滝野川
明暁にむかいて その11
明治八年四月
鬼の船頭
四月に入ってすぐ、診療所の庭に突然原田左之助と不知火匡が現れた。
庭から左之助の挨拶の声が聞こえたので、千鶴はお勝手口から庭に出て二人の姿を見て驚きの声をあげた。
「原田さん、不知火さん」
「よ、千鶴。無沙汰だったな」
左之助は、駆け寄ってきた豊誠を抱き上げると高く持ち上げた。
「豊誠も大きくなったな」
坊やは高い高いをされて大喜びしている。
「どうぞ、こちらからお上がりください」
千鶴が、縁側から居間に上がって座布団を並べ始めた。左之助と不知火は、千鶴に返事をしながらも、庭先で子供と戯れるのを止めない。
「おい、俺にも寄こせ」
左之助の腕から豊誠を奪った不知火は、地面から思い切り高く豊誠を振り上げると子供は奇声をあげて喜んでいる。
「そんなに高いところが好きか、よし」
不知火は今度は、豊誠を思い切り宙に放り投げた。豊誠は、十尺ほど宙に上がるとそのまま尻から下に落ちてきた。右手で大笑いしながら口元を覆って、その笑い声はキャッキャと響いた。不知火は器用に坊やを受け止めると、「そーらよっと」と声をかけて、更に空高く子供を放り上げる。
きゃはははは
豊誠の上げる声は、空の彼方に遠く聞こえなくなる。もう屋根の上どころではなく、青空の向こうに小さくなった豊誠は、次に下りてくるまで暫くかかった。左之助が、手で陽の光を覆いながら、
「おい、いくらなんでも高く放り投げ過ぎだろ」
と笑っている。さっきからじっと縁側の石段の上で、不知火を睨み付けていた総司が、不知火の膝に飛び掛かった。
「おおっと。こいつも飛んでいきたいか」
そう言って不知火は、総司の前足を掴むと左手で猫の身体全部を丸めるようにして、空高く放り投げた。総司は手足を丸めたままどんどん空高く登っていく。
「おい、猫も見えなくなっちまったぜ」
左之助が呆れて、両手をかざしながらじっと見上げている。大空の雲の中かから黒い点がだんだんと大きくなってきた。黒い塊。ハヤブサのように地面に向かって突進してくる。それは、頭から落ちてくる豊誠だった。片手を口元にあてて笑いを堪えているように。その目は、爛々と金色に輝いていた。不知火が受け止めた時は、坊やは器用に鞠のように身体を丸めていた。
「もっとーーー」
開口一番に身体を揺らしてせがむ。不知火は、「そーらよっ」とふたたび子供を宙に放り投げた。空中で、空から落ちてきた総司とすれ違った豊誠は、けたたましい笑い声を上げた。総司は手足を伸ばしたまま、翡翠色の目を爛々と輝かして下りてくる。不知火が受け止める寸前に綺麗に身体をひねって宙返りするように身体を丸めた。
「奴さんももう一回行くか」
そう言って、不知火は軽々と片手で総司を再び空に放り投げた。総司は弾丸のように雲の向こうに消えていった。
ぼうや、ゆたちゃん?
