密偵

密偵

明暁にむかいて その9

明治八年二月

 鍛冶橋庁舎での警視庁剣術試合の決勝戦に、斎藤と部下の津島淳之介が出場した。

 試合当日、千鶴は子供を連れて虎ノ門周りの乗合馬車に乗って会場に向かった。馬車が丸の内を過ぎ鍛冶橋門の中へ入ると、正面に警視庁の大きな黒塗りの火の見櫓が見える。馬車を降りて、千鶴は初めて鍛冶橋庁舎の立派な建物の中に入った。広くて大きい。威厳のある建屋の中を千鶴はきょろきょろと眺めながら歩いた。廊下の向こうに、斎藤の上司の田丸警部補の姿が見えた。千鶴は田丸に挨拶を済ませると、そのまま案内されて武道館に向かった。試合会場には既に大勢の人が集まっていた。千鶴は長男を抱いて見学席に座った。

 会場の上座に位置する来賓席には、元斗南藩家老の山川浩の軍服姿が見えた。山川とは、上京してから一度だけ自宅に斎藤と挨拶に上がったきり、なかなか会うことは叶わなかった。三月に入ったら、山川宅へ千鶴を伴って訪ねて行くと斎藤が言っていた。遠目だが、一足先に壮健そうな山川の姿を確かめられて千鶴は嬉しかった。

 開会式の為、出場者全員が会場の真ん中に整列した。斎藤はいつも制服を来て出勤する時とは違い、髪を普段のように無造作に下ろしている。いつものきっちりと髪を梳かしつけた精悍な姿を千鶴は気に入っていたが、道着を纏って髪を下ろし真剣な表情で佇む姿は新選組の頃の斎藤を思わせた。

 じっと立つ斎藤の姿に、千鶴は心の臓がしめつけられるような気がした。

 凄い気迫。

 千鶴は斎藤の剣技には絶対的な信を置いている。だが、竹刀での試合なのにまるで真剣での果たし合いでもするような斎藤を見て、自分も息が出来ないぐらい緊張してきた。このような斎藤を千鶴は長く見たことがなかった。伏見の戦を思い出す。八幡男山での【風間千景】との死闘の夜を。

 開会の挨拶の後、大警視川路利良の辞があった。

「国家騒乱を鎮圧警備するのに、剣技と胆力は必須。諸君の切磋琢磨した技量を披露してもらいたい。そして庁では卓越した者を表したい。優秀な警察組織を形成する為に大いに力を発揮して欲しい」

 腹に響くような通る声で、会場の選手を激励して川路は来賓席に戻った。選手一同は、敬礼をして控え席に戻った。

 最初に二十代の部から決勝戦が行われた。対戦表によると、津島淳之介の相手は、大一区小一署の黒田又三郎巡査とあった。試合場に立った二人は一礼した。津島の姿を千鶴は首を伸ばして見詰めた。相手は、津島より頭一つ大きく肩幅も広い大柄な男だった。津島は、千鶴が縫った武州正藍染めの道着を纏っていた。津島は防具で顔が覆われているが、中の眼光は鋭く気迫で相手を圧倒している。いつも物静かな津島が、このような様子を見せるのに千鶴は驚いた。

 審判の合図で試合が始まった。津島は「脇構え」で一歩引いた。相手は青眼で構えている。相手は手も長く間合いを詰めてくる。既に試合場の端に下がったような津島に相手は青眼から津島の右肩へ突きを見舞った。津島は突きをかわすと、下段から一気に相手の懐に入り、そのまま走り去りながら胴をとった。一瞬の出来事だった。

「胴あり」

 審判の声が響く。津島は、落ち着いた様子で場の真ん中に戻る。二本目は青眼の構えから互いに打ち合った。相手は力でねじ込んだが、津島の判断が早く、一瞬で篭手をとった。三本目は、互いに青眼の構えをとったが、相手は後ろに引いた。津島の気迫は相手を圧倒している。互いに睨み合うだけで数秒経った。相手が踏み込んだ瞬間、津島は「天の構え」から振り下ろしそのまま正面で面をとった。

「面あり、勝負あり」

 審判が旗を上げた。津島は後ろに下がって、相手と一礼をして試合を終えた。千鶴は立ち上がって拍手をした。隣で田丸警部補も立ち上がって、「ようやった」と手を叩いている。圧倒的な強さだった。千鶴は、坊やに「津島さん、凄かったね」と笑いかけた。

