庇の影 その五
夜更けに目覚めた時、生ぬるい空気の中に奇妙な匂いが漂っていた。
それは、江戸に居た頃に嗅いだ匂い。硝石。江戸川のほとりにある建屋で造っていた。火薬の原料で、五寸位の朱玉が沢山積んであった。時折、きな臭い空気が風に乗って神田の通りまで届くことがあった。何かが燃えているのか。布団から起き上がり、壁の刀を取って障子を勢いよく開けた。勝手口の戸が閉まる音がしたので、廊下を走って行くと台所の窓の外に人影が横切ったのが見えた。
侵入者。
土間に降り立って外を覗いたが、暗闇に何も見えない。台所にはうっすらと硝石の匂いが残っていた。刀の鞘を握ったまま、勝手口の戸口をそっと開けて外の様子を伺った。傍にあった草履を履いて、戸の外に出た。門が開いている。侵入者が逃げて行ったのか。門の外まで出てみた。橋の向こうに人影が見えた気がして、そのまま駆けていった。誰だ、一体。
暗がりに見える人の後ろ姿。三軒先を西に向かっている。一人、二人。人影は通りの辻を左に曲がった。建屋の角まで走り、身を潜めて不審な影を確かめた。男たちの影は、三軒先の角で姿を消した。通りには灯らしいものはなにもない。月は新しく、ただ漆黒の闇が広がっていた。
時折、足先に舞った砂が当たる。生ぬるい風。
草履の裏を極力引き摺らぬように息を潜めて角に近づいた。角から数軒先は開けた通りに出るはず。覚えている限り、自分のいる場所を特定しようと必死だった。人影が消えた先は小さな堀端に繋がる。そう思いながら、慎重に建屋の壁伝いに進んだ。
暗闇の向こうには、一本の木灯篭が立って居た。その周りだけがぼんやりと明るい。腰に刀を差して天水桶の影に身を潜め、そこから辺りの様子を伺った。堀端の手前に男二人が向かい合うように立っている。灯りに浮かび上がる姿を見て目を疑った。不審者だと思っていた影は、黒羽織に黒袴、髪は白髪交じりの総髪。光でハッキリと見えた横顔。先生だ。先生は、もう一人の男に合図をするように頷くと、小さな影は音を立てずに堀端を駆けて消えていった。手拭を頬かむりにしているが、その動きと走り方は道場に出入りしている太助そのものだった。
このような夜更けに。昼間でも滅多に外出しない先生が、なぜこんな所へ。
太助と別れた先生はそこに佇んだまま動かない。何をされているのだろう。待ち人か。夜更けに布団から抜け出し、こんな所まで追いかけてきてしまった。声を掛けるべきか。だが、迷う気持ちも一瞬で吹き飛んだ。先生が一歩駆け出したからだ。
通りを下ってきた人影があった。一人は頭巾をかぶり、大小を腰に下げている。その隣には、羽織を着た男が簡易提灯を下げていた。その後ろに背の低い者の影も見えた。先生は、その者たちの前に立ちはだかった。背筋を伸ばし、下ろした右手は柔らかく拳を握っている。
先生。
心の中で声を出した瞬間。先生は構えた。手前に立って居る男が提灯を地面に投げた。腰の刀に手を掛けたが、一瞬で先生が居合いで斬りつけた。逆袈裟懸け。男はそのまま前に倒れた。頭巾を被った男が、二歩下がり刀を抜くのが見えた。頭巾を脱いで、「おのれ」と叫んでいる。先生は、青眼で構えて左ににじり寄っている。右足を引き摺るように。
自分が駆けだすより先に、相手の剣が大きく振り下がった。先生は自ら身を近づけて行った。走りながら抜刀した。飛び上がるようにして、相手の肩を狙う。声を凝らしたつもりだが、渾身の力を込めて突きを入れた時に息が漏れた。相手は、剣を持ったまま口を大きく開けている。男の喉から奇妙な音が聞こえた。獣のような喘ぎ声。己の刀は、男の脇腹を貫いていた。そして、この大男の心の臓に先生の刀が刺さっていた。先生は、利き足の膝を立てて、残心のまま力いっぱい押し込み続けている。上目遣いに相手を睨むその顔は微動だにせず、相手が完全に絶命するのを見届けていた。
