鬼火 弐

鬼火 弐

 斎藤は母屋の奥の間に戻り、千鶴と子供たちの様子を確かめた。千鶴は剛志に添い寝し、頬や肩を落ち着けるように撫で続けている。母親の背中越しに千桜がぐっすりと眠っている様子が見えた。

「目を閉じてから、身体のこわばりはなくなったから」

 囁くような声で千鶴は傍で覗き込む斎藤に伝えた。剛志は身体を真っ直ぐにしたまま横たわっている。長い睫毛は生まれつき上に反り返り、普段はその大きな瞳を一段と丸く大きく見せているが、先刻暗闇で眼球が鏡のように青い炎を映していた異様な光景は、怪火に息子が取りつかれてしまったように思えて仕方がなかった。

「眠っておるのか?」
「はい、静かに寝息をたてています。熱もないし、どこも怪我をした様子はありません」
「豊誠は?」
「空の家に行った」
「空の家に?」
「庭に火が上がった」
 千鶴が驚き布団から起き上がった。
「もう火は消してある。大丈夫だ」
「着替える」
 斎藤は素早く寝間着を脱ぎ、下着をつけると制服のズボンを履いた。千鶴は新しいシャツを箪笥から取り出して斎藤の背中から着せかけた。斎藤は襟元を緩めたまま、襟締めを断り上着を羽織ると、雨の日に羽織る薄い外套を千鶴に出させた。
「厩の外の長椅子で番をする。なにかあれば呼べ」
千鶴は玄関の物入の上からカンテラを持ってきて火を灯した。斎藤は縁側で革靴を履くとカンテラを持って厩に向かっていった。暗闇に中庭の植木が全て切り倒され花や枝が散らばっているのが白く浮かぶように見えた。普段は見えない隣家の竹塀が襖のように庭を囲んでいる。全部なくなってしまった。豊誠は。あの子は怪我をしていないかしら。千鶴は剛志の異変で気が動顛していて、豊誠が斎藤の元に走っていった後のことを覚えていない。きっと空の家にも不審火があると心配したのだろう。千鶴は急ぎ着物に着替え、家族全員の着物と草履を風呂敷にまとめた。子供たちは静かに寝息をたてている。お勝手で竈に火をいれて、残飯を蒸しなおして握り飯を作った。竹皮に漬物といっしょに包み、水瓶の残りの水を全て水筒に詰めて一番大きな内飼に入れて居間に並べておいた。

 その頃、向島の空の家の書斎で土方が独り机に向かっていた。昼間から取り掛かった新事業の計画書がなかなか終わらない。一旦筆を置いた土方は油の切れかかったランプに目をやると、おもむろに椅子から立ち上がった。ふと外に誰かの声が聞こえた気がした。突然、バタバタと階段を駆け上がってくる音がして、寝間着姿の豊誠が飛び込んできた。
「美禰子とお多佳さんのところに行って」
「早く」
 叫ぶような声をたてる豊誠に土方は目を丸くした。
「火を消してくる」
 目の前がきらりと明るくなった。太刀を持った豊誠が開け放たれた窓の桟に足をかけて飛び出して行った。
「おい」
 咄嗟に豊誠の足を掴もうとした土方は宙を掻いた勢いで窓の下に上半身が落ちそうになった。窓枠に掴まりなんとか部屋に戻ることができたが、既に豊誠の姿はなく、遠くに青白い光が建屋の屋根を飛び越えて行くのが見えた。机の引き出しから遠眼鏡を取り出し窓から光を追うと、豊誠らしき光は既に墨田川の向こうを跳んで皇城に向かっているように見えた。空の家は辺りでも珍しい三階建てで、土方の書斎の窓からは、東京中が見渡せるようになっていた。遠眼鏡で不審火を探したが、付近に火が上がっている様子はない。一体、豊誠は何を慌てている。不思議に思いながら、土方は階下に降りていった。仕事場と母屋を結ぶ渡り廊下に豊誠の脱いだ革靴が転がっていた。余程慌てていた様子で刀袋が地面に投げてある。廊下から奥の間の襖を開けると、お多佳が外着に着替えて座っていた。

