烏帽子親

烏帽子親

明暁に向かいて その47 (番外編)

明治十二年十月 

 まだ日中は日差しが厳しい十月のはじめのこと。

 子供を庭で遊ばせながら、裏庭で洗濯物を干していた千鶴は、ふと、自分の名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。

「千鶴、無沙汰だな」

 玄関の前に、立っていたのは原田左之助だった。隣には不知火の姿も見えた。二人は、上着を手に持って、シャツの腕まくりをして立っている。千鶴が駆け出すと、子供も一緒になって千鶴の後を追ってきた。

「原田さん、不知火さん。よくおいで下さいました」

 千鶴は、左之助の両腕に手を掛けて飛び上がらんばかりに喜んだ。不知火は、千鶴の後に付いてきた子供をひょいと抱き上げると、思い切り高い高いをした。子供は目を真ん丸にしながらも、高く持ち上げられている内に、割れるような声で笑い出した。

「ずっと、神田から歩いてきた。この辺りは変わらねえな」

 千鶴は、玄関から二人を招き入れると、お茶を用意した。不知火は、子供と中庭で遊び始めている。縁側の廊下から中庭を眺めながら、左之助は診療所を見回して、「変わらねえな」と嬉しそうに呟いた。

「はじめさんは、今日は早くに戻られる日です。ごゆっくりしていって下さい」
「千鶴も、変わりなく元気そうでなによりだ」
「原田さんも」

 お茶を煎れながら、千鶴は微笑んだ。真っ白な開襟シャツの袖をまくり上げて、長い髪を掻き上げた左之助は、日焼けをして精悍な様子は全く昔と変わらない。三年前に東京で銃を持った悪漢に襲われて怪我を負った左之助は、手当ても不十分なまま診療所から去っていった。その後、日本を離れて遠い異国にいると便りがあったきり。千鶴は、土方から上海に原田が居たと聞いて、帰国するのを待ち望んでいた。こうして、原田が無事な事が殊の外嬉しい。

「日本にはいつ戻られたんですか?」
「二日前だ。上海から横浜行きの船に乗って戻った」
「横浜で、一泊して。昨日移動してきた」
「豊誠は、いねえのか」

 左之助は中庭や家を見回して尋ねた。千鶴は、春から小学校に通っているというと、左之助は驚いていた。「坊主が、学校にあがるぐらいでかくなったか。俺も歳をとるもんだ」と言って笑っている。庭先から、子供のけたたましい声が聞こえている。不知火は、相変わらず、子煩悩な様子で、子供を空高く放り投げたり、二人で木の上に上がったり、庭を所狭しといった様子で、子供を肩車にして飛び回っている。

「土方さんから、上海で原田さんに会ったと聞いて。ずっと、戻られるのを楽しみにしていました」
「お葉書を頂いたのは、暹羅からでした。地図で確かめたんです。うんと南方にあるんですね」
「暹羅は常夏だ。護謨の木がいっぱい生えている。暹羅には一年近くいた」

 千鶴は、原田から日本で戦役が始まった時期は、帰国が叶わないと思って暹羅から露西亜まで北上して、欧羅巴、倫敦、亜米利加と回って帰ってきたと聞いた。途中で、千鶴は世界地図を持ってきて、原田に場所を確認しながら、感心して話を聞いた。

「すべての大陸を巡ったわけじゃねえ。阿弗利加には行けなかった」

 千鶴は一生懸命、阿弗利加の場所を探して地図を上にしたり、下にしたりしている。左之助は、世界一周に三年もかかっちまったと笑っているが、遠い異国に行くどころか、大陸から大陸へと渡り、世界をぐるりと巡って帰って来たという事が信じられない。それも三年もの年月がかかるなんて。

「仕事もしながらだ、根無し草だが商売を廻しながらなんとかな」

 そう言って、左之助は笑っている。千鶴は、左之助にお腹は空いていないかと尋ねた。「ああ」と答えた左之助に、すぐにお昼を用意するからと台所に立った。

 

****

 

