お題『コラボレーション』
千鶴は朝から張り切っていた。
新学期に新一年生を迎える会の準備に早くから学校に向かう。
薄桜学園は、四月で創立三周年を迎える。そのお祝いも兼ねて記念式典後に新一年生を迎える会を講堂で行う。千鶴は生徒会役員にも選ばれていた。生徒会長である風間千景からの推薦もあったが、風紀委員長である斎藤先輩も一緒に活動できる為に引き受けた。
新一年生を迎える会では、主に放課後の部活動の紹介をする。帰宅部の生徒にも楽しんで貰えるように、大ビンゴ大会も企画した。
生徒会では年末からずっと準備を進めていた。楽しい学園生活を送ってもらえるよう、有意義に過ごせるようにどのように紹介すればよいかを話し合う。会議で風間は、さまざまなアイデアを出して毎回皆を圧倒する。
——ただ壇上に上がって活動の紹介をするだけではなく、各部活動をペアにして、互いの紹介をしあう。
我が茶道部と手芸部。
美と様式のコラボレーション。
どうだ?
雪村千鶴の縫った着物を纏った俺様がお点前を披露する。
雪村千鶴は、俺様とペアの着物で隣にかしずく。
どうだ?
参加している役員は皆黙っている。
「ペアにして互いの活動を紹介しあうアイデアはいいが、どうせなら文化部同士より、運動部と文化部がよくねえか?」
原田先生が意見を言うと、風間以外皆が賛成した。さらに斎藤が意見した。
「ペアになるのを決めるのは、くじ引きはどうだろう。不公平がなくてよい」
これに皆が納得した。別の日に各部活動の部長が集められて紹介しあうペア決めをした。千鶴が所属している部活は剣道部と手芸部。剣道部の部長の沖田先輩がくじを引いた相手は、風間が部長の茶道部だった。手芸部はテニス部とペアになった。
「よりによって、茶道部とはね」
千鶴と一緒に教室に戻りながら総司は笑っていた。
「せっかくのコラボレーションだから、剣道も茶道もどっちにも興味もってもらえるようにだよね?」
「俺は、茶道のことはよく知らんが、大名茶というのは聞いたことがある。武家のたしなみだったとか」
斎藤が廊下を歩きながら総司に応えた。
「へえ、流石はじめくん、よく知ってるね」
「それでは、剣道と茶道は繋がりがあるんですね。それなら紹介しやすいかも」
千鶴はうれしそうに笑う。
「技芸として同じように道がついている。どちらも奥深いものだ」
斎藤が微笑みながら話す。総司が振り返って、「じゃあ、僕らも壇上で風間と一緒にお点前?」と尋ねた。
「風間が披露するのは外せないであろう。一度しか見たことはないが、あれは見事だ」
「ふーん、じゃあ僕らも剣道着で大名茶でも披露する?」
斎藤は、道着でお点前をやるのは構わないが、どうせなら演武を披露したい。そんな風に話した。武道とおなじぐらい武士は茶の湯も嗜んだ。それをわかりやすく見せればいい。
千鶴は、斎藤のアイデアに感心した。
「先輩、素敵です。そうやって見せれば、剣道も茶道もやってみたいって思う人が沢山でてくるかも」
こうして、斎藤たち剣道部と風間の茶道部との共同作業が始まった。風間は、作業に毎回千鶴が参加している事を殊の外喜んだ。流派は違えど、さすが家元の風間は武家茶道にも詳しく、毎回うんちくを垂れる。だが斎藤は、それを興味を持って聞いていた。派手な振る舞いを好む風間に、平助や総司は毎回呆れて文句の言い合いが始まっていたが、それを千鶴と斎藤がなんとか治めながら準備した。三学期が過ぎていよいよ新学期を迎えることになった。
壇上で、茶道と剣道部のコラボレーション。お点前と演武が披露された。千鶴は、着物姿で佗茶の歴史と大名茶についてのプレゼンテーションを行った。生徒全員が静かに興味を持って観てくれた感触があり、大成功だった。
