豊後口警視徴募隊

豊後口警視徴募隊

明暁に向かいて その33

明治十年五月十八日午後

 斎藤を乗せた臨時汽車は予定通り午後一時に横浜停車場に到着した。

 雨が降り止まぬ中、警視隊は横浜港まで行進して政府が用意した三菱汽船【名護屋丸】に乗船した。巨大な客船は、甲板に乗組み員以外千名の収容が可能だった。船室内の大きな集会場に隊員は集合した。ぎっしりとなった大集会所は騒然としていた。

 全員点呼を受け所属部隊毎に整列した後、壇上にあがった指揮官の萩原貞固三等警部から訓示があった。萩原は恰幅が良く大柄で、立派なカイザル髭を蓄えていた。低く良く通る声が大集会所に響き渡り、それまでざわざわと落ち着きのなかった場が一瞬で静かになった。訓示の後、その場で斎藤は警視第二番隊半隊長に命ぜられた。半隊長以上の者が壇上に上がり隊員に紹介された。

 徴募隊は六つの小隊に分かれていた。一番から六番まで、各隊五十名から百名。隊は更に半分に分けられていた。斎藤は二番小隊の半分を率いる。西南の戦役では、陸軍の支援を行う為、指揮、命令系統、階級制度は陸軍に準じるものとなった。斎藤は陸軍少尉試補と同等と扱われ軍議全般に関わる権限が与えられた。

 その後船内の移動範囲や食堂利用についての説明がされた。船酔いをする者は、医療部隊の控えに向かうようにということだった。徴募隊には東京警視庁の医員である井田武雄医師が随行していた。警視隊は戦地への物資運輸の任務も担っていた。運輸部長である石澤謹吾一等警視が医療器具、武器全般と食料を管理していた。隊員全体各自寝台に荷物を置いて出航まで待機を命じられた。

 名護屋丸は十八日夜八時に横浜港を出発。その頃には雨が上がり、空には星空が広がっていた。午後十時には消灯となり隊員は控え室で休んだ。海は凪いでいて快適な航海だった。翌朝六時、船は神戸港へ寄港した。到着とともに、甲板で隊員全員集合し、指揮官である萩原貞固三等警部から、太政官より正式な大分県への出張の命令が下ったと説明があった。

「内務卿閣下より正式隊名を賜った。豊後口警視徴募隊。我々は暴徒鎮定のため大分に向かう。二時間後に神戸港を出航。各自所属部隊の控え部屋にて待機」

 船は大分県嵯峨関へ向かうということだった。二番小隊の指揮長は平田武雄三等少警部。平田小警部は十四区所属で斎藤と同じ剣術指南掛だった。以前から面識のある平田小警部が指揮長であることは心強かった。斎藤の部下は二十名。もう一つの半隊と一緒に行動を共にする。二番小隊は平田を始め、所属隊員の殆どが宮城県出身者だった。旧仙台藩の士族たち。瓦解後に士分を捨てて、農政や漁業に関わっている者も含む。皆、警視官の徴募に自ら志願して戦役に参加した者たちが占めていた。

 斎藤は船が再び港を出航した時、甲板に残って平田小警部と話をした。平田小警部は二番小隊の人事に詳しかった。皆優秀な者だという。全員剣術の心得があり、銃の扱いに長けている者も数名いて、山岳行軍の準備は十分に整っているという事だった。「頼もしい隊だと胸を張って言える」と小警部は笑った。斎藤たち徴募隊は指揮長を始め全員が警視官で占められていた。先に従軍している警視隊の指揮長が陸軍少佐が兼務していると聞いた斎藤は、命令系統は全て川路大警視から下りてくると説明を受けた。

 それから斎藤は自分の控え部屋へ向かった。そこでは、部下二十名が全員待機中で、斎藤は食事の順番がまわってくるまで、部下全員に自己紹介をさせた。年の頃は二十歳前後の者。皆が旧仙台藩の士族。宮城県の県政に関わる者も居れば、農業に従事している者、中には蔵王の山奥で普段は猟師をやっている者もいた。お国訛りのある話し方。斎藤は聞き慣れているので意思の疎通は問題がない。津島も言葉は容易に解するだろう。天野も問題はなかろうと思った。間もなく二番小隊の食事の点呼があり、斎藤達は食堂に向かった。