「今、豊誠さんがみえて、母屋から絶対に出るなって」
「なにかあったんでしょうか」
「不審火がでたらしい。消しにいくと飛び出していった」

 土方は布団に眠る娘の美禰子を確認した。ぐっすりと眠っていて起きる様子はない。お多佳は箪笥から着替えを用意して風呂敷に包み、土方に子供から離れないでくださいと頼むとお勝手に行って水屋から食べ物を出し重箱に詰め始めた。土方はいつでも外に避難できるように上着を着て、美禰子の傍で胡坐をかいたまま腕組みをして休んだ。気づくと、お多佳が外着の羽織をかけて娘の傍で添い寝をしている。土方は、もう一度仕事部屋に上がって、外の様子を確かめた。

 開け放たれた窓から明るい光が射している。静かな窓の外に引き込まれるように近づいた。眩しい。同時にひんやりとした空気が窓から流れこんできた。空から白く輝く光がゆっくりと下りてくる。左腕で眩しい光を避けながら窓の桟に手をかけて空を覗き込んだ。

(なんだ、ありゃあ)

 光の中になにかがぐるぐると回っている。大きな球体の中に白い生き物のような。水の玉か。豊誠が起こす水の玉を思い出した。式鬼と呼び空中に水を浮かばせることができる。一体、何が起きている。土方は眩しい光の中を凝視した。寝間着姿の少年が銀色の髪をして球体の中にいる。白く蠢いているのは大きな蛇で豊誠を守るように球体の中を四方八方に飛び回っているように見えた。豊誠は大太刀を水平に天に掲げるように持ち上げた。球体の周りからキラキラと光りが飛び散った。拡がる光。その瞬間、土方の顔にも冷たい水の粒が届いた。まるで霧に包まれたような。書斎の中は深い森に入ったかのように瑞々しい空気が充満した。球体の中の豊誠はゆったりと地上に降りていく。土方は窓から身を乗り出して豊誠が行く先を確かめた。眩しい光が消えると、豊誠が白い蛇と一緒に中庭に立っているのが見えた。大太刀を振り上げると、白い大蛇は首をもたげるように構え一瞬で天に向かって昇っていき姿を消した。土方は空を見上げたまま呆然としていたが、暫く立って漸く正気に戻った。急ぎ階下に降りて中庭に裸足のまま駆けていった。豊誠は中庭に寝間着姿で立っている。左手に持った大太刀。血振りのように水滴を切ると袖をひっぱり大事そうに拭っている。

「大丈夫か?」

 土方の声に豊誠は振り返った。髪が水に濡れている。子供は静かに頷いて、中庭を見回した。

「火は消えた」

 辺りは水を撒いたようにすべてがしっとりと濡れていた。土方は冷たい地面を踏みしめて豊誠に近づき、大きな手で愛しそうに子供の頭を撫でた。

「びしょびしょじゃねえか」
「うん」
「美禰子は?」
「寝ている」
「お多佳さんも?」
「ああ」

 豊は笑顔で土方を見上げた。裸足の土方は縁側の廊下に置いてあった雑巾で足を拭い、子供から太刀を預かって、手を引いて引き上げた。豊誠が奥の間に行くと、お多佳の姿はなく美禰子がすやすやと布団の中で眠っていた。食事の用意が出来たと呼びに来たお多佳がずぶ濡れの豊誠を見て、急ぎ箪笥から着替えを出した。

