった。冷え込む台所を後にして、部屋に戻ろうと廊下に出た。
 そこへ、斎藤が帰ってきた。髪も隊服もしっとりと濡れている。千鶴は、「おかえりなさい」と迎えると、斎藤は、千鶴は出掛けていたのではなかったのかと、尋ねてきた。

「今日は、屯所の皆が出払っている。源さんも用事で屯所を空けると聞いて、急いで帰ってきた」
「はい、今日は皆さん外出だと、置き手紙がありました」
「斎藤さん、お夕飯は、なにがいいですか?」
「これから用意をするのか?」
 斎藤は、千鶴から手拭いを受け取りながら尋ねた。
「はい、私と斎藤さんだけですから。斎藤さんのお好きなものを」
 斎藤は、刀を手拭いで拭いながら、暫く黙っていた。
「俺は、なんでもかまわんが」
 と言って、斎藤は濡れた足袋を脱いで、廊下の段を登って振り返った。
「あんたの食べたいものでいい。すぐに着替えてくる。支度を手伝おう」

 そう言って、廊下の角を曲がって行った。千鶴は、台所に戻って、夕餉の支度をした。着替えを済ませた斎藤が来て、二人で味噌汁と青菜のおひたしと目刺しを焼いて、そのまま台所で食べた。

「二人だけというのも、珍しいな」

 斎藤が呟いた。本当に。今日は平隊士もどこかに出掛けているのか、部屋に引きこもっているのか。境内にも廊下にもどこにも姿が見えない。

「今日は、傘をさしても意味のない雨だった」
「霧のようでな。横むきに雨粒が傘のなかに入ってくる」

 斎藤がぽつぽつと呟く。

「横時雨。廊下も小さな雨粒で霧吹きをかけたみたいです」

 千鶴が答える。そして、懐から手拭いを出して、中に挟んだ紅葉の葉っぱを斎藤に見せた。

「砂利の上に、小さな雨粒をいっぱい載せて落ちていたんです。とても綺麗で」

 斎藤は、紅葉にそえている千鶴の華奢な指先を一緒に眺めて、頷いた。

「秋は好きですが、こんなお天気の日は、寂しくていけません」

 千鶴は、真顔になると手拭いをゆっくりと畳んで懐にしまった。背後のへっついで湯が沸いた音がしていた。

「これから、刀の手入れをするが、あんたも一緒にどうだ?」

 斎藤は、千鶴の入れたお茶を飲みながら尋ねた。千鶴は、「はい」と答えた。嬉しそうに、台所の片付けを済ませると、小太刀を持って斎藤の部屋にやってきた。
 それから二人で、黙々と手入れをした。千鶴は斎藤の手つきを見よう見真似で夢中になっていた。手入れを終えた後は、千鶴は繕い物の続きをすると言って部屋に戻ったが、行灯の油が切れたから、斎藤の部屋で縫い物をしたい。そう言って、再び斎藤の部屋にやってきた。斎藤は、脇差や短刀も出して、再び手入れを始めた。

 ただ黙々と。二人で。
 秋の夜長は続く。

 また、縁の下から蟋蟀の声がしていた。





*******

お題『寂しさ』



 秋の長雨がずっと続いたある夜。雨音は一層激しく、千鶴は遅い時間に大浴場から渡り廊下を足早に歩いていた。北集会所の周り廊下に上がると、左之助が台所に向かって行くのが見えた。千鶴は部屋に戻るのを止めて、台所に行ってみた。

「お、誰かと思ったら千鶴か?」

 水屋の扉を開けて、中を覗き込んでいた左之助は振り返るとそう言った。手には、湯飲みを三つ持っている。

「何か、お探しでしょうか」

 千鶴が尋ねると、左之助は「ああ、何か食えるものがねえかと思って」と呟きながら、水屋の奥に手をいれてまさぐっている。

「甘いものがお要りですか?」
 左之助は、諦めたように振り返ると。
「いや、別に甘い物ってわけじゃあねえんだ。これのつまみをな」
 と云いながら、右手で杯を呑む格好をした。
「今日は、お台所にあったものを殆ど夕餉に使ってしまいました。残り物もなくて。ご飯もお櫃が空っぽで」
 千鶴は草履をひっかけると、土間に降り立った。物入れを開けて、中から大きな瓶をだした。
「ここにお漬け物が少しと、ええと」
「そうだ、籠の中に壬生菜が少しありました」
 左之助は、微笑みながら。
「ありがとよ。千鶴。お前の手を煩わせちまって、すまねえな。俺と平助と新八の部屋で酒をひっかけてるんだ」
「新八の奴が、【あたりめ】だけじゃ口寂しくていけねえって」

 千鶴は、振り返って左之助の言うことを聞くと、思い出したように別の棚を開けて壺を取り出した。
「ここに地粉があります。それと上新粉も……」
 左之助は、千鶴がぱたぱたと動き出したのを見て笑いながら、
「これから、なにか作るのか。悪いな。もう、へっついの火も落としちまったんだろ」
 千鶴は、そう言われて気がついたように動きを止めた。そうだ、今日は、炭も少ないから消してしまったままだった。考えあぐねている千鶴に、左之助がやさしく言った。
「なあ、千鶴。せっかく湯につかったのに、湯冷めして風邪でもひかせちゃ悪い。ありがとうよ。今夜は、新八にあたりめで我慢させりゃあ済むことだ」
 そう言って、台所から出て行こうとした。千鶴は、諦めきれずに。「でも」と引き下がった。
「もし、障りがなければ、火鉢の上で作らせてください」
 左之助は、振り返って、「障りもなにも、部屋で一緒に食えるなら、千鶴も来れば、みんな喜ぶ」 そう言って、何か手伝うことは無いかと聞いてきた。
「それでしたら。先に、この網と」
 と言って千鶴は、壁にかかった焼き網を取ると、鉄の平鍋と一緒に持ってきて左之助に、火鉢で温めておくように頼んだ。それから、千鶴は、壺から【すぐき】の古漬けを取り出して細かく刻んだ、壬生菜と九条葱も残っていたものを刻んで、地粉と上新粉を水で溶いたものに混ぜた。味をみてみるとほんのりと塩味がして美味しい。いい「おやき」の生地が出来た。
 千鶴は赤味噌を取り出して、すり鉢で胡麻と味醂とあわせて良く磨った。お盆に、「おやき」の生地と、味噌だれを載せて、新八の部屋に向かった。部屋の三人は、すっかり機嫌良く呑んでいて、平助も新八も畳に横になって居る。千鶴が、火鉢の上の鉄鍋に油を引いて生地を流すと、いい香りが部屋中に漂った。

