美しい人

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明暁に向かいて その16

明治八年九月

海運橋の傍で

 北海道の旅から戻った左之助から斎藤に連絡があった。日中に出来れば、日本橋で会いたいということだった。

 斎藤は虎ノ門で仕事を終えると、午後にそのまま退署して日本橋に向かった。八月の終わりに土方と斗南へ向けて旅立った左之助が、ほぼひと月ぶりに戻って来た。斗南からは、無事に藤堂平助と再会してその後に、五戸から松前に向かうと便りが届いていた。

 左之助は日本橋兜町にある三井ハウスの前に立っていた。海運橋の傍の五層の奇妙な建物。寺のような建物に城の天守閣のような塔が立っている。築地の西洋人ホテルのような大きな風見鶏を見上げながら、左之助は三井組に用があったと斎藤に笑いかけた。左之助は、立派なフロックコートを纏って襟締めに、髪も綺麗に梳かしつけた姿。一見商人のように見えたが、馬上の斎藤に自分の荷物を持たせると、直ぐにコートを脱いで襟締めも解いて、馬を引いて海運橋を渡って歩いていった。そして掘割の楓川沿いの茶屋の前に馬を停めると、一服しようと店の女将に緑茶と饅頭を運ばせた。

「元気そうだな」

 斎藤が目の前に腰掛ける左之助に笑いかけた。左之助は、ああ、と返事をした。北海道では、頼まれ仕事が増えちまってと笑いながら、持って来た荷物から分厚い封筒を取り出した。

「新八からこれを預かった。慰霊碑の書類だ。政府への届け出と、石工に頼む名簿。これが、名簿を清書したもの」

 左之助は、書類を一枚一枚見せながら斎藤に説明する。殉死した新選組隊士の名簿。新八が、去年からずっと国中に残る新選組隊士に問い合わせて集めた。新選組の前身の壬生浪士組に所属した隊士も含めると、百人以上に及ぶ。名簿には目の前に座る原田左之助の名前もあった。新八から、政府への手続きを手紙で頼まれていた斎藤は、詳細の書かれた文が同封されているものにざっと目を通した。近々、松本順医師にも会うことになる。墓碑の碑文を新八が依頼していたからだ。

 斎藤は、書類を封筒に戻すと左之助に礼を云った。新八は元気にしていて、県政の仕事で忙しくしているらしく、慰霊碑建立の工事が始まる来年の初めに上京すると云っていたと、左之助は話した。斎藤に大事な書類をやっと渡すことが出来たと、左之助はほっとしたように大きく背伸びをした。

「あんたも、忙しそうだな。千鶴が、診療所に現れないと寂しがっている」

 斎藤がそう言うのを、わかっているという表情で左之助は頷いた。

「金貸しとの折衝だ。三井組に融資を願い出た。炭鉱を掘るのには金が要る」

 そう言って、左之助は溜息を付いた。あと数日したら、また西国に戻る予定だが、その前に坊主と千鶴の顔を見に行きてえな、と呟いた。

「北海道から戻ってから、土方さんとも連絡がとれねえ。東京にいねえみたいだ」

 左之助は、湯飲みに残ったお茶を飲み干すと立ち上がった。斎藤も、刀を持って立ち上がった。店を出て馬の綱を柱から解いていると、左之助が隣に立った。

「もう知ってるかもしれねえが、土方さんは硝子工場を閉めるそうだ」

 斎藤は驚いた。工部省の殖産興業顧問役として、土方が一度大火事で閉鎖していた品川硝子工場を起こしてまだ一年足らずではないか。政府の施設として操業していた筈だ。一体、何が起きたのだろう。

 驚いたまま無言で立っている斎藤に左之助は、

「たぶん、心配はいらねえと思う。土方さんは、借金を抱えてても、政府がそれを肩代わりすることになるだろうよ」

 そう言って、斎藤が馬に上がるのを手伝った。それから、二人で大手町に向かって歩き始めた。大通りを馬を引きながら歩く左之助に、斎藤は土方が携わるメリヤス工場はどうなんだと訊ねた。

「メリヤスは大丈夫だろう。陸軍、海軍の制服を請け負うって云っていた」

「最近は、軍隊の革靴作りも始めたって云うし。土方さんが、商売にあぶれるってことはねえだろう」

 軍隊の制服。そういえば、軍服の需要が増えると前に云っていた。

 斎藤がそんな事を考えていると、いつの間にか左之助が、馬から離れて道の反対側に走り出していた。背後から、あやしい集団が追い掛けて行く。羽織に下駄を履いたザンバラ頭の男達は、皆刀を手に持っていた。斎藤は、直ぐに追い掛けた。左之を追っている輩か。

