白岩

白岩

戊辰一八六八 その19

萩ノ倉山

 ずっと長く聞こえていた赤子の鳴き声が止んだ。

 千鶴は板の間に敷かれた筵の上で蹲るように横になって、じっと夜が明けるのを待っていた。ここは羽鳥村から鶴沼川沿いに西側の丘陵地帯にある萩ノ倉山。山の中腹にある小さな小屋に千鶴は地頭と共に逃げた。小屋の中は、一緒に避難した街道の住民でいっぱいだった。土間で横になる者、女子供と年寄りは板の間に。乳飲み子を抱えた人が、泣きじゃくる赤子をずっとあやしていた。

 新選組が羽太から出陣して丸二日が過ぎた。千鶴は羽太関屋村の地頭と共に、街道沿いで待機していたが、新政府軍が街道を上って来ていると報せを受け、山間部に避難することになった。急な移動だった。持てるだけの食糧を背負い、ひたすら歩き続けた。山道に入る前に、風に乗ってきな臭い匂いが漂ってきた。その直後、背後の街道が火の海になった。それは一瞬の出来事だった。

 飛んでくる火の粉を避けるように、木々の合間を縫って急ぎ足で山の中に分け入って行った。何かが弾けるような音が聞こえる。恐ろしい。橙色の空、足がすくむ。身体に力が入らない。どっちに行けばよいのだろう。木々が焼ける匂い。怖い。

「こつらです」

 思い切り腕を引っ張られた。地頭は、頭の手拭を脱ぐと、千鶴の頭を手拭で覆うように被せて、顎の下で結んだ。

「走ります」
「荷物が重げれば、おらに」

 千鶴は頷くと手を引かれるままに走った。息が切れて、喉から血の味がする。それでも足は動かさなければならない。背中から熱い空気が押し寄せてくる。

 敵の焼き討ちから逃れた千鶴たちは、小さな小屋が数軒立つ広場に出た。冷たい風が吹き抜けている。かなり高い所まで登ったのだろう。辺りは静かだった。千鶴は促されるままに、山小屋の中に入り、沢山の避難民と一緒にようやく腰を下ろした。

「こごは萩ノ倉山だ。街道は川沿いをずっと焼かれでいる。それでもこごは安全だ」

 地頭の説明で、敵軍が羽鳥を過ぎて更に湯川まで街道を上って行ったことが判った。新政府軍がここまで上ってくるということは、白河城の傍で闘う新選組は……。斎藤さんは白河から無事に逃げ果せているのだろうか。

 味方が見えても、敵が押し寄せてきても。あんたには山の中で隠れていて貰いたい。

 斎藤さんは、山の中で隠れていろと仰った。絶対に街道に下りるなと。ここは安全な山の中。ここで隠れていれば、必ず斎藤さんが戻っていらっしゃる。千鶴は手を合わせて祈った。

 必ず、ご無事に戻っていらっしゃる。

 千鶴は、羽太関屋村の陣で斎藤と話をした夜を思い出していた。

 南会津では、同盟に賛同する藩が順に北上して堅固に街道を守っていると伝達があった。
会津は決して墜ちぬ。

 斎藤さんは微笑んでいらっしゃった。きっと戻っていらっしゃる。きっと……。

 

******

鬼面山

 千鶴が潜む萩ノ倉山から北に一里離れた場所に岩山がある。聳え立つ絶壁の山頂は鋭く尖り、まるで天を突くよう。遥か以前太古の昔、この巌に鬼の王が降り立ち、ひと股で白岩に足を伸ばしたという言い伝えがある。東国には古より神と共に悪鬼と闘った強靭な鬼が居た。鬼王丸はそのひとり。東国に暮らす者たちは禍から守られ、いつしか鬼王丸は鬼面大明神として東国の民から崇められるようになった。東国で鬼が降り立った巌は「鬼面山」と呼ばれ、山そのものが神とされている。

 棚倉を偵察していた不知火は、土佐藩迅衝隊が白河に破竹の勢いで上っていく後を追った。仙台田村の鬼塚のある一関から雪村の郷のある白岩の鬼塚に繋がる結界は、決して人間に破られることはない。だが、東国一帯が戦火に包まれたら、嘗ての結界破りが起きないとは限らない。不知火は、慎重に会津周辺の鬼面山をしらみつぶしのように確認して回った。東国に無数にある鬼面山、鬼の巌群。

 鬼塚の結界破りが起きれば、鬼面山のどこかに異変がある筈だ。

 既に会津街道は大谷地から上小屋まで焼き討ちに遭っていた。薩軍は広範囲に掃討作戦を布いている。白岩方面には、風間が天霧と向かっている。不知火は山頂から西の山々を振り仰いだ。森の木々が焚かれているのが見えた。ふと絶壁の巌麓に人間の気配を感じた。腰のリボルバーをしっかり手で押さえ、不知火は絶壁の崖から飛び込むように頭を下にして飛び降りて行った。

 暗闇に蠢く者。新政府軍の斥候。
 いやちがう、会兵か。

 怪我を負った者が足を引き摺りながら、林の中に分け入って行く姿が見えた。山中を敗走し向かう先は、峠を越えて福良。だが太平は焼き討ちだ。その時、ふと街道側から別に何者かが近づく気配を感じた。不知火は、会兵が消えた林に入ると、樹上に飛び上がって身を隠した。土佐藩の腕章を付けた者が数名。斥候のようだ。男たちは巌麓を素早く駆けまわって、敵兵が潜んでいないか確かめているようだった。土佐軍が大平まで迫って来ている。恐らく薩軍も上がってくるだろう。

 不知火は気配を消しながら、さっき敗走していった会軍の小隊を追った。奴らが、峠に向かうなら、この一帯は山焼きに遭う。鬼面山に異変はなかったが、白岩の鬼塚にも火の手が広がる。

 結界破りが起きないとも限らねえ。

 不知火家は、代々日の本の原神仕えとして諸国の鬼の郷を守る役目を担っている。西国と東国で鬼の世は大きく分かれているが、日の本中の鬼の一族と鬼が住まう地を護る。白河にいる土軍に羅刹隊がいる可能性があった。迅衝隊の勢いは止まらない。だが棚倉と違い、白河以北は農民までが武器を持って新政府軍の進軍を防いでいる。抗う地元の民。

