空港にて
FRAGMENTS 22 春
風間が緊急外来に駆け付けると、病室の前に天霧が立って居た。
「なにがあった?」
廊下に風間の声が響き、天霧は警備室で千鶴が意識を失った様子を伝えた。
「酷く興奮されていました。立ち上がった瞬間によろめくように倒れて……」
「医者は何と言っている?」
「一通りの検査をすると」
「救急部にすでに内科医が来ているそうです」
「内科? どの医師だ」
「雪村先生にも直ぐに知らせるとナースが言っていました」
天霧は手に千鶴が落としたスマートフォンを持っていた。それを風間に渡すと、「私はこちらで待機しております」と言って、風間に雪村鋼道の元に行くように促した。
「ナースは、千鶴様が意識混濁の状態だと言っていました。何か判ったら連絡します」
風間が雪村鋼道の病室に着いた時、すでに病室に綱道の姿はなかった。ベッド廻りも綺麗に片付けられている。ナースに尋ねると、綱道は血液内科に居ると言う。
「お嬢さんの容態を診に行くと仰っていました」
「先生には婦長が付き添っています」
「外来だな」
「はい」
風間は廊下を歩きながら、血液内科外来に電話を掛けた。緊急外来から搬送された患者が居ないかを確認してもらい、雪村鋼道にも連絡をとった。
「先生、はい。いまそちらに向かいます」
風間は入院病棟に向かった。病室で千鶴は眠っていた。貧血症状があるため念のために入院させるということだった。
「チアノーゼがあると聞いて慌てたよ。だが大丈夫だ。CTを撮ったがどこも異常はみられない。心肺機能も安定している」
「私が診て行く。大丈夫だよ」
綱道は安心させるように風間に云うと、再び千鶴の脈をとり点滴の調整をした。風間はベッドの傍で千鶴の様子をずっと心配そうに見ている。どこかで震動音が鳴った。風間はおもむろに自分の胸ポケットからスマートフォンを取り出して応答した。
「ああ、今13階だ。A棟にいる」
「わかった。事務室で用がなければ今日はいい」
「それなら待機していてくれ。ありがとう」
風間は電話を切ると、「お嬢さんにこのまま付き添う」と雪村鋼道に伝えた。鋼道はナースステーションで必要な手続きがあるからと言って婦長と一緒に部屋を出て行った。風間はベッドの上の千鶴を眺めた。深く眠っていて静かな呼吸のまま動かない。ナースの話では、昨夜は一晩中起きて雪村鋼道に付き添っていたという。無理もない。父親が倒れて心配だったのだろう。あのまま15階に連れ帰り休ませておけば良かった。昼間に病院の玄関から千鶴が外に出ていくのを許したことを風間は悔んだ。スーツのポケットから千鶴のスマートフォンを取り出した。画面に亀裂が入っている。電源を入れて通話履歴を見た。二人の専用の端末。壊れたのなら、また新たに用意すればいい。風間は自分の端末を取り出し事務所で待機している天霧に連絡をとった。
*****
千鶴が気づいた時、父親がベッドの傍に立って居た。白衣を着て優しく微笑んでいる。
「とうさま、……起き上がって大丈夫なの?」
「ああ、父さんはもう大丈夫だ」
千鶴は起き上がろうとした。目の前に真っ白なシーツが広がり、腕には点滴が繋がっている。頭がぼんやりする。どうして、こんなところに。
「横になっていなさい。貧血で倒れたんだよ」
「少し休めばすぐに良くなる」
父親は千鶴に横になるようにと云って、千鶴の腕を伸ばすように布団の上に載せた。千鶴は混乱したような表情で「とうさま」と呼びかけた。
「父さま、はじめさんがお見舞いにきたの。でも病院から追い返されてしまって」
「父さま、はじめさんが出入り禁止になっているのを取りやめてください」
「父さまは病院の責任者なんでしょ? お願いします」