「なんだってようやった。相手の黒田巡査は薩摩者だども。おれはあれの親父とは戦でやり合った」

 そう言って、田丸は席に深く腰かけると大きく息をついた。そして、千鶴にそっと耳打ちした。

「戊辰の溜飲が下る」

 そう言って、じっと感慨深そうに前をじっと見た。千鶴は田丸の横顔を眺めた。旧会津藩士の田丸は会津戦争をくぐり抜けた強者。先の戦の事は、いつも大らかに己の善戦を語り、ようやった、ようやったものだと決して怒りや恨みを語ることはなかった。だが、田丸も他の会津藩士同様、苦渋を呑んだのだろう。夫の斎藤も同じだ。決して表には出さないが、逆賊として行き場を追われた数年間を決して忘れることはない。

「次は、藤田だ」

 田丸は、席を前に乗り出して試合場を眺めた。千鶴は、豊誠に「父様ですよ」と教えて、身を前に乗り出した。試合場に立った斎藤は落ち着いた様子だった。相手は背の高さは同じぐらいだが頭が大きく肩幅が広い分、斎藤より大柄に見えた。審判が両旗を下げて「始め」の合図をした。

 斎藤は青眼に構えた。じっと動かずに相手を睨んだままでいる。相手も青眼のまま、すこしずつ摺り足で右に動く。千鶴からは斎藤の表情は見えない。

(はじめさん、落ち着いていらっしゃる)

 千鶴は、斎藤の背中から非情に静かな気配を感じた。静の剣。京の屯所に居た頃、斎藤の剣を幹部の皆がそう評していた。静かであればあるほど容赦ない。あれは性質が悪い。そんな風に言って、皆が斎藤の剣の鋭さを恐れていた。

 一本目は、青眼から一気に突きで斎藤が取った。

 二本目は、相手は「八双の構え」から圧倒的な勢いで攻めた。斎藤は場外寸前まで追いやられた。千鶴は息もできずにじっと見守った。何度も相手の剣をかわした斎藤は、右側に隙をみて胴を狙ったが、先に面を打たれた。隣の田丸がうなり声を上げた。

 相手の長友丈之進は相当の使い手。だけんじょ、負けてたまらんに。

 そう呟く声が聞こえた。

(大丈夫。絶対に。はじめさんは)

 千鶴は、気を落ち着けて坊やをぎゅっと抱きしめた。

「父様は、必ず勝ちます」

 そっと豊誠の耳元で囁いた。豊誠は口をつぐんだままじっと試合場を見詰めていた。

 斎藤は青眼の構えで挑んだ。互いに反対側に摺り足で間合いを取る。牽制し合う二人からは、互いの手を読みあぐねている様子がうかがえた。皆が息を呑んで見ている。相手の剣先が微妙に揺れている。誘い込むようなその動きは、よく藤堂平助が構えるときに見せていた。それを斎藤はまるで見ていないかのように、全く動かない。同じ青眼でも、斎藤の切っ先は常に相手の眼を狙っていた。

 瞬きをするより遙かに早かった。

 斎藤の一撃は相手が突きの一手を打った瞬間、すでに左にすり抜けたと同時に面を打っていた。

「面あり」

 審判の声が響いた。斎藤は、すぐに場に戻った。三本目始めの合図で、相手は青眼で今にも攻める様子を見せている。斎藤は、青眼の構えから一歩左足をひいて「陽の構え」をとった。千鶴は驚いた。それは、京の屯所の道場で斎藤が総司と真剣で勝負をした時の構え。総司も全く同じ構えで引き。まるで鏡で併せたように二人が見えた。あの日は、屯所中の隊士が道場に集まった。真剣で二人が試合っている。そんな声が屯所中に行き交った。

 相手は、斎藤に間合いを詰める。微動だにしない斎藤は、じっと相手を引きつけている。相手の気迫も凄い。千鶴は手に汗を握った。必ず、はじめさん。必ず。千鶴は心の中で祈った。
 相手が気合いを入れた声を張り上げた。床を蹴って一気に上段から剣を振り下ろす。動かない斎藤の頭上に相手の剣が迫った。その瞬間、斎藤は低く構えた。居合いの構え。そのまま相手の左脇に流れた。胴を打つ音が響いた。

