会津へ

会津へ

FRAGMENTS 3

近藤先生のお許し

平成三十年三月

 会津行きの直前の週末、斎藤は薄桜学園に電話をかけて、校長との面会の約束をとりつけると早速出掛けて行った。近藤は斎藤を校長室で迎えいれると、会津行きは、もうすぐだな、と笑いかけた。

「はい」

 そう返事をして、斎藤は促されるままに応接椅子に腰掛けた。

「先方と昨日電話で話した。ここ数日は暖かい日が続いているらしい」

 近藤はうれしそうに話す。斎藤は、微笑みながら頷いた。

「ところで、今日はどうした? 朝から面会を願い出るなど、何かあったのか」

「はい、会津行きの事で話があって参りました」

「どうした?」

 近藤は、応接椅子に腰掛けながら尋ねる。

「会津に雪村を連れて行きます」

「雪村くんをかい? 道場交流に彼女も参加するのか」

 近藤が驚いた顔をしている。

「いいえ、稽古には。演武の見学はしたいと言っています」

「そうか」

 近藤は、一言そういったきり黙っている。

「先生、今日はお願いにあがりました」

 静かに姿勢を正して話す真剣な斎藤を見て、

「なんだ、急に」

 近藤は、きょとんとしている。

「旅行に雪村を同伴する許可をいただきたく」

「なんだ、わたしの許可が必要なのか」

 眉毛を上げながら、近藤は尋ねる。

「・・・・・・はい。会津に雪村を連れて、一緒の宿に泊まります」

「同じ部屋です」

 斎藤は思い切って一気に言った。近藤は、驚いた顔をしている。

「先生に、許可をいただきたいのは、その事です。雪村と、その・・・・・・一緒に泊まることを」

 しばらくの沈黙の後、近藤が斎藤に尋ねた。

「いつからだね。君たちは付き合っているのだろう」

「二年前からです」

 姿勢を正したまま話す斎藤に、近藤は微笑んだ。

「異性交遊を我が学園では厳しく禁止している。うちは男子生徒が多いからな」

「はい、校則に反している事を自覚しています。ですが、不純なことは一切。俺は誓って、雪村に不埒な事はしていません」

 近藤は微笑んだまま聞いていたが、やがて静かな声で話始めた。

「雪村君は、うちの生徒であると同時に、彼女の父親からお預かりしている大切な娘さんだ。君も知っているだろう。雪村くんの父親は不在で、うちの学園に通ったのもわたしが後見人として彼女を見守るためだ」

「それは、彼女が卒業しても変わらない」

 そう言って、近藤は斎藤の目をじっと見詰めた。斎藤はじっと黙っている。

「この春に、綱道さんは帰国する予定だった。ドイツでの研究が一段落ついて、これから日本で引き続き研究をすることになるらしい」

「だが今年の夏まで帰国の予定が延びた」

 近藤は話を続ける。

「去年の暮れに、彼女の父親から春に戻ると連絡があった。ちょうど、雪村くんのクラスでは、卒業旅行の計画を立てていた時期だ。関西方面にな。だが春休み中に父親が帰国するなら旅行は参加しないと言って、雪村君は申込みを断った」

「今年になってから、綱道さんの帰国が夏に延びたと報せがあったようだ。彼女は残念がっていた。丁度受験期で春休み中の卒業旅行も参加申込みはしないまま。俺もトシも独りで居る彼女が心配だったのは確かだ。

「彼女は見事に大学入試は合格した。よく頑張ったと思う」

 斎藤は頷いてずっと話を聞いていた。

「卒業旅行に参加できない彼女を不憫に思っていたところだ。君が会津へ彼女を旅行に連れ出すなら、きっと楽しい事だろう」

「わたしも、会津へ行く。彼女の保護者として。宿の事は許可しよう」

 斎藤の顔に安堵の表情が拡がった。

「君が武士の誇りにかけて彼女を守るという前提だ」

「彼女を傷つけてはならん」

 近藤は微笑んでいるが、その目は真剣だった。斎藤は頷いた。

「有り難うございます。道場の活動意外は、ずっと傍にいるつもりです」

「そうか。会津はいい所だ。土地の人もいい。君も雪村君もきっと気に入るだろう」

 斎藤は、はい、と返事をした。

「今日は、土方先生にもお話をしようと思って来ました。先生は職員室でしょうか?」

「トシか? 今は研修中でずっと不在だ。千葉の私学会に出ている」

「お戻りは?」

 戻りは二日後だ。そう言う近藤に、斎藤は千鶴との旅行の事を土方にも許可を受けるつもりで来たと話した。近藤は、トシには俺から話しておくと言われ、斎藤は納得して近藤に礼を言うと校長室を後にした。