先生方も新入生歓迎会が成功したことを生徒会役員全員を集めて褒めてくれた。毎年、部活動同士をペアで共同作業させる。このアイデアはずっと活かして行くといい。薄桜学園の理念に叶っている。校長の近藤は大層喜び皆に礼を言った。
——こんな時代だからこそ、皆誇り高き武士であれ。
いつも反目しあっている風間とはじめての共同作業がうまくいって千鶴たちは大満足だった。
了
******
お題『追い掛ける』
【野宿火】の噂がたったのは、弥生の終わり。
京の町のいたるところに桜の花が咲き始め、市中の人々は花見見物に出掛け皆が浮かれる季節となった。黒谷から呼び出しを受けた土方が、帰ってくるなり幹部を大広間に集めて、新しい任務を仰せつかったと説明を始めた。
「また怪火の噂だ。今度は昼間にも出たという情報だ。天火とは勝手が違う」
広間に集まった幹部は、「また、火付けか」と呆れている。土方は、至って真剣な表情のまま話を続けた。
「人の集まった後、花見の宴会場に火がおこる」
「花見客が去った後に、まるでそこにまだ人がいるみたいに、どんちゃん騒ぎが始まるらしい」
皆がそれを聞いて目を丸くした。
「なんだ、どんちゃん騒ぎって。いってえ誰が騒ぐんだ?」
新八が胡座をかいて、大声で問いたてた。
「それが【野宿火】だ。大声で唄や声をたてて、囃子たてて火を起こす」
「火は、火柱が立つと六尺にもなる」
皆が驚いて話を聞いている。「六尺も炎があがりゃあ、建屋に燃え広がるだろ」「あぶねえ」「あぶねえぜ」と皆が顔を見合わせて騒ぎだした。
「野宿火は、人が消そうとしても消えないらしい。ひとしきり炎をたてたら独りでに消えるそうだ。だが、しばらく騒ぎの音や声はその場に残る」
「その声は、風に乗るように移動する。移動した先で、また火を起こす」
土方の説明では、【野宿火】は何か姿の見えない【火起こしのお化け】のようなモノで、どんちゃん騒ぎの声を追い掛ければ、次の火柱の場所が特定できるようだった。
「お上のお達しだ。見廻り組と合同で、【野宿火】を追う」
幹部は、それぞれの自分の組の隊士を集めて、【野宿火追い】に市中に出ていった。
***
三番組は、途中まで平助の八番組と一緒に三条まで堀川通りを北上していった。平助とは河原町で別れた。斎藤は隊士を引き連れて、鴨川沿いを下っていった。桜並木の下には、人が大勢集まり、中には御座を敷いて弁当を拡げ酒を呑んでいる者もいる。
この者達が去った後に、炎が上がるやも……。
斎藤は花見で浮かれる人々を眺めながら、ゆっくりと川岸を五条に向かって下って行った。
人の波が途絶えた所に、人が宴会をした跡があった。草が踏みつけられたようになっていった場所には、誰が忘れたのか鼻緒の切れた下駄が落ちていた。斎藤はそれを拾おうと手を伸ばした。その瞬間、鼻緒から火が上がった。
斎藤は咄嗟に手を引いた、火はみるみる大きくなり一尺ほどの大きさになると横に揺れだした。炎がとぐろを巻き出す。斎藤は後ろに下がった。平隊士達も後ずさり、腰の刀に手をかける。炎は、だんだんと大きくなるにつれて色が薄くなる。火柱が上がっているが、それは、透明な薄水色の炎で、近づくと熱いが、こちら側に燃え広がる様子はなかった。火柱はどんどん上に向かう。周りの花見に来ている者は、全くこの炎が見えていないようだった。自分たちの花見の会に夢中で、斎藤達が大きな炎の柱を前に、刀を抜こうとしていることにも気づいていない。
斎藤は、【野宿火】のたてる音に聞き入っていた。くすくすと楽しそうに笑う声が聞こえる。鈴が転がるような……。これは、雪村の笑い声。
火柱から聞こえる笑い声に聞き入っていると、炎の中に雪村千鶴の姿が見えた。斎藤に笑いかけている。斎藤は驚いた。