もう一人の男が、叫び声を上げて、来た道を逃げていこうとした。自分は男の脇腹から刀を抜いて、堀端まで逃げた男を追いかけ背中から袈裟懸けに斬った。男は堀の中に落ちた後、背中を向けて浮かび上がってきた。黒い水に白い袴が浮いている。絶命したか。そんな事を考えていると、背後から「行くぞ」と声を掛けられた。
足を引き摺って歩く先生の後をついていき、先生の右肩を抱えるようにしてひたすらに歩いた。堀端の柳の影で、先生が一旦止まり。石段を指さした。草場で足をとられないように、先生を抱えて降りていくと、堀端に舟がつけてあった。そこに蹲るようにしゃがんで手を引く太助の姿が見えた。なんとか先生を舟に乗せて、自分も船底にしゃがんだ。
「じっとしといておくれやす」
太助の囁くような声が聞こえて、筵を上から覆うようにかけられた。先生は右足を前に投げ出して、息を潜めている。先生の足を庇うように四つん這いになった。先生がこっちをじっと見ていることは判っていたが顔を上げられぬ。夜半に無断で道場を抜け出して来てしまった。勝手口に侵入者が居たと思ったが、あれは太助さんと先生だったのか。お堀端で斬った者たちは、出で立ちから上士身分であることは確かだ。一体、何が起きている。
先生は、なにゆえあの者たちを斬りに。
舟はどこかに着いたらしく、筵をはぐられ太助に促されて艀の上に上がった。先生は、右足が痛むのか、深いため息を漏らしながらゆっくりと移動した。建屋の傍に大八車があって、そこに先生を持ち上げて座らせると、太助は通りを走り出した。二人は何も言わない。ただ黙々と太助は地面を蹴るように進んで行き、自分もそれに付いて走っていった。
四半刻は走っただろうか。生ぬるい風は一段と身体にまとわりつくようで、進んでも進んでも道場に辿り着く様子はない。こんな光景は前にもみた。夢の中のことだ。行けども行けども目指す場所には辿りつけぬ。
ふと、目の前にさっき斬った男の顔が思い浮かんだ。最後に斬りかかる前に振り返った男は目を大きく拡げて恐怖の声を上げていた。俺が斬り殺した三人目の男。あの者を生かしておくことは出来ない。そう思った。面が割れる。そんな事を考える自身をもう一人の自分が見ていた。なにが「面が割れる」だ。どのような経緯であれ、人を殺めたことにかわりない。辻斬り同然の所業。先生が斬ったあの者たち。斬った事に道理はあるのか。
己の中の道理は。
大八車が停まった。いつのまにか道場の門前に辿りつき、太助と一緒に車を押して玄関の勝手口につけた。先生は足を引き摺って上り口に座った。羽織を脱ぎ捨て、返り血を浴びた袴や足袋を脱ぐと、太助は汚れたものを丸めて勝手口の盥の水につけた。
「斎藤さん、着ている物を脱いでここへ」
始めて太助が自分に言葉をかけた。言われるままに長着を脱いで、盥の水につけた。どす黒い水。こうして太助はいつも血で汚れた着物を洗っているのだろうか。先生は肩で息をしていた。両手で膝を持ち上げるようにして板の間に上がると、首だけをこちらに向けた。
「もう遅い、休みなさい」
低い声でそう言うと、先生は廊下を歩いて行った。手を洗ってから、部屋に戻って布団に横になった。時折、小さな呻き声が聞こえた。だが、自分の部屋と先生の部屋を隔てている襖を開ける気にはならず、襖越しに先生に声を掛けることも憚かる気がして何もできなかった。
*****
障子の向こうの外が白んできた。結局一睡もできぬまま。
隣の部屋は静かだった。布団を畳んで、井戸端で顔を洗った。勝手口には、まだ硝石の匂いが漂っていた。足元の大きな盥の中には、先生と自分の脱いだ着物が水に浸けてあるのが見えた。
夢ではなかった。
黒い血色が染み出た盥の水を見て思った。昨晩の出来事。堀端での人斬り。先生がなにゆえ相手の男たちを斬り捨てたのかはわからぬ。舟や大八車を用意していた太助さんは、先生が人を斬りに行くことを知っていたのだろう。そして、いつかの夜も、夜中に外から戻った先生は、勝手口で苦しそうに溜息をついていた。あの夜も、もしやもしれん。