「人間同士の諍いに興味はねえ」

 独り言を言いながら、木から木へ飛び移る。不知火は、昼間白河城近くで見た、剣一本で小銃隊に立ち向かう老武者の姿を思い出していた。柏野への街道を背に、土佐軍の進軍を阻む一人の侍。白髪に鉢金、漆黒の胴回し。敵兵に「拙者、飯野藩藩士、森要蔵と申す」と自ら名乗りを上げ、「藩命により、これより先へは一歩も通さん」と両手を広げて仁王立ちになった。その堂々とした佇まい。眼光の鋭さに、銃隊の最前列に居たものは怖気づき、一歩、一歩と尻ごみするように下がって行った。

 おもしれえ。

 山影からその様子を見ていた不知火は思った。老武者の抜いた刀は黒光り、その構えから熟練の手練れであることがよく判った。背後には助太刀に立つ少年が、同じように青眼に構えて、「父上、いざ。斬り込みましょう」と気合を入れている。小銃を持った兵士が、バタバタと斬り倒された。背後から土佐軍の小隊長が、「撃て」と声を上げてようやく銃砲音が響いた。集中砲火を浴び、老武者は倒れた。背後の少年も全身に弾を受けて刀を構えたまま前のめりに崩れて息絶えた。この二人の背後で砦を築いていた飯野藩小隊は凄まじい攻撃で土佐軍を撃退した。人間の中には、時々こういった骨の太い奴がいる。相手が百人だろうが千人だろうが、銃を持っていようが、大砲を向けて来ようが、身一つ、剣一振り、槍一本で向かっていく。向こう見ずな。だが、それが侍だ。

 勝ち負けだけじゃない
 矜持や誇りってやつか

 不知火は、八瀬の里に匿った原田左之助を思った。

 奴さんもそろそろ全快して、戦に出たいと思っている頃だろう。

 土佐軍の掃討部隊が会兵を追いかけていく中で、今一度迅衝隊がどこに布陣しているのかを確かめておこうと思った。もし迅衝隊と共に羅刹隊の残党が北上しているなら、不知火は羅刹を殲滅するつもりでいた。

 

 

****

大岩山

 夜が明けた。千鶴が潜む萩ノ倉山の避難民は、近くの水場へ移動した。各村落の地頭で話し合い、山襞を西へ抜けて大岩山に移動をすることになった。

「本当だら八左衛門沢まで出だほうが福良さ出やすいが、女子供には道が険しい」

 地頭は萩ノ倉山より福良に向けて出来るだけ早く移動をした方が安全だという。羽鳥一帯に東軍が居る限り、山が全て焼き討ちに遭うからだ。千鶴は斎藤達が新政府軍に追われ、逃げ場がなくなるのではと思い、居ても立っても居られない気分になった。懐から山間移動図を取り出して、斎藤達のいる場所を地頭に訊ねた。

「白河から福良を目指されているなら、会軍は今どこにいるのでしょう」
「羽鳥さ上ってぐるんだら、湯川、湯本。大谷地牧野内さ出でるがもしれねぇ。山さ逃げ込んでだら、勢至堂が安藤峠にでる。おらだぢは、安藤峠目指す。黒沢村におらの親戚が居る。雨風しのぐ場所もあっから、そごへお連れする」
「あんどう峠……」

 千鶴は、移動図に目を凝らして安藤峠を探した。遥か北西にある山。斎藤さんもそこを目指されているのだろうか。もしかしたら、勢至堂から福良に向かわれているのかもしれない。きっと、焚き上げにあった街道の村落を避けて、間道を進んでいらっしゃる筈。きっと無事に。

 きっと、ご無事に……。

 千鶴は、地頭に促されて山を移動する準備をした。なだらかな道が続くと云われていたが、実際の山道は狭い尾根を行く厳しい道行だった。途中南側の街道を見下ろせる場所に出た。焼き討ちに遭い、全てが廃墟のようになっていた。川沿いの木々も焼かれて燻った煙が空を黒く染めていた。

 大岩山に辿り着いた時、既に日が暮れかけていた。女子供だけが小屋の中で休み、男衆は建屋を取り囲むように筵に包まって休んだ。皆が持ち寄った食糧は残りわずか。大岩山に留まることは不可能だろう。山を下って更目木の集落に向かわなければない。更目木は赤石川に沿ってある村で、大平から北の峠に向かう途中にある。地頭はもう既に更目木も焚かれているかもしれないと言っている。

「黒沢村へは、西の山さ入っから大丈夫だ」

 心配そうに地頭を見上げた千鶴に地頭は優しく答えた。千鶴はいつでも出発できるように身仕舞を整えて床に蹲った。黒沢村で待機して斎藤さんを待とう。山の中で待っていれば必ず。必ず、帰陣される斎藤さんに会える。

 まだ暗い内に大岩山を下りて行った。遠くに川の流れる音が聞こえている。険しい山道を下りると、渓流と岩場が続く。更目木の沢は大きな谷地で、畑が荒らされていなければ食糧が手に入るということだった。千鶴は兵糧の確保を第一に考えていた。新選組が帰陣した時に、一番に必要なのは食糧。空腹では移動も戦うことも叶わない。

 岩場から岩場へ。水の中に入ることも怖がってはいられなかった。千鶴は革靴を脱いで、藍の刺し子足袋に草鞋に履き替えていた。どちらもご城下で準備していたものだ。この方が水場は歩きやすい。団袋の裾に巻いた脚絆も、休む時に外して干しておけば半日で乾いた。千鶴は精力的に女子供の移動を手伝い、陽が高くなる頃には、更目木の集落に辿り着いた。そこは、およそ戦が起こっているとは思えない風景が広がっていた。緑の稲穂が広がり、川沿いに大きな水車小屋が並び、畑には沢山の葉物が生い茂っていた。地頭が集落の地頭の元へ赴き、空き家に身を寄せることが許された。有難い。どこからか、炊き出しを始める音が聞こえ、村の女衆が握り飯を配りにやって来た。良かった。羽鳥村の皆さんが、これで飢えずに済む。千鶴は久しぶりに口にする米粒の味に感謝しながら噛み締めていると、地頭が穀物札を持って千鶴の下へ戻って来た。

「これは会津さまがら頂いだ穀物札だ。これで、米や粟分げで貰う。荷車用意すっから運ぶの手伝ってもらいでえ」

 千鶴は直ぐに食事を終えて、地頭を手伝った。更目木の集落は豊かな場所らしく、村民は皆気前よく、野菜も持って行けと言って、どんどん荷車に食糧が積まれて行った。

「こごもいつ焼ぎ討ぢに遭うがもしれねぇ。そんだがら、持って行げるだげ持って行げ」

 荷車を押していると、次々に建屋から住民が物資を載せてくる。有難い。千鶴はずっと礼を言い続けた。その時、遠くに大砲の音が聞こえた気がした。谷間にこだまするように、何度も聞こえる。近くに敵軍が迫って来たのか。千鶴は思わず、辺りをキョロキョロとしたが、既に集落の住民は建屋の中に隠れてしまっていた。地頭が空き家のある場所まで急ごうというので、千鶴は荷車を押して村落の外れに向かった。

