第一部 分身
薄桜鬼奇譚拾遺集
慶応二年十月頃
「総司、居るか」
廊下から斎藤の呼びかける声が聞こえた。総司の枕元に座っていた千鶴は、障子の影を見ると、そっと障子を開いた。
「雪村、総司は?」
「はい、ずっと眠っていらっしゃいます」
小さな声で応える千鶴に、斎藤は、そうかと一言呟いたまま、部屋の中で横になる総司の姿を見詰めた。
「雪村、総司はずっと部屋に?」
「はい。まだ熱は下がっていません」
千鶴は、一旦廊下に出て障子をそっと閉めた。じっと考えこむように黙っている斎藤を千鶴は見詰め続けた。まだ巡察から帰ってきたばかりなのだろう。斎藤は隊服を着て、足袋の先も土埃がついたままだった。
「いましがた不逞浪士の斬り合いがあった。三条通りから寺町通りに曲がった路地だ」
「土佐藩の者だった。三名捕縛した。残党には逃げられた」
「皆さんは、ご無事だったんですね?」
千鶴が三番組に怪我人が出ていないか確認した。斎藤は、ああ、とだけ答えた。安堵した千鶴は、直ぐお茶を入れますと言って廊下を台所に向かった。その背後から斎藤が「総司を見た」と云うと、振り返った千鶴は、困惑した表情で斎藤に応えた。
「沖田さんは、ずっとお部屋で横になられています。斎藤さんまでおかしな事を仰らないでください」
千鶴が声を荒げるのは珍しい。斎藤に向かって、このような剣幕で話すのは初めての事だった。斎藤は、千鶴の真剣な表情に驚いた様子だった。九月の終わりに起きた三条大橋制札事件のあと、屯所内に変な噂が広まっていた。
——一番組の組長が市中を単独で徘徊している。
市中を見廻りする隊士から、巡察中に総司を目撃したと報告が入るようになった。隊士達は、総司が独りで市中にいる姿を目撃したという。どの話も、通りの向こうに歩いている姿を見かけた、団子屋の店先に座っている姿を見たという報告ばかり。
沖田さんが隊服を着て、河原町三条を歩いてたが路地に消えていった。
沖田さんが、隊服を着て茶屋の椅子に座っていた。
隊服姿の沖田さんが、三条の旅籠の中に入っていった。
どの話も隊服姿の総司を隊士は遠目に見かけている。
「なんで、総司だってわかったんだ」
十番組隊士から報告を受けた原田が尋ねた。
「わかりますよ。足元は脚絆つけて、背が高くて、髪の結い方も独特ですから、沖田組長は」
皆が、そうだそうだと頷いている。
他人の空似は有ると思うが、隊服まで着ているとなると、本人と疑われても仕方がない。原田は、平隊士の話を聞きながら、制札事件の夜に、千鶴にそっくりな娘を見かけた事を思い出した。三条大橋のたもとで、捕縛しかけた土佐藩士を率いていた女。
「俺の見間違えかと思ったが、頭巾がとれて見えた横顔が、千鶴にそっくりだった」
そう報告を受けた土方は、その夜は屯所から千鶴は一歩も出ていないことを確かめると。
「他人の空似だろう。どちらにしろ、夜間の外出を許していない」
と言って、それきりその話は打ち止めになった。原田は、総司の目撃情報が三条通りに限られている事から、総司を装う誰かがその界隈に出没しているのだろうと幹部で集まった席で皆に報告した。新選組を装うなど。何の目的だ。皆が訝しがった。事は深刻だと、土方が皆に注意した。総司の目撃情報は、伊東派にも知られている。幹部が隊務から離れて、単独で徘徊している噂があると、前日に伊東が直接土方に訊ねて来たという。
「噂だとしても、伊東の奴がねちねちと話しやがるのが、俺は気にくわねえ。だが、総司の格好している奴を捕まえねえ限り、この噂も絶えねえ。巡察の時に、それらしい者を見かけたら、捕縛しろ。屯所で取り調べる」
土方の指示があったのが、五日前の夜。斎藤は、夏の終わりから総司が寝込みがちで、ずっと具合が悪いことを知っていた。千鶴が総司の看病にずっとついている事も。総司が屯所を出て、市中を徘徊するなど、絶対にあり得ない。そう思っていた。つい、さっき三条通りの外れで、総司を見かけるまでは……。
千鶴は、黙っている斎藤に応えた。
「沖田さんは、ここ三日間ずっと発熱が続いています。私がついて見ています。お部屋からも出ていらっしゃいません」
