中庭での稽古

中庭での稽古

明暁に向かいて その20

明治八年長月

 まだ暗い内に起き出すと、斎藤は厠を済まし顔を洗って中庭に立った。ぴんと張った空気。手には木刀を持っている。

 早朝の独り稽古。これだけは毎日欠かさない。これを斎藤は「浚らい」と呼んでいる。いつの頃からであろうか、朝起きた時に、試す動き、鍛錬したい事がすっと心に浮かぶ。もう既に一度それを試していて、しっかりと己で確かめたい気持ちになるのだ。今朝もそうだった。

 浚っておかねばな。

 そう思いながら、ひたすらに木刀を振るう。集中あるのみ。いつも、千鶴が起き出して朝餉の支度を始めているのにも気づかない。明るくなってきた頃、居間から千鶴の自分を呼ぶ声が聞こえるのが稽古の止め時だ。だが今朝は千鶴が中庭に突然現れた。手には薙刀を持っている。畏まった様子で、斎藤の前に立つと恭しく深く礼をした。

 びゅん

 宙を斬る音を立てて構えた後、素振りを始めた。流れるようなその動きは本格的で、時折、鋭い動きで宙を突く。

 はっ

 いつもの千鶴とは違う、腹から出すようなドスの利いた声で前に前にと突きを続ける。斎藤は、千鶴の真剣な表情に暫く自分の稽古を止めて見入ってしまった。何故、薙刀の稽古を始めた。

 千鶴は、薙刀を会津で習った。会津での戦の後、千鶴はご城下で謹慎処分となった。旧会津藩主松平容保公の姉君、照姫様が妙国寺での謹慎を言い渡され、會津新選組に従軍していた千鶴の身を案じた姫様が従女として千鶴を召し抱えになられた。徳川幕府の番医師である千鶴の父親は、会津藩に由縁はなかった。一介の町人の娘が、会津藩姫君の従女に抜擢されることは異例中の異例。だが照姫さまは千鶴を武家者として扱い、一番のお付きの者と同様に傍に置かれたという。

 千鶴は謹慎生活中、照姫様から直々に薙刀を習った。

 「皆に身の鍛錬を勧めよ」と姫様が奨励したという。外出を許されぬ生活で、身体を動かし、外の空気を吸うことが肝要というのが理由だった。千鶴は、生まれて初めて薙刀を手にとった。降雪の日以外は、雪の上でも稽古を行ったらしい。やがて住職の取り計らいで、お堂を稽古場として使うことも許されるようになった。ほぼ毎日の厳しい稽古。照姫様は、筋の良い千鶴を見込んで、その半年後の別れの日に自身の薙刀を千鶴に下賜された。

 以来、千鶴はずっと薙刀を大切にしている。いわば、藤田家の家宝である。

 興が乗ってきたのか、千鶴は背中に柄を廻して、脇から反対側に引き込み、突きの後掬い上げた。斎藤の傍の木の枝が、薙刀の振るわれた空気で揺れている。千鶴は最後の振り上げから直ると仁王立ちになった。小鼻が小さく膨らんで、肩で息をしている。斎藤は、その姿を見て微笑んだ。昔の千鶴を想い出しながら……。



*****

弁慶と巴

 明治三年の春、会津藩は陸奥の国へ国替えとなった。斎藤達、会津藩士はその年の正月明けに謹慎先だった会津塩川村から降雪の中を徒で越後高田藩領に移動した。それから数ヶ月。座敷牢の中での謹慎生活は寒さと飢えに苦しむ者が多かった。我慢強い藩士たちが日に日に意気が下がっていくのが判った。新政府の会津藩への処分は苛酷なものになるだろう。斎藤には処分の先に死さえも見え始めていた。斎藤はひたすら機を待った。座敷牢から逃亡が叶えば、向かう先は蝦夷。海を越える。土方さんに合流しよう。己はまだ闘える。まだ終わってはおらぬ。

 終わってはおらぬ

 起死回生の機を逃してはならぬ

 これが斎藤の唯一の希望だった。

 雪解けの後、謹慎先の榊原家家老より松平家のお家取り潰しがなくなったと報された。大殿は江戸の鳥取藩屋敷で壮健に御座せられる。政府より会津藩存続が約束された。斎藤は希望を持った。その矢先の知らせだった。

