半蔀

半蔀

明暁にむかいて その14

明治八年 初夏

 東京で二度目の夏を迎えた頃のこと。

 品川で硝子工場の顧問をしている土方が夕方近くに診療所にやってきた。土産だと言って、丸い硝子の玉が入った美しい飾り容器を千鶴と息子の豊誠に見せた。

 色玉を試作で作ったら、綺麗な色がでた。

 千鶴は坊やと一緒に、縁側の光にかざして色とりどりの硝子玉を眺めた。柘榴色、群青、瑠璃。一寸ほどの直径の玉は、豊誠の掌の上にちょうどいい大きさ。

「それぐらいでかいと坊主が誤って、飲み込む心配もねえだろ」

 土方は、そういって畳の上に玉を転がして豊誠と一緒に遊び始めた。びーどろ玉同士がぶつかる音と、何を喋っているのか土方がまだ片言の豊誠となにやら話し込んでいる。時折二人の笑い声が上がるのを聞きながら、千鶴は台所で夕飯の支度を始めた。

 土方は、その日は遅く帰った斎藤と話し込み。結局診療所に泊まって翌日早くに帰って行った。豊誠は、すっかりびーどろ玉が気に入った様子で、千鶴に「だしてくれろ」と朝から物入れを指さしていた。前日に大切なものだから、ここに仕舞うと言って聞かせたのを豊誠はしっかり覚えていた。千鶴は、家事を早めに済ませて硝子玉を取り出すと、庭の日陰になっている地面に小さな窪みを空けて、離れた場所からびーどろ玉を転がしてみた。

「こうやってね。ころころ。ころころ」

 柘榴色の硝子玉がゆっくりと地面を転がって行くのを、千鶴がしゃがんで豊誠に見せると、子供は一緒になって、

「ころころ、ころころ」

 そう言いながら、ずっとびーどろ玉が行く先について行って喜んでいる。

「穴に入ったら、ぽとん」

 千鶴が二つ目の玉を子供と一緒に転がす。

「ころころ、ころころ」

 玉はなかなか逸れて穴に入らない。それでも、三つ目の瑠璃色の玉はうまく穴に落ちた。

「あ、はいった。うまくできました」

 千鶴が拍手をすると、豊誠も一緒に拍手をして喜ぶ。穴の傍から、何度も玉を転がして穴に落としながら。

「ころころ、ぽとん。はい、はいりました。上手にできました」

 千鶴が褒めると子供は喜ぶ。すぐに走って行って、玉を集めては転がしている。

「ころころ、ぽとん」

 豊誠は、覚えたての言葉をずっと繰り返している。千鶴は、坊やがいつの間にか力加減をしている事に気がついた。いつもは、鉄棒を簡単にねじ曲げる程の怪力で、手に掴めるものはなんでも振り回すが、びーどろ玉は、「大切に、やさしくしないと、割れてしまう」と教えたのを、子供ながらに特別なものだと思っているようだった。

 子供は「ころころぽとん」が大層気に入ったようで、千鶴はずっと日陰で午近くまでそうやって一緒に遊んだ。




****

びーどろ玉

 それから数日が経った夕方。昼寝から目覚めた豊誠が、猫の総司と一緒に中庭で遊んでいた。千鶴は、夕飯の支度の合間に庭に出て打ち水をした。子供たちはびーどろ玉で遊ぶのに飽きたらしく、地面に玉を転がしたまま反対側の物干しに追いかけっこをして消えて行く姿が見えた。

 千鶴は、そっと硝子玉を集めた。容器に丁度全部で五個。だが、瑠璃色の玉だけがみつからない。千鶴は、坊やが持って遊んでいるのかと思いながら庭を一廻りした。坊やと総司に、尋ねても硝子玉はないといって首を振っている。千鶴は、びーどろを探しながら、また縁側まで戻ってきた。お勝手に繋がる廊下前に、竹格子を立てかけてあった。その向こうに瑠璃色の玉が見えた。そこは、庭の中でもひんやりとした一角。暑い東京の夏に備えて、春先に庭師が竹格子を置くことを勧めてくれた。夕顔の苗を周りに植えたものが、五月の頃にどんどんと伸びて、今はその格子に沢山の花をつけるようになった。夕方に、白や薄紫の丸い花を開く夕顔は涼しげで。毎夕眺めるのが楽しみだった。ちょうど夕顔柄のいい反物を見つけた千鶴は、夏用に白地の浴衣を仕上げた。今日もそれを着ている。