 どーーん。

 また大砲が放たれる音がした。銃砲音も聞こえる。太平口方面からだ。千鶴は、大岩山から見た廃墟を思い出した。焼き討ちのあった街道で、西軍と東軍が戦っているのだろうか。もしかすると、斎藤さん達かもしれない。きっと白河から、福良に向かわれる途中の太平口で闘うことに……。

 地頭に促されて、千鶴は建屋の中に入った。既に、避難民たちはまた移動する準備を始めている。千鶴も自分の荷物を身体中に縛り付けた。これで、荷車さえ準備すればいつでも。そう思って、再び建屋の外に出て荷車の荷物を整えた。地頭が小屋の裏にある筵を持ってくると言って背中を向けた時だった。銃砲音が鳴り響いた。

 地頭の背中から一筋の煙が立ったのが見えた。そのまま両膝をがくりと地面についた地頭は、前に首を垂れたまま倒れた。千鶴は駆け寄った。地面に突っ伏した地頭の上に覆いかぶさると、次々に鳴り響く銃撃の音が聞こえた。千鶴は地頭がこれ以上撃たれないように必死に守ろうとした。小屋の中からは、女たちの悲鳴が聞こえていた。西軍が攻めてきた。その瞬間だった、「うぉーーー」という叫び声と共に、村落の男たちが鎌や槍、短銃を持って川沿いに走って行った。農兵部隊。集落では、太平口から北へ西軍の進軍を阻むように農兵部隊が布かれていた。

 千鶴は地頭が地面に突っ伏したまま絶命していることを確かめると、その亡骸を引き摺って小屋の中に入った。皆が啜り泣く中、筵で亡骸を覆い、手拭を顔の上にかけて手を合わせた。「関屋村の大助さま。守っていただき、有難うございました」千鶴は瞳から流れる涙を拭いながら、大助が向かおうとしていた黒沢村へ移動することを亡骸に誓った。

 地頭の死は、避難民に動揺を与えていた。千鶴は立ち上がって顔の涙を拭くと、これから黒沢村まで移動することを皆に伝えた。

「ここから、黒沢村に向かいます。更目木の皆さんも避難されるかもしれません。皆で力を合わせれば、きっと安藤峠を越えることも叶います」
「会津は援軍に守られています。お城は決して落ちません」

 会津は決して墜ちぬ。大丈夫だ。

 千鶴の心の中で斎藤の声が響いていた。千鶴は避難民を促して移動の準備をさせた。砲撃の止んでいる間に集落を抜けて、山間に逃げよう。この人たちを絶対に死なせてはならない。

 山と山に挟まれた豊かな谷地は、既に西側の山に陽が隠れ、辺りは翳り初めていた。

 

 

*****

 

 更目木の集落の村民は、太平口で闘っている農兵部隊を覗くと、百名にも満たない。

 千鶴は、残った村民が集落を離れて山間に避難する事を確かめた。多くの村民が千鶴たちと一緒に黒沢村へ向かう事が決定していた。先頭に更目木の地頭が皆を誘導する。千鶴は、もう一度、荷車の食糧を確認した。狭い山道を行く時は、荷物が傾くのを防がなければならない。千鶴はもう一度、小屋の裏手に廻って筵が残っていないかを確かめに行った。

 その時だった、砲撃の音が聞こえた。振り返ると、川向こうの林が燃えている。火のついた弾のようなものが空から降って来た。小屋の向こうで、人々の叫び声がしている。地頭や男たちが物凄い勢いで逃げていく姿が見えた。千鶴は荷車に向かって走ると、村民が数名がかりで押すのを手伝ってくれた。どの時、誰かが叫ぶ声が聞こえた。女の人の声。

「そうた、そうたー」

 誰かを呼ぶ声。山に向かう人の中から、泣き叫ぶ女の人が飛び出してきた。誰かを探しに集落に戻ろうとするのを皆が止めている。子供の名前を呼んでいるようだった。千鶴は振り返った。村落まで五十間ほど。子供がまだ村に残っているかもしれない。そう思った瞬間、千鶴は荷車から離れて走り始めていた。子供。あの女の人の子供を探そう。

 背後から呼び止められる声が聞こえたが、千鶴は走り続けた。もう既に陽が完全に隠れて夕闇が迫っている。村落の中心に向かって、「誰か、出て来て」と大声で呼びかけた。その時だった、空から降って来た炎のついた弾が目の前の建屋にぶつかった。一瞬で火の手が上がった。千鶴は立ち止まって、別の建屋の影に身を寄せた。熱い空気が辺りを包む。

 ばきっという大きな音がして、自分の身を寄せた建屋にも火が上がった。千鶴は慌てて建屋の外に出た。炎の玉を逃れる為に、裏山の林の中に逃げようとした。すると目の前の林に火がついた。あっという間に炎が上がり、千鶴は行く手を阻まれた。後ずさると背中が熱い。背後の建屋全てが燃えている。

 どうしよう。
 足がすくんで動かない。怖い。助けて。

 千鶴は両腕で顔を覆って、炎の熱気から身を護るように蹲った。

 ちづる、おいで
 こっちだ

 誰かが手を握って千鶴を立ち上がらせた。

 だいじょうぶ
 にいさまがついてる

 にいさま

 目の前の炎が一瞬止んだ。誰かが手を引いている。誰? 目を開いても熱気で何も見えない。

 こっちだ
 おいで

手を引かれるままに進む。熱い。火に巻かれている。息が出来ない。

 にいさま
 かおる

 どこ

目を開けても、見えるのは炎だけ。

 かあさま
 とうさま
 かおる
 どこにいるの

 もう動けなくなっていた。炎に包まれた。これ以上進めない。大きな炎が迫って来た。千鶴は両腕で身を庇うように蹲った。耳には、自分の声がずっと響いていた。遠い昔。うんと小さかった時の自分の声。

 にいさま
 かおるにいさま

 どこなの

 一瞬、冷たい風が吹きつけた気がした。息を吸い込んだが、目の前が暗くなり、千鶴はそのまま気を失った。

 

 

****

 