 箱館の戦で、旧幕府軍が降伏。

 土方歳三、戦死の報せ。

 間に合わなかった。自分は間に合わなかった。

 全てが終わってしまった

 斎藤の後悔と怒り、落胆した様子は凄まじく、部下は斎藤がそのまま自刃をするのではと恐れ、眠らずに交代で斎藤を見守り続けた。そして、会津藩へのお沙汰が下った。陸奥の国への国替え。会津藩領は政府に没収され減封。大殿の嫡男松平容大が藩主となった。こうして遠い北の地に「斗南藩」が立藩された。斎藤は、会津藩士として生きる為、斗南への移住を決めた。勿論、千鶴も一緒に。千鶴から斎藤と離れずに付いて行くと文が届いた。

 会津藩が西軍に降伏してから、猪苗代で謹慎していた藩士達、越後高田に謹慎処分となっていた者達、それぞれが陸路奥州路、宮古湾周りの海路、新潟湾を通っての海路、三つに分かれて陸奥へ向かことになった。五月の終わり、高田表の港に向かった斎藤達に外輪蒸気船が七隻用意された。船籍は全て外国。船長をはじめ乗組員は亜米利加人や南京人だった。乗員達は片言の日本語だけしか解せず、飛び交う言葉は全て外国語。高田表に辿りついた斎藤達は、船の様子に驚いた。一番大きな蒸気船は二十間の長さはあった。米俵を二千俵近く積むことができる。斎藤達は、戦の隊ごとに出発の日が決められ、一日に三隻ずつ日を変えて出港した。謹慎時に手持ちの者は身の回りの僅かな品のみ。武士の命である刀まで取り上げられていた斎藤たちは、ほぼ身一つで舟に乗ることになった。

 そして、いよいよ旅立ちの朝。

 港に荷台を引いた一行がやって来た。妙国寺に謹慎していた千鶴を含む、会津藩重臣の生き残りの家族たち。用意した物資と預かっていた品々をつめた行李が船に運び込まれた。斎藤たちが船に乗り込む為に列を作るように云われていた時、船着き場の後ろの石段から千鶴が顔を上気させて駆け下りてきた。

 斎藤と部下の前に立った千鶴は、朝日を浴び満面の笑顔。

 その瞬間、斎藤の手下の伍長がぼそっと呟いた。

「これは、小弁慶のごとく」

 それを聞いた皆が、どっと笑い出した。

千鶴は、袴はばきに草鞋、腰には小太刀
羽織の上から内飼を斜めがけ
 その反対の肩から大きな風呂敷包を斜めに結び
 背中には、斎藤の打刀と脇差の入った片刃袋を背負い
 頭には、立派な白い緞子の頭巾
 そして、右手には立派な薙刀を地面に柄を下にして打ち立てていた。

 部下たちが千鶴を「とんだ小弁慶さまだ」とからかい笑うのを、千鶴は不本意だという表情で口を結んだまま小鼻を膨らませじっと立って見詰めていた。それが余計に、弁慶然としていて部下の笑いを誘う。斎藤は、小さな千鶴が沢山荷物を抱えて立つ様子が可愛らしいと思った。荷物をひとつひとつ解いてやり、笑っている部下に運ばせると、千鶴は、そのままじっと黙って船に乗り込んでいった。臍を曲げてしまったようだ。斎藤はそう思った。

 船は、沖に出る前から大いに揺れた。船長が身振り手振りで「今日は大荒れだ」と云っている。だが、夜には凪になるだろうということだった。斎藤は、千鶴を庇うように船室壁の傍で両腕で囲い続けた。斎藤の部下達はたちどころに船酔いを起こし、甲板に出て嘔吐と苦しみの声をあげた。

 沖に出ていくらか揺れが収まると千鶴は、腰に結んでいた袋から何かを取り出し、気分が悪くて青い顔をしている部下達の介抱を始めた。部下の背中を擦りながら、部下の顎を甲板の縁に出させ、海に向かって一通り腹の物を全て吐かせると、竹水筒の水をあたえた。そして、青白い顔の隊士を床に座らせると、手首に丁寧に晒しを裂いたものを包帯のように巻いている。怪我をしているのか。斎藤は、千鶴の手当の様子をみながらゆっくりと甲板を移動して、千鶴の傍に近づいた。

「内関(ないかん)です。ここを押さえると吐き気が引きます」

 そう言いながら千鶴は、小豆粒を手首の内側に当てるとその上から晒しできつく縛っていた。起き上がれない者には、腹を出させ、臍の上に膏薬を塗った湿布をした。これも船酔いが収まるという。間もなく、野戦病院のように甲板はうめき声を上げながら横たわる者立ちで埋まっていった。