 朝食後、半隊長以上は軍議に集まった。嵯峨関到着後、港近くに宿陣する。翌々日には本道を通って山間の竹田まで行軍。竹田一帯は既に、薩軍が山城を占拠している為、手前から間道に入り陣営をたてて、そこから奇襲をかけるということだった。予想通り、豊後到着後一両日中の初戦だった。斎藤は行軍図の配布を受けた。午後の食事順を待つ間、控えに部下を集めて、軍議の決定事項を説明した。中には気の逸る者も居て、今のうちに銃の手入れをしたいと言い出した。武器の配布は本陣を築いてからだと説明すると、船旅は手持ち無沙汰だと一部の者が不満を漏らした。血気盛んな若者たち。いつもは落ち着かない天野が随分と落ち着いているように見える。天野は、「それでは、半隊長。わたしらは、耳でも掻いて昼寝しておきます」と笑顔で答えた。

「ああ、今のうちにゆっくりとしておくとよい」

 斎藤がそう言うと、皆が笑顔になった。少しは緊張が解けたようだった。斎藤はその後、陽が落ちるまで、再び軍議に出た。二番小隊は先駆隊として最前線に立つことが決定した。嵯峨関近くの本陣で、斥候隊を決定する。足の速い者、山間移動に長けている者、視力聴力に優れたものを各隊から選出するように命令された。斎藤は自分の部下に思い当たる者がいた。細かい軍議を詰めた後、甲板に出るともう陽が暮れていた。食事を終えた後に控えに戻った。早くの消灯。皆は大人しく眠っているようだった。斎藤は、再び甲板に出た。船室横の通路の灯りの下で、胸ポケットから千鶴の写真を取り出した。冬に撮った洋装の写真。美しい笑顔。まだ二日経っただけなのに、随分と時間が過ぎた気がした。斎藤は船室の壁にもたれ、溜息をついた。陸蒸気の傍を走って追いかけてきた千鶴の姿が目に浮かんだ。あの雨の中を……、小さな姿で。


***


「うんと小さくなって、この荷物の中に入って一緒に付いていきたいです」

 出発前、斎藤の従軍荷物を用意しながら、千鶴は呟いていた。斎藤も昔同じ事を考えていたと応えた。

「いつだったか、屯所に千鶴を置いていくのが嫌で仕方がなかった。西本願寺に居た頃だ。風間たちが襲ってくる恐れがあった」

 斎藤は遠くを見るような表情で昔の話を始めた。

「屯所で千鶴に構う者も居た。俺が手出しをするなと注意すると、そんなに雪村が大事なら、真綿に包んで懐にいれておけとからかわれた」

 相手に悟られぬようにしたが、内心はそうしたいと願っていた。千鶴を懐に入れておけば、誰にも危害を加えられる心配はない。当時は真剣にそう考えていた。

 斎藤が微笑みながらそう話すのを千鶴は驚いたような表情で聞いていたが、自分も昔からいつも傍に居たいと思っていたと可笑しそうにクスクスと笑った。

 あの雨の中、走り始めた汽車を追いかけて来た。斎藤は、自分の名前を呼び続けていた千鶴の姿を思い出して胸が締め付けられた。戦役はまだ始まってもいない。だが闘いは激しいものになる。薩軍鎮定。一筋縄では行かないだろう。だが、出来るだけ早くに鎮圧したい。先駆隊の初戦は必ず討ち取る。初太刀を取ったものが勝つ。先手必勝。斎藤はそう心に誓った。千鶴と子供の写真をもう一度眺めてから胸に仕舞って船室へ戻ろうとした。角を曲がったところで、部下の津島の背中が見えた。斎藤が声を掛けると、津島は飛び上がるように驚いて振りかえった。手には何か手紙のようなものを持っていた。

「眠れぬのか?」

 斎藤が尋ねると、「いえ」と首を振って津島は答えた。「夜風は冷える、明日の朝の点呼は早い、早く休め」と斎藤が注意すると、津島は「はい」と答えて頭を下げて黙礼すると踵を返すように船室に戻っていった。斎藤も控えの部屋に戻り、寝台に横になって無理やり眠った。


