夢の女
明暁にむかいて その2
明治七年八月
一章 事件勃発
明治七年八月旧盆前の朝、斎藤は警部補の田丸から大一区部隊に応援要員として警備に参加せよと指示を受けた。
警視庁に盆休みは無く、皆で輪番で休みを取る事になって居た。斎藤は帰省の必要もないので出勤の予定だった。それに合わせてなのか、斎藤の部下の巡査二人も一緒に警備参加を希望して来た。大ニ区部隊からは、斎藤達三名が派遣される事となった。斎藤達は、赤坂御門から北上し、半蔵門をへて飯田橋で大一区部隊と合流して、神田川の向こうの旧水戸藩上屋敷を警備する事になった。田丸の計らいで、解散後は署に戻る必要は無く帰宅して良いという事だった。
部下の巡査は、斎藤の暮らす小石川から近い本郷に下宿していた。巡査の二人は、二人とも数えで二十歳。斎藤よりひと月早く小一区に配属されていた。一人は、陸奥国弘前出身だった。名前は津島淳之介。背格好は斎藤と同じ位で、物静かな性質。話し方に少し斗南の訛りと似たところがあった。もう一人は、旧尾張藩の士族、天野邦保。背が高く、明るく良く笑う。尾張といっても、産まれも育ちも江戸屋敷で本所っ子だと言う。斎藤は、この対照的な二人と、毎朝、剣の稽古をして巡察も一緒に出ていた。
飯田橋に着いたのが、もう昼前だった。大一区部隊によると、周辺に政府要人の暗殺を企てる士族一味が潜伏していると言う。ここ数日で、一部が捕縛されている。不審な者がいたら、片っ端から捕らえて取調べるようにという指示だった。斎藤達は、担当区域の水戸屋敷に向かう為に、神田川を渡った。旧水戸藩邸は広大で、その周りを歩くだけでも、半刻はかかりそうだった。屋敷塀の西側を見廻った。暑い最中、路に人影も無く陽炎が通りの先でゆらゆらと地面を揺らしていた。其れにしても暑い、斎藤が日陰に部下を呼ぼうと思った瞬間、通りの向こうを走り去る数名の男が見えた。髪はざんばらだが、袴姿で帯刀している。不審に思った巡査二人は、真っ先に後を追った。牛込の通りに出たところで、男たちに追いついた二人は、大声で「そこの者達、止まれ」と叫んだ。男たちは、振り向きざまに、いきなり抜刀して襲いかかって来た。津島は、左手で棍棒を持つと、剣の様に構えて右に躱した。相手の男は五人。刀を振り上げているのは二人。
——なんとかなる
隣の天野も棍棒で剣を受けて、相手を跳ね除けている。後方の三名が、にじり寄って来た。仕込み剣と、もう一人は打刀。津島は横眼で確かめるのがやっとだった。手前の男を、跳ね除けた瞬間、右側から、大声で叫びながら斬りつけてくる別の男の姿が見えた、咄嗟に右腕で身を庇った。熱い感覚が腕全部に走った。斬られた。そう思った瞬間。
「下がれ」
背後から声がした。目の前を青い光が横切った。地面に倒れこみながら、見えたのは自分と同じ巡査の制服。陽の光が反射する輝く打刀を振り上げて、次々に相手を薙ぎ倒す斎藤の姿が見えた。一振一撃。そんな事が可能なのか。意識が無くなりそうな状態で、津島は最後に鋭い突きで相手が前のめりになったところを、首の後ろから平打ちにする斎藤を見た。夜叉。その鬼の様な鋭い眼光を見た津島は、そのまま気を失った。
斎藤は、全員を峰打で倒し、武器を奪った。不審者は警察隊に追われていたらしく、斎藤達が捕縛した直後に、大一区の部隊が駆けつけた。全員が恐らく旧水戸藩士族だろうという事だった。斎藤は、直ぐに倒れた津島の元に走り、怪我の様子を見た。出血が酷い。天野も怪我を負っていた。二人を日陰に移動させ。応急処置をした。大一区部隊は、丸の内の警視庁病院まで行けと言っているが、馬でも走らせねば間に合わない。斎藤は、直ぐ近くに置かれていた荷車を借りた。そこに津島を載せて、歩ける状態の天野を連れて、雪村診療所へ向かった。有り難い事に、目と鼻の先に自宅があった。千鶴も在宅で、玄関の騒ぎを聞きつけて飛び出して来た。
「怪我人だ。刀で斬られた。処置を頼む」
斎藤は天野と一緒に診療所の診台に津島を運んだ。千鶴は、怪我の様子を確かめた。大きな血管も腱も切れていない。ただ、斬られた場所は何針も縫わないといけない。麻酔は煎じ薬で弱いものしかない。気を失っているから。それを飲ますのも無理だ。そう言いながら、処置に必要な道具を準備し始めた。天野の怪我は、止血してあるから大丈夫だという。白湯を冷やしたものが台所にあるから、二人とも兎に角、水分を摂ってくださいと、斎藤達に促した。
千鶴は、麻酔の煎じ薬を作る為に湯を沸かした。晒しを沢山準備して、津島の右腕の傷口を洗って消毒した。斎藤が応急処置で止血をしていたのが効を奏して、失血は少ない様子だ。身体が異常に熱いのが気になった。汗が出ていない。熱痙攣かもしれない。千鶴は、冷たい水で濡らした手拭いで津島の全身を冷やした。煎じ薬を冷ますと、いつでも飲めるように吸飲みを用意した。消毒した針と糸で、傷口を縫合した。痛みで津島の意識が戻った。無理もない。
