国際親善仕合

国際親善仕合

FRAGMENTS 18 冬

東京武道館

 試合の日の朝は、前日とは打って変わって真冬のように冷え込みが強かった。

 早朝に駅で総司と待ち合わせた斎藤は、千鶴からスマホに送られてきた写真を眺めていた。大きな重箱に並べらえた俵型のおむすびに、厚焼き玉子、ささ身の海苔巻き、蓮根のはさみ揚げ、ほうれん草と白菜ロール。千鶴が用意しているお弁当の画像を見ているだけで腹が減って来た。

 あとで持っていきます。
会場まで気を付けてね。

 ハートが飛び交う中を飛び跳ねる兎のスタンプが押してあった。

「おはよ」

 上から覗き込むように総司が立っていた。売店でおにぎりとお茶を買って電車を待ちながら、ホームで食べた。

「先生たちは、もう出発したって。さっきメール来てたよ」

 総司が、近藤先生と土方先生が車で武道館に向かったと話している。近藤は、門人が試合出場する際、会場には必ず公共の交通機関で向かわせる。道場の門人を自家用車に同乗させて向かうことも出来るが、不慮の事故などで参加できなくなることを避けるためだという。家を出立するときに、すでに試合は始まっている。精神統一し、会場に自分の足で赴き、仕合場に敬意を払う。総司は極小さい時から、近藤にそう教えられて来た。

 武道館まで片道一時間もかからない距離だが、こうして仕合に向かうのは二人とも気持ちが引き締まる思いがしていた。剣道連盟が国際連盟協会と協同試合を行うのも、五年振りのことで、斎藤にとっては初めての国際連盟協会主催の試合だった。

 武道館第二武道場に着いた時、既に近藤や土方、平助、相馬と野村、元薄桜学園の同級生の山崎烝も来ていた。午後からは永倉や原田も来るという。挨拶を済ませた斎藤と総司は控室に向かった。総司はいつもの様子で道着に着替えている、試合前はいつも互いに口をきかなくなる。試合の出場者たちで更衣室は混雑していた。垂と胴を着けると総司はロッカーの鍵をかけて、ベンチの端に座って出場者名簿を確認し始めた。

「僕は第一シード、はじめ君は第二シードだよ」
「二戦目があの人とだね」

 仕合場は2面あって、第一、第二とシード別に振り分けられていた。控え場も異なる。一度試合が始まると、互いの試合を観戦することは出来ないと思った。斎藤もシード表を確認した。風間千景は個人参加枠で第二シードに名前がでていた。二戦目での対戦ならちょうど良い。身体も十分に温まっているだろう。

 隣で総司は、「練武館 伊庭八郎 欠場」となっている個所を見て、「なにこれ」と憤っている。斎藤は、「伊庭さんは左腕の腱が切れて全治4か月だ」と教えた。総司は黙ったまま名簿を見詰めていた。珍しく本気で怒っているな。斎藤はそう思った。総司は、はっきりとは言わないが、アメリカ大会の前哨戦として壮行仕合で欧州覇者の伊庭八郎と対戦するために入念に準備をしていた。練武館は、剣術道場としては歴史も古く、流派団体としても近藤の試衛館道場とは比べ物にならないぐらい規模が大きい。流派の違う伊庭を打ち負かすことで、総司は天然理心流の名を上げるという目標があった。道場の威信にかけてでも。絶対に勝ってアメリカに行く。そう総司は決心していた。

 斎藤は、伊庭が怪我を負った原因を総司に話さなかった。府中での試合の翌日に起きた、雪村診療所での出来事を斎藤は誰にも話をしていない。経緯がどうであれ、千鶴が奪われたことで逆上し、真剣で丸腰の相手に本気で斬りかかろうとした事は、道場剣術の心得を逸脱している。流派からの破門も覚悟をしていた。研究センターでの己の振る舞いを隠しだてをつもりはない。だが、今日の試合を終えるまで。斎藤は、たとえ土方にでも、風間との諍いについて話をすることを控えようと決めていた。

 今日、決着をつけるまで。

 これからの闘いは剣道の公式試合であるが、斎藤にとって命をかけても勝たなければならない真剣勝負だった。どんな事をしてでも勝たなければならないもの。そう決めていた。総司はシード表を荷物にしまって、じっと黙って座っている。斎藤も、もう頭で考えることを止めた。

 ただ勝つことのみ。

 それさえも、消し去る。心を無にして。余念なく。静かに。

 出場者集合のアナウンスが流れて、斎藤と総司は仕合場に向かった。総司は入り口からは奥の第一仕合場へ、斎藤は手前の第二仕合場の前に整列した。間もなく開会式が始まった。その間に観覧席にどんどん人が集まっているのが見えた。千鶴が診療所のスタッフやナースたちと一緒に正面の席に座ったのが見えた。キョロキョロと会場を見回して、斎藤の姿を見つけると大きく手を振った。千鶴は元気そうだった。白いセーターを着ている。斎藤は鳩尾から身の内が温まるような心持がした。いつもの元気な千鶴だ。良かった。