「ご飯はいらない」

 帯を結ぶお多佳にひと言、豊誠は口を一文字に結んでいる。

「はい、わかりました」

 お多佳は豊誠に足袋を履かせると、おむすびを握ったからと台所から包みを持ってきて渡した。土方が刀袋を持って廊下から現れた。

「もう行くのか?」
「母上たちが心配だから戻る」
「明るくなるまで待て。茶漬けでも食っていけ」

 豊誠は首を横に振り、お多佳に礼を言って部屋を出た。二人が見送りに出ると、刀袋を背負った少年は助走をするように中庭を横切り風に乗って姿を消した。

****

 ようやく空が白んできた。斎藤は納屋から熊手を持ってきて、地面に散らばった木の枝や花の残骸を掻いて集めた。庭は表門の傍の糯の樹以外は切られた植木が少しだけ残りがらんとした風景になった。ひと所に草木の山が堆く、東側の物干しと井戸の屋根と柱だけが静かに立っている。空から現れた怪火。庭樹を焼けつくす勢いだった。だが、明るくなり残った破片をみても火がまわった様子は見られない。

「燃えてはいなかったのか……」

 斎藤は不思議に思い、焔が立ち上がった場所を確認しながら庭を一周した。殆どの植木が斬られた中で、中庭の端だけが地面の苔もそのままに踏み荒らされた様子がない。御影石が積み上がった一角。総司の墓。千鶴と子供たちが毎朝供花と木の椀に入れた水を上げている。

(無事だったか。流石に怪火も塚を荒らすことはできなかったのだろう)

 斎藤は、庭に残った花を持ち寄り、木の椀に新しい水を汲んで供えた。

「守ってくれたのだな、総司。礼を言う」

 静かに手を併せた後、起き出した千鶴に断って門の外に出た。近所に異変が起きていないか確認しながら坂を下り、川にかかる橋の袂の木の下で草を食んで佇む神夷を見つけた。馬は危険を察知して草と水が確保できる場所で避難していたようだ。斎藤が近づくと、尻尾を振って斎藤を労うように頬を寄せて息を吐いた。

「診療所は大丈夫だ。帰るぞ」

 神夷は返事をするように首を下げて耳の後ろや鼻の上を優しく撫でられている。鞍なしのまま跨ぐ気にはならず、斎藤は神夷の手綱を引いてゆっくりと辺りを確認しながら診療所に戻った。数刻前に豊誠が診療所に戻ってきたとき、皇城周りにでた怪火を消してきたと言っていた。日本橋、上野、川を越えて向島一帯を全て廻ったといって、そのまま布団に入り眠り始めた。怪火は皇城周りに上がった。恐ろしいことだ。一体何が起きている。青い炎。剛志の両目に映った焔。坊主は石のように固まっておった。

 門に近づくと、神夷は抵抗するように仰け反り天を仰いで大きな声で嘶いた。
「どうした」
 斎藤は手綱を引いて馬首に手を伸ばした。馬は足踏みをして身体を揺すっている。その時、塀の上をのそのそと猫の坊やが歩いてきた。朝日を浴びて、そのふわふわの尻尾は金色に輝いている。猫は門の上で止まると前足を一歩一歩伝うように真下に出して、音もなく地面に降り立った。落ち着きのない神夷を下から見上げるように眺めた猫は、ゆっくりと斎藤たちの前を横切り、のっそのっそと門の中に入っていく。敷石に足をかけた猫は振り返り「にゅあー」と鳴いた。その目は翡翠に光り、口角を上げたような表情で首を前に向けて歩きだした。

「なにしてんの。ついてきなよ」

 まるで生前の総司が言っているかのように、ゆらゆらと尻尾をゆらしながら歩いていく。神夷は猫にいざなわれるかのように前に進み厩の中に入って行った。朝露に濡れた身体を乾いた布で拭ってやると、気持ち良さそうに尻尾を揺らしている。

(ようやく落ち着いたようだな)

