花冠

花冠

薄桜鬼小品集

 北山に筍取りに行った日のこと。

 平助とはぐれた千鶴は、皆と分かれた沢の入り口に戻ろうと小径を進んでいた。

「ええっと、確か山の斜面を左に見ながら登って、最初に大きな切り株のあった場所を奥に入ったから……」

 千鶴は記憶を辿りながら、切り株を見つけてそのまま斜面を下って行った。足元のふかふかとした木の葉がガサガサと音をたてている。森の木々の匂い。その中に一瞬、暖かな風が吹き込んだ気がした。木と木が生い茂る向こうが空洞のようになって明るい道が見えた。引き込まれるように明るい道に出ると、そこは山の麓に繋がる道に似ていた。なだらかな小径を足早に進むと、ふと大きな木の根元に座っている斎藤と出くわした。

「斎藤さん」

 斎藤は瞑った目をゆっくりと上げて千鶴を見た。時折、斎藤はこのように静かに座っていることがある。屯所の廊下であったり、部屋の中であったり、道場の床の上でも精神統一をする時に瞼を伏せてじっと動かなくなる。座禅を組むように。

 ——己を消し去り。ただ無になる。

 そんな事を言っていた。千鶴は、斎藤がそのような所作で静かに座る時は、邪魔をしないようにした。斎藤はゆっくりと立ち上がった。傍らの背負い籠を持ち上げた斎藤に「よかった。わたし、皆とはぐれてしまって」と千鶴は安堵の声をあげた。

「竹林でなかなか筍が見つからぬゆえ、山の反対側へ来た」

 芹や蕨が沢山入った籠を覗き込んで、「こんなに沢山」と千鶴は感嘆の声を上げた。斎藤は籠を背負うと、千鶴の前を歩き始めた。千鶴が元来た小径を下っていく。斎藤について行けば、山の反対側へ戻ることが出来る。沢に戻れば、きっと平助くんや土方さんが居る。

 木洩れ日の中を、斎藤の後ろをゆっくりと進んだ。斎藤は、手に鎌を持っていて、時折林の枝を掻き分けて切って進んでいく。

「近道だ」

 そういって、木々の間の道でない場所を通った。一つ斜面を下った時に、ふと白いものが地面に見えた。小さな花。鷺草が脇に咲いていた。

「綺麗」

 しゃがんで見とれている千鶴に、斎藤が気付いて引き返してきた。

「摘んで持ち変えればよい」

 斎藤が覗き込むように頭上から呟いたが、千鶴は首を横に振った。せっかく静かに山の中で咲いているのに、摘み取るのは可哀そうな気がした。千鶴は、立ち上がって斎藤に付いていった。斎藤が指さす山の斜面に沢山、鷺草が花を咲かせていた。

「綺麗、こんなに沢山」

 千鶴が見下ろす斜面の向こうに、木と木が輪をつくるように、林の向こうが空洞になっていた。明るい向こうは、新しい道に繋がっているように見えた。斎藤と千鶴は、鷺草の斜面を引き込まれるように下りて木の輪をくぐって向こう側に出た。そこは小さな広場のような場所で、足元には苔に覆われた丸い石がポコポコとあって。地面はしっとりと濡れていた。

 せせらぎが聞こえる。爽やかな風の中に、時折甘い芳香を感じる。千鶴は、斎藤と辺りを見回しながらゆっくりと水の流れる音の方に歩いて行った。緑の木々が途絶えた先に、小川が見えた。柔らかな短い葦が生える向こうに、もう一本小さなせせらぎが見える。なだらかな州のような場所に斎藤と千鶴は立っていた。

 辺りは霞みがたったようになって、暖かな空気に満ちている。斎藤と千鶴は川を上っていくように、岸部をゆっくりと歩いた。

 川はだんだんと広く大きくなった。岸部には、小さな桃色の花が咲いていて。千鶴は、その五弁花に触れてみた。可憐な花は、千鶴に挨拶をするように風に揺れている。ふと、気配を感じて顔を上げると。川の真ん中の州に白い鳥が立っている姿が見えた。