「ああ、わかった」
「八郎兄さんも、父さま。八郎兄さんも出入り禁止になっているの。それも取り消してください」
千鶴の息は荒く、首を持ち上げて手を伸ばし父親の腕を掴んだ。「お願いします」という声は金切り声のようになり、全身が痙攣しだした。綱道は、千鶴の手をとり大きく頷いた。
「わかったよ。さ、ゆっくりと呼吸しなさい」
といいながら綱道は千鶴の背中を支えてベッドに横にならせた。ナースに鎮静剤を用意するように指示をすると、ただちに点滴に薬が投与された。綱道は、「大丈夫だから、安心しなさい」と言い続け、千鶴は興奮状態が収まらないまま気を失うように目を瞑って動かなくなった。綱道は溜息をついた。
(全てはうまく行かぬものか……)
既に窓の外は陽が傾き、夕焼け空が雲の向こうに広がっていた。綱道はベッドの上の千鶴に直接光が当たらないようにブラインドを下げた。千鶴の青白い顔。バイタル不正常。長い睫毛が濡れている。綱道は千鶴の目尻から涙が流れた痕をそっと優しく指で拭った。そして、伊庭八郎が最後に医務室に来た日のことを思い出した。
「僕が彼女を診ていきます。先生」
「一番傍で診ます」
「必要なことはここでやっていく。君は移った先で君の方針で思う存分やるのが一番いい」
「僕は診療所に残ります」
「それは困る。もう人事は決まったんだよ」
雪村鋼道はデスクに肘をついて両手の指を組むようにして明確に応えた。
「先生、明らかに彼女の様子がおかしいことに、先生は気づいておられる筈です」
「日に日に弱っていっている」
「千鶴ちゃんは笑わなくなった」
伊庭八郎は机を隔てた前に立っている。冷静に話をしているが、その表情は怒りで瞳には強い光が灯っているように見えた。
「ここ数か月、本当に元気がない。僕は全体を見て云っているんです」
「バイタルが急激に下がっている」
「僕は先生の家の事情には立ち入らないつもりでした」
「ですが、今は違う。一体、何が起きているのか」
「彼女が悲しそうにしているのは、ずっと家に閉じ込められているからです」
「どうして行動を制限するんですか。一緒に暮らす家族なのに」
伊庭は両手をデスクについて乗り出すように綱道を問いただした。
「君は何もわかっていない。娘のことは、私が保護者として責任がある」
「彼女はもう大人です。ひとりの女性として、立派に自立している」
「先生はいつも言っておられた。日本に帰って早く千鶴ちゃんに会いたいと」
「元気な千鶴ちゃんに戻してください」
「先生がなさらないなら、僕がそうします」
「彼女を僕のやり方で元気にします」
あの日、八郎君は退職願いを出して去って行った。引継ぎや事務処理は直後にスタッフや米沢医師との間でスムーズに進められ、一週間前にメールで日本を発ってスリランカに移ると挨拶状が来ていた。
「千鶴、八郎君はスリランカに行くことになった。ここでは八郎君のやりたい医療はできない。彼はホリスティック医療をずっとやりたいと言っていてね」
「センターで実践したいと強い意欲を持っていたんだよ」
「だがここより、リトリート施設の方がずっといい。環境が整っている。ここは研究施設としては申し分ないが、医局の監査が入る。八郎君には自由に伸び伸びとやってもらいたいからね」
綱道は、眠っている千鶴に話しかけ続けた。千鶴は日没を過ぎても眼を覚ます様子はなかった。風間から綱道に連絡が入り、15階に特別に療養ルームを用意したからそちらに移って欲しいと云われた。間もなく、スタッフとナースがやって来て、千鶴はベッドに横たわったまま南棟に搬送されていった。療養ルームはナースが隣に常駐する特別治療室で、家族も一緒に滞在できるようになっていた。落ち着いた色調のインテリアに、雪村鋼道が療養できるようにもう一つベッドが用意されていた。暫くすると、風間千景が天霧と一緒に部屋に現われた。