 昼餉を食べ終わった後、豊誠が学校から戻った。

「ただいま帰りました」と居間に入ってきた子供は、客が来ている事を認めると、「こんにちは」と挨拶をした。

「おかえりなさい。原田さんと不知火さんが見えてね。豊誠、覚えている? あなたが、まだ小さい時に沢山遊んで頂いたのよ」

 子供は、微笑みながらも左之助と不知火の顔をみながら、覚えていないといって首を振った。

「無理もねえ。まだ、三つかそこいらだった」

 そういって微笑む左之助の隣で、不知火がじっと豊誠を見詰めていた。豊誠も立ち止まるように、じっと見つめ返している。剛志を膝に抱いていた不知火が、そっと子供を畳に下ろして立ちあがった。

「大将、無沙汰をしていた。不知火だ」

 そう言って、頭を下げた。息子も同じようにお辞儀を返した。二人で暫く見つめ合った後。

「大きくなったもんだ」

 不知火は嬉しそうに満面の笑みになった。剛志が不知火の膝に駆け寄って、抱っこをねだったのに気付くと、器用にくるくるとでんぐり返しをさせるように持ち上げて肩車をした。

「坊主、高い所に行きたいか」

 そう言いながら、再び縁側に降りて行った。豊誠は、奥の間に学校鞄を放り投げるようにして、足袋を脱いで裸足で中庭に駆け下りた。その瞬間、不知火は家の屋根に飛び上がった。豊誠も、助走して、大きな御影石を蹴り台にして飛び上がり、屋根に乗っかった。

 千鶴が縁側から中庭をきょろきょろと息子たちを探している。

「二人とも、不知火が空に連れていっている」

 左之助がそう言いながら立ち上がった。ゆっくりと縁側に降り立つと、母屋の屋根の上を眩しそうに見上げた。

「坊主たちはご機嫌だ。二人目の坊主。千鶴にそっくりだ」

「おい、不知火。俺にも寄こせ」

 左之助は笑いながら、屋根の上の不知火に声を掛けた。子供は空高くに放り上げ投げられて、大喜びする声が聞こえている。雲の向こうから、子供が落ちてくるように戻ってくると、不知火は自分も飛び上がって空中で器用に子供を受け止め、一回転してから中庭の地面に着地した。豊誠は、助走をつけて糯の木の上に飛んでから、一番高い枝に飛び移り、もう一度空高く飛び上がって、空中で一回転して地面に降り立った。雪村の郷以外の場所で、初めて飛んでみて成功したのが嬉しい。豊誠は気分が高揚したまま、不知火に振り返った。

「大将、靴を履いて散歩にいかねえか」

 不知火が腕に抱いた下の子供を左之助に渡しながら誘うと。豊誠は物凄い勢いで、玄関から革靴を持ってきて、縁側に座って靴を履いた。

「母上、行って参ります」

 そう言った途端、不知火と二人で御影石を蹴り台にして飛び上がって屋根の上から、三軒先の屋根の上まで飛び跳ねたと思うと、あっという間に姿が見えなくなった。千鶴は呆気にとられていたが、縁側で下の子供をあやしはじめた左之助を振り返ると、剛志は思い切り頬ずりされて嬉しそうに笑い声をたてていた。

 

****

 

「剛にこころざしと書いて【つよし】です」

「土方さんに付けて頂きました」

 千鶴は、下の子供の名前を左之助に教えると、「強くて、志高く。いい名だ」と左之助は感心した。

「夏に会った土方さんは、元気そうだった。あの人は変わんねえな」
「はい、今、奥様を迎えられて向島にお暮しです」
「ああ、そう聞いた。メリヤス工場と製靴工場を切り盛りしてるってな」
「はい、今年、お子さんが生まれて。女の子で、掌の珠のようにお育てになっています」
「へえ、あの土方さんが、人の親になったか」

 感慨深い様子で呟く左之助の横顔を見ながら、千鶴は左之助に、東京に暫く滞在するのかと尋ねた。

「ああ、暫くな。寒くならねえうちに箱館に行こうと思っている。新八にも会いに行くつもりだ」
「そうですか。永倉さんは、今年の春に東京に見えて。松前の剣術道場からお弟子さんを連れられて」
「はじめさんと子供を連れて、上野に道場試合を見に行きました。永倉さん、一層お強くなられて。はじめさんは、手合わせができないのが残念だって、ずっと言っています」
「斎藤も元気そうだな。東京は、まだ町中を少し歩いただけだが安全でいい。治安がいいのは、斎藤たちが頑張っているお陰だ」