急に起き上がろうとした津島を、千鶴は抑えるように支えた、「ここは診療所で、傷を縫っている」と説明したが、津島は、千鶴の顔を見ると、目を大きく開けたまま呆然として動かなくなった。何か、うわずったような声を発したが、言葉になっていない。痛みで声も出ないのだろう。千鶴は、津島を寝かすと、そっと口元に吸飲みを差し込んで、麻酔の薬です、お水だと思って飲んで下さいと言った。吸い口から流れる、少し甘い水を飲んでいる内に、津島は再び目を閉じて自失してしまった。
千鶴は、縫合を続けた。麻酔が効いているようだ。斎藤と、もう一人の巡査の青年が台所から戻って来た。斎藤は、怪我はないと言っている。千鶴は、無事で良かったと安堵した。もう一人の巡査は、左手の指の切り傷、右頬は擦り傷だった。顔は少し打撲している様子だった。斎藤が、手荒に天野の指に焼酎を振りかけている。大声で騒ぐ若者は、自分から千鶴に名乗った後、主任には毎朝の剣術の稽古でしごかれていると笑った。まさか、藤田主任の家が診療所だとは思わなかったと笑う。
千鶴は、津島の手首の手前の部分で最後の縫合を終えた。それから、天野の傷の手当てをして、斎藤と天野の額や首の後ろを触診した。二人とも、少し熱があるみたいだ、奥の間で横になる様にと、簡単な寝間を用意した。それから、千鶴は、冷たい甘い水を持って来て、斎藤と天野に飲ませた。桃の絞り汁と塩と砂糖を混ぜたものを白湯で薄めてあるらしい。なるほど、それを飲むと、身体が楽になった。額に置かれた冷やした手拭が心地良く、天野はうつらうつらと寝入ってしまった。
部下二人の無事を確かめると、斎藤は千鶴に一旦署に報告に戻ると言って出掛けて行った。直ぐに戻るから、部下はこのまま休ませておいてくれと言い残して。千鶴は、丁度昼寝から起きた子供をあやすと、夕飯の支度に取り掛かった。斎藤が戻ったのは、夕刻。署長に、事件報告と部下の怪我と休暇の届け出を出したと言う。どうせ、盆休みだ。そう言って、診療所で休んでいる部下の様子を見に行った。
天野は高鼾をかいていた。津島は、時々うめき声をあげている、何かうわ言の様な言葉を発した。斎藤は耳を津島の口元に近づけた。
「す……ずら……ん」
何度か、聞く内に【すずらん】と言っていると判った。人の名前か。もしかしたら、身内の名前かも知れぬ。斎藤は、苦しそうな津島が気になり、千鶴を呼んだ。千鶴は、様子を診ると、心配そうに、脱水症状と暑さで参ってしまわれている。刀傷も大きい、傷口を消毒したが、傷口が膿むかもしれない。その時に高熱も出る。その前兆だとしたら厄介だと言う。家にある薬草だけでは量が足りない。明日まで様子を見て、熱が下がらない様なら、早稲田の青山先生に薬を分けて貰いに行って来ると言った。それから、意識が朦朧としている津島に甘い果汁水を与え、濡れ手拭いで体温を下げた。
***
二章 すずらん
少し遅くなった夕餉を用意して、天野と一緒に食べた。下宿先でも賄いが出て有り難いが、こんなに美味い夕餉は久しぶりだと天野は喜んだ。斎藤に負けないぐらいの大食漢だった。斎藤は、千鶴に天野に酒を飲ませても大丈夫か訊ねた。千鶴は、沢山でなければと言って。一合徳利に冷酒を用意した。天野は、喜んで斎藤と晩酌をした。殆ど喋らない斎藤を相手に、陽気に話す天野はどこか、新選組の永倉や平助を思わせた。
「津島の下宿先に、身内はいるのか」
斎藤が天野に尋ねた。
「いえ、身内の様な大家はいますけど」
「そうか、人の名かどうか判らぬが。ずっと【すずらん】とうわ言を言っていた」
「身内を呼んでいるなら、此処に呼ぶ必要もあろう」
「主任、そりゃ津島の【夢の女】です」
「夢の女?」
「津島の奴、此処んとこ、すっかりおかしくなってしまって」
天野は、右手を背中に伸ばして ボリボリ掻くと、ちゃんと正座をして話し出した。
「ここひと月ばかり前です。津島が【その女】に出逢ったのは」
「なんでも、署の玄関に立ってたそうで」
「津島がか」
「違います。【夢の女】が立ってたんです」
「凄い美人が。津島に笑って会釈したそうです」
「その姿が、鈴蘭が目の前にパッと咲いたみたいで、凄くいい匂いがしたって」
「だから、【すずらん】なんです」
「それで、その【すずらん】はどうしているのだ」
「知りません」
「津島は、会っているのか」
「いや、それっきりです。あの日以来、津島の奴ぼんやりして」
「給金貰ったら、品川で廓に上がろうって約束してたのに、それも行きたがりません」
「その女に逢ってんのかって訊いたら、会っていない。あれきりだと」
「では、一度会ったきりの女に惚れて、うわ言でその女を呼んでいるのか」
「夢の女ですから。【すずらん】と夢で逢引でもしてんです。きっと」
斎藤と天野が晩酌している間、千鶴は診療所の奥の間に寝ている津島を介抱していた。眠りながらも口元に水分を与えると、ゆっくりと飲んでいく。水分を取るに従って、熱が下がって来ている。息苦しさも無くなって来たようだ。このまま朝まで眠れば、ひとまず大丈夫だろう。千鶴は、行灯の灯を遠ざけて、一旦井戸水を汲みに中庭に出た。