「助かりました。さっきが嘘みたいだ」

「楽になりました」

 皆が千鶴に手を合わせて感謝していた。舟は、潮の流れに乗るまでずっと揺れていた。ようやく凪になった頃には陽も暮れ始めていた。千鶴と船室にいた女子衆が握り飯を配り始めた。越後を発ってから、初めての食事だった。いくらか食べ物が腹にはいってましになったが、外気の冷え込みは半端がない。年長者と女子供を優先的に船室に入れて、残りの若衆は甲板で身体を寄せ合って暖をとった。

 減封をされた

 向かう先は極寒の地

 新しい国には一切の希望はない。

 それどころか、その地に自分達が無事に辿り着けるかも定かではない。

 皆の震える息から、斎藤は絶望の空気を感じ取っていた。

 そこへ、千鶴が現れた。また腰の袋から合貝の薬入れを取り出し。甲板で震える隊士達の手をとって膏薬をすり込んでいる。

「唐辛子と生姜の粉を練り込んだ蜜蝋です。なたね油も。会津の菜種でとれた油もはいっています」

 手や足の先にすり込まれた軟膏は、ぽかぽかと手足を温めた。隊士たちは、千鶴の手当に喜びの声をあげて、ありがたがった。舟には、会津新選組以外の藩士も多く乗り合わせていた。千鶴とは初めて対面するものが多かった。千鶴は、自分から名乗りをあげ、武家同士のような畏まった挨拶を交わしていた。

「拙者、朱雀隊中一番柴文四郎と申します」
「私は、新選組お預かり雪村千鶴と申します」
「おお、雪村殿。貴殿でござったか」
「はい、柴様。柴様は、もしや、戸ノ口堰をお造りになった柴中司蔵寮太一郎様の柴様でしょうか」
「はい、太一郎は其れがしの曾祖父」
「そうでございましたか。戸ノ口堰の灌漑に大層ご尽力されたと。今、会津の地が豊かなのは、柴内蔵助様のお働きであると」

 柴文四郎は、千鶴が藩の灌漑事業に詳しいことに驚いていた。曾祖父の偉業。それは家の者のみだけが知る事。自分の父親の代で、寄合肝煎を継ぐことは叶わなくなっていた。藩政への参加が絶たれた家。それでもできる限りの事を尽力するのみ。それが亡き父からの教えだった。

「妙国寺にて藩の事業覚書を全て書写しておりました。柴内蔵助様は、まだ寄合お役の内に、戸ノ口堰を五年の間、毎日歩いて測量されて。伴の者も従えず、たったおひとりで」

「雨につけ、風につけ……」
「測量日誌も詳細に残されておいでで。それも書写するように。照姫様より直々に」

 そう千鶴が話すと、柴は驚いていた。

「はい、このような作業の記録は全て写し取るようにと。これからの藩政に大いに活かすことができよう。そう仰っておられました」
「全部書写して参りました。斗南にお持ちしております」

 柴が、「有り難い、其れがし、その様な記録に目を通す機会がありましたら。こんなに嬉しい事はない」と笑顔でそう云うと、千鶴が是非にと微笑みながら答えた。

 その後も、甲板に居る藩士と千鶴は語らった。松平家譜を書写した千鶴は、歴代の家老や重臣にも詳しかった。甲板には由縁の在る者が多く、皆が己の先祖の話を千鶴から聞くことが出来るのを喜んだ。

「會士の心」

 千鶴はそう呟くと、甲板に正座をして背筋を伸ばした。

「照姫様が忘れてはならぬと。領地を奪われ、民を奪われ、郷は焼かれ、身内を失った。我々は、全てを失った。皆さぞ無念であろう」

 千鶴の声は、甲板によく響いた。皆が、顔を上げて一斉に千鶴に向いた。

「忘れてはならぬ。我らは、義のもとに闘った。我ら朝敵にあらず、元より罪無し。しかれども君命を奉ずるは真の臣なり。いずれ我らの潔白はおのずと明らかになるであろう」

 千鶴は、照姫の言葉を覚えて居る限り繰り返した。

「忘れてはならぬ。恥じることは何ひとつなきことを。新しい世に、我らは胸を張って立ち向かえばよい。義の心は決して奪われることはない。たとえ全てを無くしたとしても、會士の心は誰にも奪うことはできぬ」

 皆が正座をして背筋を伸ばし、しっかりと聞いていた。中には、涙を流す者、我慢出来なくなって嗚咽をあげる者も居た。「姫様」と呼びかけて、江戸の方角に向かって平伏す者も居た。

「これが照姫さまがいつも仰られて居たお言葉です。やっと皆さんにお伝えすることができました」

 千鶴はそう言って、深々と頭を下げると、再び藩士達の手足に膏薬をすり込んで廻った。冷え込みの強い夜だったが、照姫のお言葉を聞いた藩士達は、士気が上がり見違える程元気になった。船旅での二日間、甲板での千鶴の昔語りに皆が集まり、心慰められ励まされ続けた。



*****

 はじめさん、どうしたんですか?