 そっとしゃがんで、夕顔の格子の向こうに入った。地面に転がる瑠璃色の玉を手にした途端。辺りが真っ暗になった。ふと周りを見ても、地面も壁も消えてしまっている。一瞬で夜になったような。千鶴は、驚きながら立ち上がった。目の前に竹格子だけが立っている。千鶴は、格子に摑まると、そっと押してみた。だんだんと格子の向こうが明るくなって、やがて真っ白な光になった。千鶴はまぶしさに半分目をつぶりながら、そっと格子を押し開けてみた。

 だんだんと光は消えて、竹格子が頭上にあることに気がついた。まるで縦に開く羽扉のように、夕顔の格子がうまく引っかかって庇のようになっていた。そして目の前にある光景は。

 苔むした地面
 平たい御影石が並び
 右側にたくさんの草花
 夕顔が自分の周りにいっぱい咲いている
 小さな美しい庭
 そして、その向こうには濡れ縁の廊下が見えた
 懐かしい光景

 ここは、

 千鶴は、一歩夕顔の格子の下から前に出た。

 ここは、中庭。

 八木のお庭
 壬生の屯所の庭だ。

 千鶴は驚いた。辺りをぐるりと見渡すと、草木の先には見覚えのある高い竹塀が広がっている。庭の奥に進むと向こうに小さな井戸が見えた。母屋の庇の形。全く変わっていない。

 坊や、沖田さん。

 千鶴は、呼びかけてみた。さっきまでお勝手の裏側で走り回っていた二人がここに居るのでは。そんな風に思って、一歩前にでてきょろきょろと探し始めた。

 千鶴は自分の立っていた場所を振り返った。夕顔の格子が、診療所とは違い、箱庭のような美しい中庭に作られた竹製の日除け小屋であることに気づいた。中には小さな竹の腰かけが置いてあった。蔀戸しとみどにからまる夕顔が、白く丸い花を沢山つけて、その周りはひんやりとしている。そこへ、千鶴の背後から声がした。

「そこへ居る者は、何用だ」

 千鶴は聞き覚えのある声に振り返った。母屋の廊下から自分を見詰めているのは、黒い長着を着て、白い襟巻きをして立つ斎藤だった。長い髪を肩の辺りで結わき、前髪の間から碧く光る眼が見えた。

「はじめさん」

 千鶴は、下駄の音をたてて縁側に走って行った。縁側から自分を見詰める斎藤は、眼を大きく開いて驚愕の表情をしている。

「ゆ、ゆきむらか?」

 斎藤は、中庭に立つ女の後ろ姿を見た時、何者かが屯所に迷い込んだと思った。八木の家には玄関横から、庭に迷い込む者が多い。最初斎藤は、駆け寄る女が新しく八木家に雇われた女中かと思った。屯所の母屋の中庭には新選組の幹部しか出入りは許されてはいない。だが、女の顔をよく見ると千鶴だった。

 雪村千鶴
 普段は袴着に髪を元結いで高く一つに
 足袋に草履

 だがなにゆえ、そのような……。

 女物の浴衣に
 紅い帯
 裸足に下駄
 丸髷に塗りの櫛

 なにゆえ、そのような女の格好をしている。

 笑いかけて自分に向かって走ってくる千鶴に、斎藤は眼を見張った。

「びーどろを探していたら、ここに」

 濡れ縁の下に立って、笑顔で話す千鶴に斎藤は固まってしまっている。

 前髪を上げた額
 大きな黒い瞳に長い睫
 頬は上気して
 唇は、

 紅を引いておるのか……。

 上下する胸は、ふっくらとして、
 細い首、耳の横の後れ毛

 一気に大人びた美しい千鶴の姿に、斎藤は一言も発っすることが出来ない。丸髷姿。雪村が、なにゆえ。

 千鶴が手にしているのは、見たこともない碧い玉だった。手には泥がついている。女の千鶴は、それに気づいたようだった。恥ずかしそうに手をひっこめた。そして何も言わない斎藤に、どう言葉をかければいいのかという表情をしている。

 斎藤は、一歩前に出た。御影石の台に降りて、草履を履くと。井戸に向かって歩いて行った。千鶴も自然とその後に付いていく。斎藤は黙ったまま、水を汲むと近くにあった小さな桶に水を注いだ。

「そのような格好で居るのは、なにか御用があったのか」

 そう尋ねる斎藤が、泥のついた手を洗うように水を用意してくれたのだと判ると、千鶴はしゃがんで桶の水で手とびーどろ玉をゆすいだ。そして、前掛けもなく、手拭いも無かったので、浴衣の袖でびーどろの水を拭き取っていると、斎藤が自分の手拭いを差し出してくれた。

