初戦 白坂口
戊辰一八六八 その13
慶応四年閏四月二十五日
前日の夕方、会義隊と新選組は、白坂口に向かって城下を出発し、稲荷山を背に砦を築いた。
雨上がりの移動の後、稲荷山の頂上後方の陣幕の中で千鶴は待機していた。人足と一緒に荷物を運び終えた千鶴は、負傷兵が運び込まれた場合を想定して、筵を敷いた救護域を整え、翌明け方まで隊士たちと交代で横になりながら、敵の襲来に備えた。
斥候からの情報では、芦野を出発した敵軍には、薩長以外に大垣藩と忍藩の旗印も見えたということだった、夜間にも北進を続けている敵兵の先陣は、未明には白坂口に到着するという。
「陣から離れるなと、何度言われればわかる」
陣が整った後に、人足の案内で水汲みに山の裏手に降りた千鶴に斎藤が厳しく叱責をしたのは、夜も更け始めた頃。人足は黒川に暮らす地頭の長男で、千鶴が「山から流れる湧き水を汲みに行きたい」と頼むと快く近くの泉まで案内してくれた。千鶴は、新鮮な水を斎藤に飲んで貰いたいと思っていた。初戦の前の力水に。どうか、ご無事に戻られるように。
千鶴は、裏山の麓の岩場から湧き出ているという小さな泉から、竹水筒に水を詰めて急な斜面を木々にしがみつくよう登り続けた。斎藤は、千鶴を探して陣裏から斜面を見下ろしていたところを、人足と戻ってくる千鶴の姿を見つけた。山頂から手を伸ばして千鶴を引き上げた斎藤は、呼吸を整えながら「お水を汲んで参りました」と笑顔で報告する千鶴をきつく叱ると、千鶴は水筒を持ったまま、みるみると小さくなり俯いてしまった。
「ごめんなさい。無断で陣を離れてしまって……」
「……湧き水を汲んで来たくて」
城下の宿陣先では、軍議が寸前まで開かれ、出陣前の号令だけが全員集合の内に掛けられた。千鶴は、随分と慌ただしい隊の様子に、軍目以上の者が食事もまともに摂らないままであることが気になって仕方がなかった。島田魁や安富は、稲荷山で本陣が整うと千鶴が用意した握り飯を立ったまま喜んで頬張っていたが、斎藤は会義隊の野田進と砦の確認に向かっていて、ずっと姿が見えないままだった。その間にも、斥候が戻り、敵軍が迫って来ている事が伝達されると、陣幕の一同が騒然となった。千鶴は、このまま斎藤に会えないまま、開戦となる場合もあると思うと、急に胸騒ぎがした。
白河に来てから、斎藤の羅刹の発作が起きたのは城下に最初に宿陣した夜。偶然、千鶴が部屋に居合わせた。幸い他の隊士は居合わせず、二人きりの部屋で直ぐに千鶴は耳朶に傷をつけて供血した。斎藤の正面に立った千鶴は、背伸びするように斎藤の両肩に手を置くと、自分の右耳を差し出した。斎藤は、血のついた上着を洗濯に出したままシャツ一枚とズボン姿だった。二人で畳に崩れるように膝をつき、抱き合うような恰好で吸血した斎藤は、ようやく発作が治まった。斎藤の肩も背中もぐっしょりと汗で濡れていた。「すまぬ」と小さな声がしたと思うと、斎藤は慌てて千鶴の首から顔を離して、震えるように深いため息をついた。斎藤は決して千鶴の眼を見ようとしなかった。千鶴は、冷や汗で全身が濡れたようになっている斎藤が心配だった。余程大きな発作だったのだろう。背中に手をかけて、シャツを着替えるのを手伝おうとすると、斎藤は千鶴から逃れるように離れた。
「大事はない、このまま城での軍議に出る」
背中を向けたまま、斎藤は襖を開けて部屋から急ぎ出て行った。その後、斎藤に会えたのは数回、いずれも束の間の出来事だった。昼夜が逆転している斎藤に、なんとか薄明薄暮の食事を運ぶことはできたが、言葉を交わす機会はないまま。千鶴は、斎藤の体調が心配だった。行軍の知らせが来ると、千鶴は純義隊長から賜った筒袖を着て革靴を生まれて初めて履いて、隊列の最後尾についた。多少、ズボンが幅広でもたつくが、袴より数段動き易かった。