 千鶴が、不思議そうに訊ねる。ずっと昔を思い出して、動きが止まっていたらしい。目の前の千鶴は、右手に握った薙刀を地面に立てて堂々と立っていた。

「いや、昔を思い出しただけだ」
「小弁慶をな」

 そう言って、斎藤は微笑んだ。千鶴はきょとんとした顔をしたが、直ぐに思い出したような表情になって、口を開けたまま言葉が出てこなかった。斎藤が、微笑んだまま木刀を青眼で構えると、千鶴も薙刀を引くように持って構えた。

「弁慶ではございません」

 千鶴はそう言い放つと、「やっ」と声を上げて思い切り突いてきた。斎藤は、青眼のままじっと千鶴の剣先を見詰めている。

「巴でございますから」

 千鶴は、もう一歩前へ踏みだすと、掬い上げるように「やっ」と剣先を上に振り上げた。斎藤は、次の一撃に備えて一歩下がると、千鶴の振り下げた剣先を木刀で受け流した。千鶴は、左右交互に薙刀を振って前に出た。斎藤はそれを全て受けて払った。

「倶利伽羅峠では、」

 千鶴は、息を上げながら迫る。真剣な表情で、下から掬いあげるように斎藤の剣先にぶつけると、斎藤がそれを左に払って。千鶴の脇腹を突いた。千鶴は、下がりながらも再び構えて次の手を上から振り下ろす。

「七騎倒しましたから」

 小さな千鶴が大きな薙刀を振り回し闘う姿は、一生懸命であれば在るほど頬笑ましく。斎藤は、小鼻を膨らませて、「はっ」、「やっ」、と宙を突いて、頑張る千鶴を見ながら笑いを堪えるのに必死だった。

「何が可笑しいんでございますか?」

 千鶴は、中庭の真ん中の御影石の前に仁王立ちになっている。斎藤は、肩を震わせながら、

「巴御前は、随分と勇ましい」

 そう云うと、また肩を揺らして声を立てずに笑っていた。千鶴は、不本意そうにつんとした顔で、薙刀をまた一度頭の上でくるくると廻し始めた。不意に何かが己を狙う空気を感じた。斎藤は、一瞬で後ろに跳ね飛んだ。

 ずしん

 地響きがした。地面にのめり込んだ木刀が見えた。そしてその先に豊誠が木刀の端を両手で持って立っていた。いつの間に。子供は、今度は長い木刀を左右に振りまわしている。子供の持つものにしては、大きすぎるぐらいの木刀。木刀と云っても、これは六角の木の棒で、柄の部分だけが若干子供の指にひっかかり易いように削ってあった。これは、日野にある佐藤道場で豊誠が貰い受けて帰ってきたものだった。

 斎藤は、子供の手を止めると。子供の前にしゃがんで、しっかりと木刀を握るようにと教えた。

「左の手をこうだ。しっかりと【おやゆび】で押さえる」

 坊やは真剣な表情で木刀を握ると、斎藤は立ち上がって木刀の先を持ったまま、子供に青眼の位置で構えさせた。

「この形だ。これが【構え】だ。よく覚えるのだぞ」

 坊やは、大きく頷いた。

「返事は」

 斎藤が、大きな声で睨むと。「はい」と子供は良い返事をした。

 よし、今日はこれまでだ。斎藤はそう言うと、坊やの頭を撫でて木刀と一緒に抱きかかえた。子供と井戸端で手洗いをしてから居間に戻った。千鶴が朝餉をお膳に並べて待っていた。

「御箪笥町での物取りがあったお話。虎ノ門の署では、お聞きになってませんか」

 千鶴が給仕をしながら、斎藤に訊ねた。物取り。御箪笥町は診療所からは目と鼻の距離。物騒な事件が起きたのは三日前のことらしい。

「夕闇に紛れて、家に男が三人で押し入ってくるそうです。金品を狙って。金目のものは全て根こそぎ持って逃げて」
「長い太刀を持った盗賊たちで。ひとりは、右頬に大きな傷がある怖ろしい形相の大男だって」