——雪村、なにゆえ炎の中にいる。
斎藤は火に近づき手を伸ばした。熱い。このように熱い炎の中で、なにゆえ、あんたは笑っている。
千鶴の笑い声はどんどんと大きくなる。それに合わせるかのように、炎の中の千鶴の輪郭もはっきりとしてきた。千鶴は髪を下ろしている。笑いかける顔の双眸は、斎藤をじっと見詰めた後にゆっくりと伏し目になった。斎藤は、千鶴が下を見たかのように感じ、自分もそのまま千鶴の首から下を眺めた。千鶴は着物を着ていなかった。長い髪がゆったりと肩から胸にかけて下ろされていて、その間から美しい乳房が見えていた。なだらかな曲線はそのまま腰から、すらりと伸びた足につながり、斎藤は千鶴の美しい肢体に目が釘付けになった。
ゆきむら、なにゆえ。
火柱の中の千鶴はじっと斎藤を見詰めて手を伸ばしてきた。斎藤は、自分も炎の中に手を伸ばそうとした。その時背後から、「組長」と平隊士の叫ぶ声が聞こえて、思い切り背後から肩を引き戻された。伍長の伊藤が刀を抜いて、振り下ろし、【野宿火】に斬り込んでいった。炎は、一瞬火柱を桜の木の上まで上げた後に一廻りしたようにとぐろを巻いて消えた。風の音に乗って、千鶴の笑い声がずっと聞こえてきていた。
「組長、あちらです。騒ぐ声がずっと、五条の方面です。急ぎましょう」
平隊士が刀を持ったまま走り始めた。斎藤は我に帰って、隊士達と怪火を追い掛け続けた。
****
斎藤達が、屯所に戻った時にはもう陽が落ち外は真っ暗だった。結局、【野宿火】は、あのまま風にのって姿を消してしまった。声は聞こえるが、火柱を起こすことはなく。陽が暮れるにしたがい、姿の見えぬ声もだんだんと聞こえなくなって立ち消えてしまった。
遅い夕餉をとっていると、平助が怪火追いから帰ってきた。平助達は四条の高瀬川沿いの桜の木の下で、【野宿火】を見たらしい。
「はじめくん、オレ、火の中に。千鶴が見えてさ。腰を抜かすぐらい驚いた」
斎藤は、それを聞いて息を呑んだ。
「千鶴がさ、女ものの浴衣着て、髪なんかこう上げちゃってて」
「オレ、思わず。『ちづるーーー』って叫んじゃって」
平助は、もの凄く嬉しそうに話す。炎の中の千鶴は、ずっと楽しそうに笑いかけていたらしい。
「でも、それも一瞬でさ、次の瞬間火柱が高くあがって消えちまって」
「千鶴も、一緒に消えた……」
平助はしょんぼりとしている。八番組も、それきり鴨川沿いまで声を追い掛けたが、怪火を見つけることができなかったらしい。
「すっげー、可愛かった、野宿火の千鶴」
平助は、留守にしている千鶴が戻ったら、ぜってえ女の格好してなかったか確かめるといっている。斎藤は、自分の見た千鶴の姿をどうしても平助に話せなかった。 午の日中に、鴨川の桜の木の下で裸で立っているとは。 俺が狂ったとしか思えない。だが、斎藤は炎の中の千鶴の姿が忘れられなかった。
翌日になって外出から帰った千鶴と廊下で会った時、いつものように「斎藤さん」と近づいて来た千鶴を斎藤は直視できなかった。頬を赤らめて、目をそらせ、何故か自分を見て狼狽している斎藤に、何が起きのか千鶴にはさっぱり解らない。だが、翌日の非番に、斎藤は約束通り芝居小屋に連れて行ってくれると云ってくれた。
そして、翌日千鶴は斎藤と河原町の芝居小屋に出掛けていった。途中、見事に桜が咲いている並木があり、その木の下で千鶴は持ってきた弁当を拡げて斎藤と食べた。斎藤は、おむすびを頬張りながらも、ときどき手を止めて、真剣に千鶴のことを見詰めている。
桜の木の下と青い火柱
睫を伏せ
髪を下ろした雪村の 美しい肢体
斎藤は前日に見た千鶴の裸と頭上の桜の花、隣に座る千鶴をそれぞれ反芻しながら、一日を過ごした。桜花の陽気と美しい雪村と鈴の転がるような笑い声。
