地獄八景新選組戯 その三

地獄八景新選組戯 その三

輪廻の輪


 青鬼に誘導されて、近藤達一行は【まぼろし館】を出ると、再び冥土筋に出た。【申し立て】が詮議にかかる間、六道の辻で待たなければならない。

「閻魔庁の鐘が鳴ったら、お沙汰が下りた報せです。ここに集合してください」

 茶屋の前で山崎の説明を受けた一行は冥土筋をずっと練り歩く事にした。新八は、皆を芝居小屋に誘った。演目は『助六由縁江戸桜』初代團十郎から八代目まで勢揃いする成田屋の十八番。座敷席の一番いい場所を陣取った新八達は、芝居見物なんて本当に久しぶりだ。こんな豪勢な『助六』は、ここでなきゃ観れねえと興奮していた。斎藤は、生前の非番の日に千鶴を連れて平助と四条河原の南座に行った日の事を思い出した。演目は「紅葉狩」だった。千鶴は、更科姫の舞いを見事だと言って大層喜んでいた。
 助六の花道からの出で周りが明るくなった時、斎藤は総司が隣に居ないことに気がついた。厠にでも立ったのか。舞台が盛り上がり、新八や平助が掛け声をかけ、客席は大いに沸いた。演目はあっという間に終わった。皆で余韻に浸りながら芝居小屋から出たが、やはり総司の姿が見えない。斎藤は、近藤も一緒に居ないことに気がついた。
 平助と新八は、次は寄席に行こうと列に並んでいる。斎藤は、土方に局長と総司の姿が見えないと二人の行方を尋ねてみた。

「総司が、芝居の途中で近藤さんを連れ出したままだ。すぐに戻るだろう。近藤さんは、金を持ってねえ。おおかた、総司が土産物屋にでも連れ回してんだろう」

 土方はそう答えながら通りを見渡した。冥土筋は、ずっと茜色の空のままだった。斎藤達は、平助に誘われて寄席に入った。名人芸を次々に味わい、大いに笑った。斎藤は、生前の皆との付き合いを思い出した。道場での稽古以外で、こうして土方と芝居小屋や寄席に出掛けた事は滅多になかった。特に京では、土方が非番の日でさえ、ゆっくりと過ごす姿を見かけた事はない。隣で寛ぎ、楽しむ土方の様子を眺めながら、動乱の現世を駆け抜けた土方の人生を想った。

 ようやく、ここに来てゆっくりとされている。

 斎藤はさっき【まぼろし館】で見た共通人生を思い返した。新選組が名を成せば成す程、土方は猛殺されていた。思えば、昔から留まることをしない人だった。斎藤は江戸に居た頃の事を思い返した。土方は薬の行商を生業としながら剣の稽古と、喧嘩に明け暮れていた。いつか本物の武士になると夢見て。自分が試衛館道場に初めて出向いた日からずっと今まで、そんな土方を慕い、尊敬してきた。壬生に土方を訪ねたのは、自分の剣を認めてくれた近藤や土方へ、恩義をただ返したい。その一心だった。自分はどれだけ返せただろう。土方や近藤、総司や新八、皆に出逢わなければ、今の自分はない。人生の分岐を選び直せるとしても、自分はまた試衛館の皆と一緒に生きたい。土方や近藤に付いて行きたい。そう思った。
 高座のトリを勤める初代入船亭扇橋の演目は【子別れ】だった。マクラでどっと笑いを取った後は、一転して、なんとも言えぬじーんとくる人情噺が進む。客席からすすり泣く声も聞こえる。新八も平助も、涙目で「泣かせるぜ」と鼻をすすりながら、ひとしきり感動している。拍手喝采が続く中、幕が下りると、追い出し太鼓が威勢良く鳴り響いた。いいものを聞いた後は本当に気分が良い。斎藤達は座布団から立ち上がり出口に向かった。
 道の向こうから総司と近藤が歩いて来るのが見えた。総司は、こんな風に近藤さんと街を練り歩くなんて、江戸から初めて上洛した際、市中見物で道に迷った時以来だと喜んでいた。斎藤は、嬉しそうな総司の顔を見ながら、総司の傍に痩せた赤鬼が佇んでいるのに気がついた。総司は斎藤に呼びかけると、閻魔庁の鐘楼に登ろうと誘った。斎藤は土方達と離れて、総司と二人きりで鐘楼の階段を上がった。

「煙となんとかは、常に上に登りたがるってね」

 総司は、笑いながら一段抜かしで軽々と階段を駆け上がって行く。斎藤も、駈け足で総司を追いかけた。鐘楼のてっぺんは、四方を見渡せる小さな回廊になっていた。茜色の空は、桃色の雲のむこうに永遠に広がっている。

「随分、ここは高いのだな」

 斎藤は、塔の下を見下ろしながら話した。

「近藤さんも同じ事を言っていた」

 総司が呟いた。「さっきも、ここに近藤さんと登ったんだ」と言って、回廊の縁に肘を載せて斎藤を見詰める。
 さっきも。芝居の間に、ここに来ていたのか。斎藤は、総司が席を外した間、何をしていたのか合点がいった。総司にとって近藤は兄や父親のような存在だ。此処に登って二人で久しぶりに水入らずで語らったのだろう。

「あそこ、見える? 六道の辻のはずれに大きな輪っかがみえるでしょ」

 斎藤は、総司の指をさす方向を見た。霞の向こうにうっすらと丸い大きな影が見えた。

「あれは輪廻の輪。あれに乗れば、魂が転生するんだって」

 転生。どこかで聞いたことがある。人は死後、生まれ変わり、新しい生を受ける。

「まぼろし館でみた、僕らの個別人生も。転生みたいなもんだよ」

「僕らは、僕らの人生をもう一度生きる」

 斎藤は、隣で微笑む総司の横顔を見上げた。そして総司が見詰める先の、輪廻の影を眺めた。

「詮議で、極楽行きになれば、あれに乗ることになるのか」

 斎藤は、顎を上げて輪廻を指しながら総司に尋ねた。

「いいや、輪廻はね。ずっと『生まれては死に』を繰り返す」

「ずっとぐるぐる回り続ける。未来永劫ね」

「転生を繰り返すんだ」

 総司は、遠くを見るような目をした。

「全てを覚えたままでね」

 総司はそう呟くと、塔の反対側に行って、あそこは【餓鬼道】、あそこは【畜生道】、その隣が【地獄道】そう言って六道の場所を斎藤に教えた。斎藤は、冥土筋の向こうに見える、様々な界の入り口を見た。