 斎藤は「もう捕らえたのか?」と訊ねた。千鶴は、いいえと首を振っている。

「御箪笥町では、町衆で自警団を作って見廻ってるそうです。お夏さんが、じきに小石川でも見廻りを始めるだろうからって」

 だから、薙刀の稽古を……。

 斎藤は、千鶴が急に朝稽古を始めた理由がやっとわかった。

「うちの署は管轄ではないが、そのような悪質な物取りがこの界隈に出ているなら、見廻りに行く」

 千鶴は斎藤の言葉に安堵しながらも、「わたしも、家を守ります。坊やと家を」と云って、斎藤にご飯のおかわりを渡した。

「そうだな。巴御前がおるゆえな」

 斎藤は、そう言いながらご飯をかき込むと、千鶴は用意したお茶をお膳に差し出しながら。

「はい。七騎の武将をしとめましたから」とすまし顔で答えた。

 よほど、巴が好きなのだろう。【木曾】か【巴】か。謡曲でも聞いて夢中になっておるのだろう。千鶴の噺好きにも困ったものだ。斎藤は、千鶴が「物取りの三人、五人、仕留めてみせます」と云って、ほうじ茶の入った湯飲みをふーふーと息を吹きかけているのを眺めた。斎藤は、また肩を揺らせて笑った。随分と勇ましい。

「なにがおかしいんでございますか」

 斎藤が肩を揺らせているのが気に障るようすで、千鶴が訊ねてくる。斎藤は笑うのを止めた。

「診療所に物取りが来たら、子供と一緒に逃げよ」
「何も守らなくてよい。豊誠を抱いてその場から離れるのだ。よいな」

 斎藤の眼は真剣な光を放っていた。千鶴は、湯飲みを置くと斎藤に向き直って「はい」と返事をした。斎藤は、今日すぐに署に着いたら、小石川周辺の警備の手配をする。そう言って、出掛ける支度をすると足早に神夷に乗って出勤していった。



****

網切の甚五郎

 それから二週間ほど過ぎたある晩、斎藤が部下を連れて帰ってきた。三人とも既に、酒が入っていたらしく。玄関の上がり口で、上機嫌で靴を脱いで上がってきた。

「奥さん、捕まえましたよ」

 居間に入ってくるなり、斎藤の部下の天野が大声で報告した。

 千鶴は座布団を勧めながら、天野と津島が昼間に窃盗団を大捕物した話を聞いた。

「引っ捕らえた下手人は、【網切の甚五郎】です」

 あみきりの……。千鶴が心の中で呟いていると、天野達は席につきながら説明を始めた。

「こいつは、盗賊の大親分でございましてね。加賀の倶利伽羅を根城にしてる者で。物心ついた時から盗みを始めたっていいますから。ご一新前からですよ。上方、尾張、越前越後。奴はずっと諸国を盗み行脚でございます」
「奴は盗みに入って、家中を皆殺しにする。酷いときは焼き討ちです。その手口がね。女子供を袈裟懸けに斬って、さらに心の臓を突く、喉を突く。極悪非道もいいとこの残忍な奴で」

 千鶴は、手で口元を覆って言葉も出ない様子だった。

「甚五郎は、ここのところ大口を狙うのを止めて、極々手つきの手下だけで押し入り仕事に精を出し始めやして」
「それも、手下は南京人や南方人を使ってるんでございますよ」

 普段は乞食の格好で街中をうろついて、普通の民家の家の様子を伺う。めぼしい家を見つけたら、夕暮れに押し入る。この手下は曲芸なんかをやってる男でね。塀や壁をひょいひょいと登って逃げていく。