心の中が暗い何かで満たされていくように感じた。
道場で独り素振りをした。無心に。そう思っても、木刀を振るたびに昨晩のお堀端での斬りあいが思い浮かぶ。居合での一撃。相手の振りかぶりに自ら身を寄せて、出身で突く。
心の臓を一突き。
あのような動きは先生にしか出来ない。真剣の斬りあいで相手の動きを止めることなく流れのままに撃つ。断像を思い出す限り何度も型を浚った。息が上がるが止めない。このまま振れなくなるまで続ける。ただ心を無にして。
それから一刻ほどして、門人たちが道場にやってきた。既に、腕がちぎれる程木刀を振り続けていたが止めなかった。相羽辰之進も宗吉郎も自分と一緒に素振りをやり続けて、午前の稽古は終わった。門人が帰り一旦勝手口に戻った。板の間には、膳が据えてあった。先生が起き出した様子はない。おおかた、太助さんか近所の人が膳を用意してくれたのだろう。自分は、先生の部屋に膳を持って行った。
「先生、斎藤です」
「入りなさい」
「失礼します」
先生は、部屋の着物入れの前に背を向けて立って居た。今起き出して着替えを終えたらしく、布団は上掛けがはぐられたままになっていた。珍しく木綿の長着姿。先生は、ゆっくりと座った。
「膳をお持ちしました」
「ありがとう」
「障子を開けてくれまいか」
先生に言われた通りに、障子を全て開け放した。空は晴れて眩しい光が縁側の向こうを照らしていた。
「そなたは食事を済ませたのか」
「いえ、これからです」
食事を終えたら部屋に戻ってくるようにと言われた。急ぎ先生の部屋に戻ると、先生は膳には手を付けずに、そのまま部屋の隅に置いてあった。先生は正座で背筋を伸ばし静かに目を瞑っている。自分は先生の前に正座した。
「昨夜のことは、助けてくれて礼をいう。ありがとう」
「そなたに命を救われた。こうして此処に戻ってこられた」
「そなたには申し訳ない。あのような事をさせてしまい。許してほしい」
「いや、許されることではない」
先生は、両手を畳に付けたまま首を横に振った。自分は何も言えなかった。先生は打ちひしがれたように、ずっと両手を畳についたまま動かない。聞きたい事は山ほどある。何故、先生は夜更けに人を斬りに行ったのか。斬った者は何者なのか。なぜ、あの者たちを斬らなければならないのか。なぜ、先生が……。
「昨夜のことはわたしの判断です」
——あの場から誰も逃してはならないと思いました。
「話すと長くなる」
「斬った者の身元をそなたには明かすことは出来ぬ」
「全てわたしの請負ごと。そなたには言えぬことだ」
先生は、項垂れたようにじっとしている。そんな先生を見て、何も言葉を返すことができない。ただ、膝に置いた両手をぐっと握り絞めて、夜更けに目覚めた時から明け方までの出来事を思い出していた。
先生の部屋の廊下の向こうには、道場の裏手に繋がる敷石の脇に木瓜が植わっていた。
白と薄桃色の花が沢山咲いている枝に文鳥が二羽とまっては、花の蜜をついばんでいる。そのたびに小さな花弁がひらひらと地面に落ちていった。その様子を伏せた目でじっと見詰めている先生を自分は目線の端に留めるようにして、じっと座り続けた。
先生は、畳に両手をついて謝った後、じっと瞳を閉じていた。どれぐらい時間が経ったのかはわからない。開け放たれた障子の向こうには眩しいぐらいの陽が射していた。
「話しておきたいことがある」
先生が背筋を伸ばして、自分に向き直った。
じっと自分の目を見詰める先生は、さっきの苦しそうな表情とは違い、どこか遠くを見ているような眼差しだった。「はい」と返事をして、身仕舞を正して先生に向き直った。
先生は、「ある男の話だ」と断って、話を始めた。
