新たな決心

新たな決心

FRAGMENTS16 冬

赤坂のジムにて

「御帰りになる前に、『ル・シエル』へお立ちよりください」

 ジムでのトレーニングが終わって、ロッカールームのキーをフロントに返した時、総司はフロント係に階上にあるVIPルームに行くように言われた。

 係りに案内された部屋は全面が窓でパノラマビューになっていた。明るい室内の真ん中の白いソファーに風間千景が座っていた。シャワーから上がったバスローブ姿のまま、風間は近づいた総司に椅子に掛けるように言うと、傍にいたラウンジ係りに部屋の反対側にあるカウンターからプロテインスムージーを運ばせた。

 ガラスのトールグラスに入った美しいグリーンの飲み物が置かれ、ストローが添えられた。テーブルの上には、クリーム色の封筒が二枚置かれてあった。宛先は、「沖田総司様」「斎藤一様」と墨書きされている。上質な紙の封筒を開けるように言われて、総司はゆっくりと封を開いた。

 婚約式へのご招待

 中のカードの表紙には美しい文字でそう書かれ、「風間家」「雪村家」の連名になっている。

 拝啓、三寒四温の候、貴殿にはますますご清祥のことと、お喜び申し上げます。

 挨拶文の後に「婚約式を執り行う」「婚約披露パーティ」という文字が見えた。三月二十五日、慶王プラザホテル、チャペル、鳳凰の間……出欠……。総司は目をざっと走らせて、最後に「風間千景、雪村千鶴」と書かれているのを確かめた。

「ちょうどアメリカから戻った頃だろう。試衛館道場の門人に来て祝ってもらえれば、千鶴が喜ぶ」

 風間は自分の前に置かれたスムージーのグラスを手にとって、微笑みながらストローに口をつけた。

「斎藤にお前から手渡すとよい。近藤と土方にも招待状は送るつもりだ」

「当日は、研究センターの関係者も出席する。これは小規模な内内の祝い事だ。気楽に参加してもらえればよい」

 風間のよく通る声は、静かに流れる環境音楽に乗るようによく響いた。満足そうに微笑む風間の頭髪は窓からの明るい光に溶けるように金色に輝き、逆光になっている顔の輪郭の中に、同じように輝く長いまつ毛の奥に赤い瞳が見えた。総司は無表情のままゆっくりと、招待状を風間につき返した。

「こんなものを見せて。なんのつもり」
「用はこれだけ?」

 総司は立ち上がって、出口に向かった。

「近藤夫妻に仲人を頼むつもりだ。剣道協会関係者も招待する。道場にとっても、いい披露目になる」

 近藤の名前を聞いて、一瞬総司の動きが止まった。だが、総司はそのまま振り返らずにVIPルームから歩き去った。


****

土方との面会

 総司が赤坂のジムに居た頃、斎藤は薄桜学園に土方を訪ねていた。学園受付の廊下を出た所で、土方から教務室に来るようにと云われて部屋に入ると、そこには山崎烝がいた。

「久しぶり」

 窓側のパイプ椅子に腰かけた山崎は、斎藤に笑いかけていた。山崎に会うのは高校の卒業式以来。その変わらず元気そうな姿に斎藤は微笑んだ。土方は、手に持っている黒いファイルを開いて、テーブルの上に置いた。

「電話でも少し話したが。LV研究所に総司が出入りしていることでな」

「山南先生。山南さんが造って売っている【SOMAドリンク】の事は聞いているだろう。健康飲料のように見せかけているが、その中の成分はドーピング禁止のものが含まれている」

 土方が斎藤に見せるファイルの中に、SOMAドリンクの成分表があった。細かい文字がぎっしりと書かれた表に斎藤は目を通した。

 過フルオロ化合物:エファプロキシラール(RSR13)0.03%
 修飾ヘモグロビン 0.05%

 赤い線が引かれた箇所が禁止成分だと説明された斎藤は、その資料がコピーされたもので元の資料には「Confidential(極秘)」というスタンプが押されてあるのに気付いた。土方は次のページをめくって、SOMAドリンクの商品写真を見せた。小さな茶色の遮光瓶に金色のアルミの蓋。ラベルには【SOMA】と書かれている。見た目はコンビニなどで売られている滋養強壮ドリンクのように見えた。