縁側の上り口の前に猫が寄って来て、石の上に咥えた物を載せた。千鶴は一瞬、後ろに下がって身構えた。最近、猫は色々なモノを捕獲しては、縁側に見せに来る。最初は、蛾、黄金虫、生きた蝉。此処までは、千鶴は大丈夫だった。ある日、雀の子供を咥えて来た。もう既に死にかけの子雀を千鶴の足元に置いて、「どうだ」と ばかりに背筋を伸ばした。戦慄した千鶴は、今から干そうと手に持っていた洗濯物を地面に落としてしまった。以来、猫の獲物報告には戦々恐々としている。
千鶴が驚き恐怖するのを愉しんでいるかの様に。 猫は戦利品を千鶴に見せた。小さな鼠、蜥蜴の尻尾、ヤモリ。毎回千鶴は、半べそをかきながら、小さな亡骸を庭の片隅に埋めて線香を上げた。斎藤が、近所の庭師の家から、小さな御影石を譲り受け、供養塔にしてくれた。沖田の悪戯は留まるところを知らなかった。ある時、赤いモノを咥えて外から戻り、ポトリと縁側に置いた。まだ存命の金魚だった。そして、その翌日は、黒い出目金。こうなって来ると、他所様の家でも狼藉を働いているのは明らかで、千鶴は頭から血の気が引いて行った。
猫が置いたものに月明かりが反射して光った。千鶴がしゃがんで見てみると、それは小さな髪飾りだった。美しい細工で鈴蘭の意匠。思わず手に取って見たが、此れを猫が何処からか持って来たかと思うと頭が痛くなって来た。
「沖田さん、こんなに綺麗なもの。勝手に持って来てはいけません」
千鶴は、猫に根気よく言って聞かせるしか術はなかった。猫は、そこ吹く風で右足の肉球を舐めている。千鶴は、そっと髪飾りを袂に仕舞うと、井戸に向かった。中庭から居間を見ると、斎藤と天野は、風呂上がりに更に晩酌を進めていた。客間に布団を敷いて、天野に休んで貰った。子供を寝かしつけてから、津島の様子を見に行った。微熱があって、少し寝苦しそうだった。千鶴は、斎藤が眠った後も、朝方まで何度も、水で冷やした手拭いを交換しに、津島の元へ行った。
****
三章 隠密捜査
翌朝、まだ微熱が続く津島に、甘草カンソウを煎じて飲ませた。目を開けてもどこか虚ろで意識がはっきりする様子がない。斎藤達に朝餉を用意すると、天野は、一旦下宿に戻った。斎藤は、津島の様子を千鶴に訊くと、自分が千鶴の代わりに早稲田に出向いて、青山先生を連れて来ようと言った。千鶴は、津島の怪我の状態と、処置、経過、必要な薬草について走り書きしたものを斎藤に託けた。斎藤が出掛けてから、千鶴は、家の用事を済ませ、子供を、中庭で行水させた。盥に溜めた日向水の中に、坊やを座らせて、汗を流した。子供は水面を手で叩いて、はしゃいでいる。もうそろそろ立ち上がって、あんよを始めそうだ。この夏は汗疹もつくらず過ごせて良かった。千鶴は、大きな布に長男を包むと縁側でおしめをつけて、新しい背当てに着替えさせた。子供を抱き上げて、津島の様子を見に行った。津島は、千鶴の顔を見ると、目を大きく開いて、起き上がった。千鶴は、慌てて、駆け寄ると、津島は腕の痛みで、苦痛の表情になった。
「どうか、横になって下さい。傷が開いてしまいます」
千鶴が、片手で津島の背中を支えるようにして、布団に寝かすと、子供を畳に座らせて、津島の怪我をした腕をそっと確かめた。それから、津島の額に手を当てて、「まだ微熱が」と呟くと。津島の顔を覗き込んだ。津島は固まったようになったまま顔を赤らめた。
「白湯をどうぞ」
千鶴は、津島の口元に吸飲みを持って行った。
「ここは?」
白湯を飲み終わると、津島が初めて言葉を発した。
「診療所です。刀で斬られて、暑さで熱痙攣も起きていました。刀傷は、まだ縫ったばかりです。ご気分はいかがですか?」
「貴方は……」
「藤田のうちの者です。もう直ぐ、お医者さまが見えます。安心して休んで下さい」
千鶴は笑いかけると、手拭いを水で絞り直して、津島の額や頰、首を優しく拭い始めた。津島の頰が、どんどん赤くなって耳まで真っ赤になった。千鶴は、急に熱が上がって来たのかと訝って、また額に手をやった。それから、濡らした手拭いを額に置き直すと、
「主人が帰ってきたようです」
そう言って笑顔で子供を抱きかかえると、部屋を出て行った。
津島は、昨日の出来事を思い出した。水戸藩屋敷の通りで刀を持った男に斬られた。天野も主任も無事だったのだろうか。ここは診療所だと。それに、あの女人ひとは、
津島は、千鶴が出て行った戸口を見つめていると、急にそこから、洋装の男と斎藤が入って来た。津島は、起き上がり、「主任」と酷く心配したような顔で呼びかけた。
斎藤は駆け寄ると、「気がついたようだな」と言って、津島を寝かせた。
「昨日はご苦労だった。あの者達は全員捕らえた。旧水戸藩の反政府分子の残党だ。大一区が追っていたところをお前と天野が捕らえた。大手柄だ。だが俺の初動が遅かった為に、この様な傷を負わせてしまった。すまない」
「天野は」津島が尋ねた。
「天野は無事だ。今朝、下宿先に戻った。左手を少し切ったが軽傷だ」