 近藤先生のお許しは貰えた。

 斎藤は、ひとまず安心して稽古に向かった。


******

北上


 そして、出発当日。まだ暗い内にスマホの電話が鳴った。近藤からだった。会津行きを中止することになったと言う。

「身内に不幸があってな。女房の父親だ。急な事で申し訳ないが、道場交流を君にお願いしたい。先方には、朝の内にわたしから連絡をしておく」

 短い会話の中に、近藤がかなり慌てている様子が感じられた。斎藤は、会津の道場主に今日挨拶に行く際に自分からも事情を話しておくと伝えた。近藤は、今日予約してある宿はキャンセルできないから、かわりに斎藤たちに泊まってもらってもいいと言っていた。斎藤は、わかりましたと伝えて電話をきった。

 駅で待ち合わせた千鶴は、近藤が来れなくなったと伝えると残念がった。二人きりの出発になる。東京駅に着いて荷物をひきずりながら歩いていると、じんわりと旅に出る実感が沸いてきた。

 新幹線の窓の外は雨。桜の花が咲き始めているが、花冷えどころか冬に逆戻りしたように寒い。灰色の雲としっとりと濡れた風景が拡がる。北上。何度か東北方面へは試合で出掛けているが、毎回この方角に向かうと一駅ごとの周りの景色が気になる。

 窓についた雨粒を千鶴が指でなぞりながら話す。

「雨もまたよし・・・・・・」

「父様が、雨降りのときにいつもそう言って笑って」

 斎藤は微笑みながら頷く。千鶴が持ってきたおにぎりを頬張った。さっきからずっとスマホの通知を報す振動が煩い。総司と平助だろう。朝からしつこい奴らだ。斎藤は、ずっと無視を決め込んでいた。

 数日前、稽古の後着替えていると、総司が斎藤に包みを渡した。

「はい、僕と平助からのお餞別」

 茶色の紙袋の中には、薄い桃色の包装紙で包まれた箱が入っていた。青いリボンのシールが張ってある。

「1ダース入り。はじめくんに合わせて、ブルーにしたよ」

「足りなくなったら、現地調達してね。ちなみに、ドラッグストアは七日町だとここ」

 総司はスマホの画面で地図を拡大して見せてきた。土地勘のない自分には、一体どこなのかも判らない。だが、総司から渡されたモノが何なのか理解した。用意しなくてはと思っていたが、すっかり忘れていた。小さく礼を言いながら、斎藤は赤くなった。

「僕は法事で出たり入ったりだけど、ずっと見守っているからね」

「遠隔で」

 総司は不穏な笑顔を向けていた。

【見守る会】の二人から貰った餞別は、旅行鞄の一番底に入っている。念の為。必要な時が来れば、いつでも使えるように。男の常識だ。隣でうれしそうに話し続ける千鶴を眺めながら、斎藤は千鶴と二人きりの夜を想像して、早く会津に着きたいとばかり考えていた。

 宇都宮を過ぎると、雨は次第に雪に変わった。白い空に大きなぼた雪が舞っている。千鶴は綺麗だとしきりに言って窓の外を喜んで見ている。この分だと、会津は雪だろう。町中の雪はほとんどないそうだが、今夜は積もるかもしれない。千鶴の行きたがっている鶴ヶ城は雪景色で眺めることになる。楽しみだ。

 新白河、次が郡山。あっという間だ。斎藤と千鶴は新幹線を降りる準備をした。スマホを見るとLINEに通知が358来ていた。あいつら、しつこすぎるぞ。斎藤は、スマホの電源を切った。

 郡山の乗り換えはスムーズに行った。磐越西線。千鶴の買ったあたたかい飲み物を持って席に着くと、これからは各駅停車だと、窓辺にスマホを置いて千鶴は喜んでいる。電車から見える風景は全て覚えていたいらしい。斎藤は千鶴が遠い道行きをこんなに喜んでいる事に驚く。天気は世辞にも決して良くはない。気温も思った以上に低い。千鶴は、自分のコートを膝掛けにしている。斎藤はその上から、自分のコートをさらに掛けた。自然に手を伸ばして千鶴の右手をとって握った。コートの下なら、ひと目に付かないだろう。

