是が非でも(後編)

是が非でも(後編)

FRAGMENTS 15 冬

 斎藤は、診療所の二階に急いで戻り、道具袋から真剣と木刀を手に取った。上着を掴んで階下に下りると、出勤したばかりのスタッフが廊下に散乱した点滴スタンドを片付けていた。診察室のドアを開けて中に入ると、伊庭がナースを診ていた。

「随分と怖い想いをさせたね」
「陽子さんが冷静に対応してくれて助かった」
「ありがとう」
「手首も腕も大丈夫です。何かあれば直ぐに知らせてください」
「米澤先生が来たら、念のためにレントゲンを撮って貰うように」

 陽子さんと呼ばれているナースは、斎藤も以前から面識があった。昔から診療所に勤めているベテランの看護士だった。伊庭は、次に斎藤を診察すると言って、右腕の点滴の針を抜いて、腕に金属が残っていないかを確かめた。

「少し静脈が傷ついている。痛む筈だ」

 斎藤は首を横に振った。実際、痛みはあるが、それは痛みと感じるより自分の身体のどの部分の神経や静脈が刺激されているのかを全身の信号が体内を駆け巡っているように感じていた。自分の身体に受けた損傷は、物凄い勢いで修復している。これは感覚的なもので、斎藤は己の身体を別の自分が常に分析しているような気がしていた。伊庭は、ナースに斎藤の右腕を消毒して包帯をするように指示した。他に打撲はないか確認した伊庭は斎藤に、「特に大事はない」と言って診察を終えた。

「せっかく彼女に付き添って貰っていたのに、すみません」
「千鶴ちゃんをこれから迎えに行ってきます」

 伊庭は左腕を庇うように立ち上がった。

「陽子さん、スタットコールをお願いします」
「米澤先生が来たら、外部侵入者を防ぐように」
「スタッフ全員で入院病棟のケアを」
「僕はセンターの看護室からクランケを移動させて来る」
「隔離病棟の準備をお願いします」

 斎藤は、ずっと診察室の出口に立ったままだった。

 ナースの陽子が、壁の端末を操作して「スタットコール、スタットコール」と呼び掛けた。端末のライトが次々に点滅している。

「先生、全員連絡完了です」

 きびきびと動くナースとスタッフの傍で、伊庭はPCの画面を確認している。間もなく、青い手術着にジャケットを羽織った米澤医師が診察室に飛び込んで来た。伊庭はスタットコールの内容を手短に説明すると、米沢医師は素早く白衣に着替えて入院病棟に走って行った。ドア口に立つ斎藤の姿に気が付いた伊庭は、斎藤を診察室から送り出すようにドアを開いた。

「彼女をここに戻します。落ち着いたら連絡をします」

 そう言って、斎藤を廊下に送り出した。斎藤は、もう一度閉じられたドアを開けて診察室に入った。伊庭は、白衣とシャツを勢いよく脱いでいた。ナースがいそいそと注射の準備をしている。伊庭の左腕は二の腕が腫れあがり、肱から下がだらりと垂れ下がっていた。

「僕が打とう」

 ナースから注射を受けとった伊庭は、椅子に掛けると自分で左肩の根本に注射を打ち込んだ。斎藤から苦痛に顔をゆがめている伊庭の横顔が見えた。その間にナースが包帯や添え木と三角巾を揃えて、痛み止めを打ち終えた伊庭の垂れ下がった腕を支えるように固定した。

「応急処置でいいよ」
「あなたが思う程、痛みはないから」

 伊庭は優しくナースに指示をして肩から腕を固定して貰った。ナースは真剣な表情で処置をしている。伊庭は、立ち上がった時に間仕切りの影に斎藤が立っているのに気付くと、急いで服を着直した。

「俺も、行きます」

 斎藤が木刀を持って立っている姿を見て、伊庭は暫く何も言わないままでいた。上着を羽織った伊庭は、斎藤と勝手口から駐車場に出ると運転席のドアを開けた。斎藤が「俺が運転します」と言って運転席に座った。助手席に座った伊庭が、研究センターの場所をナビゲーションで表示させると、「センターはまだ開設したばかりで、入口も関係者しか出入りができない」と説明した。