「胴あり、勝負あり」

 審判の旗が斎藤に向けられ上がった。斎藤は振り返って、場に戻ると剣を腰に戻して持ち一礼した。どよめく会場から拍手が沸き起こった。千鶴も田丸も立ち上がって喜んだ。

「なんだってえやりおった。流石、藤田だ」

 千鶴は緊張が解けて、眼から涙が溢れてきた。はじめさん、こんなに嬉しいことがあるだろうか。胸に抱いた息子も手を叩いて喜んでいる。

「父様、勝ちましたよ。豊誠」

 千鶴は背伸びをして、斎藤が防具を脱いで控え席についたのを見守った。すっきりとした表情をしている。斎藤から誇らしげな様子が感じられた。その後、四十代から六十代までの試合が行われた。田丸の話では、各年代別の優勝者はどれも奥羽列藩の出身者で、薩摩長州ものは一人も残っていないということだった。

 会場に、最終戦の星取り表が貼り出された。各年代の優勝者五名で試合をする。

 三本勝負
 一本につき星が一つ
 先手二本勝ち
 星の数で競う
 全勝したものが優勝

「最終戦だ」

 田丸が腕を組んで試合を見守った。最初に二十代の部優勝の津島と三十代の部優勝の斎藤が取り組んだ。千鶴は息を呑んだ。普段から一緒に稽古をしている者同士の真剣勝負。津島の気迫は変わらず。斎藤はさっきの試合と変わらない。会場はしーんと静まりかえった。津島が青眼で斎藤を待つ。斎藤は、青眼から一気に突いた。津島は場外ぎりぎりまで追いやられて、突きをとられた。

 その後の二本目は、互いに青眼で責め合った。耳をつんざくような竹刀同士がぶつかる音が会場に響く。斎藤の摺り足は全く隙が無く、津島は自分に引き寄せた分不利な状態になった。あっという間に面をとられた。

「面あり、勝負あり」

 息を切らせて、一礼した津島はそのまま急ぎ足で控え席に戻った。斎藤は落ち着いた様子でその後に続いた。斎藤が防具を脱いだ姿を千鶴は背伸びをして確かめた。はじめさん、いつもと変わらない。千鶴は、自分自身ももっと落ち着くようにと胸に手をやって息を整えた
 その後、三組の取組が終わって津島の二試合目が行われた。順当に勝ち続けた津島は、星を一つ落としただけだった。そして斎藤は、各年代の優勝者全員を負かして、全ての星をとって優勝した。

 千鶴は涙が止めども無く流れてきて、何度も手拭いで目元を拭ってずっと斎藤を眺めた。

 田丸は上機嫌で、試合が終わった後の閉会式をじっと眺めた。最優秀者として呼ばれた斎藤は表彰を受け、皆から拍手を受けた。その後年代別優勝者として斎藤は津島と一緒に表彰を受けた。二人が並ぶと、同じ道着と背格好で隣の田丸が、「あれはよう似て居る。兄弟みたいに」と感心していた。

 閉会式で気がついたのは、天野が審判席と選手席を行き来して会の進行を手伝っている姿だった。天野は間近に試合を観ることが出来たのだろうと千鶴は思った。最後に、鍛冶橋大一署長の閉会の挨拶で大会は閉幕した。千鶴は田丸から、これから丸の内で警視庁の祝勝会が開かれると説明を受けた。田丸も天野も出席すると言う。千鶴はそれではここでお先においとましますと、田丸に挨拶した。

「田丸様、後日内輪のお祝いを開きたいので、拙宅まで是非来はらんしょ(お越しください)」

 田丸は千鶴の話し方と招待に大喜びしながら、「いいべ、いいべ」と返事をした。千鶴は庁舎を後にした。

 その日、夜の八時過ぎに斎藤は帰宅した。千鶴が玄関に迎えにでると、斎藤は千鶴を上がり口から抱きかかえた。黙ったまま強く抱きしめられた千鶴は、心の底から嬉しさと喜びで一杯になった。