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二番小隊

五月二十一日

 翌早朝、点呼朝礼の後に斥候部隊の選出があった。その後に各隊で朝食をとった。午後の軍議が終わった直後、船は嵯峨関へ着港した。日暮れに近い夕方六時に、斎藤達は港の近くの徳応寺に宿陣した。翌日は物資輸送と武器配布と行軍準備に明け暮れた。豊後は山が多く、気候が温暖だった。日中の日差しが強く蒸し暑かった。斎藤たちの行軍は山越えが続くことが言い渡された。竹田まで丸二日かけての進軍。物資輸送も兼ねているので、巡査兵が抱える荷物も多い。船旅の疲れを十分にとるように言い渡された巡査たちは、夜明けと伴に行軍開始の為、早々に消灯就寝が言い渡された。

 翌、五月二十三日に徳応寺を出立。二番小隊は、全員帯刀が許されていた。二番小隊はスナイデル銃を七丁執銃。斥候部隊は斎藤たちより先に竹田へ向かって出発していた。斎藤の隊からは蔵王の猟師【佐藤常吉】が斥候隊に参加した。仙台藩では、狩猟を生業とする者は【やまだち】と呼ばれている。やまだちの佐藤は青葉流のマタギ。佐藤は山間移動に長け、恐ろしく聴力と臭覚に優れていた。小柄でつぶらな瞳は少し吊り上がり、前歯二本だけが大きくて鼠のような顔立ちだった。平田小警部の推薦だったが、呼び出された佐藤は、説明を受けている間、ずっと身体をそわそわと揺らし、頻繁に自分の鼻の下をひとさし指で擦っていた。「直立して静止しろ」と命令されても、身体は自然に動いてしまうようだった。極度に緊張すると癖でじっと出来ないのだろう。平田小警部は腰の刀を鞘ごと抜いて、佐藤の膝を叩いた。びくついたようになった佐藤は更に落ち着きを失った。控室に戻るように言われた佐藤は、頭を下げると一気に部屋を出て行った。すばしっこく走り去る姿は鼠のようだった。

 斥候隊出発時に斎藤が目の前に立つと、佐藤はずっと一秒おきに鼻の下を擦っていた。挙動不審に見える態度だが、斎藤はそのままにさせておいた。身体がそわそわと動くのは癖なのだろう。あまり良い癖ではないが、止めたくても止められない性質のものに見えた。人はそれぞれ癖を持っている。自分の【左利き】もそうだ。癖は生まれつきのもの。佐藤常吉が任務に支障をきたす事がない限り、そのままで良いと斎藤は考えた。そして、斥候部隊の出発の号令が掛かった時、「どんな事でも報せてくるように」とだけ佐藤に指示した。佐藤は「はい」と返事をして、挙手敬礼した後直ぐに鼻を擦りながら足早に歩いていった。

 それから斎藤たち二番小隊は丸一日山道を進軍し続け、翌日に竹田に到着した。



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戦闘 竹田周辺

法師山

 五月二十四日 豊後徴募隊は竹田より東側に位置する法師山近くに築陣した。斥候隊より法師山の西側に胸壁を築いている薩軍の様子が報告された。薩軍百余名、砲台4門を設え防塁の高さは五尺。

「山の麓には熊笹生い茂ってる」

 報告の最後に、佐藤常吉が突然報告を始めた。斎藤は顔を上げて佐藤を見た。平田小警部が「熊笹がなんだ」と質問した。佐藤は、そわそわと鼻を擦りながら一歩前へ出た。

「熊笹は風さ揺れでも音を立でる。独特の音だ。そごで動ぐど音でわがります」

 佐藤は薩軍の動きを耳で聴きとることが出来るようだった。指揮長の命令で再び斥候隊が法師山の麓の監視に送られた。薩軍の動きがあると逐一報告するように命令された佐藤は、斥候部隊の巡査五名と一緒に暗い山道に消えて行った。

 五月二十五日。斎藤たち二番小隊は、間道攻撃兵の先駆を命じられ、一番最初に陣を出立した。道のないところを地元民の案内で法師山の西側に向かった。後続に援隊の六番小隊。

