強くなるために
FRAGMENTS 17 冬
総司とキネシストレーニングをした翌日、斎藤は薄桜学園に近藤を訪ねて行った。まだ朝の早い時間だったが、近藤は快く面会に応じて斎藤を応接室に招き入れた。
「暫く道場に来ないから、心配していた。どうだね、調子は」
「はい、お陰様で。今日からまた稽古を始めます」
「そうか、親善仕合も近い。大いに頑張りたまえ」
近藤は斎藤を席につかせると、自分もソファーにどかっと座って笑顔を見せた。
「先生、今日はご報告に伺いました。赤坂のジムのことです」
「トレーニングで随分と力がつきました。2か月で筋肉量が2倍近くついて」
「特に体幹と下半身が強くなりました」
「ほう、2か月でそんなにかい」
「はい、剣術に特化した筋肉なので、握力も強くなりました」
近藤は興味深そうにずっと感心しながら深く頷いている。
「ですが、俺はジムを辞めるつもりです。今日これから、赤坂に退会の手続きに行きます」
「ああ、それは総司から聞いている」
「総司は、もう辞めてきたと言っておったが、わたしはてっきり斎藤くんも一緒に辞めたと思っていた」
「昨日、総司が直接わたしに会いに来て。風間くんにも話をしたからと言っておった。私からも彼に話をしておいた方がいいだろう。会員権を提供してくれたのは、彼の厚意だ」
斎藤は、黙ったまま頷いた。
「総司は、駅前のジムを利用すると言っていた。仕合前の調整だといっていたが、君が一緒だと聞いている」
「せっかく、赤坂でのトレーニングを勧めてくださったのに、すみません」
「それは構わない。風間くんには、私から重々に礼を言っておこう」
「親善仕合では結果を出せるように、頑張ります」
「ああ、期待している。総司も張り切っているようだ」
道場一同、応援している。頑張り給え。近藤は、笑顔で斎藤を激励した。廊下で見送られた斎藤は、深々と頭を下げて礼を言うと、そのまま道場に向かった。既に総司が来ていて独りで素振りを初めていた。二人で思い切り試合形式で打ち合った。
道場での稽古を終えた後、斎藤は昼過ぎに千鶴の家に行くつもりでいた。総司に誘われて、道具を置いたまま道場近くの定食屋に行って早い昼食を食べた。
「はじめくん、身体が軽いでしょ」
「ああ」
「夕べは眠れた?」
「ああ、数時間ずつ。ぐっすりと眠った」
「今日ジムは3時に入るよ」
総司は、スマホを確かめながら話している。ジムの予約はガールフレンドのみよちゃんを通しているらしく、確認のメッセージが今来たからと言って笑っている。今日もみっちり夜までトレーニングが出来るということだった。斎藤は、千鶴の家に行った後に、赤坂にジムの退会手続きに行けると思った。
「一旦道場に戻るでしょ?」
定食屋を出たところで、総司は別の方向に向かって歩き出した。「じゃあ」と言って、手を振る総司に「どこに行く?」と斎藤が尋ねると、「野暮用さ」と総司は笑った。総司の歩いていく方向は、薄桜学園の裏通りに繋がる。その先にLV研究所が入っている雑居ビルがある。斎藤は、そのまま総司を追いかけた。
「なに?先に帰るんじゃないの」
総司は、一緒についてくる斎藤に尋ねたが、斎藤は黙ったままだった。総司は足早に歩き、薄桜学園の裏通りにでると、斎藤が思った通りLV研究所のあるビルに入っていった。
「ここ、山南先生のやっているオフィスがある。来た事ある?」
斎藤は首を横に振った。やはり、そうか。総司、ここに出入りしていたのか。内心、衝撃を受けながらも、斎藤はそれを総司に悟られないように無表情を通した。総司は、慣れた様子で狭い階段を駆け上がっていった。ビルの2階にある黒いドアに「LV研究所」とプレートが掲げられていた。総司は勢いよくドアを開けて中に入った。受付のように見えるカウンターから奥の部屋に山南の姿が見えた。総司は、カウンターの上にある呼び鈴を何度も押して、「来ましたよ」と笑っている。
「やあ、いらっしゃい。沖田君」
「斎藤くんも、よく来てくれました」
山南は、優しい物腰で斎藤と総司に笑いかけた。白衣姿は変わらないが、髪の毛を後ろに梳かしつけて、掛けていた眼鏡を外しているせいか、保健医だった頃より随分と若々しく見えた。
「ご無沙汰しています」