 そう思った時、背後にひと気を感じた。整列していた斎藤の横の列が道を開けるように動き、そこに誰かが近づいて来た。風間千景だった。真っ白な道着に白袴。光輝くような生地は上絹のようだ。金色の胴には風間家の家紋が細かく描かれていて異彩を放っていた。皆を威圧するような態度で歩いてきた風間は、斎藤の隣に立った。上から見下だすような目線で、斎藤に鼻であしらうような息を吐いた風間は、真っ直ぐに姿勢を正して、開会の挨拶に耳を傾けていた。

 開会式が終わると、直ぐに試合が始まった。控えの選手は皆、仕合場の壁側で正座をして防具をつける。精神統一をしながら、ひとつひとつ身に付けて行く。斎藤は、周りの音や声を完全に遮断するようにゆっくりと手拭を着けていた。千鶴は観覧席からずっと斎藤の様子を見ていた。いつもと変わらない様子で、とても落ち着いている。千鶴はそう思った。常に冷静沈着なのが、千鶴の思う斎藤の姿。試合の前は特にそうだ。はじめさんは、剣を持つとそれだけに集中する。何も見ない。

 

 

******

黒い騎士

「千鶴さん、はいこれ」

 突然、千鶴は背後から声を掛けられて団扇を手渡された。診療所のスタッフは、今日は応援団としてほぼ全員が会場に来ている。手の中の団扇を見て千鶴は驚いた。それはハート型で、斎藤の写真を引き伸ばしたものが貼ってあった。振り返ると、スタッフもナースも全員が同じ団扇を持っている。それにしても凝った団扇だった。「試衛館の黒い騎士 斎藤一」という文字がレタリングされて、小さなピンク色のハートで囲んであった。黒いモールで縁取られた。黒い騎士……。どうして、騎士なのだろう。千鶴は、じっと団扇に見入っていた。

「これ、裏は八郎先生よ」

 ナースが団扇をひっくり返して千鶴に見せた。団扇の反対側には、伊庭八郎の顔のアップの写真が貼ってあり「練武館の王子 伊庭八郎」と書かれてあった。ナース部長の陽子が息子と一緒に作ったと聞いて千鶴は驚いた。陽子さんのご長男は確か印刷会社でデザインの仕事をしていると聞いているが、今日の試合の為に大きな応援ボードまで作っていた。スタッフたちが、それを応援席の前に掲げている。

 試衛館の黒い騎士
 斎藤一 日本一

 派手に書かれた大きな文字は、観覧席以外の場所からもよく見えて居ると思う。陽子の合図で一斉に団扇を掲げるように言われた千鶴は、慌てて団扇を斎藤が見えるほうを前にして持ち上げた、陽子に合わせて全員で右左に大きく振って謎の応援歌をナースたちが歌っている。最後に陽子の合図で団扇を持ったまま拍手をした。音を立てない小さな拍手。もう第一試合が開始していた。仕合場は、選手たちが真剣勝負をする場所。華美な応援は控えなければならない。

 斎藤は、三番目の出場選手だった。圧倒的な強さで先手二本をとった。その時間は、二分もかからなかった。応援席では団扇を振るまでもなく試合が終わって、仕合場から下がる斎藤を賞賛するように拍手をした。面を外した斎藤は、手拭をとった。前髪が額におりて、いつものように表情が見えなくなった。こちら側を見ているようだが、一切を見ていない。千鶴は、斎藤が完全に集中状態に入っていると思った。千鶴は、ナースたちに合わせて団扇を振っていた手を止めた。はじめさん。

 控え場でじっと正座したまま動かない斎藤を千鶴はじっと見詰めていた。ただ静かに。微動だにしない。もう完全に集中されている。それにしても凄い気迫だ。千鶴はそう思った。もう何か月もかけて、試合に向けて準備をしていたはじめさん。この日のために。

「次は絶対に勝ってもらわないとね」

 隣に座ったナースの陽子が千鶴に耳打ちしてきた。千鶴は斎藤の隣で、防具をつけ始めた風間の姿を見た。第二戦の相手。風間さんとの対戦。診療所のスタッフもナースも、突然診療所に現れて、患者を無理矢理連れ去った風間千景を目の敵にしていた。いくら尊敬する鋼道先生の知り合いでも、新しい研究センターの出資者でも、いきなり診療所を襲い伊庭に怪我を負わせ、ナースにも手をかけようとした振る舞いは許されるものではない。今日の試合も、あの事件さえなければ、伊庭八郎も出場する筈だった。診療所のスタッフ総出で応援をする準備を進めていたのに。伊庭が怪我で出場を断念した時、陽子たち応援団は、千鶴連れ去り事件で負傷した伊庭先生の代りに「斎藤くん」を全面的に応援することに決めた。