敵陣に迫る前に、斥候の佐藤常吉が右翼方向の高尾岳の頂上に構える薩塁がいると報せに来た。

 あそごがら砲撃を受げる可能性がある。

 指揮官萩原の迅速な指示で、二番小隊は高尾岳に移動することになった。午後に陽が傾いた時に斎藤達は山の中腹から駆け上がり、薩塁を急襲した。薩摩軍は応戦することなくそのまま防塁を放棄して敗走した。

 午後二時過ぎ、追い打ちをかけるように、今度は一番大隊が法師山の胸壁を築き防戦する薩軍を攻撃して、半時間で退却させた。

 敗走した薩摩軍は向かい側にある鏡村の山上に立て籠った。警視隊が鏡山に砲撃を向けた。薩軍はなかなか屈せず、攻撃を止めない。ずっと打ち合いが続いた。

 陽が傾き午後六時を過ぎた頃、第一大隊は薩摩軍に真正面から猛攻撃をしかけた。砲弾の嵐。薩軍も集中砲火で応戦していた。その間、斎藤達二番小隊は高尾岳の山頂から北東の後方を迂回して鏡山に向かっていた。そして、再び一気に右翼から急坂をよじ登って山頂の薩軍を攻めた。不意打ちを受けた薩軍は、砲撃が続かなくなってきた。徐々に薩軍は後退をし始めた。

警視隊は日暮れと共に追撃を止めた。そして薩軍が退却した瞬間、斎藤達は鏡山山頂を一気に占拠した。後方部隊は法師山に防御塁を張り巡らした。初戦は勝利。だが戦死者二名、負傷者十五名がでた。壮絶な戦いだった。

 そのまま全部隊で法師山に野営した。二番小隊には死傷者はいなかった。皆疲労が激しい様子だったが、初戦勝利の興奮で眠れない者もいるようだった。天野と津島はカンテラの灯りの傍で刀の手入れをしていた。今日は二人とも良く走り良く戦った。初陣が勝利に終わったのは幸運だろう。斎藤が隊を見廻っていると、二人は満足そうな表情で笑顔で会釈した。その直後に消灯した。斎藤は身体を横にした瞬間深い眠りに落ちた。



*****

法師山

二番小隊斬り込み隊

 翌五月二十六日、早朝に斥候部隊から薩軍が進軍してきていると報せがあった。防塁に構えた二番小隊は、南側の七里連丘から砲撃で攻めてきた薩軍に奇襲をかける準備をした。平田小警部の許可を得て、斎藤は部下の天野と津島、十五署出身の巡査二名、徴募兵一名を連れて部隊を離れた。

「武器は帯刀のみ。法師山の東側の尾根を駆け下りる。敵の砲台に斬り込む」

 斎藤は執銃している巡査に銃を置いて行くように指示をして、間道から離れた林の中を崖づたいに進み始めた。斎藤の前には佐藤常吉が鉈を振り下ろし、道を作りながら誘導していた。砲撃の音が止まない。敵に気づかれないように移動をするには身を低くして林に隠れながら進まなければならなかった。斬り込み部隊の中で一番大柄な天野はしゃがみながら進むのに苦労した。息が上がって来た時に、突然地面が平らになった場所で斎藤が足を止めた。佐藤常吉が足元の草を払うと地面に耳をつけた。

「敵は近え。百間先。五十人はいる」

 佐藤はそう言うと首を伸ばしてきょろきょろとしながら、鼻をひくひくとさせた。まるで小動物のようなその様子に、天野は驚きながらも笑いがこみあげて来た。

「薬莢の匂いだ。弾込めしてる」

 佐藤の報告で敵が近くで砲撃の準備をしている事が判った。斎藤は、このまま崖伝いに駆け下りて斬り込みをかけると云うと、身仕舞を整えた。走る間は帯刀、敵の目前で抜刀する。皆は頷いた。

「行くぞ」

 斎藤の号令で一気に坂を駆け下りて行った。林の中で敵の姿は見えない。山の上での砲撃の音で斎藤達が崖を滑り降りる音はかき消されていた。火薬の匂いが斎藤の鼻孔にも届くようになった。敵は近い。足元がなだらかになってきた。態勢を整えた斎藤は、佐藤を背後の林の中に待機させて、先頭に立った。