「まあ、そんな……。それでどのように捕まえたんですか?」

 千鶴が訊ねると。天野は待ってましたとばかりに、身を乗り出した。

「そこで岡っ引きヤスとスケの出番でございます」
「あたしたちはね、奥さん。こう変装して見廻りをしましてね。浮浪者の体ってな感じで。なっ」

 そういいながら、天野は隣に座る津島に話しかけた。津島は、隣で正座したまま頷いていた。

「変装なさったんですか?」

 千鶴が、お盆を抱えたまま訊ねると。「そうでございます」と得意そうに天野が続ける。

「こんな巡査の格好して歩いていたら、悪党どもはその界隈から逃げだしますからね。それで、隣町でも襲われたら、元も子もねえってやつです」

 津島は、すらすらと喋る天野の傍で、じっと頷いている。

「こいつなんかね、こう、顔に泥をなすりつけてね、髪もぐしゃぐしゃにして着古した着流しで歩くもんですから、もう完璧でございますよ」

 そう云いながら、天野は津島の頭をぐしゃぐしゃにして見せた。津島は、嫌そうに天野の手を払うと、頭を揺すって元に戻した。

 斎藤は、二人が話す間に台所から五升徳利を持ってきて、湯飲み茶碗を並べるとなみなみと酒を注いだ。

「今日は二人ともご苦労だった」

 静かにそう言うと、斎藤は杯を部下に勧めて改めて乾杯をした。千鶴は斎藤の上機嫌な様子を見て微笑んだ。続きを教えてくださいと一言部下の二人に伝えて、台所に酒の肴を作りに入っていった。

 それから斎藤と部下は大いに呑んだ。千鶴の並べる肴は、鰊の山椒漬けや板わさ、香の物、煮奴と酒が進むものばかり。窃盗団が乞食の格好で街中を練り歩いているのを見つけた天野と津島は、周到に後をつけて盗み宿を突き止めたらしい。

「志那の虎三ってのが、南京人の曲芸師でさあ。こいつが、狙う家の錠前を細工するのに、宿と外を行ったり来たりで見るからに怪しい。奴は、乞食の格好のくせに、足は藍の地下足袋」
「裏に皮が張ってある上物でした」

 津島が、継ぎ足すように隣で説明する。千鶴は、津島を見て感心した様子で、はあ、と頷いていた。斎藤は、黙ったまま、ずっと話を聞いて酒を呑み続けていた。

「スケさんとあたしでね、手分けをして張ったんでございますよ。谷中の盗み宿と上野でね。そうしたら、奴さんいよいよ今日上野の庄屋の母屋にね。午の日中に押し込むって算段です」

 天野は、お膳に盗み宿の場所と庄屋の場所に箸置きを置いて説明している。

「盗み宿に、周到に母屋の間取り図まで残してましたから」

 津島がぼそっと説明をすると、千鶴は「まあ、間取り図まで」と驚いていた。

「スケさんなんて、宿の客の振りして盗み宿に忍び込んでね。盗み道具を研いでる様子まで見たってんですから。な、スケさん」

 天野は大興奮で話が止まらない。今日の正午に母屋の庭に押し込んだ瞬間を天野と津島で捕らえたと。

「二人だけで制圧したのは、大したものだ」

 斎藤が満足そうに微笑むと、津島は照れくさそうにしながらも心底嬉しそうに笑って頭を下げた。

「それもスケさん、盗賊の地下足袋に前の日に鋏を入れて」

 天野が可笑しそうに、くっくっくっと笑いながら話す。親指が剥きだしになるもんで、奴さん走ることも飛びあがることもままならねえ。

「猿の虎三も木に登れなければ、お仕舞いでさあ」

 残りの甚五郎は、大太刀振り回して来ましたが、奴の太刀筋もただ上から振り上げるだけの単純なもんでしてね。

 鬼の主任が振るう木刀に比べたたら、竹串みたいなもんでした。

 そう言って、天野は斎藤の湯飲みに酒を注ぐと、「主任のお陰です」と頭を下げて礼を言った。

「稽古をつけて貰ったお陰で、自信を持てた。もっと精進します」

 酔っ払いながらであるが、天野の眼は真剣だった。斎藤は、「ああ」と返事をして杯を受けた。千鶴は、斎藤がとても嬉しそうにしているのがよく判った。斎藤が持ってきたのは、左之助が伊予から持ち帰った五升徳利で、見事な焼き物だった。中の清酒も飛び切りの上物らしく、一度左之助と開けて呑んだきり、祝い事にとっておくと大事にしまっていた。その五升徳利を余すことなく、部下と楽しんで呑んでいる。余程嬉しいのだろう。

 ご苦労様でございました。これで、安心して過ごすことができます。
 本当に有り難うございました。

 千鶴は、斎藤の部下に畳に手をついてお礼を云った。ここ数週間の間、押し込みに襲われたらと気が気ではなかった。千鶴だけに限らず、ご近所中が不穏な空気に包まれ戸締まりを厳しくと呼びかけあって怯えていた。不安な日々がなくなる。こんなに嬉しいことはなかった。夫とその部下がまた守ってくださった。有り難いこと……。千鶴に改めて礼を言われた部下二人は、心底嬉しそうにしていた。