「有難いことだ……」

「千鶴、長い間借りっぱなしになっていた百圓だ」

 左之助は、傍らの上着の内ポケットから封筒を取り出した。中には百圓札が入っていた。

「あの時は、千鶴の手当てのお陰で助かった。百圓が手元にあって船にも乗れた」
「ありがとうよ」

 千鶴は、もう何年も前、左之助を診療所から送り出した日を思い出した。利き手の右腕に縫い傷を負ったまま、富坂を駆け下りるように走り去った左之助。あの日、何かに役立てて欲しいと、咄嗟に家にあった現金を渡した。原田さんは、わざわざお金を返しにいらした。千鶴は、義理堅い左之助にゆっくり微笑み返すと、頭を下げて封筒を受け取った。良かった。本当に、原田さんがご無事で……。

 左之助は、腕の中の子供が眠り出したのを優しく自分の上着で包んで抱え直した。

「ちっちぇえな。たまらねえ」

 慈しむような表情で、ずっと子供の寝顔を見ている。千鶴は、奥の間に子供の布団を用意すると、左之助がそのまま寝かしつけてくれた。二人で、お茶を飲んで寛いでいる内に不知火と豊誠が散歩から戻って来た。

「ただいま戻りました」

 子供は、元気に挨拶をして縁側から家に上がって来た。不知火も、戻るなり「坊主はどこだ?」と左之助に剛志の姿が見えないと尋ねている。千鶴は、おかえりなさいませ、と言いながら、おやつとお茶を膳に出すと。手を洗ってきた豊誠が、「灯台まで行って来た」と滑り込むように饅頭に手を伸ばした。

「これ、お行儀が悪いです」

 千鶴に窘められた子供は、ちゃんと正座をし直した。

「灯台って、品川か?」
「いや、九段だ」
「さすがに、皇城の上を跨ぐことはできねえ」

 不知火は笑っている。千鶴は、靖国神社まで屋根を飛んで行ったのかと呆気に取られている。九段にある燈明台は、一度子供を連れて行って下から見上げたことがある。斎藤から、夜になると灯火されて美しいとは聞いているが、普段から人が上に登れる場所ではない。

「今日は晴れて、品川の向こうまで海がよく見えた」

 不知火が子供と頷きあいながら話しているのを見て、左之助が微笑んでいる。上海で不知火がふと、「雪村の姫さんとこの坊主の顔をみたくなった」と言い出した。日本への帰国は、次の春を予定していたが、商売もひと段落ついた機会に早く東京へ移動しようという事になった。左之助は、何故不知火が千鶴と斎藤の息子のことを気に掛けるのか、よく解らない。不知火は、不思議な男だ。だが長い付き合いの中で、無類の子供好きだということは知っている。

「オレは、獣と子供には条件なく好かれる」
「女では、お前に負けるが、こと動物とガキにかけちゃあ、勝負は見えている」

 そんな風に自慢しては、行く先々で子供と戯れる姿を見て来た。目の前で意気投合している二人を見ていると、ふと自分たちが持ち帰った土産物を思い出した。部屋の隅に置いていた荷物を開いて、中から大きな紙の包みを取り出した。

「坊主にみやげものだ」

 そう言って、左之助はそっと包みを子供に渡した。幾重にも包まれた中から、硝子の管で出来た大きな細工が見えた。ぐるぐると輪を作った形の管。

「ストローってな。飲み物を飲む管だ」

 美しい透明な硝子で出来た管は、飲み口が二手に分かれている。左之助が「レモネード」だとコルク栓のついた硝子瓶を鞄から取り出した。

「これは甘い飲みもんだ。冷やして飲むとうまい」

 子供が飲みたがるので、千鶴は左之助に言われるままに大きな湯飲みを用意した。そこに「レモネード」を注いで、硝子の管を挿すように立てかけた。

「これは、こうやって二人で飲むもんだ。管に飲み物が通るのがみえる」

 促されるままに千鶴と子供で管から飲み物を吸い込んだ。子供は勢いよく上手に吸い込んで、丸い管の中をレモネードが昇って自分の口の中に入るとその甘さと香りの良さに「おいしい」と大喜びした。そして、千鶴が吸い込む時に綺麗に管を通るさまを見て笑っている。

