本陣にて
FRAGMENTS 4
翌日、斎藤が起き出すと既に千鶴は起きていた。まだ外は白んで来たばかり。千鶴は窓辺の椅子に腰掛けて、朝風呂に行きたいと言う。斎藤も起きた。二人で大浴場に向かった。千鶴はゆっくり露天風呂に浸かりたいというので、部屋の鍵は斎藤が持って男湯に向かった。
気持ちがいい。まだ空は曇っているが、これから晴れる。斎藤は、露天風呂から川辺を覗いてみた。旅館から川辺に出ることが出来るようだ。後で、素振りにでも降りてみよう、そう思うと居てもたってもいられなくなり、ざーっと身体を流して風呂から上がった。
部屋に戻って木刀をとると、浴衣のまま帯だけしっかりと絞め直し、下駄履きで旅館の外に出た。滝の音が近くで轟々と響いている。気持ちが良い。河原は、岩だらけだがそれでも踏み込む場所を見つけて素振りをし続けた。風呂で暖まっていた身体が更に熱を帯びてくる。一時間近く降り続けた。汗をかいた、もう一度風呂に入ろう。斎藤は、再び浴場に向かった。風呂から出た時に、丁度千鶴が出てきた。上気した顔は、頬がぴんく色で、うなじからの後れ毛がしっとり濡れている。
「いいお湯でした」
千鶴は、露天風呂と内風呂に交互に三回浸かった。髪も洗い直した。肌がしっとりとして、つるつるすべすべで嬉しいと笑う。頬を両手で抑えて本当に嬉しそうだ。斎藤が木刀を持っているのに気づいた千鶴は、素振りをしに河原へ行ったのかと尋ねてきた。
「滝の傍まで行った。気持ちよかった」
「はじめさん、私も行きたい」
斎藤は頷く。だが腹が減ったから、朝飯に先に行きたいと微笑んだ。二人で一旦部屋に戻った。千鶴が着替えると言うので、斎藤は部屋から出ようとした。
背中だけ向けていてもらえばいい
千鶴はそう言って、洋服の準備をしている。千鶴は構わないようだった。斎藤は言われるままに、窓とは反対方向に向かって椅子に座って、旅行ガイドを見ていた。千鶴が着替えを始めた。
帯を解く音
鼻歌
パチンという音
鼻歌
衣擦れの音
(気が気ではないではないか……)
斎藤の耳は一メートルほどの大きさになって、全ての音に集中していた。千鶴の着替えに興奮してしまう。いかん、やはり部屋の外にでればよかった。
「はじめさん、今日は飯盛山ですよね」
背後から千鶴の声がする。同時にチャックを上げる音らしきものが聞こえた。「楽しみ」、と千鶴の声。
「髪は、上げて行きます」
そう言いながら、斎藤の前を通り過ぎてブラシで髪を梳かし始めた。着替え終わったようだった。
「はじめさんもお着替えしてください。ご飯の後、すぐに出発できるように」
千鶴がバスルームからそういう声が聞こえた。斎藤は、言われるままに着替えた。部屋は、千鶴の匂いで充満している。
(旅はいい。千鶴と一緒は本当によいものだ)
この独り言を何度繰り返していることか。斎藤が着替え終わったら、千鶴はポニーテールで出てきた。夏以来久しぶりに見た。可愛い。千鶴の髪を上げた時が好きだ。揺れる髪の毛が可愛い。
ぼーっと窓辺で千鶴に見惚れる斎藤をよそに、千鶴は布団をたたんで端に寄せると、荷物を整理始めた。斎藤の脱ぎ捨てた浴衣も綺麗に畳むとバスルームに持って行く。今日の浴衣、何色にしようかしら。そう独り言をいっては、くすくすと笑っている。あっという間に部屋は綺麗に片付いた。
「土方先生は、ちゃんと起きていらっしゃるかな」
そう言いながら、すでにドアに向かって靴を履きかけている。斎藤は、千鶴の手際の良さと準備の段取りに感心する。部屋の鍵を持って食事処に向かった。
斎藤達がビュッフェからテーブルに食事を運んで食べ始めた時に、土方がやって来た。持ってきた仕事を夜中遅くまでかかって片付けたらしい。部屋の露天風呂は最高だと笑った。斎藤が和食のメニューを一通り全部食べ終わった頃、ようやく土方は立ち上がってコーヒーの二杯目を入れて来た。コーヒー以外は、なにも食べない土方を千鶴が心配している。
「先生、せめてトーストだけでも」
土方は微笑んでいる。普段からコーヒーと一服するだけで毎朝済ませているという。千鶴が余りにも心配するので、土方は仕方なくトーストを取りに行った。その間も、斎藤は更に和食とご飯をおかわりしている。朝から食欲旺盛だ。千鶴は、斎藤が冷や奴やお漬け物、ずんだやこんにゃく玉をおかわりしているのを見て微笑む。大好きなものばかりで、すごく嬉しそう。黙々と食べている斎藤をじっと満足そうに眺めていた。
