地獄八景新選組戯 その一
三途の河の渡し番
人は人生を全うした後どこに向かう
地獄、極楽、彼岸、浄土、冥府、天国
古今東西であの世の話は様々だが
ここ「賽の河原」は、人が命が尽きた後に最初に辿りつくところ
やっと来たね。はじめくん、待ってたよ。
三途の川辺に佇む総司が、斎藤に笑いかけた。斎藤はきっちりと白い木綿の経帷子を身につけ、白い角帯を結んでいた。手には角帽子を持っている。白足袋に草鞋を履いて、清潔なたたずまいは生前の頃と変わらない。嬉しそうに迎えた総司に、微笑みかけると。
「ああ」と返事をした。
総司の話では、三途の河の渡し場に、源さん、近藤、山崎、左之助、新八が全員で赤鬼との交渉に出かけているらしい。
「僕たちで、渡し舟を一艘貸し切りにして貰おうって。近藤さんが交渉に乗り気でね」
「ほら、帰ってきた」
総司が振り仰ぐ先に、鬼籍入りした面々が歩いて来るのが見えた。
「おう、斎藤じゃねえか。よく来たな」
「よく来たな、じゃないでしょ、新八さん。ここどこだと思ってんの」
総司が呆れて笑う。新八は、ガハハハと笑って、「それも、そうだ」と傍にあった大きな石の上に腰掛けた。
「斎藤君も着いたところで、そろそろ私たちも出発かねえ。勇さん」
「いや、それが……。さっき、閻魔帳が新たに書き加えられてな」
皆が、一斉に近藤を見た。近藤は、悲しそうな顔をして拳を握りしめている。
「平助と、トシが加わった」
「土方さんがやられたって、蝦夷政権は終わりってことかよ」
左之助が、怒ったように問いただす。
「詳しい事はわからん。残念だが、平助とトシを待って詳しい事情を聞かねばな」
皆が、がっくりと肩を落とした。新選組最後の望み、土方歳三が落ちた。
「とにかく、ここで待つとしよう」、そう呼びかける近藤の元、皆で車座になって腰を下ろした。
「さっき渡し番に交渉したんだが、舟を我々で貸し切る事に相成った。三途の河を渡ってからは、六道の辻もある。皆、不本意にここに辿り着いただろうが、【袖摺り合うも多生の縁】皆一同で彼岸に向かおうじゃないか」
「そうだね、勇さん。【旅は道連れ世は情け】というね。わたしはね、実に心強くて嬉しいよ」
源さんが、笑顔で皆に笑いかけている。
「まだここに来たばかりの斎藤くんは、戸惑う事も多かろう。総司、障りがなければ、河原まわりを案内してやってくれ。我々は、知り合いが来ないかここで見張っている」
近藤に促されて、総司と斎藤は腰を上げると、河原づたいに上流へ向かって歩いて行った。
「とうとう、土方さんも来ることになったね」
「ああ」
「土方さんとは、大塩で別れたきりだ。米沢を通って庄内藩に向かうと言っておられた」
「その後、仙台から蝦夷に渡ったみたいだよ。幕府軍が蝦夷共和国を建てたって知ってる、はじめくん?」
「いや、俺は会津で新政府軍と闘って力尽きた。おそらく、副長が蝦夷に渡られたのは、その後であろう」
「うん。でも先に言っておくよ、はじめくん」
総司が、斎藤の前を歩きながら振り返った。そのまま後ろ向きに歩きながら、頭の後ろに両手を置いた。
「ここでは、時間の過ぎ方は、あっちとは違うからね」
斎藤は俯きがちだったが、顔を上げて総司の目を見詰めた。
「会津で力尽きたって言ってるけど、はじめくんがここに着いたのはさっき」
「もと居た場所とは、ここは時間や空間が違うんだってさ」
「だから、土方さんや平助も、もう河原に着いてるかもしれないって事だよ」
斎藤は、じっと総司の話を聞いていた。副長や総司に会ったら、戦況がどうであったか、新選組がどうなったか、聞きたいことは山ほどある。
「さあ、ここらで渡し場に案内するよ」
総司は、河原から離れるように、濃い霧の立ちこめる中にずんずん進んでいった。後に続いて歩くと、その先に渡し場が見えた。やけに細い背の高い赤鬼が金棒を持って立っている。その前には、斎藤たちと同じような死に装束の人間がずらりと列に並んでいる。霧の向こうまで、延々と連なる列。皆、三途の河を渡るのを待っている。そう総司が説明した。
「やあ」
総司が赤鬼に話かけた。赤鬼は、総司を見ると、びくっと一瞬飛びあがったように見えた。愛想笑いを返しながら軽く会釈をしている。
「はじめくん、こちら渡し番の赤鬼くん。いろいろと親切にしてくれるんだ」
「ね、君」
総司が、左側の口角を上げて笑いかける。赤鬼はしどろもどろしながら「はい」と答えて、斎藤にも会釈した。
鬼にしては随分と弱そうだ。斎藤は心の中でそう思った。
「ねえ、今日新たに僕たちの知り合いが鬼籍入りしたって」
「はい、お二人、いやお三方だったかと」
「へえ、もう一人増えたんだ。それで、僕たちで渡しは貸し切れるそうだね」