斎藤は会釈をして挨拶した。総司は、山南に促されるままカウンターの中に入って行き、勢いよく上着を脱いで、山南のデスクの前に座った。斎藤は、ずっと立ち尽くしていたが。山南に、「こちらへどうぞ」と案内されて壁の脇の椅子に座った。小さなオフィスのような部屋は、綺麗に整頓されていて、学園の保健室と変わらない様子。壁には沢山のガラスキャビネットが並んでいて中には沢山の薬品が入った箱が並んでいる。斎藤は目だけを動かして、部屋全体の様子を確認していた。ここで総司は、薬を手に入れているのか……。
総司は、スウェットの袖を捲り上げて山南に血圧を測定して貰っている。山南は眼鏡をかけて測定値をPCに入力すると、小さな検査キットのようなものを用意した。そして総司の腕から血液を採取し始めた。山南は手際よく総司の血液の入った容器を分けると、背後にあるデバイスに嵌め込むように並べて蓋を閉めた。装置の横にあるボタンを押すと小さな機械音が聞こえた。山南は振り返って、デスクの上の壁側にあるスクリーンを総司に見せた。
「順調ですね。全てバランスがいい」
「ここで見る限りはそうです。あなたはどうですか」
静かに尋ねる山南に、総司は「すこぶる上々です」と答えている。山南は、目を細めるように微笑んでいた。
「アンプルは、まだ手元に2本、残っていますね」
「では、5本お出ししましょう」
頷く総司を見ながら斎藤は言葉を失っていた。衝撃で動けない。
(どういうことだ。総司。あんたは、ここで何をしている)
斎藤の目の前で、山南は薬棚の鍵を開けて箱を取り出すと、中から確認するように一本一本アンプルを取り出してデスクの上に並べた。遮光瓶は掌にすっぽり入るぐらいの大きさで、中身が赤黒い液体に見えた。赤い液体。奇妙な既視感。皆に渡されたもの。俺も手に取った。
万が一のために。
山南の声が心に響く。遠い日の出来事。あれは、三ツ刻。幹部だけで集まった。覚悟を決めて小瓶を懐にしまい、ずっと持ち歩いた。誰にも知られずに……。自分の声が聞こえる。またか。膝に置いた手を思い切り握り潰すように力を入れた。耳鳴りがする。デジャブ。
目の前で山南が丁寧にアンプルをエアーシートの袋に仕舞っている。それを総司に差し出した。微笑んだ山南の眼鏡には蛍光灯の光が反射していて、その向こうの瞳が見えない。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。協力いただけて。助かっています」
協力いただけて。協力……。何の協力だ。
斎藤は二人のやり取りを理解するのに必死だった。総司が山南先生からアンプルを貰った。なにゆえ総司はSOMAを飲んでいるのだ。混乱する斎藤の前で、総司は立ち上がると上着を羽織った。
「おまたせ、はじめくん」
総司は斎藤の前に立っている。手に持っているエアーシートのバッグから目を離せないでいる斎藤を総司はじっと上から見つめていた。その表情は無表情のまま。ゆっくりと斎藤が立ちあがると、総司は促すようにオフィスの出口に向かって歩いていった。斎藤は、背後に山南の視線を感じながら総司の後に続いた。
「それじゃあ、また」
「あまり無理はしないように。よく水分をとって、休息を十分に」
微笑む山南は優しく総司にそう言うと、総司は素直に頷いて「それじゃあ」と会釈した。斎藤も一緒に頭を下げて挨拶をしてオフィスを出た。階段を勢いよく駆け下りる総司に続きながら、何か悪い夢を見ているのではと思った。昔の記憶との混乱。これは夢だ。そう思いたい。階段を下りながら、斎藤は願った。これが夢なら、早く覚めて欲しい。
ビルの外に出ると、陽射しは眩しいぐらいに明るかった。総司はジョギングをするように前を走り始めた。
「早く」
振り返る総司は笑顔で足踏みをしていた。斎藤は、一気に駆けて総司の眼の前に追いついた。
「あんたは、SOMAを飲んでいるのか」
「これのこと?」総司は、エアーシートに包まれたアンプルを斎藤の目の前にぶら下げるように持って訊き返した。
「ああ、SOMAはドーピングにひっかかる。なにゆえ、そのようなものを」
「これは、ソーマじゃない」
「ただのブドウ糖液にビタミンを添加したものさ」
総司は、エアーシートの袋の裏側を見たり、表に返したりしながら微笑んでいる。
「僕がモニター協力してる疲労回復アンプル。といっても美容用なんだけどね」