「斎藤くんは、千鶴さんと伊庭先生を救った頼れる【騎士】よ」ナースたちは言う。千鶴は、診療所から突然救急車で風間に研究センターに連れて行かれた日のことを思い出していた。身体を動かす事が出来ないまま、風間さんははじめさんを振り払い、八郎兄さんを壁に打ち付けた。記憶はそれから全くない。高熱の中で黄色の風景。あれは、本当に起きた出来事だったのか。ついこの前起きた事なのに、現実の事とは思えなかった。まるで悪夢のような……。でも目覚めると朝になっていて、わたしは診療所に戻っていた。はじめさんが傍にいて優しく笑っていた。ベッドの足元に腕を怪我した八郎兄さんが立っていて……。

「大丈夫だよ。熱も下がってきている。すぐに良くなる」

 ——安心して、僕達がついているから。

 病室にはナースの陽子もいて、優しく笑っていた。起き上がれるようになって、着替えを手伝ってくれた陽子が、連れ去られた千鶴を斎藤と伊庭が研究センターから奪い返して来たと教えてくれた。ずっと傍に居てくれたはじめさん。助けてくれた。

 それにしても酷い出来事だと思う。自分がインフルエンザに罹ってしまったばかりに。父さまもお仕事を途中で置いて戻って来てくれた。

「家でゆっくりと養生していなさい」
「風間くんとの事は、また元気になったら」

 父親はそれしか言わずに、千鶴には外出を控えさせている。毎日のように風間さんからは、見舞いの花束が届いた。玄関やリビングにどんどんと増えていく花の中で、千鶴はずっと居心地の悪さを感じていた。

 千鶴は、遠くに見える風間の白い道着を見ながら、ぼんやりと頷いた。

 何を言っても、聞いてもらえない人。
 何をいっても、わかって貰えない人。

 千鶴は不思議な感覚で試合場に立つ斎藤と風間を見ていた。三月に千鶴は風間と婚約式を行うと決まっているらしい。自分の事なのに、まるで別世界で起きている事のように感じている。千鶴の父親の鋼道もそうだ。どんなに千鶴が風間との結婚が嫌だと訴えても、聞いて貰えない。まるで、どこか別の場所で全てが動いていくように、なにもかもが千鶴の意志とは別に決まってしまっていた。千鶴の事なのに、それは全く千鶴を排除したどこか別の場所で進んでいく。千鶴はただ、何も知らないで、独り家の中に取り残されていた。逢いたい人がいても逢いに行くこともできずに。

 今朝もそうだ。玄関を出ると、黒いリムジンが停まっていた。天霧が武道館までお連れ致しますと言って会釈したが、千鶴は断った。天霧はずっと千鶴が出掛けるのを待っている様子だったが、千鶴は診療所のスタッフが運転する車に乗って会場に向かった。

「風間は特別に控え室を用意しています。千鶴様にそこに来てもらいたいと申しています」

 会場に到着して間もなく、天霧が再び千鶴を呼びに来た。千鶴は断った。世の中で、唯一千鶴の拒絶を受け入れているのは、天霧だけだ。天霧は、いつも「わかりました」と言って静かに帰っていく。決して無理強いはせず、千鶴の意志を尊重する。話が通じる。その点において、千鶴は天霧を信用していた。

 

 

*****

第一戦

 審判の宣告とともに、試合が始まった。

 位置で構えた途端、先に風間が打って出た。剣と剣がぶつかる音が一際大きな音をたてた。斎藤は素早く躱して、再び間合いを取った。青眼の構えから左に陰の構えをとった。軸足を前にだすようにじっと相手の動きを待っている。風間の防具は金色で2階の窓から射す朝日の光を反射するように輝いている。陽光が仕合場の床の上に四角く反射し、スポットライトのようになっていた。風間に対峙する斎藤は、黒い防具の背中からじっと動かずに相手の動きを待っている様子を見せていた。

 水を打ったような静けさの中。斎藤は一手に集中していた。風間の打突を受けると、それは防具の上からでも全身に強い衝撃を受ける。それは斎藤の一手も相手に対して同じ効果があることも斎藤は解っていた。普段稽古で使う木刀は真剣に近い。試合で使用する竹刀は打つ時に力を抜く必要があった。それは、居合道の鍛錬で身に付けた技。斎藤は、自分の剣術を特別なものとは思ってはいない。木刀と竹刀の扱いの違いは、総司も総司なりの工夫をしている。それは一概に「こうすればいい」という方法があるわけではない。非常に感覚的なもので、剣をとる者ひとりひとり異なる。体形、鍛錬具合、姿勢、剣の腕前。真剣と同じで、竹刀も力を加減すれば相手を斬ることが出来る。斎藤はキネシストレーニングでその確信を持っていた。

 剣道の公式試合で、「相手を斬る」という考えもおかしな話だ。勿論、防具で覆われていない場所を打てば、相手にダメージを与えることは出来るだろう。違法の手だ。だが、違う。防具の有無は関係がない。打突の一手に集中すれば、撃った内側に最大限の衝撃を見舞うことが出来る。斎藤は確信していた。だから、決して先に打たれてはならない。