「はい、先ほど。もうご予約は」
「それで訊きたいんだけど。僕たちのお沙汰って、これから来る人たちと一緒ってことだよね」
「はい、そう決まっていると聞いています」
「誰から聞いたの? 君、また僕に隠してることある?」
随分と総司は威圧的だ。斎藤は傍で目を丸くして成り行きを聞いていた。
「いえ、滅相もございません。相棒が、今朝がた閻魔様に直接聞いたようです。貫天院殿様ご一行は、みな一緒に詮議にかけられると」
「じゃあ、近藤さんは土方さんと一緒にご沙汰が下るんだね?」
「はい、そう相棒が申しておりました」
「ふーん、君の相棒がね」
総司は、不満そうな表情で赤鬼を見返す。
「じゃあ、君の相棒のあの【デブの子】に言っておいて。僕は、土方さんのとばっちりは受けないってね」
「それは、私にはなんとも。閻魔様のお決めになることでございますから」
赤鬼は、困ったという表情でしどろもどろに答えている。
「あれ、君、いつの間に、デブの子みたいな事言うようになったの?」
総司が、問いかけるのと同時に、赤鬼はたじたじと後ずさって行く。
「閻魔様のご沙汰は、公平なもので……ございますゆえ」
「へえ、君まで公平なものとか言うんだね」
「それは、デブの子の受け売りでしょ」
そういう総司の目の色が真っ赤に変わった。同時に髪が銀色になっている。羅刹となった総司が、赤鬼の前に立つと、赤鬼は五分の一ほどの大きさまで縮こまって震えだした。
「どうか、お許しを、どうか、どうか」
斎藤は、怯えている赤鬼が気の毒になった。
「じゃあ、お沙汰の内容を僕に先に報せて。三途の河を渡る前にね。それぐらいのこと、君なら出来るでしょ?」
「はい、はい、」
赤鬼は、何度も首を上下に振って頷いている。総司は、返事を取り付けると、元の姿に戻った。
「じゃあ、僕たち河原で待ってるから、土方さんが来る前に報せに来るんだよ」
そう言って、総司はきびすを返すと、川辺に戻ろうと斎藤を促した。
お沙汰。公平。とばっちり。斎藤は、総司が赤鬼に強要していた事に思いを巡らせた。何故、総司は赤鬼に情報をとらせるのだろう。それに、羅刹になって赤鬼を脅すなど。一体、ここで総司は何を企んでいるのだ。
斎藤は隣を歩く総司の横顔を見た。
「はじめくん、まだはじめくんの知らない事が沢山あるから、これから何を聞いても驚かないでね」
そう言って、総司は斎藤に微笑みかけた。
近藤達の佇む川辺に戻ると、そこには【風間千景】が立っていた。総司は、赤鬼が言っていた「お三方目」が風間千景であることに合点がいった。
「近藤とやら、俺様をここで足止めするのは、何用だ?」
風間は近藤に尋ねているが、その態度は生前と変わらず横柄極まりない。
「我々は、ここで知り合いが来るのを待っていましてな。近く、一緒の舟で三途の河を渡ろうと思っているのです」
「フッ、あの世に来てまでも群れるとは、貴様ら新選組は、三途の河も独りで渡れぬのか」
「なんだと、俺らが情けであんたに声掛けてやったんだろ。列の最後尾を探して、半時近くウロウロしてたくせによ」
新八が呆れて文句を言った。
「そうだ、賽の河原の霧に巻かれて、河を渡れねえ魂が鬼火になるってよ。鬼の頭領さんにはおあつらえむきじゃねえか」
左之助が、腕を組んで言い放った。
「貴様、何を小癪な」
風間は歯ぎしりをしながら左之助を睨み付けている。
「まあまあ、此処でいがみ合っても仕方があるまい。風間さん、貴方とは剣を交えた間柄、ですがここは賽の河原。これも前世からの縁。よろしければ、我々と一緒に舟に乗って彼岸へ行かれるのも、ひとつ妙案。いかがです?」
皆が、風間を誘うことに大反対している空気の中。近藤は、生前同様の大らかな笑顔で風間を招いた。風間は、暫く逡巡した様子で濃く立ちこめる周りの霧を見詰めると、「不本意だが、仕方なかろう」、そう一言つぶやき、近藤一行に加わることを承諾した。
「まさに【呉越同舟】ですな。互いに手を携えれば、これから先、地獄行きと相成ってもなんとかできましょう」
近藤は、皆の不満には気づかない様子で笑っていた。そして自分の隣に大きな石をわざわざ運んで来て、風間に腰掛けるように促した。
「局長、藤堂さんをお連れしました」
霧の向こうから、山崎が平助を連れて戻ってきた。新八と左之助が立ち上がり、互いに肩を揺さぶって再会を喜んだ。
「平助、よく頑張ったな。皆で待っていた。さ、ここに掛けなさい」
近藤は、自分の腰掛けた石に平助を座らせた。平助は、隣に風間千景が座っているのに、ぎょっとしたが、直ぐに事情を察したらしく、鼻でつんっとあしらうような挨拶をした。風間も平助を睨み返している。