「今日は、稽古は午後からだったな」土方が斎藤に確認した。斎藤は頷いた。
「そうか、俺は仕事を片付けてから出る。立ち寄りたい所があるから、道場で会おう」
「先生は、どこを観光されるんですか?」
土方の口調から何度も会津に来ていると思った千鶴は、土方に尋ねた。
「観光じゃねえな。墓参りだ」
お墓ですか。先生のご親戚かお知り合いがこちらに? そう尋ねる千鶴に、土方は微笑みながら応えた。
「ああ、ここには滅多に来ることはねえが、来たら必ず参っている」
「お前等はどこまで行くんだ?」
土方に問われて、千鶴は「飯盛山へ」と応えた。
さざえ堂、白虎隊隊士さんのお墓、旧滝沢本陣
小さいときに父親と行った「さざえ堂」に、また行くのが楽しみだという。土方はそうかといいながら、じっと斎藤を眺めた。斎藤は気にした様子もなく、食事を終えてお茶で一息ついていた。
土方が、旅館から山の下まで車で送ってやろうと言うので、斎藤は剣道道具一式を持って千鶴と土方の車に乗り込んだ。土方は山を降りると、途中狭い道に急に曲がり、商店のような所で車を降りると沢山の供花を買って来た。まるで土地者のように、するすると狭い道を抜けて国道に出ると、「武家屋敷前」のバス亭に着いた。斎藤達は、車を降りて荷物も下ろした。ここからバスで飯盛山まではすぐだった。
土方は、またなと言って元来た道を引き返して行った。花を持ってお参りか。それも結構な量だ。斎藤は土方がどこへ行くのか少し気になった。土地勘があるように振る舞う様子も意外だった。千鶴は風が冷たいと言って、マフラーを巻き直している。確かに風が強い。斎藤が風除けに千鶴の背中に立った。背後から千鶴を抱きしめると、千鶴は暖かいと笑う。道の向こうに周遊バスが見えた。地元の人も利用するバスは満員だった。剣道道具を持ってなんとかバスに乗り込んだ。
飯盛山のバス停前には案内所があったが冬季で閉まっている。そのまま剣道道具をもったまま山の麓まで歩いたが、千鶴がガイドブックに「滝沢本陣」からまわった方が楽に登れると書いてあったと言うので、先に本陣に向かった。
****
旧滝沢本陣は、敷地に入ると江戸時代のままのように感じた。千鶴が東京から事前に予約をして管理主が開館してくれていた。受付で挨拶をすると、「寒い中、よくいらっしゃいました」そう言って、解説音声のテープをかけてくれた。
斎藤は千鶴に続いて母屋の土間に入って行った。狭い間口からは想像が付かないぐらい、天井は高く、沢山の炊事場の道具類が見える。暗い中でだんだんと目が慣れると、千鶴はしきりに土間にある炊事道具ひとつひとつを念入りに見ていた。斎藤が上がり口に腰掛けてスニーカーを脱いだ。間口に立つ千鶴の後ろ姿に、誰かが重なる。
甲斐甲斐しく動き回る
着物に袴姿の
小柄な者
髪はポニーテール
斎藤さん、皆さん、あちらに。傷の手当は済んでいます。
自分に近寄る陰が足元にしゃがみこみ、斎藤の脱いだ靴を揃える
ゆきむら
斎藤の中にそう足元の陰に呼びかける声が響いた。顔を上げた陰は、千鶴だった。
「はじめさん?」
千鶴が不思議そうに斎藤の顔を覗きこんでいる。千鶴は斎藤の脱いだスニーカーを揃えると、自分も靴を脱いでその隣に丁寧に置いた。
さっき呼びかけて来たのは。
土間から部屋に上がる。囲炉裏の間。
この奥で軍議だ。
中将様があらせられる。
解説の声が聞こえる中、自分の中でずっと自分の声が響く。奥の間には男達が座って居る姿が見えた。
山口か、待っておった。
ざわざわした中にそんな声が聞こえる。斎藤。そう呼ぶ声も聞こえる。土方さん。先にお着きになられていたか。
斎藤は前に進んだ。大きな背中の男が振り返り隙間を空けた。そこに腰掛けた。
急に辺りが明るくなった。窓辺の木戸をどんどんと開け放った向こうから外光が差す。斎藤は気がついた。窓辺に千鶴が立って、庭を覗き込み、綺麗と感心している。斎藤は自分の周りを見た。さっきまで集まっていた男達の姿は消えていた。
俺は、ここに。
この場所を覚えている。断片的な記憶。
