猫と小判
明暁にむかいて その1
明治七年七月 盛夏
陸軍に勤めている元斗南藩大参事の山川浩の紹介で、斎藤は一月に発足した警視庁に採用になった。戦後斗南に移って四年、今は青森県に編成された陸奥の地を離れ、東京に移住する決心をしたのは、東京が幕末の京の様に治安悪化していると聞いたからだ。新しい政府の元、国の行く末を懸念する不安分子は後を絶たず、其れを取り締まる為、内務省が警察機関を新たに設けた。廃刀令の噂も聞く。斎藤は、もう刀を振るう時代ではないと思っていたが、治安警察として帯刀が許されると聞いて、「其れならば」と山川の話を受けた。
東京に斎藤の実家はあるが、元新選組幹部であった自分の出自を匿す必要があった。新政府による旧幕府軍残党首謀者の取り締まりは継続的で、元新選組隊士は投獄され、処分されていると伝え聞いた。斎藤の身柄に関しては、戊辰戦争終盤に会津藩から保証はされていたが、身元を隠蔽する為に度々改名を行い、家老職に就いた山川浩の取り計らいで、表向きは会津藩の出自とされた。今、斎藤は旧会津藩士【藤田五郎】と名乗っている。
上京に伴い、斎藤一家は千鶴の実家、小石川の雪村診療所に引っ越した。鳥羽伏見の敗戦後、江戸に戻った折、千鶴は数回、小石川の実家に戻る機会があった。隣家のお夏は千鶴の身の上を大層心配していたらしく、千鶴が無事に江戸に戻った事を喜んでいた。その後、新選組と行動を共にする千鶴が、再び江戸を離れ流山に移動する際、秘かに土方が雪村診療所に出向き、まとまった金子をお夏に渡して留守中の診療所の維持を頼んでいた。千鶴が斎藤と共に会津に残ると土方に伝えた時、土方は千鶴に江戸の診療所の世話は隣家に頼んである、必ず生きて帰って平穏に暮らすようにと命令した。あれからもう十年近く時が過ぎた。荒れ果てているだろうと思っていた診療所は、建屋は古くはなっていたが、昔と変わらぬ佇まいだった。千鶴は隣家のお夏との再会を喜んだ。数日をかけて掃除と建屋の修繕を済ませると、診療所は快適な住まいとなった。
斎藤は、引っ越しから五日目に採用配属された警視庁大二区小一管轄に初出勤した。東京は江戸と違って、大区小区に区画整理されていた。斎藤の管轄する大二区小一は現在の港区に当たる。南は品川宿から現在の永田町辺り迄の広範囲で、斎藤は出勤して最初の一週間は、朝に巡察、午後は区域資料の整理作業に追われていた。
ようやく土地勘もついてきた頃、午前中に周った麻布一帯に白河藩屋敷が集まっている事に気付いた。陸奥国白河には雪村の里があり、斎藤は親しみを感じていた。慶応三年に描かれた地図と照らし合わせると上屋敷から下屋敷全てが、今朝巡察した場所にあった事が判った。白河藩に斎藤は直接の所縁はないが、昔、試衛館に通い始めた頃、総司が自分は白河藩の下屋敷で産まれて、四歳まで其処に暮らしていたと言っていたのを覚えていた。総司の父親は白河藩の下級武士だった。総司がまだ幼い内に両親が他界して、姉上が親代わりだった。家督は姉の夫が継ぎ、総司は六才で試衛館に住み込みで暮らす様になった。
「僕には家がない。剣術で身を立てて、ひとかどの武士になる様、姉上に言われてるけどね」
いつか日野の道場へ、二人で出稽古に向かっている時に総司は言っていた。総司の姉のおみつに斎藤は試衛館で数回会ったことがあった。常に背筋をピンと伸ばした目の大きな美人で、武家の子女らしい立ち振舞いだったのを覚えている。総司を溺愛していたが、躾も厳しかった。道場の内弟子はおみつが現れると蜘蛛の子を散らした様に逃げ出していた。道場を仕切っていた近藤や土方でさえ、おみつには頭が上がらないらしく、何時だったか、座敷から
「皆目、行き届いておりませぬ」
ぴしゃりと言うおみつの声が聞こえ、その前で小さくなって正座している近藤と土方の背中を見た事があった。総司が近藤についていく様に上洛し、浪士組を経て、ようやく給金が貰える身分になった時、総司は江戸に住まう姉のおみつに仕送りを始めた。