千鶴がきょろきょろとお勝手から子供を探しに出てきた。あれ、さっきまで声がきこえてましたのに。千鶴は辺りを見回している。左之助は、空だと説明しようとすると。遠くから子供の笑い声が聞こえて来た。
その砕けたような笑い声はだんだんと大きくなった。庭から空を見上げる不知火と左之助の目線の先に、黒い塊が見えた。千鶴は、大きな瞳をこれでもかという位に大きく見開いたかと思うと、口を開いたが声が出てこない。雲から豊誠が頭を下にして、真っ直ぐに落ちてくる。その瞳は金色で髪の毛は銀色にかがやいていた。全身が光を放って、笑顔のまま突進してくる。不知火は、真下に立つと両手を拡げて子供を受け止めた。
千鶴は、へなへなと地面に膝から崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「総司も戻ってきたぜ」
左之助が、手をかざした先から総司が、茶色の弾丸のように頭を下にして落ちてきた。総司は全身の毛が逆立って笑ったような表情で目を光らせていた。総司は空中で回転して、一旦不知火に受け止められた後、地面にさっと下りたった。不知火を警戒するように、身を低くした後に、ふん、っと鼻を鳴らした。
もっとー、もっとー
坊やがもっと放り投げろと不知火にせがんでいるが、腰を抜かした千鶴の手前、不知火は放り投げるのを中断して、高く抱き上げた。
「大将はそんなに空が好きか?」
そう不知火は豊誠の顔を覗き込むと大笑いした。
「大した曲芸だったぜ。不知火、浅草で興行すれば大勢人が集まるだろうよ」
左之助が笑いながら、豊誠を受け取ると。千鶴の傍に連れて行った。
「ほら、おっかさんだ。お前が雲の上に消えちまったって腰をぬかしちまった」
豊誠は千鶴の膝の上にのっかって、首にしがみついた。
さっきまで銀色に輝いていた髪は、元の黒い髪に戻った。目の色も瑠璃色に戻っている。千鶴は、半べそをかきながら子供を抱きしめた。暫くそのまま座り込んでいる千鶴に、子供はかーたん?と小さな手で千鶴の頬を触って覗き込んでいる。不知火と左之助は、そのまま縁側に腰掛けて、千鶴に話かけた。
「ずっと西国に行っていた。鹿児島、その前は長崎、京と大坂にも立ち寄った」
そう話す左之助は、南国帰りらしく日に焼けていた。千鶴は、ようやく立ち上がると子供を抱えて縁側に上がり、居間から座布団を持ってきた。
「土方さんから、伺っていました。今月には戻っていらっしゃると」
左之助は、千鶴の持ってきたおしぼりを受け取りながら、「ああ、そうだ」と頷いた。
「こっちで北海道開拓事業の入札が始まる。永代橋の所に建った開拓使庁舎に行かなきゃならねえ」
千鶴は、お茶を用意しながら左之助の話を聞いている。
「庁舎に開拓使物産売り捌き所が出来てな。これから北海道でこさえた物がどんどん、東京で売られるようになるんだ」
「そうですか。永倉さんもそのような事を仰っていました」
千鶴はお茶菓子を出して、子供にも小さなお焼きを食べさせた。坊やは、いつのまにか左之助の膝の上に座っている。
「ご無事に戻られて良かったです。はじめさんが、いつもそろそろ原田さんが西国から戻られる頃だって、ずっと云っていて」
千鶴がお茶のおかわりを入れていると、子供が今度は不知火の膝の上にあがると立ち上がって、そのまま腕によじ登ろうとしていた。不知火はそのまま子供を肩に担ぐと、再び庭に下りたって一緒に遊び始めた。千鶴は、不知火が随分と子煩悩な事に驚いた。坊やは普段から人見知りせず誰にも懐くが、自分から甘えて行くのは、父親の斎藤と御殿山の土方ぐらいだ。
「なんだって? 高いところがいいってか」
子供がせがむのを聞いた不知火が、笑っている。
「仕方がねえ。大将のお望みなら、高い所に行くか」