ゆきむら、無事について来ているな。
安堵と、これからの道行きと。
この感覚。これは本当だ。
俺は、一体……。
斎藤はあたりを見渡す。この母屋。そうだ。出陣前だ。峠に繋がる街道を守らねば。
ずっと自分の声が聞こえる。おかしい。幻聴か。それにさっきみえた者。仲間達。あれも。
千鶴が斎藤の様子を気にしている。寒いから木戸を閉めますと管理主が言って、再び部屋は暗くなった。千鶴が斎藤の腕を両手で持って、「はじめさん?」と顔を覗き込んできた。
心配におよばぬ。
そう心の声を聞きながら微笑む。ゆきむら。千鶴? この小さな陰は、千鶴なのか。
すとんと腑に落ちる。幻覚と幻聴。
部屋に流れる解説 「白虎隊隊士達がこの本陣から戸の口原へ出陣した」と白虎隊の悲劇を伝えているのが聞こえてきた。部屋にはいたる所に銃弾の痕。
「二番隊の隊士は、歳も十六、十七で。隊はここに書いてあります通り、三十七名で」
「この先の滝沢峠が白河口に繋がってますから、そこを守れってお殿様の命令でね」
「若いのにね。同じ国の中で戦争してたんですから」
「飯盛山には登られました? あそこからお城を見てね。ここから三キロですけど、戻ることは出来ないって。ご城下は火が付いて燃えてたそうです」
「可哀想に、武士の教えをうけてますから、自刃してね」
「そうですか、山にはお墓が建ってますから」
「東京からいらしたんですか。よく寒い中。いらっしゃいました」
斎藤の隣で千鶴が管理主と話し込む声が聞こえた。
戊辰戦争。
その時の亡霊か。
俺が見ているのは。
千鶴が再び、土間に戻り靴を履いている。斎藤のスニーカーを差し出して、スマホで土間の炊事場の写真を撮っていた。斎藤は靴を履いて間口に向かった。千鶴が斎藤の腕に摑まる。
「三百年前の建屋だそうです。初めて来たのに懐かしい。立派な炊事場」
「庄屋さんはお殿様まで迎えてたって」
もう一度、奥の管理主の自宅の方に振り返って千鶴は会釈した。出口から街道沿いに、本陣の母屋の玄関に回った。
「ここから。峠に向かって出陣」
千鶴が呟きながら、街道をずっと先まで眺めるように佇んだ。千鶴とさっきの小さな陰が重なる。戊辰の亡霊。こんな場所だから。人々の想いが残っているのだろう。
千鶴と飯盛山に向かった。さざえ堂に向かう階段は、雪解けの水で濡れている。山から流れる小さなせせらぎは勢いがよく春先の風景。千鶴は階段を登りながら笑う。
「小さい時も、こうして父様に手をひかれて登って。大きくなっても、まだ」
「急な階段で滑りやすい。手すりにも摑まったほうがいい」
斎藤は、千鶴の足元を心配している。千鶴は、いつまで経っても子供みたいで、と苦笑いしている。さざえ堂の前に来ると、千鶴は先に白虎隊隊士のお墓に行きたいと言うので、そのまま山を登り続けた。隊士が祀られるお堂に線香をあげ、お墓に線香を上げて冥福を祈った。沢山の人がひっきりなしに訪れている。墓石に刻まれた年齢を見て、十六歳、十七歳、まだ高校生だ。隊士達が若い命を絶った事実に、驚きと哀しみを感じている。沢山の戦死した隊士の墓石が並ぶ。
「胸が詰まります。はじめさん、会津では沢山の武士が闘って故郷を守って」
「十五歳の人もいたそうです」
「ああ、さかやきがまだ剃られていない者もおった」
斎藤が、じっと隊士自刃の地から城下を見詰めながら呟いた。
二人でずっと黙ったまま、山を降りた。さざえ堂に登った時に、千鶴が先に歩き斎藤の手を引く。小さな頃を思い出しているのだろう、千鶴はずっと嬉しそうにはしゃいでいる。昔はもっと広く大きく感じたお堂が、小さく感じるのは、自分が大きくなったからだ。
「チビッ子と沖田先輩にしょっちゅう言われるけど、少しは背も伸びてる」
ね、はじめさん。そう言って振り返る千鶴はいつもの千鶴だった。いつもの溢れるような笑顔。ポニーテール。斎藤は、千鶴を眺めて微笑む。可愛い。さっきまで目に戦の事で涙を溜めてたが、もう機嫌は戻ったか。
そのまま中腹まで降りて、白虎隊記念館に立ち寄った。西軍の白河口軍の行軍経緯の説明に、胸の鼓動が早まる。斎藤は亡霊のせいだと思った。ここは、そういう地。そう自分に言い聞かせた。だが、二階で東軍の遺品を見たとき、自分の記憶をはっきりと思い出す。腕章、俺もつけていた。