 千鶴は、味噌をつけて焙ったおむすびを用意した。

 田楽むすびに熱い番茶

 斎藤の大好物だ。厚めに切った沢庵をそえて出すと、斎藤の頬が綻んだ。早速、鉄瓶から番茶を結びにかけて崩して食べ始めた。部下の二人も見よう見真似で食べ始めると、美味い美味いと声をあげて喜んだ。翌日は、特別に、遅い時間の出勤を言い渡されていた斎藤達は夜更けまで起きていた。千鶴は、診療所の奥の間に寝床を用意して、部下に泊まって貰った。

 翌日の朝、斎藤は床から起き出すと中庭に出た。暫くすると、千鶴が薙刀を持って現れた。盗賊が摑まっても、稽古は続けるようだ。

 倶利伽羅峠では、七騎。
 義仲さま(はじめさん)をお守りするため
 ぜったいに負けませんから

 毎回、謡曲の台詞なのか、千鶴は訳のわからぬ事を呟いて張り切る。斎藤はそれが頬笑ましくて、つい頬が緩むのだが、千鶴はそれが気に入らないのか、本気で突いて来る。途中で、起き出した豊誠までが木刀を持って加勢してくるので、相手をするのに手が折れた。だが、一生懸命自分に向かう二人の姿が斎藤は愛おしくて堪らなかった。

 誰からもけっして
 其方達を傷つけさせはせぬ

 斎藤は、二人の剣を受けながら心の中でしっかりと誓っていた。

つづく

おまけの話

****

坊やと木刀

明治八年長月

 十月の始めの午後、突然土方が診療所に現れた。

「坊主の顔を見に来た」

 そう言って、居間に上がるといつもの如く豊誠と一緒に遊び始めた。豊誠は、一つ身の着物にズボンのようなものを履いて、その上から千鶴が縫った木綿のかっぽう着のようなものを着ていた。袖付きの前当てを背中で紐を結ぶもので、遊ぶ時や馬の世話をするときに着物が汚れずに済んだ。

「かーたん、おしっこ」

 豊誠は、左之助が診療所に現れた日に厠で用を足すことを覚えて以来、ちゃんと千鶴に報せるようになった。土方は、豊誠が自分でズボンを脱いでお尻を出したのに感心していた。千鶴が慌てて厠に連れて行くと、土方はわざわざ便所の中までついてきて、「てえしたもんだ。坊主、偉いぞ」と褒め称えた。

「しーしーしーが出来りゃあ、一人前だ」

 手水場で手を洗う豊誠の頭を撫で回した土方は、これなら日野に連れていけるなあと呟いた。

「なあ、千鶴。俺はこれから日野に向かう。坊主を連れて行ってもいいか?」

 土方が廊下を歩きながら千鶴に訊ねた。

「日野でございますか?」

 千鶴は驚いた。日野までは、馬車でも半日はかかる。こんな午後遅くにとなると、たどり着くだけでも夜になるのでは、と思った。

「ああ、彼岸に帰りそこねたからな。久しぶりに、姉上のところにな」
「坊主は、厠で小便が出来るんだ。一日二日母親から離れても平気だろう、な、坊主」

 土方は、豊誠だけを連れて日野に泊まりがけで出掛けると決めているようだった。千鶴は、急な話だったが、直ぐに準備をしますと言って、着替えと家にある手土産に出来るものを風呂敷に包むと、土方に渡した。

「府中村まで馬を見に行こうな」

 土方は、馬車に子供と乗り込むと直ぐに御者に車を出すように指示した。千鶴は子供に「かーたん」と窓から呼ばれた。子供は土方に右手をもたれて無理矢理手を振らされていた。馬車が動き始めて、千鶴は自然に馬車を追い掛けて行った。子供の顔は直ぐに窓の向こうに消えて見えなくなった。

「ぼうや、良い子にしているのですよ。かあさま、待っていますから」

 馬車がどんどんと通りにでて走っていくのを、千鶴は草履履きのまま追い掛け続けた。追い掛けながら眼から涙が溢れてきた。坊やが遠くに行ってしまう。千鶴は、町外れまで走っていった。道の向こうにどんどんと小さくなる馬車を見送りながら、橋のたもとで足を止めると前掛けで顔を覆って、恥ずかし気もなくおいおいと声を上げて泣いてしまった。通りを行き交う人が、千鶴を奇異なものを見る目で見ていたが、暫くすると動揺していた気分も落ち着いて、とぼとぼと家に引き返した。