「キネシスで自律神経が乱れてるのを、山南先生がモニター記録にしたいからって」
「はじめくんもそうだけど。キネシスやると、眠りが浅くて、神経のバランスがおかしくなる。一時的だけどね」
「トレーニング中は特に振り幅が大きいから、データに取りたいって言われてね」
「山南先生は、自律神経失調症緩和サプリを開発するのに、このアンプルを作っている」
もう一度、総司は斎藤に掲げるようにアンプルの入った袋を見せた。
「これにドーピングの禁止成分は入っていないよ」
「うんと前に、血液の酸素供給が増えるものを僕は希望したけどね」
総司は微笑みながら、アンプルの入った袋を上着のポケットにしまった。
「ジムでチャンバーに入るのと同じぐらい身体が楽になるには、ソーマドリンクがいいって勧められた」
斎藤は、やっぱりそうかと思った。同時に山南の姿が思い浮かんだ。眼鏡の表面が光に反射して、奥の眼が見えなくなる。なにを考えておられるのか、判らない事が多い人だ。いつも、ただ静かに微笑んで。渡された小瓶。赤い。変若水。
「……変若水なのか」
前を歩いていた総司は振り返った。斎藤の顔をじっと黙って見ている。目の前の風景が違って見えた。道場への道。違う、これは屯所への道だ。遠い昔。こうして総司と歩いた。砂埃が舞う乾いた地面、人追い。そうだ、見つからなかった。変若水を持って逃げた者。遠い記憶が蘇る。
「僕はそんなもの飲まない」
「強くなるのにそんなものは必要ないよ」
踵を返して歩き始めた総司は、前を見たままハッキリと言った。薄桜学園の校舎が見えた。住宅街。足元はアスファルトだ。さっきの風景は。また記憶の混乱か。
「キネシスで、神経系が昂って、筋肉疲労で眠いのに眠れない。この乱れが激しいほど疲労が溜まる。キツイよね」
「僕が去年キネシスを始めた時に、たまたま道であった山南先生にトレーニングがキツイ事と酸素チャンバーの話をしたら、ブドウ糖とビタミンを取るようにって教えてくれて」
「栄養指導もしてくれるっていうから、それ以来ね」
「ジムの田中さんも大まかに指導はしてくれるけど、山南先生は医師免許も持ってるし。いろいろ相談できるからね」
「土方先生や近藤先生は、SOMAドリンクは禁止だって怒る」
「競技アスリートは確かに飲んじゃまずい」
斎藤は黙って頷いていた。
「土方先生が独りで騒いでるだけさ。もう山南先生は、学園も辞めたし。いい加減、LV研究所を目の敵にするのを止めればいいのに」
「近藤先生はよく解っているよ。研究所に芹沢理事が出資しているらしいしね。それこそ、僕がモニターしてるこのアンプルが商品化されたら、ドーピング理由に使用を禁止することを先生たちも出来ないと思うよ」
「これは、ビタミン剤とブドウ糖だからね。飛び切り濃いめの」
「土方先生は心配されている。あんたの親善仕合出場やアメリカ行きに障りがあってはいけない」
「やれやれ、はじめ君も土方先生も」
「僕が何のために剣術やってると思ってるの」
「強くなるためだ」
「そ、強くなるため」
「世界征服さ」
不穏に笑う総司。総司の言っていることは解る。ブドウ糖20%溶液にビタミンBとCを含むもの。純粋にそれだけなら、アンプルはSOMAではないのだろう。ドーピング検査に引っかかる成分が入っていないのなら。酸素チャンバー程ではないが、あの赤いアンプルで総司は厳しいトレーニングの疲労を癒してきたのだろう。
総司は、道場に戻ると「また後で、ジムで落ち合おう」と言って帰ってしまった。斎藤は、土方に電話をしたが、繋がらなかった。LV研究所に総司と行った事をメッセージに残して、千鶴の家に向かった。
*****
千鶴の家で
千鶴の家のインターフォンを鳴らすと、すぐに玄関に千鶴が現れた。斎藤をドアの中に招き入れると、千鶴は腕の中に飛び込むように抱き着いてきた。
「逢いたかった」
斎藤は千鶴の髪を撫でると、足元に荷物を落とすように置いて両腕で千鶴を抱きしめた。小さな千鶴は、普段着姿で柔らかいセットアップのようなものを着ていた。リビングのカウチに座った斎藤に「お腹は空いていない?」と訊ねた千鶴は、さっそく台所でお湯を沸かし始めた。
「俺のことは構わなくていい」
「顔を見に来ただけだ」
「横になっていなくていいのか」