そう言うと、不知火は坊やを抱えたまま一瞬で地面を蹴って飛びあがり目の前から消えて行った。千鶴は縁側に下りたった。頭上を見ると、母屋の屋根の上に不知火が子供を抱えて立っていた。左之助が縁側に下りたって、屋根に向かって声をかけた。
「眺めはどうだ?」
「ああ、ここは高台だから、良い眺めだぜ。ほら、大将。あれが九段の塔だ。灯台みてえだが、あそこに海はねえな」
そう言いながら、片手で坊やを抱えて高くあげて、南側を指さした。
「なあ、千鶴。梯子を借りられねえか?」
隣に立っていた原田が千鶴に尋ねた。「梯子でしたら、納戸部屋の軒下に」と千鶴が、家の北側に廻った。左之助は千鶴に付いて来ると、軒下から梯子を取り出して来て、縁側の前から柱に立てかけるように立てると、自分も屋根に上がって行った。屋根の上で三人は、嬉しそうに景色を眺めている。千鶴は、不知火の肩の上によじ登る坊やを見て、危なっかしい様子にヒヤヒヤした。丁度その時、玄関で「いま戻った」という斎藤の声がした。
居間に上がってきた斎藤は、庭で千鶴がおろおろとしている姿を見て、「どうした?」と訊ねる。
「はじめさん、お帰りなさい」
千鶴は斎藤の顔を見て、安堵したようだった。縁側に駆け寄って、
「原田さんと不知火さんが見えて。屋根にいらっしゃるんです」
斎藤は、千鶴が見上げる母屋の屋根を下から覗き込んだ。すると、自分も上着を脱いで縁側に投げると、シャツの襟元の釦と袖の釦を外して腕まくりを始めた。そして、靴下を脱いで裸足になると、梯子を一気に登って行ってしまった。
「はじめさん、はじめさんまで」
千鶴は、驚きながら梯子の下から斎藤を呼び止めるが、斎藤はもう既に左之助と不知火と並んで屋根の一番高い所に立って、景色を眺めている。斎藤の満面の笑顔。
(もう、はじめさんったら。子供みたいに)
千鶴は、下から屋根の上の斎藤を見上げて、そう思った。三人は、あそこが江戸川だ、あっちが皇城だ。そう云いながら、景色を眺めている。もう豊誠は、不知火の肩の上に立ち上がっていた。
「大将、海がみえるか? あれは大平海だ」
不知火が遠くに見える海を指さす。だが、斎藤や原田には海の方角が判るが、霞の向こう過ぎて見えない。三人は、その後も暫くずっと屋根から東京の町を眺め続け、千鶴が何度も呼びかけた後にようやく地面に下りてきた。
斎藤が、不知火と原田にゆっくりしていって欲しいと云っても、不知火はこれから用事があるらしく独りで横浜に行くと言う。原田はそのまま診療所に泊まってもいいと言った。千鶴は是非、と頼んだ。斎藤は、夕方にもう一度署に戻ったら夜は早めに帰るつもりだと云って、軽く昼食を済ませると再び、家を出ていった。
腰を上げた不知火が中庭からブーツを履いて、玄関の門に向かおうとした。千鶴は、子供を抱っこして見送った。
「不知火さん、今度は是非ゆっくりして行ってください」
千鶴がそう頼むと、不知火は頷きながら坊やを抱っこして、高い高いをした。子供は嬉しそうに笑い声を上げている。
「大将、俺の名前は【しらぬい】だ。覚えてくれ。いいか、【しらぬい】だ。大将が、海を渡る時、俺が船頭になる。七つの海を渡って世界中を案内する。俺の名前は【しらぬい】だ」
高く持ち上げられた坊やは、じっと不知火を見下ろすように見詰めている。七つの大海を渡る。不知火さんは、世界中を旅されていると聞いた。千鶴は、不知火が優しい眼差しで坊やを見詰めているのを隣で眺めていた。坊やが海を渡る。そんな日が来るのだろうか。この小さな坊やが、やがて大きくなって、外の世界へ。
千鶴は遠い遠い未来を思った。そして、この少し乱暴だが優しい眼差しの男が坊やを守ってくださる。そんな気がした。
「人間に混ざって、男鬼が育つのは至難の技だ」
千鶴に豊誠を渡しながら不知火が語りかける。
【強き善き鬼】か。