「おめでとうございます。はじめさん」

 千鶴が囁くと、斎藤は千鶴に深く口づけた。もう言葉にならない。こんなに嬉しそうな夫を久しく感じたことがなかった。どれだけの想いで今日の試合に臨まれていたのだろう。千鶴は再び涙が止めども無く溢れてきた。斎藤は、靴を脱ぐと千鶴を抱きかかえて居間に向かった。そのまま畳に座ると微笑みながら、

 今日はよく試合えた。

 そう呟いた。千鶴は斎藤の膝の中に収まったまま、何度も斎藤の頬に口づけた。こんなにも誇らしい様子で。嬉しい、生きていて良かった。ずっと生き延びて来て本当に良かった。

 二人で暫くずっと抱きしめ合った。

「秋口から稽古にずっと集中できたのも、千鶴のお陰だ。感謝している」

 斎藤は外套も脱がずに座ったまま微笑んでいる。千鶴は、こんなに嬉しい日はなかったとずっと話続けた。豊誠は、と斎藤に問われて。坊やはさっきもう眠りましたと千鶴は答えた。

「豊誠も喜んでいました。試合の間、ずっと真剣に座って見ていたんですよ」

 千鶴はそう答えると、斎藤の着替えを手伝った。斎藤は祝勝会で存分に食事と酒が振る舞われたので夕食はいらない。ゆっくり湯に浸かりたいと言った。千鶴は直ぐに風呂を沸かし直してゆっくり湯船に座り、二人で遅くまで語り合った。




******

山川からの呼び出し

 翌朝斎藤が出勤すると、既に部下二人は出勤していた。今日は特別に朝稽古は休みだと伝えていたのに、二人はいつも通りに来て二人で手合わせをしていたらしい。祝勝会で相当酒が入っていた様子の天野だが、二日酔いでも剣を振ることにしたんです、そう言って笑っている。斎藤は思わず微笑んだ。昨日の庁舎での試合が、余程刺激になったのか。二人のやる気は実に若々しい反応で、斎藤はこの後もずっと続くようにと心中で願った。

 その後、斎藤と部下は合同巡査に向かった。巡察地域の調整後、集合場所は青山練兵所ではなく、陸軍兵が鍛冶橋の中庭に出向いている。毎朝、斎藤と陸軍少佐永井盛弘が全員の点呼をとる。最近は一隊七名で隊を分けていた。相変わらず、斎藤が隊長となると陸軍歩兵は不満があるようで、無表情でろくに返事をせずに隊列を移動して黙って巡察をしている。そういう態度を少佐永井が恫喝する。地響きするような低い声でサーベルを抜いて歩兵を動かす永井は、手荒い真似をする上官らしく、歩兵は直立不動になって逆らえないようだった。

 合同巡察は全七隊で広範囲を網羅している。斎藤の隊と永井の隊は築地方面を中心に見廻った。永井の隊は斎藤達が窃盗団を検挙した際、応援要因として直ぐに駆けつけて来た。警視庁の巡査と陸軍歩兵はまだ完全に打ち解けてはいないが、最近は以前に比べて陸軍との連携がとれるようになっていた。永井少佐は寡黙な男だが、肝が座った薩摩隼人。治安維持の心得があり、その統率力も斎藤は一目置いていた。

 巡察が終わって鍛冶橋庁舎の中庭で解散した後、斎藤は大一区署長の酒井了恒に呼び出された。斎藤は部下達に先に虎ノ門に戻るように指示をして、署長室に向かった。大一区署長の酒井と斎藤は面識があった。部屋に入るように言われると、中には既に数名の警部補の制服を着た者達が席についていた。

 酒井署長は挨拶をした斎藤に席に着くように言うと、今日呼び出したのは、新しい任務についてもらう話があるからだと説明を始めた。

「今般、撃剣世話掛を置くこととなった。既に、剣術、柔の指南役が警視庁におるが、今日集まってもらった君たちには、巡査たちに世話掛として剣術指南をしてもらいたい」

 斎藤は、同じ席に並ぶ他の二名を見た。皆、剣術試合の優秀者だった。各々所属署内で指南は継続し、交代で各署を廻る。近いうちに予定表が組まれるという事だった。一通り説明を受けて解散となったが、酒井から斎藤だけはその後も部屋に残るように言われた。