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斎藤が千鶴を叱責する理由は十分に解っていた。千鶴はただ項垂れるしかなく。それでも、殆ど飲まず食わずのまま、戦に向かう斎藤が心配で仕方なかった。千鶴は勇気を出して、前に出て、斎藤に竹水筒を手渡した。
「斎藤さん、せめて、お水だけでも。とても清涼なお水です」
「おむすびも陣に用意しています。どうか。少しの時間でも容易く摂れるように、小さく握ってあります」
斎藤は、陣灯の傍で自分を見詰めてくる千鶴の大きな瞳をじっと見つめた。そして、小さく頷くと、礼をいいながら水筒を受け取った。
「慌ただしい出陣だったゆえ、皆に力水を振る舞うことも出来なかったな」
微笑むような表情で千鶴に云うと、じっと千鶴の姿を見詰めている。黒い筒袖姿の千鶴は、大勢の中に居ると、見分けがつかないような気がした。斎藤は、自分の首に巻いているチーフを取ると、千鶴の首に巻いた。殆どの隊士は詰襟で襟元は黒い。これで見分けがつくだろう。千鶴は首元から斎藤の匂いに包まれた。不思議と不安な気持ちが消えていく。
「こうして、付けておけ。見分けがつく」
千鶴は「はい」と返事をした。
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閏四月二十五日 払暁
農夫伝達
明け方、霧が立つ中を吉田が一人の農夫を伴って陣内に入って来た。
斎藤と会義隊長の野田の前で、農夫は吉田に促されるように白坂の山で見た様子を伝えた。農夫は、慌てた様子で手に汚れた手拭を握ったまま、「白坂口っから、大軍こんずい」と云いながら、街道の向こうに繋がる山を指さした。農夫は、夜明け前に白坂口の傍の畑から地頭に報せに走ったまま、稲荷山の砦に連れて来られた。近隣の農家は、前日の内に黒川に非難していた。
野田が会義隊に、砲門を街道に向けて並べるように指示した。直ぐに、隊士たちは道路に大砲を下ろし始めた。街道の周りは水田が広がり、畦道が両側にある。斎藤達は前日より木や畳で防塁を築いていた。斎藤は、大砲二門の左右に隊列を二重に並べた。陣形は鶴翼。前面に鉄砲隊、後方に抜刀隊。
「敵は街道を北進してくる、ここより迎え撃つ」
「銃を構え」
まだ辺りは青白く、霧が晴れ始めた向こうに大軍が押し寄せる声がした。いよいよか。斎藤は、鉄砲隊が発砲した後に、斬り込み隊として先陣に出ると宣言した。隊士たちは、息をひそめて待った。陽が昇り、あたりが明るくなってきた。左手の空に朝日がどんよりと曇った空を照らしている。敵が迫る。
陣を敷いた稲荷山の右手にある街道は、食い違いになっていて敵軍が一旦方向替えをする。敵の動きが止まるところを狙う。作戦通りだった。会義隊の鉄砲第一隊が発砲。新政府軍もほぼ同時に発砲してきた。
「撃て」
斎藤と野田の号令が続く。銃撃戦が続く中、後方の抜刀隊が左右に分かれて山の斜面から街道の両側より敵に向かって駆け下りた。敵兵は二百余り。斬り込み隊と、鉄砲の追撃で敵はどんどんと後退していく。食い違い土居を、広い街道へ押された敵軍の鉄砲隊が下がった。後方から援護が前に出ようとしたところを斎藤達斬り込み隊が先に攻め込んで行った。
敵兵の発砲はそれでも止まなかった。斎藤達が斬り込みをかける中、後方からの砲撃が続き、会義隊の鉄砲第二隊が第一隊と交代して、陣の前方に並んだ。銃撃戦が続いた。相手がゆっくりと街道を後退している。陽がどんどんと登り、砲撃が止んだ後に敵は構えの姿勢のまま、後方から街道を白坂の山に向かって退却し始めた。敵の後方が、砲撃が届かぬ位置まで下がった時点で、ようやく斎藤達は刀を下ろした。陽は真上まで上がっていた。肌を刺すような光の中で、斎藤は苦しさを感じながらも勝利の興奮を味わっていた。味方の圧倒的勝利。斬り倒した敵兵より分捕った武器は、小銃から大小まで二十から三十。倒れている敵兵全員息の根を止める為に首を刎ねた。