「僕も立派になったもんだよね」
そう笑って、唯一の肉親である姉の援助が出来るようになったと喜んでいたのを覚えている。鳥羽伏見の敗戦後、総司は千駄ヶ谷で療養していた。斎藤と千鶴は江戸の屯所から、時折見舞いに行った。その時に総司の姉のおみつが通いで総司の世話をしていると聞いていた。斎藤と千鶴が流山に向かう時に「後で追いかける、それまで近藤さんと土方さんを頼むね」と笑ったのが、今生で総司に会った最後となった。戊辰の敗戦後、斎藤と千鶴は仙台の松本良順と再会し、総司の最期について話を聞いた。
斎藤達が江戸を離れて、流山へ移った頃、おみつが夫の庄内藩への出仕の為、江戸を離れる事になった。良順は総司の世話を知り合いの植木屋に頼み、今戸に総司を移した。その頃から病は急激に悪化して、五月の終わりの午後に、誰にも看取られる事なく、総司は布団の外で眠るように息を引き取っていた。傍らには出掛ける準備をするように、新選組が総司に用意した洋装一式と愛刀が置いてあったという。総司は最期まで新選組隊士だった。荼毘にふされた総司の亡骸はおみつが引き取ったと良順から聞いていた。
斎藤と千鶴はおみつと総司の縁者当てに総司の菩提寺を尋ねる文を書いたが、返信のないまま今に至っていた。翌日、斎藤は、下屋敷の近くにある白河藩士の檀家寺である麻布専称寺を訪ねた。住職は、確かに沖田家を先祖代々祀って来ているという。斎藤は住職の許可を得て、境内の裏にある墓所を訪ねた。沖田家の墓は無数あった。そして住職が教えてくれた小さな墓石に、総司の名前と戒名が刻まれていたのを確かめた。斎藤は数年振りの総司との再会に、語っても語り尽くせぬ思いがこみ上げ、暫くその場を動けずにいた。
その夜遅く、千鶴はようやく子供を寝かしつけて、斎藤の横になっている蚊帳の中に入って来た。
「やっと、寝付いてくれました」
足を横に崩すように座って、千鶴は団扇で斎藤を扇ぎながら呟いた。斎藤は、天井をぼんやりと眺めている。
「ずっと、黙っていらっしゃいますね。よほど、お疲れになっているんでしょう」
「寝苦しいですか? 暫く、こうやって風を送っています。もうお休みに」
「今日、総司の墓へ行って来た」
天井を見詰めたまま、ぼそっと呟いた斎藤に、千鶴は団扇を扇ぐ手を止めた。
「沖田さんの」
「ああ、署の管轄してる専称寺という寺が菩提寺だった」
そう言って、斎藤は布団から起き上がると、制服のズボンのポケットから紙切れを取り出した。【賢光院仁誉明道居士】と斎藤の字で書いてある。
「総司の戒名だ」
千鶴はそれを受け取って眺めると瞳からポロポロと大粒の涙を溢した。
「はじめさん、私も沖田さんのお墓に行きたいです」
千鶴はそう言うと、紙切れを胸にあててさめざめと泣き出した。
斎藤は千鶴の手を引いてそっと抱き締めた。
「すまぬ。帰って直ぐ伝えたかったが、この様に涙を流すだろうと思ってな」
千鶴は、斎藤に髪を撫でられながら、止め処もなく溢れる涙を堪えきれずにいた。戦の最中に別れたきり、亡くなったとだけ伝え聞いた沖田さんに再会出来たような、そんな気がした。東京に戻って来て良かった。
******
総司の墓
翌々日の午後、斎藤は非番をとった。千鶴は子供を隣家のお夏に預けて、人力車で虎ノ門の署に駆け付けた。絽の白地の着物を纏い。白い日傘を差した千鶴は上気した表情で玄関の階段を上がった。そこで斎藤と同じ、巡査の制服を着た若者とすれ違った。応接室に案内されて、斎藤の上司である警部補の田丸清長に会って挨拶をした。田丸も旧会津藩士で、戊辰の戦では、町野主水率いる朱雀士中四番隊に属し、激戦をくぐり抜けた偉丈夫だった。
敗戦後、田丸は斗南に移住せず町野と共に猪苗代に留まっていた。そして、今年の初めから町野と同様、警視庁へ採用となった。千鶴は、田丸と直接の面識はなかったが、斎藤から、田丸の計らいで着任早々、巡察主任として特別に、帯刀を許されたと話を聞いていた。物騒な東京で、斎藤が身を守る為に刀を持っていられる事に千鶴は安堵した。そして、武士然としていて、快活に笑うこの大柄な会津人に、千鶴は新選組の近藤の姿を重ねた。