 中山宿。この地名を聞いた時、懐かしい気分がした。灰色の田園風景。だが霞の向こうに浮かぶ山々は、どこかで見た気がする。もっと季節が進めば、この辺りは緑でいっぱいだろう。そんな事を考えながら、連なる山々を見ていた。猪苗代。ここもだ。懐かしい山道を歩いた記憶がある。きっと俺は幼い時にここに来たことがある。母親は会津若松に先祖の墓があると言っていた。疎遠になったが、小さい時にあの山に登った事があるのだろう。

 隣の千鶴がガイドブックを開いて、なにやら今日行きたい場所を決めている。ゆっくりと進む電車は景色を楽しめる。二人でのんびりと出来た。彼岸の中日。電車は祭日で混んでいるようだった。会津若松に着いた。この先は列車は喜多方にまで続く。喜多方か。うまいラーメンがあるな。そんな事を考えながら斎藤は電車を降りた。

 外は雨だった。風が強い。郡山より一段と冷える。斎藤は荷物をひきずって千鶴と駅のインフォメーションに向かった。城へ行きたいと伝えると、そのほかの観光地と一緒に雨でも廻りやすいルートで教えて貰えた。千鶴と荷物を駅のロッカーに預けて市内を廻ろうと相談した。それから周遊バスに乗り込んだ。雨がみぞれに変わっている。地元の人なのか、運転手と午後は雪になると話している声が聞こえた。バス停を降りると、雪に変わっていた。寒い。

 千鶴と傘に入って一歩踏み出した。

 右手の手袋をとった千鶴の手を握ったまま自分のコートのポケットに入れた。みぞれが溜まりだした地面を飛び越えながら二人で城に向かう。どんよりとした白い空からぼたん雪。辺りには誰もいない。

「雪もまたよし」

 斎藤は千鶴に笑顔で呟いた。



*****

鶴ヶ城

 城郭は、どこも素晴らしい。北出丸まで迂回する造りは、本丸までなかなか辿りつけない感じだ。難攻不落の城。いいぞ。白い息を吐きながら、白い霞の向こうを眺める。斎藤は城を見るのが好きだ。石垣や堀を見るだけで楽しい。戦国武将が城攻めをする方法など、軍記物で読むのも好きだ。剣道の試合で地方に行くと、城があれば必ず足を運ぶ。総司は天守に登るのが好きだからと付き合ってくれるが、城跡だけの場所に行くと、「あれ、なにもないよ、ここ」と一気に不機嫌になる。資料館のたぐいも、武器などがあれば喜ぶが、屋根瓦のかけらなどは一切興味を示さない。総司は気むずかしいやつだ。

 千鶴はうれしそうにしている。綺麗、あそこもほらと指を差す。それは石垣や植わっている樹木だったり、苔むした敷石だったりする。二人でゆっくりと進む。笑ってしまうぐらい、雪の降り具合が激しくなっている。それでも千鶴と居ると暖かい。城攻め。天守へ。どんどん歩き続ける。やがて、石垣の回廊を廻るような感じで抜けると左手に見事な城が見えた。

 名城 鶴ヶ城

 美しい天守閣。立派だ。千鶴は、わあ、と声を上げて見上げている。幼い時に見た風景よりもっと綺麗だと喜んでいる。二人で天守閣への入り口に向かった。中は資料館になっていた。入場料を払って、どんどん進んだ。暗い入り口からゆっくりと各階の展示を見てまわった。歴代の城主。会津藩の歴史。蒲生氏郷は、斎藤の好きな戦国武将の一人だ。そして、戊辰戦争。

会津での戦

 斎藤は立ち止まる。幕末に起きた会津藩最後の戦。戦争前夜の事、白虎隊。會津潘藩主松平容保公。

会津中将様

(大殿)

 目の前の大きなパネルを見た時に、自分の声がそう呼びかけるのが聞こえた。なんだ。


陣羽織に角帽子姿

お若く在らせられる。

(元服された頃だろうか……)

また自分の声が聞こえる。なんだ。

 千鶴は隣で白虎隊士のパネルの説明をじっと読んでいる。年端もいかない少年が前線にでていた。白虎隊の悲劇について聞いてはいたが、こんなにも壮絶なものだったなんて。女子供も、みなが戦に参加した。勇敢に戦った女性達。二人でずっと展示の前から動けない。新政府軍の猛攻にこの大きな立派な城は決して落ちなかった。皆が闘った150年前……この地で……。