斎藤は、矢継ぎ早に尋ねながらキッチンに入ってきた。お茶の準備をする千鶴の手を引いて、自分に向かせた。
「ここに来る前に、伊庭先生に確認した。数日は安静にしているようにと云っていた」
「部屋で寝ていたほうがいい」
「でも、そろそろ床上げしても」
「先生が2、3日は横になっているようにと云っていた」
斎藤の口調は厳しい。千鶴は素直に頷いた。台所のコンロの火を切った斎藤は、千鶴を抱きかかえてカウチに横にならせた。クッションを枕にして横たわった千鶴に、足元にあったブランケットをかけた。
「今朝は、父さまに朝食を作って送り出したの」
「少しの時間なら、起きていても平気」
斎藤は、ゆっくりと首を横に振った。「横になっていろ。俺は直ぐに帰る」と言って斎藤は床に膝をついて千鶴の顔を覗き込んだ。
「はじめさんだって、目の周りにクマが出来てる。ちゃんと眠ってる?」
「沖田先輩が、少しの時間でもこまめに横になるようにって」
「はじめ君は、我慢し過ぎるからって」
千鶴は、斎藤の頬に手を伸ばして心配そうに眼を見詰めている。大きな瞳が一段と大きい。斎藤は「ああ」とだけ答えた。不思議だ。総司の体調を気に掛ける事には慣れているが、まさか自分が総司に身体の事で心配をかけているのか……。ふっと笑いが込み上げた。
「無茶をするのは総司のほうだ」
「でも、出来る限り身体を横にしないと駄目だって。短い時間でも」
千鶴は一度言い出すと聞かない。仕方なく斎藤はカウチの前の床の上で横になった。
「こうして居ればいいだろう」
千鶴はカウチの上から満足そうに顔を覗き込んで大きく頷いた。
次の瞬間、千鶴は身体を横にするように態勢を変えると、そのまま斎藤の上に飛びかかるように乗かってきた。「人間ベッド」と言って、くすくすと笑っている。柔らかい千鶴は、斎藤の肩に頭を載せてしがみつく様に胴に手を回した。斎藤はそのまま目を瞑って千鶴を抱きしめた。温かい。幸せな心持がした。
どれだけ時間が経ったのか。普段は身体を横にして目を閉じると、途端に眠ってしまうのに。千鶴を抱きしめていると、眠りたくないと思ってしまう。ずっと離したくない。
「離れたくない」
「ずっと傍に居たい」
囁くような千鶴の声が聞こえた。そっと千鶴の髪を撫でた。「俺もだ」と応えた。千鶴の肩は小刻みに震えていた。千鶴の睫毛が涙に濡れているのが見えた。どうした。斎藤は頭を上げて千鶴の顔を覗き込んだ。
「はじめさんの傍に居たい。ずっと」
千鶴は繰り返しそう言っている。悲しそうに。涙を堪えるようにしているのか。斎藤は起き上がって千鶴を抱きかかえた。小さな千鶴は、一段と軽い。首に縋り付く様に腕を回したまま千鶴はずっと泣き続けていた。余程、弱っているのだろう。斎藤は、リビングを出て階段をゆっくりと上がって行った。千鶴の部屋は窓からの光で明るかった。ベッドに千鶴を横たえて、布団を優しくかけた。
「傍についている。眠るといい」
涙を指で拭ってやりながら、斎藤は千鶴のこめかみや頬に口づけた。千鶴は斎藤の手をとって離さない。斎藤はそのままベッドの千鶴を抱きしめた。深く口づけ合っていると、このまま一つになりたくなる。力ない千鶴は、華奢で弱弱しくてたまらなく可愛く、斎藤の胸は締め付けられた。だが千鶴の吐息を聞いた時、首元から胸を夢中になって愛撫している事に気付いて、思わず顔を離した。
しまった、と思った。俺は何をしているのだ。この様に病で弱っている千鶴に。千鶴は伏し目がちに斎藤の事を見詰めていた。伸ばして来た華奢な指は、斎藤の口元をそっとなぞった。
「すまん。我慢ができなかった」
謝るしかなかった。必死に身体を千鶴から離した。千鶴は優しく微笑んでいる。ずっと斎藤の手を握ったまま、千鶴は泣き止んでいた。
「はじめさん、今日もトレーニング?」
「来てくれてありがとう」
「わたし、ちゃんと休んで元気になる。はじめさんの試合まで、きっと」
斎藤は頷いた。千鶴はブランケットの中に包まるように横になった。ずっと離れがたいまま、手を握り合っている内に、千鶴は眠りについたようだった。そっと、静かに部屋を出て斎藤は千鶴の家を後にした。
****
風間と赤坂にて
外の光は眩しい。斎藤は、急いで赤坂に向かった。