陣屋に戻った時、千鶴は負傷兵の手当てに追われていた。刀傷や鉄砲の弾に被弾した隊士たちの数、四十あまり。筵を被せられた隊士が横たわっている。傍に膝をついて、吉田が腕で眼を覆って涙を隠している姿が見えた。斎藤は、筵をはぐって横たわる隊士を確認した。菊地央五郎。三番組隊士だ。吉田俊太郎と仲がよく、「おうごろ」と「しゅんたろう」と呼び合っていた。この二人は、京の屯所時代から俊足で名が通っていた。二人の入隊は同じ時期。剣筋が良く、斎藤は熱心に稽古をつけた。吉田同様、斎藤を慕う菊地は、斎藤が伊東派と共に新選組を離隊した時、一緒に付いて行きたいと言われて困った。央五郎は、津軽藩を脱藩して我らに加わった。会津藩への忠誠は、その頃より強くあったと思う。胸と腹を突き刺されて絶命した。敵兵の首を取ったまま。立派でした。震えながら、吉田俊太郎が斎藤にそう報告して嗚咽した。部下を亡くすのは、身を切られるような思いがする。勇敢に戦い、命を賭する。仲間を失うことも覚悟をしなければならない。敵を止めた。これより白河を死守する。そなたの死を無駄にはせん。成仏しろ。斎藤は、央五郎の死に顔に誓うように心で弔いの言葉を投げかけた。
陽が暮れかけ、敵軍がこれ以上攻めてくることがないと判断した斎藤たちは、ようやく防塁の中に戻り、野営をする指示をした。斥候隊から日暮れに、敵軍は芦野まで退却したと報告があった。完全に陽が落ちた頃、陣の後方で千鶴の様子を確認することが出来た。涙に濡れた顔で、陣灯の傍に立っている千鶴は、菊地の死を知らされたらしく、斎藤の顔を見ると再びその大きな瞳から涙を流して、「斎藤さん、菊地さんが……」と両手で顔を覆って泣き始めた。斎藤は千鶴の震える肩に手をかけた。小さな姿。首元や頬に、血がついている。手当で負傷兵の血がついたままか。血をみても、発作が起きない事を不思議に思いながら、手袋をとった指で千鶴の首や耳元についた血を拭ってやった。
「怪我をした者は、手当てが早かったゆえ、全員無事なようだ。助かった」
斎藤は千鶴の救護に労いの言葉をかけた。千鶴は、下を向いたまま頷いている。千鶴が落ち着くまで二人で灯火の下でずっと立ったままでいた。千鶴は思い出したように、顔を上げると。斎藤に水を飲んで欲しいと云って陣の奥に斎藤の腕を引いて行った。千鶴は竹水筒を差し出して、湧き水だから飲めと言う。斎藤は、一気に水を飲み干した。全身が生き返るような感覚が走った。千鶴は、次に握り飯を差し出した。立ったまま、飯を頬張る斎藤を見ながら、千鶴は戦が大勝利だった事を祝う言葉を口にした。斎藤はしっかりと頷いた。千鶴が二つ目の握り飯を差し出すと、斎藤はそれを半分にして千鶴に差し出した。二人で微笑みあいながら握り飯を食べた。「力が湧いてきた。礼を言う」、そう言って斎藤は、千鶴が陣の一番奥で横になるのを確かめると、再び身仕舞を整えて斥候隊と一緒に陣幕の外の暗闇に消えて行った。
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榛の木の陰
暗闇に蠢く足音。泥の中を踏みしめる度に、空気が漏れる音も聞こえる。十人。いや十二人。
斎藤は、巽の方角から迫る敵軍の斥候の動きを耳にしていた。蠢く者たちは、身を低くして南側にある小山の麓から田圃の中の泥水を横切っている。どこへ向かう。夜半の内に稲荷山の裏へ廻る気か。斎藤は、部下と共に防塁の左手の裏山へ通じる畔路に下りると、木の陰に身を隠した。
月明かりのない空は厚い雲に覆われ、辺りは漆黒の闇。だが、斎藤には蠢く男たちが薩摩兵の特徴である黒詰襟に金釦の上着を纏っているのが見えた。白い襷がよく目立っている。灯火なしで移動する者たちは、闇夜に己の姿を隠した気でいるのであろう。だが、斎藤には迫りくる敵兵の息遣い、装備に手をかける音、泥水の中を無理矢理に歩を進めている様子まで、すべてが明確に把握出来ていた。稲荷山の裏山に続く丘陵の麓の榛の木が七本立つ影。敵兵十三名。二人一組となって身を潜めるのを見届けた。