 展示順路を辿り天守閣に上がった。雪の舞う城下は真っ白に霞がかかり美しい。晴れると磐梯山がよく見えるらしいが、これもいい。ここで、謁見した。

(あの日、中将様にはじめてお目通りが叶った)

 また聞こえる。さっきからなんだ。城内の案内のアナウンスとBGMが流れる中、自分の声が突然聞こえる。おかしい。それに千鶴にはこの声は全く聞こえていないようだ。なんだ、一体。斎藤は四方をじっと眺めながら自分の声が聞こえる城内を不思議に思った。周りには、自分たち以外に数名の観光客がいるだけ。斎藤は、千鶴の手を引いてゆっくりと階下に向かった。

「会津の戦の事を思うと胸が詰まります」

 千鶴が小さな声で呟いた。また三層を一廻りしてから城の出口に出た。しめった雪がずっと降り続けている。下から天守閣を見上げる。真っ白な空に雪が舞っている。斎藤はまた城に来ようと千鶴と決めた。

 城を出て食事をした後に博物館に立ち寄った。その後、道場主の元へ。足元の悪い中、よく来てくれたと喜ばれた。ここ数日暖かかったのにまた冬に逆戻りだと、こんなに寒い彼岸も珍しいと笑っている。暖かいお茶を出されて寛いだ。斎藤が近藤が急に来れなくなったと伝えると、朝に近藤から電話があったらしく、斎藤が代理で演武の挨拶も執り行うことになった。

「明日は、雪も雨になるらしい。道場へは午後に」

 道場主は、演武披露の週末まで交流稽古をしましょうと笑顔で話す。朝の内に、観光をしながら宿から移動をしますと斎藤が話すと。道場主は、城にはもう行かれたかと尋ねてきた。

「はい、着いてすぐに」

 道場主は、そうですか、と笑っている。この雪だと景色が見えなかったでしょう。そんな風な事を言っているようだった。会津ことばは、時々聞き取れない事がある。

「週末の夜に城でイベントがある。プロジェクションマッピングです」

 鶴ヶ城の天守閣に映し出される。まだ観覧申込み出来るから良かったらと誘われた。千鶴は、是非行きたいと言って喜んでいた。道場主も家族を連れて観に行くと言っていた。週末は夜間バスも運行される。いろんな場所がライトアップされているからと教えて貰えた。斎藤達はお礼を言って道場主の自宅を後にした。

 駅に戻って荷物を持ってまだ明るい内に温泉宿に向かった。移動中にプロジェクションマッピングの観覧申込みをスマホで済ませた。金曜の夜。再び城に行こう。LINEの通知が542件。きっと【見守る会】だろう。斎藤は無視した。メールも5件、電話メッセージも5件入っていたが、総司からの気がして開かずにスマホを閉じた。

 邪魔をされてはたまらん。

 千鶴の手を握りしめながら、千鶴の横顔を見詰めた。ようやく二人きりになれる。じんわり嬉しい。ずっと一緒だ。旅行というものは良い。結露で曇った窓の向こうの風景は、町中を離れて山に入ったようだった。ずっと上り坂。目的の温泉宿の目の前にバスが停まった。着いた。斎藤は、近藤に言われたままに近藤の予約した部屋にチェックインした。

 離れの露天風呂付きデラックス和室

 本館から渡り廊下の向こうに設えられたコテージのような客室だった。千鶴は、部屋に入って声を上げる。広い。シンプルでモダンな造りで全てが新しかった。川側が壁一面が大きな窓になっている。その向こうに露天風呂が見えた。石風呂。紅い番傘風の大きな覆いがある。千鶴は、素敵、素敵と部屋中を眺めては喜んでいる。確かに、こんなに大きな旅館の部屋は斎藤も見たことがなかった。写真より広い。近藤がこの部屋に泊まることを許してくれた事に感謝した。