*****
木瓜の花
江戸にあった剣術道場に羽入忠三郎という男が通っていた。十六で紙付。道場近くの大名屋敷に出仕しようと毎日稽古に励んでいた。だが毎年奉公に願い出たが通らず、気づくと齢は二十。行く当てのないこの者にとっては、道場だけが寄る辺。剣術しかなかった。
羽入には一緒に道場に通う友がいた。同じ年で、西国明石より江戸に出て来たばかりの者。名を源之助といった。羽入と源之助は気が合った。士分とは名ばかりの貧乏な羽入の家に源之助は遠慮なく上がり、羽入の母親を慕ってよく顔を見せた。
生来口下手な羽入を源之助はよくからかったものだ。足軽の源之助は「江戸で一旗あげる。口八丁手八丁でも名を挙げて、一緒にお家に奉公だ」と明るく笑っていた。源之助は大らかな男だ。後から入った道場の門弟が、伝手でどんどんと出仕先が決まっていく中、一切不貞腐れず、稽古以外の時間は懸命に内職を探し生計を立てていた。
羽入の母親は身体が弱く胸を患っていた。源之助と一緒に見つけた仕事だけでは薬を買う金が足りず、先に大名屋敷に出仕していた兄弟子を頼り、屋敷周りの雑用を申し出た。仕事は夜に行なうことが多かった。夕方から大名屋敷の用向きに出掛ける。いつも裏の勝手口から出入りし、土間に立って指示を待った。用向きは様々だった。長い竹筒を半分に割ったものを持たされ、屋敷周りの溝を掻いて泥を掬う。その中に一両小判が三枚落ちているということだった。朝までかかって、ようやく小判を見つけた。真冬のことだ。羽入は、見つけた小判を井戸水で洗って兄弟子に渡した。駄賃だと云って、一分銀を手渡された。
当時の銀は価値があった。一分で麻黄湯を買う事ができた。
別の夜には、小さな蔵の中で書き物を言いつけられた。会計方の帳簿の写し作業。蝋燭を一本灯し終わるまでに全て書き写さねばならぬ。凍えそうになりながら、なんとか仕事を終えた。三日後に兄弟子から紙に包んだ一分銀を二枚受け取った。冬が過ぎ、春が来て、夜の仕事にも慣れて来た頃、いつもの勝手口の戸が閉まっていて中に入れぬ日があった。屋敷の中は騒々しい。玄関に周って物陰から様子をみると、人の出入りがあった。奉行所の提灯を持った町同心が束のようになって入っていく。お家に何かが起きた。羽入は奉公に出ている兄弟子のことが心配になった。
翌日、大名屋敷で騒動が起きていたことがわかった。六郷家の国元は出羽本庄藩。佐渡守様は幕府役人に引き渡されたという。罪状は一切わからなかった。出入りの家人は屋敷内で謹慎。羽入は大名家の騒動より、夜の仕事で得る収入が途絶えた事で途方に暮れた。
その日から三日が経った夜、突然兄弟子が羽入の家の玄関を叩いた。戸の隙間から、六郷の殿様は国元での蟄居の後国替えになる。そう知らされた。兄弟子は。国替えに必要な「御入用積帳」を急ぎ作っていると早口で説明すると、帳面を戸の隙間から差し入れた。翌朝までに清書をするようにと言って、兄弟子は急ぎ足で去って行った。羽入は積帳を言われるままに清書し、早朝に金一両と引き換えに兄弟子に渡した。これでひと月は、母親の薬に充てることが叶う。そう思って安堵した。
その日の午後、道場に向かう道の途中、橋のたもとで呼び止められた。
「羽入忠三郎か」
「貴様、密貿易に関わる不届き者、成敗してくれる」
男は腰の刀を抜いた。羽入は橋の袂から草の斜面に滑り落ちながら受け身で相手の刃を受けた。相手の男は六郷家の図書方を名乗り、羽入を偽の帳簿を作った下手人だと罵った。羽入は咄嗟に相手の刀を払った。一緒に橋の下に滑り落ちた相手は、地面に手をついて羽入の足元で刀を振り回した。羽入は逃げた。道場とは反対の道をひたすら駆けて、追手から身を隠した。
