赤い懐鏡(後編)

赤い懐鏡(後編)

明暁に向かいて その28

明治九年十月二十九日

 斎藤を乗せた馬車は未明に診療所の門前にたどり着いた。

 黒江と呼ばれた男は、斎藤を抱えると馬車の荷台からゆっくりと降ろした。

「藤田殿、ご自宅です」

 そう言いながら黒江は斎藤を抱えるように歩くと、玄関戸をバンバンと大きな音をたてて叩いた。

「御免。お頼み申す」

 直ぐに千鶴が出て来た。「はじめさん」と叫んだ千鶴は、黒江と一緒に正体をなくしている斎藤を抱えて診療所に連れて行った。千鶴は、おろおろとしながらも、手際よく斎藤の様子を確認して、右腕の傷を確かめた。

「傷は浅い。でも縫合します。その方が治りが早い」

 千鶴はそう呟きながら、縫合の準備をしている。斎藤の身体は発熱していた。

(はじめさん、意識がないのは、失血からかもしれない)

 恐れのあることは全て考え尽くした。家にある薬と薬草で今晩は対応しよう。

 落ち着いて、落ち着いて

 そっと心の中で唱え続ける。動揺してはならない。はじめさん、はじめさん。千鶴は、目に涙が溢れてくるのを堪えた。千鶴は、夫を運んできてくれた人。傍に立つ黒江に初めて気が付いた。

「すみません。ご挨拶もしておりませんで。主人を運んで下さり有難うございます」

 千鶴は、斎藤の制服を脱がせながら頭を下げた。黒江は、斎藤の身体を支えるのを補助しながら、 「自分は警視庁鍛冶橋本庁所属【黒江安彦(くろえやすひこ)】ち申します」と名乗った。

「黒江様、主人は刀で斬られた後に気を失ったのでしょうか」

 千鶴は黒江に尋ねた。黒江は、自分が駆け付けた時には、既に血を流して倒れられていて、と状況を説明した。銃の発砲した音が聞こえたけれど、どこも撃たれた様子はない。そう言って、斎藤を静かに寝かせると、千鶴が傷を手際よく縫うのを見ていた。

「主人の傷は、これで。あとは熱を下げなければ」

 そう言いながら、千鶴は濡れ手ぬぐいで、斎藤の顔や首筋を拭ってから額を冷やして、掛け布団を掛けた。

「黒江様、すみません。お手当をいたします」

 そう言って、千鶴は黒江の傍に立った。黒江は、「自分はどこも怪我はあいもはん」と言って微笑んだ。

「藤田先生には、剣術の稽古でお世話になっちょります。おいは、鍛冶橋に先生の容態を報告しに」

 そう言って、踵を返すように診療所の玄関に向かった。またご様子を見に伺います。そう言って、深々と頭を下げて帰って行った。黒江の馬車が門前から消えて行ったあと、千鶴は再び斎藤の元に戻った。熱さましの薬草を煮だしたものを冷まして吸い飲みに入れ替えた。少しずつ、唇を湿らせるように与えたが、飲み込む様子がないので、口移しで何度も与えた。そうやって、用意した煎じ薬を斎藤は全て飲み終えた。

 制服を全て脱がせて、斎藤を下着姿のまま布団に横にならせた。衣文掛に上着を掛けた時に、胸ポケットから懐鏡が出て来た。ハンカチが破れて黒ずんでいる。千鶴は、もう一度行灯の傍に上着を持って行って確かめた。ポケットには大きな穴が開いていた。丸く破れたような穴。ハンカチは黒ずんでいる。中の鏡は漆の蓋が真っ二つにひび割れていた。中の鏡は片側が割れて、合わせ側には真ん中に穴があいたようなひびが入っていた。

 千鶴は、斎藤の元へ駆け寄った。布団を剥ぐって斎藤の左胸を見た。大きな赤黒い内出血の痕。

 ここに
 銃弾が……。

 千鶴の眼から涙が一気に溢れて来た。はじめさん、はじめさん。

 よくぞご無事で

 千鶴は、斎藤の胸にすがりついて声を立てずに泣き続けた。



****


総司の行方


 翌朝、千鶴は斎藤の布団の傍で目が覚めた。斎藤は、静かに眠っていた。まだ高い熱がある。そっと額を触った後、再び濡れた手拭いで額を冷やした。

 台所に行って重湯を作った。それから再び熱さましの煎じ薬と、化膿止めの薬を用意した。
子供が起きて来たので、着替えさせて朝食を食べさせた。奥の間に斎藤の布団を用意した。診療所で眠る斎藤の元へ戻ると、斎藤はゆっくり目を開けた。