言葉の端に総司の容態が深刻な事への懸念と、まるで言いがかりのように総司の徘徊の噂が立っている事への怒りが感じられた。斎藤は何も返す言葉がなく、ただ黙っているしかなかった。
「はじめくん」
廊下の角で柱に寄りかかるように総司が立っていた。背後を振り返った斎藤に総司は、「その話、詳しく聞かせて」と言って咳込むと、ふらふらと廊下を横切り、廊下の欄干に手を掛けた。千鶴が駆け寄って総司を支えた。
「厠へ行くだけだよ」
そう一言、総司は顔を上げて千鶴に微笑む。そのまま総司は厠へ向かった。斎藤は、隊服を着替えたら、総司の部屋にすぐに行くと言って足早に廊下を歩いていった。千鶴は、総司の部屋に戻って、布団の敷布を素早く取り替えた。暫くして総司が部屋に戻ったので、布団に横にならせた。また熱が高くなってきそうな様子だった。そこへ斎藤が障子の向こうから声をかけて部屋に入ってきた。そして総司の布団の傍に腰掛けた。
「はじめくんも、見たんだね。僕のこと」
総司は、さっき斎藤が千鶴に話していた事を全て聞いていたようだった。
「ああ」
「不逞浪士が三条寺町で狼藉を働いていると情報が入った。俺等は大橋から駆けつけた。寺町通りの路地裏だ。俺等が駆けつけた時には既に乱闘になっていた。路地の一番奥に隊服姿で、浪士を斬りつけている者の背中が見えた」
「それが僕だった」
「……ああ。斬りつけた後に飛び下がる格好が。肘を高く引いて一瞬で構えた」
「あの様に動くのは、総司しか俺は知らん」
「顔は見たの?」
「背後から横顔だけだ」
「最後の相手が倒れたら、それを飛び越えて路地の向こうに消えた」
「見紛うことはない……」
斎藤は静かに話す。倒れた者は三名。皆、峰打ちにされていた。土佐藩浪士だと身許は判っている。捕縛して屯所に連れ帰った。誰であれ、「総司に似た男」の手柄だ。そう言って、斎藤はじっと総司の顔を見詰めた。傍で話をずっと聞いていた千鶴は、黙ったまま濡れ手拭を総司の額にそっと置いた。斎藤はこれから土方に隊務報告をしに行くと言って立ち上がろうとした。
「ねえ、はじめくん。明日も巡察?」
総司が訊ねた。
「ああ、朝に出る」
「夕刻は? 戻ってくる?」
「ああ、午後は非番だ。夜の巡察もない」
「そう。ならいいや」
「なんだ?」
「うん、ちょっとつきあって貰おうと思ってね。お願いできる?」
「ああ、昼には戻る」
そう言って二人は約束すると、斎藤は部屋を出ていった。総司は直ぐに千鶴に山崎を呼んでくるように頼んだ。
******
荒療治の名人
千鶴が山崎を部屋に呼んでくると、総司は開口一番。
「ねえ、この熱を下げて。明日には、僕をしゃんと起き上がれるようにして」
と頼んだ。総司はうっすらと笑顔を見せているが、その目は真剣な光を放っていた。枕元に座り、総司の首の後ろに手をあてて熱を診ながら、山崎はじっと総司の瞳を見詰め返した。
「少々、荒療治になりますが。やってみますか?」
総司はこっくりと頷いた。
「うん、僕、どんなに不味い薬でも飲むよ。蜥蜴の黒焼きでも」
「熱を下げるのには、ちょうどいい頃合いです。今すぐとりかかりましょう」
山崎は、千鶴に湯を沸かして、大根湯を作るように頼んだ。それから、自分は煎じ薬を用意するから、その間に集められるだけの晒しと敷布、寝間着、布団を総司の部屋に運ぶようにと指示した。千鶴は、はいと返事して、ぱたぱたと台所に走っていった。総司は、障子の向こうに消えた千鶴の影を見ながら、静かに微笑んでいた。
千鶴は台所で大きな薬罐で湯を沸かした。大根の根の部分を切っておろし金ですり下ろす。生姜もちょうど新鮮なものを朝に手に入れていた。それも細かくすり下ろした。それから、大広間の押し入れから掛け布団を出した。前日の良く晴れた日に、相馬達に手伝ってもらって干しておいたもの。ふかふかとしていた。それを総司の部屋に運んだ。総司は、起き上がって刀の手入れをしようとしていた。千鶴がぱたぱたと押し入れから、敷布を取り出し、行李から浴衣や長着を取り出しては、着物入れに並べている。そして、ぶつぶつと確認しながら、再び部屋を出ていった。