——正体のわからぬ怪火がみせた夢。
そんな風に思いながら千鶴と芝居小屋を後にしてゆっくりと本願寺まで歩いて帰った。
それから数日後、大きな春の嵐がやってきて一日で京の桜は壮大な花吹雪と一緒に散っていった。葉桜になった鴨川沿いに、もう野宿火が起きることはなく。人々も、新選組の幹部も怪火の事は忘れて云った。
ただ、平助と斎藤はいつまでも火柱に見えた美しい千鶴の姿を忘れなかった。
了
******
お題『想い合う』
もう何度目のことだろう。島原の置屋、輪違屋の君菊の元へ遊びに行くのは。
初めて島原で新選組幹部の宴会に出掛けた時から、芸妓の君菊は時折千鶴を呼び出して置屋の部屋でもてなしてくれている。夕方から翌朝までの自由な時間。千鶴が屯所での雑務から解放されて、ゆっくりと過ごせるように土方が時折島原の君菊の元へ千鶴を遊びに行かせていた。そんな日は市中で知り合ったお千も加わり、毎回楽しい時間を過ごしている。
千鶴が君菊を訪ねると、君菊は髪結いを喚んで直ぐに島田に結い上げさせる。その間に、用意してあった着物を何枚も見せては、千鶴に選ばせ、帯を合わせて着替えさせる。最後に、君菊が化粧を仕上げてくれる。
「千鶴様は、ほんに肌がきめ細やかで。造りがお美しいゆえ、粉も薄め、紅も薄めが一番でございます」
「鬢も油もいりはりまへんなあ。艶やかな髪やこと。うっとりしますえ」
君菊は微笑みながら、最後に手鏡を合わせて千鶴に己が姿を確かめさせる。千鶴は、嬉しさと恥ずかしさで毎回困りながらも、自分でも見違えるような姿になった事に驚き、さらに嬉しさがこみ上げてくるのだった。着替えが終わると、隣の部屋で待っていたお千と一緒に四条まで出掛けるのが習慣だった。
ただ通りを歩くだけでも楽しい。お千とは本当に気が合い、二人でお喋りが止まらない。お芝居や流行り物、小間物屋で見つけた小物の話。二人がかしましく話すのを、付きそう君菊は微笑みながら見守っていた。
「今日は早く、置屋に戻りましょう」
いつもよりうんと早い時間に帰りの駕籠を喚んだ千は、何か用事があるのか置屋にはまだ明るい内に着いた。部屋には早めの食事も用意されて、すっかりお腹が膨らんだ三人は、ゆっくりとお茶を呑んで休んだ。
「お菊、今日は頼んでおいた御手水。用意できていて?」
お千が待ちきれないといった風に君菊に訊ねる。
「へえ、もうご用意は済ませてあります」
そう言って、部屋の外に待機している禿の少女を喚ぶと、【御手水】をこちらへ、と頼んだ。暫くして、廊下から禿の少女が二人で、大きな手水鉢を運んできた。中には水が張られていて、慎重な様子でゆっくりと、板の間に置くと、少女達は丁寧に挨拶をして部屋を下がっていった。
「これは【想いの手水鉢】でございます」
にこにこと笑うお千の隣で、君菊が千鶴に説明をした。真紅の漆で塗られた鉢は内側は黒漆。輪違屋に古くからある伝わる手水鉢で、満月の夜に井戸に映った月を掬った水を注ぎ込むと、【想いの手水鉢】に変わるという言い伝えがあるらしい。
「夕べの満月のお水を張ってございます」
千鶴が不思議そうに話を聞いているのを見て、お千が訊ねた。
「ねえ、千鶴ちゃんは心に想う人が誰かいるの?」
笑顔で訊ねるお千に、千鶴は「おもう人」と鸚鵡返しに問い返す。
「ええ、千鶴ちゃん。千鶴ちゃんは誰か好きな男の人。意中の人はいない?」
千鶴は、男の人と聞いて、少し驚く。意中の人。想う人。私に……。じっと動かないままお千を見詰めている千鶴に、お千は笑いかける。
「あら、思いあたる人がいるみたいね」
なにも言い出せない千鶴の顔を覗き込むように見るお千は嬉しそうだった。