「総司は」

 掠れた声で千鶴に話しかけた。千鶴は、「沖田さんは、お戻りになっていません」と答えた。

 賊徒二名が捕まったそうです。はじめさんが押さえた人は、鍛冶橋に連行されて。逃げた賊徒は、すぐに捕まるそうです。

 千鶴は、黒江から聞いた通りのことを斎藤に話した。斎藤の息は浅く、苦しそうだった。

「樫村は」

 斎藤は尋ねた。千鶴は、「樫村さんはご無事です」と答えた。斎藤は、「ならよい」と答えると起き上がろうとした。千鶴は、斎藤の肩を押さえて横にならせた。

「まだ、熱があります。無理はなさらないでください」

 そう言うと、熱冷ましの煎じ薬を飲んでくださいと言って、吸い飲みを口に与えた。斎藤は、一気に用意した薬を全て飲み干した。

 千鶴は、目に精綺水を注したいからと斎藤の眼帯を取って、右目を消毒してから目薬を差した。斎藤の右目の眼球は真っ赤で、瞼の腫物も真っ赤に腫れあがっていた。熱はここから全身に拡がっているようだった。千鶴は、井戸水を汲んできて目の上に濡れ手ぬぐいをあてて冷やした。

 斎藤は、横になったまま口に匙で重湯を流してもらって飲んだ。千鶴は、右腕の傷の消毒をして包帯を付け直してから、斎藤に奥の間で休むことが出来るよう用意してあると知らせた。斎藤は、ふらふらと起き上がると千鶴の介添えで厠を済ませて、奥の間に移動した。

 千鶴は斎藤を寝間着に着替えさせた。左胸に膏薬をつけて包帯を巻いた。斎藤が気にするので、鍛冶橋と虎ノ門には自宅で手当てをして休んでいることを知らせたと話した。斎藤は大きく溜息をついた。まだ呼吸が浅くて辛そうだった。

「どうか、安静になさってください」

 千鶴がそう言いながら、濡れ手ぬぐいで額と眼を冷やした。

「総司を見かけた後……賊徒と乱闘になった……。正面から撃たれた」

 千鶴は斎藤が短い息で話すのを聞いた。沖田さんが。夕べ、はじめさんと一緒に……?千鶴は驚いた。そう言えば、日本橋で見かけてからずっと沖田さんは帰っていらっしゃらない。

「それから……何も覚えておらぬ……」

「……相手は四名、二人取り逃がしたのか……」

 斎藤は、はあはあという息の合間に呟いていた。千鶴は、斎藤の手をとって、「すぐに捕まりますから」と励ますように話しかけた。その時、玄関で郵便夫が「電報です」と呼ぶ声が聞こえた。千鶴は、急いで玄関に走っていった。

「ご苦労様です」

 千鶴は電報を二通受け取った。

ケイカイタイセイジタクタイキヤスメ

 虎ノ門署からは自宅待機で休むようにという指示だった。

ゾクトイチブホバクセイヨウセヨ

 鍛冶橋の川路大警視からは「静養せよ」との指示を受けた。千鶴は斎藤の元へ戻り、電報を読み上げた。斎藤は黙って頷くと、そのまま静かに息を吐くようになった。ようやく眠りについた斎藤の上掛けをそっと整えると、千鶴は居間で独りで遊んでいる息子のところへ戻った。昨日の野分のあとで、庭が荒れていた。子供を中庭で遊ばせながら、庭の片付けをした千鶴は、診療所の玄関先に人力が止まったのを見かけた。

 人力から降り立った人は、早稲田蘭疇医院の青山だった。千鶴の姿を認めると玄関前で会釈をして挨拶をした。

「鍛冶橋と陸軍兵営の山川様からの連絡で、ご主人の診察に伺いました」

 千鶴は心から安堵した。朝のうちに医者を呼びに行こうと思っていた矢先のことで、千鶴は青山医師を奥の間に案内して、斎藤の負傷した部分、右目の腫物、全身の容態を全て診て貰った。

「刀傷ですが、幸い傷は浅い。縫合は十日もすれば抜糸できるでしょう。消毒と包帯を朝晩換えてください。胸の打撲は骨にも、心臓、肺にも影響はない。ここは軟膏をつけて安静にしておけば、すぐに良くなる」
「瞼の腫物は、麦粒腫(ばくりゅうしゅ)。軟膏をだします。化膿止めの煎じ薬も。消毒をしてください」
「精綺水を使ってもよいでしょう」
「発熱は安静にしていればすぐ下がるでしょう。体力が落ちておられる。睡眠を。重湯、甘酒、おかゆを少量ずつ。沢山の白湯を」

 千鶴の用意していた熱冷ましの薬草はそのまま続けて煎じて飲ませるように指示すると、青山は、陸軍と鍛冶橋に診断結果を知らせておく、また様子を見に来ると言って帰っていった。