明神滝

 太平口から北西に二里離れた山奥に美しい滝がある。

 古来より人びとはこの滝に神が宿ると信じ祀って来た。三丈ほどの高さの小さな滝だが、二股に分かれた瀑布は清らかな水を坪に落とし、その姿は大層優美なものだった。滝の左側には大きな一枚岩が横たわるように佇み、舞台のようになっている。岩の奥には小さな祠があり、榊としめ縄が飾られている。

 しっとりと濡れた祠の前に、降り立った影があった。

 闇の中に浮かぶ影。灰色のフロックコートを着た金髪の男は、跪くと腕に抱いた雪村千鶴の顔を覗き込んだ。千鶴の長い睫毛が下りた頬は熱を持っているかのように朱く、垂れ下がった腕の先に酷い火傷を負った手が見えた。

 無理もない。いくら鬼といえど、炎に巻かれれば瑕は直ぐには癒えぬ。

 風間は出来る限り、水しぶきがかかるように岩の端に千鶴を横たえるようにした。その時、ふと何かが光るのが見えた。千鶴の腰に差した小太刀。光はその鯉口から洩れている。風間は柄に手を掛けて、そっと小太刀を抜いた。眩しい程の光を放ちながら小太刀は輝いた。強い力で水に引き寄せられる。

 滝の水しぶきがゆっくりと集まるように小太刀に向かってくる。風間は驚きながら、そのまま滝の水が小太刀に集まり一層輝くのを見ていた。その瞬間、滝の上から物凄い勢いで水が落ちてきた。辺り一帯が霧に包まれたようになり、水中にいるかのように青い光が取り巻く。それまで見えていた岩場の景色が、水の壁の向こうにぼんやりと見える。冷たい空気に、腕の中の千鶴の焼けた肌が冷やされ癒えていくのが見えた。千鶴は息を吹き返したように、ゆっくりと眼を開けた。ぼんやりと風間の顔を見ている。

 意識が戻っていないのか。その黒い瞳には、青い光が映っているが無表情のまま。そして、再び瞼がゆっくりと閉じて行った。同時に辺りの光は消えて行き、滝の水は小通連の先から離れて元の瀑布に戻った。風間は、そっと小太刀を千鶴の腰の鞘に納めた。

 千鶴の頬に触れてみた。もう熱はない。

 風間は安堵した。

 数日前に白河城内の東征軍総督府より、賊軍掃討作戦に参加するよう要請された風間は、白岩周辺地域の偵察を買って出た。東軍と西軍の戦には、風間は端から関知しないと決めていた。だが、鬼の郷が荒らされることを許すつもりはなかった。不知火から、鬼面山以西が焼き討ちに遭う事を防ぐように忠告されていた風間は、薩軍の進軍をいつでも阻むことが出来るように太平口で待機していた。

 不思議なものだ。

 風間は腕の中の千鶴の顔を見ながら思った。この者に危険が迫った時、直ぐに察知することが出来た。

 東国を統べる者。

 その力がそうさせたのか。白岩に近いこの場所で、小太刀の力が発揮されたのか、わからぬ。だが、鬼の力が雪村千鶴を護ったのなら、それは雪村の郷の力だろう。男鬼である己にそれを護るよう働いたか。風間は、ふと息をつくように笑みが口もとから漏れた。腕の中の千鶴は無事だ。その命を守ることができた。

 風間は身の内から憂色が晴れた気がした。

 じっと千鶴の顔を覗き込むように眺めた。静かに眠り続けるその顔は、以前白河の城で会った時より、幾分大人びて見えた。幕府の犬どもと戦に身を置き、寸でのところで命を落としかけた。人間の諍いにこれ以上関わる必要はなかろう。

 風間は千鶴を抱え直した。ここに戦火が及ぶ前に向かおう。

 其方の里へ。
 誇り高き雪村の一族の地へ。

 その時、千鶴がゆっくりと眼を開いた。自分の顔を覗き込む目の前の風間の深紅の瞳を見て、千鶴は大きく目を見開いた。口を開いたまま声が出て来ない。それまで弛緩していた千鶴の身体がこわばった。身じろぐように、身体を離す。突っぱねた腕が風間の肩を押した。風間は千鶴を開放するようにそっと岩の上に座らせた。

「薩摩と土佐軍の追っ手が来る」

「皆さんは……」
「……村の人たちは、どこに……」

「百姓どもは山に逃げた。川辺の里は焼き討ちにされた」

 千鶴は辺りを見渡すように眺めると、風間を警戒するように後ずさった。

「動くな。滝坪に落ちるぞ」

 背後に滝の落ちる音が響いている。風間は一人きりのようだった。千鶴はどうやって逃げようか迷った。自分がどこに居るのかも判らない。村落の人たちとはぐれてしまった。黒沢に向かわなければ。

千鶴は腰の小太刀に手を掛けた。風間は手を差し伸べ、「来い」という。

「あなたとは行きません」
「そこを通してください」

 首を横に振りながら、千鶴は身構えた。風間は溜息をつくと、岩から背後に飛び降りて行った。千鶴はゆっくりと前に進んだ。岩の下までどれぐらいあるのだろう。千鶴が下を覗き込んだ時、岩場の向こうの林に風間の金色の髪の毛が浮かんでいるのが見えた。もうあんなに離れたところにいる。千鶴は、風間が素早く移動していく様子に驚いた。そして、ゆっくりと岩の下に下りていった。大きな岩場の間を、そっと手をつきながら進む。瀑布の音と、川の水が流れる音が聞こえる。冷たい風が時折吹き抜ける。清涼な風。千鶴は少しふらつきながらなんとか林の傍の平らな場所まで出た。その時不意に風間が目の前に現れた。

 風間は光る剣で、近くの竹を切ると、それで傍の巌の間に湧き出る水を掬って、千鶴に差し出した。千鶴は恐る恐る手を伸ばして、竹節を受け取り、中の水を飲んだ。

 生き返る。

 そう思った。風間は千鶴に手を伸ばして、竹節を受け取ると、再び水を掬って千鶴に飲ませた。ごくごくと水が喉を伝う音がしている。風間はじっと千鶴の様子を眺めていた。そして、水を飲み終えた千鶴の手を引いて抱き上げた。

「それ以上動くな。まだ完全に癒えてはおらぬ」

 そう言って一気に飛び立った。千鶴は慌てた。抗おうとしたが、風間の腕の力は強く。抱きしめられたまま千鶴は動くことが出来なかった。耳に轟々と風の音が響く。それでもなんとか首を反対側に振り返るようにして、自分が、一体どこに進んでいるのかを確かめようとした。