斎藤が現れて、二人で挨拶を済ませて署を後にした。乗り合い馬車で専称寺近くまで出た。まだ陽も高く、道の向こうはゆらゆらと陽炎が立っていた。千鶴は、袂から、濡れ手拭いを出して、斎藤の額を拭った。
「本当に東京は、暑さがこたえます」
「はじめさんが、左のこめかみに汗を溜めるなんて。よっぽどです」
千鶴はそう言って、斎藤の首元の汗を押さえながら、クスクスと笑った。
斎藤は、キョトンとした表情で、
「……何故、そんなにおかしい」
「ですから、はじめさんはいつも汗をお顔の右側にしかかきません」
「昔からです。京にいた時からです」
「そうなのか」
斎藤は、千鶴が自分をよく見ていた事に驚く事がよくあるが、 まさか汗のかき方までとは。
「沖田さんが仰ってました。はじめくんは、刀を握る左手が汗ですべらないように身体がそう出来ているんだって」
「沖田さんも利き手の右腕が左より二寸以上長いって、比べて見せてくれた事がありました」
斎藤は、そう言われてみて、合点がいった。長く刀を振っていると、利き腕は確かに長くなる。
武家屋敷が続く道沿いに、専称寺が見えた。斎藤は、千鶴の用意した花を持って門をくぐった。本堂でお参りを済ませた後、裏の墓所に案内された。新盆の入りで、何処の墓も綺麗に花が供えられていた。千鶴は、墓石に手を合わせた後、丁寧に墓石を掃除し始めた。斎藤は再び井戸に水を汲みに向かった。千鶴は、ずっと総司に話し掛けていた。その姿は、京の屯所で病に伏せた総司を世話していた時と変わらず、それを順従にきいていた総司を思い出した。墓が清められた後は、花を供え、線香を上げた。千鶴は、葛まんじゅうを木の容器から出して、金平糖と一緒に供えた。
「沖田さん、好物をお持ちしましたよ」そう言って墓石に向かって微笑み、目を瞑って合掌した。
住職が袈裟を纏い、本堂から段を降りて来るのが見えた。数珠を手にして、斎藤達に微笑みかけると、総司の墓へ向かって読経を始めた。斎藤も一緒に手を合わせた。やっと、花を手向けることが出来た。総司、俺は生きて江戸に戻った。また、京に居た頃と変わらぬ、市中巡察が生業だ。盆で戻って来てるなら、小石川の雪村診療所に顔を出せ。久しぶりに一緒に呑もう。
住職が読経を終えて、本堂に戻って行った。斎藤と千鶴は、墓石の周りの沖田家の墓も掃除をして線香を上げた。総司の墓の前に戻ると、小さな猫が一匹、墓石と墓石の間から出て来た。胡桃色のふわふわの毛の猫で丸い顔に、長い尻尾をゆっくり振りながら、千鶴に向かって歩いて来ると、顔を上げて、小さな声で鳴いた。
「まあ、可愛らしい。このお寺の猫かしら」
人懐こい様子で千鶴に近寄ると、鼻の横を千鶴の差し出した手に繰り返し擦り寄せている。千鶴は、猫の頭から背中を何度も優しく撫でた。それから、立ち上がって、荷物をまとめて帰る支度を始めた。その間も、猫は千鶴の足の周りをぐるぐると回っては、時々、石段の間に生えている緑の草を食んで居た。
斎藤達が門に向かうと、猫が付いて来た。途中で、さっと斎藤を追い越した。追い越し際、斎藤の足を後ろ脚でむんぎゅっと踏みつけると、振り返った。その時、陽の光が猫にあたって翡翠色の瞳が光った様に見えた。 猫は笑ったような満足そうな顔で座ると。前脚の肉球を舐め始めた。
「ふふ、お見送りしてくれるのね」
千鶴は、また猫の額を優しく撫でた。斎藤達が門前で振り返ったとき、猫は真っ直ぐに座って、長い尻尾を前脚の前に綺麗に揃えて居た。斎藤達は、本堂に向かってお辞儀をして道に出た。
斎藤達は、其れから来た道を戻って乗り合い馬車に乗った。四半刻で神田川まで着き、そこから二人で歩いた。もう既に陽も傾きかけている。千鶴は、今夜は、ご馳走を作りますね。お盆ですから。そう言って、酒屋で清酒を買った。斎藤は、酒瓶を抱えて、今夜はゆっくり晩酌が出来ると微笑んでいた。ふと、影を感じて振り返ったが、道には誰も居ない。