「ハート型だ。心の臓の形。それを型どっているんだ」
「二人で上手に飲むと、気持ちが通じあうんだってよ」

「巴里みやげだ」

 不知火が教えるように千鶴と豊誠に話した。巴里。千鶴はそれを聞いただけでうっとりとなる。美しい花の都。そんな風に土方から聞いている。千鶴の大切にしているレースのリボンは、殆どが巴里で作られたものだった。このような綺麗な硝子の管も。なんて素敵なんでしょう。

 子供は、一気に瓶にあったレモネードを飲み干してしまった。そして、剛志が起きたらまた管を使って弟と飲んで良いかと千鶴にねだっている。

「さあ、剛志はまだ小さいから管を吸えるかしら」

 千鶴は、縁側からの日の光にかざしながらうっとりと硝子の管を眺めていた。左之助は、千鶴に、「なあ、千鶴」と話しかけた。

「俺等をみて、どう思う」

 千鶴は振り返った。左之助は不知火と並ぶように胡坐をかいて笑っている。

「どうって」
「俺等、二人がこうして並んでいるとどう見える?」

「お二人がですか。お元気そうに見えます」
「ああ、元気なのは元気だ。俺等はどんな仲にみえる?」
「どんな……。お仲は良さそうにみえます」

「じれってえな。オレとこいつは、夫婦にみえるか?」

 不知火が痺れを切らすように千鶴に訊ねた。千鶴は目を丸くしている。

「いい仲にみえるかってこった。恋仲に」

 もうこの時点で、左之助が肩を揺らして笑い出していた。「恋仲ですか?!」と千鶴が心底驚いた顔で訊ね返した。

「みえるか? 恋仲に」

 千鶴は目を見開きながらも、二人をまじまじと見つめていると。

「問い詰めてどうする? 千鶴、見る奴によっちゃあ。俺等はそう見えるみてえだ」

 左之助は愉快そうな様子で千鶴に話してきかせた。

「ずっと日本を離れてから上海、香港、暹羅、満州、お露西亜、欧羅巴を廻って来た」
「巴里に着いた時だ、街は五月で花が咲き乱れてて、そりゃあ綺麗でな」
「昼間はずっと、おのぼりさんみてえに二人で街中を歩き回った」
「喉が渇いたって、奴さんがいうもんだから【カフェエ】で座って飲み物を頼んだら」
「給仕が、硝子のカップに、ストローを二本差したのをどんと真ん中に置きやがった」

「どうぞ、二人で仲良く飲んでくれってな」

 左之助は肩を揺らして笑いながら、そう言うと。不知火が、「冗談じゃねえぜ」と笑っている。

「どこに行ってもそうだ」

「ひでえのが、宿だ。セーヌ川の河畔にホテルが建っていて、窓から見える景色が見事だと評判だった」
「商談の相手にすすめられて、そこで部屋を頼んだ」
「通された部屋は、確かに見事な造りで豪勢なもんだ」
「だが、寝室には王様が眠るような、でかくて立派な寝台。一台っきり」

「仲良く、お二人でおやすみくださいってな」
「オレは、寝台二台って、ちゃんと指を二本立てて頼んでも、この始末だ」

 仕方ねえ、巴里では諦めて仲良くでかい寝台で眠った。そう言いながら、左之助は笑っている。その隣で、「冗談じゃねえぜ」と不知火は不貞腐れていた。まだ、ぽかんと口を開けたまま何も言えないでいる千鶴に、畳みかけるように左之助が訊ねた。

「そこで本題だ。千鶴」
「俺と不知火が、西洋じゃあ「夫婦」に見えるとして。どっちが惚れてるように見えるかだ」

 もう、千鶴は質問の内容も理解できないといった表情で茫然としている。

「原田がオレに惚れてるのは、一目瞭然だ」

 断言するように不知火が言い出した。「ちがう。お前が俺にだろ」と憤慨するように左之助が言い返している。一体。このお二人は……。千鶴は、二人の言い合いをずっと黙って見ていた。