「これを飲むと、血液の酸素供給が促進される。疲労回復に劇的な効き目があるそうだ」
「特に激しい運動の後の筋肉疲労にな」

 土方が説明すると、斎藤の隣で山崎が補足するように説明を始めた。

「SOMAは、血液成分を操作します。ヘモグロビンに酸素摂取や供給を促進する。これは血液製剤なので、摂取するとドーピングとみなされる」
「個人差はありますが、SOMAの成分が完全に身体の外に完全に放出されるまで、通常3、4日はかかります」

「総司がSOMAを飲んでいるんですか」斎藤が土方に尋ねた。土方は黙ったまま首を横に振った。

「はっきりとはわからない。俺が総司に訊いても、あいつはとぼけて答えない」
「山崎はLV研究所でアルバイトをしている」

 斎藤は驚いた。隣の山崎は静かに頷いた。確か、山崎はT大学の薬学科に進んだ。将来は医薬や医療に関わる仕事がしたいと言っていたのを覚えている。

「こいつは、学園に居た頃、保健委員を長くやっていただろ。山南さんの信頼もあってLV研究所に、今年から手伝いに行っている」
「この資料は山崎が見つけたもんだ」
「俺から頼んで、山南さんがおかしな薬物を扱ってねえか、山崎に情報を取って貰っている」
「SOMAは新範囲医薬部外品だ。薬事法には引っかからねえ。だから、山南さんのやっている商売は違法でもなんでもない」
「俺が心配しているのは、総司がなんで山南さんのところに出入りしているかだ」
「これは、山崎が偶然みつけた」

 土方は、ファイルをめくって、不鮮明なコピーを見せた。斎藤は、鉛筆書きのものを複写したように見えるA4サイズのコピー用紙に目を凝らした。

 1/5  沖田君 アンプル5本
 1/12 沖田君 アンプル5本
 1/23 沖田君 アンプル7本

「これは、山崎が去年の納品書のファイルに挟んであったメモをコピーしたものだ」
「これが、総司のことだとして。日付から、去年の1月にアンプルを入手している可能性がある」
「このアンプルは、SOMAドリンクですか」
「いいえ、ドリンク剤ではないはずです」山崎が突然遮った。
「これは、時期的になにか試作品で造っていたものかもしれません。使用モニターを沖田さんにしてもらっていたか」
「今は、アンプルで扱っているのは、血液製剤に近いもので、病院にしか卸していません」
「でも、一年前はブドウ糖を詰めたアンプルを試作品で造っていました」
「沖田さんは、それを摂取していたとも考えられます」

「何もハッキリしたことが判らないのが現状だ。お前は一番総司と密に行動している」
「総司がLV研究所に出入りしている事を知らなかったなら、仕方がない」
「稽古やトレーニングの後の様子を、見て貰えないか?」
「別にあいつを監視する訳じゃねえ。総司がなにか薬物みてえなもんを摂取していないかを見て貰えれば助かる」

「俺が知っている限り、総司はなにも飲んでいる様子はありません」
「これが、総司がアンプルを飲んでいたという証拠なら。1年前俺は総司と関西に遠征に行っていた頃です。その時も特に変わった様子はなかった」
「ただ駅前のジムでトレーニングを始めて、きついとはよく言っていました。厳しいトレーニングだと」
「サークル活動とバイトに忙しいからと、稽古も休みがちになって。1月以降は俺も総司には暫く会っていなかった」
「俺がわかるのはそれぐらいです」
「総司がLV研究所に出入りしているとしても、それを隠しているとも思えません」
「今のトレーニングでも、総司は疲労を寝て直せと俺に」
「しつこいぐらいに、身体を横にして休めといってくれています」