「詮議の後には、僕らは前世の記憶がなくなるようになっているらしいよ」
「さっき、せっかく近藤さんが買ってくれた写真も、僕らが個別人生に進むと消えてしまう」
「消える?」

 斎藤は、驚いて懐から写真を取り出した。雪村の横顔。笑っている浴衣姿。皆との記念写真。

「そう、この写真を眺めている記憶自体も消えちゃう。残念だけどね」

 斎藤は、胸が詰まった。どうしてだ。

「でも、本物の千鶴ちゃんに会えるんだからいいでしょ」

 総司はそう言って笑った。本物を好きなだけ眺めればいい。

「遠慮なくね」

 そう言って、片目を瞑ってみせた。斎藤は、現世で自分がこっそり千鶴を盗み見していたのを総司が知っている事が、顔から火が出るほど恥ずかしかった。

「さ、下りるよ。一階まで競争しよう。先に着いた方が勝ち」

 総司は、塔の階段を駆け下りて行く。斎藤も追いかける。こんな風に二人で走り回るのは、本当に久しぶりだ。総司が息を切らさずに動き回るのは、咳の発作を起こさないのは、夢のようだった。壮健な総司。これは、本人もだろうが、斎藤が常に望んだこと。現世でこんな風に、総司とずっと一緒に刀を振るえれば、どんなに良かっただろう。

 ずっと一緒に。

 一階に先に着いたのは、総司だった。僕の勝ち。総司は嬉しそうに、斎藤を見下ろした。塔の下では、痩せた赤鬼が佇んでいた。

「赤鬼君、まだ詮議まで時間ある?」

 総司が尋ねると、赤鬼はまだたっぷりと時間があると答えた。総司は、赤鬼に六道の辻の外れまで道案内を頼んだ。斎藤は、道の向こうに近藤や土方の姿が見えたが、そのまま総司と赤鬼について、冥土筋を上って行った。冥土筋は、人通りが多かったが、一旦裏通りに出ると、そこは閑散としていた。足下にも草が伸びていて、砂利道が少々歩きにくい。

「ねえ、はじめくん。【活動】みた後って、いろんな事思い出すね」
「ああ」

 斎藤は、答えた。

「僕はたぶん地獄行き。京では随分と千鶴ちゃんに辛く当たってた。病の腹いせに」
「いつだったか。胸がギーギー音をたてて煩くて眠れないって文句を言ったんだ。こんな身体、役に立たない。そこらの平隊士の子にくれてやるってね。そのかわり丈夫な身体と着替えたい」
「そんな僕のわがままを、黙って頷いて聞いてくれてた。いつもね」

 あの子は、いつも貸本屋の本や、近藤さんの軍記もの、伊東さんからも書物を借りて来て、僕に読んで聞かせてくれてね。僕は、どれも退屈だって、文句を言ってた。そう言いながら、総司は、周りに生えている葦のような草を抜くとくるくると振り回した。

 熱が出たときに、次に目覚めたら全てこれが夢だったってなればいい。

 起きた時に千鶴ちゃんに、これは夢だって、そう言って欲しい。ただそう願った。でも目が覚めると、何も変わっていなかった。僕は心底がっかりした。あの時、心配するあの子の手を払いのけた。千鶴ちゃんは、一瞬悲しそうな顔をしたけど、僕の枕元に座り続けた。

 夢の浮き橋
 この世は幻
 だからこそ大切です。

 今この瞬間も、全てが屯所の屋根の上でまどろむ猫の夢かもしれません。

 あの子は、僕の顔をじっと見詰めて、そう言って微笑んだ。総司は、優しい表情で、周りの葦の葉っぱを触りながら、前を見て歩いている。斎藤は、総司と千鶴の絆を思った。死病を患った総司を一番近くで、寄り添い励まし続けたのは雪村だ。

「僕が、どんなに救われたか」

 総司はそう呟く。

 今度は僕があの子を救う。

 いつのまにか、周りには草も何も生えていないがらんとした場所に来ていた。目の前は霧でよく見えないが、空を見上げると、黒い大きな柱が見えた。それは大きく弓なりに曲がっている。さっき塔の天辺から見えた、輪廻の一部が雲の合間から現れた姿だった。
 総司は、空を見上げていた。赤鬼が、「そろそろ戻らないとならない」と言って。怯えたような顔でしきりに総司に引き返すように懇願した。さっきまで背が高かった赤鬼は、五分の一ほどの大きさになって、眉が八の字に下がり髪が伸びて目が大きくなった。急な変化に斎藤はただ驚いた。総司は、赤鬼の言うとおりにきびすを返すと、足早に戻って来た。

「大丈夫だよ」

 総司が笑いかけると、赤鬼の姿は元に戻った。はにかむような表情で会釈すると元来た道を引き返していく。斎藤は、前を歩く赤鬼がなぜ姿が変わるほど怯えていたのか不思議だった。

「赤鬼くんはね、本当は【餓鬼】なんだ」

「餓鬼道から、デブの子と逃げて来たんだって。赤鬼に化けてね。餓鬼は【獄卒】の餌にされるから。羅刹の僕が怖くて仕方がないんだよ。僕は、こんな子食べたくもないのにね」

 総司は笑いながら話す。赤鬼がさっき見せたのは本来の姿か。

「この子は、六道から離れるのが怖い。元の姿に戻っちゃうからね。デブの子はずる賢いから巧くやってるみたい」

 斎藤は、前を歩く赤鬼の背中を見た。自分の姿を偽るのは、さぞや辛いことだろう。

 それから、冥土筋の裏通りに出るまで、無言で歩き続けた。茜色の空に再び閻魔庁の鐘楼が見えて来た。斎藤は、そろそろ報せの鐘が鳴る頃かと詮議の結果を聞くことを思い出した。ご沙汰がどうであれ、かまわない。ただ、もし雪村とまた出会って生を全う出来るなら、命を賭してでも守ろう。それだけは、決して忘れてはならぬ。たとえ記憶がなくなっても。