「オレがいつてめえに傅いた」

 会話に置いてきぼりの千鶴に思い出したように不知火が話しかけた。

「ま、巴里では夫婦同然の扱いってこった。だが同じ欧羅巴でも倫敦は違った。あそこは紳士の国だ。飲み物は別々、部屋も別々だったな」

「それを、こいつは酒を持ち込んで、俺の部屋から一向に出て行かねえ。しまいには俺の部屋の椅子の上で眠っちまって」

「そんならって、次に移った紐育では、一緒の部屋で寝台二つで寝泊まりだ」
「亜米利加では、俺らは兄弟だってことにした」
「どこがどうなってんだか、こいつが兄貴で、俺が弟だ」

 今度は左之助が不貞腐れた風に千鶴に説明している。千鶴、俺等のどっちが兄貴にみえる? 俺だよな。なにを言っていやがる。オレ様に決まってるだろ。二人は互いに譲らずに言い合い続けていた。その内に、千鶴はくすくすと笑い始めた。

「恋仲かご兄弟かは、わかりませんが。お二人が大層仲がいいことは、どなたが見ても……」

 そう言って、千鶴は両手で口を覆って肩を揺らして笑い出した。

「冗談じゃないぜ。まったく」左之助が微笑みながらそう言っている。

「おっさん二人が旅すると、異国ではとんでもねえ目に遭う」

 こうして、左之助と不知火と笑って語らいあう内に斎藤が戻り、久しぶりの友との再会に大喜びした。夕餉を皆で食べて、品川で宿をとっているという二人は夜更けに帰って行った。

 

*****

 

明治十二年師走

 その歳も押し迫って来た頃、千姫から便りがあった。

 朝早くに洗濯を終えた千鶴は、ふと玄関の傍の寒椿が大輪の花を開いているのに気がついた。濃い桃色の花は、千鶴に話しかけるように揺れたように見えた。ゆっくりと、美しい花は、宙を降りてくる。千鶴は、両手で花を受けると輝く花は、文に変わった。

 藤田家御中

 畏まって書かれた封書きを見ると、千鶴は居間の明るい場所に座ってから文を開いた。

 五十五夜ノ義申し伝え

 時、明治十三年五月五日
 藤田家嫡男豊誠殿、成鬼を祝い
 東国雪村郷にて五十五夜の儀式執り行い候

 依って来る五月十三夜月に郷入りし
 水桝、水榊の儀式
 執り行う儀了承仕られ候

 田村家頭領 田村鷹司

 申し伝えと一緒に千姫の文が続いた。

 前略ごめんください。

 五十五夜の儀は来年五月五日に決まりました。
 五月三日の十三夜に準備の儀式もあるから
 その日の朝にお迎えの御所車を用意します。

 豊誠ちゃんの烏帽子親を決めなければなりません。

 西国の風間千景が烏帽子親に名乗り出ています。
 わたしも、他の国の首領も、異議は立てていません。
 然し、豊誠ちゃんの後ろだてとなる方が決まって居たら、
 その方に烏帽子親となって貰うようにお願いしてください。

 豊誠ちゃんの名づけ親は、斗南にいらっしゃるのかしら。

 もし、その方の出席が叶うなら、五月三日に。
 水桝と水榊の儀式は、雪村の郷独特のものだと聞いています。
 私にとって初めての儀式でとても楽しみです。

 八瀬でお預かりしている大通連。大切にお持ちします。
 千鶴ちゃんの小太刀とようやく合わせる機会が来ることを
 国中の鬼の一族が悦んでいます。

 寒さも厳しい折、くれぐれもお身体に気を付けて。
 何か必要なもの、わからない事があれば知らせてください。

 儀式のお知らせをとりあえず同封します。

 かしこ
 千

 千鶴は、仕事から戻った斎藤に千姫からの文を見せた。五月の儀式には、一週間休みがとれるようにすると云って千鶴を安心させた斎藤は、烏帽子親に風間千景が名乗りを上げていると知って、一瞬眉を上げた。