「わかった。俺は総司を疑ってはいねえ」
「あいつが大会出場に障りが出るような事は、自分からする訳はないだろう」
「だが、斎藤。総司が山南さんの所に出入りしているのは事実だ」
「学園もそうだが、道場の門人にもLV研究所の製品の使用は禁じている。ドーピング問題に関わるからだ」

「山南さんは、なにも違法な事をやっているわけじゃあねえ。ただスポーツで正式競技や仕合にでる者には、SOMAは絶対ダメだってことだ」
「山南さんのところに出入りする事を俺は禁止する権限はない。近藤さんもそうだ」
「だから、お前に頼みたい。総司がもし、何かを摂取しているなら。直ぐに知らせて欲しい」

「あいつは、お前になら、はぐらかすようなことはしねえだろ」

 斎藤は黙ったまま頷いた。土方は、なんども「こんな事を頼んですまない」と謝った。だが、斎藤は、土方の表情を見て、真剣に総司の事を心配していることがよくわかった。

「わかりました。もし総司が山南先生のところに行くようなことがあれば、俺もついて行きます。なにかあれば、直ぐに先生に知らせます」
「もし、総司が禁止薬物をとっていたら、俺は総司を止めます。絶対にやめさせます」

 斎藤はきっぱりとそう言って、椅子から立ち上がった。


*****

総司との午後

 斎藤は土方と会った後、直接道場に向かった。千鶴からスマホにメッセージが入っていた。

 昨日はどうもありがとう。疲れてない?
 稽古は夜まで?
 私の熱は平熱まで下がりました。
 もう大丈夫。
 これから自分の部屋に戻ります。
 ずっと傍にいてくれてありがとう。
 嬉しかった
 また夜に電話します。

 伊庭からも千鶴が平熱に戻ったとメールが入っていた。あと数日、安静にしていれば普通の生活に戻ることが出来るということだった。千鶴の父親も午後に戻るから、これ以上風間が転院騒ぎを起こす心配はないと書いてあった。斎藤は安堵した。伊庭にお礼の返信をして、千鶴に電話をしようとしたとき、背後から総司に呼び止められた。

「久しぶり。今日は来れたんだ」

 総司は、走って来たらしく額に汗をかいて息を切らしていた。

「はじめくん、今日は道場の稽古はスキップしてもらっていい?」

 総司は斎藤を追い越して振り返りながらそう言うと、斎藤にも急いで付いてくるようにと云って、どんどんと道場の勝手口に向かって全速力で走っていった。斎藤は何事かと思った。総司は、道場の当番表の壁に行くと「指南係」は平助になっていた。壁の門人の名前が書いた木札をひっくり返し、斎藤の分も裏返しにした。これは、道場稽古を欠席する届けとなる。斎藤は驚いた。府中での試合以来、丸二日稽古を休んでいた。今日はみっちり一日道場で稽古をして身体を戻すつもりでいた。

「はじめくん、ちょっとこれから駅前に行くの。一緒に来て」

 総司は、道具一式を持って、靴を履きかけている。斎藤は、黙って総司についていった。土方に約束したように、総司と行動を共にしてSOMAを総司が飲んでいるかを確かめなければならない。

 駅前にはインターバルランニングで向かった。駅前のビルの前で、総司はスマホで誰かに電話をかけ始めた。

「今エントランスに居る」
「わかった」

 斎藤は総司が誰に電話をしているのか判りかねた。だが、総司は斎藤を誘ってそのままビルのエレベーターに乗り込んで最上階に向かった。そこは、総司が以前アルバイトをしていた高級フィットネスクラブ。総司の元ガールフレンドの父親が経営しているジムだ。斎藤は初めて中に入った。黒い調度品で統一された内装は、重厚な感じで如何にも会員制のクラブという感じだった。総司は受付を通り過ぎて、廊下の奥に向かった。関係者専用のドアが突然開いて、中から誰かが飛び出してきた。