 斎藤は、馬を降りて手綱を近くの給水場の屋根に引っかけると、路地に逃げ込んだ集団を追い掛けた。反対側の通りで、集団に左之助が囲まれていた。左之助は、懐に手を入れている。短銃を抜くつもりか。斎藤は、背後から「警察だ」と叫んだ。

 男達は振り返りざま、斎藤に斬りつけてきた。斎藤は、身をひるがえすと、抜刀して相手の刀を受けた。通りには人集りが出来ていた。人々が叫ぶ声が聞こえる。男達は全員で六名。斎藤に向かって来ているものは四名。そして、左之助が後ずさりながら、懐から短銃を取り出したのが見えた。ちょうど、斎藤の右側に立つ男が二人身構えている。なんとか、三番目に斬りかかって来た男を制圧した。その時、発砲の音が聞こえた。斎藤は、四人目の男を脳天から峰打ちで撃つと、そのまま右側に立つ男の背後に刀を向けた。その向こうで隙を捉えた左之助が、路地を戻って走って行く姿が見えた。手前の男達は、刀を捨てて手に銃を持って追い掛けている。斎藤は、警笛を吹き鳴らした。

 遠くに、同じように警笛が鳴る音が聞こえた。別の警察隊が近づいてくる。ここは、大一区の管轄だ。

そう思いながら、走って男達を追い掛けた。路地から通りを出たところを斎藤は、背後から男達を討った。そして、通りの向こうに走り抜ける左之助に向かって叫んだ。

「神夷で去れ。道は馬が知っている。診療所に隠れろ」

 斎藤は、左之助が馬に飛び乗って走り去る姿を見た。もう一人の男が、通りから立ち去る左之助に向かって、銃を二発撃った。斎藤は、その男の腕を力一杯撃って、銃を振り落とさせた後に、首を背後から平打ちにして制圧した。

 この者たちは、何者。

 斎藤は、大一区の部隊が到着するまでの間、倒れた男達の懐や袖を検分した。身分の判るものは持ち合わせていないが、銭入れから三井組の名刺のようなものが出てきた。金融に関わる者か。何故、左之助を襲う必要がある。斎藤は左之助の安否が気になった。

 大一区部隊が通りに現れると、手際よく地面に倒れた男達を捕らえて行った。現場の検分の為に、斎藤はずっとそこに居なければならず、検分後は丸の内の大一区小一署に報告に出向かなければならなかった。



****

神夷に乗って

 左之助は、ひたすら走り続けた。右腕が痛い。銃弾がかすったか。上着の袖が血に染まっているのを見ながら思った。馬は、一見複雑そうな狭い通りをすり抜けて行く。どうも、馬は故意に裏道を通っている様子だった。左之助は手綱を持ったまま、馬の進むようにさせていた。どこを走っているかわからないが、馬はずっと、北の方向に向かっているのは確かだった。

 こんな狭い道を恐がりもしねえで。

 左之助は、器用に道から道へ抜ける神夷を見て感心した。初めて乗った馬が、ここまですんなりと人を運ぶのは驚きだ。鐙の高さも合わない俺を、逆に振り落とさないように気遣ってるのか。

 左之助を乗せた神夷は、広い通りに出た途端、それまでの並徒から急に馳歩に変えた。そして何かに気づいたかのように嘶いた。左之助は、追っ手が追い掛けてきたかと思って振り返ったが、背後にも道の端にも怪しい者は見えない。不思議に思いながら、手綱をしっかり掴むと上半身を前に倒して、全速力で走る体勢に変えた。

 ふと、道の先に茶色い影が見えた。なんだ。

 馬の頭の先に見えたのは、茶色い猫。飛ぶように走っている。

 周りの景色は、走馬燈のようにどんどんと過ぎる中で、胡桃色の長い尻尾が上下に揺れていた。飛んでいるのか。まるで、宙を浮かぶように前を行く猫。それは神夷を先導しているようだった。左之助は、手綱を掴んだまま、腰を上げて襲歩に備えた。街中で、これだけ走ることが出来れば大したもんだ。