お夏の家に預けて居た子供を引き取って家に着くと、千鶴は夕餉の支度に取り掛かった。斎藤は長男と風呂に浸かって汗を流し、さっぱりとして居間に戻った。千鶴は食卓に、揚げ出し豆腐に辛味大根を下ろしたものを載せて冷やした出汁をかけた大きな鉢を用意した。焼き茄子に、朝のうちに初鰹も買っておいたと、取って置きの飾り皿に綺麗に盛り付けられている。徳利ごと桶で冷やした酒まで用意してあった。豪勢な食事だ。
「さあ、お食事ですよ」
そう言って、子供を座らせると、手拭いで前掛けをして、丸い小さなお焼きを持たせた。上手に口に運ぶ様子を確かめると、千鶴は斎藤に硝子の御猪口を持たせて、冷酒を注いだ。斎藤は、美味いと言って、お刺身に箸を進める。
「鰹、火を通してお焼きに混ぜてあるんです。坊やはお魚も好きみたい」
「揚げ出し豆腐も。お豆腐好きなのは、はじめさんにそっくり」
そう言って、笑うと匙で崩した豆腐を食べさせている。斎藤も、どんどん箸を進めた。美味い。至福だ。
「今日は、田丸様にもお会いできて。大らかでお優しい雰囲気が、近藤さんみたいでした。私を戊辰の戦火を男の格好でくぐった勇ましいお方だって、笑っていらして。沖田さんのお墓参りで、久しぶりに沖田さんともお話出来ましたし。とてもいいお盆を迎えられました」
千鶴は、斎藤に酌をしながら微笑む。斎藤も、そうだな、といって満足そうに微笑んだ。居間から縁側の向こうは、陽もすっかり落ちて、夕闇が広がって居た。物干しの柱のたもとに、ぼんやりと何かがいるのが見えた。緑色に光る目が見え、斎藤は、箸を置いて立ち上がった。廊下に出てみると、茶色の猫だった。まさか、専称寺の猫が、こんな所に。
「千鶴、昼間の猫だ」
斎藤に、呼びかけられて、千鶴は長男を抱き上げると、縁側に出て来た。胡桃色の毛に覆われた、ちいさな猫は、仔猫より少し大きくなったぐらいで、身体の長さの倍程の立派な尻尾を綺麗に前脚の前に揃えて置いている。千鶴の姿を見ると、ゆっくりと尻尾を振って、にゅあーと鳴きながら近づいて来た。
「まあ、どうやって。私達に付いて来たんでしょうか」
千鶴は、しゃがんで猫を撫でると、台所から茶碗に水を汲んだものを持って来て、猫に飲ませた。それから、小皿に鰹の刺身をふた切れ載せて、縁側の上り口で振る舞った。猫は、そっとお皿に口をつけたようだった。それにしても不思議だ。寺から後をついて来るにしても、乗り合い馬車に一緒に乗った訳でもない。あの様な小さな猫が、馬車と一緒に走るのも想像できん。だが、付いて来たのだろうな。匂いか。千鶴や俺の匂いを辿って来たか。斎藤は、麻布から小石川の距離を考えると、この小さな生き物がどうやって再び姿を現す事ができたのか見当がつかなかった。
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総司との勝負
それから斎藤は、ゆっくりと食事をしながら晩酌をした。明日は非番でゆっくり出来る。千鶴は、子供の食事を終えて、授乳を始めた。斎藤は、団扇でゆっくりと風を送ってやりながら、引越しからずっと休みをとって居なかったと思った。警視庁の給金は月の終わりに支給される。それまで、千鶴に何も買ってやれぬ。折角の休みに出掛けるのも儘ならぬか。斎藤は、小さく溜息をついた。
千鶴は、寝入ってしまった子供を座布団に寝かせて。斎藤の晩酌の相手をした。縁側の猫は食事を終えて、身繕いを熱心にしている。前脚の肉球を舐めると、耳の先から背中やお腹まで綺麗にして、一通り終えると中庭に降りて姿を消した。千鶴は、猫のお皿を下げて。
「まあ、猫っておネギは食べないんでしたっけ」