 縁側の廊下にある総司の食事処。千鶴は水がめから新鮮なお水を汲んできて、片側の木のお椀に水を注いだ。子供が上り口の御影石に登って、それをじっと見ていた。

「沖田さん、ずっとお戻りならないね。一体どこにいるんでしょう」

 千鶴がそう子供に話しかけると、子供は

「そーじは、おしごと」

 そう言って微笑んだ。千鶴は、子供に聞き返した。

「沖田さん、お仕事に?」

「うん、おしごと」

 子供は嬉しそうに頷いている。よく、豊誠は父親が仕事で家を空けている間、千鶴に「とーたん、おしごと、じゅんさつ」と斎藤が不在なことを、子供なりに納得している様子をみせる。だが、総司に関しては、時々、不在の総司がどこに居るのかを知っている様子を見せる時があった。

「そーじ、おでかけいったった」

 そう言って、独りで厩で遊んでいることもあった。総司が家に戻ってくるのを知っているかのように振る舞うことがあった。独りで遊んでいた豊誠が突然、

「かーたん、そーじのごはんは?」

 と訊ねてきて、縁側の木の茶碗に食事を用意しろというので、残飯にしらす干しをまぶして作った。子供も水入れをゆっくり一緒に運んで、縁側の食事処に並べると、中庭の塀にひょいと総司が現れた。そして、ゆっくりと微笑むような表情で中庭を横切って縁側に上がって来た。千鶴は、坊やが猫が戻ってくるのを先に知っていたことが不思議でたまらなかった。じっと坊やの様子を見ていると。ぴちゃぴちゃと水を飲む猫の背中を嬉しそうに撫でていた。

 今もまるで、総司が仕事にでていて不在だと納得しているかのようだった。いつもは猫の姿がみえないと、「そーじ、そーじ」と必死で探しまわる。千鶴は、子供に確かめてみた。

「沖田さんは、ご無事なの?」

「うん」

 そう頷いて笑っている。不思議な事だが、子供は本当に総司の所在を感じ取っているかのようだった。千鶴はほっとして、「早く、お戻りになりますように」と水を入れたお椀を縁側の縁に並べた。子供は御影石から下りると、厩に向かって走っていった。



*****

多生のことわりの中で


 奥の間の斎藤は、それから夜まで眠り続けた。虎ノ門からの電報では「厳戒態勢」とあったが、ここ小石川界隈は普段と変わった様子はなく静かだった。逓信部の山形からも特に報せが届く様子もない。千鶴は辺りに警戒しながら、庭の片付けをして、麹屋に甘酒を買いに走った。斎藤の熱は依然高いままだった。右目の腫れは幾分か引いたが、眼球の熱は収まらない。夜に目覚めると、再び息苦しそうに短い息をしていた。ふらふらと立ち上がって、なんとか厠に行けたが、再び力なく横になった。

「身体に力がはいらん……」

 口元に耳を近づけると、そう言っているのが判った。千鶴は、「熱が高いからです。なにもお腹に入っていないから」といって、甘酒を少しずつ匙で与えた。それから、再び熱さましの煎じ薬を飲ませた。塩をいれた重湯も飲ませた。斎藤は、再び眠りについた。布団の中に手をいれて、千鶴は斎藤の手を握り続けた。ここまで弱っている斎藤を千鶴は初めて見た。屯所で生活していた時も、無理が祟って寝込むことはあったが、高熱や、酷い怪我をしても決して弱った様子を見せた事がなかった。病気で呼吸が浅い斎藤に接するのは初めてのことで、それが一番千鶴を不安にさせた。青山医師の見立てでは、発熱の心配はいらないということだが、明日の朝になっても容態が変わらなければ、もう一度先生に診に来てもらおう。そんな事を考えながら、千鶴はうたた寝をしてしまい。気づくと、もうとっくに夜中を過ぎていた。

 斎藤の熱は、相変わらず高いままだったが、息は静かでぐっすりと眠っていた。念の為に口元に吸い飲みを持っていくと、斎藤は眠りながら少しずつ白湯を呑んでいった。

(今晩が峠かもしれない……)

 千鶴は、もう一度井戸に冷たい水を汲みに行こうと縁側に出た。ぼんやりとした雲にかかった月がほんのりと夜空を灯していた。空を見上げていた千鶴は、気づくと目の前に猫の総司が佇んでいるのに気付いた。ちょうど診療所の玄関から戻って来たかのように。じっと千鶴を見上げる総司の身体は、ぼんやりと薄い緑色の光を身体から放っていた。

「沖田さん、ご無事で。よかった。お戻りになったんですね」

 千鶴が駆け寄ると、「うん」と総司の声が聞こえた。それはしゃがんだ千鶴の頭上から聞こえた。千鶴が見上げると、そこに総司が立っていた。

「沖田さん」

 千鶴は思わず総司に呼びかけて駆け寄って行った。沖田さん、沖田さん。千鶴は顔をくしゃくしゃにして、総司の両腕にすがりつくように捕まると、ずっと名前を呼び続けた。涙がとめどもなく溢れる。沖田さん、ご無事で。