台所で湯が沸くと、鉄瓶に移して番茶を大量に煮立てた。すり下ろしておいた大根と生姜を丼にいれて熱い番茶を注ぐ。そこに塩をひとつまみ、醤油も少したらす。大根湯のできあがりだ。千鶴は丼に蓋をすると、それをお盆に載せて総司の部屋に向かった。部屋では、既に山崎がどす黒い色の煎じ薬を小さなお猪口で飲ませていた。総司は、苦々しい顔をしているが、胡座をかいたままゆっくりと飲み干した。
「それで、次はなに?」
まるで、挑むかのように山崎に向かって微笑む。いつもの総司からは想像もつかない。投薬を嫌がり、駄々を捏ねては山崎を毎日のように困らせている総司が、自分から薬を飲むというのは、屯所が始まって以来。山崎は素直な総司に驚きながらも、次は、布団に横になってもらいます。そう静かに答えた。
千鶴は、布団の隣にお盆を置いて総司が布団に横になるのを助けた。山崎に大根湯を持ってきたというと、山崎は礼を言って、熱いうちに全部飲んで貰うようにと千鶴に指示をした。そして、総司に向き直ると。
「これから。布団蒸しをします。発汗することで、身体の毒を外にだす。ちょうど熱が上がりそうな今がいい頃合いです。高熱は辛いですが、こうして布団で身体を蒸すことで、逆に沖田さんは体力を使わずに熱を上げることが出来る。腹に何も入っていないのも都合が良い」
山崎が微笑みながら説明するのを、じっと総司は聞いている。千鶴は、大根湯を飲ませる準備をしながら、これから大量に着替えや敷布が必要になると思った。さっき準備した分では足りない。
「大根湯は、熱いうちに全部飲み干すこと。直ぐに発汗します。布団に一刻は動かずに横になってもらいます。絶対に動かないこと。布団に隙間ができると体温が下がって、逆に悪化する。これを守ってください」
「眠るのが一番です。寝ている間、俺たちが見ているので安心してください」
山崎は自信を持ってこの荒療治の効き目を話した。明日にはきっとしゃんとなりますよ。そう言って笑う。総司は、へえ、と呟いて笑顔になった。この二人がこのように笑い合う姿は本当に珍しい。千鶴は、大広間の押し入れから敷布を沢山取り出した。それを抱えて持って歩いているところを、廊下で斎藤に会った。土方への隊務報告を終えて、これから捕縛したものの訊問に向かうという。千鶴は、総司がこれから「布団蒸し」にされると伝えた。斎藤は聞き慣れぬ言葉に、それは何だと尋ね返した。千鶴は、熱の荒療治で、明日には総司はしゃんとするからと説明しながら足早に廊下を総司の部屋に向かって行った。
それから、総司は大根湯を飲み終わると布団に入った。山崎の指示で、首回り、足回り、手の先まで晒しでぐるぐる巻きにした。その上から敷布で挟むように全身を覆うと、その上から掛け布団を二枚載せた。「重い」と一言総司は呟いたが、山崎はもう一枚載せるという。総司は、「いいですよ」そう言って、諦めたように笑って眼を瞑った。
千鶴は、総司がじっと動かずにいる事を見張っていた。山﨑が、沖田さんは寝入り始めた様子だ。そう囁いた。千鶴は、総司の呼吸がゆっくりなのを確かめると、ほっとした気分になった。眠ることで、発汗しやすくなるから心配には及ばない。山﨑は、そう笑うと、
「手足を動かして、布団の外に出すと、悪化する。そこだけ十分に注意して見張っておいて欲しい」
といって、交代で総司の番をしようということになった。千鶴は総司の布団の傍で、隊服に火熨斗をかけた。新しい黒八丈の羽織。今までの、浅葱色のものより、生地がしっかりとしていて暖かい。これからの季節にはぴったりだった。いつも濃紺や墨染の着物を好んで着ている斎藤が、この羽織を纏うと威厳がある立派な立ち姿になるだろう。そんな風に想像しながら作業した。土方の提案で、白地に赤で新選組のだんだら模様のついた腕章を袖に縫い付けるように言われていた。それにも綺麗に火熨斗をかけた。今晩中には、全員の隊服を仕上げられそうだ。
暫くすると、山崎が手に走り書きを持って部屋に入ってきた。今夕から、総司に計画的に食事を摂ってもらわないといけない。食事を与える時間と分量。食べさせたいものが細かく書かれていた。千鶴は、屯所に今あるもので今日の分は十分用意できると山﨑に伝えた。山﨑は千鶴に食事の準備を優先して行って欲しい。そう伝えると、千鶴は、下準備にちょっと、そう言って部屋を出て台所に向かった。