 ——示現流の剣をまともに受けてはならん。

 突然近藤の声が響いた。なんだ。心の内に蘇る記憶。そうだ。遠い昔、屯所の稽古場で近藤に直に稽古をして貰った。暑い日の午後。総司も一緒だった。蛤御門で薩兵と睨み合った数日後、近藤が珍しく稽古場に現れて手合わせをした。

 相手の初太刀を許すと次はない。そう教えられた。必殺の一打を打ってくる。様子見をしない流派だ。引き付けて受け流すことが出来れば良いが、まともに食らうのを避けるのが賢明だろう。強い一打で相手の態勢を崩し、力づくで二打目で倒す。

 風間が力だけで打ってくるのであれば、手の内は判然としている。

 風間は青眼のまま、にじり寄るように右足を前に進めて間合いを詰めてきている。防具の向こうに深紅の瞳が自分を睨んでいるのが見えた。負けてなるものか。風間が一歩前に出た、素早く振りかぶって正面から降り降ろされた剣を斎藤は右に引き付けるようにして、相手の懐に飛び込んで行った。やーっという気合の声と共に、居合の一手。一瞬で風間の胴を撃って、駆け抜けるように風間の右手に出た。力を込めたまま残心。

 胴を竹刀が打った大きな音と共に風間の動きが止まった。

 打突の衝撃は凄まじく、風間は一瞬息の根が止まったかのように感じた。肋骨が全て粉々に砕けるような衝撃。直ぐに風間は身を固くして、神経を集中させた。自分の身の内の修復機能を全てコントロールする。これしきのこと。風間は態勢を整えるように元の位置に戻った。斎藤の気迫は、風間を圧倒していた。一本目を取った。まだ序の口だ。斎藤は、これからが本番だと思った。風間からは怒りの気焔を感じた。だが、斎藤の心は平然としていた。ここ一週間の稽古で、斎藤の身体は最大限まで鍛え抜かれていた。同時に精神、気力、神経は総司に言わせると「もうMax以上のMax」状態。試合の前日に総司と酸素チャンバーにも入ったこともあるだろう。斎藤は己の最大の状態でぶつかる事だけに集中していた。風間とは体形や鍛えた筋肉量でも互角ではない。それでも、自分に勝算があるとすれば、己の剣に集中することだけだと思っていた。己の剣を信じること。

「残心を忘れてはならん」

 近藤の厳しい声がまた胸に響く。自分が打った後も相手が倒れるまで気を抜いてはならん。実戦では一対一ではない。どんな時でも次の一手を打つように動くことだ。流れる記憶が止まらなくなる。焼け付くような市中で、砂埃を立てながら斬り合った相手。数人を同時に。手下の隊士たちと集団で斬りかかった。残心どころではない。無我夢中だ。次々に斬りかかってくる相手を躱し撃つ。斬られれば一溜りもない。

 地面の上の陽炎と砂埃が目の前に見えるようだった。だが目の前の風間は、その白い道着と共に輝くような姿で構えていた。堂々と立ちはだかる相手。その長い腕と竹刀は射貫くように斎藤に向いている。二人の睨み合いは、永遠に続いた。とっくに所用時間を過ぎているだろう。審判が認めている延長時間に入っていた。審判の旗に促されるように、互いに打ち合った。何度も剣と剣がぶつかる。力ずくで押される。斎藤は場外に押し出されそうになったところで審判の注意が入った。さっきまで仕合場を照らしていた朝日が既に場外へ移っていた。位置に戻った二人は、互いに息が上がっている。大きく肩で息をしている二人を千鶴は息を呑んで見ていた。

 はじめさん、かならず。

 祈るような気持ちでずっと両手を胸にあてて千鶴は斎藤を見た。

「軸足を踏ん張れるように下半身をトレーニングしている」
「大木のように動かんようにな」

 微笑みながらトレーニングの話をしていた斎藤を千鶴は思い出していた。道場の門人の中でも、斎藤は細身で上背も高くない。手足の長く肩幅の広い沖田先輩は、リーチもあって優利だと聞いている。斎藤の剣は、その適格で冷静な剣捌きが特徴だった。動きの素早さも定評がある。そこに、ぶれない体幹と下半身の強さが加わった。

 所用時間の制限が迫っていた。斎藤は勝負に出た、相手が打つ前に。風間の気合を込めた声が聞こえたと同時に降り降ろされた剣の下に潜り込んだ。風間の剣は斎藤の肩をかすめた。耳の傍に空気が切れる音が響いたと同時に右に肘を引いた体制のまま前に出た。そのまま胴に渾身の突き。

 一瞬、風間は剣を床にだらりと向けたまま動けなくなったようだった。

「勝負あり」

 審判の旗が上がって、勝敗が決まった。先手二本勝ち。観覧席からは拍手が沸き起こった。圧倒的な強さで斎藤が勝った。位置に戻って礼をした斎藤は、静かに場外に戻って行った。その後も斎藤は全勝し、第二シードを勝ち進んだ。風間は次点で勝ち進み、午後は、第一シードを順当に勝ち進んだ総司と第一仕合場での決勝戦に進むことになった。