 風が吹き抜けていく

 気持ちがいい

 腕の痛みも忘れて、左之助は風に乗って走り続けた。猫の先導であっという間に、小石川にたどり着いた。さっきの喧噪が嘘のように静かな界隈。猫は、大きな尻尾を揺らしてゆっくりと門から厩に向かうと、振り返った。口角が上がって笑うように。その目は総司と全く同じ。翡翠色に輝いていた。神夷は、大きな息をついた。ほっとした風情で、武者震いのように全身を揺らしている。左之助は、馬首に手を伸ばして優しく撫でて労った。

「ありがとうよ。お陰で助かった」

 左之助は、そう言って馬から下りた。千鶴が驚きの声を上げて、中庭から厩にやって来た。

「原田さん」

 千鶴は、笑って駆け寄ってきたが、左之助の腕を見ると血相を変えた。診療所に、と叫んで草履も飛ばす勢いで左之助を診療所に上げると、早速手当を始めた。

「銃創です。貫通はしていません。弾がかすめたよう……。傷口が大きいので縫います」

 千鶴は、手際よく消毒をしながら、縫合の道具を取り出すと麻酔効果のある煎じ薬を準備し始めた。左之助の上着もシャツも沢山の血を吸って重くなっていた。

「出血が酷い。原田さん、じっと動かないでください」

 左之助は、千鶴の云うとおりにしていた。額や首には汗をかいている。ここまでの傷で、よく馬上で手綱を握れたものだと千鶴は感心した。千鶴は、左之助の上半身の洋服と下着を丁寧に脱がせた。

「斎藤に助けられた。暴漢に襲われてな」

 左之助が千鶴に話すと、千鶴は「はじめさんは?」と心配そうに訊ねた。

「俺を襲った奴を刀で討っていた。俺は銃を持った輩から逃げるのが精一杯で」

「すまねえ……」

 左之助が悔しそうに謝ると、千鶴は首を振って、「きっと大丈夫です。はじめさんは」と励ますように微笑んだ。それから左之助に煎じ薬を飲ませると、手際よく傷口を縫合していった。腕に受けた生傷以外にも、左之助の身体には無数の傷跡が見えた。中には、明らかに銃痕とわかるものもあった。体中の傷を心配そうに確かめる千鶴に、左之助は「昔のかすり傷だ」と云って笑った。上野の戦と、満州で受けた傷だという。傷の縫合が終わると、左之助は包帯を巻かれた腕を上下させて動きを確かめた。「大丈夫そうだ」と呟くと、再び立ち上がってシャツと上着を纏い始めた。

「着替えを用意します」

 千鶴がそう言って、着物を取りに行こうとしたが、左之助は断った。

「いや、いい」

「着替えずに、このまま行く」

 そう言って、再び出掛ける支度を始めた。千鶴は、「待ってください」と慌てて止めた。

「まだ、傷口を縫ったばかりで、動かれるのは危険です。どうか横になって」

 そう言っている間にも、原田は診療所の玄関から厩に向かった。千鶴が追い掛けて来た。左之助は馬の鞍に結びつけてあった荷物を取り出した。

「これは、旦那の荷物だ。今日、斎藤に会った時に渡した書類が入っている」

 そう言って斎藤の鞄を千鶴に渡した。そして、自分の荷物を左の肩に担ぐとそのまま診療所の門に向かおうとした。

「待ってください。そのような怪我をされて、上着も血だらけで」

 千鶴は左之助の腕を掴んで引き留めようとする。

「行かなきゃならねえ。ここに俺が居るのはよくねえ。警察にばれたら事だ」

「斎藤が、今日俺を逃がした事も、ことによるとお咎めになる可能性もある」

 これ以上、迷惑はかけられねえ。

 左之助はそう言って、千鶴の腕を振り切った。千鶴の両目から涙がぽろぽろと流れ出した。

「迷惑だなんて、何を仰っているんですか」

 千鶴は、再び左之助の腕に摑まると、強く引いて中庭から縁側に連れていった。千鶴は、手で自分の目や頬を何度も拭いながら、「せめて、もう少し休んで……」と云うのがやっとのようだった。左之助は仕方なく縁側から廊下に上がって家の中に戻った。

 ちょうどその時、奥の間の襖が勢いよく開いて、中から眠気まなこの子供が出てきた。左之助の前までとことこと歩いてくると、そのままおしめを自分で脱いだ。

「お、坊主、小便か?」

 左之助は、子供を抱えてあわてて厠に向かおうとした。子供は、千鶴が泣き顔でいるのにびっくりしたようだったが、そのまま左之助に抱えられて、厠に連れて行かれた。最近坊やは、濡れたおしめが気持ち悪いのか、自分で脱いでしまうようになった。そしていつも、お尻を丸出しのまま猫と走り回って遊びはじめる。