古い鉢鐘を見たときの衝撃。
会津藩御預新選組局長 近藤勇所有の鉢鐘
傷と血痕の痕
これは。局長のもの。このような地で。
揺さぶられるような震えが全身に走る。藩主松平容保公の肖像画。局長の戒名拝受の図。そうだ。そう聞いていた。土方さんが無事にこの地で弔うことが出来たと。
土方さん。先生。断片だが思い出す。俺も生きた。ここで闘った。そうです。先生。
ずっと動けないでいる斎藤を千鶴が訝る。はじめさん、どうされました? 何度も聞いてくる。斎藤は、微笑むのがやっとだ。自分でも混乱している。亡霊の話をしたら、千鶴は怖がるだろう。
そんな風に思いながら山を下った。荷物を預けていた休憩所で暖かい甘酒を飲んだ。じんわりと暖まる。お店の人は、皆親切だ。土地の言葉で、やさしく話かけてくる。千鶴は、お土産を物色していた。ふと、雑誌の棚のような所に沢山史跡や歴史について書かれている冊子が積まれていた。幕末維新について書かれた資料集を手にとった。そのまま購入した。
城下にバスで戻って昼食をとった。会津の蕎麦は美味い。ここは何を食べてもうまい。だんだんと土地勘もついてきて、二人で歩いて道場に辿りついた。道場主が歓迎してお茶を出してくれた。千鶴は、稽古が終わるまで散策してくると出掛けて行った。斎藤は、道着に着替えて早速道場主と手合わせをした。
三時頃にようやく土方が現れた。土方も道着に着替えて稽古に加わった。先生と稽古をするのは、東京では滅多にない。斎藤は嬉しかった。土方先生は、決して手を抜かない。よく響く声で、
「おら、もっとかかって来い!」と荒々しい。
べらんめえ調の口上は、会津の人には新鮮なようで。皆が、土方の勢いと口調に圧倒されている。会津の人は、皆やさしい。言葉の響きがそう思わせるのか。温厚で誠実で我慢強い。そんな印象がある。そこに、土方が乱入して暴れている様子は、斎藤の笑いをさそった。この人は変わらぬ。
喧嘩腰で、負けん気が強く、江戸っ子気っ風
「なに、じっとしてんだ。もっと突いて来てみろ」
「こうだろ!」
木刀で相手に突きで突進する。道場の人達は静かに見ているが、副長は荒々し過ぎた。斎藤が、立ち上がり。土方に演武の練習をしたいと提案した。夕方まで互いの流派の稽古をみっちりと教えあって終わった。千鶴が道場に戻って来て、土方の車で宿に戻った。
******
拒絶
早い夕食の後、温泉に浸かった。疲れがとれる。先に部屋に戻って昼間に買った資料を読み始めた。
会津の幕末維新
美しい写真が豊富で丁寧な説明。斎藤は夢中になって読んだ。会津の歴史。会津藩だった頃。昼間に出会った亡霊たちのこと。自分の幻聴。なにか手がかりになるやも知れぬ。だが、それはやはり自分の知っていることをなぞっているだけの気がした。なぜ覚えているのだろう。この土地を。
千鶴が部屋に戻っているのに気がついていなかった。いつの間にか戻った千鶴は、洋服の整理をして、お茶の準備をして寛いでいる。テーブルに街中を歩いた時に買った、雑貨や小物をひろげて、「これ、可愛いでしょ」などと、斎藤に話しかけては、全く顔を上げない斎藤をきょとんとした顔で見詰めていた。
斎藤が、会津藩の京都守護職についてむさぼるように読み進めていると、千鶴がしびれをきらして斎藤の膝に座った。
「何を読まれているんですか」
そう言って、斎藤の読む冊子を覗き込む。「会津の歴史だ」そう呟く斎藤の真剣な表情を見て、千鶴は、斎藤の頬にかかった髪の毛を愛しそうな仕草で掻き上げた。そのまま斎藤の肩に手をかけて一緒に冊子を読もうとした。
斎藤の真剣な様子に千鶴は胸がキュンと来る。本当に。先輩は、真剣になると何も目に入らない。そんなところが好き。
千鶴は、真剣に冊子を読み進める斎藤の頬に口づけた。お茶が冷めないうちに飲んでね。そんな風に心の中で話かけたのを斎藤は聞こえたようだった。顔をあげて千鶴にキスを仕返した。千鶴の腰に手を廻して、ゆっくりと抱き寄せる。
今の千鶴
そんな感覚が頭によぎる。斎藤は愛おしさが募る腕の中の千鶴を感じる。風呂上がりのシャンプーの香り、華奢な腰、小さくて、可愛い。
口づけは止まらぬ
こうしていると
刻が
止まる
斎藤の左手が冊子を放した。千鶴に触れる。浴衣越しの肌のぬくもりを感じる。暖かい、柔らかい。