「僕が院内に入ったら、斎藤くんは車で待機していて欲しい」

 直ぐに、研究センターに車は到着した。地下の駐車場から看護施設の入り口が見える。伊庭は、車のトランクを開けると、自分の木刀ケースを取り出した。斎藤は、バックミラーに映った伊庭が腕を庇いながら歩いていく姿を見て、自分も真剣ケースを持って追いかけた。

「俺も行く」

 無言で歩く伊庭の横について歩いて行った。暗いゲートには、警備員も居らず、そのまま院内に入って行くことが出来た。広い病院のどこに千鶴が居るのかもわからないまま、二人は動いていないエスカレーターを駆け上がって行った。フロントらしい場所が見えたが、そこも無人だった。院内の入院病棟に向かった。ナースステーションに灯りがみえた。人がいる。ここに千鶴が搬送されたのだろう。

 伊庭は、ナースステーションの職員に名乗ると、別のスタッフが奥から出て来て用件を確認した。

 今朝入院した患者
 雪村診療所からの転院
 雪村診療所の伊庭八郎医師

 スタッフは、今ご案内しますと言って、伊庭と斎藤を個室に通した。千鶴は部屋に独りでいた。点滴をされたまま眠っている。伊庭は、転院の状況を確認したいとナースに申し出た。

 ナースは主治医が席を外しているからと言って、伊庭に「お待ちください」と言ったままスタッフルームに消えて行った。

 伊庭は千鶴の眠る部屋に戻ると、そのままベッドのストッパーを外した。木刀を千鶴のベッドの下に差し込むようにして、斎藤を促すと部屋のドアを開けてもらい、廊下にベッドを押し出した。

「行こう」

 伊庭は、冷静な様子で斎藤にベッドを動かすように指示をした。病棟は大きな回廊のようになっていてスタッフの居ない暗い廊下を通ることが出来た。真ん中に大きなホールが見えた。搬出用の大きなエレベーターがその手前に見えたが、ずっと3階で停まったままだった。伊庭は、エレベーターの壁のボタンの傍にある装置を暫く操作していたが、一向に動く様子がなかった。斎藤は、千鶴の不在にナースが気づく前に移動しなくてはと思った。嫌な予感がする。そんな風に思った斎藤は、ゆっくりと千鶴の横たわるベッドを、ホールの隅の暗がりに移動させた。

(ここなら、万が一ナースが来ても見つからない)

 そんな風に思った時だった、急にホールのエレベーターが動いて、階上から誰かが下りて来た。暗いホールにエレベーターのドアが開くと、そこから光が射した。そこには、白衣を着た男と風間千景、そして天霧九寿の姿が見えた。斎藤は、咄嗟に千鶴のベッドを隠した壁に身を隠した。

 目の前を通る風間が一瞬こっちを見た。斎藤は息を凝らして真剣を握りしめたが、一団はこちらの気配には気づかずに通り過ぎて行った。風間がナースステーションに向かった姿を見て、斎藤は搬出用エレベーターの入り口に戻った、伊庭はようやくエレベーターを動かせる事が出来たらしく、斎藤に目配せをして二人で千鶴のベッドを再び、暗がりから動かそうとした。

「貴様ら、どこへ行く」

 風間がホールに仁王立ちになっていた。暗がりに深紅の瞳が光っている。斎藤は、ケースから真剣を取り出して前にでると。背後の伊庭と千鶴を庇うように立って、鯉口をきった。

「千鶴を診療所に戻す為に来た」
「一切邪魔をするな」

 斎藤が刀を抜いて構えた。暗がりに青く刃先が光る。風間はそれを見下ろすように背筋を伸ばし、「ふっ」と嘲るような息を吐いた。

「真剣で脅しているつもりか、試衛館の犬が」
「どこからでもかかって来るがよい」
「お前の剣など、片目、片手で足りる」

 斎藤は風間の次の言葉を待たなかった。一瞬で前に踏み込んで風間の喉元に剣をあてた。一寸の隙もなく、刃は相手の喉仏に触れている。風間は微動だにしなかった。ずっと長い睫毛を伏せるようにして斎藤を睨んでいる。斎藤も下から睨み返した。濃い蒼い瞳には焔が立っている。