 目の前に立つ総司の背中に、腕が回ったのが見えた。華奢な腕、派手なリストウォッチ。総司の胴にすがりつくようになったまま動かない。静かな廊下に、すすり泣くような声が聞こえた。

「久しぶり」

 総司は、荷物を持っていない手で相手を抱きしめ返していた。斎藤は、総司のガールフレンドのみよちゃんの事は、ずっと以前に遠目にしか見た事がなかった。総司には、昔から沢山の「女の子の友達」がいて、デートの相手には困らないと言っていた。みよちゃんとどれぐらい親密に付き合っていたのか。喧嘩別れしたとしか聞いておらず、今、目の前の二人の様子を見ていると、クリスマスの大喧嘩以来、初めて二人は顔を合わせたようだった。そして、総司のみよちゃんは、総司に会えて泣いて喜んでいることは明らかだった。

 二人の抱擁を後ろでぼーっと見ているだけの斎藤に、総司は振り返って彼女を紹介した。

「こちらは、西園寺美代香さん。みよちゃん、斎藤一くん」

 互いに「はじめまして」と挨拶を交わした。みよちゃんは、すぐに「どうぞこちらへ」と言って、関係者専用のドアを開けて、階下の応接室のような場所に案内した。ソファーに腰かけるように言われると、もう一つのドアからトレーニングウエアを着た小柄な男性が現れた。小柄といっても、首は頭部と同じぐらいの太さで肩はフットボールの防具を着けているように見えるほど、筋肉で盛り上がっている。精悍な表情の男性は、総司に笑顔で笑いかけると、「久しぶりです」と丁寧に会釈した。総司も「ご無沙汰しています、田中さん」と丁寧にお辞儀をして挨拶した。総司の紹介で、田中がかつては総司の同僚で、専属のトレーナーだったことがわかった。

「わたしから、用件は伝えてあるけど。細かいことは総司から直接田中さんに話して」
「わたしは席を外している方がいいでしょ?」

 みよちゃんは、てきぱきと壁の傍においてあるドリンクスタンドから、冷たいお茶をカップに注いでテーブルに置くと、総司に「あとでね」と言って、斎藤に会釈して部屋を出て行った。

 総司は、荷物から黒いファイルを出して、田中に見せた。田中は暫くファイルの中を眺めて、もう一冊のファイルを開いてから、斎藤の顔を見上げて、二つのファイルを見比べている。

「これ以外に、キネティック値4520、神経系集約257.2、連鎖濃度67.88、酸素濃度平均88.1%、最大93.34、最小67.6……」

 総司は、呪文を唱えるようにずっとデータ値を続けている。それを田中は真剣な表情でずっとボールペンで手元のノートに書きこんでいた。

「全部、平均値で僕らの値を上回っている。MS-4000でのデータは、2000のデータとは違うの?」
「いいえ、ほぼ同じだと思います」
「この3つ目の数値は、どれぐらいの期間でのものです?」
「一応、ほぼ2か月かな。わからない、3か月経っているのかも」

 通常プロのアスリートでさえ、キネティック4500を上回るのは驚異的です。田中はそう言って、信じられないという表情でノートの値を眺めている。沖田さんでも、3か月は掛かった。同じ期間をかけたなら解りますけど。そう言って、田中は顔を上げた。

「僕らのデータを基に、MS-2000で同じトレーニングは可能?」
「田中さんから見て、この4520を僕らが出せる?」
「うーん、期間はどれぐらいで?」
「あと10日間で」
「僕らの試合は、26日。その時に使える身体になっていたい」
「少なくとも、この値を上回る結果を出さなくちゃ」

 斎藤は総司と田中のやり取りを聞いているしかなかった。キネティック値4520というのは、風間千景のデータだろう。それに今、田中が眺めているファイルは赤坂のジムの記録データファイル。なぜ、総司はそれをここに持って来た。赤坂のトレーニングデータはプライベート情報として、厳しくジムで管理されている筈だ。それに二人の話を聞いていると、総司はここで鍛錬するつもりか。斎藤は混乱した。