近藤は、山崎が新しく用意した石に腰掛けて、平助にここで皆が揃うまで待機中だと説明した。平助は蝦夷での戦の様子を細かく皆に説明をして聞かせた。皆が真剣に話を聞く中、途中で総司が席を外して、濃い霧の向こうに消えたのを斎藤はじっと見詰めていた。
****
賽の河原の空は、ずっとどんよりと曇っている。そこは、陽の光もなく、夜の闇もない。ただ鼠色の空に灰色の河原が続く。無彩色。そう、ここには色というものがない。昼もなく夜もなく。佇む近藤たちは、ずっと起きている。眠ることも、横になることもない。無常間。移りゆくものもない。何も無いのだ。
ここで独りでいたらさぞ寂しかろう。
斎藤は思った。誠義の為なら死さえ厭わぬ。そう思って自分は闘った。命尽きた事に一欠片の後悔もないが、もし、ここで新選組の仲間と出会わず、河原を彷徨うとなったら。途方に暮れていただろうと思った。
明るく話す平助や、相づちを打っては冗談を言って皆を笑わせる新八を見て、斎藤は独り考えごとに耽っていた。総司は、おそらくさっきの赤鬼と霧の向こうで落ち合って居るはず。総司、地獄の沙汰を先に知ってどうする。俺が知らない驚く事とはなんだ。俺は地獄に落ちても何も恐れぬ。生前は正義の名のもとに沢山の命を殺めた。自分の沙汰がどうなるかは、大方検討はついている。斎藤は小さく溜息をついた。
総司が戻ったら、一体何が起きているのか尋ねよう。
斎藤がそう思った時、背中を叩かれた。振り返ると総司が立っていた。首を「付いて来て」と言うように合図をして霧の向こうに歩いていく。斎藤は総司の後に付いていった。総司は河原の州の様な場所に来ると、ようやく振り返った。
「はじめくん、僕らってさ。最悪の終わり(バッドエンド)を通って来たんだよ」
斎藤は黙って総司の言う事を聞いていた。
「それもさ、本来、僕らの生きるべき人生(ルート)があるんだよ」
斎藤は、総司の言っている事が理解できない。人生、何のことだ。己が生を全うすることか。
「これから閻魔様の沙汰が下るって近藤さんが言ってたでしょ。あれはね、あくまでも土方さんの人生での話」
「僕たちはね、土方さんの人生の中での、それぞれの人生だったって事だよ」
「あとでね、このあらましを山崎くんが皆に説明するよ。その時には、土方さんも河原に着いてる」
「でも、山崎くんが情報取ってきているのは、もう一人のデブの赤鬼からでね。僕に情報くれるのは、あのひょろっとした赤鬼。あの子の方が裏情報を知ってる」
斎藤はなんとなくだが、本来知るべき以上の情報を無理矢理細い赤鬼から総司が聞き出しているような気がした。それにしても、総司、どうしてそこまで。
「閻魔様の地獄のお沙汰は、僕らがどれだけ良い【徳】を積んでたか」
「土方さんの人生の中での、僕らにそのお沙汰が下る」
斎藤は、頭の中で総司の言っていることが、生前に聞いてきた「地獄の沙汰」と一致し理解が進んだように思えた。
「ここからが肝心。はじめくん、よーく聞いてね」
「お沙汰によっては、僕らは、本来僕らそれぞれの【最良の人生(グッドエンド)】に行くことになる。極楽行き」
「いい、はじめくん。これから、閻魔様のお沙汰が下りるまで、【六道の辻】に行く。そこで、僕らは【人生のおさらい】をするんだって」
斎藤は、理解がお及ばず、呆然としている。
「なんでも、芝居小屋みたいなところで、自分たちの人生を振り返るんだって。【活動】って赤鬼くんがいってたけど。それをするんだってよ」
「そこで、ぼくらは同席する青鬼に、己が人生の徳について【申し立て】できるらしい」
「青鬼は、お白州の役人みたいなものか?」
「そうそう、青鬼が閻魔様に僕らの申し立てを伝えて、吟味してもらえるそうだよ」
「赤鬼くんによれば、この申し立て次第なんだってさ。極楽で本来の【最良の人生】に行く、僕ら六道の辻で頑張れば、土方さんの人生から抜けて、極楽に行けるんだ」
「待て、総司。土方さんの人生から抜けるとは、残った副長は地獄に墜ちるのか」
「さあね、そこまでは赤鬼くんは何も言ってなかったよ」
「でも、デブの赤鬼の言うことだと、みんな公平にお沙汰が下る。もしそれが、本当だったら、きっと土方さんにも極楽行きのお沙汰が下るんじゃない」
斎藤は、少し安堵したように息をついた。
「土方さんを心配するって、一君らしいね」
「これは、僕が先に赤鬼くんから聞いた情報。これから土方さんが着いたら、三途の河を渡って、六道の辻に行くからね。申し立ての心づもりをしておくといいよ」