「藤田巡査、君に関しては陸軍にも撃剣指南役として週に一回出て貰う。青山練兵所だ」

 斎藤はいきなりの話で驚いた。陸軍とは合同巡察を行っているが、砲術や兵法指導ならまだしも、剣術の稽古をするという考えには及ばなかった。

「合同巡察にでている君なら、陸軍歩兵に指導をするのも旨く行くだろう。これは川路大警視閣下からの推挙だ」

 そう酒井は笑顔で話した。大警視閣下は、君の剣術の腕を買っておられる。警視庁を代表して大いに陸軍兵にその剣技を伝授したまえ。それから酒井署長は終始笑顔で斎藤を激励し続けた。斎藤は、大きな任務に就く責任と同時に充足を感じながら、第一庁舎を後にした。

 虎ノ門に戻ると、斎藤は署長と田丸警部補の待つ部屋に向かった。新しい指南役の件はすでに署長達には話が通っているらしく、巡察の予定に世話掛で別の署や青山練兵所に出向く日程をうまく組み入れるという事だった。そして、今まで通り虎ノ門でも大いに撃剣指導を続けて貰いたいと言われた。

 そうして、日程調節を待ちながら数日が過ぎた。千鶴に新しい任務の話をすると、新しい道着を仕立て始めた。そして翌三月初旬から世話掛で各署を廻ることが決定した。

 決定の翌朝、斎藤が出勤すると陸軍中佐の山川浩から呼び出しの電報が届いていた。斎藤は早速午後に市谷に向かった。斎藤が山川の部屋に案内されると、山川は急に呼び出したことを謝りながら、部屋から人払いをした。どうしても話しておきたい儀があったと窓辺に背を向けて立って言うと。振り返って、斎藤の前の椅子に腰を掛けた。

「先日の試合は見事だった。警視庁外部の剣術指南役が皆、舌を巻いておった」

 山川は微笑みながら話す。

「新しく剣術指南役に就いたと聞いている。陸軍にも出稽古に出るらしいな」

 斎藤は、「はい」と山川の眼を見詰めながら返事をした。

「今日呼び出したのは、それにも関わることだ。我々陸軍と警視庁の連携で首都の治安警備を行っているが、合同巡察と一緒に成さなければならぬ仕事がある」

「不平士族の検挙だ。東京でも愛国公党の残党が動きを見せている。内務省の官人が密かに結社に協力している情報もある」

 両肘を膝について乗り出すように座った山川は、両手をぐっと組んで斎藤の眼を見詰め返した。

「陸軍の中にもそういった輩がいる」

 斎藤は黙って山川の話を聞いていた。不平士族に汲みする者が陸軍に。内務省の官人の中心は薩摩や長州出身者で成り立っている。陸軍もしかり。そして昨年起きた、佐賀の反乱は皆、新政府の要人が下野した後に起こした。

「その者達を監視する必要がある」

 陸軍の中の不穏分子の監視。それが仕事だ。そう山川は説明した。斎藤は、ずっと黙ったままでいる。

「藤田。そなたにそれをやって貰いたい。陸軍、警視庁を問わず、不穏な動きを起こす輩を探ってその活動を報告して欲しい」

「これは内務省の極秘任務だ。表向きは警視庁巡査として。剣術世話掛という立場も活用できる」

 斎藤は、一旦床に視線を移していたが顔を持ち上げて山川を見詰め返した。

「藤田、この任務にそなたを推挙したのは私だ。近々、大警視閣下から直接呼び出されるだろう」

「大警視閣下からの任務命令は絶対だ。断れぬ。だが、今なら違う」

 山川は斎藤の表情を確かめる様にゆっくりと話す。

「断りたければ、そのように取りはからおう」と山川は微笑んだ。

 斎藤は、じっと考えた。返答を急がねばならぬ。そう思いながらも内務省の【間者働き】に内心戸惑いが走る。国の治安を揺るがす不穏分子の監視と検挙。この任務は政府に切望されているのだろう。頭では判っているが、これで義が通せるか。己の義が。