「今すぐ取り掛かれば。今日の午後一杯、マシーンは空いています」

 田中は笑顔で答えた。総司は、「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」といって立ち上がって深々と頭を下げた。斎藤も慌てて、一緒に頭を下げた。直ぐに、田中は廊下のドアを開けて、ロッカールームに総司と斎藤を案内した。総司に促されて、斎藤はトレーニングウエアに着替えた。総司は、手慣れた様子で専用のエレベーターに乗って階上に上がるボタンを押した。

「赤坂のジムはやめて来た。もう行かない」
「はじめくんもここで僕とトレーニングするでしょ?」
「とりあえず、キネティック値を上げなきゃ」
「本気で行くよ」

 総司は斎藤に有無を言わさず、階上に行くとマシーンルームへ案内した。赤坂のジムのキネシストレーニングルームと同じような設えの部屋で、既に田中がマシーンを準備して待っていた。総司と斎藤は二人で、ウォーミングアップをして身体を温めてから、総司からマシーントレーニングに入った。斎藤は、その間もう一人のトレーナーと下半身強化のベンチトレーニングを行った。

 きつい。

 それは斎藤が最初に感じたことだ。丸二日身体を動かさずにいた事を後悔した。トレーナーは、斎藤が耐えられるぎりぎりのところまで負荷をかけてくる。斎藤は、鍛えられている筋肉のひとつひとつを意識しながら、ゆっくりとメニューをこなした。MS-2000マシーンのトレーニングは赤坂のジムと変わらない。全身にピリピリと電流が走り、全てが活性化する。一気に身体が元に戻る気がした。三日ぶりのマシーン利用。こんなにも違うのか。斎藤は驚いた。いつもは、前方に置かれたスクリーンで自分のキネティック値の上昇や下降が表示されているのを見ながら身体を動かすが、MS-2000ではデータ表示がされていないようだった。ただ、トレーナーが操作するハンドル部分にはモニターが表示されていて、最適な状態で鍛錬が行われているということを、田中がピットの向こうから説明してくれた。

 トレーニングは、みっちり2時間かけて行われた。クールダウンの後に、総司とスパルームへ向かった。

「ここは、温浴バスがある。赤坂よりここのがいい感じだよ」

 総司はそう言って、シャワーで身体を流した後に風呂に浸かるように斎藤を誘った。総司は手慣れた様子で、一番奥の40℃のぬるいお湯に寝そべるように浸かった。

「今日の朝、赤坂に行って来た」
「風間が昼に用があるからって、いつものメニューを半分にされて。11時前に終わってね」
「あの人の都合で、全てが決まるのは仕方ないけど」

「ぼくは御免だね。これ以上」
「だから、受付で僕とはじめ君のファイルを奪ってきた」

 本当は、風間のファイルも持って来ようと思ったけど、バレたらあの人何するやら。だから、中身だけ覚えて来たのさ。

 総司は悪戯っぽい表情でお湯を両手で掬うと顔を洗うようにバシャっとかけて笑った。やはり、盗んできたのか。総司は、受付で出まかせを言って、風間のファイルを盗み見たのだろう。そして、データを覚えた。一瞬で。総司の得意技だ。

「フォトグラフィックメモリーさ」

 いつだったか、まだ高校に入って間もなくの頃、総司と一緒に図書館で勉強をした。期末考査の前で、高校幾何をもう一度復習して覚えなければならなかった。地道にノートを取りながら覚えている斎藤の傍で、総司はずっと携帯電話を弄っていた。