「大浴場にも露天風呂があるそうだが、部屋で入れるなら浴場まで行かなくて済む」

 斎藤が施設図を眺めながら呟いた。

「はじめさん。私、お夕飯前に温泉に入りたい。さっき選んだ浴衣に着替えたい」

 千鶴はそう言うと荷物を解き始めた。斎藤は、先に入れば良いと返事した。千鶴は、はい、と返事してポーチを出して露天風呂に向かった。

「あれ、ここから露天風呂に出て。脱衣所はどこでしょう?」

 そう言って、大きな窓の横の戸を開けてキョロキョロしている。窓の外に通路があって露天風呂と洗い場が見えたが、衝立もなにもない。部屋で着ているものを脱ぐのだろうか。千鶴は一旦部屋に戻った。

「はじめさん、ここ。お風呂がお部屋から丸見えです……」

 斎藤は、窓の前に立って露天風呂を眺めて立っていた。

「俺は、見ない。背中を向けておく」

 そう言いながら斎藤の頬が赤くなっている。

「でも……。お着替えもお部屋だし私……」

 千鶴の頬も赤くなっている。

「俺は、部屋を出ている。ゆっくり入れ」

 斎藤は踵を返して部屋を出ていこうとした。千鶴は斎藤を引き留めた。

「はじめさん、はじめさんがお部屋の露天風呂を使ってください。私は、本館の大浴場に行きます」

「いや、それなら俺が行く。俺は入っても烏の行水だ。女のあんたは、いろいろとゆっくりしたいだろう。俺はロビーで観光資料も確かめたい。行ってくる」

 そう言って、斎藤は浴衣とタオルを持って部屋を出ていってしまった。千鶴は、部屋の露天風呂に浸かった。気持ちいい。川の流れる音がしている。生け垣の向こうには滝があるらしい。千鶴は、ゆっくりと湯に浸かって疲れを癒した。髪も洗ってさっぱりした。風呂から上がって、色浴衣に着替えた。春らしい桜の柄に朱と紫の帯。着付けを念入りに。髪を乾かして、お団子にまとめた。バレッタしかないが、これで留めるしかないかな。鏡の前で何度も髪を留め直した。リップをつけるだけ、お化粧したほうがいいかな。千鶴は、部屋でやつし続けていた。

 一方、斎藤は本館の大浴場で寛いだ。滝の見える露天風呂はすこぶる気持ちが良かった。熱くていい湯だ。疲れが吹き飛ぶ。湯から上がって、浴衣に着替えてロビー周辺をぶらついた。テラスでは日本酒の飲み比べコーナーがあった。一杯飲んでみた。うまい。ここは良い。あとで千鶴を連れて来よう。そんな風に思って、ロビーの観光パンフレットを物色しに向かった時、ふいに誰かに名前を呼ばれた。

「斎藤!」

 土方の声だった。

「副長」

 思わず振り返って土方を見て、そう呼びかけた。

(ふくちょう?)

 なんだ。副長って。斎藤は、そう思いながらも。「いらしていたんですか」と言いながら土方に近づいた。

「ああ、今着いたところだ」

(なんだ、副長って。こいつ。もしかして)

 土方は内心そう呟きながらじっと斎藤の目を見詰める。

「近藤さんの代理でな。今朝、東京を出た。7時間かかった。途中高速が事故渋滞で難儀した」

「今からチェックインする」

 そう言って土方は、受付に向かった。なにやら受付で説明をしているようだった。チェックインが済むとロビーで待つ斎藤の所に来た。

「斎藤。悪いが、部屋を移れ」

 斎藤は少し驚いた顔をした。土方は怒ったような表情のまま荷物を持って先に歩き始めた。別館の離れの部屋への渡り廊下で一言。

「千鶴と一緒なんだってな」

 前を向いたまま土方が尋ねた。斎藤は、「はい」と応えた。

「朝から、何度もお前の携帯に電話をした。なんで電話にでねえ」

 振り返った土方は怒りをあらわにしていた。斎藤は、「すみません。電源を切ってました」そう応えて俯いた。土方は、部屋のドアをノックした。中から千鶴の「はーい」という声が聞こえた。



******

斎藤先輩のおそばに


 ドアを開けた途端、上気した顔の千鶴が飛び出して来た。笑顔は、目の前に立っている土方を見ると驚きの表情に変わった。

「土方先生、いらしていたんですね」

 千鶴は、土方の背後に立っている斎藤にも笑いかけた。斎藤は千鶴の浴衣姿に完全にぼーっとしている。

可愛い。
浴衣姿は前にも見た事はある。
千鶴は本当に浴衣や着物がよく似合う。


千鶴はドアを大きく開いて、部屋に二人を招き入れると、

 温泉が気持ちよかった。
 先生、ご一緒に食事出来ますか?