敵の斥候が、芦野に退却した新政府軍に伝令報告をするには、一刻を要する。この者たちはその規模からして、偵察ではなく白坂口に陣営を張る為に潜んでいるのだろう。味方の斥候部隊は五名。どれも新選組の手練ればかり。この者たちを率いれば、十三名は討ち取れる。斎藤の決心は早かった。
「今より小山にいる敵兵を撃つ。左手の山の斜面から巽の方向に攻める。敵は十三名。帯刀大小のみ。山の麓に榛の木が七本あるだろう。その陰に奴らは隠れておる」
「敵の先鋭部隊やもしれぬ。一人残らず討ち取る」
斎藤が先頭をきった。斎藤の背中に見える白い腰帯だけが目印。部下は足元が泥水であろうが、気にせずに駆け抜けた。敵は抜刀して木の陰から飛び出してきた。激しい斬り合い。斎藤は、一人一人次々に斬り倒して行く。幸い敵兵に羅刹は居なかった。最後の木の影から飛び出して来た者。ざんばらな髪だったが、その眼光と骨ばった顔の輪郭には見覚えがあった。
清原か。まさか。斎藤は思った。思い切り上段から刀を振り下げて迫る清原を、逆袈裟懸けで斬り倒した。うつ伏せに倒れている背中から心の臓を突いてとどめを刺した。動かなくなった清原の顔をもう一度、表にして確認した。清原清。元御陵衛士。高台寺派の隊士だ。新選組では、二番組に属していた。斎藤が新選組を離隊した時に、清原も一緒に泉涌寺へ移った。新選組に居た頃より、伊東、篠原、三木の腰巾着のような男だった。熱心に勤王を唱えていたのをよく覚えている。新八たちが、伊東を斬った夜に、乱闘の末死んだと思っていた。御陵衛士の残党がこのように薩兵となっているとは。斎藤は、清原以外にも、新政府軍に下った隊士が刃を向けてくる可能性を思った。
背後で、手下の者が討ち取った敵兵の首を刎ねている音が聞こえた。斎藤は、清原の首と薩摩の腕章名札を持って陣屋に戻った。名札には、武川直衛と書かれてあった。恐らく、薩摩藩で変名を使っていたのか。会義隊の野田は、明け方に敵兵が榛の木の影から陣を狙っていた事を知ると、そのまま薩兵の首を城下入口の九番町の大木戸の前に並べた。翌日の、閏四月二十六日から二日間、ずっと雨が降り続けた。新政府軍が攻めてくる様子がないことを確認した会義隊と新選組は、純義隊と共に城下に戻った。雨曝しの首級は、間もなく、城に近い中町大手門に四寸割の板を渡し、五寸釘を打ったものに移され梟首。城下には、晒し首の見物に黒い人だかりが出来ていた。斎藤達は、それから二日間、柳屋で身体を休めた。
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城下にて
白坂口での初戦の後、棚倉藩や二本松藩、仙台藩から続々と大軍の出兵が白河口に到着した。城下の宿や寺は、多くの兵が宿陣していた。斎藤と千鶴が宿陣した柳屋も満室で、斎藤は吉田俊太郎と伍長の河合鉄五郎と共に千鶴と一緒の部屋割りになった。千鶴は、隊士たちの隊服の繕いや下着の洗濯に忙しく、斎藤は軍議の為に登城していて戻るのは夕刻。夕餉の時間に皆が広間で顔を合わして、簡単に報告を交わす。そして斎藤は再び、純義隊と会義隊との軍議に別の部屋に行ったまま戻らなかった。吉田と河合が、早々に部屋で横になるので、千鶴は、木台に小さな蝋燭を灯した傍で、繕い物をしながら斎藤の戻りを待った。
夜が更けても斎藤は戻らない。千鶴は、いつの間にか縫物を手にしたまま畳に突っ伏すような態勢で居眠りをしていた。手には着物の感触。千鶴は、一生懸命止血をしていた。血を止めないと。血を。押さえているのは、心の臓。どくどくと血が流れている。父さま、とうさま。千鶴は、両手で横たわる父親の胸を押さえていた。どんどんと父さまの着物に血が滲み出てくる。どうして、父さま。千鶴は、力強く着物の上から圧迫した。温かい父さまの身体。どうか。神様、どうか。千鶴は、着物の向こうの傷に。父親の傷に直接触れようとしたが、着物をとろうとしても血が溢れかえってしまい、また抑えなければならない。涙がとまらない。どうして、父さま、こんなに止まらないの。