そう言って笑いながら、皿の上に残った鰹を見せた。青葱の載った部分だけ器用に残したままになっていた。きっと匂いがキツいからだろうと、千鶴は言って居たが、やはり何処かの飼い猫で食い道楽に育っているのだろうな、と斎藤は思った。
翌日、斎藤は千鶴の叫び声が聞こえて目が覚めた。台所の上り口から、昨日の猫が斎藤に向って突進して来た、口には、鰹節を咥えている。あっと言う間に中庭に逃げた猫は、ヒョイっと身軽に塀の上に跳び上がると、ゆっくりと尻尾を揺らして消えて行った。台所の土間で、千鶴は、散らかった削り節を丁寧に紙で集めていた。小さいけれど、今月使うには充分だったのに。鰹出汁が取れない事を残念がった。斎藤は、昼餉時に、再び中庭に現れた猫を見つけると、首根っこを掴んで、玄関から外に放り出した。
この騒動、屯所で野良猫が狼藉を働いたのにそっくりではないか。
斎藤は苦笑いした。あの頃も新選組は食糧の確保に心を砕いていた。千鶴は、斗南でも少ない食材を工夫して食事を用意する為、空腹を感じた事は無い。新選組屯所に暮らしていた頃、千鶴は副長の土方に「隊士には飯をたらふく食わせてやれ、一歩外に出ればいつ斬られるかわかれねえ連中だ。米櫃の米が無くなったら遠慮せずに言いに来い」と指示されて以来、ずっとそれを守り続けているという。
——武士の約束ですから。
決して、ひもじい思いはさせない。これは、千鶴が土方に誓った約束だった。斗南での厳しい飢饉の時、千鶴は自分の食事の回数を減らすことで、斎藤に食糧を確保していた事があった。斎藤は、二度とその様な苦労はさせたくないと思い、東京への移住を決めた。東京では物資は豊富だ。安定した給金が支給されれば、家族を飢えさせる事は無いだろう。斎藤一家の新生活は、殆ど蓄えのないまま始まって居たので、猫一匹を飼うのも難しいと斎藤は判断した。だが、千鶴は、放り出された猫が舞い戻ると、昼餉に使った煮干しガラに冷飯を混ぜて食べさせた。結局、猫はそのまま家に居着くようになった。
それにしても、あの懐きようは
餌を与える千鶴に付きまとうのは解る。だが、ああ四六時中なのは。千鶴が子供を寝かしつけた直後に、今度は自分の番だとでもいう様に膝に載って、撫でて貰おうとする。子供の世話をする千鶴を、俺でさえ邪魔はせぬ様にしているのに、乳やりの最中も膝に擦り寄る。なんだ。
俺でさえ我慢しているのに
斎藤は猫にお株を取られてしまっている様な気がした。一番気に入らないのは、千鶴が猫を【沖田さん】と呼んでいる事だ。確かに、総司の墓のそばに居た猫だが、あの様な狼藉者を総司の名で呼ぶのは、けしからん。千鶴は、猫の目の色が総司と同じ翡翠で、身のこなしが総司に似ているからだと言う。総司同様に子供好きで、坊やが尻尾を引っ張っても嫌がらないと笑う。
「この前も、お洗濯ものを干していたら、蝶々が飛んで来て、沖田さんが跳び上がって捕まえようと二本足で立って、くるくる動くのが見事で」
斎藤は、自分のそばを擦り抜けて歩く猫を見た。必ずと言っていいぐらい、ワザと斎藤の足を踏みつける。まるで、揶揄するかのように。してやったりという顔で振り返る事もある。斎藤は、「其れならば、受けて立とう」と思い立った。 凧糸の先に丸めた布を結びつけて、廊下に置くと、そっと引っ張った。猫は、飛び掛かる構えで様子を見ている。斎藤はゆっくり待って、猫が飛び掛かる瞬間に、糸を引いて肩透かしを食らわせた。
一本だ、総司。
斎藤は、満足した。猫は、じっと斎藤の手の中の布玉を見ている。斎藤は、また糸を垂らした。猫は隙を置かずに飛び掛かって来た。斎藤は、身を翻して躱すと、奥の間に走って、竹刀をとった。よし、総司、勝負だ。竹刀の先に凧糸を結びつけて、宙に布玉をぶら下げた。猫は、暫く身を低くして、布玉を睨むと、思い切り飛び掛かった。
左がガラ空きだ
斎藤は竹刀を振って、布玉で猫を翻弄した。翠の瞳が爛々と輝き出す。揺れる布玉を睨みながら、摺り足で近づく。斎藤は、寸前まで睨み合って、引き付けた。最後に猫はくるっと向きを変えて、飛びついて布玉を咥え引き千切ると、仰向けになって狂ったように 前脚と後ろ脚で布玉を転がした。