夕方になってようやく自宅に辿り着いた羽入は、家がもぬけの殻になっていることに気付いた。母親が寝ていた奥の間から布団も無くなっていた。元より家には家財になるようなものは何もない。近所の者に尋ねても、母の行方はわからなかった。羽入は兄弟子より貰い受けた一両を持って母親を探しに外に出た。だが、六郷家の役人から追われる身で、どこを探せばいいのかもわからない。とにかく、医者の元へ向かった。もしやもすると、具合が悪い母親が運ばれていったのかもしれぬ。
陽は落ちて夕闇が迫る中を、裏道を武家屋敷に向かって駆けて行った。医者の元に母の姿はなかった。足は自然と六郷屋敷に向かった。羽入のことを「偽帳簿の下手人」と言って斬り捨てようとした男。母は自分の身代わりに捕らえられたか。混乱する頭の中で、「御入用積帳」の清書の際、別の紙に書かれた目録を書き加えた事を思い出した。言われたままにやったことだ。兄弟子である大沢重吾に訊ねればわかる事。
六郷屋敷に繋がる道で待ち伏せているかのように数名の男が立ちはだかった。その中に大沢が居た。「大沢さん」と呼びかけた羽入に、大沢は刀を抜いて斬りかかった。羽入は抜刀して刀を受けた。もう一人の男も刀を抜いたのが見えた。羽入は大沢の刀を躱し、次の一手で大沢の腕を真剣で斬った。大沢の腕から落ちた刀を踏みつけて、もう一人の男が振り下ろした刀を峰で受けた。相手は更に踏み込んで力づくで振り切ろうとする。重心を一手に掛ける相手。
「鍔ぜり合いは、力と力がぶつかる」
真剣の切っ先をそのまま相手の心の臓に向けて踏み込んだ。相手の刀が己を突いたとしても、羽入はその前に相手を刺せば良いと思った。たとえ相打ちであっても絶命させられれば。
羽入の刀は相手の男の心の臓を貫いた。相手は踏み込んで重心をかけていた故、勢いがそのまま仇となった。羽入に向けられていた相手の真剣は滑るように逸れて羽入の着物の袖を撫でただけ。峰で受けていたことが羽入には都合がよかった。起きたことは一瞬だった。相手の胸から刀を抜き取ると血が噴き出し、羽入の袴にかかった。大沢は既にその場を立ち去り、六郷屋敷に向かって走っていく姿が見えた。羽入は抜き身を持ったまま逃走した。
無我夢中で走った。武家屋敷からは離れ、堀端から道場に向かう橋を渡ったところで道向こうから役人らしき者たちが提灯を掲げて走って来たのが見えた。咄嗟に左の建屋と建屋の間に身を隠し、路地を裏側にまわった。息を凝らし、狭い路地を通り抜けて次の通りに出ようとした。その時だった、誰かが後を追いかけてきた。黒い人影。羽入は必死に逃げた。
道場の近くは小さな長屋が密集していた。迷路のような路地は、羽入が幼い時より暮らした界隈。建屋から建屋をすり抜けて、なんとか追手より逃れようとした。だが、相手は羽入を行きどまりに追い込んだ。羽入は観念した。暗がりから迫る相手を斬ろうと、持っていた刀を青眼に構えた。
「忠三郎、俺だ」
声を聞いて心底驚いた。羽入の目の前に現れたのは源之助だった。もう半年近く、顔を合せていなかった。源之助は襷掛けに額には鉢金を付けていた。六郷屋敷の役人と同じ装束。羽入は青眼に構えたまま刀を下ろすことができない。
「道場の連中が総出でお前を探している。六郷屋敷の命だ。見つかる前に逃げろ」
源之助は、「早く」と言って、路地を防いでいる建屋と建屋の間の板を足で蹴破った。羽入は混乱したまま源之助に言われるままに建屋と建屋の間に身をねじ込んだ。
「お前の母御は無事だ。俺の知り合いの家に預けてる」
「医者に来てもらう。案ずるな」
「六郷屋敷の騒動は家中のこと。国元での帳簿替えを幕府に咎められた」
「俺が町役人から聞いたのは三日前。道場でお前が下手人やと、探すように言われた」
「俺は……」
「わかってる」
「……大沢さんか。お前は大沢さんに仕事を貰ってたんやろ」
答えぬ羽入に、源之助は前に進めと肩を押した。
「江戸を出ろ。佐渡守様の騒動は大き過ぎる」
「俺は、金のために」
「……薬が必要だった」