「敵の防塁を突破する。砲台の周りに居る者を斬って制圧する」

 斎藤はそう指示をすると、「いざ」と声を掛けて一気に駆け出した。右手を刀にかけながら敵陣の防塁の板を乗り越えると、空中で抜刀した。不意打ちに敵は慌てて刀を抜いて向かって来たが、斎藤が一撃で次々に倒していく。凄まじい剣戟。後方から銃を構えて発砲しようとした歩兵を津島が飛びかかるように頭上から剣を振り下ろして叩き斬った。天野が砲台に手をかけて傍に立つ砲撃隊を足で蹴飛ばし、尻もちを突いた歩兵を背後から突いた。そして逃げ出す歩兵を追いかけて次々に袈裟懸けに倒した。斎藤はもう一つの砲台を守る薩兵に猛烈に斬り込んでいった。相手が刀を向ける前に下から斜め袈裟懸けに斬ると、振り返り背後から刀を振り下ろす敵兵の腹部に剣を突き刺した。そのまま前に倒れこんだ敵兵の身体を盾にして、銃を撃ってくる敵の援護部隊に向かって突進していった。砲台周りを掃討した斎藤たちは、後退していく薩兵に迫った。薩兵は退陣の指示があったのか、砲台を放棄して逃げ始めた。巡査兵と天野がそれを追いかけて行ったが、斎藤は戻るようにと指示をした。

 山上の砲撃の音も暫くすると止んでいった。斎藤は林の中で待機していた佐藤に、本陣へ砲台を奪ったと報告するように走らせた。こうして、砲台二門を二番小隊が薩軍から奪って戦利品とした。砲弾も回収することが出来た。

 夕暮れまえに法師山へ帰陣した斎藤たちは、斬り込みで武功を立てたと皆から称賛を浴びた。天野達は、山上に残った二番小隊の仲間から闘いの様子を教えろと質問攻めにあった。一緒に戦った十四署の巡査が答えた。

「半隊長が鬼神のように薩兵を次々に斬り倒した」

「んだ、一瞬で、刀光って敵倒れる。半隊長御一人で薩兵二十は討った」

 徴募兵の独りが頷きながら息巻いて話した。

「銃を構える前さ斬られるもんだがら、薩兵は逃げでいった」

「佐藤は山鼠が野兎みだいに、なんでも聞ごえる」

「だよな、ねず吉くん」

 天野が佐藤の肩に腕を回すと、背中をどんと叩いた。佐藤は照れ臭そうに笑って鼻を指で擦っている。

「ねず吉くんは、凄いぞ。百間先の敵が、何をやってるか、何人いるかまでわかる」

 皆が佐藤常吉に感嘆の声を上げた。斎藤が隊に戻って来て、全員に「今日は皆良く戦った。一番の武功を立てた二番小隊が、一番最初に夕食の席につくことになった」と告げると、皆が悦びの声をあげた。食事中に指揮長から労いの言葉を直接かけられた。皆が得意な気持ちと連日の勝利に興奮していた。早めの食事を終えた二番小隊は、ゆっくりと寛ろいだ。その間、斎藤は夜遅くまで軍議に参加した。

 薩軍は七里村方面に後退している。翌日は法師山から進軍して攻撃する事に決定した。先駆役を一番隊と交代して、二番小隊は後方支援に回ることになった。



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小石川

お風呂場で

 斎藤が豊後で武功を上げていた頃、千鶴は日中家事と子供の世話に追われていた。

 坊やたちは【かくれんぼ】に夢中だった。豊誠が廊下の向こうで柱の陰に隠れると、猫の坊やは急に警戒をして身を低くして構える。子供は千鶴に「かーさま、こっち来て」と囁いてくる。千鶴は豊誠に呼ばれて、一緒に柱の陰に潜むと、猫の坊やは目を爛爛と光らせて、廊下の向こうで、そーっと床の上を這うように近づいてくる。

 千鶴たちがちらっと柱から姿を少しだけ見せると、途端に後ろに飛び跳ねて威嚇するような様子を見せる。目を見開いて、毛を逆立て尻尾も立てて飛び跳ねる姿が堪らなく可愛い。