そういいながら、不知火は豊誠の頬を指で優しく撫でる。
「困った時は、喚んでくれればいい。薩摩の天霧もそう言っている」
「天霧は、あの風間を小さい時から面倒みた。天霧はガキの扱いも心得ている」
そう言って不知火は笑った。「式鬼を飛ばせば、どこからでも駆けつけるぜ。雪村の姫さん」と行って、一瞬で風と一緒に消えてしまった。千鶴は、不知火から心強い申し出をされたことに心の底から感謝した。ちゃんとお礼も伝えられないままなのが残念で、不知火が去った後の風に向かって何度も頭を下げた。
*****
文談義
原田はその後、二日間診療所に滞在した。それから開拓使入札が始まるからと新川の宿に移ってしまった。次の週末の夜に皆で診療所で集まる約束をした。
週末、久しぶりに永倉が現れた。その後に、土方が左之助と一緒に診療所に現れた。千鶴はご馳走をたっぷりと用意していた。陽が落ちると、斎藤が部下の津島と天野を連れて帰って来た。皆が一同に集まるのは本当に久しぶりだった。
斎藤は、皆と酒を酌み交わし喜んだ。今夜は久しぶりに夜行巡察も非番でゆっくり出来る。新八と左之助と一緒に顔を合わすのは、去年の秋以来だった。新八は乾杯の後も、どんどんと酒を飲み続けて上機嫌だった。
「なあ、若い衆。そんで、あの後も仲には通ってんのか?」
新八が、隣に座る津島淳之介に酒を注ぎながら訊ねた。津島は、小さく頷きながら会釈すると杯をうけた。
「杉村さん、聞いて下さい。こいつ、【千早】から文が署に届いたんですよ」
天野が身を乗り出して、永倉に報告する。【千早】は吉原貴来楼の遊女で、津島の馴染みだった。
「そしたらね、こいつ。返事を葉書で出してんですよ」
津島は、頬を赤くしながら不本意な様子で天野を睨み返す。
「なんだ、葉書って」
永倉が笑いながら問い返す。風情もへったくれもねえな、おい。そう言って、津島の肩を乱暴に小突いた。
「郵便夫が、丁度署に来てたからです。一番早く先方に届くって……」
ぼそぼそと津島が話す。それを聞いて、永倉が冷やかすように「それで、なんて返事したんだ、ええ?」と笑いながら訊ねる。
「多忙につき、暫く行けない。来月の非番には必ず」
天野が代わりに答えた。愛想もへったくれもございません。そう言って笑う。津島は、その隣で憮然としたまま座っていた。
「なんだそりゃ、随分とツレねえじゃねえか。電報でもあるめえし、なあ、左之?」
新八は、左之助に斎藤の部下二人を連れて吉原に行った時に、津島が【千早】を気に入った事、その後、永倉が手筈を整え、無事に馴染みになったと報告した。
「俺は、葉書でも返事をかえしてやったのなら、いいと思うぜ」
左之助は、正面に座る津島に話しかけた。
「来月にかならず逢いに行くって、いえば。女は安心するだろうよ」
そう言う左之助に、津島は頭を下げるように頷くと幾分安堵したようだった。
「それにしても、時代も変わったもんだな。遊女に郵便夫が葉書ってよ」
新八が笑う。そこに、小鉢を並べに千鶴が台所から現れて傍に座った。
「なあ、千鶴ちゃん、男から葉書で恋文が来たら、興ざめだろ?」
千鶴は小鉢を並べながら、答えた。
「いいえ、ちっとも」
「どんな文でも、想っている方からのものなら、嬉しいものです」
そう言って、千鶴は小鉢を津島の前にも置いた。津島は、耳まで赤くしながら座っている。その様子を左之助が見て微笑んだ。
「じゃ、なにか? 千鶴ちゃんは、便所紙でも返事が来たら嬉しいってか?」
そう訊ねる永倉に千鶴は、くすくす笑って「はい」と答えている。
「はじめさんは、一度、木の幹から剥がれた皮の裏に一筆残してくれた事もありました」
斎藤は小鉢に箸をつけながら、千鶴が昔、京の屯所に居た頃の話を始めたのを聞いていた。