 総司は微笑みながら千鶴を見下ろしていた。「僕はここだよ」そう言って、千鶴が名前を呼び続けるのを見ながら、それを可笑しそうに笑って返事をしている。よく見ると、総司はちっとも変っていなかった。深緑の筒袖を着て、すっくと立つ姿は精悍で、腰には二本差し。髪は斎藤と同じように下ろして断髪してあった。無造作に顔にかかる前髪は、猫の毛と同じ色で、そこから千鶴に微笑む翡翠色の瞳もちっとも昔と変わっていなかった。

「沖田さん、すぐにお夕飯を用意します。外は寒かったでしょう」

 千鶴が総司を促すように縁側に向かって、さあ、と誘っても、総司はじっと立ったまま動かなかった。

「僕、行かなきゃならない」

 総司は、微笑みながら千鶴に言うと、踵を返そうとした。千鶴は、はっとして総司に駆け寄った。

「待ってください。どこに。奥の間ではじめさんが待っています」
「はじめさん、どんなに喜ぶか。沖田さんの姿を見たら、きっと熱も下がって直ぐに元気になります」

 千鶴は捲し立てるように総司を引き留めた。

「はじめくんとは、いつも会ってるよ」

 総司は微笑みながら呟いた。

「毎晩のように、ここで手合わせしてる」

 そう言って、中庭を見まわした。千鶴は、驚いた。毎晩の手合わせ……。はじめさんと沖田さんが……。

「はじめくんは、大丈夫だよ」

 そう言って、総司は、くすっと笑った。

「はじめ君には、しぶとく生きて貰わないとね」

 まるで冗談を言うように、総司は微笑みながら踵を返した。

「どこに行かれるんですか。ずっと何日もお出かけになられていて……。休んでください」

 千鶴は再び総司の腕をつかんで引き留めた。行かないで。行かないでください、沖田さん。涙がまた溢れてくる。総司の右手の長い指が千鶴の頬に触り、ゆっくりと涙を拭った。

「生まれるんだ」

 総司は微笑みながら千鶴に優しく話しかけた。

「僕の子」

 そう言って、塀の向こうを眺めた。千鶴は何のことだかわからない。ただ、ぼんやりと総司の言った言葉を心の中に繰り返した。生まれるんだ、僕の子。生まれる……僕の子。

「僕にも」

 総司はまた千鶴に向き直ると、頬に手をあてて涙を拭いながら笑った。

「命がね、繋がっていくんだ」

 微笑む総司の瞳は優しく、じっと千鶴の瞳を見据えた。

「多生のことわりのなかでね」

 そう言うと、ゆっくりと千鶴の頬から手を離した。千鶴は、ハッとしたような表情になると離れていく総司に向かって声をあげた。

「沖田さん、助けてくださったんですね。はじめさんを。あの赤い懐鏡」
「あの鏡のおかげで、命が助かって……」

 千鶴の眼からまた涙が溢れだした。沖田さん、沖田さん。有難うございます。ありがとう。

「……ありがとうございます」

 千鶴は深々と頭を下げて嗚咽していた。総司は千鶴の肩に手をかけて、上を向かせた。

「鼻水でてるよ。子供みたい」

 鼻で笑いながら、総司は懐から手ぬぐいを出して、涙を拭うと、千鶴の鼻を摘まむようにふき取った。千鶴は顔を拭われながらも、「行かないで、行かないでください、沖田さん」と繰り返している。

「朝には戻るよ。ご飯お願い」

 千鶴は首を縦にふって返事をした。良かった。戻って来られる、沖田さん。

「鯵のほぐし身とご飯ね」

 そう言って、総司は微笑んで背名を向けた。千鶴が「作って待ってます」と背中に応えると。総司は振り返って、

「骨は取っておいてね。ぜいごも」
「あれ、喉にチクチクするから」

 そう言って、御影石をひょいひょいと飛び越えながら塀に向かっていった。千鶴の足元の猫も一緒に塀に向かってひょいと塀の上に登った。こっちを見た猫は、口角を上げるように笑うと、ふわふわの尻尾を揺らして塀の向こうに消えていった。いつの間にか人間の総司の姿は見えなくなっていた。


*****


明治九年十月三十日


 朝になって、ようやく斎藤の熱は徐々に下がって来た。

 目覚めた斎藤は、「総司は」と千鶴に尋ねた。

「ご無事です。夕べ、一旦戻っていらっしゃって。朝に戻ると言ってました」

 斎藤は安堵したような表情になった。ゆっくりと千鶴に身体を起こすのを助けて貰うと、そのまま厠へ向かった。昨日より足取りがしっかりとしたように見えた。斎藤が空腹だというので、千鶴はおかゆを用意して布団に横になった斎藤に食べさせた。「美味い」と呟いた斎藤は、茶碗に一杯のおかゆを全部食べ終えた。それから、薬を飲んで再び目を瞑って眠り始めた。