 風の音の中に、水の流れる音が聞こえていた。暗い闇の中に黒い木々が見える。林の中を過ぎているのか。千鶴は必死に首を振り仰ぐように後ろに向けた。明るい光が見えた気がした。橙色の光。あれは、炎。山が焼かれている。金属がぶつかるような音がした。武器と武器がぶつかる音。誰かが戦っている。斎藤さん。斎藤さんかもしれない。

 千鶴は強く風間の腕を掴んで思い切り離れようと腕を突っぱねた。風間は無表情なまま千鶴の事を見ている。抗う千鶴を落とさぬように。風間は、口元を強く結ぶと、千鶴の後頭部を覆うように掌で抑えて自分の胸に抱いた。

「じっとしていろ」

 急降下するような感覚が走った。怖い。まるで空から落ちるような。

 それまで冷たいと思っていた空気が止まった気がした。草を踏みしめるような音。千鶴は目を開けた。風間の腕からの逃れるように抗うと、風間はそっと千鶴を地面に立たせた。千鶴は、後ろに均衡を失って倒れそうになった。風間の腕が伸びて千鶴を抱くように真っ直ぐに支えた。

「無理をするな」

 頭上から風間の声がする。その時だった、林の向こうからどっという音がした。地響きがする。人の叫び声も聞こえた。鉄砲の銃撃音。暗闇の中で、撃ち合いが起きている。千鶴は背後の林の向こうに新政府軍が迫っていると思った。

「このまま、そなたを白岩の鬼塚に連れて行く」

 風間が再び、千鶴を抱き寄せた。

「鬼塚は近い」

 風間が千鶴を抱えた瞬間、銃声がした。林の中から、大軍が押し寄せてきた。千鶴は風間の腕を振り払うように逃れた。一瞬見えた腕章。白地に赤い誠の文字。蒼い髪。

「斎藤さん」

千鶴は叫んだ。泣き叫ぶような声が響いた。その瞬間、暗がりに青い閃光が走った。

 風間は千鶴を抱えたまま、背後に跳ね飛ぶように下がった。暗がりに光る碧い瞳。空気を劈くような鋭い音と共に、打刀が迫った。目にも見えない速さで、青い光が風間を斬り裂こうとする。

「その者を放せ」

 風間は、千鶴を自分の背後に下ろすと、腰の太刀を抜いた。その前に構える斎藤の背後では、黒い陣羽織に韮山帽を深く被った軍団が新選組小隊と斬り合っていた。紅い瞳が光る黒い軍団。異様な様子で蠢くように前に迫る。風間は、この場に居る全員を成敗するつもりで斬りかかった。

 風間の太刀を受けて、斎藤の髪は銀色に変り、凄まじい勢いで初太刀を跳ね返した。深紅の瞳が下から睨むように風間を見上げると、斎藤は地面を蹴って渾身の一撃を風間に見舞った。

 斎藤さん。

 千鶴の叫び声が響いた。地面に下ろされた態勢から、千鶴は四つん這いになって、必死に立ち上がると前に足を出した。地面が斜めに見える。懸命に、斎藤の名前を呼び続けるが、目の前にいるのに届かない。

「下がって居ろ」

 風間の大きな声が聞こえた。斎藤は容赦なく、風間を林の方に追い詰めていた。剣が空気を斬る音が響く。千鶴は、膝をついてなんとか立ち上がった。斎藤さん。斎藤さん。

 その時だった、目の前の羅刹軍団から銃撃の火花が光った。直後に耳をつんざくような鉄砲音が鳴り響いた。

 ぐっ

 呻き声が聞こえた。千鶴の前で、どさっという音とともに、影が蹲った。

「風間」

 低い声が響き渡り、風と共に黒い影が飛んで来たように見えた。大きな影は、千鶴の前でしゃがみ込み、倒れた風間を抱き起した。風間は、自分の胸を見た後、ゆっくりと顔を上げて、千鶴を見上げた。茫然と立つ千鶴の無事を確かめると、ゆっくりと手を挙げて、宙を指さした。

「鬼塚の……結界へ……」
「……急ぎ……、行け……」

 絞り出すような声で、何かを伝えようとしている。

 千鶴は腕を引かれて、背後から抱きしめられた。斎藤さん。

 斎藤は千鶴を庇うように前に立って、剣先を風間と天霧に向けた。一歩一歩後ずさって行く。

 林の向こうでは、短銃を放つ音が何度も聞こえ、新選組は、敵の羅刹隊を押し返していた。千鶴は、斎藤が背後に伸ばした腕に掴まりながら、横たわる風間を見詰めていた。

 斎藤は、風間が太刀を手放し、天霧に戦意がない事を確かめ、二人を睨み続けた。その瞬間、千鶴が背後から腕の下をすり抜けるように前に出て行った。ふらふらと前に進むと、まるで突っ伏すかのように、風間の足元に膝をついた。

 千鶴は震える手で、風間の身体を足元から擦って行った。そして、両手をぎゅっと握りしめた。

「止血を」

 首に巻いた襟巻を解いて、風間の胸の上着を開いて、傷口にあてがった。両手で思い切り圧迫する。ドクドクと心の臓から溢れるように血が流れてくる。止まって。どうか。止まって。

 千鶴は、左手で風間の胸を強く抑えながら、腰に巻いてあった合切袋から手拭と晒しを取り出した。素早く、風間のシャツを開いて傷口を確かめた。風間の肩を持って、脇の下に頭を突っ込むようにして、抱き起し背中の瑕を確認した。

「弾は貫通しています」
「止血を」

 千鶴は背中の傷に手拭を当てて圧迫し、そっと風間の上半身を抱きかかえるように仰向けに寝かせた。さっきまで、息をしていた風間は、目を閉じたまま動かなくなっていた。

 天霧は、その様子を見て、首を横に振って項垂れている。いいえ、そんな事はない。

「諦めてはなりません」

 千鶴の声が響いた。

「心の臓を圧迫します」

 千鶴は、風間のシャツを思い切り破るように開いた。そして、自分の上着を開いて、シャツの裾を引き千切って破るとそれを当てて両手で抑えた。どくどくと溢れる血液。どうして、どうして止まらないの。

 とうさま、とうさま、
 どうして

 白河城で父親の鋼道が心臓から血を流していた姿と重なる。父さまみたいに、どんどん冷たくなってしまうの。血が止まらない。どうすればいいの。

 掌の中の晒しもシャツの切れ端も真っ赤な血に染まっている。だが、風間の血は温かかった。胸も皮膚も。千鶴は、手を伸ばして風間の首や顎、頬を触ってみた。温かい。震える手をそのまま、晒しをとった傷の上にあてがった。