五分粥、野菜の汁物、卵ふわふわ、煮豆腐、すりながし
明日、
野菜の煮物、おこわ(できれば野菜や豆を沢山いれたもの)、魚のすり身
少量を細かく回数を分ける。好き嫌いさせない。とにかく飯、飯を沢山食べさせること。
千鶴は、魚のすり身が手に入らないか考えこんだ。市場に行くのは、明日の方が良いか。行商が来るのは、明後日だ。それからお粥を炊く準備をすると、野菜の下こしらえをした。
総司の部屋に戻ると、総司は額から玉のような汗をいっぱい出していた。頬が赤く上気したような顔をしている。暫く、こんなに血色の良い総司を見たことがなかった。もう普通に感じていた沖田の顔色は、随分と青白いものだったのだな。そう思いながら、そっと手拭で汗を拭った。ずっと付いていた山崎は、もう半刻以上も眠り続けている。いい具合に発汗しているから、安心していい。そう言って部屋を出て行った。
それからもずっと総司は眠り続けた。もう昼八つ。千鶴は隊服に腕章を縫い付けながら、時折総司の額の汗を拭った。
「雪村」
障子の向こうから斎藤の声がした。千鶴は障子を開けて斎藤を招き入れた。「布団蒸し」の最中だと伝えると、布団の山の下で、顔を赤くして眠る総司を見て驚いた。
「随分と顔が赤いが……」
「はい、悪い毒と闘っているとそうなるそうです」
「毒と……」
「はい、毒に勝つための布団蒸しだそうです」
「なにか俺にできる事はないか?」
「はい、沖田さんが、斎藤さんがお見えになったら、刀の手入れをお願いしたいと仰っていました」
千鶴は、総司の刀置きの前で膝をつくと、打刀と脇差の両方を指差して、両方きっちりと手入れをお願いしますと頼んだ。斎藤が打刀を抜いて確かめた。真剣な表情で吟味している。千鶴は、刀の事は判らないが、斎藤が刀にかけては目利きで、局長の近藤も刀商が屯所に現れると斎藤に良い刀か見てもらいたいと頼んでくるのを何度も見かけていた。
「あっつい」
背後で総司の声が聞こえた。かすれた声で、水、水、と呟いている。千鶴は吸い飲みで総司に白湯をたっぷりと与えた。それから額や首の汗を拭った。丁度山﨑が部屋に入ってきて、布団を一枚はぐった。そして、ゆっくりと総司の体を起こした。全身見事な汗だらけ。髪の毛も盥の水を頭からかぶったようになっている。山﨑は、お疲れさまでした。一度目の布団蒸し大成功です。そう云うと、千鶴にすぐに汗を拭って、乾いた寝間着に着替えさせるよう指示した。千鶴は敷布も乾いたものに取り替えた。総司の体は熱いままだったが、額や首は微熱程度だった。
「一度目って、ことは二度目だね」
再び横になった総司が力なく笑う。山﨑は、そうだと言って微笑んだ。二度目は短い時間で発汗する。これで、完全に毒を消せます。咳も出なくなっているでしょう。いい兆候です。そう云いながら、再び総司の首や手足に晒をぐるぐる巻きにして敷布で体全体をくるんだ。
「はじめくん、そこにいるのはじめくんだね」
総司はまっすぐ天井を向いたまま斎藤に話しかけた。そして斎藤に刀の手入れを頼んだ。この借りは必ず返すからと礼を言った。「いいよ、布団かけて」と山﨑に合図した。千鶴は、もう一度たっぷりと白湯を飲ませた。斎藤は、布団の総司をのぞき込むように見て伝えた。
「手入れは承った。見たところ、欠けもない。よく研げている」
総司は安心したように微笑んで再び瞼を閉じた。千鶴は、出来上がった斎藤の隊服を斎藤に渡すと、斎藤は礼を言って、刀と一緒に大事そうに抱えて部屋を出て行った。山﨑に総司をお願いして、千鶴は粥づくりに台所に向かった。
二回目の布団蒸しも大成功だった。半刻もかからずに、一度目と同じぐらい大量に発汗した総司は、山崎によると、微動だにせず、完璧な体勢を保ったまま横になり続けていたらしい。
「ここまで我慢強くいらっしゃるとは、予想外でした」
と言って珍しく山崎は、ハハハと声をたてて笑った。千鶴も一緒になって、嬉しくてクスクスと笑うと。
「なに二人して、結託しちゃって」