総司はそう言って、斎藤に笑いかけた。斎藤は、総司の言っていることの半分も理解が及んでいない気がしたが、六道の辻での【申し立て】の心づもりは、忘れずにしておこうと心に決めた。総司は、賽の河原で長く、間者働きをしていたのであろう。赤鬼を手なづけているのには驚いたが、自分も含め、新選組の皆が極楽に行けるのであれば、それは申し分ない。そう思いながら、再び総司に続いて、霧を抜けて近藤達の元に戻った。
*****
土方歳三
ようやく土方が河原に現れた。険しい表情で、手に角帽子を持ったまま足早に歩いていたのを近藤が遠目に見つけて手を振った。生前同様、細面で経帷子の胸を深めに襟を取って着こなす姿は粋な様子で、端正な顔は颯爽としている。土方が歩くと、どんよりとした賽の河原の空気も薫風が吹くよう。 近藤たちは立ち上がり、大喜びでかつての仲間を迎えた。
「大将、元気そうじゃねえか」
土方は、近藤と肩を持ち合って再会を喜んだ。
「トシ、皆で待ちわびたぞ。よく頑張った。時々、あっちに戻って空から見ていた。最後まで大役、真にご苦労だった」
近藤がひとしきり労いの言葉をかける。それを聞く土方の目尻に光るものが見えた。皆が、土方に駆け寄った。
「やっと大取が現れた。土方さん、待ってたぜ」
皆の元気な姿に土方は喜んだ。思う存分自分は闘って生きた。振り返れば、上等な人生だった。ただ心残りは蝦夷に置いてきた千鶴のことだけだ。土方は、千鶴を思い胸が締め付けられた。最後まで泣かし続けちまった。
「副長、こちらに」
山崎と斎藤が座り心地の良さそうな石を抱えて地面に置いた。皆でひとしきり挨拶しあうと、土方を囲んで車座になった。
「トシ、もう三途の河の渡しの手配が済んでいてな。直ぐにでも出発できるぞ」
土方は、渡った先に何があるのか近藤に問いかけた。
「閻魔庁がある。そこで、詮議にかけられるんだが、その間、六道の辻に行かねばならん。これからの道行きは、山崎くんが詳しい。彼に説明して貰おう」
近藤はそう言うと、山崎にこれから先の話をさせた。
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彼岸の道行き
山崎が身仕舞いを正して皆の前に立った。
「これから、わたしが話すことは、多少皆さんを驚かすことになるかもしれません。一通り説明をしてから、質問を受けます。すみません。段取りを追って話しをしたいので、ご了承ください」
皆が、静かに頷いた。
「すまねえ、山崎。話を始める前に、先に一つ聞きてえ事がある」
土方が手を上げて、山崎を止めた。
「ここに、なんでこいつが居るんだ。おい。風間、なんでお前が俺らと一緒にいるんだよ」
皆が、井上の隣に座る風間を見た。風間は、涼しい顔で座っている。手には白い扇子を持って、少し開いては閉じ、開いては、閉じ。面倒そうに、土方の質問に答える様子を見せない。
「トシ、俺が誘ったんだ。彼は少し前に見えてな。随分、困っているように見えたので、同席してもらっている。生前は我々は敵同士だったが、それも多生の縁だ」
「こいつは、俺のことをしつこく蝦夷まで追いかけて来やがった。先に地獄に送ってやったんだ。おい、風間、うろちょろしてねえで、とっとと先に逝きやがれ」
「フッ、先に逝くもなにもない。貴様も鬼籍入りしているものを」
風間は嘲笑し、扇子で口元を隠した。
「なにを、言っていやがる。ここは賽の河原だ。そんなキンキラの死装束でうろちょろしてんじゃねーよ。それにな、これから三途の河を渡るってのに、扇子なんか持って、てめえは現世への未練たらたらで見苦しいんだよ。そんなもん、そこの河にでも放り投げやがれ」
「黙れ、人の死装束にとやかく言う貴様の下卑た了見が浅ましい。これは、冥土の道行きに恥ずかしくないものをと天霧が用意したもの」
風間は立ち上がると、袖を伸ばし上絹の光沢のある経帷子を皆に見せつけた。
「鬼の道を踏み外した俺様に。せめて最後は頭領らしい餞をと。天霧が……」
そう言って、風間は横を向き俯くと、光る目尻を袖で押さえた。
鬼の目にも涙。
皆が心の中で思った。土方を執拗に追いかけた風間も、新選組同様、心にある信念の上での事だろう。千鶴へのつきまといには、ほとほと迷惑していたが、こうやって互いにあの世に来た以上、生前の恨みは忘れるべきなのか。
土方は、風間が珍しくしおらしくなったので、それ以上は風間の同席を拒まなかった。近藤が山崎に話しを始めるようにと促した。
「これから我々は、三途の河を渡って彼岸に逝きます。ここに居る皆で舟を貸し切ります。渡しは、赤鬼の太郎さん。彼は船頭歴地獄年五年。櫓の腕は確かだそうです」
「ご存じの方もいらっしゃいますが。河を渡る注意が一点。決して、河の水を口にしないこと。船酔いで、気分が悪くなると、河の水を掬って飲みたくなりますが、絶対なりません」