「止まって、お願い」

 全身全霊を込めて祈った。

 斎藤は、立ちすくんだままずっと千鶴が風間の手当てをする姿を見ていた。千鶴の異変に気付いたのはその直後。千鶴の髪が銀色に変り、結い上げていた紐が解かれ、流れるように髪の毛が広がった。それと同時に、千鶴の前身が光を放ち始めた。異変を感じているのは、傍に跪く天霧も同じようだった。じっと千鶴の姿を見るその目は大きく見開かれていた。

 風間の胸を押える手は輝き、眩しいぐらいの光が身体の傷口を覆うように。そして、その傷口から更に強い光が放たれていた。

 守るものがあるのなら
 死んではなりません

 生きて
 生きて

 風間は温かい光に包まれていた。耳に響く声。優しい。遠い昔に聞いた。あの声。

 生きて
 坊や

 わたしの坊や

 そなたは生きて
 わたしのぶんも

 生きて

 目を開くと、そこに金色に輝く瞳があった。白い光。温かい。ひかり……。

 包まれる。暗闇は去ったか。

 風間が息を吐いた気配がした。息を吹き返した。千鶴は、触れている心の臓が、規則正しく鼓動を打つのを掌に感じた。ゆっくりと光が消えていく。心の臓の傷は埋まり、流血は止まっていた。天霧が茫然としながらも、安堵の表情を見せている。ゆっくりと風間が目を開けた。

 黒い瞳。

 大きな瞳がじっと覗き込んでいる。黒髪が帷のように己の頬を覆っている。どこかで見た。黒い瞳。昔から知っている。大きな美しい双眸……。

 ゆっくりと風間の手が動いた。千鶴の右手の甲の上に重なるように置くと、震える手でそっと胸から千鶴の手を剥がした。

「行け……鬼塚に……」
「そなたの、……郷へ……」

 銃砲が鳴り響いて、風間の声は打ち消された。斎藤の手下が数名、林の中から走り戻って来た。短銃が撃ち放たれる音が何度も聞こえる。林から後ろ向きに飛び出して来た影。不知火匡。黒い髪を高く結い上げ、ズボンに編上げ靴。逞しい腕が黒い腹当ての肩から前に伸び、両手に持ったリボルバーから赤い眼の羅刹隊に、連続砲火を浴びせていた。銃弾は、羅刹の眉間に命中し、次々に黒い韮傘軍団は灰と化していった。

 もう一人の鬼か。なにゆえ鬼の連中が羅刹を倒す。斎藤は再び剣を抜いて構えた。

「おい、風間。そろそろ引き上げだ」

 銃を放っていた鬼は、地面に横たわる風間の異変に気付いていないかのように、普段と変わらぬ様子で、ずかずかと近づいてきた。一歩、前へ出た斎藤に、不知火は素早く銃口を向けた。

「おっと、そこまでだ」
「新選組の残党さん、命がある内にここから逃げるのが身のためだ」

 皮肉な表情で口角をあげたまま、不知火は背後で剣を構える斎藤の部下たちを窘めた。その間も、千鶴は合切袋から取り出した軟膏を風間の傷口に擦りこむと、優しい手つきで、シャツの前を閉じた。天霧が引き継ぐように風間を膝に抱えて支えた。

「この先、乾の方位に白岩の鬼塚があります」

「森を抜けられれば」
「鬼面山に出られるでしょう」

「長沼、勢至堂も近い」

 天霧は、千鶴と斎藤に道行を説明するように千鶴たちの背後の山を指さした。

「掃討軍が来ます」
「早く、向かわれた方がよい」

 千鶴は立ち上がった。斎藤が刀を仕舞うのと同時に、千鶴は斎藤に向かって走り、斎藤は千鶴を庇うように背後の山へ向かって走り始めた。新選組の部下たちも、一気にそれに続いて山中へ向かって走って行った。

 天霧は、不知火の助けを借りながら風間を抱えた。そして、三人は、風に乗るようにその場を去り、掃討軍の進軍を止める為に林の向こうに消えて行った。

 

 

*****

白岩の鬼塚

 斎藤たちは、天霧に教えられた通り乾の方角を目指して、山中を進んだ。

 斎藤の率いる隊は全員で三十名。元の小隊の約半分の人数。羽太で会義隊とはぐれた後、上湯の山中で、分散していた隊士達と合流することが出来た。足を負傷した者が三名居る。

 勾配の険しい間道を、皆が息を切らしながら上っていた。斎藤は、千鶴が怪我人を介抱しながら殿を歩いているのを、時折振り返り確かめた。最後尾の数名は、どんどんと隊から離れて行く。斎藤は、千田兵衛に間道をそのまま前に進むよう指示して、最後尾まで下って行った。

 負傷している隊士を上から引き揚げるように補助して歩いた。そして最後に千鶴に手を伸ばした。小さな手。斎藤は力強く引き上げた。千鶴は、地面に手をついて、膝をふんばるように前に進む。時折、千鶴は均衡を失う時もあった。どうした雪村、様子がおかしい。

「待て、ここで休憩しよう」

 急こう配の中腹だが、斎藤は前方の隊士に声を掛けて、先頭に伝令させた。千鶴の手は血がついたままだった。煤のついた顔。羽鳥で焼き討ちに遭ったか。薩軍に襲われた際に風間に遭遇したのだろう。斎藤は、地面に半分横たわるように目を瞑っている千鶴を眺めた。再会してから、まともに言葉を交わしていない。敵が追ってくる様子はないが、この辺り一帯は、完全に新政府軍に包囲されている。山焼きに遭えば、逃げることも困難になるだろう。

 白岩の森を抜けるまで。

 天霧が言っていた白岩の鬼塚の場所がどこかは判らない。だが、乾の方向に、塚があればそこから東へ進む。長沼へ街道を横切ることが叶えば。隊を整えて福良まで帰陣も叶う。斎藤は、隊士に水を持っている者がいないかと問いかけた。竹水筒を受け取るとすぐに千鶴に飲ませた。そして千田に水場を探すように指示し、暫くその場で休んだ。

「隊長、霧が濃くて、これ以上進めません」

 千田が一旦引き返して、斎藤に報告した。もう、明け方に近い。霧が出ているのか。斎藤は、皆に互いの姿を見失わないように、一か所に集まるように指示した。千鶴は、負傷者の移動を手伝い、隊士が掘った塹壕の中に腰を下ろした。落ち葉が積まれた上に背中を預けると、千鶴はそのまま気を失ったように眠り始めた。斎藤は自分の上着を脱いで、千鶴に掛けた。辺りは白んで見える。木々の間に濃霧がたちこめている。困ったことだ。方向を失う。いつもは避けているが、斎藤は太陽が見える事を心の底から願った。