いい匂いだ
斎藤の手はずっと千鶴の身体の線を追い続けた。胸に触れた。止まらぬ。触れたい。
一瞬千鶴が身じろいだ。斎藤の左手は、襟の合わせの中に侵入した。口づけは深く、千鶴の吐息で斎藤は完全に興奮状態だった。下着の感触。
その先に
斎藤は左手をすり込ませた。その瞬間斎藤の膝から冊子が床に落ちて、バサッと音を立てた。千鶴は、滑り落ちるように斎藤の膝から離れると床にへたり込んだ。浴衣の襟元を両手で押さえて俯いている。自分の腕の中から消えた千鶴を上から見下ろしながら、斎藤はしまったと思った。
俺は、なんということを
千鶴は頬を赤くしている。さっと立ち上がるとそのまま走ってバスルームに入り、おもいきりドアが閉まる音がした。
斎藤は茫然としていた。やってしまった。左手に残った感触。欲情にかまけて、乱暴な仕打ちを。千鶴は出てこない。バスルームの静寂。
怒ってしまったか
もう出てこない
拒絶
千鶴からの拒絶。斎藤はぽっかり鳩尾に穴が空いた。冷静になればなる程ショックが押しよせる。己の助平心が恨めしい。なんということを。
床の上にカバーがはずれて散らばった冊子が見えた。斎藤は、それを掴むとテーブルの上の部屋の鍵をとった。その隣にあった自分のスマホも掴んで、そのまま部屋を出ていった。
*****
暗い河原に出た。滝の音だけがしている。夜風にあたって頭を冷やした。朝と河原の様子は違う。闇の向こうに轟々と白く浮かぶ水の流れ。斎藤は、考えあぐねていた。さっきの自分の振るまい。千鶴の反応。
千鶴に謝ろう。
もう手は出さない。
不埒な真似はしないと誓おう。
昨日土方に注意された事を守れていなかった己を恥じた。濡れた髪が冷えて、正気に戻った気がする。そのまま斎藤はロビーに戻った。そこで土方に遇った。
土方は珍しく酔っているようだった。夕食を道場主と町で食べたという。酒を勧められて、結構飲んだ。そう言って笑う。
「なんだお前、部屋を追い出されたか」
斎藤のまんじりとした表情を見て、からかうように土方は笑った。部屋に来いと言われて、そのまま売店でワンカップを買った土方について行った。
土方の部屋は、テーブルの上にPCと資料が散乱していた。ここで仕事をしているらしい。斎藤は、土方に促されるままに、酒を飲んだ。
「会津はどうだ?」
土方が尋ねる。斎藤は、「いいところです。出会う人がみないい。俺はここが好きです」と斎藤は思った通りの事を答えた。
「俺はこの時季は初めてだ。山の方は雪がまだ残ってるらしいが、街中から眺める分には綺麗だ」
斎藤は微笑む。土方は斎藤がテーブルに置いた冊子を見て、「会津藩の幕末維新か」と呟いた。斎藤は、昼間の出来事を思い出す。土方さん。副長。斎藤が見た亡霊は、目の前の先生とは違う。でも、この表情。俺は覚えている。
きっと、頭がおかしくなったと思われるだろう。
千鶴の居る部屋にも戻りにくい
斎藤は、亡霊の話をするのをためらった。土方が「千鶴は部屋か」と訊かれた。黙っている斎藤に、
「なんだ、喧嘩でもしたのか」と意外そうな顔をする。黙っている斎藤に、
「ま、ずっと朝から晩まで一緒にいたら、息もつまるわな」
そう言って笑う。斎藤は、そんなことはありませんと否定したが、土方は笑い続けている。
「手だしてえんだろ。言わなくても、顔に書いてある」
冷やかすように笑う土方に、斎藤は耳まで真っ赤になった。土方は、珍しく酒を沢山飲む。コップ一杯を一気に飲んで溜息をつくと、窓の所に立った。
「俺は、お前等の仲に反対はしてねえよ」
窓の外の暗闇をみつめたまま土方が呟いた。椅子に座る斎藤に振り返りながら尋ねた。
「風間が薄桜学園を卒業したのは知ってるか?」
いきなり風間千景の事を訊いてくる土方に驚きながら、斎藤は「いえ、知りません」と答えた。
「あいつは、千鶴が卒業するまで在籍するって、ずっと三年間居座っていやがったが、ようやく今年卒業証書を受け取った」
斎藤が黙ったままでいる前の席に戻った土方は、深く腰掛けると足を組んだ。
「去年のクリスマスだったか、その頃にドイツの綱道さんの所に突然風間が現れたそうだ」
「日本から日帰りでプライベートジェット機を飛ばしたとか、なんとか言ってやがったそうだが、俺は風間の話は話半分に聞くことにしている」