 黙っている斎藤に総司が話しかけた。

「近藤さんはね。【最良人生の終焉】で、打ち首獄門にはならない。立派に切腹して武士の本懐を遂げる」
「武士の誉れを受けて。幕府と新選組に捧げた命として語り継がれる。僕は、残念だけど、近藤さんが捉えられた事も知らずに死ぬ」

 総司は俯きながら、これは、赤鬼くんから聞いたことだと話した。

「僕の人生だとね。僕は近藤さんが投降した後も、ずっと江戸を離れたまま北に居て、近藤さんを救えない」
「さっき、近藤さんと話してね。近藤さんは、もう現世で獄門になった。お沙汰を受ける覚悟はとっくに出来ている。そう言って笑ってたけどね」
「近藤さんは『これが宿命だ。我々の選択の範疇より大きなものだから仕方がない』って。そんな事より、僕に変若水だけは飲むなって、厳しい顔で約束しろって言ってね」
「僕、ほんとに困っちゃったよ」

 総司は笑った。

「とにかく、今が大切。あの子の言ってるとおり。全てが幻だとしたら。僕がこうやって、はじめくんと話してる事も全て、誰かの夢かもしれない」
「だからこそ、僕は精一杯やるよ」

 総司はそう言うと、手に持っていた葦の葉を遠くに投げた。そして、斎藤と一緒に赤鬼について冥土筋を下り近藤や土方が居る茶屋の前に戻った。総司と斎藤の姿を見つけて、平助が手を振って呼び寄せた。

「あ、いたー。二人とも消えちゃったから心配したよ。こっちこっち」

 斎藤達が、茶屋の前の椅子に腰掛けると、平助が総司に尋ねた。

「それで、総司はどこなんだよ」
「何が? 僕はここじゃない」

 そう総司は答えると、平助は怒った様に詰問した。

「だから、千鶴のどこから血を貰ったのか聞いてんだよ。オレ、土方さんにもさっきから聞いてるのに、教えてくれなくてさ」
「僕も教えない」

 総司は意地悪そうな顔でとぼける。

「ちょっとー。オレもはじめ君も、まぼろし館で生き恥、っつうか『死に恥』さらしたんだぜ。教えてくれてもいいじゃねーか」
「土方さんは、なんだって?」
「ガキが知っても毒なだけだって」
「へえー、それで?」
「そんな風に言われたから、もうオレ、頭にきちまって。土方さんなんか地獄に墜ちろって、叫んじゃったよ」

 必死な平助を見て、総司は愉快そうに笑っている。そして、「土方さんがどこから貰ったか僕、わかるよ」と言って、平助の耳元に手を持っていってそっと耳打ちした。平助は、目を丸くしたと思ったら、真っ赤になってその後真っ青になった。そして、げんなりとした表情でふらふらと左之助たちの元に歩いて行った。総司はクスクスと笑っている。

「面白半分に根も葉もないことを言うのはよせ、総司」

 と斎藤が諫めた。総司はそれでも面白がる様子で応えた。

「だって、土方さんて、はじめくんと同じぐらい助平なとこあるからさ」

 斎藤は頬が熱くなった。雪村に対して、俺は何も疚しいことなど。

「ここに雪村が居ないことをいいことに、そのような事を脇で話すのは、けしからん。雪村の名誉の為にも控えろ」

 斎藤は総司を睨んだ。総司は斎藤が珍しく癇癪を起こしているのが面白いらしく、ずっと肩を揺らして笑っている。

「何が可笑しい」

 臍を曲げる斎藤の顔が可笑しくて、笑いが止まらない。

「なんにもだよ。はじめくんは、千鶴ちゃんの事になると、本気で怒るよね」

 斎藤は、何も言い返せなかった。総司もだろう。雪村の事となると、正気をなくすのはお互い様だ。

 微笑む総司と怒った表情の斎藤は、そのまま土方達に合流した。源さんや山崎は、冥土筋を端から端まで歩いたと話している。左之助は、平助と新八と辻講談を聞いたと話した。

「大名人の神田白龍が『忠臣蔵』やってて。大層見事だった」
「途中から、近藤さんが来て。最初を聞き逃したって残念がって」

 皆が六道の辻を気に入っていた。寄席や芝居小屋では往年の大名跡や名人が名を連ね。余すことなくその芸を披露している。ずっと夕暮れ時が続く陽気なこの街で供に過ごしたひとときは、現世でまともに言葉も交わせないまま、バラバラに別れていった新選組幹部にとって得も言われぬ至福の時となった。
 ちょうどその時、梵鐘の音が辺りに響いた。閻魔庁の鐘の音。詮議が終わった報せだ。山崎は、では、皆さん行きましょうと言って、皆を引率して閻魔庁への道に向かって行った。元来た入り口には、既に青鬼の役人二人が立っていた。回廊への入り口の扉が開き、近藤達一行は六道の辻を後にして、中に入っていった。



********

閻魔大王のお沙汰



 六道の辻の喧噪は回廊の扉が閉まった途端に遮断された。静寂の中を自分たちの草鞋が、ひんやりとした石の廊下に当たる微かな音しか聞こえない。
 回廊は突き当たりを右に行くと再び長い廊に、その途中に大きな鉄の扉があって、大きな青鬼が二人立っていた。鉄の扉が大きな音を立てて開いた。朱色の柱が何本も建つ大きな部屋があった。奥に祭壇がある。その前に御簾が下げられていた。
 青鬼が巻物を広げて、近藤達の名前を一人一人呼んで、並ばせた。

「貫天院殿様ご一行、これより閻魔大王様のご裁定ー」

 青鬼が大きな声で叫ぶと、赤鬼が銅鑼を叩いた。ぐあーんという音と供に、祭壇の前の御簾が上がり、その向こうに閻魔大王が姿を表した。

 でかい。
 顔がでかい。

 これが、近藤達がまず驚いた一声だった。閻魔大王は、大きな鬼だった。形相が恐ろしい、大きな目は、金色で張り出した額に大きな眉、鼻は獅子のよう。仙人のような髭を生やし、唐人の様な装いで、左右に角のついた帽子を被っている。手には、昔の宮廷の高官のような笏(しゃく)を持っている。
 閻魔大王の傍には大きな鏡が置かれていた。大王の左右には、牛頭と馬頭が座っている。この二人も頭が大きく、瞬きする瞳はくりくりとしていて、大王の恐ろしい眼とは対照的。
 大王は、自分の目の前の近藤達をじっと見詰めた後に、青鬼から口上書の巻物をもらい広げた。それにさっと眼を通すと、丸めて自分の後ろにある護摩炊きの火の中にくべた。大きな炎が上がり、火の粉がぱちぱちと音をたてて近藤たちのところまで飛んできた。
 目の前の明るい炎が鏡に映ると、近藤達の生前の様子が浮かび上がってきた。【まぼろし館】でみた活動と同じ内容だが、ひとりひとりの行いがハッキリと解るようになっていた。笏を目の前に持って、閻魔大王が構えた。