 じっと黙っている斎藤の前で、山川は息をゆっくり吐いた。

「川路さんは、そなたの剣の腕を買われている。胆が座った者だと感心しておられた」

「難しい任務になるが、藤田ならと仰っておいでだ」

 斎藤は息をついた。返答できぬ。これが答えだった。今すぐは、答えられぬ。

「山川さん」

 斎藤は姿勢を正し、かつての自分の上役に呼びかけた。

「この任務へのご推挙、有り難く思っています」

「任務命令がある時に、わたしから直接大警視閣下に返事いたします」

 そう言うと斎藤は立ち上がって、頭を深々と下げた。

「相すみません、今直ぐのお返事はご容赦願いたい」

 ずっと頭を下げ続ける斎藤に、山川は「顔をあげろ」と言って微笑んだ。

「そなたの好きにすればいいことだ。日頃の巡察だけでも十分に治安維持には貢献している。堂々としておればいい」

 そう言って山川は立ち上がった。「今日はこれだけだ」と言いながら、斎藤を部屋の出口に見送った。斎藤は、深々と礼をして部屋を出た。斎藤の背後から、来月細君を連れて家に来るんだろう。その時にまた会おうと山川は声を掛けた。斎藤は、もう一度振り返って頭を下げた。




******

陰扶持

 その翌日、斎藤は鍛冶橋より呼び出しを受けた。斎藤が虎ノ門の署の玄関を出ると、立派な御者付きの箱馬車が止まっていた。観音開きに扉が開き、御者の介添えで中に乗り込むと床にはふかふかの絨毯が敷かれ、椅子は上質なビロード生地で出来ている。一介の巡査である自分などの為に、大警視閣下の箱馬車が直接迎えに来ていることに驚きながら、斎藤はそのまま鍛冶橋に向かった。

 馬車が庁舎の建屋の前に着くと、玄関には警部の制服を着た者が斎藤を出迎えた。待っていたと斎藤に声を掛けた警部は、斎藤を庁舎の二階奥の川路の部屋に案内した。斎藤が挨拶をして入室すると、川路は部屋の奥の大きな西洋机から立ち上がり、応接椅子に座るようにと指示をした。部屋には斎藤と川路二人きりだった。

「藤田巡査、先の大会は、見事な剣技であった」

 斎藤は一礼した。川路は机上の書類の山から、白い書類の束を取るとそれを持って斎藤の前に座った。書類は黒紐で閉じられて資料帳のようになっている。表紙には【極秘】と朱色で大きく書かれていた。川路は膝に載せたその書類を開いて眼を通し始めた。

「戊辰の戦では旧幕府伝習隊と共に白河口、母成峠、城下で武功をあげたそうじゃな。一騎当千ん働きやったと聞いちょお」

「斗南藩では、大番頭、馬廻役、日新校剣撃指南筆頭」

 次々に斎藤の経歴を読み上げる。斎藤はずっと姿勢を正したまま黙っている。川路はずっと資料をめくって眼を通していた。カイゼル髭を蓄えたその顔は、思ったより優しげで若々しく見えた。大きな手で資料を繰りながら、時々眼を上げて斎藤の姿を見詰める。まるで、吟味をするような。斎藤は黙ったままでいた。川路は一旦書類を閉じると顔を上げて斎藤に向かって言った。

「今日、呼び出したんは新しか任務命令にちてだ」

「貴君に巡察中の陸軍少尉永井の監視をして貰いたい」

 川路は単刀直入な物言いをすると、資料を閉じて両手を膝に置いた。

「永井は元々開拓使係で。ずっと北海道におった。中佐として屯田兵を率いちょったじゃっどん、政策に失望して辞して東京に戻ってきた」

 斎藤は川路の薩摩なまりの説明に静かに耳を傾けた。永井殿は開拓使勤めだったのか。

「東京鎮台で、少佐に降格したが、立派に勤めておっど。永井は生粋の薩摩隼人じゃ」

 そう言う川路は堂々とした体躯でどこか誇らしげに斎藤を見詰めた。

「二年前に陸軍大将閣下が辞されて薩摩にお戻りなさった時、永井も一緒に追随しよっと思うた。じゃっどん、そのままずっと東京に居っ」

 斎藤はじっと黙って話を聞いている。斎藤が斗南から上京してくる一年前、新政府では政変が起きた。政府の中枢であった西郷陸軍大将が突然下野した。昨年起きた、佐賀の乱はこれに端を発したもの。山川中尉は、ずっと熊本鎮台に駐屯し士族の反乱を沈静した。そして山川が酷い負傷をして帰還した夏に、ちょうど斎藤は千鶴と息子を連れて斗南から東京へ移住してきた。