 はしゃぐように話しかけている。土方は、部屋をみまわして驚いている。

「近藤さんも、随分はりこんだもんだな」

 そう言って、ソファーにどっかりと座った。「疲れた」そう言って、大きく溜息をついる。千鶴は、ポットのお湯を沸かし直してお茶を煎れる準備をしている。斎藤は、立ったままスマホの電源を入れて、入っていたメッセージを確かめた。電話とメールは全て土方からだった。

 今から近藤さんの代わりに会津に向かう。
 近藤さんから千鶴を同伴していると聞いた。
 同じ部屋に泊まる事を俺は許可しない。
 旅館についたら連絡しろ
 二本松で立ち往生だ。到着が遅れる。

 斎藤は、メッセージを聞いて衝撃を受けていた。

 同じ部屋に泊まる事を俺は許可しない

(副長、御意に)

 自分の声がまた響いた。なんだ。ここでもか。城でもないのに。テーブルの上に、千鶴がお茶を湯飲みに注いでいる。斎藤に一緒に座って暖かいうちに飲んでくださいと笑顔で促す。土方は、千鶴をまじまじと眺めている。

(こんな浴衣姿で、まずいだろう。おい)

(なんとか間に合ったか)

 この前まで高校の制服を着てまだ「おぼこい」ままだった千鶴が急に大人びて見える。驚きだ。こいつも年頃だしな。そんな風に思いながらお茶をすすった。

「千鶴、斎藤。悪いが、この部屋ともう一つの部屋で分宿だ。お前はここへ、斎藤は本館へ移動だ」

「俺は、ここで仕事を片付けたら、寝るときにそっちに行く」

 厳しい表情で土方は斎藤に話す。

 斎藤は、さっき自分の声で命令に従っていたのを思い出した。だが、違う。二人だけで、ずっと一緒にいよう。そう思っていたのだ。局長にも許可はいただいた。

 局長

 なんだ、近藤先生のことを「局長」って。またか。斎藤は、自分の中で聞こえる自分の声に混乱する。斎藤は独りでに身体が動き出し、荷物を片付けた。スーツケースと剣道道具。すぐに荷物はまとまった。土方が机に置いた本館の部屋の鍵を確かめると黙って深く頭を下げた。

「俺は、本館に戻ります」

(雪村は副長の元に。それが一番安全だ)

 自分の声が大きく響く。草の香りがしてくる。なんだ急に、部屋の中にいるのに。

 なんだ一体……。

 斎藤は混乱する。目の前に千鶴と土方の姿が見える。千鶴は、畳の台に上がって自分の荷物を急いでまとめている。走るように荷物を引きずって下駄を急いで履いている。

「おい、どこへ行く気だ」

 斎藤は土方の大きな声で、正気に戻った。千鶴は、荷物を抱えて斎藤の傍に立っている。

「私は、斎藤先輩のお側にいます」

「先輩について本館に行きます」

 千鶴は決心したようにハッキリと土方に宣言した。土方は、立ち上がっていた。

(またか)

 土方は強い既視感に襲われた。草の匂いのする夜の本陣。白い陣幕の前で立つ千鶴の姿が見える。目に涙を浮かべながらも、自分は斎藤さんについていく。そう強く言い放った。あの夜。

「先生が反対されるなら、お部屋の外にいます。でも斎藤先輩のそばを離れません。そのために、私は会津に……」

 千鶴は目から涙をポロポロと流している。斎藤は茫然としている。(またか)心の中で驚いている。草の匂いが消えない。強いデジャブ。ここは一体どこだ。

 気がつくと、目の前に土方が腕組みをして立っていた。小さな溜息をついて、苦笑いに近い微笑みを見せた。

「そこまで言うなら、俺はとめねえよ」

「夕食は六時半だったな。食事処で会おう」

 斎藤は、もう一度土方に頭を下げた。土方は、渡り廊下を二人が荷物をひきずって行く姿をじっと見詰め続けた。


 やれやれ、あいつらも戻りつつあるのか


 土方は溜息をついた。会津。この土地で。ゆっくりと部屋に戻ってソファーに座って考える。昔の記憶と既視感。土方は、もう何年も前に、初めて記憶が戻った。自分の過去の人生。時々聞こえる自分の声。過去に生きていた自分。いろいろな事が解るまで随分と時間がかかった。