 眼の腫れも引いてきていた。熱も少し下がってきたようだった。千鶴は、濡れ手ぬぐいで額と右目を冷やして、そっとしておいた。昼前に、総司が縁側に戻ってきた。千鶴は約束通り、鯵のほぐし身をまぶした冷ご飯をお椀に入れて用意した。総司はさっそく木のお椀に顔を突っ込むようにして食事を始めた。綺麗に全て平らげると、毛づくろいをしてから奥の間にのっそりのっそりと歩いて入っていった。総司は、斎藤が眠る傍で身体を横たえると、そのまま目を瞑って眠り始めた。そうやって、昼過ぎまで総司と斎藤は二人で眠り続けた。斎藤の熱は順調よく下がり続け、遅い昼餉を食べた時。おかゆを茶碗に二杯分をぺろりと平らげた。瞼の腫れが引いてきた。精綺水を目に注した後、軟膏をつけておいた。腕の傷も縫合部分が膿んだ様子はなく、傷が既に乾き始めていた。千鶴は斎藤が快復の兆しを見せたのが嬉しく、甲斐甲斐しく世話を続けた。その間、総司は斎藤の傍でずっと眠り続けていた。

 その後二日間、鍛冶橋からも虎ノ門からも特に報せがないまま過ぎた。

 斎藤の熱は、ゆっくりと下がって来てはいるが、微熱は続いていた。瞼の腫れはひいているが、右目は酷く充血している。青山医師が再び往診に現れて、薬を置いて帰った。熱はすぐに下がる、おおむね、快復に向かっているから、腕の抜糸まであと数日安静にしておくようにということだった。青山医師は、陸軍兵営と密に連絡をとっているらしく、山川中佐や鍛冶橋の川路にも斎藤の容態は伝わっているということだった。

 それから更に二日が経った。漸く斎藤の熱は下がった。まだ調子が戻らず、力が出ないという斎藤を千鶴は布団に横にならせたまま食事を与え、子供にも奥の間では暴れずに静かにするように言い聞かせた。猫の総司は、変わらずに日中も夜も出掛けていて、子供は持て余している様子だったが、ちょうど逓信部の山形が神夷を診療所に連れて来て、ずっと馬に遊んで貰って満足している様子だった。

 山形の話では、数日前に日本橋で政府圧迫を目的に武装蜂起しようとした士族の捕り物があったという事だった。厳戒令が出るか、出ないかで山形も逓信部に泊まり込みで数日詰めていたが、不平士族の一味の検挙でその心配も無くなった。熊本や山口の変も鎮圧されたので、東京で乱が起きることはないだろうという事だった。千鶴は安堵した。斎藤が目覚めたら真っ先にそのことを伝えようと思った。



**
 
 夕方になって、診療所に斎藤の上司の田丸と部下の津島と天野が訪ねてきた。斎藤は、起き上がろうとしたが、まだ安静にと千鶴が制止したため、そのまま奥の間に横になったまま同僚たちに見舞われた。

「さすけねえが?」

 開口同時に田丸が枕もとで心配そうに斎藤の顔を覗き込んだ。斎藤は微笑んだまま、「はい」と答えた。大柄な田丸が胡坐をかいて、「よぐやった、よぐやった」と斎藤を褒めた。

 千鶴が奥の間に入った時、田丸と部下二人は斎藤が撃たれた夜から、賊徒の検挙が始まったと説明をしていた。

「主任が神田で取り押さえたのは【高久進三】、評論新聞の編集者でした」

 高久は逮捕後すぐに鍛冶橋で供述を始めたらしく、新富町の「川島屋」で不平士族が集まり、各地の士族反乱に呼応して蜂起する計画が発覚したという。

 大警視川路は緊急招集を行い、水陸両面からの検索、追跡が行われた。虎ノ門署も署員総出で捜査にあたった。小網町の陸運会社から「思案橋から出る船に怪しい一味が乗船している」と通報があって、十四署の警部たち出動し、河岸で賊徒の首謀者を捕縛したという。

「永岡です。【集思社】の」

 天野がそう言って、「奴は、斬られて死に体だそうです。収監されましたけどね」と付け加えた。斎藤は、黙ったまま話を聞いていた。

 賊徒達は、それでも船を奪って日本橋川に出て、流れに沿って南下、鎧橋の下をくぐって、永代橋手前を左へ箱崎橋、永久橋をくぐって大川へ出た。船を対岸の深川上佐賀町、仙台堀水門の運河に乗り入れた。

「そこで待ってましたのが、十二署の精鋭隊」

 天野が、膝を打って話す様子は講釈師のようで、斎藤は仕方がないといった風情で鼻で笑いながら話を聞いていた。

「どこへいきやがると抜かすが最後、とっ捕まえ、ひっ捕まえて、やりゃあしょまいが、どうでい? サァ、サァ、ササササササ、賊徒どもめ!!ってなもんで」

 芝居がかった調子で話す天野に、上司の田丸も同僚の津島も、呆れて物が言えない様子だった。唯一、千鶴が傍で口元を手で覆って肩を揺らせて笑っていた。

「全員捕まえたのか?」

 斎藤が、遮るように訊ねた。田丸が首を横に振った。

「取り逃がした。だけんじょ、昨日四名捕まえだども。新潟で」

 田丸がそう説明すると、隣の津島が「越後署が検挙したそうです」と呟いた。田丸の話では、その中に斎藤が対峙した【満木清繁】が居るということだった。間もなく東京に移送されて、鍛冶橋に収監されるだろうという事だった。両国広小路と十二署、十四署の手柄だが、今年に入ってから斎藤たちが地道に張り込んでいたのが功を奏した。