「良い摺り足だった」
斎藤は満足そうに笑った。千鶴が奥の間に洗濯物を置きに来て、猫を見ると、
「まあ、はじめさん。いい玩具を。坊やにも、作ってやってくださいな」
そう言って笑って部屋を出て行った。
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七月の終わり頃のこと
斎藤は、田丸より赤坂周辺を重点的に警備するよう指示を受けた。旧薩摩藩の士族が新政府の要人を狙う事件が頻繁している。斎藤の部下は巡査が二名。帯刀を許可されない巡査は、棍棒こんぼうを武備するだけだった。木刀より短い棍棒は、接近戦では役立つだろう。だが、銃や仕込み剣で斬りつけられれば、圧倒的に不利。斎藤は、巡査の帯刀許可を田丸に願い出たが、田丸は渋い顔をするだけだった。部下は旧弘前藩出身の士族、同じくもう一人は旧尾張藩出身で、斎藤は毎朝、二人と剣術の手合わせをしてから巡察に出ていた。竹刀では、二人の本当の力量は判らない。剣筋が良いだけに、棍棒しか使えぬ二人を残念に思った。
暑い毎日を精力的に巡察している内に、七月も終わりを迎えた。斎藤は、初月給を受け取った。月給四円。斗南での年棒百石の禄からは、圧倒的に少ない。千鶴は、金を持つ事に昔から拘りを持たぬ。京に居る時から、物や金に対して何処までも無欲なのかと不思議に思っていた。新選組の幹部が千鶴に上物の着物や簪を与えても、喜びはするが、一度手を通すと大切に仕舞い込んでしまう。千鶴には、そういうところがあった。だが千鶴は着飾る事は嫌いではない。実際、東京に出てからは、行李から千姫にもらった【レース】の紐を取り出して、結った髪に飾ったり、巾着鞄や日傘の柄に結んで、しきりに「素敵」と喜んでいる。斎藤もそうだが、衣食事足りていれば満足な性分なのかもしれぬ。だが、東京のような大きな街で、月給四円では心許ない。斎藤は一家三人で暮らすには、ちょうど足りる程の給金を少し申し訳ない気分で持ち帰った。
千鶴は案の定、給金袋を受け取ると、「こんなにも」と言って喜んだ。神棚に上げて大切に手を合わせた。当面は食費に殆どが充てがわれるだろう。仕方あるまい。ゆっくり涼しい白河にでも連れて行ってやりたいが、先立つものがないうちは控えねばな。斎藤は、子供を優しく寝かしつける、千鶴の横顔を眺めながら思った。
非番の朝、千鶴がしきりに子供を呼び探す声が聴こえて、斎藤は剣の素振りをやめて縁側に戻った。坊やが居ない、猫と一緒に居間に座って居たのに。そう行って、診療所へつながる廊下へ走って行った。診療所は、千鶴の父親が開業していたまま、まだ薬品や診察道具が並べたままになっている。段差も多い為、子供が入らないよう、常に診療所の戸を閉めてあった。千鶴が駆けつけると、戸は少し開いていて、中から子供の声が聞こえた。
千鶴が見た時、診療所の奥の間の真ん中の畳の上で、猫が狂った様に爪研ぎをしていた。既に、畳表はボロボロで中の藁が飛び出し、それでも研ぎを止めない。跳び上がっては、畳を掘り起こすように研ぎ続ける姿が面白いらしく、目の前で這い這いしながら、子供がケラケラと笑い声をたてていた。千鶴は坊やを抱き上げると、散らかった畳を集めながら猫を止めようとした。沖田は、跳ね飛ぶと畳の真ん中に小便をした。
「沖田さん、駄目です」
千鶴の叫ぶ声を聞いて、斎藤が木刀を持って診療所に飛んで来た。診療所から、一目散に逃げる猫は、斎藤の腰元を飛び掛かるようにすり抜けると中庭から塀の向こうに消えて行った。千鶴は、無茶苦茶になった畳の上を古新聞で拭いてから、子供を抱いて廊下で溜息をついた。子供に怪我はありません。自分の不注意で二人が診療所に入ってしまったとしょんぼりしている。
「大事はない。あの部屋の畳は古くなっていた。今すぐは無理だが、頃合いを見て張り替えよう」
「沖田さんが、粗相をして」