「ねえ、終わった?」

 何度も総司が尋ねてくる。一章分の暗記をした後に、二人で問題を解いてから次に進む。総司は常に全問正解し、なおかつ何通りもの解法を書き出した。どうも総司は、図形や公式を丸々覚えているようだった。それも瞬時に。総司にすると、教科書のページは見たとおりにそのまま頭の中に残る。だから、目の前でぱらぱらと開いたものは、図形も式もそのままで、問題もそのまま当てはまって行く通りに解法が出来て行くという。総司の頭がいいことは知っていたが、此処までくると理解の範疇を超えていて、斎藤はただ驚くしかなかった。総司のモノの見え方は、己の見え方と違うのかとその時は思った。総司自身、自分のモノの覚え方が、写真を撮るように全てが画像として頭に入ることを、周りの人間がやっていない事を知ったのは、高校に入ってからだという。ある日、保健医の山南先生に、「君はフォトグラフィックメモリーという特性を持っている」と指摘されて、総司は納得が行ったらしい。

「僕、文字や数式が並んでいるの。覚えるの得意」

 総司が風間のトレーニングデータを一瞬で盗み見ている姿が思い浮かんだ。それにしても、ジムの利用規約には明らかに違反している。出入り禁止となるのは当たり前だ。第一、風間がそれを知ったら、道場に怒鳴り込んでくるだろう。

「もう赤坂には行かないよ。ここで鍛錬する」
「試合ではあの人に勝つよ」
「絶対に」

 総司は、そう言って湯船から出ると、身体を洗ってサウナに入った。それから冷水浴をして、最後に身体を温めてから風呂を上がった。階下に下りると、さっきと同じ部屋で、田中がノートPCを開いて待っていた。グラフには総司と斎藤のトレーニング結果が値として反映されていた

 成果分析の説明と、翌日からのトレーニングプランを表示させて田中は丁寧に説明してくれた。

「お疲れ様でした。まだスタートです。きついトレーニングですが、必ず成果はでますよ」

 田中は自信を持って頑張ってくださいと言って、総司と斎藤を励ました。斎藤は、一度椅子に腰かけると、そのまま動けなくなるぐらい疲労していた。このまま背もたれに背中をつけたら、一瞬で眠りに落ちる。そんな心配が頭をよぎった時だった。

「田中さん、お願いを聞いて貰えますか」
「チャンバーを使いたい」
「無理を言ってばかりで、ごめんなさい」

 田中は、ちょっと待って下さいと言って、一旦部屋の外にでた。総司は、斎藤の肩に手を置いて、「疲れたね」と笑っている。斎藤は、「ああ」と応えるのがやっとだった。田中は総司のガールフレンドのみよちゃんと一緒に部屋に入って来た。

「チャンバーのある部屋まで、こっそりあんたたちを連れていけるかって」
「無理に決まってるでしょ」

 みよちゃんは、少し呆れた表情で総司に笑っている。斎藤は、総司と田中とみよちゃんのやり取りをぼーっと見ているしかなかった。みよちゃんは、「しょーがないわね」と言って、田中に「私が二人を連れていくから。田中さんは、もとの業務に戻って。お疲れさまでした。どうも有難う」と早口で伝えると、別のドアを開けて、総司と斎藤を暗い廊下を案内していった。

「サロンの方は、厳密に私も出入りが許されていないのよ」
「担当が違うの。ここは、別の会社だったからね。元は」

 みよちゃんの説明だと「チャンバー」があるサロンは、ジムとは別の施設だということだった。総司は斎藤に振り返って微笑んだ。このまま、みよちゃんにそっと付いて行こうといっているようだった。

 みよちゃんに案内された部屋は、暗がりにネオンライトのようなものが灯っている不思議な空間だった。そこから、暗い一角にある小さな部屋に案内されると、大きな楕円形のケースのようなものが、合わせ貝のように開いていて、人が一人横になれるようになっている。

「これがチャンバー。どっちが先?」

 みよちゃんは、手際よくピローを用意して準備を始めた。総司は、「はじめくんを先に」といって斎藤の背中を押した。

「Maxでやってあげて」

 斎藤は、みよちゃんに言われるがままに、洋服を着たまま機械の上に横になった。このまま蓋を締めるけど、この中は酸素で充満されるから、普通に呼吸していてね。40分間。目を開けていてもいいけど、瞑って居る方が楽よ。すぐに気持ちよく眠くなるから。