「俺は……大沢さんを斬った」
源之助は驚いた顔をした。唇をぐっと噤んで、羽入の肩を持つと振り向かせた。
「覚えてるか、この建屋の裏道にどぶ板が続いてる。そこを伝っていけ、用水路に繋がる。今は水がない。そこに身を隠して北に向かえ、街道に繋がる森に行ける」
「江戸を出ろ」
源之助は懐から銭入れを取り出して羽入の胸に押し付けた。
「母御のことは心配するな」
「行け」
囁くような声で、源之助は羽入の背中を押した。
それから、羽入は無我夢中で北に向かった。街道へは明け方には出ることが出来た。追っ手を逃れて中山道を木曽へ。途中信濃路の雪で足止めされたが、翌年の春には京に辿り着いた。
天保二年。佐渡守は島での密貿易の罪を問われ、本庄藩は棚倉への国替え。藩主も代わり、江戸屋敷での騒動も落ち着いた。藩内では図書方と勘定方に処分が下った。表向きはそれで済んだ。だが、その裏で大沢重吾を含む出入りの奉公人が三名戮されたことは伏せられた。
羽入がその事を知ったのは、京の太子流道場で師範代となった三年後。ある日、江戸から文が届いた。源之助の手跡で、奉公先が決まり鈴木屋敷に勤めているという。直ぐに返事は出せず、逃亡を助けて貰えたことの礼と無沙汰を詫びる書状を出すのに羽入はそれから半年迷った。源之助の文の最後に「江戸へは戻るな」と書いてあったからだ。文には、羽入の母親が息を引き取ったと書いてあった。源之助は母親を下谷の外れに弔った。母親は最後まで不肖の息子が無事でいることを願っておったそうだ。羽入は己の親不孝を悔んだ。
京の道場で、羽入は姓を「吉田」と名乗った。逃亡中に世話になった信濃吉田村の老夫婦のことを忘れないためだ。母親の名「フサ」をとって房之介と決めた。道場主は羽入を内弟子として永く留め置き、十二年後に他界した。後を受け継いだ羽入は、己の過去を消し去る為に剣術を教えることに専念した。
「夢中であった。近隣の藩邸から稽古に来る者。幕臣も商家からも、農家からも、誰でも門を叩く者には稽古をつけた」
——わたしの教える事は、人を斬ることだ。
それは、江戸で学んだ時から変わらぬ。太子流の武術は理にかなっておる。道場の外に一歩出れば、腰に差した刀は武器となり、己の身を守り、必要であれば相手を殺める。日々の鍛錬はどれ程己の心が静かに剣を捌くことが出来るかを決める。初手、二の手、三の手。己の身の動き、相手の動き、重心と残心。木刀でも真剣でも、それは変わらぬ。
道場を引き継いだ頃、東御役所から出仕するようお触れがあった。道場で実践的な斬りあいを教えている事が誰かの耳に入ったのであろう。御役所での勤めなど、降って涌いたような話だ。わたしは悦び勇んで出向いた。
御役所の門の中は、真っ白な玉砂利が敷き詰められ、眩しいぐらいであった。
臨時の監察役廻り。役所から呼び出されれば出向く。わたしは都合がいいと思った。道場での稽古を続けられる。御役所には出自は信濃と届け、己の過去を消し去った。明るい玉砂利の上を歩いた時、初めて背筋が伸び空を仰いだ気がした。
愚かな考えだ。
江戸で起きたことを、わたしは後ろ暗い事と考えておった。金のために悪事に加担し、人を殺めた。あの時、大沢重吾たちに斬られたとあらば、汚名を着せられたままであっただろう。母は罪人の身内としてそしりを免れぬ。六郷家に身の潔白を訴え、名を晴らす為に自刃することも出来ただろう。だが、わたしは逃げた。あの暗がりから。
役所から道場に取り次ぎに来たのは太助だ。以来ずっと道場の雑用も引き受けてくれておる。御役所監察方の役目は京町の警備。武器や火薬の取引をする雄藩を取り調べるのが仕事だ。中には不正を見逃し便宜を図かり私腹を肥やす者もいる。残念だが、悪事を行う者は世の常だ。太助は「闇」をひっ捕らえる為に働いておった。上に立つ者の名は言えぬ。わたしは命を受ければ、己の剣を使う事に躊躇はせなんだ。