 陽の光が厩の中にも射してきた。斎藤は神夷にたっぷり干し草と水を与えた後、鞍と鐙を準備した。それから井戸端で顔を洗い居間に戻ると、朝餉が用意してあった。

「子供たちはまだ眠っています」
「神夷は橋のそばで見つけた。猫も無事だ」

 千鶴は縁側で伸びをしている猫を優しく撫でて抱き上げ台所に連れていき朝餉を用意している。斎藤は急ぎ食事を済ませると、襟締めをつけて出掛ける仕度をした。

「庭は帰ってから片付ける。庭樹が荒れたままだ。千桜を歩かせるときは気をつけろ」
「はい」
「朝のうちに、剛志を青山先生に診てもらいます」
「不審火は鍜治橋にも報告する。できるだけ早く戻るようにする。なにかあれば署に報せろ」
「はい」
 玄関で神夷に乗った斎藤を見送った千鶴は急いでお勝手を片付け、出掛ける仕度をした。

******

 昼前に早稲田の蘭疇医院から戻った千鶴の元に、お多佳から電報が届いた。

 コチラハミナブジアリガトウ

 空の家の皆は無事だという知らせに千鶴は安堵した。昼餉を用意して子供たちに食べさせた。次男の剛志は疲れた様子もみせず食欲も旺盛だった。斎藤が出勤した後、陽が高くなるまで子供たちは奥の間で眠っていた。千桜が起きて這い這いをして布団からでてくると、障子をつたってトコトコと勝手口に歩を進めてきた。

「かー」

 最近、末の子は千鶴のことを「かー」と呼ぶようになった。千鶴は「おはよう、ちいちゃん」と言って抱き上げると、居間でおしめを替えて余所行き着に着替えさせた。剛志は次に起き出した。布団の上で両目を擦って、ぼんやりとしていたが。千桜が寄りかかるように膝に登っていくと、立ち上がって「おしっこ」と言って駆けだした。厠に千鶴がついていくと、上手に用をたし、手水場で顔を洗い居間で着替えた。身体のどこにも怪我もなく、両目はいつものように黒目勝ちの大きな瞳。

「さあ、先にご飯にしましょう。兄様はまだ起きてこないから」

 千鶴は夜の内に握っておいたおむすびを子供たちに持たせて、お味噌汁をよそおいお膳にならべた。

 蘭疇医院で診察を受けたとき、ゆうべの出来事を剛志はなにも覚えていない様子だった。青山医師は、子供の眼の検査をした後、特に異常はないと診断した。春先から続く頻繁な寝小便と暗闇を怖がることを相談すると、医師は越婢加朮湯を出してくれた。

「寝る前に煎じたものをお猪口に一杯。甘い薬なので子供でも飲めます」
「三日間続けて。その後は様子をみて、週明けにもう一度来てください」
「眠りにつくときは、枕元を明るくして。厠を嫌がるなら、明るい場所で用が足せるようにすればいいでしょう。心配はありません」青山医師は子供ににっこりと笑いかけた。

 その日、尋常小学校を休んだ豊誠は一日弟たちと庭で遊んで過ごした。植木がなくなり広くなった庭で毬を転がし思い切り駆け回ることができる。外から戻った猫の坊やも加わり、十分に遊んだ千桜は昼寝をし始めた。千鶴はお膳で文をしたため、帝都に怪火が現れ、診療所の庭木に炎があがったこと、次男の剛志の様子が心配だと式鬼で八瀬の千姫に急ぎ送った。

 青山医師から処方された薬が効いて、剛志は布団を濡らすことなく、ぐっすりと朝まで眠るようになった。翌日も、その翌日も怪火は現れることはなかった。だが、いつもは直ぐに返事がくる八瀬から便りがなく、千鶴はしばらく弦打ちも起きていないことが気になり仕方がなかった。もう一度、千姫に式鬼を送る準備をしようと縁側に出た時、ふと視線を感じ厩の方に目をむけると、そこには風間千景が立っていた。


つづく

(2024/04/02)

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