 まだ厠で用を足せるようにはなっていない坊や。大怪我をした左之助が連れて行ってしまった。

 千鶴は、ぼんやりと廊下に立ったまま、思い立っていた事を思いだすまで暫くかかった。そうだ、原田さんに渡すもの。そう思い至って、慌てて診療所の奥の間に向かって行った。

 厠で坊やに小便をさせるのに成功したのか、左之助は大声で笑いながら子供の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら居間に戻って来た。そして、尻を出したまま、遊び回る子供を愛おしそうに眺めている。そこへ、千鶴が居間に戻って来た。紙に包んだものを胸に当てて原田の前に座ると、それを差し出した。

「これは、父様が瓦解前に床下に置いていたものです」

「換金してあります。百円です」

 左之助は驚いた。百円の現金をひょいっと渡す目の前の千鶴は、再び目から涙を流している。一体どうしたんだ。こんな大金を、綱道さんが残していたのか。

「斗南から東京に戻って、床下にお金が沢山隠してあったのを見つけたんです。これは、父が羅刹研究で得たお金。いつか、世の中の役に立つように。とっておいたものです」

 そう言って説明する千鶴に、左之助は包みを戻した。

「そんな大事な金を受け取ることはできねえ。世の中に役立ててえなら尚更だ」

 左之助はそう言って断った。千鶴は、首を振りながら、どうか、と云って返してくる。暫く互いに紙の包みを押し返し続けた。千鶴の涙は、引っ込んだようにみえたが、頑なに左之助に紙の包みを差し出し続けた。左之助は、無言のまま診療所の庭から外の様子を確かめると、黙って正座している千鶴に静かに話した。

「しばらく、西国に行く。東京に居るのは危険だ」

 千鶴は、不安そうな表情で息を呑んだ。

 昔からそうだ。千鶴は聡い。

 左之助は心の中で思った。今まで何度も暇を告げ合った仲なのに、この取り乱し様は。

(勘も良かったか・・・・・・)

 左之助は、心配する千鶴の瞳をじっと見詰めた。

「なあ、千鶴。斎藤は、名前も変えて出自も変えて、東京で立派に巡査をやっている。俺みたいなもんが周りにいると、折角手に入れた仕事も、何もかも失いかねねえ」

「……俺は一度死んだ人間だ。この国で、表に出て生きていくことはねえ」

 首を振り続ける千鶴の両目から再び涙が溢れ始めた。「どうか、そんな事は仰らないでください」としゃくり上げて泣き始めた。千鶴の声が聞こえたのか、子供が廊下を戻ってきた。泣き顔の千鶴に、「かーたん」と呼んで駆け寄ると口をへの字にして、一緒に泣き始めた。

「子供は、母親が泣くと悲しくなるもんだ」

 そう言って、左之助は子供の背中を優しく撫でた。

「今生の別れじゃねえ、千鶴。暫く、ここを離れるだけだ」

 そう言って微笑む左之助に、千鶴は泣きながら大きく頷いた。

「斎藤は日暮れまでここに隠れていろと云っていたが、陽のある内に出る。横浜か、小田原か。舟に乗って西に向かうつもりだ」

「不知火と落ち合う」

 千鶴が行く当てがあるのか訊ねようとしたところで、先に左之助がそう答えた。千鶴は、再び紙の包みを左之助の手を取って渡すと、「どうかご無事で。必ずお戻りください」と呟いた。左之助は、ああ、と返事をして千鶴から貰ったお金を受け取り礼を云った。

 縁側で靴を履く左之助の元へ、再び総司が現れた。綺麗に背筋を伸ばし、尻尾をゆっくりと前足の前に揃えている。

「総司、世話になったな。さっきは助かった。礼を言う」

 そう言って、左之助は猫の顎に手を伸ばして撫でた。総司は、御影石から降り立つと、先に診療所の門に向かった。千鶴は坊やを抱いて、左之助の後ろを付いていった。左之助は、子供を千鶴から受け取ると思い切り高く抱き上げた。