表沙汰にはできぬ闇仕事。其方には決して関わらせてはならぬことだ。許してほしい。
***
目の前で頭を垂れて謝る先生に、自分は何も言えなかった。
先生の身の上話は、決して他人事とは思えず。ここに身を匿われた巡り合わせにただ驚くしかなかった。頭の中には、昨晩のお堀端での斬りあいが巡り、勝手口で苦しそうに肩で息をしていた先生の背中が思い浮かぶ。薄暗い土間、盥の中のどす黒い水。
互いに沈黙している間。廊下の向こうの庭先からは、時折文鳥のさえずりが聞こえていた。庭の木瓜の花は、陽の光を浴びて眩しいくらいに白く輝いている。自分は、どれ程考えを巡らせても、先生にどう言葉を伝えればよいのかがわからなかった。
「そなたに渡したいものがある」
先生は、ゆっくりと立ち上がると、文机の引き出しから何かを取り出して、再び目の前に座り直した。
「そなたの父御から預かった文だ」
小さく畳まれた文を手に取った。細かな字は父親のものではなく、「山口殿」とあった。
山口殿
前略
今般浪士出立際
打刀脇差入手致候
貴殿に吟味願いたし候
十日後小伝馬道場に出向致候
麻綱を大量用意致候
是は泊々にて物品をまとひおくに至極善き物也
草々
文久三年正月
土方歳三
浪士という文字を見て、心が揺らいだ。土方さんだ。十日後に江戸に来ると報せがあったのか。俺は今も試衛場には何も知らせていない。
「これは、そなたの父御から私宛に届いた文だ」
先生はもう一つの文を畳の上にそっと置いて、自分に読むようにと差し出した。
「吉田房之介様」と宛書された書状には、「御文拝し候也、一が無事に上洛し安堵致候」と懐かしい父親の文字が綴られていた。細かな文字でびっしりと書かれた文には、「果し合いは奉行所への帳付けもなくお咎めもなく来ている。橋本家は内聞にして処分無し。故に音無しのまま」とあった。山口の家に何もお咎めが無かったことに張り詰めていた神経が少し緩んだ気がした。
一昨日拙宅に一の朋友来訪在候
道場門人沖田宗次と名乗られし候
宗次。総司か。如月に上洛。幕臣を殺めた一が幕府御集浪士に参加は能わず。然れども、一が剣を捨てず、貴殿の元、太子流師範代として剣術を続けるのならば。せめて浪士集まりが上洛することを一に伝えて貰えまいか。
一が剣を捨てず。
この言葉に少なからず動揺した。父上は何故己が剣を捨てると思ったのだろう。なにゆえ、父上は京に逃げて先生の元へ行けと云ったのか。剣を捨てること。その覚悟はあった。京に来るまで。この道場に来た後も……。鳩尾になにか強いものが突き当たったような心持がした。目は文字を追う。
愚息なれども、こと剣にかけては無二無三に打ち込んでおる。何卒、剣術で身を立てられるよう御助力願う。
文はそう締め括られてあった。父上の願い状か。父上は道場を構える吉田先生に俺を託された。そうだったのか……。江戸のことが身体中を巡る気がした。果し合いで相手を斬ったこと。最後に試衛場に出向いた朝。総司との手合わせ。本当なら、正月には多摩で稽古をし、土方さんや彦五郎さんと上洛の準備をしていた筈。もう浪士は京に辿りついているのだろうか。だが父上の云う通り、旗本を殺めた俺が幕府の浪士に加わることは叶うまい。文を畳みながら心の底から残念に思った。己の座る畳の底が抜けて、奈落の底に落ちていくような。暗い冷たい場所に。その時、静かな声がした。
「願われずとも、そなたには目録を授けようと思った。最初の手合わせで、そなたの力量は十分にわかった」
顔を上げると、先生はじっと自分を見ている。穏やかで泰然とした目線はそのままゆっくりと廊下へと移っていった。廊下の向こうの庭先は、苔むした地面の上に、木瓜の枝から落ちた花弁が一面に広がっていた。つがいの文鳥は相変わらず、忙しく枝から枝を飛び交い、その度に小さな花から、ひらひらと小雪が落ちるように花びらが舞っていた。