千鶴と子供は噴き出しそうになるのを堪えて、じっと柱の陰から子猫を見ていると、再び抜き足差し足で坊やは床をゆっくりと這ってくる。そわそわとお尻を揺らしながら様子を伺っている。丸い目の黒目を大きくして必死な顔。愛くるしくて堪らない。そして、総司の坊やは豊誠がちらっと柱から顔を出した瞬間、一気に飛びついて来る。耳を立てて豊誠の頬を前足で叩くように攻撃すると、一目散に逃げていく。その走り去る後ろ姿が、たまらなく滑稽で千鶴は豊誠と床に座って大笑いするのが常だった。そんな千鶴たちを総司が居間にゆったりと座って眺めていた。千鶴も豊誠も、斎藤の留守の寂しさを総司の坊やが居ることで強く味わずに済んでいる。有難いことだった。一日の一瞬一瞬が、二人の坊やの遊びと笑い声で過ぎてゆく。

 斎藤が東京を旅立って一週間が過ぎた頃、長い一日を終えて、千鶴は子供と風呂に入った。その日は真夏のように熱く、ぬるめのお湯で日中にかいた汗を流すとすこぶる気持ちがよかった。外は満月、十分に風呂場も明るいので風呂場の灯りを消していた。

 ぬか袋で身体を擦っていた千鶴は、ふと自分の脇腹からお腹にかけて、紅斑が出来ているのに気が付いた。よく見てみようと立ち上がって窓からの光で自分の脇腹を見た時だった。紅斑が熱く体中に拡がるような感覚が走った。千鶴は驚いて、ぬか袋を手から落としてしまった。窓からの月明かりに全身が包まれた千鶴は、紅斑から更に明るい光が放たれているのを見た。自分の手も桃色の光を放っている。

 これは……。

 千鶴は自分の身体を眺めた。温かい光に包まれている。振り返ると、洗い場で湯舟に手をかけて玩具で遊んでいた豊誠が振り返るように自分を見ていた。子供の眼は金色に輝きだし、碧い髪はゆっくりと銀色に変わった。そしてそのまま全身が銀色の光で包まれたようになった。千鶴も同じように自分の髪も眼の色も変わっているのが判った。輝く光の共鳴。玩具を手放して、身体を千鶴にむけた豊誠は、ゆっくりと手を伸ばして千鶴に近づいた。千鶴も子供に手を差し伸べた。

 全身が銀色に輝く子供と桃色の光を放つ自分の身体。豊誠は不思議そうに千鶴を見上げている。坊やの美しい銀の髪の毛。額の上に小さな角が二つ生えているのが見えた。

 本来の姿。豊誠、あなたは鬼なのね。

 ちいさな息子が、驚きながらも堂々とした様子で佇む姿に千鶴は【強き善き鬼】と呼ばれた事を思い出した。そして、こうして月明かりの中で、【吉祥果】がまた自分の身に咲いた事を心の底から喜ばしいと思った。優しく微笑む千鶴に、だんだんと光が引いて元に戻った子供は抱きついた。

「かーさま」

 そう呼びかける子供の髪を優しく撫でた千鶴は、子供の前にしゃがんで微笑みかけた。

「大丈夫。大丈夫ですよ」

 優しく前髪をかき分けてあげながら、千鶴は愛おしそうに子供の瞳を見詰めた。そして、自分の紅斑のできたお腹を息子に見せた。

「ほら、これは【きちじょうか】」

「坊やの弟か妹が生まれてくる印」

 子供は不思議そうに千鶴の紅斑を見ていた。千鶴が大事そうにお腹を撫でるのをじっと眺めていた子供は、こっくりと頷いた。千鶴は子供の身体をお湯で流すと、自分の身体にもかけ湯をして一緒に湯舟に浸かった。この嬉しい出来事を斎藤に真っ先に報せたかった。子供が生まれてくるのはいつになるのだろう。自分の身に初めて【吉祥果】が顕れてから、豊誠が生まれてくるまで、三年近く待った。二回目に【吉祥果】が出来てから暫くして、子が宿っていることが判った。いつになるのだろう。赤ちゃん。早くはじめさんに報せたい。はじめさん、早く戻ってきてください。【吉祥果】が咲きました。

 次の命が。新しい命が、はじめさんとの間に……。

 千鶴は窓の外の月明かりを見ながら斎藤に心の中で話しかけた。




つづく

→次話 明暁に向かいて その34




(2018.12.30)

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