「余程、お急ぎだったのか書きつける物がなかったようで、一度手に取るとぼろぼろと木の皮が崩れて」
千鶴が笑いながら話した。「確か、夕餉の時間には戻るからと。豆腐は残しておいてくれって」
くすくす笑いながら話す。斎藤は、そんなことがあったか、と遠い記憶を思い返していた。
「木の皮って、どれだけ豆腐食いたかったんだ?」
そう言って新八は笑っている。千鶴は、その木の皮を大事にとっていたが、戦火で無くしてしまったのが残念といっていた。
「千鶴は、昔から文を大事にしていたな。俺らが忘れちまっているような物も大事にとってた」
左之助が微笑みながら話す。斎藤も其れを聞いて頷いていた。
「文は、嬉しいものです」
そう言って、千鶴は津島に笑いかけた。津島は、再び頬を赤らめている。
「あと、お花も。文に花が添えてあったりすると、胸がじーんと来て。ふわふわした良い気分に」
斎藤は傍で千鶴がうっとりと語っているのを不思議そうに聞いていた。文に花。俺はそんな物を千鶴に送ったことがあっただろうか。
「わたしが外に出られない時に、沖田さんが桜の花を沢山拾って来て下さって」
懐かしそうに千鶴は話す。
「わたしの頭の上からひらひらと落として、ほら、花吹雪って」
とっても嬉しくって。もったいないから、お茶碗に水を張って花を浮かべたものを土方さんの文机に置いたら、土方さんも大層喜んで下さって。
土方は、豊誠を膝に抱きながら笑って聞いていた。
「確か、風情があっていいじゃねえか、って一句詠まれたましたよね」
土方は優しい笑顔で頷いた。遠い日々。京の屯所でそんな事があった。小さな出来事を殊の外喜んでいた千鶴が思い浮かぶ。
「花は、いい。たいていの女は喜ぶ」
左之助がそう言って、手酌をしようとすると千鶴がお銚子をとって代わりに注いだ。それから、思い出したように、仏壇の中から小さな紙切れを取り出して来た。
「これは、はじめさんと後生大事にしている文です」
そう言って、土方に見せた。
「近藤さんが、私に逃亡資金だと言って下さった巾着の底に。これが」
小さな紙切れには短い文が綴られていた。
今迄大変世話になった
感謝筆舌に尽くし難候
無事に江戸へ
貴方の幸祈る
記名もなく、急いで書かれたのが良くわかる。
「この文が巾着に入っていた事に気づいたのは、随分と後で。私がはじめさんと斗南に行ってからです」
回ってきた文を見て、新八が呟いた。
「……あの人は、筆弘法って自慢するぐらい達筆だった……」
「それが、こんな乱れた筆で……」
そういいながら、目に涙を浮かべて手で鼻の下を拭った。千鶴も目尻を袖で拭いながら、文を受け取った。この文は、近藤さんだと思って毎日手を合わせている。感謝の気持ちとご冥福をいつも祈っている。そう言って千鶴は斎藤と頷きあった。
「今月の終わりに近藤さんの法要をするぜ。もう滝野川の住職には頼んである」
新八が泪を拭った顔を上げて晴れやかな表情で宣言した。みんな、都合をつけて集まって欲しい。墓の周りは随分と荒れ果てているから、朝から出掛けて草刈りと掃除だ。新八はだんどりを決めてあるらしく、千鶴と斎藤は弁当を用意して持っていくことになった。土方も大勢集まるなら仕出しを料亭に頼む、自分は相馬と馬車を手配して皆で移動できるようにすると言いだし、法要の予定が一通り決まった。
「来年には、隊士の墓碑も建つ。その時はもっと大勢喚んで大きな式にするが、その前に身内でな」
皆が新八に頷いた。新選組隊士の墓だと解っている部下二人は神妙な表情で一部始終を聞いていた。それに気づいた新八は、気を取り直させようと天野と津島に大声で話かけた。
******
三人廻し、五人廻し、四人廻し
「おい、それで次、仲に行くのは来月か?」
頷く津島の肩に手をかけた新八が、その時にはオレ等も行こう。そう言って笑う。