「俺は刃をこのまま押し込む力がある。あんたが声を上げる前に」
「命が惜しければ、そのまま下がれ」

 絞り出すような声でそう言うと、左足の先をじわじわとにじり寄せた。全身の血がたぎる。全ての神経が刃先に集まるような感覚。斎藤は、一撃で相手を殺せると実感した。背後の伊庭が、息を殺して見ているのが判った。斎藤は剣先に集中しながら、背後の二人の動線を開けるように風間に身体を寄せた。その時、風間の足先が一瞬動いた。斎藤の踏み出した左足の脛を蹴るようにして後ろに仰け反ると、一瞬で剣先を躱してにじり下がった。青い閃光が走った。斎藤は、上段から袈裟懸けに剣を振り降ろし、風間をホールの反対側に追い込んだ。

 伊庭が勢いよく、千鶴のベッドを引いて搬出用エレベーターに運んだ。方向転換させるのに、怪我をしていない腕で体当たりするようにベッドを旋回させた。その間、斎藤は剣を持った手首を風間に取られて、身体を突っぱねて応戦していた。手首を反対側に捩じられ、刃が斎藤の右頬に迫る。

「右目を抉ってやろう」
「俺の握力は貴様より20キロ上回っている」
「キネシスで判っただろう」
「筋力、神経系、骨格全てにおいて俺が上回っている」
「お前など、赤子の指を捻るようなもの」

「いいか、千鶴はいずれ俺のものになる。このセンター開設と一緒に婚約式も執り行う」
「俺の身内同然の千鶴を許可もなく、日本刀を振り回して病院から連れ出したとあれば、父親の雪村鋼道も黙ってはおらぬ」
「伊庭とやらも同様、捉えて警察に突き出すことも可能だ」

 その直後だった、背後から伊庭が八双の構えから思い切り振りかぶって、木刀で風間の首の後ろを打った。風間は、突然の不意打ちに斎藤の手首を掴んでいた手を離した。伊庭は、容赦なく、振り返った風間の水月に思い切り突きを入れた。風間は息が止まったようなうめき声を上げて、そのまま前のめりになった。片手剣での凄まじい突き。伊庭は片膝をついたまま歯を食いしばっている。

「エレベーターに早く」

 伊庭の声を聞いて、斎藤は刀を鞘に仕舞って走った。千鶴のベッドを滑り込ませるようにエレベーターに乗せると、伊庭が左腕を抑えるようにして走ってきた。風間が追いかけてきたが、その背後から現れた天霧が風間を呼び止めた。伊庭が無事に乗り込み、ドアが閉まって階下に下りる事が出来た。伊庭は壁に背中をつけて大きく肩で息をしていた。

「彼女をベッドから下ろして車に運んでもらいたい」

 伊庭と斎藤は地下に着くと出口の段差までベッドを押しだした。斎藤は、千鶴を抱きかかえた。伊庭が点滴を持ち上げながら千鶴の様子を見ている。

「彼女は大丈夫だ」

 伊庭の車に毛布に包んだ千鶴を乗せると、伊庭は器用に片手で点滴をドア上のグリップに引っ掛けた。斎藤は、ベッドから木刀と刀を持ってくるとトランクに仕舞って、急いでエンジンをかけた。エレベーターホールの向こうから物音がしていた。追っ手か。斎藤は、車を発進して思い切りアクセルを吹かせた。ゲートは無人で、そのまま突き抜けることが出来た。

 掴まった時は、その時だ。

 有難いことに道路は空いていた。伊庭の車はよく走る。背後が気になったが、追っ手がついている様子はなかった。診療所に到着すると、ナースとスタッフが一丸となって、千鶴の受け入れ態勢を整えていた。斎藤がストレッチャーに千鶴を横たえると、直ぐにナースが二階の病棟に運んで行った。伊庭の手当ては待機していた米澤医師が行った。左腕は脱臼と上腕の腱が断絶していた。伊庭は千鶴の加療をし終えるまで診療所に留まった。千鶴は微熱で容態は安定している。点滴には鎮静剤が投与されている事が確認できた。

「恐らく、あと数時間は目覚めることはないだろう」
「症状は良くなっている」
「胸の音も朝よりいい」

「今夜が峠だ。明日には熱も下がるだろう」
「このまま安静に療養すれば、数日で起き上がれるようになる」

 斎藤が安堵した表情になったのを見て、伊庭は微笑んだ。

「君には迷惑をかけた。この騒ぎは全て僕の責任だ」
「危険な目に遭わせてしまった」
「看護センターから彼女を連れ帰ったのは、僕の判断だ」
「君は、面会しに来ただけ」