「豊誠、お前のおっかさんとおとっつあんを宜しくな。おっかさんの事をしっかり守るんだ」

 子供は、こっくりと頷いた。

「よし、それでこそ男だ」

 そう言って強く抱きしめると、頬ずりをしてから千鶴に子供を返した。

 門の先で、先に歩き始めた総司が振り返った。

「僕が、左之さんを安全なところまで送るから」

 千鶴には、総司のそう言う声がはっきりと聞こえた。「沖田さん、」と呼びかけて千鶴は追い掛けたが、総司はそのまま道の先をどんどん走って行ってしまった。左之助も、「さっきも猫の先導で馬を走らせた。総司を追い掛ける」と云って笑いながら走り去っていった。

 千鶴は、「必ず、ご無事にお戻りください」と叫びながら、ずっと左之助の背中を見送った。



****

神夷の世話

 その後の左之助の安否は判らないままだった。総司が三日目の朝にようやく診療所に戻って来た。

 ぐったりと縁側に登って横になった総司は、丸一日眠り続けた。全身が酷く汚れたままの総司を、千鶴は優しく撫でた。胡桃色のふわふわの体毛には、見たこともない小さな草の棘が沢山絡みついていた。

 左之助が診療所を去った日の夜遅くに斎藤は帰宅した。千鶴から左之助の話を聞いた斎藤は、大きく溜息をついた。斎藤からの説明で、左之助を襲った暴漢は、三井組につきまとう強請集団であることが判った。おそらく三井組に融資依頼をした左之助を金品目的で襲ったのだろうと、斎藤は話した。千鶴は、左之助の無事が気がかりで仕方がなかった。

 その後、大一区署の事件報告書に目を通す機会のあった斎藤は、詳細を確かめた。報告書には加害者逮捕済【被害者不明】と書かれてあった。捜査終了の文字を見て、左之助の身許が割れる心配はなくなった。斎藤は行方不明の左之助が心配だったが、今後警視庁が左之助を追う事はないだろうと安堵した。

 左之助が襲われた一件から数日後、警視庁で巡査向けの年次研修が行われることが決まった。斎藤の部下の天野と津島は以前より希望していた騎馬訓練を受けることになった。これは特例中の特例で、騎馬巡察を鍛冶橋の指示で行っている斎藤と一緒に訓練を受けるということが条件だった。そして、訓練は警視庁逓信部ではなく、逓信省の馬場を借りて行うことが決まった。部下たちは斎藤が神夷を借り受けている、日本橋の逓信省に出向く。

 部下はこの決定を大いに喜んだ。斎藤は、斗南でも部下に乗馬や馬の扱いを指南していたので手間を厭わなかったが、永井少佐の監視を続けている中、日本橋に出向く時間を捻出するのに苦労した。家で食事をしている時に部下の研修の話を千鶴にすると、千鶴は馬の扱いなら診療所で神夷をみればわざわざ日本橋に行く必要もないのでは、と言い出した。

「ここと、天野さんたちの下宿も近いことですし。はじめさんが神夷を連れて帰って来た日に天野さん達が診療所に寄ってくだされば。鞍を外したり、身体を拭いたり、蹄鉄の掃除、一通りお見せしても、一刻もかかりません」

 斎藤は千鶴の提案を有り難いと思った。おそらく、馬に不慣れな天野たちが逓信部の山形のもとに行って迷惑をかけるよりいいだろう。忙しい千鶴には負担だろうが、千鶴が気心の知れた部下二人に神夷の世話を教えるなら安心できると思った。

 斎藤が千鶴の提案を話すと、部下の二人は喜んだ。最初は、天野が早く仕事の上がる日に斎藤と一緒に神夷と診療所に現れた。斎藤は、そのまま馬を置いて鍛冶橋に向かったが、天野はそのまま千鶴に馬の世話の手ほどきを受けた。こうやって週に一回ずつ、天野と津島が交代で診療所に現れた。

 ある朝、巡察に一緒に出た斎藤の部下二人は、馬の話で盛り上がった。天野は、最初はおっかない思いをしながら始めた馬の世話だが、だんだん慣れてくると楽しいと笑っている。津島は、自分もようやく馬の扱いに慣れてきたと頷いた。

「でも、なんだな。やっこさん。身体でかいから、小便も尋常じゃねえな」

 天野が笑う。蹄鉄の土落としをしていると、いきなり小便が頭の上から降って来て。そのまま風呂場に直行した、と天野が話した。

「風呂から上がったら、もう馬の世話は全部終わったからって。夕飯まで用意されてて」

 天野が診療所でご馳走になったと嬉しそうに話すのを聞いて、津島は無性に腹立たしかった。

(風呂に、夕餉だと。奥さんが親切なのをいいことに……)