 紺の麻葉模様

 千鶴は微笑んだ。はじめさんの大好きな手拭い柄。千鶴は礼をいいながら手拭いを受け取った。目の前の斎藤の手は骨張っていて節のある長い指。全く変わらない。千鶴は微笑みながら、そっとびーどろ玉を優しく拭う。
 斎藤は、目の前にしゃがむ千鶴を眺めていた。女物の浴衣は、八木のおまさに借りたものだろうか。裸足の下駄姿など。一度も眼にしたことがなかったが、涼しげで女らしい。それに、

 よく似合っている
 大人びている。
 紅をひいているからか、丸髷だからか……。

 斎藤は眼を離せない。千鶴がしゃがんでいるのを良いことに、つぶさに上から観察してしまう。小さな額や、耳。襟元。うなじ、首筋。白地の浴衣の襟からのぞく肌が白い。もっと見えそうだ。疚しい心満載で、ちらりと見てみた。千鶴は晒しを巻いておらず、柔らかそうな胸がみえた。美しい谷間。

 息が止まりそうになった。
 見てしまった。

 千鶴が顔を上げたので、咄嗟に眼をそらした。立ち上がった千鶴は、丁寧にたたみ直した手拭いを斎藤に返す。

「ありがとうございます」

 近い。近い。雪村が余りに近くに立つので、照れくさい。斎藤の二の腕に千鶴の胸が触れている。斎藤は、既に頬が紅くなっていた。

「これは、夢でしょうか」

 千鶴は、斎藤の眼を覗き込むように見詰めて話かけている。

「ここは、壬生の屯所ですね。わたしは戻ってきてしまったんですね」

 辺りを見回しながら話す。美しい横顔は、輪郭がなにか光を放っているように見えて、さっきから千鶴がしきりに繰り返す、

 屯所に来てしまった、
 ここは壬生ですね、
 ぼうやを探さないと……など、
 余計に不思議な事を言い出しているように思う。

 たしかに、雪村がこのような姿でいるのは。夢のようだ。

 斎藤が、ぼーっと千鶴の横顔に見とれながら話をきいていると、母屋から大きな声が聞こえた。

「斎藤君、今から広間に新しい隊士たちが集まる。襖を外すのを手伝っておくれでないかい」

 お勝手の続き廊下から井上の声が聞こえた。

 千鶴は、その声に振り向くと眼を見張って廊下に向かって駆けだした。

「あれ、君は、雪村君かね」

 廊下から井上が、千鶴の姿を見て驚嘆の声を上げている。千鶴は、濡れ縁の前から井上にかけよると、

「井上さん」

 そう呼びかけて、崩れるように泣き始めた。千鶴の手元から瑠璃色のびーどろが転がって落ちた。千鶴は井上の膝にすがりつくように大泣きしている。

 斎藤は、千鶴の落としたびーどろを拾って、千鶴の背後に立った。井上はびっくりしながらも、千鶴の肩をぽんぽんと優しく撫でている。

「おやおや、久しぶりに女の着物を着て。江戸の事でも思い出したのかい。可哀想に」「……直ぐに綱道さんは見つかる。そうしたら、すぐに家に帰ることができるよ」

 やさしく諭すように話す井上に、ずっと肩を震わせて泣き続ける千鶴は小さな子供のようで。井上の言うように、斎藤は久しぶりに女の格好をした千鶴が、里心を起こして泣いているのだろうと思った。肩を震わせる小さな背中は、頼りなげで守ってやりたくなる。

「よしよし、もう泣くのはおやめ。その浴衣も髷もよく似合っている。どこの若奥様かと思ったよ」

 井上の膝から顔を上げた千鶴は、それでも涙はとまらないようで。笑顔をみせようとしながらもずっとしゃくりあげていた。

「斎藤君、今から新しく入隊した者達が大広間にやってくる。歳さんも勇さんも一緒だ。この姿のゆきむらくんはここには居ないほうがいい。離れの部屋につれて行っておやりなさい。広間の襖は私がやっておくよ」

 そう言って、井上はまた大広間のなかに戻っていった。斎藤は、背後から千鶴に呼びかけた。

「離れに戻るぞ。他の者がやってくる」

 斎藤は、そう云っても動かない千鶴の腕を引いた。振り返った千鶴は、まだ泣き顔で、流れた涙は顎をつたい、首や浴衣の胸元まで濡らしていた。斎藤は、手を伸ばして目元や頬を拭ってやると、そのまま手をひいて足早に中庭を幹部の部屋のある離れの方に向かった。