「津島、傷は、縫合してあるが、今朝も意識が戻らんので、蘭疇医院の医者を連れて来た」
そう言うと、斎藤はもう一人の男に、「先生、よろしく頼みます」と言って部屋を下がった。
「傷を見せて貰おう」先生と呼ばれた男が、包帯を取り払うと、傷の具合を確かめた。
「見事な縫合だ。消毒を」
そう言って、焼酎に浸した晒しで消毒した。それから、油紙を挟んで上から包帯をした。千鶴は、青山から薬と処置について説明を受けた。熱疲労の症状が怪我より深刻だ。微熱が続く間は、安静にして経過をみること、傷口の消毒を続ければ、十日もすれば癒えて来るだろう、大事はないという事だった。
「松本先生から医術の心得があるとは聞いていましたが、ここまでとは。手術もされるのですか?」
「いいえ、怪我の手当てだけです。それも銃創では貫通したものしか」
「戊辰では従軍されていたそうですね。貴方の様な実戦で経験を積まれた医者や看護士がこの国にはもっと必要です」
青山は、津島の経過をまた診に来ると言って帰って行った。千鶴は、重湯を作って、津島に飲ませ。薬を飲ませた。厠へ行きたいという津島を斎藤が支えて歩かせた。
津島は、自分が斎藤の自宅に運ばれた事、斎藤の自宅が診療所で、斎藤の妻に介抱されている事を漸く理解した。
「署には療養の届け出も出してある。抜糸が済むまでここで養生すれば良い。下宿にも伝えてある」
そう言うと、斎藤は津島を診療所の奥の間に連れて行った。千鶴は、布団を板の間に移動させていた。
「ここは、床下に井戸に繋がる水が通っていて涼しいんです。空気窓もあって風通しがいいので。沖田さんのお気に入りの場所です」
そう言って、傍らの猫を見て笑った。猫は、四肢を伸ばし腹を床にべったりとつけて眠っている。斎藤は、その無防備で隙だらけの姿を見て笑った。そう言えば、診療所に猫が入らないようにしていたのに、いつの間に入るようになったのだ。斎藤は、総司が相変わらず好き放題をしているのだなと思った。
それから、津島は薬が効いて来たのか、熱は徐々に下がり、夜には食欲も出て来た。お粥と茶碗蒸しを食べ、桃も進んだ。食事は横になったまま、千鶴が匙で運んで食べさせた。千鶴が話し掛けても、頰を赤くして頷くだけの津島に、どうぞ、ご自宅だと思って、ゆっくり養生してくださいね、と千鶴は笑いかけた。
翌朝、食事が入った事で体調も安定した津島は自力で立ち上がって、ゆっくりだが歩けるようになった。千鶴は徐々に消化の良い普通食に変えて行った。傷の乾きも良くて経過は順調だった。お盆の終わりに斎藤は、久しぶりに出勤して夕方早くに帰宅した。旧水戸藩士の大捕物は、大二区小一署の大手柄で、近く斎藤達は警視庁に表彰されると、斎藤は帰って来るなり、津島に報せた。
斎藤は、津島には話さなかったが、天野と秘密の捜索を始めていた。天野が巡察中に、津島を元気にするなら、【すずらん】に会わせればいいと笑った。冗談で言ったのに、斎藤は、署に現れたのなら、来署者記録が残っている筈だと真顔で呟いた。
「主任、それはいい考えです。急いで署に戻りましょう」
そう言って、急に走り出した天野を追い掛けるように斎藤は署に戻った。
ひと月前の来訪者記録。七月中は、八十二名だった。斎藤と天野は、その中から女と判断出来る名前を選別した。数は少なく、二十名だった。
「この二十名の住所を巡察でまわれば、見つかるだろう」
天野は書き出した名前と住所を眺めて感心した。
「主任、私達、まるで同新と目明しですね」
「何を言っている」
「わたしは目明しに成りたくて、巡査になったんです。だから、この前の大捕物も嬉しいですが、こういう密偵みたいな任務は、願ったり叶ったりです」
「この任務の時は、わたしのことを【ヤス】って呼んでください」
「なんだ、【ヤス】とは」
「私の名前の邦保です。【岡っ引きのヤス】ということで、ようございましょう」
「何を言っておるのだ」
斎藤は呆れながら笑った。こうして、立板に水の調子で喋る天野に押されて、斎藤はこの秘密の捜索を本格的に始める事になった。通常の任務と区別するため、斎藤はヤスから【親方】と呼ばれる事になった。大二区小一隠密捜査。捜査対象……。斎藤は、捜査記録を書く時はこう書かねばな、と筆で端紙に書き留めた。
夢の女 すずらん
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四章 快気祝い
熱疲労から回復すると、津島は順調に快方に向かった。食欲も戻り、床上げも出来るぐらいになった。千鶴は、斎藤が出勤した後に、家事を済ますと、津島に朝餉を用意した。片手でも食べやすく、お結びと卵焼き、海苔で包んだ青菜の御浸し。御膳の前には、猫が座って津島が食べるのをじっと見張っていた。津島は、自分が世話になっている診療所は、開業はしていない事。主任が奥さんの実家に一家で暮らしている事を知った。長男と主任と奥さん、目の前の猫の四人暮らし。そして、夫婦仲が良かった。