「千鶴ちゃん、この御手水はね。水面に【想い合う人】の姿が映るのよ」
そういって、御手水の静かな水面を見詰める。千鶴は驚く。
「古くからね、置屋の芸妓は想い人をこの御手水で占っているの」
「ねえ、千鶴ちゃん。千鶴ちゃんも占ってみる?」
千鶴は、急に心の臓が締め付けられるような気がした。【想い合う人】そんな人は、自分に居るのだろうか。男の人を想う。私に。そんな人が……。自然と帯の上の辺りを両手で押さえて確かめる。こんなに胸がどきどきするなんて。もし本当にその姿が映るなら。千鶴は、真っ黒な手水鉢の静かな水面を眺めた。お千と君菊は目を合わせて、ゆっくりと千鶴を眺めていた。
——こんなにも胸の鼓動が早くなって。
千鶴は、御手水に近づくのを躊躇した。少し怖い。もし、水面に誰も映らなかったら、どうしよう。もし、その姿を見ても、誰かも分からない人だったら。千鶴は目を瞑った。胸の辺りがふわふわと感じる。屯所の風景が思い浮かんだ。本願寺の境内を歩く自分の前に北集会所が見える。周り廊下に誰かの影が見えた。なんだろう。この暖かい感覚は。胸に拡がる不思議な感覚。千鶴はゆっくりと目を開けると、お千が千鶴の手を引いて、手水鉢の前に座らせた。
「千鶴ちゃん、千鶴ちゃんにしか見えないものだから。安心して。覗いてみて誰かの姿が見えても。大丈夫。その人が急に現れる訳でもないから」
微笑むお千と君菊に促されて、千鶴はそっと水面を覗いてみた。
真っ黒な水面には、女の格好をした自分の姿が映った。改めて髪結いをした自分の顔を眺める。すると、水面の自分は、恥ずかしそうに瞼を伏せた。じっと見詰めていた千鶴は驚く。水面の自分はうっすらと微笑みながら、俯き気味に後ろを振り返った。その向こうに誰かが見えた。ゆっくりと遠くから歩いてくる姿。暗い影から、だんだんと明るい手前に歩いてくる。白い足袋。草履履き。男の人。千鶴は固唾を呑んだ。どんどんと自分に近づいてくる。黒っぽい長着姿。大小を指している。御武家様? 千鶴は、息ができないぐらい驚いた。真っ直ぐに歩いてくるのは斎藤だった。
(斎藤さん)
心の中でその名前を呼ぶ。だんだんと鮮明になってくるその姿は、自分の顔と重なるように映って、碧い瞳がじっと自分を見詰めたままゆっくりと薄れて消えて行った。水面には、再び自分の姿だけが残っていて。千鶴はじっと動けないでいた。
「見えた?」
お千の声でやっと我に返った千鶴は顔をあげると、ようやく自分が君菊の部屋に座っている事に気がついた。水面に現れたのは斎藤さんだった。千鶴の心の臓は、もの凄い早さで動いている。同時に鳩尾のあたりが宙に浮いたような感覚がして。何度も水面に見えた斎藤の瞳を思い返す。
茫然としながらも、ほんのりと頬が紅い千鶴の様子を見て、お千と君菊は笑い合った。千鶴の【想い合う人】意中の相手が現れた。その相手が誰であれ、千鶴が近い未来にその相手と結ばれるだろう。千鶴は再びお千に手を引かれて、御手水から離れると暫くの間は言葉もでてこず、じっと水面に映った相愛の相手を想い続けた。
ふわふわと身が浮いたような感覚。千鶴は生まれて初めての感覚に戸惑いながらも胸に宿った自分の想いに気づけたことが嬉しくて仕方がなかった。
その後、お千も水面を覗いたが、想い人が現れたのか現れなかったのか。じっと黙ったまま微笑んでいた。君菊もその次に覗いた後、妖艶な笑みを続けているだけで黙ったまま。三人とも意中の相手の姿が見えたのかどうかは一切話さないまま。三人とも心ここにあらずといった風情。
そうして三人は、それぞれが見えた【想い合う人】と近く結ばれ、幸せになるように静かに心の中で祈り合いながら、夜が更けていった。
了
(2018.02.08)