「綱道さんにわざわざ会いにいった風間の目的は千鶴だ、斎藤」
「あいつは千鶴と婚約したいと綱道さんに申込みに行ったらしい」
婚約
斎藤は驚いた。風間が千鶴を【我が妻】と呼びかけているのは知っていたが、本気で結婚する気で居るのか。
斎藤は言葉が出てこない。土方は、話を続けた。
「あいつの亡くなった母親と千鶴の母親は生前懇意にしていたらしい。千鶴が生まれた時に、将来は風間の嫁にと互いに母親同士で願いあった。これが風間の言い分だ」
「別に、証書をかわした訳じゃねえ。ただの口約束だ。それも母親二人とも存命でもねえ」
土方が斎藤を安心させるように語る。
「だが、風間は死んだ母親の遺言だったと言い張ってやがるらしい。三年間、薄桜学園で千鶴を見守った自分は、千鶴が自分の妻にふさわしいと思ったと綱道さんに熱く語ったそうだ」
斎藤は、内心ムカつくのを我慢しながら話を聞いていた。
「あいつは、千鶴に惚れている。それは確かだ」
「風間は婚約を認めてもらえれば、千鶴が二十歳になった時に入籍したい。千鶴を支えて一生幸せにする。自分には愛情も経済力もある心配はいらねえ、そうほざきやがった」
「そう怒るな。綱道さんは承諾はしてねえよ」
斎藤が怒りを隠しているのを見透かしたように土方は笑う。
「千鶴もな」
「だが、こっからが肝心だ。あいつは、綱道さんの血液系疾患の治療研究所のスポンサーになると名乗り出た。日本で初の研究所設立だ」
「莫大な金がかかる。風間グループがそれを請け負うそうだ」
「綱道さんにとれば願ったり叶ったりの話だ。日本で研究所が出来れば、難病疾患から世界中の人を救える。そう言って綱道さんは喜んでいる」
風間は、スポンサー契約の約束をしてその場は帰っていったそうだが。綱道さんは、その直後に俺に電話をかけてきた。千鶴は大学受験を目指している。無事に薄桜学園を卒業しても、どうか引き続き後見人として千鶴を見ていて欲しい。そう改めて頼まれた。
「親心ってやつだ。綱道さんは娘を心配している」
「変な虫が千鶴につくのは避けたい。綱道さんに念を押された」
斎藤は顔を上げて土方の目を見詰めた。変な虫。俺のことでしょうか。斎藤は、心の中でショックを受けながら訊ねた。
「お前のことじゃねえよ」
土方は、眉毛を八の字にしながら困ったような表情をした。
「風間が札束で千鶴を貰い受けるのを綱道さんが認めるわけじゃあねえ。だが、自分の研究所のスポンサーなら無碍にはできねえ」
「風間が千鶴に惚れるのは勝手だ。俺らは、風間が千鶴を追い掛け廻すのを、何をやっても解決はできなかっただろ」
土方は、過去三年間の風間の千鶴に対する執拗なつきまといを思い返す。純粋な好意からとは判っているだけに、半分ストーカーと化していた風間には手を焼いた。大きな問題にならなかったのは、当事者の千鶴が「学校の先輩」として、一定の尊敬の念を持って風間と接していたからだ。千鶴の素直で、二心のない態度は、風間の暴走を反対に牽制することになった。先輩と後輩。それ以上でもそれ以下でもない、千鶴は良好な関係を保ったまま三年間を過ごした。もちろん、風間は千鶴が斎藤と付き合って居ることを知っていた。風間の誇りからか、気位の高さからか、風間は斎藤の存在も尊重する様子を見せていた。だが、こうして千鶴が卒業した今、風間はチャンスと思ったのだろう。
父親の雪村綱道を取り込み、千鶴を包囲する。
研究所のスポンサー
周到な手段だ。
千鶴が二十歳になるまでのこれから二年間。あらゆる手立てで攻めてくる。
「風間は、優秀なビジネスマンだ。天霧や不知火もいる。油断はならねえ」
土方は腕を組んで窓の外を見詰めた。何か思案している様子だった。
「お前と千鶴が、本気で付き合って居ることは俺は百も承知だ」
斎藤に向き合った土方が微笑みながら話しかける。
「会津に来て、既成事実を作って、千鶴がお前のもんだって宣言しちまうって事も考えた」
だが、それはまずい。
「夏に綱道さんが帰国した時に、正式に千鶴と付き合いたいと申し込め」
「千鶴はお前に首ったけだ。安心しろ。あいつはお前と離れるぐれえなら、自分で喉をかっ斬るぐらいの事もじさねえ」