 土方歳三

 自分と同じ名前の人物。うんと昔に生きた。百年以上も前の幕末に。そして、自分は現代で全く同じ名前で再び生きているようだった。過去の記憶を持ったまま。人は皆そんなものだろうと思いながら大きくなった。時々聞こえる声。自分の声が聞こえるのは日常茶飯事。当たり前のことだった。時々起きる既視感。デジャブ。記憶の混乱。それにも慣れっこだ。十五歳の時に試衛館を見つけた。雷に撃たれたようなショックを受けた。そこには近藤さんが居た。源さんも。また会ったな。皆には無沙汰をしていた。そんな風に思いながら挨拶をしたのを覚えている。

 十五歳の頃から、今まで昔の仲間にずっと再び出会い続けている。不思議だ。デジャブどころじゃない。俺は過去の人生を繰り返しているのか。近藤さん、源さん、新八や原田。そして、総司。皆、同じように土方を覚えているような時もあり、全く現在の事しか知らないようでもあった。

 現在の人生と記憶の人生の混乱。それをずっと繰り返している。試衛館道場の仲間。次第に自分以外の仲間にも昔の記憶が戻っているような、そんな感じのする瞬間があった。近藤さんがまず一番最初に幕末の頃を思い出した。その次は原田左之助。総司もすぐだった。新八と平助は、まだ思い出した様子はない。

 既視感(デジャブ)と記憶の混乱

 あれは厄介だ。何のために。そんな疑問も浮かぶ。深刻に物事を考える性質なら神経衰弱になるだろう。しゃらくせえ。だがじっと見守るしかない。何の為に、今この世に一堂に会しているのかは解らない。仲間が集まるのは嬉しい。かつて背中を預け合った、心から信頼する仲間、部下。また会えた事に感謝している。

 ありがてえ

 土方は、一言呟くと。千鶴が煎れたお茶を一気に飲んだ。ぬるくなっていたが、なかなかに美味いお茶だった。

 千鶴も変わらずだ。茶を煎れるのが上手い。

 土方は、微笑みながらゆっくりと立ち上がると本館の食事処に向かった。千鶴は、泣き止み顔だったが、食事の席では昼間に観光した鶴ヶ城や週末のイベントの話を嬉しそうにしていた。並んで座る二人を見て、昔と変わらないと改めて思った。好き合っている者同士。こいつらは余程気があっているのだろう。

 食事が終わった後、土方は持ってきた仕事をやらなければならねえと言って席を立ち上がった。食事処を出たところで、土方は斎藤にそっと釘をさした。

「俺が会津にいる間は手を出すな」

 斎藤は、黙って頷くしかなかった。

(御意)

 そんな声がまた自分の声で響いた。斎藤は、これは自分の心の声だと思った。自分にしか聞こえない。だが、土方は、その声を聞こえているかのように頷いた。微笑む姿は、どこかで見たような。

 斎藤は、千鶴とラウンジに立ち寄った。キャンドルライトが灯ったカウンター席で、聞き酒を一杯。千鶴はリンゴジュースを飲んだ。部屋に戻る前に大浴場に立ち寄った。ほかほかに暖まったまま部屋に戻った。

 キスをした。三回。

 暴走寸前で止めた。

 克己あるのみ。

 千鶴が手を繋ぎたがるので、手を握ったまま布団を並べて眠った。長い一日だった。LINEのおびただしい数の通知。【見守る会】の書き込みは、総司と平助の激励と冷やかしの連続だった。最後だけちゃんと読んだ。

The 魁:なんか、生々しいよな。既読にもなってねえって
Swordman:めくるめく二人の夜。はじめくん、明日でいいから感想まってるよ
The 魁:(祝スタンプ)おやしみー
Swordman:(祝スタンプ)ちゃんと睡眠とりなよ

 斎藤は、そこまで読んでスマホを閉じた。感想もなにも、いろいろありすぎて頭がごちゃごちゃだ。千鶴が土方先生に逆らい泣いたのは衝撃だった。隣で眠る千鶴は安らかな様子だ。可愛い。たまらずに可愛い。この手を決して放さない。斎藤は枕に頭を沈めた。

 どんな事があっても
 最後まで
 俺は必ずあんたを守る

 斎藤は深い眠りの淵に落ちていきながら、再び自分の声の響きを聴いていたが、あっという間に意識が遠のいた。




つづく

→次話 FRAGMENTS 4




(2018.03.14)

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