 昼休みに斎藤は総司と一緒に観覧席に昼食を食べに来た。千鶴は斎藤の傍で甲斐甲斐しくお弁当を広げて、嬉しそうに笑っていた。

「これは美味い」

 斎藤は蓮根のはさみ揚げを気に入って食べている。高野豆腐のフライも美味いといって喜んで食べた。総司は、ささ身の海苔巻きと卵焼きだけを食べて、もうお腹いっぱいと言って箸を置いた。

「先輩、せめてもう一個、おにぎりを」
「優勝決定戦までずっとあるんですから」

 総司は千鶴に説得されて、「仕方ないな」と諦めたようにおにぎりを頬張った。そして、傍にあった斎藤の顔のついた団扇を見つけて、「なにこれ」と笑っている。斎藤の頬は少し紅くなっていた。使われている写真は、まだ薄桜学園に通っていた高校生の頃の写真で、文化祭に来たナースの陽子に撮られた写真だった。

「斎藤くんは、男前ね」

 いつも陽子は斎藤の顔を見ると大きな声でそう言って笑う。からかわれているのは解っているが、千鶴がその傍で大きく頷くので更に恥ずかしさが増した。ナースの陽子は、千鶴の転院騒ぎのあった日も、斎藤が伊庭を助けて千鶴を奪い返してきたと感心していた。

「彼は剣をもった騎士ね。寡黙でいざという時に必ずお姫様を守るのよ。ほんとに格好いいわ」

 そう言って、うっとりとナースたちと語り合っていた。今も、お弁当のおかずをお裾分けに来るナースやスタッフに斎藤が礼をいって丁寧に会釈すると、向こうで「ファンサよ、ファンサ」と黄色い声を上げて喜んでいる。中には、斎藤の顔のついた団扇を振っている人もいた。

 その時、場内のアナウンスで試衛館の斎藤と総司の名前が呼ばれた。竹刀と道具一式を持って、事務室に来るようにと云う事だった。

「なんだろうね」

 総司は訝りながら、斎藤と急いで観覧席から出て行った。

 

 

*****

茶室にて

 事務所に呼び出された斎藤と総司は、そこに居た近藤と土方から、午前中の試合で、対戦相手が怪我をしたと知らされた。防具の外からの打突の衝撃で肋骨にひびが入った者、打撲が広範囲に広がっている者が数名。審判員がビデオで確認したところ、全て防具への打突で有効であるが、防具の中の身体が負傷するまでの衝撃があることから、竹刀や道具の検分をしたいということだった。

 竹刀は規定通りのものであることは証明された。道具も規定通りのもの。再度のビデオ確認で、違反行為は一切なく、打突は全て有効と判断された。斎藤と総司は目を見合わせて、力加減を緩める必要があることを確認しあった。キネシスの効果は通常の試合では十の内七分ぐらいの力加減で、相手にダメージを与えるには十分だ。

 近藤が試合結果の有効性を主張し、事務所側もそれを受け入れた。近藤には、「キネシストレーニングは、余程竹刀での衝撃度を強めるものなんだな」と感心された。

「君たちは無敵の剣だ。午後も頑張りたまえ」

 力強い近藤の激励に、総司は嬉しそうに「はい、先生」と返事をして笑っていた。

 斎藤たちが事務室に呼び出されている間、千鶴は観覧席で荷物を整理していた。午後は第一仕合場の前の観覧席に決勝戦を見るために移動しなければいけなかった。その時、目の前に天霧が立って会釈するのが見えた。

「千鶴様、お忙しいところをすみませんが、茶室までご足労願います」

 茶室。千鶴は心の中で呟いた。武道館には確か茶室があった。風間が呼び出しているのだろう。千鶴は首を横に振って断った。

「どうしても、大切なお話があるので。お願いいたします」

 真剣な表情で丁寧に頭を下げる天霧に、千鶴は「わかりました」と返事をして荷物を陽子たちに預けて天霧に付いて行った。二階にある茶室は、特別に風間が貸し切りで使っているようだった。中に入ると、風間が寛いで座っていた。

「よく来た。元気になったようだな」

 風間は、千鶴を見上げるように微笑んでいる。天霧が座布団を丁寧に差し出したが、千鶴は遠慮をして横にやりながらそっと畳の上に正座した。丁寧なその所作を風間は気に入った様子で眺めている。千鶴は姿勢を正すと、「何か御用でしょうか」と無表情のまま風間に尋ねた。