ちづる、……しらいわの……。ゆきむらのさとの……みず、みずが……。
ずっと自分を見詰める父さまの瞳からどんどん光が無くなって行く。父さま、とうさま。
みずが……、ち……づる……。
「おい、雪村」
身体を揺り起こされて、気づいた。斎藤が心配そうに自分を覗き込んでいた。手に持った繕い物と、溶けた蝋燭の灯が見えた。冷たい。自分の涙で髪の毛が濡れていた。
「うなされておった」
座り直した千鶴の前で、行灯に灯りを移し替えた斎藤が手拭を差し出した。千鶴は、涙を拭った。父親が息を引き取った時の夢を見ていた。父さまの胸から溢れる血と、優しい瞳。まだ耳に残る父さまの声。斎藤は心配そうに、じっと千鶴を上から見下ろしている。
「縫物をしながら居眠りを」
俯いたまま呟くように、そういった千鶴に、斎藤は「今夜はもう休め」と一言応えると。素早く布団を敷いた。千鶴は斎藤に寝間の準備をさせてしまっていることを謝りながら、布団に横になった。斎藤は行灯を消して、小さな木台を千鶴の布団の傍に置いて間地切ると、壁側に自分の布団を敷いて横になった。斎藤は千鶴に背中を向けていたが、ずっと千鶴が眠れずに起きている気配を感じていた。無理もない。戦地の真っ只中で惨状を目にして、正気でいられる筈もなかろう。斎藤は、どこか安全な場所に千鶴を囲い置きたいと思った。
同盟軍の軍議で、敵軍が芦野宿に屯営しているなら、ただちに軍を率いて国境の明神に哨兵を置き、すみやかに白坂宿に進軍することを訴えた。だが、軍目以上の者はこれを退けた。午後に改めて、建白書をしたためて提出したが、総督の西郷頼母が城下より兵を移す事を拒み、一切を退けられた。
白坂口が破られ敵兵が攻め込んできたら、城下は火の海になる。
総督の指示で、新たに加わった仙台藩兵と関門口の守備を交代するように言われた斎藤は、休戦の間に、千鶴を黒川の地頭の家に預けることを考えていた。黒川口であれば、敵が攻め込んで来ても、城からは離れているため戦火から逃れることか出来ると思った。布団の中でずっと腕を組んだまま、斎藤は稲荷山の陣地で一所懸命に負傷兵の手当てをする小さな千鶴の姿を思い浮かべていた。今回は、流れ弾が山頂まで届くこともなかった。安心していられた。だが、これから先の陣地で、その保証はない。
斥候として斬り込んで来る小部隊の存在も侮れぬ。もし、その中に鬼が居たら。風間と天霧が夜半に突然陣屋を襲ってくることも十分に考えられた。斎藤はあらゆる可能性を想定した。黒川に囲い置きたいと考えながらも、己の傍から千鶴を離すことに躊躇する気持ちもあった。傍に居さえすれば、必ず守ることが出来る。それは確かだ。
それが一番確かであろう。
胸の内から、熱い想いが溢れる。やはり、留め置くことになるのか。雪村を傍に。
斎藤は目を瞑った。消えかかった蝋燭の灯の傍で、小さく丸くなったまま横たわっている千鶴の姿が目に浮かぶ。あのように小さき者……。必ず、まもるゆえ。
あんたを……。
戦場からも、鬼の手からも……。
千鶴は、ずっと背後の斎藤の気配を感じながら目を瞑っていた。斎藤さん、戻られた。夜にこうして横になられるのなら、休息を取られていられるのなら……。千鶴は斎藤が他の隊士と一緒に身体を休めていられる事が嬉しかった。そして、自分がふと手に握っているのが、斎藤の手拭であることに気が付いて、目を開けて暗がりで確かめた。ほんのりと斎藤の匂いがする。千鶴は、微笑むとそのままそれを胸に抱いて目を瞑った。
明日、洗ってお返ししよう。
斎藤さん、ありがとうございます。
おやすみなさい。
千鶴は眠りに落ちたようだった。一瞬、吐息が聞こえた後、静かな寝息になった。斎藤はゆっくりと寝返りを打った。間仕切りの向こうで、小さな千鶴の肩が見えた。ずっと見つめていられる気がした。そんな事を考える己を不思議に思いながら、いつの間にか斎藤も眠りに落ちていた。
つづく
→次話 戊辰一八六八 その14へ
(2019/10/23)