 その日は一日中、津島はふて腐れたまま黙っていた。

 それから、津島が診療所に出向く日になった。千鶴は、津島に作務衣を準備して待っていた。藍のしっかりした木綿の作務衣に着替えるように言われた津島は、いわれた通りに制服を脱いで着替えた。作務衣のズボンの裾はすぼんだ造りで地下足袋も用意されていた。千鶴は、着付けを手伝うように津島の前に跪いている。津島はどうしようもないぐらい照れくさかった。

「ちょうどいい寸法ですね」

 千鶴は津島の全体を眺めて微笑むと、今度は藍の前掛けを津島の腰に当てて紐を背中にまわし始めた。津島は焦った。奥さんが、自分に抱きつくようなあんばい。千鶴は真田打ちの紐を津島の背中側で交差させて前に持ってくると、きゅっと力を入れて臍の下あたりで結んだ。しゃがんでいる千鶴を上から見ると、長い睫が綺麗で、紐を結ぶ小さな手が、その指の動き全てが美しかった。津島は、千鶴が自分と同じように作務衣に着替えている事に初めて気づいた。作務衣の合わせから、白い胸元が見下ろせた。綺麗な肌だった。

 頬が赤らんでいるのが自分でもわかる。津島は照れくさくて堪らない。千鶴は、これで作業がしやすくなります。そう云って、前を歩くと縁側から草履を履いて厩に向かった。神夷は、沢山水を飲んだ後に、津島があげた草を食べ始めていた。千鶴が馬の後ろ足の下にしゃがんで蹄鉄の泥落としを始めた。津島は、千鶴と作業を交代した。この大きな馬の、大きな足を千鶴は易々と持ち上げている。巧く、背中で馬の足にもたれかかって合図を送るのだと教わったけれど、馬はなかなか足の裏を津島に預けることをしない。

 こんなに小さな奥さんが、どうして軽々と馬を扱うことが出来るのだろう

 津島は毎回不思議に思い、感心した。馬は不思議な程千鶴に従順で、千鶴は事在る毎に<可愛い神夷>と云って馬を撫でている。津島はいつもその優しい手の動きに思わず見とれてしまう。そして、愕然として馬を羨ましく思うのだ。汗を拭って、刷毛がけをすると、馬も嬉しそうに目を瞬かせる。尻尾を振って喜ぶと千鶴は一緒に笑いながら、馬の顔に自分の顔を近づけて頬ずりしていた。時々、千鶴が馬の頬あたりに口づけする姿を目にした。津島は、馬に変身することが叶うならと心の底から願った。

 千鶴が馬が可愛いと言い続ける事が、最初の内は解らなかったが、次第に津島も神夷の事を可愛いと思い始めた。自然といつも世話の最後に、顔の正面に廻って「世話になった」と礼を云いたくなる。神夷は、両目をゆっくりと瞑って応えるような表情を見せる。津島は手を伸ばして耳の後ろから鼻にかけて何度も何度も撫でた。心が温まるひととき。いつものように、そう思った瞬間だった。神夷は大きなくしゃみをした。

 津島は真っ正面から、馬の唾液を浴びた。尋常じゃない。頭から顔から首までびっしょびしょになった。

 それを見ていた千鶴は、クスクス笑うと、お風呂を用意してありますと云って津島を風呂場に案内した。脱衣所で作務衣を脱いでいると、風呂場の戸が開いて勢いよく子供が入ってきた。

「ぼうや、おふろちょうだい」

 そう言って、おしめを脱ぎ始めた。戸の外から千鶴の「いけません」という声が聞こえた。津島は、戸を開けて千鶴に話しかけようとした。

「すみません。この前、天野さんが見えたときに一緒にお風呂に入れてもらえたのが大層楽しかったらしくて」

 千鶴が謝って、子供を呼び止めている。だが、津島は「ぼっちゃんと一緒に入ります」と云ってそのまま戸を閉めた。外から千鶴の「ありがとうございます」という声が聞こえた。津島は、坊やの着物を脱がせると一緒に風呂に入った。

 二人で身体を洗って、湯舟に浸かった。子供は、「うんぼうずやって」と頼んでくる。

【うんぼうず】はて……?