「沙汰を下す」

 大きな声で唱えると。

「近藤勇、其方は殺生、邪淫の罪を犯したが、よく生き、鬼を助けた」

 鏡には生前の近藤が人を斬り殺す様子、宴席で遊女と戯れる姿が映った。その姿がすうっとそのまま目の前の秤の左側の皿の上に載った。罪の重さで秤は片側に一旦下がったが、もう片側の皿に、屯所で幹部と語らい、職務を忙しくこなし、千鶴が笑う姿が載ると、秤は真っ直ぐに戻って静かに平均を保った。

「殺生と邪淫は、真(まこと)か?」

 恐ろしい顔で尋ねる大王に、近藤は、「はい」と罪を認めた。

「宜しい。嘘を申すと、此処で舌を引き抜く」

 そういうと、牛頭が手に大きな釘抜を取り出して見せた。

「近藤勇、其方は極楽行き」

 近藤は、意外なお沙汰に喜び、一礼をすると、吟味方の青鬼について祭壇の向こうの部屋に連れて行かれた

「次、井上源三郎。其方は殺生の罪を犯したが、善良に行き、鬼を助けた」

 天秤は均衡を保ち、井上にも「極楽行き」のお沙汰が下った。

「次、山崎烝。其方は殺生、嘘をついた罪。しかし、よく生き。鬼を助けた」

「嘘をついたのは真か」

「はい。わたしは職務とはいえ、沢山嘘をつき、人を騙しました」

 山崎は、地獄行きを覚悟して頭を垂れた。

「宜しい。嘘を申すと。舌を引き抜くつもりだった」

 そう言って、山崎にも「極楽行き」の沙汰を下した。次に呼ばれたのは、総司だった。総司の秤は、大きく揺れて、それを見詰める平助達は動揺した。でも、千鶴の笑う姿が片側の天秤に移ると。秤は静かに水平になった。
 総司にも「極楽行き」のお沙汰が下った。斎藤は、先に部屋を出て行く総司の背中を見送った。次は、左之助、新八と続いたが、罪状は「殺生、邪淫、飲酒」を言い渡され。左之助も新八も苦笑いをするしかなかった。左之助も新八も罪を認めた。武士は後悔はしない。生前の己の悪行の尻ぬぐいをする覚悟はできている。二人は正々堂々とそう言った。

「宜しい、それでは二日間の【衆合地獄】行き」

「その後は、輪廻道すなわち極楽行き」

 左之助と新八は一礼して部屋を出て行った。次は斎藤の番だった。名前を呼ばれると一歩前に出た。

「其方は殺生、飲酒、嘘をついたのが罪。しかしよく生き、鬼を助けた」

 天秤は大きく揺れたが、水平に戻った。鬼を助けたというのは、千鶴のことなのか。鏡に映った千鶴の笑顔を見詰めながら、斎藤は心中で思った。斎藤は罪を認めた。地獄行きも覚悟は出来ている。

「宜しい、極楽行き。はい、次」

 あっさりと沙汰が下って、斎藤は拍子抜けした。風間千景が次に呼ばれているのを背中に聞きながら斎藤は、青鬼について部屋を出て行った。
 風間へのお沙汰は、「極楽行き」だった。風間は、殺生が罪状だが、鬼の頭領として天命を全うした。土方たちは、この裁定に不満だったが、【鬼】であることは、ここでは大きな意味を持つらしい。
 平助には、新八や左之助と同じ沙汰が下った。どうも飲酒と邪淫の罪は、殺生と組み合わさると重いらしい。平助は、先の二人同様、【衆合地獄】に二日間だけ行くことになった。そして、その後に晴れて、「極楽行き」をいい渡された。
 最後に、土方歳三。罪状は、殺生と嘘。しかし、よく生き。天寿を全うし、鬼を愛した。よって、「極楽行き」

「其方は、もう一度同じ人生を生きろと言われたら、同じ道を選ぶか?」

 天秤を横にやりながら、閻魔大王は土方に問うた。土方は、「はい」と言って頷いた。

「同じ道を選ぶ。武士に二言はない」

 きっぱりと言い放った土方に、大王は「宜しい。其方には【真の道】が用意されている」そう言って、裁定は終わりだと宣言した。土方は、【真の道】は何かを問おうとしたが、青鬼に部屋を出るように促されている内に祭壇の御簾が下がって、閻魔大王の姿は見えなくなってしまった。
 土方が青鬼に連れられてやってきた部屋には、大きな机と椅子が並んでいた。先に席についている近藤達が、土方が部屋に入ると、沙汰を聞きたがった。土方が「極楽行き」だと報せると皆が喜んだ。

「じゃあ、【衆合地獄】行きは、俺等三人だけかよ」

 新八が、不満そうにふてくされている。左之助が、「だな」とその隣で頷いた。平助は、「ぱっつあんと左之さんが一緒なら、なんとか二日間行けそう」と嬉しそうにしている。

「さっき、吟味方のお役人に尋ねたのだが、【衆合地獄】は牛頭と馬頭に追いかけられる恐ろしい場所だそうだ。一旦山に入ると、石や岩に押しつぶされる苦行だそうだ」

 近藤は、心配そうに三人に説明をしている。

「なーに、俺等三人いれば、なんとかなるでしょ」

 平助が笑いながら答える。

「こうやって、しんぱっつあんを楯にして逃げて、石や岩が来たら、左之さんを前にだして、オレは逃げる」
 と言って、平助はゲラゲラ笑った。

「牛頭や馬頭はともかく、何かあれば青鬼から金棒奪って、石でも岩でもたたき割るしかねえな」と言って、左之助は笑った。新八は、「とにかく、走れよ、お前ら」と真顔で言っている。地獄の道行きも、この三人なら大丈夫かもしれぬ。斎藤は平助達を眺めながら思った。
 皆で暫く寛ぎ、歓談していると奥の扉が開いて、青鬼が大きな盆に丼のような器を載せて入って来た。皆に席に座るように言うと、器をひとりひとりの前に並べて置いていった。そして、大きな水差しのような壺を持ってもう一人の青鬼が部屋に入って来た。