 皆が休んでいる間、斎藤は歩兵掛と山間移動図を広げて、自分たちのいる位置を確かめた。太平口から乾の方向へ進んだ深い山の中に居る事は確かだ。辺りに道標の楔がない。十六ささげ隊や鴉組も寄り付かぬ場所なのだろう。白岩の鬼塚を見つけなければならない。もう少し、陽が上がるのを待ち、乾の方角を目指す。斎藤は、身仕舞を整えると元来た道筋を一旦確認しに坂を下りた。木々の隙間から陽の光が射すのが見えた。塹壕に戻り、千田に太陽の位置を確かめさせた。

 険しい獣道だが、北西へ木々の間を進むことに決めた。

 隊列を組んで、互いがはぐれないように行軍を開始した。千鶴は、休息の後は幾分しっかりした足取りで進むようになった。斎藤が列の最後尾を振り返った時に目が合うと、千鶴は薄っすらと微笑んでいるような気がした。さっきまでたちこめていた霧が晴れていく。纏わりつくような空気が消えて、冷たい清らかな風が吹き始めた。ずっと濃い緑の中を進んでいたが、流れる薫風は爽やかな木の香りがする、それはどこか冷たい真っ白な雪の匂いにも似て。それまで重かった足も軽やかに、急こう配だった山の斜面も平らかになったように感じた。

 人が立っている。

 先頭に立っていた斎藤は、刀に手をかけて構えた。だが、人影のように感じたのは大きな岩だった。緑の巌。辺りは苔生した丸い石が敷き詰められ、その奥の林の中に小径が続いている。斎藤は大きな一枚岩を見上げた。いつか、京の二条城で見た巨石。それは御神体としてまつられていた不動石を思わせた。陽の光が射してきた。身が焼けるように感じる。斎藤の異変に気付いた部下が、「隊長、大丈夫ですか」と、庇うように斎藤を林の影に引き入れた。

 蹲るように肩で息をしている斎藤に、千鶴が駆け寄った。斎藤は、膝に手をついてゆっくりと立ち上がると、千鶴に手を遮るように伸ばして首を横に振った。

「大事はない」

 小さな声が聞こえた。千鶴は立ち止まり、それ以上何も言えなかった。今、羅刹の発作が起きたとしても、斎藤さんはきっと隊を進めて行かれるだろう。実際、斎藤は、林の中の小径を指さし、隊士たちに「このまま東に抜けて行け」と命令した。皆が隊列を組んで、一気に進み始めた。

 さっきまで進んでいた山と同じ場所とは思えない。

 斎藤も千鶴も、隊士たちも皆が同じことを考えていた。深い森の木々は聳え立つように空に向かって伸び、柔らかな苔に覆われた地面は、その上を進む斎藤達を前に送るかのように弾むような気がした。流れる空気も背中から前に運んでくれるかのように全身が軽やかに感じる。

 ここが山中の森だとしたら、丘陵は台地だったのか。山襞を囲う森だとも考え難い。

 斎藤は鴉組と一緒に間道開拓をした日々を思い出していた。山襞から山襞へ、沢から沢へ、谷間と並行して山の中腹に足場を確保する。木々の根と必要なら土塁を作り、塹壕を掘った。

 このような移動しやすい山襞なら、多くの人々が往来に使うだろう。だが、この森は人が踏み込んだ様子がない。天然自然の小径。手つかずの太古の森。斎藤は、負傷した部下でさえ難なく移動している姿を見て、このままなら五里は移動できると思った。周りに敵がいる様子もない。安全だ。

 千鶴は自分の身の内がずっと温まるような不思議な感覚を感じていた。木々が自分を守ってくれているような。優しくそよぐ風は、どこか懐かしい香りがして。小さな頃に手を引かれて歩いた暖かな手の感触が蘇った。あれは母さま。父さまかしら。

 にいさま
 かおる

 こっちだよ
 ちづる

 風の中に聞こえる声。幼い頃に、こんな場所で。私は誰かと……。にいさま、かおる……。

 懐かしい気持ちがいっぱいになる。不思議な感覚。

 千鶴は森の中を遠い記憶を追うような気分で進んで行った。

「隊長、街道です」
「道標が見えます」

 物見に出ていた千田が、林の中から叫ぶ声が聞こえた。

 足元の地面は、いつの間にか苔ではなく落ち葉が降り積もった勾配に変っている。周りの木々も様子が変わっていた。杉や桜。乾いた地面のせいか、辺りの空気も熱気を伴い蒸し暑さを感じる。

 千田の案内で、林を抜けて崖に近い場所に出た。右手に大きな聳え立つ岩山が見えた。鬼面山か。千田は山間移動図を確かめながら、尖った岩山が鬼の山だと指さした。隊の元へ戻って、ゆっくりと山を下りて行った。

 街道に出た。向かい側には見慣れた本道が見える。

「隊長、ここは勢至堂に向かう道筋」
「ありました。あの大きな欅。あの丘陵が長沼への近道です」

 千田の勧めで、向かいの丘陵に入り、間道を長沼に向かい基地で隊を整えることに決まった。新政府軍が既にこの辺り一帯に進駐している可能性があった。斎藤は隊を分けて、本道を横切ることにした。負傷者を運ぶ隊は、斎藤と共に殿に。先を行く隊士たちと丘陵の中腹にある塹壕で落ち合う事になった。

 

 

*****

 

白樺の林

 本道を超えると、直ぐに暗い山道に入った。山の中は、小さな襞が折り重なるように連なっている。長沼宿の周辺は、十六ささげ隊が棚倉と二本松を結ぶ間道を無数に造った。塹壕の数だけでも二十を超える。その中には、大きな落とし穴の罠もあった。敵兵を誘い込み、大きな溝に落として、一斉に矢を放つ。十六ささげ隊は、その名の通り、十六名の兵士たちからなる。ひとりひとりが三百の矢を背中に背負っている。

 ——吾ら一瞬で千本の矢を打ち、槍でとどめを打づ。

 先祖古来の具足姿の勇者たち。長沼の基地で落ち合えるやもしれん。斎藤は、懐から間道移動図を取り出して、基地の場所を確かめた。その時、先を進む隊士が斎藤を呼ぶ声が聞こえた。