津島の弘前の実家には、兄夫婦がいた。母家に暮らす二人は一緒の部屋に居ても、畳一枚隔てた距離で座っていた。夫婦仲が悪いわけではなく円満だった。夫婦とはそんなものだと思っていた。厳格な家で育った津島は、男女七歳にして席を同じうせず。そう育てられた。上京するまで異性と話す事は四つ下の妹と兄嫁ぐらいだった。そんな津島が、斎藤の家に滞在する事になって、千鶴が「はじめさん」と呼びかけ、常に斎藤に寄り添う姿に驚いた。そして胸がキリキリと痛んだ。署で会う斎藤は、寡黙で滅多に笑顔を見せない。天野は、斎藤を「鉄仮面」「鬼主任」などと陰で呼んでいる。そんな斎藤が、家では優しく微笑み、「千鶴」と呼びかけ、手を繋ぐ。その別人の様な姿に驚いた。
「今日も暑くなりそうです。津島さん、もし良ければ、行水なさいますか。今から日向水を用意しますので、汗を流してください」
千鶴は、朝餉の膳を片付けて薬を飲ませると、準備に部屋を出て行った。津島が呼ばれると、中庭に大きな盥と小さな盥が用意されていた。
右肩から、半身で着物を脱ぐと、傷の消毒をして、首から三角巾で腕をぶら下げた。そのまま着物を脱がされ、津島は狼狽した。千鶴は全く構う様子はなく、「足元、気をつけて下さいね」と笑っている。ええい、ままよ。津島はやけっぱちで、褌一枚になって、盥に飛び込んだ。水は冷たくて気持ちよかった。千鶴は、手拭いを水に浸して、津島の背中を流した。背中越しに話し掛けて来る千鶴から、何とも言えない芳香が漂ってくる。甘い優しい鈴蘭の様な。津島は、故郷の津軽に咲く、可憐な花を思い出した。
千鶴は、坊やも水浴びしましょうと言って、小さな盥に子供を座らせた。はしゃぐ子供をあやす横顔は、長い睫毛と桜色の唇に、小さな顎。濡れた浴衣から覗く腕や、首筋がただ綺麗で、津島は、もうこれ以上は拷問だと思い。水から上がると、礼を言って走って、診療所の奥の間に篭ってしまった。
千鶴が子供と津島の世話をしている間、斎藤達は、隠密捜査を続けていた。二十名のうち、半分まで終わった。一日で五件を当たるのがやっとで。まだめぼしい相手は見つからない。
「親方、署に来る連中なんて、昼間に暇している年寄りぐらいなもんでしょう」
「失せ物だ、道に迷った。それぐらいで」
「若い女が、何の用があって署に来るんでしょう。この【ヨシダソメ】さんも、きっと婆さんです」
「会ってみないと分からぬ」
斎藤は静かに答えると、歩き続けた。今朝、家を出るとき、千鶴が、「今日は床上げできると思う」と笑っていた。夕飯は一緒に食べられるように、良かったら天野さんも立寄ってほしいと言っていた。
「今晩、うちに来い。妻(さい)が食事を用意している」
「本当ですか。ありがたい」
「親方は果報者ですよ。あんな綺麗な奥さんが家で待っててくれるんですから」
「そうだな」斎藤は、笑って応えた。任務中にこんな笑顔を見せるのは、初めての事で天野は、何度も斎藤の横顔を見返した。
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斎藤達が帰宅した時、既に居間の膳には御馳走が並べられていた。
鯵の昆布締め
穴子と胡瓜の鱠
揚げ出し豆腐
茄子の田楽
冷やし素麺
斎藤の家は珍しく、普段から大きな膳を置き、全員で囲む。その大きな膳は、元々診療所で診台として使われた物で、近所の家具職人に欅の一枚板をのせてお膳に造り変えて貰った。千鶴が小さい時に、よく鋼道が西洋の医術書を広げて、そこで調べものをしていた姿をよく覚えている。千鶴は、食事や、毎晩、帳面に献立や子供の様子を書き留めるのに使っている。
「さあ、座って下さい」
千鶴は、天野を促して上座に座らせた。診療所の廊下から、津島が現れた。三角巾で吊るした右腕を揺すって見せた。すっかり元気になった津島を見て、天野は喜んだ。着流しに着替えた斎藤が席に着くと、冷酒をめいめいの御猪口に注いで、乾杯をした。
「津島さんの快気祝いと皆さんの賞状授与、御目出度うございます」
津島は、頰を赤らめて千鶴を見た。明日、青山先生がみえて、抜糸をする。暫くは、包帯で覆う必要があるが、直ぐにとれるだろう。千鶴はそう言って津島に笑いかけた。
「有難うございます」津島は、丁寧に頭を下げた。
「それでは、来週の月曜に復帰か。どうだ津島、出て来れそうか」斎藤が、杯を進めながら尋ねた。
「はい」
津島は、姿勢を正して返事をした。
それから、皆で食事を食べた。「こんな美味いものは食べた事がない」「豪勢だ」「幸せだ」、そう言って、天野は皿に箸をつける度に大騒ぎして食べている。千鶴が、津島には、細かく刻んだ物が別にあるからと、匙と一緒にお盆で皿を運ぶと、
「奥さん、ご心配は無用です。津島は左利きですから」と天野が言った。
「まあ、そうなんですね。はじめさんと同じです」そう言って、千鶴は笑顔になった。
津島は、左手で不自由なく箸を進めている。美味い。本当に美味い。