「飲むと前世の記憶が一切なくなります」
皆が、息を呑んだ。恐ろしい。前世の記憶をなくすとは。
彼岸の先には、青鬼が待っています。青鬼は閻魔庁に属する役人。赤鬼より権限があり、怒らせると厄介です。青鬼の後に続いて、閻魔庁の玄関に廻ってください。そこで、一人一人名前を呼ばれます。この時は戒名ではなく。現世の名で、死に様を一緒に呼ばれます。
「俺は、斬り死に新八だ」と新八が胸に手をあてて言った。
「俺は、人灰平助だ」と平助が笑う。
「じゃあ俺は、槍突き左之助だ」
「そうか、俺は間違いなく『打ち首獄門』近藤勇だ」
そう言って近藤が笑った。皆が、それまで笑っていたのを止めた。
「なんだ、そんなに打ち首獄門はまずいか?」
近藤が、皆を振り返って尋ねる。
「ちがうよ。オレら、近藤さんの処遇だけは、納得いってねえんだ」
平助が真剣な表情で応えた。
「そうか。平助。武士は武士らしく、死に様もそうありたいと思う。だが、わたしは自分の死に様は自分らしいと思っている」
「何も恥ずかしいことはない。我らは逆賊の汚名を着せられたと思っていたが、そうではない」
「トシもだ。先に三途の河を渡って逝った山南さんも、俺自身も、皆その時の最良の選択をした。武士は後悔しないことだ。その時に精一杯やっていれば、何も恥じることはない」
皆が、黙って近藤を見詰めた。近藤は、微笑んだまま山崎に合図をして話を続けさせた。
「名前を呼ばれた者は、詮議開始となります。お沙汰が下りるまで、我々には、現世の徳について自分から 申し立てをしますが。それを行う為に、我々の共通人生をおさらいします」
皆が、きょとんとしている。突然、聞き慣れない言葉ばかりで訳がわからない。総司が斎藤に片方の瞼を閉じて合図を送ってきた。いよいよ申し立ての本題に入った。斎藤はそう思った。
「現世の徳とは、言葉どおり。良い行いを生きている間にどれだけしたか。それを詮議されます」
「共通人生についてですが、これは、我々のお互いに関わりあった人生です」
「皆さん、それぞれ生を全うされたのは、この共通人生における土方さんの人生での皆さんの人生の終焉です」
「皆さんの詮議は、この共通人生部分。ここでの生き様を吟味されます」
「そして、閻魔様のお沙汰は、徳がある者にはそれぞれの【最良の人生】すなわち極楽 へ」
「そうでない場合は、【最悪終焉(バッドエンド)】すなわち地獄行き」
「以上、これが我々の道行きの大まかな説明です」
「山崎、質問していいか?」
左之助が手を挙げて訊いた。山崎は頷いた。
「前世の徳うんぬんは、よくわかった。だが俺らが何で、【土方さんの人生】での人生なんだ? 俺らは俺らの人生じゃねえのかよ」
山崎は、静かにゆっくりと頷いた。暫く伏し目がちに下を向いて、決心したように話を始めた。
「土方さんの人生。これが我々が生きて闘い、日々過ごした人生です」
「おい、山崎、一体何言ってんだ。俺は、さっきからさっぱりわからねえ」
新八が、腕を組んで首をひねっている。総司が手を挙げた。
「ねえ、山崎くん。僕が代わりに説明していい?」
山崎が驚いたように総司を見たが、そのまま総司は立ち上がって話しを始めた。
「僕らは、ずっと生きて、それぞれの人生を全うした訳だけど。これは、一つの選択の末の出来事」
「厳密には、沢山の人生の分岐を辿って行き着いた結果、それぞれ斬り死んだり、病で死んだり、鉄砲で撃たれて人生が終わった」
皆が、総司の話に聞き入った。
「でも、この分岐を全く別の選択で進んで、別の人生を生きることが出来る。個別人生というのがあるんだよね」
「それを、選ぶのが極楽のお沙汰だよ」
「僕らは、今からどれだけ共通人生でいい行いをしてたか。それを青鬼に訴えることができる」
「僕らは僕らの人生に進めるんだ。もうこうやって土方さんの人生の一部じゃなくね」
総司が土方に笑いかけた。土方は、席を立って問いかけた。
「おい、総司。一体何の話をしてんだ。何が俺の人生の一部だ。みんな、それぞれの人生を全うしてここに来たんだろーが」
「そう、さもそう生きたようになってるけど、本来なら、僕らそれぞれの人生がある」
総司の翡翠色の瞳がきらりと光った。
「なんだ、そりゃ。人はな。一回きりの人生なんだよ」
土方は、そう言い捨てた。
「そうだよ。だから、ここでお沙汰を受けて、それぞれの選択に逝く。極楽か地獄へ」
山崎が、決心したように話だした。
「沖田さんが話された通りです。我々は自分の人生と思って全うしたのは、【土方歳三人生(ルート)】です」
山崎の宣言に、皆がどよめいた。