 以来山川からは地方で起きる士族反乱の話を沢山聞いている。これが波及して東京で大きな戦になるのだけは防がなければならない。いつも山川はそう言っている。

「永井盛弘は政策に不満を持っちょっ」

「……東京で反乱を起こす不穏な動きがあっと」

 川路が説明を続ける。「そこでだ」と斎藤の眼をじっと見詰めて話す。

「貴君は、合同巡察で永井少佐と行動を共にしておる。傍で永井少佐を探って貰いたい」

 斎藤は、日中巡察任務をしながら間諜活動をすることになると思った。

「築地地区には、愛国公党の残党が潜伏しと居っ」

「永井は本来そいを取り締まる役。じゃっどん故意に不平士族を泳がせておつ可能性もあっど……」

「こいが中々はっきりせん」

 川路は困ったような表情を見せた。

「不平士族の輩は以前、佐賀の反乱の首謀らと繋がっとおっだ。最近は東京で秘密結社が立ち上がっちゅう。必ず将来、大変なことをしでかす奴らに相違なか」

 斎藤は黙って座っている。川路も何も喋らず、互いに沈黙のまま暫くの間があった。斎藤が全く無反応のままでいるのを川路は理解するかのように、椅子の背にもたれかかり息をついた。そして、「事は重大じゃち」と一言呟くように言うと、川路は再び傍らに置いてあった資料を手にとった。

「貴君は新選組では、諜報活動もされちょった」

 微笑んでいるかのような表情でじっと斎藤の両目を見詰めてくる。射貫くような視線は鋭く、斎藤は自分の気配を消すように、全くの無表情で相手を見詰め返した。

「洛中では副長助勤、剣撃指南役として大いに活躍。おいは当時の貴君等の事はよう知っとおっ」

「あの頃、互いに顔を合わせていた事もあったかもしれん」

 川路は斎藤に笑いかけた。その大きな右手で顎を撫でている。

「貴君の力量、俊秀を見越して頼みたい。永井少尉の情報をとって貰いたい」

 斎藤は、この瞬間でもまだ内心逡巡していた。本来取り締まるべき反政府の不安分子とそれに繋がる活動の疑惑を持つ軍人。これを巡察中に部下を率いる状態で密偵する。間諜活動は危険だと思った。部下に危険が及ぶとも限らない。

 間者働きは孤独な作業だ。

 斎藤は過去の経験からこれを痛感していた。全ては自分の裁量で決まる。自分一人なら可能。そう思いながら、これから起こりうるあらゆる可能性を考えてみた。実際、撃剣世話掛につけば永井に接近するのは容易だろう。巡察も永井の隊とは連携がとれている。斎藤は、永井の行動を監視する事に困難を見いださなかった。