「式のことだ。打ち合わせに来ないと云っているようだが、体調も良くなったことだ。今度商談部のものと千鶴の自宅に赴いて、衣装決めをしよう」

 風間は天霧に目配せをすると、天霧がそっとドレスカタログを千鶴に差し出した。

「好きなものを選べばよい。俺はそれに合わせよう」

 風間は、さも自分が寛大で思いやりがあるという風に千鶴に話しかけた。

「式というのは、婚約式のことでしょうか。私は、風間さんと婚約をする気は一切ございません。式に出ることもございません」

 千鶴はキッパリとそう言って席を立とうとした。

「一服していけばよい。午後の試合まで小一時間はある」

 天霧がすかさず盆に立てたお茶を差し出した。

「千鶴にその気がなくても」
「日取りは決まっておる。これ以上、父親の手を煩わすな」

 千鶴は首を振って、立ち上がろうとした。これ以上何を言っても無駄。千鶴はそう思った。

「午後の対戦では、奴を討つ。俺様が本気を出せば、斎藤など」
「二度と剣を振れないぐらいにしてくれるわ」

 斎藤の名前を聞いて千鶴は立ち止まった。

「はじめさんは、負けません」

 千鶴の身体は怒りに震えていた。

「さっきの勝負も、はじめさんが勝ちました」

 千鶴の背後から、風間が静かに笑う声が聞こえて来た。くっくっくっと、さも笑いが堪えられないかのような、人を嘲るような声。

「あれを勝ったと思っておるのか。あの者は、せいぜい小さく身構えて足元から掬い斬るぐらいしかできぬ」
「小者が」
「本物の剣を見せてくれるわ」

 千鶴は、振り返って風間を睨みつけた。黒い瞳には涙がいっぱいに溜まっていたが、千鶴は絶対に涙を零してなるものかと踏ん張った。

「なんだ。そのような態度も、いずれ夫婦になってからでも変えていってやろう」

 例の如く、風間は全く意を解していない様子で、靴を履いて茶室から出て行く千鶴をずっと座ったままで見送った。千鶴は、階段を駆け下りると、一旦武道場の外に出て、建屋の影で思い切り声を上げて泣いた。自分でも小さな子供のようだと思ったが、止められない。悔しさと、悔しさと、悔しさと。

 悔しい。はじめさんの剣を馬鹿にされた。この屈辱は、決して忘れない。許してなるものか。なにが婚約式だ。あんな人と婚約するなら死んだ方がまし。

 建屋の壁を拳で叩きながら、千鶴は泣き続けた。午後の試合開始のアナウンスが遠くに聞こえて、ようやく正気に戻った。大泣きした後は、不思議と気分がスッキリした。お手洗いで顔を洗ってリップを付け直すと、千鶴は観覧席に戻って行った。

 

 

*****

第二戦

「千鶴さーん、こっちよ」

 診療所の応援団が観覧席で千鶴に手を振っていた。そこには、伊庭八郎が座っていた。

「八郎兄さん」
「やあ、観に来たよ。朝の内に病院は終わったからね」

 伊庭は、腕の治療に大学病院に通っていた。怪我は順調に回復しているらしく、痛みもだんだんと無くなってきているということだった。ナースもスタッフたちも伊庭が来ただけで沸き立っていた。伊庭本人にハート型の団扇を持たせて喜んでいる。伊庭は、隣に座った千鶴が泣き止み顔になっている事が気になり、なんどもその横顔を見ていた。だが、仕合場の斎藤をじっと嬉しそうに見つめる千鶴をみて、バイオリズムが下がっているようには見えない様子に内心安堵した。

 決勝戦は、第一シードと第二シードの優秀者との組み合わせでトーナメント戦になっていた。斎藤は順当に勝ち進み、準決勝まで進んだところで再び風間との対戦となった。観覧席の千鶴は、息を呑んで試合を見守った。斎藤は、他の対戦相手には力を抜いていたが、風間を相手に全力で戦った。風間は陰で構える斎藤の手の内を解かっているかのように、絶対に自分からは前に出て来ない。制限時間ぎりぎりまで二人の睨み合いが続いた。最後に間合いを詰めて二人が剣と剣を合わせた時に、風間は力づくで斎藤を圧倒するように迫った。

 鍔迫り合いは、審判が二人掛かりで二人を引き離すように指示をして中断された。

 再び試合開始の宣告の後、斎藤は鋭い突きで風間に迫ったところを右に躱された。低く竹刀を構えたまま左に抜けた斎藤を背後から振りかぶるように風間が襲ったその時、斎藤の軸足が翻った。片膝を突く形で構えた斎藤は渾身の力で風間の胴を真ん中から撃った。同時に風間の剣先が斎藤のこめかみを打った。

 一瞬斎藤が反対側に頭が揺れたように見えて、千鶴は小さな悲鳴を上げた。だが、直ぐに斎藤は構えたままの態勢を保った。同時の打突は、引き分けとされて有効点にはならない。

 再び、位置に戻って試合の再開を宣告された。延長戦になっている。斎藤が頭を左右に振った。

(はじめさん、脳震とうを起こしてるの?)