「閻魔庁の外にある、六道の辻では、我々の為に活動写真が用意されています」
「芝居小屋のような場所だそうです。そこで、我々の現世の人生、すなわち共通人生を皆で一緒になぞっていきます」
「なんだ、芝居か。俺たちの人生って、二十年以上あるぜ、そんな長い芝居があるのかよ」
新八が、訝りながら問いただす。
「活動写真は走馬燈のようなものです。時間も空間もない。なので【おさらい】はあっという間でしょう」
「おい、山崎」
土方が、大きい声で遮った。
「いってえ、お前。何者なんだ。俺が、自分の人生を芝居みたいな短いもんだって、なぞられるって」
土方は、言葉が続かない。山崎は、微笑しながら言った。
「私は監察方です。新選組に役立つ情報を探って来る。現世も、こちらでも変わりません」
「ねえ、土方さん。山崎君はすっかり狂言回し役になっちゃってるけど。この情報。あのデブの赤鬼から貰ってきただけだよ」
そう言って、総司は再び立ち上がった。
「僕はね、もう一人の痩せた赤鬼くんからもっと大切な事を教えてもらったからね」
そう言って、総司は笑う。
「なんだ、総司。もったいつけてねえで、とっとと教えろ」
土方が腕を組んで、ふてくされたように命令する。
「さっきから言ってる、共通人生のおさらいだけど。厳密に言うと、僕らが生きてる時にどれだけ【千鶴ちゃん】を幸せにしたかって。そこを詮議される」
皆が、千鶴の名前がでたことで、真顔になり立ち上がった。
「なんだよ、千鶴を幸せにしたかって? 当たり前じゃねえか、俺らみんなで千鶴を守ったじゃねえか」
平助が、怒ったように言い放った。
「千鶴の事は、誰にもとやかく言われる筋合いはねえよ。俺らは精一杯、千鶴を守った」
左之助もそう言って、総司を真剣に見詰め返した。
「そうだぜ、千鶴ちゃんは俺らの可愛い妹分だ。ないがしろにした覚えは一度もねえ」
新八もそう言って、堂々と立ち上がって胸を張った。
「俺もだ、総司。雪村を精一杯護衛した。危険な目にあっても怪我ひとつ負わせた事はない」
斎藤もきっぱりとそう言った。
「僕もそうだよ。病気でさんざん世話になったけど。あの子は心から僕の病気が良くなるように看病してくれた。僕はこの中で一番千鶴ちゃんの傍に居たと思ってる」
総司は、そう言いながら土方を見詰め返した。
「おい、待て。さっきから。雑魚どもが、千鶴、千鶴と、慣れ慣れしい。雪村千鶴は、我妻となる女鬼だ。【奥方様】と呼べ」
風間が負けじと、一段と大きいよく響く声で皆に釘を刺す。
「おい、ちょっと待て。鬼の頭領さんよ。貴様には、さんざっぱら千鶴は迷惑こうむってんだ。千鶴はな、俺と蝦夷で一緒になった。俺が此処にやってくる寸前まで、手を取り合って一緒に居た。あいつは俺のもんだ」
土方は、風間の前に立ちはだかって言い放った。
「ねえ、土方さん。それは、あくまでも【土方歳三人生】の話だよ」
総司が、皮肉を込めた表情で呟く。
「僕たちが詮議を受けるのは、共通人生。厳密には、僕らが伏見奉行所に移るまでのこと。千鶴ちゃんと僕らが一緒に居たのは、それまでの四年間だから。僕らはこれから、六道の辻で、京の屯所時代の【活動写真】をみることになる」
土方の表情は一変した。京時代だと。俺は千鶴とあの頃はいい仲でもなんでもねえ。活動写真? 一体なんの事だ。俺は、せいぜい、千鶴と一緒に屯所の広間で飯食ったりしているぐらいだろう。
だんだん土方は不安になってきた。この詮議。もしかすると、俺にとっては厳しいものになるのか。
総司は、考え込む土方の様子を見て微笑した。だから言ったでしょ。これは閻魔様のご沙汰なんだから、そう一筋縄じゃ行かない。
「僕らは、一緒に【活動】を見た青鬼くんに【申し立て】することが出来る。どれだけ千鶴ちゃんを幸せにしたかって訴えればいいだけなんだから。簡単なことでしょ?」
と言って総司は笑った。
「山崎くん、総司。ありがとう。いろいろと赤鬼から情報を得てくれたようだな。確かに、我々の人生は選択の連続だ。あの時こうしていれば、どうなっていたと後々振り返ることはある。人生はずっとそれの繰り返しだ」
——皆が、それぞれの人生の主人公。
「素晴らしいじゃないか。俺はそう思うぞ。閻魔様のお沙汰は公平なものだろう。俺は六道の辻で、人生を振り返るのが今から楽しみだ。なあ、トシ。そうだろ?」
近藤に微笑みかけられて、土方はようやく笑顔を取り戻した。だが、しゃらくせえ。したり顔の総司といい、千鶴を幸せにしたかの詮議といい、何を今更。俺は千鶴と全うに生きた。極楽へでも地獄でも、千鶴と生きたことを胸に進んでいきゃいい。俺は満足だ。