「眠ってしまうのが一番。良質な睡眠をとれるから。40分で8時間睡眠をとったぐらい、疲労回復するわよ」

 それじゃあ、閉めるね。おやすみなさい。

 みよちゃんと総司の微笑む顔を見ながら、扉が閉まって行った。機械音がして、微かだが環境音のようなものが聞こえて来た。森林の中の水のせせらぎ、鳥のさえずり、気持ちのいい風が流れてきた。斎藤は目を閉じた。その瞬間眠りに落ちた。


******

新たな決心

 気が付いた時、そっと柑橘系の匂いが鼻に走った。みよちゃんが、スプレーのようなものを自分の襟元に吹きつけた事が判ったのは、その数秒後。爽やかな香りで目覚めた。手を引かれて、助け起こされた。頭がすっきりとしている。チャンバーから足を下ろして、立ち上がった瞬間、身体がそのまま天井に届くぐらい軽くなった気がした。靴を履いた足を一歩踏み出すと、またそのまま天井に飛び上がるような感覚が走る。なんだ、この身の軽さは。

 斎藤は、自分の身体を見回すように両手を眺めたり、上げたりしている。それを総司は、肩を揺らして見ていた。

「軽いでしょ? 羽が生えたみたいに」
「疲れがとれたからって、無理しちゃだめだよ」

 総司は笑顔のまま、荷物を持って部屋を出て行った。総司はみよちゃんと指を絡めあいながら前を歩いている。その後ろを歩く斎藤の事はお構いなしだ。ビルの階下に下りるエレベーターの前で、二人はきつく抱きしめ合った。

「ありがとう。また後で電話する」

 手を振る笑顔のみよちゃんに、斎藤は会釈をした。ビルの外に出ると、もう夕暮れ時だった。

「あー、お腹が空いた」
「はじめ君、サラダバーの店行こうよ」
「僕、もう家まで持たない」

 そう言って、総司は駅の東口に向かって走り出した。二人で、野菜と肉を食べた。ビタミン、ミネラル、タンパク質の補給。総司は、厳格にトレーニングダイエットメニューを守っているという。

「ねえ、さっきの酸素チャンバー。どうだった?」
「すこぶる気持ちがいい。本当に40分間だけか、あの中に居たのは」
「うん、たったのね」
「身体がこんなに軽くて楽になったのが不思議だ」
「今ね、はじめ君の身体の血中酸素濃度はMaxさ」
「チャンバーはね。どんな滋養強壮剤も敵わない効き目がある」

 斎藤は「滋養強壮剤」と総司が言った事が気になった。総司はSOMAの話をしているのだろうか。

「疲労回復するし、元気がでるでしょ。これでトレーニングももっと効果が出るよ」

 総司は嬉しそうに話す。そうか。総司と田中トレーナーの話では、これで赤坂のジムでのトレーニング以上の鍛錬が出来るということだが、本当にこのまま赤坂に断りを入れずに辞めてしまって良いものなのか。トレーニングの手配をしてくれた、近藤先生やジムの会員権を提供した風間に断りを入れなくていいものなのか。急に、そういった事が気になりだした。

「総司、赤坂のジムを正式に辞める手続きをする必要がある筈だ」
「近藤先生にも報告しないと」
「俺は、風間に話があるから、あんたが辞めることも一緒に伝えておく」

 総司は、一瞬フォークを持っていた手を止めて、斎藤の顔を見詰めた。

「風間に話って。なに?」
「千鶴ちゃんのこと?」
「ああ」

「そ、僕からも伝えておいて。武道館の試合では、容赦しないからって」
「はじめくんも本気で斬るだろうけど。僕もあの人のこと本当に斬るよ」

 総司の翡翠色の眼は不穏な光を放っていた。「是が非でもね」と右の口角を上げて狡猾な表情で笑っている。

(あの人、僕らがここでキネシス鍛錬してるって思ってもみないだろうね)