 返事をしない斎藤を見て。川路は更に話を続けた。

「これは極秘任務。新しか撃剣世話掛に対して下りる手当以外にも特別に手当がでる」

「内務省から直接。扶持が増えると思って貰えればよか」

 扶持?どこがだ。そんなもの要らぬ。斎藤は報酬の話が出て警戒心が募った。斎藤はじっと無表情のままでいた。

 ずっと部屋に沈黙が続いた。川路は手に持った資料に眼をやる。

「ご新造は、羅刹研究の雪村綱道の御息女であらる。そんで貴君との間に嫡男がおらるな」

 斎藤は眼を見開いた。鋭い目線で川路を睨み返した。

「政府は羅刹研究を廃止して久しい。研究に関わった者には罰則を与えちょう事はご存知じゃな」

「貴君が新選組幹部であっど同様、羅刹研究に雪村綱道が関わった事は全て表向きは隠蔽されちょっ。羅刹開発は新政府の暗部。じゃっどん罰則は生きちょう」

 斎藤が静かに川路を遮った。

「わたしの妻は、羅刹研究とは無関係です」

「私は元新選組幹部ですが、今は旧会津藩士藤田五郎として警視庁に勤めています」

 川路は頷いた。

「貴君の身は保障する」

 川路は、じっと斎藤の眼を見詰めて断言した。

「……先の戦で、満身創痍の会津藩に汲みして戦い続けた貴君の心意気を、おいは買ちょう」

 よく響く声で川路は話を続ける。

「貴君が藤田五郎になるまでの素性は警視庁の機密事項。こいは決して表には出ん。安心したまえ」

 斎藤は、厳しい表情でもう一度念を押した。

「妻を。私の妻の身を保障して欲しい。妻は新選組にも羅刹研究にも一切関わってはいない。これだけは明確にしておく。今後、わたしの任務と家族は一切関わることがないと」

「保障しよう」

 川路ははっきりとそう言った。

「後日会計係から連絡が行ぐ、特別手当は月に二円支給する。こいは撃剣世話掛の手当とは別だ」

「【陰扶持】は辞退したい」

 斎藤は、じっと川路の眼をみて言った。

 陰扶持

 川路は斎藤が言った言葉を小さな声で繰り返した。巡査の月給四円は警視庁の給与体系の中でも底辺に属する。斎藤ほどの力量のものに対しては、この倍の八円を支給してもよか。

(そいにしてん、この男。扶持の支給を断るとは……)

 川路は目の前の静かな男が、澄んだ紺碧の光を両眼から放っているのに見入った。静の剣の心捌き……清廉か。

「東京の治安維持が私の生業です。巡察も永井少佐の情報をとるのも全て治安維持の為。陰扶持を貰う必要はないはず」

 川路は首を縦に振って頷いた。こん男の腹の中は公明正大。気に入った。

「そいじゃ、内務省から下りる手当は繰り越して年金に充てよう。そんなら文句はなか」

 この頃は軍人には軍人年金が下りていた。それと同等のものが斎藤に政府から支払われる事が保証された。斎藤は【陰扶持】でなければ良いと一言だけ伝えた。これには、川路は苦笑いするしかなかった。

「任務についてじゃが、貴君の部下の【津島淳之介】巡査を助手につけてはどうだ。津島の剣術の腕は確かなもんがあっど。あげん優秀な者と諜報活動をすりゃあ、さぞかし捗ると思わんか」

「その事ですが、津島も含めて私の部下には一切この任務には関わらせないよう約束してください」

 きっぱりと斎藤が言い放った。

「間者働きは単独で。これが私のやり方です」

 斎藤の瞳は青く光っている。切れ者。噂通りじゃ。川路は心の中で舌を巻いた。

「よか」

 大きな声で川路は答えた。これで決まった。藤田巡査、これからも定期的に報告に鍛冶橋まで足を運んでくれたまえ。馬車が必要なら手配しよう。馬が欲しければ、逓信部の馬を回す事も出来る。自宅に簡易厩があれば、馬を支給してもよか、どうだ?

 川路は一気に話を進める。川路は一度腹が決まると、どんどん推し進める性質のようだった。斎藤が斗南で馬と暮らして居たことも、きっと山川中尉から話を聞き及んでおられるのだろう。斎藤は眼の前で快活に話す大警視を見詰めながら、そう心の中で思った。

 馬か。火急の事態では馬があれば便利だ。だが、診療所の庭に厩など。斎藤は頭の中で想像してみた。確かに水場と庇さえつければ、一晩ぐらいなら十分馬を休めることは可能だろう。家に馬を連れ帰ったら、一番喜ぶのは千鶴だ。坊主もだ。斎藤はずっと想像を続けた。猫の総司はどんな反応をするだろう。

 斎藤が診療所の厩を想像している間、川路は「逓信部へ手配しておこう」と呟いた。早速明日からだ。川路は、直ぐに任務に就くことを指示していた。斎藤は、「はい」と返事をしながらも、事は急で直ぐに診療所の庭も整えなければと考えていた。

 いつの間にか、川路は立ち上がっていた。斎藤は慌てて立ち上がると敬礼をした。

「大いに励み給え。期待しておる」

 そう言って、川路は満面の笑みを見せると。斎藤が部屋から出て行くのを頷きながら見送った。

 庁舎の外に出ると、箱馬車の御者が斎藤を待っていたかのように一礼すると、馬車の扉を開けようとした。斎藤は、御者に向かって署に戻るのに馬車は必要がないと断った。そして庁舎の門から、建屋に向かって一礼してから虎ノ門に向かった。黒い大きな火の見櫓から、制服を着た監視掛が斎藤に向かい敬礼をした。斎藤も敬礼を返してそのまま道を走り続けた。




つづく

→次話 明暁に向かいて その10




(2018.01.10)

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