近藤が、皆にそれでは出発しようと声をかけた。三途の河の渡し場に向かい、予約した舟に乗り込んだ。近藤が払った渡し賃は、破格大判振る舞いの金三両だった。船底には、ふかふかの緞子の座布団が人数分用意されていた。風間は、この待遇に満足しているようだった。足を立てて腰掛けると、懐から煙管を取り出した。それから水面を眺めながら、気怠い風情で煙を燻らせた。赤鬼の太郎は、風間に駄賃を貰うと、鬼の船頭唄を歌って、いい喉を披露した。河の流れは、緩やかで、あっという間に彼岸に到着した。
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六道の辻
彼岸の渡し場は立派な艀に繋がり、小太りの赤鬼の誘導で近藤達一行は、橋のたもとで青鬼に引き渡された。青鬼は、正にその名の通り青いのだが。身体全体が緑かかった色で、山吹色の陣羽織が映える。持っている金棒は赤鬼の金棒より遙かに大きい。見るからに力も強そうだ。
青鬼は目の前にある大きな門をくぐった。派手な建物は、屋根が天に向かって反り返り御伽草子に出てきた竜宮城が朱や金の装飾で飾りたてられた様。玄関をくぐるとそこは薄暗く、一番奥にある扉が開いて、そこからもう一人更に立派な身なりの青鬼が現れた。手には巻物を持って、手前の台にそれを広げると、咳払いをしてから、名前を呼び始めた。
「打ち首ごくもーん、近藤勇」
名前を呼ばれた近藤は、青鬼について扉の前に立った。
「砲弾腹受け即死、井上源三郎」
「丸二日食べずに、体力限界の上斬り死に、山崎烝」
「斬り死に、出血多量、永倉新八」
「労咳短命、座敷にて絶命、沖田総司」
「槍突き、心の臓止まる、原田左之助」
「寿命尽き、灰となる、藤堂平助」
「砲弾受け、相打ちの末、出血多量、斎藤一」
「斬り死に、心の臓止まる、風間千景」
「寿命尽き、女の膝の上で絶命、土方歳三」
皆が、土方の死に様に絶句した。
「ちぇっ、膝の上って、千鶴のかよ」
平助がふてくされたように小さな声で呟く。
土方は颯爽と歩いて来た。その表情は誇らしげで、暗い扉口も土方が佇むと空気がぴーんと冴え渡る。
「以上、貫天院殿さま御一行、これより詮議開始ー」
青鬼が読み上げ終わると、傍の赤鬼が大きな銅鑼を打ち、辺りはグアーンという大きな音が響き渡った。
近藤達は、扉の向こうを抜けると、そこは回廊となっていた。「順路」と書いてある左側に進んだ。長い廊の途中、左側に大きな扉があった。そこに青鬼が立っていて、近藤達が辿り着くと、扉が開いた。
「六道の辻」
青鬼が大きい声で叫び、近藤達を送り出した。表は、夕暮れ時のように空が茜色で。目の前は通りに繋がっている。まるで江戸の吉原のような。人々が道を行き交い。どこからか三味や小唄が聞こえ、陽気な雰囲気だった。新八が雑踏に向かい駆けだした。
「おい、こりゃあたまげた。彼岸の先にこんな街があるなんてよ」
平助も新八に続いて通りにでて辺りをきょろきょろと見回している。
「おお、ぱっつあん、あれ見てよ。あそこ、寄席がある」
指さされた方角を見て、新八が駆けだした。
「その隣が芝居小屋かあ。なになに演目は【助六】へぇー、初代から八代目の市川團十郎が勢揃い。こいつぁ、凄えな。観てみてえな」
新八は、招き看板を見上げて、しきりに感心している。
「おお、凄え。成田屋勢揃いの十八番だ」
「ちょっと、あそこ仲見世が並んでる。ぱっつあん、とりあえずあそこが先だ。ほら、ひやかしに行こう」
浮き足立ち、走り出した二人の後を左之助が「仕方ねえな」と呆れながら付いていく。そこへ、山崎が大声で呼びかけた。
「皆さん、今から半時後にここで集合です。すぐに【活動写真】が始まりますよ」
三馬鹿は「わかった」と手を振って合図した。
斎藤は、総司に誘われて近くにあった茶屋にはいった。見たこともないような奇妙な色の団子に大きな茶碗には真っ青な飲み物。ぎょっとしている斎藤に、総司は笑いかける。
「僕なら、食べる振りだけにしておくよ。三途の河の水と同じで、彼岸の先で口にするものには気をつけなきゃ」
斎藤は、「前世の記憶が無くなる」という注意を思い出した。
「ねえ、はじめくん。千鶴ちゃんのこと、考えてるでしょ?」
総司が、肘をついて、斎藤の顔を覗き込んだ。顔を上げて狼狽する斎藤を見て総司は笑った。
「図星でしょ」
総司から【申し立て】の話を訊く前から、斎藤は千鶴を思っていた。会津の街道で、薩摩兵の進軍を防いだ時、もう、これが最後かと思った瞬間があった。土埃が舞う中、全てがゆっくりと動いて見えた、敵兵の振るう刀、己の刀。前に進まねば。そう思いながらも、動けず。それまで聞こえていた怒声や剣戟、大砲の音が聞こえなくなった。だんだんと視界が白くなってくる。これまでか。