千鶴が、そう言って斎藤の顔を見た。斎藤は、千鶴が猫の事を言っているのは、解るが、総司の名前で説明する妙に笑いが込み上げた。千鶴も一緒にクスクスと笑い始めた。
「あの畳を剥がして中庭で水で流そう。この陽気だと二日も干せば乾く」
斎藤は診療所の畳を千鶴と一緒に剥がした。畳の下の板に、穴が二箇所とそこに縄が通してある。畳下に物入れが作ってあるようだった。千鶴は初めて見たと不思議そうにしている。一旦、子供を居間に下ろしてから、畳を中庭に運び出した。斎藤は、診療所の畳下の板間を開けた。中から、沢山の書類がでてきた。紙の包みから、薬草や鉱物の様な塊。瓶に入った粉など、南蛮文字が書かれた紙紐が付けてある。斎藤は、千鶴に手拭いと灯りを持ってくる様に頼むと、草履を取って来て、物入れの底に降りた。夥しい数の巻物と紙の包みには、所々に【羅刹】という文字が見えた。斎藤は、千鶴から灯りを受け取ると、診療所の戸締まりをしっかりして、子供と猫が決して入らない様に見ておいてくれと頼んだ。
物入れの底には、千両箱が二個積み上げられていた。錠前は簡単に外れる様になっていて、斎藤は重い箱を手拭いで包みながら持ち上げて、隣の畳に置いた。千両箱の中は、思った通り金の小判が詰まっていた。中には、大判も混ざっている。斎藤は、産まれて初めて大判を見た。おそらく、千鶴の父親の雪村綱道が羅刹研究の資金をここに隠し持っていたのだろう。大判などは、市中にそう出回っておらぬ。幕府や雄藩との取引きで得た報酬やも知れぬ。それに、この夥しい書類は、羅刹開発に関わる資料だ。旧幕府の暗部。新しい政府は、羅刹開発をとっくに廃止したと聞く。だが、幕末の動乱期に俺の様に変若水を飲んだ者で、生き長らえている者も居るだろう。
斎藤は、床下にあったものを見せる為に千鶴を呼んだ。千鶴は書類に目を通すと、全て羅刹開発に関するもの、ほとんどが、羅刹の副作用を抑える技術について書かれてあるものだと言った。包みにある鉱物や薬草はとても貴重で、長崎にでも出向かなければ手に入らないものばかりだと驚いていた。そして、千両箱の小判には、どうしてこんな物をと、父親が羅刹の開発に必死に隠し集めた資金である事を思い、複雑な表情で眺めていた。
「ここにこの様な資料がある事が新政府に知られるのは、まずい気がする」斎藤は呟いた。
「旧幕府の悪行として、処罰が下りるだろう」
斎藤は、複雑な表情で千鶴を見た。
「俺は、国を治安する職に就いた。新政府の元で。これを隠蔽するのは、職務に反する。だが、雪村綱道の身内というだけで、千鶴、お前にも処罰が及ぶとも限らん。それだけはあってはならぬ」
「処分してしまいましょう、はじめさん」
千鶴は、即答した。
「このようなもの、ここにあっても何処にあっても必要はありません」
千鶴は、そういうと書類をまとめ始めた。
「千鶴、羅刹の副作用に苦しむ人間は、まだ居る」
「俺の様に生き長らえて居るものがいるやもしれん」
「松本先生に文を書いてみよう。先生が、まだ羅刹救済を続けているなら、これは重要な資料になる」
「そうですね。良順先生に知らせましょう。それに此れだけのお金があれば、羅刹に苦しむ人を救えるかもしれません」
千鶴は笑顔になった。斎藤は、此れだけの小判を見ても、千鶴が自分の為に使おうと考えない事に、本当に無欲なのだな、と内心驚いた。
斎藤は早速、松本良順宛に文を送った。松本良順は前年に帝国陸軍の軍医総監に就任し、新宿に自宅があった。返信を待つ間に、千鶴は羅刹文書の整理をした。文書の中には、極秘と朱書きされた物々しい表紙のものがあり、麻酔の処方箋と水戸の弘道館で習った手術法が細かく記述されていた。床下に保管されていた薬草と鉱物から、あの通仙散つうせんさんを造ることが出来ると判った。そして、劇薬を扱う処方に恐れを感じた。千鶴は、もう一度良順に父親の遺した薬草類の扱いについて教えを乞うた。