 風間とは先々の戦で刃を交えた。互いを殺し合おうと。薩摩に与する風間は敵であり、千鶴を手の内から奪い去ろうとする者だった。白河での戦い。あの夜以来、風間と言葉を交わしていない。だが、戦が終わった後、風間は千鶴の生まれ故郷である雪村の郷を復興させた。焼き討ちにあって荒廃した土地を一から整え、何年もかけて豊かな山郷に戻したという。千姫から伝え聞いたところでは、風間は私費を投じて東国の鬼の郷の再建に心を尽くした。

 千鶴は、斗南から初めて風間に便りを出した。郷の復興へ尽力して貰えたことのお礼を伝えたいと、式鬼を送るのは自信がないからと文をしたためて郵便で送った。風間からの直接の返信はなかったが、代わりに天霧九寿から書状が届いた。天霧は、おそらく斎藤にも文を読める機会をと思っていたのだろう。毎回、式鬼が届けて来たものは紙の書状だった。

 風間が豊誠の烏帽子親に。

 人の世に育つ息子は、鬼の世界には疎い。鬼の国を統べる者として、西国の鬼の棟梁が後見人になるのは安心はできる。だが、豊誠には斎藤以外にもう一人の父親と言ってもいい存在の土方がいた。もし、東京で息子の元服を祝うなら、迷いなく土方に烏帽子親となって貰うことだろう。斎藤は千鶴に、土方に息子の烏帽子親になって貰いたいと思っていると応えると。千鶴も私もそう思っていましたと言って微笑んだ。

「土方さんには、俺から頼んでみよう。忙しい土方さんに雪村の郷までご足労願うことになる」
「出来れば、お多佳さんや美禰子ちゃんもご一緒に。そう伝えてくださいな」

 こうして、斎藤と千鶴は、豊誠に相談するまでもなく、烏帽子親には土方になって貰おうと決めてしまった。翌朝、学校に行く為に家の玄関に立った息子に、千鶴は来年の五月に雪村の郷で、あなたの元服式をすることに決まったと伝えると。息子は、「はい」と返事をしただけだった。果たして息子が「元服」の意味を解しているのかもわからない。でも、雪村の郷に空の家の一家を招待するのなら、息子は大喜びするだろうと思った。白い息を吐きながら、元気に門の外に走って行く息子の後ろ姿を見ながら、もう来年には豊誠が子供ではなくなってしまうと思うと、形式的なことながら、千鶴は少し寂しい気持ちになった。

 

*****

 

明治十三年春

 診療所に千姫が現れた。

 春の光のような明るい笑顔で、「千鶴ちゃん」と掛け寄って来た客人と千鶴は手と手を取って数年ぶりの再会を喜びあった。

 千姫は、壺装束で美しい袿を纏い、市女笠の虫の垂れ衣から覗く琥珀の瞳はきらきらとしている。背後に立つ君菊も嬉しそうに千鶴にお辞儀をした。千鶴は、二人を居間に招きいれると、次男を紹介した。千姫は自分から子供に挨拶をした。

「剛志ちゃん、はじめまして。八瀬の千です」

 優しく抱き上げられた息子は、千姫の髪飾りの組紐に手を伸ばしている。

「可愛い。目が千鶴ちゃんにそっくり」

 子供は、君菊にも抱っこをされて嬉しそうに笑っている。お茶を煎れた千鶴は、長男の豊誠は学校から昼過ぎに戻ると教えると、二人はすぐに皇城に戻らなければならないからと残念がった。君菊に促されて、千は「大切なことを先にね」と言って、御所車から下ろして持ち込んだ荷物を開いて行った。

「今日は、儀式装束を一式持って来たの」
「豊誠ちゃんの水干」
「これは十三夜の儀式で纏うの。年少装束はこれが最後になるわ」
「これが直垂。五十五夜の儀式で纏います」

 千鶴は目の前に広げられた美しい衣に目を奪われた。水干は薄い水色で、絹の光沢に水が流れるような織模様が見えた。直垂は、深紫に藤田家の家紋、水面を模した織模様にところどころに大太刀が描かれてあった。