「藤田も、天野たちも、よぐやった」

 田丸はそう言って、部下たちを労うと自分は鍛冶橋に今から出向く必要があるからと席を立った。斎藤に、暫く休養する届けは出ているといって診療所を後にした。部下たちは、ほぼ八日ぶりに任務を解かれた。風呂にも四日入っていないと言って、自分たちの制服の襟元を嗅いで、「臭さにも慣れるもんですな」と言ってがはははと笑った。千鶴はすぐに風呂を用意するからと言って、夕飯も食べていかれればと台所に立ったが、部下たちは、病人を世話する奥さんの手を煩わすのは忍びないと言って断った。

「主任、銃で撃たれたのは本当ですか」

 津島が訊ねた。斎藤は「ああ」と答えた。胸に入れていた懐鏡が銃弾を受けて、命拾いしたと答えると、部下の二人は心底驚いていた。

「俺らね、樫村に詰め寄ったんですよ。あの【辛気大王】、俺らが神田で何が起きたって聞いても、ずーーーっと黙ったまんまで」

 天野と津島は、任務が一旦終わった時に、築地に居た樫村を捕まえて、斎藤がどういった状況で倒れたのかを尋ねたらしい。

「俺はね、奴に飯まで奢ってやったんですよ。といっても、蕎麦一杯ですけどね。けへへへ」

 天野が喋っている傍で、千鶴がお茶を差し出すと、再び台所に戻っていった。

「こいつなんかね、辛気小君でしょ。『樫村くん、切り結んだ相手はどれぐらい強がっただが?』なんてね、じれったいったらありゃしねえ」

 天野は、寡黙な樫村だけでなく、津島の津軽弁にまで腹を立てていた。

「樫村の野郎、俺が脇腹小突いて、『なんか言え』と言いましたらね」

 ずずずーーーーーーって音をさせて、蕎麦も汁も全部綺麗さっぱり飲み込んで、黙りこくったまま。俺らがさんざっぱら待って、ひとこと。

「蕎麦は伸ぶっと、まずい」

 これですよ。はじめて喋ったのが。あー、じれったいたらありゃしねえ。

 天野は髪の毛を掻きむしりながら話を続けた。樫村に、津島と二人で詰め寄ってようやく聞きだせたのが、「藤田先生は、短銃で正面から撃たれた」という報告だった。

 根掘り葉掘り聞き返す二人に、「そん後は知らん」と一言答えただけで、任務に黙って戻って行ったらしい。

「あの辛気大王、蕎麦を奢ってやった礼もいいやがらねえ。ふてえ野郎だ」

 天野は鼻息荒く怒っていた。斎藤は、自分が覚えている限りのことを答えた。天野と津島が聞き込みで得た情報で、【満木清繁】が刀を受け出したところを押さえることが出来た。賊徒は、皆手練れだった。一番背後に立っていたものが、短銃を構えた。情けないが、何も見えて居なかった。ぼそぼそと話す斎藤を、二人の部下は真剣な表情で見ていた。