 千鶴は、さっきの風間の一撃で斎藤がダメージを受けたのではないかと気が気ではなかった。青眼の構えから、八双に変えた斎藤は、軸足を後ろに引いている。凄まじい気迫。右肩どころか、相手に身体の半分をがら空きの状態で構えるのは、態勢で不利になる。それでも風間は、攻めあぐねているように青眼のまま動かない。一歩一歩とにじり寄るように風間は斎藤から見て右側に左足を摺り足で移動をしている。まるで餌を撒くような気持ちで斎藤は待っていた。相手の剣を身体に受けると、衝撃を受ける。

 絶対に相手の一打を許さん。

 相手と力は互角だと思った。リーチの違い、上背の違い。それを地の利とするかは、俺の剣捌きだけだ。斎藤は八双の構えのまま待ち続けた。一瞬、風間の吐く息が止まった。今だ。斎藤は、右足を踏み込んだ。風間が同時に斎藤の胴をめがけて突きの構えで前に迫った。その瞬間、斎藤は渾身の力を込めて両手で小手を掬うように打った。風間の剣先が斎藤の身体から逸れたところを、斎藤は気合の声をあげて、上から降り降ろすように面を取った。面部を思い切り打った衝撃は、相手の頭蓋骨まで響いているのが腕の神経を通して伝わって来る。

 決まった。

 斎藤は、審判の旗が上がるのが見えた時、それでも残心のまま次の一手を取る為に構えた。風間が、物凄い勢いで剣を振り上げた。斎藤は竹刀を横にして右手で物打ちを支えるようにして受けた。肩と腕に響く衝撃。風間は防具の向こうで深紅の瞳をギラギラとさせて斎藤を睨んでいた。

 審判が三人かかりで風間を斎藤から引き離して、試合が終わった。

 風間は勝負決定後に打ち続けた違反行為の注意を厳重に受けた。観覧席からは斎藤に称賛の拍手が沸き起こった。斎藤は面を外した時に、左のこめかみに打撲の痛みを感じた。次の試合まで10分間はある。そのまま医務室に向かった。こめかみにアイシングをしてもらっていると、千鶴が駆け込んで来た。涙顔で「はじめさん、はじめさん」とオロオロとしている。

「大事はない。面を被る為に冷やしているだけだ」
「勝った」
「千鶴のことは渡さん」

 寝台の前で跪いて泣きじゃくる千鶴の頭を撫でながら、斎藤は呟いた。

「次は、【大野さん】とだ。大阪警視庁の剣豪だ。負けられん」

 斎藤は、全国大会優勝の常連【大野健吾】との対戦を待ち望んでいた。大野は居合道大会での覇者で、斎藤が通う居合道道場大阪支部の優秀剣士として名前が通っている。千鶴は、斎藤が真剣な表情で仕合場へ戻っていく背中を見送った。大野との試合は、風間との試合以上に凄まじいものだった。観覧席で近藤と土方が身を乗り出ていた。

 近藤は拳を握りしめて、「斎藤君も引かぬが、相手も引かん」と唸っていた。一本先手を打った斎藤は、二本目は相手に面を取られた。何度も首を振っている斎藤の様子が千鶴は心配でならない。延長戦に入って、斎藤が渾身の突きを入れたがその前に小手を取られて勝負が決まった。大野が決勝戦に進むことになった。

 総司は、何がどうなったのか、下位戦で破れた風間と対戦することになっていた。風間の準々決勝戦の相手が仕合放棄をした為だが、対戦表が墨で塗りつぶされて、不自然な矢印で無理矢理に総司との対戦が組まれているのは一目瞭然だった。土方が、観覧席から文句を言っている声が響いた。

「なんだありゃ、こんな事が国際親善仕合でまかり通るのか」
「おい、理事、不正をするなら訴えるぞ」

 土方の剣幕に、近藤は「トシ、やめておけ。後で俺が掛け合う」といって宥めていた。

 総司は、睨むように風間を見ると、ゆっくりと面をつけ始めた。斎藤の控え場からは総司の後ろ姿しか見えない。だが、その背中からはみなぎる闘志を感じた。思えば、ここ数か月、ずっと二人で風間を想定した手合わせを何百回としてきた。

「はじめくんに万が一のことがあったら、僕が討つ」
「とどめの一発はこう」
「ねえ、あの人の癖知ってる?」

「あんな人、問題じゃないけどね」

 総司の自信は何処から来るのだろう。天性の剣。俺は風間に試合には勝てたが、討ち取るまでは行かなかった。こうして、トーナメントで破れても、風間は無理矢理にでも試合に残る。風間はどんな事があっても諦めないつもりであろう。この試合も、千鶴のことも。ならば、俺も受けてたとう。どんな事があっても。総司が討つなら、俺も討つ。試合でも真剣でも、決して負けてはならん。風間にだけは。

 総司と風間の勝負は、撃ち手の躱し合いだけでも、余りの素早さに審判も戸惑うぐらいだった。場内での打ち合いだが、一瞬で攻勢が変わって場内の別の端まで二人が移動する。目まぐるしい展開。最後に総司が走るように突きの姿勢で風間を場外へ追い込んだ。審判の注意を受けて試合場に戻った風間は、にじり下がる代わりに総司の肩を狙って打って出たが、総司は風間の喉を突いて一本を取った。