 白鷺がゆっくりと首をもたげて嘴で地面を撫でた。

 すっくと首を伸ばして立つと、ゆっくりと歩いていく。やがて羽を広げて飛び立った。

 靄の中に消えていく。良くは見えないけれど、川の向こうは山ではないようだ。千鶴は、目の前に小さな影を見た。向こう岸に誰かがいる。ぼんやりと見えた輪郭がはっきりとしてきた。

 小さな女の子。
 桃色の着物に紅被布。
 頭には桜草の花冠を被って。
 手には、同じ花を摘んだものを持っている。

 年の頃は、二歳か三歳。
 真っ黒な瞳は大きくて
 尼削ぎの髪は黒々として
 丸い小さな顔を覆っている。

 千鶴は、小さな女の子が手に持った花を千鶴に渡そうと手を伸ばしているように思った。

 岸部から川に落ちてしまうのでは。

 千鶴は居てもたってもいられず、前に進もうとすると背後から腕を引かれた。腰に手を廻して千鶴を引き寄せた斎藤は、岸辺から一歩川の中に入った。

 小さな子供は手を振っている。

「とーたま、かーたま」

 零れるような笑顔で、何度も呼びかけてくる。迷い子か。親とはぐれた子が河に溺れるのは忍びない。

 斎藤は、一歩前に進んで川に入ったが。進めば進むほど、向こう岸が遠のく。

 笑顔の子供は、ずっと手を振り続けている。黒い瞳。斎藤は、子供が心配で仕方がない。千鶴が斎藤の着物の袖に手をかけた。千鶴は黙ったまま、笑顔で子供に手を振り返している。

 子供は、ふと花束を持った手を振るのをやめて、背後を振り返った。靄の中に人影が見える。誰かがいる。目を凝らすが近くにいるのにその姿は見えない。子供は人影に向かって走って行った。靄の中で、子供の桃色の影が誰かに抱き上げられる様子が見えた。

 川のせせらぎの音に交じって、子供の「とうたま、かーたま」という声と笑い声が聞こえてきた。父親と母親が迎えに来たか。斎藤は安堵した。靄が濃くて向こう岸が見えなくなってきた。子供が消えた霞みの先は、野原なのだろう。花を摘み、花輪を作って冠にしてあの小さな女の子と両親は遊んでいたのだろう。

 斎藤は、背後から袖を引く千鶴の元へ戻った。不思議と川の水は温かく感じ。靄が迫ってくる中をゆっくりと元来た川下に戻って行った。千鶴も斎藤も竹林に戻ることをすっかり忘れていて、苔むした丸い石の上に置いてあった背負い籠の中の山菜を見て、山の反対側に戻ろうとしていた事を思い出した。

 斎藤は、林の先に輪のようになった木と木の枝の空洞を目指し、千鶴の手を引いて歩いた。足元はしっとり濡れた地面から、空洞を通り抜けるとふかふかの枯葉が積もる山道に出た。緑の木々の香りに包まれる。ひんやりとした空気。小脇の道を山の反対側に斜面を下りて行った。暫くすると見覚えのある竹林にでて、そこに左之助と新八が佇む姿が見えた。

 その日は、平助と左之助が沢山の筍を採り大収穫だった。屯所の夕餉は蕨の煮たものや、筍ご飯、芹のおひたしに野蒜のぬた。山の幸のごちそうに、皆が舌鼓を打った。

 千鶴も斎藤も、山向こうの川岸で見た小さな女の子の事はずっと忘れられずにいた。

 巡察で三条の河原を歩いていた時、ふと足元に小さな花が咲いて居るのが見えた。五弁の可憐な花。桜草の花冠。斎藤は、黒々とした大きな瞳の子供が「とーたま」と自分を呼んでいたあの不思議な春の日を思い出した。隣を歩く千鶴も同じように「かーたま」と自分に呼びかけて手を振っていた少女の姿を思い浮かべていた。斎藤は、千鶴の横顔を見て、花冠の少女は小さな千鶴そのものだったと思い起こした。

 きっと雪村が江戸に居た子供の頃はあのような愛らしい子だったのだろう。

 そんな風に思いながら、北山に行くことがあれば、またあの美しい小川に行ってみようと思った。




(2020/07/23)

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