良順から折り返し返信が来た。劇薬の扱いは危険を伴う、近く弟子を診療所に向かわせるので、それまで、触らずに待つように指示があった。戊辰戦争で薩摩藩や土佐藩が造り出した羅刹は終戦後、新政府によって処分されたという。陸軍では、羅刹救済策は残念ながら立てていない。しかし、変若水は依然交易で取引きされている。綱道の遺した資料は貴重なので、良順が今後、直接診療所に受け取りに行きたい。それまで、どうか保管して置いて欲しいという事だった。羅刹救済の為に、見つけた小判をという千鶴の申し入れに対して、良順は受け取りを固辞した。そして、小判の換金の際は十分気をつける様に。新政府の旧幕府諸藩からの債務取立ては厳しい故、旧会津藩士を名乗る斎藤君が、大金を抱えている事は表向きにしない様にと注意が書かれてあった。
千鶴は、小判は貨幣交換の出来る両替え屋に小まめに持ち込もうと斎藤に相談した。金貨と紙幣に小分けにして、生活に必要な分のみ使うように。千両箱は床下に引き続き隠し置く事にした。小判は、全部で五千両あった。ご維新後の貨幣は、金の値打ちが上がっていた。両替屋の為替で計算すると、二千五百円。これは、現在の一億円。千鶴は天から降って来た様なお金なので、いつか世の中の為に使う機会まで保管したいと言う。斎藤は、千鶴の意向が一番だと思った。
八月に入って直ぐ、雪村診療所に松本良順からの紹介で青山胤通が現れた。松本良順が建てた西洋式の病院、早稲田蘭疇(らんちゅう)医院の医師で、松本からの依頼で、トリカブトなどの劇薬を引き取りに来たという。綱道の遺した薬草や薬を一通り確認すると、蘭疇医院で買取を申し入れてくれた。青山は、雪村診療所を眺めて、とても良い場所なので開業していないのは勿体無いと残念がって帰って行った。千鶴は、斎藤に頼んで、診療所の畳の張り替えと、廊下の戸を新しく建て付けて、決して猫や子供が誤って診療所に入らないようにした。そして、時間を見つけては、診療所を父親が使っていた時のように、清潔にしておいた。
そして、両替屋に行った帰りに、千鶴は、木のお椀と皿、小間物店で小さな鈴を買った。家に戻ると、レースの紐に鈴を縫い付けて、猫の首に付けた。木のお皿とお椀は縁側の上がり口に置いて、そこが猫の食事処となった。
こうして、東京に移ってひと月の間に、斎藤家は新しい住人(猫)が増え、実入りも増え、診療所は新しくなった。斎藤には、警視庁から警察官の身分を示す印籠の様な、【警察手帳】と新しい制服と制帽が支給された。白地の上下と紺ラシャの上下。どちらも詰襟で、金の釦が並び、襟と袖に巡査主任を表す金地の二本線が着いていた。斎藤は濃紺の制服を好んだが、式典の日に、白地の制服で腰に打刀を帯刀して立った姿は、凛として眩しい程に立派で、千鶴はうっとりとなってしまった。
「はじめさん、とても良くお似合いです」
「今度、はじめさんと写真を撮りたい。坊やも一緒に」
「ああ」斎藤は、靴を履きながら生返事で応えた。
千鶴は早速、近所の写真館に出掛けて主人に、次の非番に自宅に来て貰うように頼んで来た。そして、当日は長男に余所行きの洋服を着せて、自分も取って置きの着物を纏った。斎藤は制服を来て、帽子を手に持った。塀の上から尻尾をゆっくり揺らしながら物見見物していた総司は、澄まし顔の斎藤達を目を細めて眺めていた。そして、写真技師が準備が出来たと声を掛けると、すっと塀から降り、斎藤の足元に背筋を伸ばして座ると、ゆっくり長い尻尾を前脚の前に揃えた。
出来上がった写真を千鶴は八瀬の千姫に送った。千姫は、千鶴達一家の写真を眺めながら、文に書いてある、「沖田さん猫」と「降って湧いた小判」の話に驚き、同時に笑みが溢れた。斎藤達が夫婦手を携えて、新天地で逞しく幸せに暮らしている様子に、千姫は安堵と嬉しさでいっぱいの気持ちになった。
つづく
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(2017.10.01)