「不思議なものだ、暗闇で何も見えないと思いながらも、【五代金道】は良く見えた」

 斎藤は微笑んだ。「よい刀だ」そう呟くと、遠くを見るように天井をじっと見つめていた。

「っとに、刀馬鹿でございますね、主任は」

 天野は笑いながらそう言った。

「不死身の主任が斬られて倒れたって聞いた時には、耳を疑いましたよ。俺らは樫村の話も信じてませんでした」

 そういう天野の隣で、津島が頷いていた。斎藤は、黙ったまま再び天井をみている。

「ご無理が祟ったんでしょう。稽古もやって特任の張り込みなんて、身体がいくつあっても足りないですよ」

 天野は労いの言葉をかけている。

「ですがね、主任」と天野は胡坐をかいていた足を、ちゃんと正座に座り直した。

「もしものことがあっても、何も心配はいりません」

 真剣な顔で話す天野に向かって斎藤は首を動かした。

「診療所も、奥さんも、坊ちゃんも、私が引き受けますので」

「どうぞ、何も思い残すことなく、逝っちゃってください」

 そう言って、天野は頭を下げた。斎藤は、憮然とした表情をしている。

「どうぞご心配なく、私がここに下宿して診療所をお守りしますので」

 笑いながら当然のように話す天野の隣で、津島が真剣な顔で膝に両腕を突っぱねるように置いたまま大きな声で言った。

「奥さんは、俺がお守りします」

 斎藤は、少し驚いたような顔をしたが、ふっと鼻から息が抜けたような微かな笑いが漏れた。

「なんなら、俺ら二人でここに下宿して、奥さんと坊ちゃんの面倒を見ますので」

 天野はまだかしこまるように話を続ける。

「ですので、いつでも心置きなく逝っちゃってください。ようございます」

 斎藤は、ゆっくり起き上がると、左手で拳骨をつくり天野の脳天を小突いた。

「今はこれで済んでおるが、覚えておれ」

 そう一言いうと、また溜息をついて布団に横になった。まだ、本調子でない斎藤の様子が少し心配になった二人は、養生してください。また来ますと言って、診療所を後にした。



*****

 その夜、陽がくれてから母屋の玄関に人が訪ねて来た声がした。鍛冶橋の黒江安彦だった。夜分の訪問を謝りながら、斎藤の様子が気になったので来てしまったという黒江に、千鶴は何度も助けて貰ったお礼をいいながら、奥の間へ案内した。斎藤は、千鶴から黒江様が見えたと声をかけられて、布団から起き上がったが、黒江はそれを制止した。

「お休み中に訪ねてきて申し訳あいもはん」

 そう言って、頭を下げてから斎藤の枕元に腰かけた。斎藤は黒江の制服を見て、黒江が小警部であることが判った。数日前の朦朧とした記憶。自分を助け起こし、人力夫のひ組の伊佐治と一緒に診療所へ運んでくれた。斎藤が自分を助けて貰えたことに礼を言うと、

「なんでんあいもはん」

 と笑って。「あの夜はおやっとさあでござわした」と答えた。鍛冶橋や両国広小路の巡査たちが話す薩摩言葉には、大分慣れてきている斎藤だが、まだまだ相手が何を喋っているのか明確に理解することは難しい。特に初対面同然の黒江とどれぐらい意思の疎通ができるのか。斎藤は、いつもの巡察任務や陸軍での剣術稽古で関わっている薩摩言葉を話す士族たちのことを思い出していた。

 千鶴が黒江にお盆からお茶を差し出すと、黒江は礼を言って一服した。そのまま千鶴は、そっと子供を連れて居間に戻って行った。千鶴の姿が見えなくなるのを、背後の気配を確かめるようにじっと黙っていた黒江は、湯飲みを畳に置くと、そっと斎藤の枕元の傍に寄った。

「鍛冶橋に収監した賊徒が供述を始めちょう。萩の乱の首謀者と暗号文を電報で送って決起した」
「川路先生は、西南の風雲急を心配しちょらる」

 賊徒追討を目指す。

 黒江は明日の早朝の船で熊本へ向かうと斎藤に話した。熊本の変で命を落とした熊本鎮台の司令官は黒江の身内同然。弔いを済ませたら、そのまま鹿児島へ行くという黒江は、自分には大事な任務があると言った。

「鹿児島の伊集院村が自分の故郷じゃっどん。政府への不満分子がどんどん増えちょう」

「川路先生の命令じゃ。鹿児島を見張る必要がある」

 暫く鍛冶橋を離れますという黒江は、斎藤に頭を下げた。

「川路先生をよろしゅうたのみあげもす。両国広小路からも鍛冶橋からも任務にあたって帝都を離るっ者がこれから増えて行く」

 斎藤は黒江の口調から、新たな重い任務に目の前の小警部が就いていくのだと判った。自分のような一介の巡査に自宅まで訪ねて来て話す。何か重要な理由があるのだろうと思った。

 そこへ、千鶴が再び温かいお茶を持って現れた。黒江は千鶴が斎藤の傷を手際よく手当てする様に非常に感銘を受けたと話すと、「藤田先生のご新造は、負傷巡査の刀傷を縫って感謝状を貰った御仁だと聞いちょりました」と言って笑った。そして斎藤と千鶴に自分はしばらく鹿児島に帰郷しますが、戻りましたら、また藤田先生に剣術の稽古をつけてもらうのを楽しみにしているといって、診療所を後にした。

 黒江が去ったあと、斎藤は暫く考え事をしているようにじっと天井を見つめていたが、隣に千鶴が床を並べて横になると、安心したように目を瞑って朝までぐっすりと眠った



****


この刹那を



 翌朝、斎藤の熱は完全に下がった。斎藤は、起き上がって自分で食事をしたいと言った。千鶴は消化のよい食事を用意した。

「居間で横になりたい」

 斎藤がそういうので、千鶴は居間に布団を敷いた。斎藤は、ここは随分と明るい。そう言って、居間で横になりながら開け放った障子の向こうで、子供が走り回る様子を眺めた。

 千鶴が、薬を用意して斎藤の眼を手当したいと言った。斎藤はじっと仰向けになったまま、千鶴に精綺水を注してもらい、膏薬を瞼につけてもらった。優しく髪の毛を梳かしながら、千鶴はそっと晒しを右目の上に載せて眼帯をつけようとした。斎藤はその手をとって、左手で晒しを取ってしまった。