ジムの受付で、斎藤は退会の手続きを申し出た。今まで顔を合わせた事のないスタッフが書類を用意して、斎藤は必要事項を記入して署名した。持っていた会員証を返して、手続きは終わった。斎藤は、風間がジムに来ているか尋ねた。すると、スタッフは電話で確認し、斎藤にラウンジルームで風間が待っている事を伝えた。斎藤は初めてVIPルーム「ル・シエル」に入った。
眩しいぐらいの光の中で、風間はスーツ姿で部屋の真ん中のソファーに座っていた。薄い色のサングラスをかけている。テーブルの上には、なにか書類のようなものを広げている。斎藤は風間の傍に案内された。風間は何も言わずに、顎で前の席に腰かけるように合図をした。斎藤は、黙ってソファーに座った。
風間に会うのは、研究センター病院での一件以来だ。斎藤は真剣を振り回して、千鶴を風間から奪い返した。あれから再び風間が千鶴を連れ去ることはなかった。あれほど、強引だった風間が、あの日以来ぷっつりと音沙汰がなかったのが斎藤は不思議だった。
「貴様も沖田も、ここのトレーニングに音を上げたのか」
風間の声は、嘲笑を含む調子で部屋に響いた。
「退会は、試合に向けてもっと稽古をするためだ」
「今までここでトレーニングを受けたことに感謝している」
斎藤は立ちあがって「有難うございました」と頭を深々とさげて礼を言った。そのまま踵を返したところを、風間は呼び止めた。
「これを持っていけ」
風間は指に封筒を挟むようにして持ち上げたものを、斎藤に差し出した。斎藤は、ゆっくりとそれを受け取った。封筒に書かれた斎藤宛の文字。
「婚約式の招待状だ」
「来月25日。場所は新宿」
「日も近い、返信を忘れずに寄こせ」
斎藤は、封書の差出人の名前を目にした。「風間家」「雪村家」の連名。
動けずにいる斎藤を風間は満足そうに見詰めていた。斎藤はさっき自分の腕の中でずっと泣いていた千鶴を思い出していた。小さな肩を震わせて。不安そうな顔をしていた。
斎藤は、気が付くと封筒を握り潰していた。怒りに身体が震える。だが、一息ついてじっと堪えた。瞑目したまま。心を決めた。
「千鶴は渡さん」
「試合で勝負だ」
斎藤は、静かにそう言うと、握り潰した封筒を風間に突きつけた。
「貴様も沖田も、片手太刀で事足りる」
風間は、鼻先で笑うように息を吐くと、ゆっくりと足を組み直した。斎藤はそのまま部屋を出て行った。エレベーターでビルの階下に降り立って、通りまで走り抜けた。全身の血がたぎるように感じた。絶対に渡すものか。身の内に怒りの焔が燃えさかり、頭の中で風間に思い切り斬りかかる己の姿が見えた。駅についた時、ポケットのスマホの振動に気が付いた。土方からの電話だった。
「先生、お話したいことが」
「メッセージをみた。今どこにいる」
「赤坂を出たところです。これから総司とトレーニングです」
土方の声を聞いて、斎藤は不思議と気持ちが落ち着くのを感じた。トレーニングが終わる時間を土方に伝え、夜に連絡をする約束をして電話を切った。電車に乗って、窓の外の風景を眺めながら、ずっと千鶴の事を想った。
——春は来なくていい。
いつか、3月に遠出をしようと誘ったら、そう言って泣いていた。子供のように縋って泣くのは昔からだ。
決して離れません。ずっとお傍にいます。
心に響く千鶴の声。あれは遠い記憶。褥の中で、そっと自分の胸に頬をつけて泣いていた。千鶴の髪の感触。艶々としっとりとして。覚えている。
覚えている。
絶対に離さないと誓った。
最後まで。
小さな手で縋るように。
離すものか。
拳を握りしめて心に誓った。どんな事をしてでも。討ち勝たねばならん。そう思った。駅前のジムに辿り着いた時、総司が待っていた。
「ぎりぎりじゃない。さっさと着替えて始めるよ」
ジャージ姿で木刀を肩に載せて、前を歩く総司は昔と変わらぬ姿に見えた。髪をおろし、道着姿で屯所の廊下を歩く。総司はいつもそうだ。稽古にかけては容赦がない。勝つ事にかけては。
斎藤は有難いと思った。こうして総司と鍛錬が出来る。斬り合いに備えて。
ジムの薄暗い廊下を歩く斎藤の瞳は碧く光っていた。総司は、そんな斎藤の顔を見ると。解ってるよ、という表情で口角を上げて前を見た。総司の双眸も翡翠色に輝いていた。
つづく
→次話 FRAGMENTS 18へ
(2020/04/13)