いろはにほへと
薄桜鬼小品集
慶応二年四月
西本願寺、境内の木々に花咲き乱れ春もたけなわ。
千鶴は、外から戻った平助に団子を買ってきたと声を掛けられた。お茶を煎れて、桜の花が良く見える阿弥陀堂との間の廊下に腰かけて食べようと準備した。
「花見だ。今日も忙しかったんだろ?」
「うん、土方さんが江戸に戻られるから、先に衣替えもと思って」
「そうか、はじめ君がついて行くんだよな」
「斎藤さんは、もう単衣は準備してあるから、襦袢だけ」
「ふーん」
平助は竹串を皿に戻すと、身仕舞を正すように座り直した。
「なあ千鶴、今から俺の団子の喰い方見て、誰の人真似か当ててみて」
平助は、そう言ってすまし顔で団子をおちょぼ口で食べた後に、左手で口元を隠すようにしてすまし顔をした。千鶴はクスクス笑いながら答えた。
「伊東さん」
「あったりーー」
「これは簡単だったな」
「じゃあ、今度はわたし」
千鶴は団子を持った手の肘を左手で受けるようにして、真正面から団子の天辺を口に含んでから首をかしげながら引いていった。口を閉じたまま奥歯でゆっくり咀嚼した。
「わかった。土方さんだろ」
「正解」
「似ている。やるなあ」
二人で盛り上がっていると、廊下に相馬と野村が現れた。二人は稽古が終わって汗を流してきたらしく、千鶴がお茶に誘うと喜んで廊下に座った。
「じゃあ、これは」
平助は、団子を二本持って交互にむしゃむしゃと食べた。千鶴はけらけらと声をたてて笑っている。
「永倉さん」
「そっくり」
相馬と野村は、平助たちが人まね遊びをしていると判ると、次に千鶴が「じゃあこれは」と真似を始めたのをじっと眺めた。千鶴は、正座をしてすっと背筋を伸ばして座り。右手を膝に置いたまま、左手で団子を取った。串を縦に持って静かに口に含んで引いて、ゆっくりと味わうように咀嚼している。瞼を半分伏せるように床の先を見たまま静かに座っている。平助は、にんまり笑っていた。答えなくても千鶴が斎藤の真似をしているのは一目瞭然だった。相馬も野村も千鶴が左手で団子を手にとった時点で判っていた。
春の光は燦燦と廊下を照らし、相馬は千鶴の前髪や伏せた睫毛、鼻筋が輝くように見えた。団子を口に含んだ千鶴が、ゆっくりと竹串を唇から離した時、その桃色の唇が少しすぼんだような形になった。それと同時に、相馬は己の腹がふわりと浮いたような感覚がした。まるで、蝶が鳩尾の上を飛んだような。口の端についたみたらしの餡を千鶴は指の先で拭うと、その細い指先を口に含んで唇の先で舐めとった。相馬は愕然とした。千鶴の唇から立った音。微かな吸い取るような音に、鳩尾から蝶が跳ね飛んだ。千鶴は、団子を皿に戻すと背筋を伸ばしたまま、湯飲みを手に持って、静かに飲んだ。無表情のまま床に湯飲みを置いて。物真似を終えた。
「そっくりだ。はじめ君そのものだ」
そう言って、平助は笑っている。野村も一緒に頷いて笑っていた。相馬だけ、ぼんやりと団子を食べるのも忘れたようにじっと動かない。平助は、次々に近藤や左之助の真似をして千鶴を笑わせた。野村も、近藤のお茶の飲み方を真似してみせた。相馬は、ずっと正座をしたまま固まってしまっていた。相馬の異変に気付いた千鶴は、「相馬君?」と名前を呼んだ。相馬は、千鶴に目を向けられて、一気に紅潮していった。
「どうしたの。苦しいの?」
千鶴は、心配そうに相馬の顔を覗き込んだが、相馬は俯いて首を横にふった。千鶴は湯飲みのお茶を差し出して。「喉にお団子がつまっちゃった?」と言って、飲ませようとした。相馬は、首を横に振って、立ち上がった。
「すみません、俺、失礼します」
そう言って、廊下から走り去った。向かう先は井戸。なんだ、俺は。なんなんだ、さっきのは。
俺は何を考えてんだ。