「丈を豊誠ちゃんに合わせてみて。水干が小さすぎたら知らせてね」
「直垂は、十三夜に雪村の郷でお直しするから」

 千鶴は、お祝いにと見事な衣装を用意してくれた千姫に感謝の言葉しかない。

「これは、八瀬の郷からのお祝い。烏帽子よ」

 見事な「こきむらさき」、鬼の棟梁に古より許されたもの。東国の鬼は古来天皇家を御守りした一族。この色の冠を頭することを誇りに思ってね。千姫は恭しく帽子を外からの光にかざしている。千鶴はこうやって装束ひとつにしても、鬼の世界の歴史を知らず、習わしを一切身に付けていない事を身につまされた。そして、あとふた月の内に迎える儀式に参列するとき、どのように自分や夫の斎藤が振る舞えばいいのか分らず不安に思った。

「千鶴ちゃん、だいじょうぶよ。御両親の千鶴ちゃんたちは、儀式に参列するだけだから」「烏帽子親が一番忙しいかも」
「ご主人は洋装でも大丈夫。紋付袴。ええ、正装なら」

「打掛が着たければ、千鶴ちゃん、八瀬で用意するわ」

「ねえ、せっかくだから。雪村の郷の儀式はもう何十年も行われてなかったんだもの。古式ゆかしく執り行うことを皆が望んでいるから」
「髪も、垂髪にして。鬢削ぎに」

 傍で、君菊が袖で口元を隠すようにくすくすと笑っている。千姫が「なにが可笑しいの」と不貞腐れたように返した。

「いえ、姫様が。余りにも張り切られておられますゆえ」
「千鶴さまに、そのような装束を。ご無理なことを押し付けては」

「だって、五十五夜の儀式は随分長くなかったことなんですもの」
「お菊も私も、生きている内にこんなにおめでたい日を迎えられることが、どんなに嬉しいか」

 千鶴は二人のやり取りを聞いて、自分も打掛を纏いたいと言うと千姫は大層喜んだ。綺麗よ。千鶴ちゃん。御主人が洋装でも合うわ。それじゃあ、また豊誠ちゃんの水干の丈合せの時に、打掛も持ってくるわね。千姫は嬉しそうに帰り仕度を始めた。

 千鶴は、忙しい千姫がこうして診療所まで足を運んでくれたことに重々にお礼を言った。御所車に乗り込もうとした千姫が、「そうだ。肝心なことを忘れてたわ」と言って振り返った。

「千鶴ちゃん。烏帽子親に風間がなるってきかないの」
「もう豊誠ちゃんの後見人に、【西村義三さん】って知らせてあるのに」

「東国の棟梁の烏帽子親が人間なのが承服できぬ。この一点張りでね」
「風間は本当に困ったもの」

「それでね、千鶴ちゃん。五十五夜の儀式は、土方さんと風間の二人に烏帽子を授ける役をお願いすることになるわ」
「二人が烏帽子親になるの」
「豊誠ちゃんは、人間と鬼の両方の世界で生きる事になる。これも必要な事だと思っているわ」

 千鶴は千姫の言う事が最もだと思った。でも、京で暮らした頃の土方と風間の対立の事を思うと、二人が同じ席に一緒にいる事が想像もできない。それは、斎藤が風間と雪村の郷で対面する事よりも、頭の中で思い描くことが困難だった。じっと言葉なく考え込むような表情を見せた千鶴を、千姫は心配そうに見詰めていた。

「千鶴ちゃん、風間には傍若無人な態度は一切取らせないようにする。大丈夫よ」

 千姫は千鶴の手を両手で包み込むようにしっかりと握って微笑んだ。

「風間は、雪村の郷を復興させた立派な鬼であることに変わりないわ。東国に鬼の棟梁が立つ事は、風間が強く望んでいることなの。礼節を重んじる彼のことを、信じてあげて」

 千鶴はしっかりと頷いた。まだ小さな子供を国の主に立てる事も鬼の世界の習わしを知らない事も全てが不安な中で、こうして千姫や風間が後ろ盾になってくれることは有難い。

「至らない事が沢山あると思いますが、お千ちゃんや風間さん、鬼の世界の皆さんにはこれから大変お世話になります。本当にありがとう」

 ——どうか、豊誠のことをよろしくお願いします。

 千鶴は深々と頭を下げた。嬉しそうに千鶴の手を持って千姫が頷いた。二人は、近々打掛を持って出向くからと言うと、御簾の向こうから手を振り一瞬で目の前から御所車は消えて行った。



つづく

→次話 明暁に向かいて その48




(2019/11/08)

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