「左之助が来れば、大いに盛り上がるぜ。いいか、こいつはな、女にモテる」
そう言って、左之助を指さして笑う。天野が「へえー」と感心して左之助を見上げた。
「いいか、こいつはな、一晩で女を三人廻す男だ。いいか、普通、女が三人男を廻すってのが相場だ」
新八は、指を三本立てて天野と津島に説明し始めた。左之助は、苦笑いしながらそれを聞いていた。
「だが、こいつは違う、こいつが座敷に居ると、女が三人とっかえひっかえやってきて相手するってやつよ」
天野と津島は目を見開いて感心している。「一晩で、女、三人とっかえひっかえ……」と天野はそのままを繰り返している。
「ああ、オレ等が女に廻される三人の一人になれるか、どうかって時に、こいつは女三人寄ってきてる」
そう言って、恨めしそうに手酌で呑もうとした新八に、千鶴がお酌をしながら、
「私が伺ったのは、原田さんは【五人廻し】されたって」
そう話した。斎藤は、目を大きくして驚愕の表情で千鶴を見た。まさか、千鶴の口から【五人廻し】などという単語が出てくるとは。だれだ、そんな下世話な事を千鶴に教えたのは。平助か、新八か。斎藤は、新八を睨み返した。
「五人ってのは随分と尾ひれがついたもんだ」
当の本人の左之助が笑う。それを聞いて、土方が、「なんだ、左之助、ほんとは六人か?」と杯を受けながら笑った。左之助は余裕で笑い返しながら、「まさか」と言って杯を返す。
「四人かそこらじゃねえか」
そう言って人ごとのように笑った。天野と津島は口をあんぐり開けて聞いている。一晩で四人。四人の女と。それって、そんな事が可能なのか。
なんてこった。
若い衆二人には信じられない。全くの初対面だが、原田は確かに男前で精悍で、さぞかし女にモテるのは解る。だが、一晩で女四人が寄ってくるって、そんな夢のような事が男に起きるというのが絵空事のようで。
「で、どうやったら、そんな、女四人も寄ってくるようになるんでしょう?」
素っ頓狂な声で天野が聞きかえす。左之助は、不思議そうな顔で天野を見ると、これまた余裕の表情で微笑んだ。
「あれは、蒸し暑い夜で、襖も障子も開け放った座敷だった。女が別の座敷に移ろうと廊下を歩くと、そこにたまたま知ってる顔の客がいたから、愛想をいったり挨拶しただけのことだ」
愛想をいったり、挨拶しただけ。
愛想をいったり、挨拶しただけ……。
「それが、どうやってその、相方になっていかれたんでしょうか?」
天野が聞きかえす。野暮を通り越して、みっともないったらありゃしねえが、知りたくて仕方がない。
「ま、杓してもらったり、話しているうちになんとなくな」
左之助は一生懸命記憶を思い出そうとしている様子だったが、細かい事は覚えていないようだった。
「原田さんがオモテになるのは、お優しいからです」
千鶴が天野に杓をしながら教えるように話す。「男女に限らず、とてもお優しいから」そう言って、左之助に笑いかけ、そのあとに斎藤にも微笑みかけた。斎藤は、千鶴が郭の男女の話をするのが不思議で仕方がない。どこでそんな事を覚えたのか、人情本か、噂話か。
「優しいのは、確かにな。でも、俺も優しいぜ、千鶴ちゃん」
新八が千鶴に逆に杯を薦める。千鶴は、やんわりと断りながら、「はい、永倉さんもお優しいです」と笑っている。
「わたしは、幹部の皆さんが祇園や島原で大層おモテになると井上さんから伺ってましたから」
千鶴は斎藤の隣に座って、はじめさんもきっと。私の知らないところで浮き名を流されていたのかも。そういって隣の斎藤の横顔を覗き込んだ。斎藤は憮然としていた。千鶴がこんな事を訊ねるのは初めてのことだ。
なんだ、藪から棒に。
千鶴が斎藤が脇に女を置くと考えているのがおかしい。そんな風に斎藤は考えていた。
「それは、ねえな。俺が知ってる限りだと。こいつは千鶴一本ヤリだ」