一目散に駆け込むように井戸端につくと、勢いよく釣瓶を下ろして水を汲み上げた。そして、後頭部から思い切り水をかぶった。身体を折り曲げたまま、膝に両手をついてやっと息をつけた。滴り落ちる水は、土の上にぼとぼとと水溜まりを作っている。
それでも、目の前に巡るのは。雪村先輩の唇。桃色の小さな。綺麗な……。
いかん、何を考えてんだ。相馬は、再び水を頭からかぶった。今度は二回続けてかぶった。冷たい。頭が冷える。そうだ、もっと冷やそう。冷やさねばならん。洗い流さないと。流してしまわないと。頭のなかのおかしな考えも、目にしたものも全て。
消し去らないと。
そう思っても、さっきの鳩尾のふわりは消えない。何だったんだ。あれは。先輩だぞ。男の雪村先輩の唇みて、触りたくなるなんて。
触ってどうすんだよ。
野村が井戸端に駆け付けた時、相馬は空に向かって、「わーー」と大きな声で叫んでいた。相馬が手に持っていた桶が地面に落ちて転がって行った。野村は、「おい、どうしたんだよ」と桶を拾って、相馬の肩を揺さぶった。
野村の顔を見た相馬は、「ふあっ」と変な声をたてて、力なく笑い出した。野村は相馬が狂ったと思った。団子に当たって、気が狂ったか。
「おい、相馬。お前、どうした」
相馬は、腑抜けのような体たらく。頭から滴れ落ちる水で着物が濡れて、髪もびしょびしょ。野村は、懐から手拭を取り出して、相馬の頭に被せるようにしてわしゃわしゃと拭いてやった。
「ほら、頭をもっと下げろ」
野村は背伸びをして野村の頭を抑え込むようにしゃがませると、「仕方ねえな」といって綺麗に濡れた髪と首筋や顔の水分を拭った。相馬は、笑うのをやめていた。ずっと俯いたままの顔は、どこか悲しそうで。野村が何を訊いても応えない。
千鶴は相馬の様子を酷く心配していたが、土方に部屋に呼ばれた為、慌てて平助に相馬の様子を見て貰うように頼んで廊下を走って行った。相馬は井戸端から自室に戻って引き籠ってしまった。野村は、そんな相馬の様子が心配で、平助に相談した。
「腹でも壊したんだろ」
「でも、あの団子、美味かったろ。お前は腹壊してねえんなら良かったな」
平助は他人事のように、そう言って午後の巡察に出て行ってしまった。野村は様子のおかしい相馬を持て余し、平助と入れ替わるように屯所に戻ってきた永倉新八と原田左之助に相馬の様子がおかしいと相談した。
「なんだ、腹でも下したんだろ」と永倉は笑った。「今夜、お前ら、ちょっと出られるか」と左之助は野村に尋ねた。
その夜、相馬と野村は左之助たちに連れられて、壬生の廓に繰り出した。相馬と野村は、登楼は二度目。相馬は、永倉に相方の遊女と奥の間に連れて行かれた。
「存分にやってやってくれ」
もう既に慣れない酒でふらふらになっていた相馬は、めくるめく遊女の手練に何が何か判らぬ内に事が終わっていた。ただ、一度だけ遊女と唇と唇を合わせた事はよく覚えていた。
女の柔らかい口唇。
それは、昼間に見たものとは違っていた。たぶん。あれは、そんなものじゃない。
あれは、もっと綺麗で、触っちゃいけないものだ。
そう思った瞬間。また自分のおかしな想いに頭が狂いそうになった。雪村先輩だぞ。雪村先輩だ。
雪村先輩だ。
絶対にそんなの駄目だぞ。
朝の光の中で、相馬は反省した。屯所に着く頃には、強く気分を保つ事が出来た。身体もしゃんとした。女を抱いてよかった。そう思う。なんか、すっきりした。
「お疲れさん」
表階段の上り口で、左之助が背後から声を掛けて来た。
「またむしゃくしゃした時は、こうやって馬鹿をやればいい」
左之助は、草履を脱いで大股で階段を上って行った。相馬は、その背中に「ありがとうございました」と言って、しっかりと頭を下げて礼を言った。
了
(2020/07/27)