「津島は、剣術以外は全部左手なんです」と天野が続けた。斎藤が、箸を止めて津島を見た。
「剣は、右手使いなのは、何か理由はあるのか」
「はい、小さい時に父に直されました。私は、六歳の時に脇差を父から渡されて、最初は父に剣術を教わりました。右手で柄を持つのに力が入らず、一度誤って自分の足の上に脇差を落としました。父は、武士の名折れだと、酷く腹を立てて、近くの剣術道場に連れていかれました」
「小野派一刀流の道場です。師は厳しく、そこで徹底的に右手使いを教わり。剣だけは、右手で扱うように」
小野派か。確かに津島の剣はその流れだ。斎藤は、会津藩士が多く身につけている小野派一刀流の構えや剣さばきの流れを思い起こした。
「棍棒はどうだ。この前は、左で持っていたようだが」
斎藤が尋ねると、津島は虚を突かれた様な様子で動かなくなった。千鶴は、子供に食事を与えながら、そっと二人のやり取りを見ていた。
「咄嗟に左で構えてました。いつもは右手で使う様に差しています」
「そうか、あの時は一瞬の間も無く、相手は複数で抜刀してきた。実戦では、どっちの手を使うかは問題ではない。斬るか斬られるかだ」
津島は、頷いた。その通りだ。産まれて初めて、真剣で斬られた。今回は助かったが、実戦は、あの様に生易しいものではない。それを今回思い知った。おまけに、斬られたどころでなく、陽の暑さにあたって伸びてしまった。そんな己の不甲斐なさが情けない。
「そう言えば、主任は右差しでいらっしゃいますね」天野が、田楽を頬張りながら尋ねる。
「ああ。俺も生まれつき左が利き腕だ、足捌きも左がよく利く」
「御維新前は、右差しで表を歩かれたら、さぞお目立ちになったでしょう」天野が関心しながら尋ねた。
「ああ、奇異な目で見られるな」斎藤は微笑んだ。
「主任の師は、右手使いにと言われなかったのですか?」津島が尋ねる。
「言っていた。だが、俺は、変える必要を感じなかった。基本の持ち方や構えが逆になるだけで、手合わせをしてもそのままで十分強い」
「そのままで強いって。それって剣術習い始めた頃の事ですよね」天野が不思議がる。
「ああ、七つかそれぐらいであったか」
「道場のお墨付きの先輩弟子にも、俺は負けなかった。俺の逆構えは右手使いからは扱い難い。それもあっただろう」
「俺の師は、俺が元服した頃に他界した。それから他の道場の門を叩いたが、何処も右差し者は門前払いだ。それか道場に通されても、道場破りと思われて、試合をする事になる。そんな事の繰り返しだった」
「道場破りと思われてって。それって間違いなく道場破りですよね」、酒が入った天野が愉快そうに応える。
「それで、どうなさったんです。試合では」
「どこの道場も、師範、師範代、免許皆伝の肩書きを持つ者と剣を交えた、時に大先生と呼ばれる道場主の上の者が相手になる事もあった。負ける事はなかった」
「ただ一人おいてな。唯一引き分けた事があった」
「誰なんです。そのかたは」津島は、箸を置いて、正座したまま真剣に尋ねた。
「総司だ。沖田総司。天然理心流の道場で出会った。木刀でやり合った。俺の初太刀を躱されたのは初めてだった。総司の突きは、腕が長く一瞬で三段突きされる故、俺は鳩尾に酷い打撲を受けた。産まれて初めての経験だった」
「歳も近くて、その後は、同じ道場で一緒に精進した。俺は今も、稽古は木刀を好む。より実戦に近い稽古が出来る」
「木刀ですか。主任の手合わせは、竹刀でも厳しいのに」天野が不貞腐れた風に呟く。
「巡察には、帯刀が必要だと、訴え書を提出した。巡査が棍棒だけで、この前の様な相手を制圧するのは難しい。所長が警視庁総監に掛け合って下さるそうだ。帯刀が許されたら、今まで以上に剣撃の稽古が必要になろう」
津島は、こっくりと頷いた。どこか、強く決心した様な真剣な表情をしていた。 それから千鶴に促されて、皆で食事と酒を進めた。千鶴が、空いた皿や鉢を膳から片付けた時に、ふと大皿の陰から、銀の髪飾りが見えた。津島は驚いて手に取った。鈴蘭の髪飾り。制服に大事にしまっていたのに。
「私ったら、うっかり置き忘れていました。数日前に沖田さんが何処かから持ち帰って。とても高価そうなもので困っているんです」と千鶴が言うと。
「お、【すずらん】への贈り物か?」天野が眼ざとく見つけてからかった。
耳まで真っ赤になった津島の様子を訝った千鶴は、
「もしかして、津島さんのものでしたか。良かった。沖田さんが他所様の家から失敬したものかと思ってどうしようか困っていました。どうか、猫の悪戯だと思って赦してやってください」
そう言って頭を下げて謝った千鶴は、髪飾りの持ち主が見つかったと喜んで台所に消えて行った。
「親方、例の任務。急ぎませんとね」天野が斎藤に向かってニヤニヤと笑いかける。
「ああ」斎藤は、応えながら。もう週明けに津島が復帰するとなると、隠密捜査も日がないなと思った。
「厠へ行ってくる」そう言って、津島が突然席を立った。
「おう、用は足せるか?手伝いがいるか」、そう言って天野も席を立って付いてきた。