「そなたの父御の言づてはこの通りだ。江戸の道場の門人は上洛して居る頃であろう」
「幕閣の役人に、東御役所から問い合わせて貰っている」
「近く太助が知らせてくるだろう」
「おそらく、着京先は二条の城近く。幕閣役人もあの辺りに居を構えておる」
「大樹公のご上洛も近いと御役所の者が言っておった」
そうか、将軍様の御上洛。そのための護衛だった。そうだ。もう記憶の彼方に葬りさっていた。
我ら、尽忠報国の志を以って
家茂公を護衛し、夷狄を打ち払う所存。
近藤さんの力強い声が胸に響く。皆が一斉に賛同の声を上げたあの日。希望と熱い思いが沸き起こり、居てもたってもいられないような高揚した気分だった。総司の笑顔。背筋を伸ばした平助。手を打って、大きく胸を張って頷いた新八。己も馳せ参じようと心に強く誓った。再び手の中の文を開いた。土方さんが打刀と脇差を入手したという報せ。どのような刀だろう。見てみたい。会って無沙汰を詫びることは叶うのだろうか。浪士に加われずとも、滞京しておられる近藤さんと土方さんに会うことが出来るなら。
目の前を陰が横切った気がした。いつの間にか先生は立ち上がって、廊下の前に立って居た。
「わたしがこの道場に初めて来た日。この木瓜を先代が植えた。自らの手で。庭仕事の好きな御仁だった。心穏やかな。善い人だった」
「道場を継いだが、さして大きくも出来ず。先代には本当に申し訳なく思っている」
先生は自分に語って聞かせているのか、独り言を言っておられるのか、背中を向けたまま静かに話を続けた。
「この春に道場をたたむつもりでおった」
「右脛の刀傷の毒はもう全身にまわっておる」
——わたしはもう永くはない。
庭先からの光で縁取られたような先生の横顔は、穏やかな表情でずっと遠くを見ているような目をしていた。衝撃で目の前の光景が何かの間違いのような気がした。いま、なんと言った……。
先生は、ずっと横顔を向けたまま語り続ける。静かな声と、庭から微かに聞こえる小鳥のさえずり。ひらひらと風に舞う白い花。
「稽古が出来ぬ日々が疎ましく、門人には他所に移って貰った。宗吉郎と辰之進には、道場を終うことを伝えてある」
「そなたが上洛するという報せを受けた時、やっと果たせると思った」
かつての友の恩に報ずることができる。
「源之助、そなたの父、山口佑介はわたしに銀八百匁を渡し、江戸から逃してくれた」
「わたしの命の恩人だ」
「御家人株を買うために、爪に火を灯す思いで貯めた金だ。そなたの父親がどれ程の苦労をしていたかは、わたしが一番よく知っておる」
「そなたの父御は、わたしだけでなく、母をも助けてくれた。わたしが今日在るのは、そなたの父のお陰だ」
沢山の事が胸の内に巡り、なんと言葉を発していいのかがわからない。先生が江戸に居た頃に父上と。父上が、源之助という名だったことも知らなかった。昔から父は江戸に出てきた頃のことを語りたがらない。ようやく全ての合点が行った。父上が江戸を出ろと云ったことも。京に行けと云ったことも……。
「そなたが剣術を生業にするのなら。他道場に言上状をだそう」
「そなたの力量であれば、どこに出ても恥ずかしくはない。案ずるに及ばぬ」
逆光で良くは見えなかったが、先生は確かに微笑んでいた。多くの事に、全くもって頭も胸の内も付いていけず、何も答えられない自分に、先生は再び横になりたいと云って、膳を下げるように頼んだ。朝から一切食事をとらない先生が心配だったが、言われるままに膳を下げた。
廊下に出たときに、背後から声を掛けられた。
「障子はそのまま開けたままでよい」
先生は、きっと臥した床の中から、木瓜の花を眺めたいのだろう。そう思った。
つづく
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(2020/04/30)