「覆いはいらぬ」

 斎藤がそう言うと、千鶴は「でも、髪がかかると、また悪くなってしまいます」と心配そうに顔を覗き込んだ。だが、斎藤は小さく首を横に振った。


 鉄砲で撃たれた瞬間、後悔した。

 あの日の朝、診療所を出る時に俺は千鶴の顔を見なかった。
 
 真剣な眼差しで呟く斎藤に、千鶴の動きは完全に止まった。

「胸に衝撃を受けた時、【死】の匂いがした。羅刹だった頃に嗅いだ匂いだ。決して忘れぬ。衝撃を感じながら、俺は酷く後悔した。最後に別れたあの朝、俺は見ていなかった」

 千鶴の顔を……。

 だから眼帯はいらぬ

 千鶴の眼から涙が溢れてきた。「そんな事、言わないでください……」千鶴は斎藤の手を握りしめながら、ぽろぽろと両の眼から涙を流した。

「命は惜しくはない」

 斎藤は静かに告げる。

「職務の上だ。とうに覚悟は決めている」

 そう、はじめさんは、ずっとそう……。昔からだ。千鶴の涙は止まらない。斎藤は、千鶴の頬にかかる髪を横に優しく撫でると、頬を手のひらで包み込むようにして親指で流れる涙を拭った。


「京に居た頃、決めた……」

「おまえを守ろうと」

 それ以来、ずっと傍で見守ってきた。

 千鶴は頷くように斎藤の瞳を見つめ続ける。はじめさん、はじめさん、どうして、こんな事を急に。嫌です。お別れみたいで。

 喉に重い塊が突き上げてくる。千鶴の涙は止まらない。

 斎藤は、少し首の向きを変えた。更に自分の顔を千鶴に近づけるように、そっと覗き込む。優しい深い碧い双眸が包み込むように。

「いつも出勤の時、必ず、振り返って千鶴の姿を見るようにしている」

 昔からだ。屯所に居た時も。門の際まで見送りに来る姿を確かめてから巡察に出ていた。おまえは笑いながら手を振るときもあった。箒を持って、踵を返して門の向こうに消える時もあった……。見送る姿は今も変わらぬ……。

「だがあの朝、俺は振り返らなかった」

 意識をなくす瞬間、それを後悔した。

 だから眼帯はいらぬ
 ちゃんと見ていたい。

 そう言って、斎藤は首を持ち上げるようにして、千鶴の頬を両手で包み込んだ。千鶴は肩を震わせながらとめどなく涙を流し続けていた。

「お願いです。どうか、今生のお別れのようなことを言わないでください」

 千鶴は喉の重い塊が突き上げてくるのに任せて、大声をあげて泣きだした。斎藤の胸にすがりついて子供のように声をあげて泣き続けた。斎藤は、ずっと千鶴の髪を撫で、背中をさすり続けた。普段気丈に振る舞っているが、一度泣き出すと幼子のように収まらない。我慢強い千鶴は、毎日をどれほどの想いで生きてきているのだろうと思う。出会った時から、ずっと……。

 最後までずっとお傍にいます。

 時折、呟くように告げる。
 あの言葉は、千鶴の覚悟なのだろう。

 これほどまでに……。

 斎藤は千鶴を抱きしめた。そして、声をあげることを止めても、まだ泣き続けている千鶴に話かけた。

「今生の別れなどではない」

 これからもずっと、傍で見て居たいだけだ。ずっとな。

 千鶴は顔を上げた。涙に濡れた睫毛を何度か瞬く。真っ赤になっている小鼻ですするように息をすると、しゃくり上げながら「ずっと?」と聞き返してくる。

「ああ」

 そう言って斎藤は微笑んだ。濡れた頬を指で何度も拭ってやりながら、幼子のように見上げてくる千鶴を、もう一度しっかりと持ち上げて抱きしめた。安心したように肩に頬を置いた千鶴は「ずっとです。ずっと」と小さな声で繰り返していた。

 どれぐらいそうしていただだろう。もう陽は高くなり昼に近い頃だ。居間で千鶴を抱きしめたまま、斎藤はこの今の瞬間を想った。確かなもの。そうだ、この瞬間を全うしよう。腕の中の千鶴を抱きしめながら、斎藤は誓った。決して後悔することなく……。

 ゆっくりと千鶴が顔を上げた。じっと斎藤の顔を見つめて微笑んでいる。優しく、頬にかかった斎藤の掌は暖かい。その節ばった親指で頬に残った涙を拭われた。微笑む斎藤の優しい眼差しは、千鶴への想いに溢れ、包み込まれるような温かさに、千鶴はこの刹那の幸運を噛み締めた。そして千鶴は決して自分もこの愛おしい人を見つめ返すことは忘れないと心でしっかりと誓った。





つづく

→次話 明暁に向かいて その29




(2018.11.30)

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