斎藤は、驚いたように土方を見詰め返す。まただ草の匂いがする。ずっと過去の記憶。過去の場所。会津で、副長は雪村を俺に託した。
雪村はここに残った
茫然とする斎藤に土方は微笑んでいる。
「綱道さんも娘が本気で惚れている相手がいたら、札束と交換して風間にやるような事はしねえよ」
「近藤さんが、【武士の誇りを持って】振る舞えってな。その通りだ」
土方は、斎藤に酒を勧めた。斎藤は一気にワンカップをあおった。酔いそうだ。千鶴が他の者にとられる。そんな事はあってはならない。
斎藤は、「はい」と答えた。
「それと会津のことだ。ここはお前にとって特別な場所だ」
「それを忘れずにいたら、お前は大丈夫だ」
そう言って、土方はトイレに席を立った。戻ってきた土方は、これから仕事をしたい。ゆっくりしたいなら、露天風呂もある浸かっていればいいと言った。斎藤は、土方の邪魔をするのは忍びないと言って部屋を後にした。酔っ払ったまま、ぼんやりと渡り廊下を歩いた。部屋に戻ろう。千鶴の元へ。
******
強力助っ人
部屋に戻ると、入り口にだけ電気が灯ったままだった。部屋は暗く、千鶴はもう布団の中で横になっていた。背中を向こうに向けている。眠っているようだった。
斎藤は自分の布団の上掛けをはぐった。正座をして千鶴の背中に話しかけた。
「さっきはすまなかった。許してほしい」
千鶴は黙ったままだった。眠っているのか。斎藤は上布団を被った。眠れないままスマホの通知を確かめた。LINEの通知が348。【見守る会】からだった。
The 魁:もうさ、感想ねえのが感想だって。スマホを開く力も残ってねえぐらいヘロヘロなんだろ
Swordman: はじめくん、今晩のうちに感想しらせないと、千鶴ちゃんにLINEするよ
斎藤は呆れた。このタイミングで【見守る会】が千鶴にLINEするなど地獄だ。斎藤は、素早く返信した。
H.Saito:やめろ。感想などない。
The魁:なになに、もしかして失敗した? 元気だせよ、はじめくん
Swordman: もしかして、千鶴ちゃん
H.Saito:なんだ、雪村がどうした
続きを送らない総司にしびれを切らして斎藤がLINEした。
Swordman: はじめくんががっついたから、嫌がったとか
図星すぎて何もいえない。改めて総司に言われると、相当ショックだ。斎藤は、布団の中でさらに気分が沈み込んだ。
The魁:よくあることだって。はじめくん落ち込むなよ
平助の言葉が心にしみる。そうか。そうなのか。
Swordman: “Rejection” 拒絶ってやつね。
総司が畳みかける。この英単語攻めはイラッとくる。最近総司は、英語サークルにも顔をだしているらしく、英語と日本語ちゃんぽんで話す時があり、斎藤を苛立たせる。
Swordman: 具体的に何をしたの、はじめくん。千鶴ちゃんが拒絶した状況ちょうだい。
拒絶、拒絶というな。
斎藤は、更に傷つく。だが藁にも縋る思いとはこの事か。斎藤は、さっき自分が暴走したこと、千鶴がバスルームに籠もって出てこなかったとLINEした。
The魁:ご愁傷様。おあずけかよ。でもよくあることだって。元気出せよ。
Swordman: ちょっとまって強力助っ人招待したから
助っ人? なんだそれは
斎藤がそう思っているとグループLINEが来た。
Harada : 見守る会会員3号、原田左之助だ。これで、いいのか総司?
The魁: おお、先生。つか、左之さん。平助です。会員1号です。よろしくー
Harada: 平助、よろしくな
Swordman: 会員2号兼主催者。原田センセ、さっき送ったとおり、はじめくんにアドバイスしてあげて
Harada: 総司か、ここに書き込めば、斎藤も読むんだな
原田先生まで……。あいつら、東京に帰ったら斬る。斎藤は憤った。
Harada: 斎藤、女ってやつは気紛れな生き物だ。その時に女の方で都合が悪ければ駄目な時がある。
都合……。千鶴の都合が悪かったとは思えぬ。
Harada: 途中送信しちまった。悪い。大体がその都合は、男の俺たちにしちゃあ、まったく大したことでねえことが多い。だが、女はいろいろと気にするんだよ。それをちゃんと考えてやりゃあいいさ
何なのだ。千鶴の都合とは?