 夕暮れの光の中で斎藤に手を引かれながら、千鶴はふと自分は瑠璃色のびーどろを探していた事を思い出した。

「びーどろ、坊やも……」

 小さく呟く千鶴に、斎藤は足を止めて振り返った。逆光になって輝く瑠璃色の髪に碧い瞳。千鶴は斎藤を見上げて、

「……私、びーどろを探してここに。はじめさん、わたし、戻らなくては……」

 斎藤は、千鶴が自分を下の名前で呼びかける事に驚いた。さっきからおかしい。一体、どうしたのだ、雪村。

「あすこです。あの半蔀の。あそこからここに」

 千鶴は、竹格子の小屋を指さす。白い夕顔が咲き乱れる半蔀がちょうど跳ね上げられて、中の小屋は二人を招き入れるように佇んでいた。千鶴はそっちに向かおうとする、斎藤は、千鶴が落としたびーどろを手に持っていた。

「びーどろならここだ」

 斎藤が、掌を拡げて玉を千鶴に見せた。千鶴は振り返った。

「はじめさんが持っていたんですね。その瑠璃色。はじめさんの眼の色のようで。坊やの眼も同じなんですよ。陽の光にあたると、瑠璃色に……」

 泣き止み顔で嬉しそうに話す千鶴を見詰める斎藤は、千鶴が何を言っているのか解らない。自分を下の名前で何度も呼びかけてくる。なにゆえ。それに照れくさい。雪村、あんたは本当に雪村なのか。

 斎藤は不思議に思いながら、ずっと微笑み半蔀の下に入って行く千鶴を見ていた。夕顔と千鶴の着ている浴衣の模様が同じで、千鶴自身がまるで夕顔の花のように見えた。

 まるで常夏の花の……。

 千鶴が竹格子の中にすっぽり入ると同時に、跳ね上げられていた蔀戸がゆっくりと独りでに降りた。斎藤は暫くのあいだ外に立っていたが、中から人の気配が消えて完全に静かな事に気づき、半蔀を開いてみた。さっき中に入っていった千鶴の姿はそこには無く、竹格子の外にも、中庭にも玄関にもどこを探しても千鶴の姿は見えなくなっていた。




******

夕顔

 屯所中千鶴を探し回った斎藤は、大広間に呼ばれた。既に大勢の新しい入隊者が集められて、斎藤を含め幹部が顔合わせで一同に会した。解散後、夕餉の時刻になってようやく千鶴が再び斎藤の前に姿を見せた。一日、八木のおまさの御用で北山まで出掛けていたと言う。

 さっきの丸髷とは違い、いつもの元結いに袴着の姿。斎藤は、それとなく千鶴に、夕顔の模様の浴衣を着たかと尋ねたが、千鶴は不思議そうな顔で、

「いいえ、一度も着たことがありません」

と答えた。井上は、斎藤と語らう千鶴がもう泣き止んで普段と変わらずにいることに安心した。

 斎藤は中庭に現れた千鶴が置いていった瑠璃色のびーどろをずっと懐の手拭いに包んで持っていた。狐につままれたような気分だった。たしかに中庭で会った雪村は雪村だった。今隣に座る千鶴の横顔を見ながら、あの瑠璃色の玉を見せたら、この雪村もまた半蔀の中に消えてしまうのでは。そんな風に思うと、びーどろの事は己から言い出せず。

 いつか、あの雪村がまた現れたら返そう。
 半分、夢のようだが……。あの雪村は、美しい

 夕顔の花のようだった。

 そんな風に考えて夕餉を食べ続けた。




****

 屯所の庭の半蔀に入った千鶴が、暗転した竹格子の中から出たとき、既に空の陽は落ちかけていた。夕顔は沢山花を開いていた。千鶴は辺りを見回して、自分が再び診療所の自宅の庭に戻って来た事を確かめた。坊やの名前を呼ぶと、猫の総司と一緒に走って縁側に戻って来た。

「坊や、沖田さん、よかった」

二人を抱きしめると、家の中に戻った。豊誠と総司の足の泥を洗い流しながら、少しの間だけ壬生の屯所に行ってきました、とさっき起きた出来事を話した。総司は、足を水につけられるのが嫌で少し暴れながらも、千鶴が屯所の中庭の様子や井上に会ったと話すのを興味深そうに聞いているようだった。

 それから居間に戻ると、千鶴は庭で集めた硝子の玉を元の綺麗な飾り箱に並べた。びーどろは全部で四個になってしまった。

「瑠璃色のびーどろは、はじめさんに。父様が持っていてくださいますよ」

 そう坊やに話すと、千鶴は引き出しにそっとびーどろの飾り箱をしまった。




 つづく

→次話 明暁に向かいて その15




(2018.06.06)

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