「すっげー、いい匂い。俺、夕餉が物足りなくてさ」
 平助が、起き上がって喜んでいる。
「ああ、俺もだ。つうか、夜中に呑んでると、なんか食いたくなるっていうか、口寂しいんだよな」
 新八が、仰向けになって天井を見詰めた。
「だな。最近は、夜に屯所抜けて島原に呑みに行くってこともねえしな」
 と左之助が、溜息をついた。
「行けばいいんだよ。伊東さんに気を遣うってのがおかしいんだって」
 新八が起き上がりながらそう言って、胡座をかいた。三人はここのところ、夜の外出を控えるように土方から注意を受けて、ずっと不満に思っているようだった。
 千鶴は、お焼きを裏返すと、味噌だれをつけた。部屋に、お味噌と胡麻のいい香りが広がる。気がつくと、三人が火鉢を囲って、鍋の中を覗き込んでいた。
「美味そうだなあ」
「ああ、まさか。今晩こんなご馳走が部屋で食えるなんてな」
「千鶴が、台所にあるもので見繕ってくれたんだ」

 よだれを垂らしそうな様子で待っている三人を見て、千鶴は微笑むと、お焼きを三つに分けてお皿に載せた。三人は、熱い熱いといいながらも、美味しそうに食べている。
「うめえ」
「酒に合う」
 千鶴は、また油を引き直して、二枚目を焼いた。三人は、お酒を注ぎながら、明日も朝から大雨だと巡察も取り止めだと話している。早朝の朝稽古は三番組だから、朝餉の後は、二番組で道場使えねえか。そんな相談をしている。

「暇なのがいけねえ」
「いいや、暇なのはいいんだ。たまにはよ」
「暇していると思われるのが、いけねえんだ」
「ちげえねえ」
「『屯所に、いらっしゃるなら。わたくしの講義に是非』だろ?」
 新八が、伊東の口真似をしながら笑う。

 千鶴が「出来ました」と言って、二枚目を振る舞うと三人は喜んで食べた。そして、三枚目を焼き始めると、「ちょっとお台所にお醤油を取ってきます」と言って、千鶴は部屋を出て行った。台所から、醤油を小さな容器に入れて、そっと運んでいるところに、斎藤が現れた。湯上がりで髪を下ろしたまま。斎藤は千鶴が遅い時間にまだ用事を続けているのかと、驚いていた。

「今、永倉さんのお部屋で。原田さんと平助くんが晩酌なさっているんです」

 千鶴が笑顔で答える。斎藤は長雨と島原行きを控えさせられている三人を思った。「そうか」と言って、自室に戻ろうとした斎藤に、千鶴は「もし、よろしければ。斎藤さんも」と声を掛けた。斎藤は早朝稽古があるからと誘いを断って部屋に入ってしまった。

 独り廊下に取り残された千鶴は、突き放されたような気持ちになった。

 新八の部屋に戻ると、お焼きはいい具合に焼けていた。裏返して、お醤油を表面に塗ってみた。香ばしい香りがして、お味噌よりさっぱり食べやすい。平助達は喜んだ。左之助は、もう十分腹が膨らんだと言って満足そうにしている。最後の生地を焼いたものを、もう食べられねえ。と誰も手をつけなかった。
 千鶴は、こっくりとなり出した新八に、肌掛け布団をかけて。火鉢の周りを片付けた。三人に、お休みなさいと挨拶をして台所に戻った。
 まだ温かい。お焼きをお皿に載せながら、千鶴はさっきの斎藤の事を思い出した。ずっとお忙しくされて。伊東さんの講義にも出られて。最近はずっと言葉を交わすこともない。胸の辺りがしーんと寂しく感じるような。

 そうだ、せっかくだから。

 そう思った千鶴は、お焼きのお皿をお盆に載せると手拭いを掛けて、斎藤の部屋に向かった。行灯の灯りのついた部屋から出てきた斎藤は、千鶴の姿を見て驚いていたが、千鶴が差し出した「お焼き」を大層喜んだ。千鶴は、斎藤の微笑んだ顔を見ると、心がほんのりと温かくなった。嬉しい。それから、お休みなさいと挨拶をして部屋に戻った。
 斎藤は、千鶴の持って来たお焼きを食べた。美味い。これで晩酌すれば、さぞや美味かろう。そう感心しながら食べた。すっかり満足した斎藤は、再び刀を持って、土方の部屋に向かった。伊東派についての定時の報告。近々、伊東達は別働隊を結成して隊を割る。

 その時は、屯所を離れねばな。

 斎藤は、外の雨の音を聞きながら千鶴の部屋の障子を見た。もう寝ているな。そう思いながら、気配を消して歩いて行った。







(2017.12.20)

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