「夜分遅くに失礼。わたしは事務室にいるので、必要なものがあればいつでもご連絡ください」
風間は手短に挨拶だけを済ませて、ベッドの千鶴の様子を確かめて部屋を出て行こうとした。雪村鋼道はドア口で風間を呼び止めた。
「何からなにまで、本当にお世話をかけるね」
「千鶴は大丈夫だ。よく眠っている。明日、また様子をお知らせします」
「わかりました。先生もご無理はなさらず、十分に療養してください」
「すべて、予定通りに進めています。ご安心を」
風間は口元に微笑みを見せて会釈をした。その隣で、天霧が深く頭を下げて挨拶し二人は廊下の向こうに消えていった。雪村鋼道はナースに消灯するとだけ告げて、自分も部屋で横になった。
****
翌日、成田空港にて
おはようございます。
予定通り10時のフライトで出発します。
おはようございます。今成田に向かっています。
着いたら連絡します。
ありがとうございます。第二ターミナルにいます。
斎藤は伊庭八郎からのメッセージを確認し、千鶴に送ったlineをもう一度確かめた。昨日の夜に送ったものが既読になっていない。余程忙しくしているのだろう。もしかすると綱道先生の容態が良くないかもしれない。昨日病院の外で千鶴と別れた時に、一緒に伊庭先生の見送りに行こうと約束した。千鶴は数時間なら外出が可能だと言っていた。道場での稽古を終えた後に電話をしたが繋がらなかった。電源が切れているというメッセージが気になった。
今から成田に伊庭先生の見送りに行く。
第二ターミナル日本航空10:00発
連絡を待っている。
Lineを送ってから斎藤はスマートフォンを閉じた。春休み中で、空港は多くの旅行者で混雑していた。出発ロビーにあるカフェで伊庭八郎が待っていた。既にチェックインは済ませて搭乗まで1時間以上はあるという。
「見送りに来てくれてありがとうございます」
「昨日は日帰りで北海道に行ってきました。向こうはとても寒かった」
斎藤は伊庭が遠方に出掛けていた事に驚いた。
「松前にある僕の友人のお墓にお参りしてきた。これで心置きなく日本を発てる」
伊庭は優しい表情で微笑みながら、北海道のお土産だといって小さな包みを斎藤に渡した。
「ありがとうございます」
「朝早くからここまで来てくれたのは嬉しいよ。もう斎藤くんには会えないと思っていたから」
斎藤は微笑みながら頷いた。
「昨日遅くに戻ってきて空港近くのホテルに泊まって。ゆっくりできたよ」
伊庭八郎は斎藤と一緒にコーヒーを注文して寛ぐように腰かけた。
「この前はありがとうございました」
斎藤は府中に千鶴を連れて来て貰えたことに、丁寧に両手を膝について頭を下げた。
「どういたしまして、と言えばいいのかな……」
伊庭は宙を煽ぐように見上げると、暫く考えてから息を吐くように独りで笑っている。
「僕は見事に振られました」
「千鶴ちゃんに気持ちを打ち明けて、スリランカに連れていくって云ったら」
斎藤は無表情のまま顔をあげて伊庭を見た。
「行けませんってね。ハッキリと断られた」
伊庭は笑っている。
「僕の一世一代のプロポーズ。見事に玉砕した」
斎藤は伊庭の笑顔の中に寂し気な表情が見えた気がした。
「僕は東京を離れるけれど。千鶴ちゃんに何かがあれば飛んでくる」
斎藤は頷いた。それから伊庭は黙って何も話さなくなった。コーヒーカップを時々口に持っていく以外は動くことはなく、ずっと目の前にいる斎藤を見詰めているだけだった。