「これより、皆さんに【忘却水】を飲んでいただきます。これは、みなさんがこれから極楽へ行く為のもの。前世の記憶を無くし、新たに生を得るためのものです」

 そう説明をされる間に、皆の前の器に【忘却水】がたっぷりと注がれた。

「こちらを飲まれてから、この部屋を出ると、暫くすると記憶が全てなくなります。前世に知り合いだったことも、互いの名前も顔もわからなくなります」

「そちらの御三方は地獄口に。そちらを出られると、記憶はなくなりません。皆さんの前世の記憶は、【衆合地獄】の苦行の後に無くなります。ご安心ください」

 青鬼は、新八達に地獄口への扉を教えた。それは、斎藤達「極楽行き」一行の出口とは正反対の壁にあった。

「それでは、お飲みください。忘却水は無味無臭です。毒ではありません。ですが、万が一、ご気分が悪くなられたら報せてください」

 皆がしーんと静かになった。地獄の沙汰が下って。それぞれの道行きも決まった今。この水を飲んだら最後、この仲間と会うのは最後になる。それを思うとさみしくなった。皆がそれぞれの人生へ。そこでは、互いにまた関わる事になる。それは、解っていても。今生の仲間と別れるのは心さみしい。皆が皆で顔を見合った。近藤が声を上げた。

「みんな、聞いてくれ。俺は、皆と出会えて真に素晴らしい人生だった。良き友、仲間に恵まれて。こんなに幸せなことはない。俺はまた、同じ人生で同じ選択をするだろう。精一杯やれば。なにも思い残すことはない。また、皆で会おう。大いに語らい、剣を振るい闘おう」

 そう言って杯を手にとった。皆も器を手に持った。近藤が一気に杯を空けると、続いて土方、井上、山崎と飲んでいく。斎藤が飲もうとしたとき、総司が器に手をつけずに席を立ったのが見えた。しまった。そう思った瞬間、総司が地獄口の扉に向かって走り、青鬼を突き飛ばして扉を開けた。斎藤も、とっさに追いかけた。立ち上がった時に、器が手から落ちて忘却水が机にこぼれた。


****

総司を追って


 【地獄口】への扉を走り抜けた総司は、もの凄い勢いで閻魔庁の庭を横切ると六道の辻に出た。冥土筋はさっきと同じ、茜色の空の下で賑やかなまま。人出で賑わう通りを総司は走っている。追いかける斎藤の後ろから青鬼が大群で追いかけてくるのが見えた。

 総司、どこへ行く。一体。何をするつもりだ。

 斎藤はひたすら追いかけた。冥土筋の裏通りに出ると、そこはさっき赤鬼に案内されて歩いた道。見覚えのある風景に斎藤は呆然とした。総司は【輪廻の輪】に向かっているのか。

「総司ーー」

 斎藤は大声で叫んだ。戻って来い。近藤さんも,皆も待っている。総司は振り返りもせずに走り続ける。その髪は銀色に輝き、恐ろしい程に早い。斎藤も、羅刹に身を変えた。全速力で追いかける。とうとう、何もない場所まで辿りついた。霧が濃くて見えないが、背後から青鬼が迫ってくるのは判る。
 総司は、元の姿に戻って【輪廻の輪】の真下に居た。大きな弓なりの柱のように聳え立つ輪廻の輪は、真っ暗で。霧の中で轟々と音を立てている。強い風が前から吹いて、しっかり地面を踏みしめていないと吹き飛ばされそうになる。 後姿のままの総司を、斎藤は声を張り上げて呼び止めた。総司は、このまま輪廻に乗るつもりか。振り返った総司は、「もう行かなくちゃ」と叫んだ。斎藤は、身を低くして出来る限り総司に近づいた。