 津島が考えていると、いきなり坊やが強い力で津島の頭を湯の中に沈めた、津島は驚いて水面から顔を上げると、子供はゲラゲラと笑って喜んでいる。【海坊主】か、津島は合点がいった。今度は、ちゃんと息を吸って水中に沈むと、急に水面に顔を出して、「ばあー」と云って子供を驚かせた。子供はけたたましい声を上げて笑った。きっと天野も同じように遊んだのだろう。そうやって、子供が十分に笑い疲れるまで遊んだ。

 湯から上がると、浴衣が用意されていた。浴衣を着て坊やと居間に戻ると、夕飯が用意されていた。

「もしよろしければ」

 そう言って、千鶴は給仕を始めた。「今日は、虎ノ門にお戻りですか?」と訊ねる千鶴に、津島は夜行巡察があると答えた。

「そうですか、ではごゆっくりできませんね」と千鶴は残念そうな表情をした。

 津島は、千鶴が悲しそうな表情を見せたのが嬉しかった。子供が、すっかり甘えて津島の膝に座ったままご飯を食べている。

「すみません、すっかり甘えてしまって」と千鶴が津島に謝るが、子供に向かって、「いいね、嬉しいね」と笑いかける。

 千鶴に「いいね」と言われることが津島は嬉しくて堪らない。お膳の横に座って、微笑みながら自分と一緒に食事をする千鶴を津島はぼーっと眺めた。お箸の扱い、食べ物を口に運ぶ様子。何をしても美しい。

 自分に見とれる津島に気づいた千鶴は優しく笑いかける。

「お口にあいませんか?」

 箸が進まない津島に訊ねるが、津島は首を振って食べ続けた。外はすっかり陽が落ちて暗い。明るい洋燈の下で、子供と奥さんと三人で囲む食卓。まるで家族のようだ。そう津島は思った。夢のような。奥さんがいて、こうやって子供と飯を食う。

 津島は、毎日がこんなならと願った。

 食事を終えた千鶴が目の前でお茶を煎れていた。その手の動き。差し出された湯飲みに添えられた指が綺麗でぼーっと見とれた。お茶を飲みながら、手際よくお膳を片付ける千鶴を眺め続けた。至福。これは至福。

 それから、津島は再び制服に着替えた。途中から千鶴が台所から居間に戻って、制服の着付けを手伝った。津島は千鶴に上着を羽織らせてもらうのが照れくさい。再び自分の前にしゃがんだ千鶴がベルトを腰に通す。とてつもなく恥ずかしい。

「じ、自分でやります」

 うわずった声で津島が云うと、千鶴は微笑みながら、「いつも、こうやって手伝っておりますので」と答えた

 いつも

 こうやって

 そうか、……。

 津島は寂しくなった。奥さんは主任の着替えをいつも手伝って居るのか……。

 当たり前のことなのに、今更傷ついた。津島は、そのまま千鶴から刀を受け取ると、礼を言って診療所を後にした。門の所で、子供を抱いて手をふる姿が見えた。逆光で見えなかったが、きっと奥さんは笑顔だったと思う。

 あの美しい笑顔

****



明治八年十月

馬での遠出

 十月の始めに久しぶりに斎藤が非番をとった。前日に、逓信省の馬丁掛の山形が、一頭の駿馬を連れてやって来た。馬で遠出する斎藤一家に特別に貸し出してくれた馬で、千鶴は久しぶりに筒袖を行李から出して準備をした。

 腰弁当、竹水筒、敷物を荷物入れにいれて、鞍の横に結びつけた。そしてまだ暗い内に診療所を出発した。

 坊やは土方から貰った洋服を来ていた。革の立派なブーツ。土方が出来上がったと届けてくれたものを初めて身につけた。斎藤の鞍の前に跨がった坊やは、鞍の前の反り返り部分に上手に摑まっている。斎藤達は本郷から板橋宿まで向かう中山道の街道にでた。陽光は眩しく、風はさわやかで早駆けをすると、子供は声を上げて喜んだ。

 目的地の板橋には昼前に着いた。石工の元を訊ねて、墓碑の作製を正式に注文した。それから寿徳寺に向かって、近藤の墓にも参った。

 それから街道沿いの野原を馬で駆け回った。

 子供は、両手を拡げて風を全身に受けて喜んだ。

 景色のいい場所に出て敷物の上に弁当を拡げて食べた。

 斎藤は、馬上でこっくりと眠り込む子供を片手で抱き寄せるようにして、ゆっくりと家路に向かった。

 本郷から小石川に向かって坂を登っていると、背後から声が聞こえた。天野と津島だった。二人とも仕事帰りに馬の顔を見に行こうと決めて診療所に向かっていたらしい。天野は、神夷の手綱を引いて歩き始めた。津島は、千鶴の馬を引いた。