がっくりと膝をついた。
「斎藤さん」
耳に千鶴が自分を呼びかける声が聞こえた。雪村。そう思った時に、千鶴の笑顔を思い出した。大きな瞳で自分を見上げるその顔が、今生最後に自分が思い浮かべたものだった。
総司から、「千鶴をどれだけ幸せにしたか」を詮議されると聞いて。最後に思い浮かんだ千鶴の顔を思いだした。身の内がじんわりと暖まるような幸せな気分。だが、その直後に土方が言った、「あいつは俺と一緒になった」の一言で冷や水をかけられたようになった。
鳩尾のあたりにぽっかりと穴があいた。
雪村は副長を慕っていた。雪村が大塩の陣を去る時、別れの挨拶で俺は「副長を頼む」と。ただそれしか言えなかった。土方さんは、やはり雪村と。わかっていたとはいえ、辛い。
副長も現世を離れて、こちらへ来られた。雪村は。向こうで泣いているのだろうか。
そんなことを考えながら三途の河を渡った。そして、さっきの土方の死に様は。情けないが、心底羨ましく。死に目に雪村の顔を思い浮かべただけの自分。それは、心さみしいものだった。
「ほんと、不公平極まりないよね」
総司が、団子の櫛を皿の上でくるくる回しながら言った。
「僕らは、みんな千鶴ちゃんと離れて、独りで死んだのにさ」
「どこかの誰かさんだけ、死に目を看取られて」
まるで、心に思って居ることを全て見透かされているような総司の発言に、斎藤は狼狽した。
「ねえ、はじめくん。顔が紅いよ。もしかして、お団子に口つけちゃった?」
総司が、また顔を覗き込んできた。
「いや、俺は何も食ってはおらぬ」
「そ、食べないに超したことはないよ。ここは六道の辻じゃない。実際さ、ここの先に餓鬼道があるんだって。そこに行くと、ものすごくお腹が空いて、飢えて苦しむってよ」
斎藤は、そう言われて気がついた。そうだ、不思議と河原にやって来てから、腹が空いていない。水も飲みたくない。今、目の前に団子があるが、実際、一口も食べたいとは思っていなかった。
「それでね、餓鬼道ではすごくお腹が空いて、目の前に食べ物が沢山あるんだって、でもそれを手にとって食べようとすると、炎があがって消えちゃう。なんとか口にいれても、食べ物に棘があって喉にひっかかって飲み込めない」
「そうやって、苦しむ」
と言って総司は笑い立ち上がった。恐ろしい。腹が減っているのに、食えない。正に地獄だ。斎藤はそう思いながら、立ち上がった。
茶屋を後にして、通りを歩いた。芝居小屋、土産物屋、遊女の仲見世。通りの人達は皆、角帽子をつけている、自分同様死んだ人間なのだな、そんな事を斎藤はぼんやりと考えていた。
「僕はね、どんな事をしてでも極楽に行く」
総司がまっすぐ前を見ながら呟いた。
「僕の最良の終わりでは、近藤さんは絶対に打ち首獄門なんてならない」
「僕は、近藤さんを救う。どんな事をしてでも」
総司は真剣な表情だった。
「それにね。僕はあの子の手を絶対に放さない」
総司は、微笑みながら言う。斎藤は、総司の横顔を見詰めた。
「僕の沖田総司人生では、千鶴ちゃんを抱きしめて誰にも渡さない」
斎藤は、また鳩尾に衝撃を受けた。いかん。歩けんほどだ。なんだ。総司も雪村を。渡さないなど。そう思いながら、身体が震えた。無性に腹が立った。どうした、俺は。総司にまで、悋気を起こしているのか。
「僕は、あの子をお嫁さんにするんだ」
総司は、優しい表情で斎藤に振り返った。斎藤は、道場で総司に鳩尾を三段突きにされた時よりも衝撃を受けた。なんだと。雪村を嫁に。
「あれ、はじめくん。どうしたの、顔が青いよ」
立ち止まった斎藤を心配そうに、総司は見詰めている。
「なんともない」
斎藤は嘘をついた。ふらふらするが、平気を装って歩を進めた。そんな斎藤を横目でにやりとしながら総司も再び歩き出した。一軒ほど先に近藤が土方と風間と立って、総司たちに手を振っていた。
「ね、はじめくん。いいこと教えてあげる」
そう言うと、総司はそっと斎藤に耳打ちした。
「活動で、千鶴ちゃんとの幸せな人生を少し見せてもらえるよ」
斎藤は、目を丸くして驚いた表情で総司を見上げた。
「これ、赤鬼君情報。みんなには内緒だよ」
そう言って、総司は片目を瞑って笑いかけた。
斎藤は、驚いた。雪村との幸せ。そんなことがあるのだろうか。自分にも。
じんわりと鳩尾の辺りが温かくなって来た。雪村との幸せ。願わくば、叶うなら、叶わずとも、願うだけでもよい。
そんな事を考えている内に、斎藤は近藤達に合流した。
つづく
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(2018.05.06)