「今もよく思い出す。千鶴ちゃんがまだ小さくて、僕はよく小石川の診療所に母親に連れられて遊びに行っていた」
「二人で留守番をしていたとき。千鶴ちゃんがおもちゃ箱の中に入って、蓋を閉めてほしいって言って」
「こんな紙でつくったお花がいっぱいあって、それを一緒に入れていっぱいにして」
「僕は蓋をしめちゃいけないって云ったら、どうしてって泣き出してね」
「かあさまのいる天国に行きたいって」
「母親を亡くして恋しくて仕方なかったんだ。小さいのに、ずっと我慢して」
「僕は診療所の屋上に千鶴ちゃんを連れていって。空の雲の上にお母さんがいるから。二人でずっとお母さんに話かけて、歌を歌ったりしているうちに、彼女は笑顔になった」
「ドイツで雪村先生に会った時、千鶴ちゃんもドイツに来ているのかと思って嬉しくてね。でも彼女は日本にいるって聞いて、先生から彼女の母親の病歴のことを詳しく聞いたんだ」
「遺伝リスクのことを先生は気にしていて、ずっと日本の千鶴ちゃんの検査データを僕は先生と一緒にドイツで確認していた。先生が日本に研究センターを立ち上げる計画があると言って、日本での研究に誘って貰えた時、僕は千鶴ちゃんに会えるならと二つ返事でOKした」
——それで数十年振りに千鶴ちゃんに会った。なんとも言えない気持ちがした。
「元気だった。活き活きとして朗らかで。小さな時から可愛かった彼女がこんなにも綺麗になって。毎日顔を見るのが楽しみだった」
「先生、千鶴はどこか悪いんですか。検査をする必要があるんですか?」
「定期的に血液検査を。彼女は十二歳からずっと検査をしてきている」
斎藤は言葉が出てこない。いつも元気な千鶴は、「わたしは丈夫に産んでもらえて父さまと母さまには感謝している」と言っていた。どこも悪い様子などなかった。
「軽い貧血がみられるだけです。それも十代から二十代の女性に一般的にみられる症状で心配はない。鉄剤のサプリメントで十分に補える」
「千鶴ちゃんの母親の疾患は遺伝リスクとして25%の発症率です。いまは治療薬もある。早期発見すれば治療寛解は十分に可能です」
「それに今までの検査では一切発症の疑いはない。大丈夫だから心配しないで」
斎藤は疑いなしという言葉に安堵したようだった。伊庭はそんな斎藤を真っ直ぐに見詰めると真剣な表情になった。
「千鶴ちゃんは斎藤くんといると笑顔になる。彼女に君は必要な人だ」
「僕は医者としてそう思う。人が心から微笑み、笑顔になるのは一番大切なことだよ」
「どんな薬や治療を施しても、心が元気にならないとね」
「僕はこれからスリランカでそれを実践していく」
斎藤は頷いた。
伊庭はそろそろ行かないとと言って立ち上がった。春休みで出国ゲートは長蛇の列ができていた。斎藤は伊庭について歩いていった。
「じゃあここで」
ゲートロープの前で伊庭は斎藤に振り返った。
「千鶴ちゃんによろしく伝えてください」
斎藤は頷いた。
「ひとつ。君に言っておきたい」
「彼女にプロポーズをしたとき、キスした」
「一本取った分です」
真剣な表情で告白すると、伊庭は斎藤の目をじっと見詰めた。
「彼女に何かあれば、僕はどんなことをしても救いにいく」
「彼女を奪って、誰の手も届かないところに連れていく」
——力づくでも奪いたいと思ったら奪う。僕は風間さんと変わらない。彼女を守りたい。愛しているから。
「俺もです」
斎藤が応えた。
「千鶴を放すつもりはありません」
きっぱりと宣言した斎藤に、伊庭八郎は頷いた。二人で暫し見つめ合った。
「それじゃあ」
笑顔で右手を差し出した伊庭の手を斎藤は力強く握り返した。
「お元気で」
ゲートの中に進んでいく伊庭が最後に振り返った時、斎藤は深く頭をさげて挨拶した。
つづく