「隊長、この辺りの塹壕は崩れています」
「偵察に参りますので、暫くお待ちを」

 斎藤は、負傷兵たちを休ませることにした。辺りには、確かに地面が掘り起こされ、ところどころに折れた矢が落ちている。

 ここも戦場となったか。

 斎藤は街道沿いが焚き上げになった様子がないことから、敵の進軍はないと思っていた。だが、山中に荒れた様子が見えて辺りを警戒した。

 一つ目の丘陵を過ぎたところで、前方の偵察隊が、「こちらです。三手罠に敵が墜ちています」と手を振って来た。三手罠は、大きな溝を掘った落とし穴のことだ。その向こうに斎藤達、新選組が造った基地がある。先頭を行く千田から先に基地に向かって、陣を整えておくと伝令が来た。斎藤は、休んでいる負傷兵の元へ戻って。ゆっくりと立ち上がらせると、隊士の手を借りて、順繰りに前に進ませた。千鶴は、列の最後尾を気丈に歩いて来ている。

 斎藤は、辺りの空気にむせ返るような血の匂いを嗅いでいた。偵察隊が見た三手罠にいる敵兵の骸から漂う死臭か。全身の血が逆流する感覚。発作か。こんな時に、難儀なものだ。隊士たちを全員、早く安全な場所へ。

 ゆっくりと移動する負傷兵の背中を押すように斎藤は前を進んだ。歩兵掛が、足元の塹壕を超えるように指示している。斎藤は、腕で鼻と口を覆うようにしながら枯葉を踏みしめて、半分走るように塹壕の溝に近づいた。

 三手罠。一間の幅の深い溝が左から右に掘られている。元々の地形を利用して作った巨大な落とし穴。手前の木の陰に隠した丸太で渡る。だが、斎藤が覗いた時に、その大きな丸太が溝の中に投げ入れてあった。敵兵の遺体が無数にあった。矢で目を射貫かれた者。喉を射貫かれた者。大きく開いた口に鎗が突き刺さっている者も居た。目を大きく見開き、立ったままこちらを見ている。無数の蠅が額の上を蠢いている。

 歩兵掛が、穴の一番狭い場所を大股で跨ぎ、溝を飛び越える者を手伝っている。

 斎藤は、血の匂いに眩暈を感じながら元来た道を引き返した。

 白樺の林の向こうから、ゆっくりと千鶴が歩いてくる。額の汗を拭きながら。下ろした髪が風に揺れていた。斎藤は、負傷兵たちの手を引いて、先に送るように背中を押した。千鶴は手前の白樺の木の幹に手をかけて、「よいしょ」と小さな声で言いながら、近づいてきた。

「雪村、頼みがある」

 斎藤は真剣な表情で千鶴に話しかけた。再会してから、初めて声を掛けられた。千鶴は心中でそんな事を思った。

「空を見て貰えぬか」
「空、ですか」
「ああ、俺は陽の光を見ることができん」

 千鶴は、きょとんとしながらも頷くと、空を見上げた。ふいに、手を強く引かれた。千鶴は、驚いて斎藤を見た。

「空を見上げていろ。俺が手を引く」
「そのままだ」

 斎藤は、ゆっくりと歩き始めた。

「空に何が。誰かが居るのですか」
「ああ」

「いるやもしれん」

「鳥ですか」

 千鶴が尋ねても、斎藤は黙ったままだった。千鶴は、ずっと空を見上げていた。木々の間に拡がる空。水色の空には雲ひとつない。一体、斎藤さんは何を探されているのだろう。千鶴は不思議に思いながらも、一生懸命、空を見上げて目を凝らした。斎藤は、三手罠の一穴の一番狭い場所で、一旦千鶴の手を離した。

「何か居るか」
「雲雀でしょうか」

 斎藤は素早く罠を跨いで踏ん張った。雲雀。千鶴の口から出た「ひばり」という言葉に、ふと京の屯所の庭で、千鶴と空に飛ぶ雲雀を探した日の事を思い出した。あれは春の頃。

「ほら、斎藤さん、あそこです。あの小さな点みたいなの」

 洗濯物を干していた千鶴が一生懸命指さす先を斎藤は見上げた。どこまでも青い空に、遠く雲雀の声が聞こえている。隣の千鶴は、「可愛い声。あんなに高い所を飛んで」と言って喜んでいた。

 斎藤は、あの頃のように空を見上げる千鶴に「そのまま手を伸ばせ」と声を掛けた。そして千鶴が差し出した手を掴んで引き寄せた。千鶴は引き摺られるような恰好で、斎藤に抱き上げられた。

「大きな溝超えだ。そのまま空を見上げておれ」
「はい」

 千鶴の革靴を履いた足がぶらりと垂れ下がるように三手罠の上で揺れている。ずっと空を、首を反り返るように見上げたままの千鶴。斎藤は、千鶴の背後の穴の中に居る無数の敵兵の死骸を見ていた。血の匂い。血の色。真っ暗な暗闇の中に墜ちる。そんな風に思った時だった。

「雲雀は見えません」

 千鶴の大きな瞳には、青い空が映っていた。長い睫毛が真っ直ぐに空に向かい。小さな鼻孔に、微笑むような口元。貝殻のような前歯が白く見えて。ゆっくりと瞼が閉じて、また睫毛が空に向かう。碧い海のような瞳。空の明るい光。二つの湖。懐かしい陽の光。

 そこにあるのだな。空の光が。美しい昼の空が。

 千鶴は驚いた。斎藤さんの匂い。気づくと、斎藤の髪の毛が自分の頬にあたっていた。強く抱きしめられたまま、斎藤の腕は千鶴の背中から肩に回り、首元から横に強く斎藤の頭が埋まるようになっていた。斎藤は動かない。ただ強く抱きしめられたまま、千鶴は空を見上げ続けた。

 宙を飛び越えるようにして地面に両足をついた斎藤は、千鶴を腕から降ろすと俯きながら踵を返した。千鶴は、一体なにが起きたのか判らず、ただ茫然と立っていた。向こうには、隊士が数名立ったまま、こっちを見ていた。斎藤は、手を挙げて先に進むように隊士たちに合図を送っている。斎藤は、背後を振り返るように首を向けると、「空の確認は終いだ」と言って。足早に歩き始めた。

 千鶴も足を進めた。半軒前を歩く斎藤の背中が遠くに感じる。

 戦から無事に戻られた斎藤さん。またこうして一緒に移動出来ている。でもこの寂しさはなんだろう。斎藤さんに繋がるのは、一筋の細い蜘蛛の糸のような。心もとないもの……。

 斎藤さんの傍に居たい。
 もっと近くに。
 さっきのように……。

 斎藤が白樺の林の向こうに消えてしまうような気がした。

つづく

→次話 戊辰一八六八 その20

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