「僕の人生では、僕は必ず労咳で死ぬ。羅刹にもなる」

「死ぬのは、俺とて同じだ。俺も羅刹になる」

 総司は首を振った。

「僕のために、あの子まで羅刹になる。僕は、生き返ってあの子を救いに行く」

 斎藤は、大きく目を見開いた。雪村が羅刹に。どうして。総司は、悲しそうな顔で「僕のせいで、あの子は変若水を飲む」と叫んだ。

「僕の最良人生の終焉は、あの子と一緒に死ぬのを待つ」

「あの子は、幸せだっていうけど、僕はそう思わない。僕は、もう死ぬのは嫌なんだ」

 もう死ぬのを待たない。そう総司は決めていた。斎藤は叫んだ。

「俺も行く。一緒に雪村を救う」

 総司は首を横に振った。

「君は、生き続ける。僕が死ぬ【宿命】なら、はじめくんは生きる【宿命】だ」

「君は、生きてあの子を守って」

「僕は、死んでも転生し続ける。きっとあの子を守る」

 轟々と響く風の音と一緒に地面が揺れだした。霧の向こうの輪廻の輪が動きだすのが見えた。総司は輪廻を見上げると、斎藤に背中を向けた。

「最初から、このつもりだったのか」

 ようやく総司の傍まで近づいた斎藤は、静かに尋ねた。総司は一瞬立ち止まって、顔を後ろに向けた。

「近藤さんと河原で待っている間に、いろいろ考えたんだ」

「近藤さんを救って、新選組を守って、千鶴ちゃんを守る。一番いい方法をね」

「今日、まぼろし館でわかった。僕以外の人生であの子は幸せになる。ずっと生きて守られて」

 総司は、優しく微笑んだ。

「僕は、死んでも生き返る。輪廻で未来永劫、守ってみせるよ」

「君もおいで」

 総司は、霧の向こうに声をかけた。霧の中から餓鬼の姿の赤鬼が現れた。

「この子は、沢山禁を犯した。僕に情報を教えるためにね。この子も救ってあげなきゃ」

 総司はそう言って、餓鬼を小脇に抱えた。

「じゃあ、行くよ」

 そういって地面を蹴って走り出した。丁度輪廻の輪が回りだして、総司の向こうに大きな輪っかの入口が見えた。

「総司ーー」

 斎藤は思い切り叫んだ。総司は振り返った。

「また会おう。桜の下で」

 そう言って笑顔を見せると、輪っかの暗闇に吸い込まれるように入ったまま消えてしまった。地面がつんざくような音を立てて揺れだした。斎藤は立っていられず片膝をついて身を支えた。轟々と音をたてて暗い巨大な輪が回っている。総司は行ってしまった。自ら、永遠に生き返る道を選んで。
 背後から、青鬼たちが駆け付けた。役人たちはそれぞれ縄や金棒を持って斎藤に襲い掛かった。斎藤は抵抗せずに、そのまま後ろ手を縛られたまま、閻魔庁に戻った。お沙汰の後に集まった部屋で、近藤達が待っていた。皆は、斎藤が総司を追いかけて部屋を出た後に、役人に捉えられて部屋で事情伺いを受けていたらしい。斎藤も別の部屋に連れていかれた。そこは、吟味方の部屋で、沢山の口上書の巻物が壁一面に積み上げられていた。斎藤は、総司が輪廻の輪に自分から飛び込んだと話した。自分は追いかけたが間に合わなかったと。

 沖田総司がどうして、輪廻に乗ったのか。

 斎藤は、永遠に生き返るためだと答えた。「極楽行き」のお沙汰を蹴ってまで、自ら輪廻獄に身を投じた理由は、吟味方の役人には理解不可能だった。未来永劫「生き死に」を繰り返す地獄。総司は、それを望んだ。総司を連れ戻すために斎藤は走って行ったと云うことで、閻魔庁に協力的な行動をとった斎藤はお咎め無しとなった。閻魔大王のお沙汰の通りに、斎藤は「極楽行き」が決まっている。土方たちが待つ隣の部屋に戻ると、新しく【忘却水】が用意されていた。斎藤は、平助や左之助が見つめる前で、全て飲み干した。
 懐から、まぼろし館の写真を取り出した。屯所の縁側での写真。これは春ごろか。確か、局長が買ってきた団子を皆で食べた。この頃、総司は元気で悪戯をしかけては皆をからかっていたものだ。そして、自分の隣で笑顔で座る千鶴。
 別の二枚の写真。大きな瞳で笑っている娘姿の千鶴を眺めた。絶対に忘れてなるものか。この瞳を。そして、総司。俺も雪村を俺の人生で守り抜く。雪村が言ったとおり、これが全て幻だとしたら。誰かの夢だとしたら。

 それこそ、俺も精一杯やらねばな。

 武士は決して後悔しないことだ。そうだろ。総司。

 斎藤は、写真に写っている総司を指でなぞってから、懐にしまった。たとえ記憶がなくなっても。絶対に忘れてはならない。そう自分に言い聞かせた。
 顔を上げると、皆が暇の挨拶をしあっていた。【衆合地獄】に向かう三人も、三日目には「極楽」へ向かう、皆の後を追いかけるといって笑っている。それぞれの人生だが、共通人生ではまた出会い、一緒に笑い、剣を振るって闘う日が来る。
 土方は、自分も精一杯生きる。そう言って笑った。独り部屋の隅で退屈そうに黙っている風間に、土方は声を掛けた。

「おい、風間。俺の人生では世話になった。外道だ、紛い者だと、どれだけ呆れられようと、来世で俺はまた新選組を守って、あいつを守る」

 風間は黙ったまま腕を組んで、土方のいう事をじっと聞いている。

「だが、俺が居なくなった後は、あいつをよろしく頼む」

 土方は、真剣な表情で頭を下げた。皆がそれを見て目を丸くして驚いていた。風間は、いつものような、馬鹿にした態度はとらず、真顔のまま立ち上がった。

「案ずるな。鬼は決して約束を違えぬ」

 そう言うと、深く頷いた。

 地獄行きの三人と最後にもう一度声を掛け合った。笑顔の三人は、手を振ると青鬼に連れられて、地獄口の扉の向こうに消えて行った。

 また、会おう。みんな。

 斎藤は、胸が詰まりそうになった。

 吟味方の青鬼について、部屋からでた近藤達一行は、大きな広間に出た。薄暗い部屋の床は、いままで踏んだことのない感覚。柔らかいのか堅いのか、床自体が存在するのかも判らない。青鬼について部屋の反対側にある大きな扉の前に立った。青鬼は、この扉の向こうが輪廻道になる。それぞれの人生に向かって皆が進むことになる。ここにいる皆は、徐々に記憶が薄れる。でも恐れる必要はない。光が見えたら、それは次の生の灯り。それに向かって行けば、自然に来世に吸い込まれて行く。皆は、黙って青鬼の説明を聞いていた。

 斎藤は、土方、近藤、井上、山崎、全員の横顔を見詰めた。また、この面子で出会う。忘れずにいよう。皆と共に。

 近藤達は、扉の向こうの世界を既に見詰めているかのようだった。それぞれの人生へ。ひとりひとりが希望と期待を持って。

「いざ、参ろう」

 近藤がそう言って、一歩前に進んだ。

 扉が開いた。眩いばかりの白い光。一歩前に。前に。光に包まれる。斎藤は、胸に手を当てた。懐の中の写真。黒い瞳と笑顔と、翡翠色の瞳、笑顔、、黒い瞳と、笑顔と、

 ひすい色

 黒いひとみ

 笑顔

 決して忘れ…ぬ……



********


終章 うつし世

文久元年 春


 朝方に降った雨でまだ濡れた地面を踏みしめ黙々と歩く男の姿があった。名は山口一。墨染に近い濃紺の袷に紺袴。首には白い襟巻き。髪はおろしたものを無造作に肩で束ねている。歳は十八。浪人風の出で立ちだが、御家人の次男。本郷弓町から市谷まで、途中遠くに鶯の鳴く声をのどかに聞きながら、只ひたすらに目的地に向かっている。