厠の向こうの廊下で、津島が中庭に向かいボンヤリ立っていた。
「どうした。酒が回わりすぎて、用が足せないのか」そう尋ねる天野に気づく様子もなく、津島は掌の髪飾りを見ていた。
「おい、元気出せよ。俺ら、今【すずらん捜索】してるんだ。もう直ぐ見つかる」
「すずらん捜索……?」
「ああ、俺と主任で、来署者名簿調べて、先月署に来た女を片っ端から調べてる。これは俺ら岡っ引きの隠密任務だ」
「主任と……」津島は愕然として、呟く。そして、首を大きく振って、
「もういい、探さずとも。全て終わった事だ。もう終わった」
そう言って、裸足で縁側から地面に降りると、手に持っていた髪飾りを暗闇の向こうに投げた。一瞬月明かりが反射した銀の髪飾りは、中庭の塀の向こうに消えて行った。
天野はキョトンと津島の奇行を見ていた。
「何だよ、急に。何も放り投げる事はねえだろ。せっかく【夢の女】が見つかるのに」
そう言う、天野を無視して、津島はスタスタと厠に入ってしまった。天野もそれ以上は何も言わずに用を足して座敷に帰った。
千鶴が泊まっていく様に引き留めたが、天野は翌日は、出勤で朝が早いからと下宿に帰って行った。津島も風呂に入った後、直ぐに診療所の奥の間に戻った。千鶴は、子供を寝かしつけて、ゆっくり片付けをした。斎藤の後に風呂に入って、残った行灯を側に持って来て、帳面に一日あった事を書き留めた。夜風が庭から吹いて気持ちがいい。 帳面を片付けた時に、油も切れて灯りが消えた。今夜は見事な満月で、庭から射す月明かりが十分に明るい。千鶴は髪を乾かしがてら、縁側に立って風にあたった。
診療所の奥の間でずっと眠れない津島は、起き上がって廊下に出た。厠に行って用を足そうとして、明かりとりの向こうに、母屋の縁側に立つ千鶴の姿が見えた。青い月明かりに照らされ、長い黒髪を下ろして佇む姿に息を呑んで見惚れてしまった。もう用を足すことも忘れて、引き込まれる様に、渡り廊下の壁に張り付いて格子を両手で握りしめて、そっと千鶴を見詰め続けた。
白い浴衣でうっとりと月を眺めながら、髪を一纏めに左肩から前に垂らして撫で付けている。昼間に見た時とは、また違う艶やかな【夢の女】津島は、もうこれは夢の中の出来事だと思い。永遠に眺め続けたいと願った。
その時、部屋の暗闇から、斎藤が現れた。 満月に見入っている千鶴に近づき、そっと背中から抱きしめた。千鶴は嬉しそうに微笑んで、何か言っている。斎藤は、そのまま背後から千鶴の首筋に口付けた。目を閉じて千鶴は身を委ねる様に微笑んでいる。津島は、心臓の鼓動が早まり、息が出来なくなった。斎藤は千鶴を抱きかかえると奥の間に消えて行った。
茫然と渡り廊下に立ち尽くす津島の足元に何かが触れた。そして、左足の甲を踏む何か。下を見ると、胡桃色の毛の猫だった。思い切り、むんぎゅっと踏みつけると、別の後ろ足で、津島の右足の甲も踏んだ。
「君って、野暮だよね」
猫が振り返った時に、その翡翠の瞳が光った。猫が喋った。津島は唖然として。嘘だ。そんな事は無い、と思いきり首を振った。
猫はゆっくり目の前を歩くと、縁側に上がって咥えていた物を前脚の前に落とした。鈴蘭の髪飾りだった。津島は、縁側に引き寄せられる様に歩くと、猫は髪飾りを右足で掬う様に突いている。板の目の上で、くるくる回る髪飾りを津島は手に取った。
「君、はじめくんに似てるね」
また喋った。俺はとうとう本当に気が狂ってしまった。津島は、生唾を呑んで覚悟を決めた。
「これが夢なら覚めて欲しい」猫に懇願する様に言った。
「夢じゃないよ。もう君、怪我も治って剣も振れるんだから」
猫の瞳がまた光った。口元は笑った様に見える。前脚の肉球を舐めた後、再び猫は中庭に降り立った。
「千鶴ちゃんが欲しいなら、はじめくんより強くならないと」
「君、弱そうだから、精進する事だね」
そう言って、長い尻尾を左右に振りながら、 中庭の向こうに消えて行った。
総司。沖田さん。千鶴達からそう呼ばれている猫。津島は、斎藤達夫婦を良く知る人間から話し掛けられた様な心持ちがした。そして、そのまま髪飾りを持って、床に戻ると無理矢理目を瞑って眠った。
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五章 新たな決意
翌朝、斎藤が中庭で真剣を振っていると、津島が出て来た。手合わせを願い出る津島に、斎藤は、竹刀を持って来て相手をした。左手で一生懸命竹刀を振るう津島に、斎藤は手加減せずに右手以外を攻めた。疲労困憊の様子で、両膝をついた津島に、「まだまだだな」とひと言言って、一歩下がり、斎藤は一礼して、打ち合いを終えた。
「まだまだではありません。俺はやれます」
そう言って、立ち上がろうとした。
「【まだまだ伸びる】そう言ったのだ。これは手始めだ。精進しろ」
そう言って、斎藤は、縁側に草履を脱いで上がった。
「朝餉を食べ直せ。何も手をつけなかったと、妻が心配している。俺は、もう出勤するが、下宿に戻るのは週末でもよい。ゆっくりして行け」