 夕方、斎藤が馬を連れて診療所に戻った。千鶴は、土方が日野に子供を連れて出掛けてしまったと話すと、夜ご飯の時間までに土方の実家まで辿り着くことが出来るのだろうかと心配した。

「日暮れまでには着く距離だ」

 斎藤は、そう言うとお勝手で水瓶から水を掬って呑んだ。そして再び腰に刀を差して署に戻ると云った。

「今日、お帰りは?」

 千鶴が、門に見送りに出ながら訊ねる。

「いつもどおりだ」

 斎藤が、答えると。「いつも通りって、何時ですか?」と千鶴が斎藤の襟元の埃を摘まみながら、肩を払った。

「そうだな、九時か十時頃だ」
「そんなに、遅くなるんですか」

 千鶴は不満そうにそう言うと口をつぐんでしまった。泣きそうな顔をしている。

「どうした」

 斎藤が千鶴の様子に気づいて訊ねると、千鶴はぽろぽろと眼から涙を流している。

「だって遅いじゃありませんか。もう暗くなるのに……」

 斎藤は、門の中に千鶴と戻って、門柱の影で千鶴を抱きしめた。

「できるだけ早くに帰る」

 そう言うと、千鶴はこっくりと頷いていた。上から見下ろした千鶴は、小さな子供のように佇んでいる。昔から変わらぬ。泣き出すと、幼子のようになる。斎藤は、千鶴の額に軽く口づけた。

 斎藤は、門を出て走って署に戻った。鍛冶橋への報告も早めに出向いて済ませると、飛んで家に帰った。千鶴は、落ち着いた様子で夕餉を作って待っていた。二人で食事を済ませると、夫婦で風呂に入った。

「わたしが夕飯を作っていたら、沖田さんが外から帰ってきて」

 湯舟の中で、斎藤の腕の中に座った千鶴が話始めた。

「僕、今日は夕餉いらない。明日の朝まで外だから」

 台所の土間に座ってそう言うと、振り返りざまに、沖田さん笑いながら仰ったんです。

「坊やがいない間、夫婦水入らずで仲良くね」

 仲良くねって。千鶴は、湯を掬って斎藤の肩にかけながら笑った。最近、総司はよく千鶴に話し掛けるようだ。斎藤も総司に話しかけるが、なかなか総司は喋らない。相変わらず総司は気紛れな奴だ。斎藤はそう思ったが、確かに、夫婦二人きりで夜を過ごすのは、子供が生まれて以来初めての事だった。斎藤は、千鶴を抱えて湯から上がった。朝まで思う存分。斎藤は、思う存分千鶴を床で可愛がった。



***

 翌日の夜遅くに土方は子供を連れて小石川に帰って来た。

 馬車からぐっすり眠ったままの坊やを下ろした土方は、そのまま布団に子供を寝かしつけた。馬車から下ろした荷物と一緒に木刀を持って居間に現れた土方は、千鶴と斎藤に木刀を見せた。

「兄貴に頼んで作らせておいた木刀だ。豊誠に使わせてやって欲しい」

 日野の道場で門弟に剣術を教えている土方の義理の兄は、土方が豊誠を連れて帰ったことを殊の外喜んでいたらしい。

「斎藤くんの嫡男か。末頼もしい」と云っていた。土方はそう話すと、坊主が木刀を振って、道場の壁と床に大きな穴を作ったと笑っていた。

「豊誠は、いい剣士になる」

 そう云って満足そうに木刀を斎藤に渡した。斎藤と千鶴は土方に礼を言うと、土方はまた来ると云って二人が引き留めるのも聞かずに御殿山へ帰ってしまった。

 翌朝、布団から起き出した子供は、「かーたん」と呼びかけて飛びついてきた。千鶴は坊やを抱きしめた。

「豊誠、おかえりなさい」
「かあさまは、ゆたちゃんが戻ったのが嬉しい」

 子供は抱きしめられ頬に何度も口づけられた。喜びの声を上げる子供を、今度は斎藤が抱き上げた。

 何度も下から天井高くに放り上げられて、子供はきゃっきゃと声を上げて喜んだ。斎藤が、中庭で木刀を振り出すと、「ぼうやも」と云って、豊誠は木刀を持って中庭に降り立った。斎藤と並んだ小さな子供が木刀を振る姿は、愛らしく。千鶴はいつまでも眺めて居たいと思った。

 気がつくといつの間にか総司が外から戻って来ていた。

 木刀を振るう二人を御影石の上に座った総司も、満足そうに口角を上げてじっと眺めていた。



つづく

→次は 明暁に向かいて その21




(2018.09.10)

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