 行き先は牛込の向こう甲良屋敷の通りにある試衛場。上野界隈の道場はどこも出入禁止の今、もうここしかない。

 強くなりたい。只ひたすらに剣の腕を磨いて精進してきた。自分は生来左利き。剣は左腕で振るう。そのため、どこの門人にもなれず、唯一の師が亡くなり、通っていた道場が閉鎖となってからは、近隣の道場に出向いたが、右差しを理由に門前払いをされた。以来、自分の腕試しに、試合を申し込んでは闘う道場破りとなった。もっと強い相手と打ち合いたい。ただそれだけだった。

 市谷の試衛場の事を聞いたのは、ずっと以前。まだ師の生前。流れるような剣技だが少々荒々しい。そんな風に聞き及んでいた。牛込神楽町の向こう、賑やかな甲良屋敷沿いに、試衛場があった。門の表札に「近藤」と書かれてあった。道場主は、近藤殿だな。表札の隣に「天然理心流道場試衛館」という木の看板が掛けられていた。

 開け放たれた門をそのまま中に進んだ。建屋の玄関で、「御免、どなたか居られるか」と声を掛けたが誰も出てこなかった。

(あてがはずれたか)

 山口は、道場に主も門人も不在な事を残念に思った。暫く待ったが、きびすを返して門に向かおうとした。朝日が眩しい。ここ数日花冷えが続いていたが、今日は陽も温かい。そんな風に思いながら、目の前にある桜の木を見上げた。満開だな。

「さっき、玄関に来てた人って、君?」

 背後から声がした。振り返ると、袴着姿の男が立っていた。裸足のまま草履をひっかけて、御影石を飛び越えて来る。

「道場主にお会いしたい」

 一礼してから山口が答えた。袴着姿の男は、右の口角を上げながら、山口を頭の天辺から足先まで眺めた。右差しの腰を見て、「へぇー」と関心のある表情をして笑った。それから、じっと真顔になって見詰めてきた。一瞬のことだが、その男の翡翠色の眼が光ったように見えた。

 ひすい色
 吸い込まれるような。

「生憎。近藤さんは、今日は不在でね。僕がお留守を預かっている」

 そう言いながら、隣の御影石の石畳に足を載せると、見下ろすように山口を見た。

「君、手合わせに来たの?」

 自分より頭ひとつは上背の男を見上げながら、山口は「ああ」と返事をした。

「それじゃあ、僕がお相手するよ」

 そう言って、微笑む男に山口は挑発するような目線を感じた。「受けてやる」と強く思った。桜の花びらが頭上からひらひらと落ちて、二人の間の御影石の上に載った。

「付いてきて」

 そう言って、男は中庭を横切って、道場に山口を案内した。道場には、他に二人の門人らしき者がいて畳の上に胡座をかいて座っていた。山口を案内した男が、そのまま壁の木刀を取って渡すと、「それじゃあ、お手柔らかに」と言って、位置に付いた。

 殺気。
 構えた瞬間、空気が変わった。

(この者。できる)

 山口は、離れて間合いを取る相手の引きに内心舌打ちをした。上段で構える木刀の先は、鋭く殺気を放っている。山口は低く構えた。それまで、面白半分に審判を買ってでた門人の一人が真顔になっている。緊迫した空気。

 先手を打った。一瞬の隙で胴をとりに初太刀を撃った山口を相手は楽々と躱した。後ろに跳ね飛ぶように下がると、背後に滑り込むように下がって構えた。一寸の隙もない。すり足でにじり寄る。空気が斬られた。そんな風に感じた瞬間、目の前に突きが来た。

 なんだ。

 山口は、体勢を崩さないように下がる。次は肩をかすめる。鋭い突き。よし、躱した。次はこっちだ。そんな風に次の一手を撃とうとした瞬間鳩尾に激痛が走った。なんだ。

 なんだ。これは。

 閃き。相手の顔が見えた。笑った顔に翡翠色の眼が爛々と輝いている。山口はすり足で下がると、床を蹴って次の一手を撃った。相手が後ろに体勢を崩した。今だ。やってやる。胴を取った。

 山口は、木刀を振りかざすと相手の頭上から叩き下ろす。笑いながら相手は、木刀で受けて跳ね返した。交互にぶつけては、押し返す。打ち合いを永遠に続けた。一旦間合いをとった後に、互いに床を蹴って思い切りぶつかった。もう止まらん。殺らねば、殺られる。

 気がつくと、審判をやっていた門人が全力で自分の肩を背後から押さえていた。

「なにやってやがんだ。木刀で果たし合いをする奴がどこにいる」

 そう怒鳴る声がした。

 黒髪の背の高い男が、目の前に立っていた。紫色の瞳に、鼻筋の通った端正な顔の男は眉間に皺を寄せている。

「総司、おまえは手加減をしらねえのか。こんな力尽くで撃ったら、脳天割られて相手は死ぬんだぞ」

 と言って男は木刀を取り上げると、山口に向かって言った。

「怪我はねえか?」

 山口は息を切らしながら首を横に振った。

「これは、試合なんだな?」

と言って念を押すと。

「それなら、これで打ち止めだ。ちゃんと礼をしろ」

と言って男は腕を組んで仁王立ちになった。

 山口は、もとの位置に戻って木刀を下ろして立った。相手の男も、向かい合って立った。二人で深々と一礼した。

「君、なかなかやるね」

 肩に木刀をのせる様にもって相手の男が笑った。

「僕の三段突きで、倒れなかったの君ぐらいだよ」

「俺の初太刀を躱されたのは、はじめてだ」

 互いに、相手の力を認めあった。審判役だった門人が「ヒヤヒヤした」と笑っていたが、これだけの凄い打ち合いは久しぶりで面白かった、と言って、山口にどこの道場から来た。左構えは昔からか、試衛館に通うのかと矢継ぎ早に質問している。正座をして山口が汗を拭い答えようとすると、仕合の相手に遮られた。