そう言って、斎藤は支度をしに奥の間に入ってしまった。津島は、立ち上がって、有難う御座いましたと深く一礼した。一部始終を見ていた千鶴は、再びお膳に津島の朝餉を並べた。美味いと言って全部平らげた津島に千鶴は嬉しそうに笑うと台所に片付けをしに行った。
それから陽が高くなって、青山が診療所にやって来た。津島の傷の抜糸をすると、簡易包帯を巻いた。もう、清潔な一番湯なら腕をつけてもいい。巡察以外でも、水分の補給を忘れない事。そう注意をして、治療完了した。青山は、居間で千鶴が用意した冷茶を飲むと、早稲田の病院で自分の補佐をして貰いたいと願い出た。突然の話で、千鶴は驚いた。青山は西洋式の新しい医術の権威。自分の様な者が務まるのかと正直な気持ちを伝えた。青山は、是非藤田殿とご相談下さいと言って、帰って行った。
それから、居間に身支度を済ませた津島が現れた。千鶴の前に正座して、深々と頭を下げた。
「命を助けて貰った上に、手厚くご看病下さり有難う御座いました」
「主任にも呉々もお礼を伝えて下さい」
「もう、下宿に戻られるのですか?せめて、お昼を召し上がってからでも」千鶴が引き留めると、
「いいえ、朝のうちに失礼します」
そう言って、懐から鈴蘭の髪飾りを出して、千鶴に差し出した。
「これを」
「まあ、」
千鶴は、そう言ったきり手の中の髪飾りを眺めている。
「こんなに、高価そうな物を。それに大切に持っていらした物なのに」
「どうか、世話になったお礼です。受け取って下さい」
千鶴は、真剣な津島の様子に、そのまま頷いて、「大切にします」とお礼をいった。
津島は満足そうに立ち上がると、
「私は、剣術の精進をします。主任の様に強くなりたい」
千鶴は、凛とした眼差しで目の前に立つ青年をどこか懐かしそうな表情で眺めた。
千鶴がもたせた、昼餉のお結びと、着替えの風呂敷包を抱えて、津島は玄関を出た。まだ強い陽射しの中を歩いて行く津島の後ろ姿を眺めながら、千鶴は、新選組の屯所に暮らしていた頃の斎藤を思い出した。決して剣術を疎かにせず、己に厳しい。言葉が多くはないが、話すそれは、全て誠実で優しい。
そんな風に思って立っていた千鶴の足元に、いつの間にか総司が佇んでいた。千鶴が門を入って、玄関の横から中庭を横切ろうとすると、さっと総司は千鶴を追い越した。そして、振り返った時に、何か咥えているのが見えた。
「今日の戦利品、見せてあげるから、こっち来なよ」
笑った様な表情を見せて、ゆっくり尻尾を振って縁側に上がる総司に、千鶴はクスクスと笑いながらついて行った。
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終章 夢の女
「ご苦労だった」
茹だる様な暑さの中、最後の捜査対象候補を訪ね終わった斎藤たちは、がっかりしながら署に戻って歩いていた。津島の【夢の女】は来署者の中に居なかった。全来署者の内、残りは男と思われる六十名余り。【すずらん】が誰かに伴われて来署し、その誰かだけが記録されているとなると。【夢の女】は男に連れられて来た事になる。斎藤はそう推測した。
「親方、流石です。俺も親方の推理通りだと思います」
「残りの六十名の所訪ねて行って、誰か連れを伴ってなかったか聴き込みですね」
「でも、なんだか男に連れられて来たって考えると、 全く【夢の女】じゃない心持ちがします」
斎藤は、天野の了見を聞いて苦笑いした。【すずらん】はどうしても独りで現れなければならぬ。これ以上の深追いで、津島と天野の【夢の女】がなんでもない【ただの女】になる事もあろう。
「この一件は、迷宮入りだ、ヤス。ご苦労だった」
斎藤は、神妙な表情をする天野に突然の捜査打ち切りを宣言した。
「来週、津島も復帰する。本人の前で隠密捜査は続けられん」
それを聞いて納得した天野は、また岡っ引きやりたいので、別件があれば、親方よろしくお願いしますと頭を下げた。そして、署に戻った斎藤達に、警視庁から賞誉を斎藤達に、雪村診療所に感謝状が送られることが決まったと田丸から報せがあった。
「だげんじょも、藤田の細君は、あの会津藩照姫様も一目おく出来た方だ。きりょーいい(器量良し)、めんげー(可愛い)上に刀傷をものともせぬ。【夢の様な女子おなご】だ」
そう言って、ガハハハと笑った。
斎藤は、千鶴を褒められ満面の笑みを見せた。そうだ、千鶴は己が【夢の女】だ。斎藤は満足だった。天野は、会津言葉の「めんげー」が気に入り、今度、主任の奥さんにあったら、沢山そう呼んでみようと心に決めた。
斎藤達の隠密捜査、初動で署内での聴き込みから開始していれば、容易に【すずらん】の様な美しい女性は見つかっていただろう。美しい来訪者に心当たりのある田丸警部補をこうしてすっかり見逃している【親方とヤス】であった。
つづく
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