土方が笑った。左之助も新八もそうだそうだと同意して笑った。斎藤の頬は熱くなった。そこまで、言われなくても……。
千鶴は赤面する斎藤の隣で嬉しそうに笑っていた。津島は、斎藤と千鶴を羨ましそうに眺めている。ずっと好き合って。ずっと一緒に暮らして。奥さんと主任は、ずっと二人で一緒だった。
奥さんに好かれて
津島は、溢れるような笑顔の千鶴を眺める。ほんとうに綺麗だ。どんな時も。
ぼーっと千鶴に見取れている津島を見て、左之助が微笑んだ。
「おれの馴染みが、品川から吉原に移ったって聞いている。東京にいる内に顔を出しておこうと思ってたところだ。仲に行くなら声かけしてくれれば、つきあうぜ」
そう左之助は新八澾に話した。新八は、行こう行こうと喜んでいる。軍資金はある。そんな風に言って随分と羽振りが良さそうだった。聞くと神保町の古本屋で松本良順から譲り受けた本を売りさばいているらしい。代わりに、古い剣術指南の書を買って、古道具屋で宮本武蔵が使ったとされる櫂の木刀も買ったと自慢した。
「五輪書を並べて、櫂の木刀で演武やるだろ。それだけで道行く者が古本を買っていく」
新八は県用の他の時間を、藩屋敷の前で演武披露をして金をとっているらしい。松本良順が慰霊碑建立に資金提供されているというのは、こういう事かと斎藤は感心した。
「新八、お前の腕なら、そんな他流剣術の披露をしなくても道場を構えりゃあ、門人は集まるだろうが」
新八に向かって土方が諭すように話した。新八は、そりゃそうだがと苦笑いする。慰霊碑には金が早く必要だからだと言い訳した。そして新八はもう来月には北海道開拓使の入札も終わり、再び北の地へ戻る予定だから今月中には、まとまった金を用意すると宣言した。
*****
明治八年四月二十五日
板橋滝野川に皆で集まった。八年前のこの日に、新選組局長近藤勇がこの地で刑に処された。
墓石の周りは荒れ放題で卒塔婆も倒れ、朝から草刈りや掃除をしている内に、陽が高くなった。土方の馬車が到着したのは、十一時過ぎ。千鶴が弁当と仕出し屋からの食事を用意して、先に来て清掃作業をしていた斎藤、相馬や永倉達がようやく落ち着いて腰をかけたのが午過ぎ。
綺麗に片付けられた、墓石の前に御座を敷いて墓前にはたっぷりの供花と食事のお供えした。寿徳寺の住職が法要のお経を上げてくれた。その後、皆が車座になって墓石を囲むように座った。
「近藤さん、やっと皆でこうして集まれた。来年、ここに供養塔も建てる」
新八の音頭で皆で、墓前に酒を掲げて乾杯した。それから陽が傾くまで皆で大いに語らった。診療所ではずっと眠ったままの猫の総司が身を離れて、滝野川に出向いていた。近藤も然り、そこには井上や野村も来ていた。
「皆、無沙汰をしていた。実に嬉しい。永倉君、有り難う」
近藤はそう言って、新八たちと一緒に座り、杯を受けて久しぶりの集まりを楽しんだ。近藤、井上、総司、野村、山南、山崎、そして、一緒に闘った新選組の平隊士達。いつの間にか、皆が集まっていた。その数は、六十名はいた。皆で笑い、旧交を温め合った。思い出話に昂じるもの、新しい生を受けている者もいて、近況を報告し合う。近藤たちのように、三途の河の手前でまだのんびりとしてる者も大勢いた。近藤達の声は、現世の者には、直接は聞こえていないようだが、その場で気持ちは行き交った。あたたかい感謝の気持ちと懐かしさとで墓地の周りは充満していた。近藤も土方も、総司も、その場にいる全員が楽しい一時を過ごした。
そしてもう陽が暮れて、会が解散となる頃、近藤の墓前で楽しそうに笑って語らう土方や相馬の笑顔を眺めて、墓石の前に立った近藤達は生前の日々への感謝と、現世での皆の幸せを心から祈った。
つづき
→次話 明暁に向かいて その12へ
(2018.01.20)