 そう口裏を合わすようにと、一方的に話す伊庭に斎藤は首を横に振った。

「風間とは俺が話をつけます」
「千鶴の部屋に行っても障りなければ、目覚めるまで傍についてやりたい」
「わかった」
「君のケアをしてなかった。すまない。怪我はなかったかい?」

「君も横になった方がいい。簡易ベッドを用意しよう」
「俺はいいです。先生こそ、腕を」
「……」

 伊庭は、悲しそうな表情でじっと斎藤の瞳を見詰めた。二人で黙ったまま入院病棟の千鶴の部屋に入った。伊庭は、千鶴が眠る様子を眺めながら呟いた。

「情けない……」
「僕は彼女を守ることが出来なかった」

 斎藤は首を横に振った。

「……もっと強くならないと」

 伊庭は悔しそうに呟いた。

(俺もだ、俺もそうだ……)

 斎藤は心でそう思ったが、何も言葉が出て来ない。肩を落として、部屋から出て行った伊庭の背中を見て思った。病気の千鶴を無理矢理に奪われた。風間の道理は千鶴の父親との繋がりだ。それは明らかだ。研究センター。巨大な施設。あそこに風間は千鶴を囲いこむつもりなのだろう。

 風間は千鶴との婚約を父親に申し出た。

 父親の雪村綱道を取り込み、千鶴を包囲する。
 研究所のスポンサー
 周到な手段だ。
 千鶴が二十歳になるまでのこれから二年間。あらゆる手立てで攻めてくる。
 風間は優秀なビジネスマンだ。油断はならねえ。

 土方先生が言っていた事を思い出す。センター開設と婚約式を同時に。全ては風間の計画通りか。キネシストレーニングも親善仕合の出場も。道場経営への協賛、総司のアメリカ行きへの援助。試衛館も取り込むつもりなのだろう。全て辻褄が合う。

 斎藤は拳を握りしめた。憤りで身体が震える。

 落ち着け。

 斎藤は、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着けた。頭に巡るのは、去年の春休みの会津での事。現地で土方から風間がわざわざヨーロッパまで出向き、千鶴と婚約したいと正式に父親に申し出たと知らされた。それを聞いた時は、まさかと思った。だが、去年の夏に千鶴の父親が帰国して以来、風間は頻繁に千鶴の前へ現れるようになった。

 鋼道さんが戻ったら正式に
 千鶴と付き合うことを申し込め
 綱道さんも娘が本気で惚れている相手がいたら
 札束と交換して風間にやるような事はしねえ

 近藤さんが、【武士の誇りを持って】振る舞えってな

 近藤先生に会津行きの許可を貰ったことで、俺は十分だと思っていた。考えたら、俺は正式な挨拶をずっとしていない。千鶴との事を認めて貰う必要があったのに……。

 会津のことだ。ここはお前にとって特別な場所だ
 それを忘れずにいたら、お前は大丈夫だ

(会津のことを忘れずにいたら……)