 全てのキネシス負荷を操作して、自分の結果が上回るようにしてたって。真っ向勝負が出来ない情けない奴。あんな人はとっとと斬り殺す。

 真剣勝負するなら伊庭八郎。

(あの人には絶対に負けられない)

 総司が頭の中で、全てを見越して計画していることを斎藤は、全く気付いていなかった。ただ、自分がチャンバーに入っている間。総司がSOMAを飲んでいたら……。その可能性の事を考えていた。あの薄暗い部屋で。斎藤の後に総司がチャンバーに入ったなら、十分にSOMAを摂取する機会はあっただろう。

「5mlのアンプルは、掌に収まる大きさで、慣れると片手で飲み口を開けて一瞬で摂取できる」

山崎烝の説明を思い出す。総司、本当に山南先生から薬を貰っているのか。斎藤は、総司を疑えば疑う程、暗い気持ちになって行った。

「ねえ、さっきから聞いてる?」
「なに? 考え事?」

 どうせ、千鶴ちゃんに逢いたいんでしょ? 総司は、呆れた顔でテーブルの向こうから顔を覗き込むように見ている。

「逢いに行けば? 診療所の面会時間、まだ間に合うんじゃない」
「いや、今日はいい。千鶴はもう退院して自宅に戻った」
「父親も京都から戻ったそうだ」
「また明日、時間を見て見舞いに行く」
「そ、明日は、また同じ時間にジムに行くから。朝に道場で稽古しよう」

 斎藤は、そのまま総司とレストランを出て駅に向かって行った。

「身体が軽い」
「あんたもか?」
「僕? まあね」
「あんたもチャンバーに入ったんじゃないのか?」
「僕? 今日は遠慮したよ。あれ、お金かかるからね」

 斎藤は驚いた。一回の使用で数千円かかるところを無料で使わせて貰っているらしい。斎藤は改めて、総司に礼を言った。

「すまん、俺ばかり世話をかけて。彼女にも礼をいいたい」
「今夜電話するときに、伝えておくよ」
「俺がチャンバーに入っている間、待たせて悪かった」
「いいよ、僕はみよちゃんと居たから」

 ――みよチャンバーで元気補給したからね。

 総司は満足そうに微笑んでいた。そうか、そういうことか。斎藤は、ようやく納得した。

 総司と別れてから、斎藤は千鶴に電話をかけた。

「はじめさん、今どこ?」
「今トレーニングを終えた。具合はどうだ?」
「すっきりしてる。さっき父さまとお夕飯を食べたの」
「もう、大丈夫。明日には床上げする」
「そうか。良かった」
「はじめさん、うつってない?」
「なんだ、インフルエンザか。うつっていない」
「よかった」
「はじめさん、私、あと数日したら外に出られるから。逢いにいきたい」
「ああ、逢おう。それまで俺が千鶴の所に行く」
「明日の昼前に家に行く。また連絡する」
「うん、ありがとう。早く逢いたい」
「俺もだ」

「おやすみなさい」
「おやすみ」

 斎藤は、電話の向こうの千鶴の声が明るく元気な様子に安堵した。

 赤坂のジムを辞める事を、風間には、明日話をしに行こう。近藤先生にも。そして、総司のSOMA摂取については、ほぼ疑いはないと斎藤は思った。ただ、診療所から病気の千鶴を風間に奪われてからの目まぐるしい数日の出来事を思うと、ここでしっかり踏ん張る必要があると思った。

 有難いことに、総司がいる。武道館での試合は決して負けられない。
 風間との真剣勝負。
 明日、風間へそれを伝えよう。真っ向で闘うのに相手に不足はない。

 心の中に拡がる千鶴への想いを胸に、斎藤はそう強く決心していた。



つづく

→次話 FRAGMENTS 17




(2020/03/29)

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