斎藤は速攻でLINEを打ち込んだ。でも送信する前にすかさず平助がLINEした。
The魁:つか、なんだよ、その都合って。オレも知りてえ
Harada: 生理的なもんだったら、女の日ってのもあるな。物理的なもんだと下着が上下ちぐはぐでペアじゃないから嫌だってのもある。あとはそうだな、肌の手入れが出来ていないとか、むだ毛の処理がとか、汗をかいてるからとか、そんな事も充分理由になる。
斎藤は思い返した。温泉に浸かった後だ。それはない。じゃあなんだ。
Harada: あとは気持ちの問題もあるな。まだ許す気になってねえ。これが最大の理由だ。女が男に肌をゆるすってのは大きな決断だ。それをくみ取ってやればいい
許す気がない。これはショックだった。
千鶴は肌を許す気がないのか……。思い当たる。思い当たる。デラックスルームの露天風呂も嫌がっていた。俺に見られるのが嫌なのか。
嫌なのか
もう布団を通り越して、奈落の底に落ちていく。ショックだ。
Swordman: じゃあ、原田センセ、千鶴ちゃんを許す気にさせる方法はじめ君に教えてあげて
総司。総司、あんたは天使だ。
Harada: 千鶴って、あの千鶴のことか。斎藤は千鶴と一緒か?
どうも【はじめのはじめてを見守る会】の対象が千鶴だという事を原田先生はご存じないようだ。
Swordman: そう、今二人で旅行中。会津でおあずけされて困ってるとこ。
Harada: 会津なら、土方さんが行ってるだろ、近藤さんの代わりに。
The魁:ええ、そうなの?
Swordman: 土方さんと同じ宿で、その気にならないよね。はじめ君、ご愁傷さま。
俺は許す気にさせる方法が知りたい……。
Harada: 千鶴にせまったって事か。斎藤、それなら。千鶴が嫌がらなかった段階まで戻るしかねえな。
段階を戻る?
The魁:何それ? おっぱい触って駄目だったら、触らないってこと? じゃあどこ触りゃあいいんだ。
Harada: 段階の話だ。キスまで大丈夫なら、そこに戻ればいい。身体に触るのは様子を見ろってことだ。手をつないで横になってるだけで、女は嬉しいもんだ。女には優しくしてやるのが一番だ。
手を繋いで横になる。確かに、昨日千鶴は嬉しそうに眠っていた。
The魁:そんなの、蛇の生殺しじゃんよ。つれえ。辛えよ。
Swordman: じゃあ、センセ。ずっと手を繋いだまま。それだとセックスはできない?
総司。あんたは、やっぱり天才だ。
Harada: できねえって事もねえだろ。男と女の事は、当事者同士じゃねえとわかんねえ事がある。無理強いはしないって思っていても、女といると、どうしようもなく愛おしさが募って一線越えるってのはある。
Swordman: だから、先生。その一線の越え方をはじめ君に教えてあげて
総司。そうじーーーーー。
斎藤は心で叫んだ。
Harada: そうだな。俺からは段階を戻れってしか言えないな。千鶴が斎藤に惚れてるのは確かだ。好きな男になら、女は身を許すもんだ。だから焦ることはねえよ。会津にいるんだ。斎藤、大丈夫だ。
会津にいるから、大丈夫? 原田先生も土方先生のような事を言う。
斎藤が不思議に思っているとLINEが続いた。
Swordman: じゃあ、キスして手をつないで抱きしめるってやってればいいんだね。わかったはじめ君?
H.Saito: 相解った。
The魁:健闘を祈るよ、はじめ君。おやしみー
Harada: 俺みたいなもんのアドバイスが役立てたか。なら良かった。会津はいい所だ。充分楽しめよ。千鶴によろしくな。おやすみ。
H.Saito: 原田先生、どうも有り難うございました。
Swordman: センセ、ありがとう。引き続き見守ってね。じゃあはじめくん、また感想待ってるよ。ZZZ……
斎藤はスマホを閉じた。見守る会か。本当に見守られているな。斎藤は安堵した。布団から顔を出した。千鶴はまだ背中を向けたまま眠っていた。静かな寝息が聞こえた。
あんたは陽がある内に陣を移れ
俺は部下と日没までに必ず向かう
必ず戻る
案ずるな
案ずるな。
自分にも言って聞かせるように響く声をききながら眠りの淵に落ちていった。
つづく
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(2018.03.20)