 土方の言葉を思い出しながら、千鶴と過ごした日々を思い出した。蘇る記憶の断片。互いに離れないと誓い合った。

 初めて口づけた夜。
 初めて千鶴を抱いた夜。

 目まぐるしく、記憶が重なっていく。

 あれは、いつの事だ。
 もう肌寒さを感じる夜だった。

 温かい旅館の一室で、千鶴を抱いたのは。
 春先の霙が降りそうな夜

 秋の虫の声が聞こえる中で
 しっとりと千鶴の髪は濡れていた

 抱きしめるだけで、全ての刻が止まった。

 温かい唇
 震える肩を抱き寄せて
 千鶴の長い睫毛
 華奢な肩
 細い腰
 やわらかい肌

 あなたについて行きます。
 ずっとお傍に
 決して離れません。

 そうだ。俺等は契った。互いに添い遂げようと固く誓って。

 最後まで
 絶対に

 目の前に横たわる千鶴から、いつもの甘い香りがしている。

 そうだ。二人で誓い合った。
 どんなことがあっても離れないと。

 腹の中に渦巻いていた怒りは消えていった。何を恐れる必要がある。千鶴を取られてなるものか。あの巨大なセンターを楯に風間が立ちはだかったとしても。

 ——どんな事をしてでも守ってみせる。

 斎藤は心に決めた。手を伸ばして千鶴の手をとった。温かい小さな手。

 ポケットのスマホの着信通知が点滅しているのに気付いた斎藤は、そっとスマホを手に取って確認した。総司から何度も着信が入っていた。

 おはよう。
 寝坊した?
 先に行ってる。

 電話に出ないから
 はじめ君の家に電話したよ。
 千鶴ちゃんのこと、お姉さんから聞いた
 お大事に

 今日の夕方の稽古くる?
 ジムは?
 僕一人で赤坂行くの?
 風間と二人きりはNG

 総司からのメッセージに返信した。

 すまん、診療所にまだいる。
 今日はジムにも道場にも行けない。

 送信ボタンを押した時、ボイスメッセージが入った。

 斎藤、土方だ。
 急ぎ、確認したいことがある。
 連絡をくれ。

 斎藤は、土方に電話をした。

「忙しい所をすまない。総司のことでお前に訊きたいことがあって電話した」
「総司は稽古の合間に、何か薬みたいなものを飲んでる様子はないか」

「滋養強壮剤みたいなもんだ。小さいアンプルか、ボトルに入った液体」
「そういったものを総司が服用していないか、お前に確かめたくて」

「総司に何かあったんですか?」
「いや、そういう訳じゃない」

 土方は多くを語らなった。土方は総司がLV研究所に出入りしていることを知って心配しているという。LV研究所は、薄桜学園の元保険医の山南が新しく開設した研究所で、医薬部外品の滋養強壮ドリンクを製造販売している。山南は斎藤が学園を卒業した春に学園を退職した。噂では、学園に無断でサプリメントの製造販売をしていた為、実質は解雇されたということだった。LV研究所は、学園近くの賃貸ビルの一室にあった。山南が学園の生徒やスタッフを顧客にすることを学長の近藤は危惧しているという。

「もし総司がLV研究所の製品を服用しているなら、検査を受けさせる必要があってな」
「親善仕合もだが、アメリカでの大会にも出場が出来なくなる可能性がある」

 斎藤は衝撃を受けた。総司がドーピングで引っかかるなど。そんな事が起きる筈はない。

「俺の知る限り、総司は薬のようなものを飲んでいる様子はないです」
「確かにキネシストレーニングは厳しいです」
「でも、体調が悪いのはむしろ俺の方で」
「ずっと総司には迷惑をかけています」
「お前は大丈夫なのか?」
「はい、トレーニングには、大方慣れてきています」
「総司は駅前のジムでトレーニングを受けていた頃の方がきつかったと言っています」
「それはいつの話だ?」
「一年前です。去年の今頃、ちょうど関西に遠征に出てた頃です」
「そうか。わかった」

 電話の向こうの土方はそれきり何も話さなくなった。斎藤が「もしもし、もしもし」と何度か繰り返すと、「ああ、ありがとう」と言って電話を切ろうとした。

「お前が忙しいのは承知だが、明日道場に来た時に連絡してくれ」
「直接会って話したいことがある」

 土方はそれ以上何も話さずに電話を切った。電話の向こうの声の様子から何か深刻なことが起きている気がしてならなかった。千鶴の事、風間の事、総司の事、キネシストレーニング、研究センター、親善仕合、総司のアメリカ大会出場。ドーピング検査。気掛かりな事ばかりだ。

 神経の昂りは様々な憶測を生む。一体何が起きている。確かな事はなんだ。目まぐるしく頭の中を物事が駆け巡る。混乱する。全てが記憶の断片と一緒に……。

 立ちはだかる男の影
 深紅の瞳

 ギヤマンの小瓶

 守る者
 血の匂い

 確かな事はなんだ。
 俺にとって確かな事。

 答えはそこにあった。温かい千鶴の手を握っていると実感する。この愛おしい存在を守ろう。どんな事があっても。どんな事をしてでも。

 臆することはない。

 鳩尾にあたたかい気持ちが湧きおこる。それが全身に拡がる。安らかに眠る千鶴の手のぬくもりと、優しい甘い匂いに包まれて。

 絶対に離さん。

 斎藤は、もう一度強く包み込むように千鶴の手を握った。



つづく

→次話 FRAGMENTS 16




(2020/03/15)

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