「板橋宿ですか、随分と遠出でございますね」

 天野が振り返りながら話す。斎藤が、「板橋宿までは、あっという間だったぞ。馬で駆け回る場所がいっぱいあって良かった」と満足そうに話すのを、天野が羨ましそうに聞いていた。千鶴は、斎藤と天野が話すのを楽しそうにクスクスと笑いながら聞いている。

 津島は、天野の話を聞いている振りをしながら馬上の千鶴の姿を眺めた。筒袖に洋髪姿の千鶴はいつもと様子が違っていた。背筋を伸ばして、ゆったりと馬に乗る千鶴は飛び切りに洒落ていて、新聞に出ていた【はいから】婦人画そのものだった。笑顔の千鶴の顔を盗み見て、津島は幸せだった。ずっとこうして馬を引いて眺めていたい。そう心の中で願い続けた。

 綺麗だ

 ほんとうに……。

 美しい人だ。

 診療所に着いたら、部下の二人が馬の世話を買ってでた。斎藤達夫婦は二人に馬を任せると、風呂を沸かして、夕餉の支度をした。皆で食事をして寛いだ。斎藤は、久しぶりの休日にこうして家族と部下と馬と過ごせたことが嬉しかった。



****

新月の夜

 十月に入ってから、日が経つごとに、すっかり秋めいてきた。

 新月の晩、外気が冷えてきた。千鶴は居間の縁側の雨戸を引こうとした時、猫の総司が傍を急にすり抜けて庭に飛び出していった。

 暗闇に浮かび上がる何かに、総司は勢いよく飛びついて行った。黒い影と総司が絡み合い、地面の上をぐるぐると転がる姿が見えた。千鶴の驚く声を聞いて、斎藤が飛んで来た。

 暗闇の向こうで、猫が絡み合う何かが見えた。二つの塊は、互いを離れてすっくと立ち上がった様に見えた。

 青白く光る中に大きな黒い猫……、違う、あれは豹?

 ゆっくりとこっちに向かって歩いて来た黒豹は、御影石の手前で止まると。すっと首を伸ばした。

 よ、雪村の姫さん
不知火だ

 黒豹が人間の言葉で話始めた。これは、式鬼? 千鶴と斎藤は驚きながら目の前の動物を眺めた。

 今、原田と福岡に居る
 原田の怪我はすっかりよくなった
 福岡、長崎、鹿児島
 どこも武器の取引が盛んだ
 炭鉱事業より武器の交易
 ここは戦の好きな連中ばかりだ

 原田と一緒に上海に渡る
 安心して欲しい
 原田は無事だ

 千鶴は、不知火が送った式鬼から左之助の安否が聞けてほっとした。

 ところで
 あんたは自分の式鬼がどんな姿か見たことはねえだろ
 あんたが俺に送った式鬼

丹頂だった

美しいくちばしで宙に光る文字を描いた
文字からは美しい声が聞こえた
原田さんが西国に向かわれました
怪我をされているので
どうか介抱を願います

そう伝えると羽を大きく拡げて
輝きながら天に昇っていった

 俺はあんなに綺麗な式鬼をみたことがねえ

 俺の爺様が
式鬼は送る者の魂の顕現といっていた

 ありがてえものを見せてもらった
 礼を言う 

 上海からは来年始めに戻る

 じゃあな雪村の姫さん

 美しい魂

 そう言って、黒豹は暗闇に消えていった。千鶴は隣に立つ斎藤を見上げた。

 原田さん、ご無事で良かった

 そう呟く千鶴に斎藤は優しく背後から手を廻して抱きしめた。総司は、黒豹が消えた空間をじっと睨んでいたが、踵を返して部屋の中に戻って来た。斎藤と千鶴は雨戸をきっちりと閉めると奥の間に戻った。

 布団の中で斎藤は千鶴を抱きしめ口づけた。

 千鶴はそのまま微笑んで目を瞑むり斎藤の胸に頬を寄せて安心したように眠り始めた。

 斎藤は千鶴の艶やかな髪を撫でながら、

 自分も千鶴の式鬼を見てみたいと思った。

 ——美しい魂 

 斎藤は微笑みながら、腕の中の千鶴をしっかりと抱いたまま眠りについた。




 つづき

→次話 明暁に向かいて その17




(2018.07.20)

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