 制限時間を大幅に超過していたため、この先手一本で勝負は総司が勝ちとされた。

 ——息の根を止める寸前にした。

 総司は仕合場から下がって斎藤の傍に来るとそっと耳打ちした。確かに、総司が全身の力で喉を突くと、通常なら相手は絶命するだろう。午前中の試合でキネシスが本当に竹刀でも十分に相手に致命傷を負わすことが出来ることが判った。防具の上からの打突の衝撃。総司は自分の威力を十分に把握しているようだ。満足そうな微笑みを見て、総司の残りの試合は問題なかろうと思った。そして、斎藤がそう思った通り、総司は見事に全勝優勝した。

 優勝の楯と賞状を貰って表彰された総司に皆が惜しみない拍手を送った。斎藤は三位決定戦で三位に決まった。入賞者の表彰が終わり、閉会式が無事に終わった。

 皆で道場まで車で戻って、近くの居酒屋で祝勝会が開かれた。これは、総司の壮行会も兼ねた会で、総司のガールフレンドのみよちゃんと駅前ジムのトレーナーの田中も現れた。試合の結果に、二人はとても喜んでいて、キネシストレーニングを短期間でやり終えた斎藤を称賛した。

「斎藤さん、是非トレーニングを続けてください」

 田中は、近藤と土方にも斎藤の可能性を一生懸命説明していた。お酒が入って、いい気分の近藤は、二つ返事で「総司がアメリカに行った後も斎藤君にトレーニングを続けさせましょう」と応えた。そして、みよちゃんは、総司を追いかけて来月渡米することを決めていると言って、皆を驚かせた。

「じゃあ、なに。総司はみよちゃん連れてアメリカ旅行かよ」
「旅行じゃないよ。試合」
「どのみち一緒じゃんか。いいよなっ」

 平助は心底総司が羨ましいと言って口を尖らせた。皆がいい気分で酒を酌み交わしていたが、斎藤の隣に座った伊庭が、斎藤が手酌で飲もうとしたところを遮るように手でグラスを覆って止めた。

「斎藤君、これ以上は控えてください」
「頭は大丈夫ですか。こめかみに打撲があると聞いています」

「今夜は念のため、安静にしてよく休んで」
「明日の朝、診療所に来てください」

 斎藤は突然病院に来るように言われて驚いた。確かにこめかみに痛みはあるが、病院に行くほどのことでもない。斎藤は断ろうとした。

「彼女が心配しています。脳震とうじゃないかと」

 斎藤は、顔を上げて伊庭の顔を見た。伊庭は真剣な表情でじっと斎藤の顔を見ている。

「僕も観覧席から様子を見ていた。少し重心が揺れているようにも見えた」
「脳震盪を軽くみないほうがいい。後遺症が出ると厄介です。診療所でレントゲンをとって、打撲箇所もしっかり治療しましょう」

 伊庭は、必要なら大学病院でも診て貰う事が出来るからと優しい声で説明した。斎藤は静かに頷きながらも、内心で伊庭は大袈裟過ぎるのではと思っていた。テーブルの下の膝の上に千鶴の手が伸びて来た。小さな手を握り返し、そっと指を絡め合った。千鶴は心配そうに斎藤の顔を覗き込んでくる。

「はじめさん、わたし明日の朝、おうちまで迎えにいくから」
「寝ている間も、痛かったら必ず電話してね」

 斎藤は千鶴にそこまでしなくていいと微笑んだ。伊庭に礼を言って、翌朝に診療所に行くことを約束した。翌日、診療所で頭部のレントゲンを撮った斎藤は、頭蓋骨内の脳の損傷や神経挫傷の症状はみられなかった。側頭部の打撲と打突の衝撃で軽い脳震とうを起こしたと診断された斎藤は、暫く経過観察をするということで、トレーニングを休むようにと云われた。

 斎藤は千鶴と駅前のカフェで会い、ただゆっくりと町中を歩いた。空気は冷たいが、陽の光は明るくて、手を繋いだ二人は薄桜学園の近くの神社の境内まで足を伸ばした。

「桜の蕾がまだ固いまま。でも沢山」

 高台にあるベンチから目の前の桜の木を見上げながら千鶴が嬉しそうに笑顔を見せた。千鶴はそのまま長い睫毛をそっと伏せるようにゆっくりと閉じると、顔を近づけた斎藤の口づけを待った。温かい腕の中でこの瞬間が永遠に続くことを千鶴はずっと願い続けていた。

 

 

*****

総司の旅立ち

 それから3日後、総司はアメリカでの剣術大会出場の為に日本を出発した。

 空港まで見送った千鶴と斎藤は、出発ゲートで総司がみよちゃんと熱烈なキスを交わして抱き合う姿を見ながら、改めて総司が遠いアメリカに旅立っていくのだと実感した。

「おい、いつまでやってんだ。ったく。土産忘れんなよ」

 平助が、ゲートのロープの前から大声で叫んだ。

「平助、例の件」
「わかったって、任しとけって」

 総司は、ゲートの暗がりから顔だけだして「ファイル確かめてよ」と平助に念を押している。斎藤と千鶴は総司に手を振った。総司は大きく手を振った。

 翡翠色の瞳が出国ゲートの暗がりに消えて行くのが見えた。

 

つづく

 

→次話 FRAGMENTS 19

 

 

(2020/04/26)

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