「新八さん、その前に名前でしょ。僕ら、手合わせするのにまだ互いに名乗ってなかったよね」

 と言って、手拭いで首の汗を拭った男は、山口の正面に立った。

「沖田総司。試衛館道場の筆頭を勤めてる」

「山口一と申す」

 正座して、膝に両手をおいて一礼をした。

「はじめくん、だね?」

 総司は笑って言った。「僕のことも、『総司』と呼んでくれればいいよ」

 互いに名乗り合ってから、道場の門人を紹介された。審判役の永倉新八、もう一人の背の高い男は、原田左之助。二人とも浪人で、試衛館道場に住んでいるという。そして、打ち合いの仲裁に入ったのは土方歳三。道場主の近藤の朋友であり、試衛館には総司と同じ位永く身を置いているという。山口は、是非にと頼まれて、昼すぎまで永倉と原田と手合わせした。その内に、昼餉も一緒にと誘われ、結局夕方まで手合わせをした。途中、外出から戻った近藤が、道場での様子を眺めて、山口の剣の腕に感心した。そして、近藤から山口に是非、試衛館に通って欲しいと頼むことになった。
 門前払いを覚悟の上でやってきた山口は、この申し入れを有り難く受け入れた。右差しである自分を、ただ強いと認めてくれた近藤や土方。道場に迎え入れてもらえた事はこの上ない喜びだった。

「お見送りするよ」

 道場を後にする時に、玄関まで総司が付いてきた。門前で一礼する山口に、総司は笑いかけていた。

(相変わらず、真面目だね)

「そこの路地をまっすぐ突き抜けると、通りまで近道だよ」

 総司は向かいの路地を指さしてから、門の中に入っていった。

「ねえ、出てきなよ。隠れてるのわかってるよ」

 総司は、門の裏側の柱に向かって言った。すると、柱の陰から、小さな餓鬼が現れた。はにかむような表情で、会釈をする。

「さっきも君、打ち合いを見に来たでしょ?」

 総司は咎めるような口調で尋ねた。餓鬼は、更に小さくなって上目使いで答える。

「はい、【あの方】でしたから」
「うん」

 総司は、嬉しそうに笑う。

 何度経験しても、はじめくんとの最初の打ち合いは……。

 毎回、わくわくするんだよね。

 今生でも再び一緒に剣を振れる。あの子とももうすぐ出逢える。

「さ、君。もう戻って」

 総司は、餓鬼を追いやった。餓鬼は、再び建屋の屋根に上がって、鬼瓦に姿を変えた。こうやって魔除けの振りをして、餓鬼は総司の傍にいる。総司は、微笑みながら屋根を見上げてから門を振り返った。

 桜の花びらが、ひらひらと石畳の上に落ちていくのが見えた。


*****

そして別のうつし世

明治三年 春

箱館 上湯ノ川の隠れ家


 小さな建屋の縁側で、まどろんでいるのは、元新選組局長 土方歳三。蝦夷共和国と新政府との戦争が集結してから一年近く経つ。戦死した事になっていた土方は、腹部に受けた銃弾の傷も癒えて、日中はこうしてゆっくりと過ごしている。傍らには千鶴が長い髪を下ろして、うしろで結わえ、薄紫の着物を纏い繕いものをしていた。一旦眼を開けた土方は、庭に咲く満開の桜をながめると、またゆっくりと眠気に襲われ、そのまま瞼を閉じた。

 千鶴は、土方に肌掛けを持ってきて着せかけた。土方の額にかかった髪の毛をそっと撫でて。頬に触ってみた。穏やかな表情で眠る横顔は、端正で、時々微笑んでいる。それを見て千鶴も微笑んだ。

 ふと、手をとられた。

 土方は、眼を瞑ったまま笑っている。

 起きていらしゃったのですね。

 千鶴は、ふっと笑うと身を近づけた。土方はそのまま千鶴を引き寄せると、その膝に自分の頭を載せた。のぞき見るように千鶴は上から微笑んだ。

 夢を見られていたんですね。さっき。ずっと笑っていらっしゃいました。

 楽しい夢を。

 土方は、自分の胸の上で千鶴の手を握りながら笑っている。

「屯所の夢を見てた。皆で、縁側で団子を食べていた。近藤さんや総司とな、源さんもいた。総司が俺の発句集を盗んで廊下を逃げていった」

 千鶴は、そういえばそういう事がありましたねと笑う。

「総司はどうしようもねえ奴だ」

 千鶴が、「あっ、動きました」と言うと。

 土方は、千鶴の腰に手を添えて、お腹に耳をつけた。

「これか?」

 ちいさな声で尋ねた。小さな小さな鼓動。千鶴は頷いた。

 土方は起き上がって、嬉しそうに千鶴を抱きかかえた。自分の膝に千鶴を座らせると、肌掛けでくるんだ。

「冷えるといけねえ」

 千鶴は嬉しそうに微笑んでいる。長い睫を伏せている横顔は美しく。土方は愛しさが募って、思わず顎に手を掛けて上を向かせるとゆっくりと口づけた。

 永遠の時間。

 こうしているとそう感じる。自分は、もうそんなに長くない。ずっと覚悟を決めて、ここに暮らしてきた。

 だが、どうだろう。この感覚は。

 唇を放した。千鶴の黒い瞳を見詰めていると。ずっと生きていたい。ずっとこうして、千鶴を抱きしめて居たいと思う。それに、さっきの鼓動。小さな命。千鶴が身ごもったと知ったとき。これほどの喜びはなかった。守る者が出来た。女房と子。かけがえのない命。

 土方は、千鶴を抱きしめた。大丈夫だ。

 目の前の桜の木を眺めながら、土方は大丈夫だと。不思議な確信があった。

 今は満開の桜。これが散る頃に南へ下る。蝦夷を離れて。船に乗り千鶴と白河に向かう。幸い、雪村の里には、小さな家が建てられていた。八瀬の千姫が、千鶴たち夫婦が住まえるようにと用意してくれたものだ。雪村の里の湧き水は羅刹の毒を中和させる働きがある。土方に、湧き水を飲ませれば大丈夫だと。そう報せがきたのは、二月前のこと。

 雪解けを待って、船の手配をした。雪村の里は強い結界で守られている。二人で静かに、生まれてくる子供と一緒に。

 八瀬の千姫には感謝してもしきれない。これから、千鶴を連れて雪村の里で暮らす。俺も仕事を見つけて、二人を養い生きていく。

 どんなことをしてでも、幸せにする。

 上等な人生だ。ほんとうに。

 深い紫の瞳は、優しく千鶴を見た。千鶴は微笑み返すとそっと土方の胸に頰を寄せた。

 二人で桜の花びらがひらひらと落ちていくのを眺め続けた。


 了



(2018.05.28)

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