総司は勢いよく、濡れた着物を脱いで褌一枚で胡坐をかいて座り込んだ。千鶴は笑いながら用意しておいた新しい褌と寝間着を渡すと、背中に回って汗を拭った。総司の背中の肌は汗でひんやりとしているが、首や背中をさわってみると温かく、熱は完全に引いていた。背中から寝間着をかけると、総司は袖を通して立ち上がり褌を新しく締め直した。
「なんか、身体がすっきりした。しゃんとしたよ。これって薬のおかげ? 布団蒸し?」
「どちらもです。それと、沖田さんの身体のおかげです。毒と闘って見事に勝った。流石です」
沖田を見上げながら話す山﨑に、総司は嬉しそうな表情で頷くと礼をいった。
「君も千鶴ちゃんも荒療治の名人だね」
「あー、お腹がすいた。ぼく今だとお櫃いっぱいのご飯食べられそう」
千鶴と山﨑は顔を見合わせた。二人で頷くと、千鶴は「早速、おもゆから始めましょう」と言って台所に走って行った。斎藤の部屋の前で一旦止まって、廊下から「斎藤さん、斎藤さん」と呼びかけた。斎藤は障子を開いて、何事だと驚いた。千鶴は、沖田さんの熱が下がった。随分元気になられた。これから沢山ごはんを食べてもらう。きっとよくなる。上気した笑顔でそう話すと、そのままパタパタと廊下を走って消えていった。斎藤は、「布団蒸し」が功を奏した事に感心しながら、千鶴の走って行った廊下を眺めて微笑んだ。
それから千鶴は、山崎の指示通りに総司が夜に眠りにつくまで、数回に分けて食事を与えた。五分粥では物足りないぐらいだといって、何度もお代わりをした総司は、山崎の出す苦そうな煎じ薬も嫌がらずに飲んだ。山﨑は、今夜ぐっすり眠れば、さらに明日には身体がしゃんとする。力を出すためにしっかり食べましょう、と言って部屋を出て行った。
「明日は朝市にでかけて新鮮なお魚を買ってきますね。すり身にしてあんかけを作りますから」
と言って、千鶴はおやすみなさいと挨拶して下がっていった。
翌朝、早朝に草鞋を履きかけた千鶴に背後から斎藤が声を掛けた。錦市場まで自分が護衛しようという。千鶴は、朝の巡察も控えている斎藤に悪いからと断ったが、斎藤は「構わぬ」と一言いって草鞋を履くと、護衛に出ようとした相馬と野村に自分が代わりにでるから良いと断った。まだ、外は暗く肌寒い。だが千鶴は斎藤と朝市に出かけられるのが嬉しかった。ここのところ、外出をすることは殆どなく、非番に斎藤と出掛ける機会もなかった。
「朝晩冷えるようになった」
「はい、今朝はいちだんと」
斎藤の歩く速さは、千鶴に合わせているつもりだが、千鶴は小走りでついて行っている。今朝はお粥でなくご飯を沖田さんに食べて貰います。斎藤さん、巡察の後お昼は外でお召し上がりですか。千鶴が息を切らせながら、覗き込んで尋ねる。
「わからぬ。昨日のように、何か事が起きないとも限らん」
「そうですか。昼餉におこわを炊く準備をしていて。具だくさんで、久しぶりに作るので、できあがりを斎藤さんにもと思っていたんですが」
千鶴が残念そうな顔をしているのを見て、できる限り昼に間に合うよう戻ろうと斎藤は応えた。四条通りから、柳馬場町の角を曲がるようにと斎藤に促されて、二人で大急ぎで歩いていった。辺りは白んで明るくなってきていた。
魚市は普段見かけない大きな魚もでていて、千鶴は驚いた。大きな銀だらの切り身を手に入れ、新鮮な鰯も買うことが出来た。喜ぶ千鶴に、斎藤が店の奥の居店に座ろうと誘った。魚屋の奥の壁沿いに椅子が並べてあった。長い板が壁に渡してあり、台になっている。二人が座ると、奥から女将らしい前掛けをした女が現れ、「おこしやす。何にしましょ」と声を掛けてきた。
「鱈の粕漬け、鯖の塩焼き。飯を二膳」
斎藤は、慣れた様子で女将に注文をした。千鶴は、急いで帰って朝餉は屯所で取ろうと思っていたので驚いたが、となりの斎藤は、千鶴が起きる前に御堂で稽古を済ませた後で、お腹が大層空いていると言う。昼にこのお店に来ると長蛇の列でおまけに席の数も少なく、三番組の隊士と一緒に入ることができない。いい機会だ。そう言って微笑んだ。
出てきた焼き魚は、どれも美味で、一緒に食べた豆腐のお味噌汁も美味しく、二人は大満足で店を後にした。八百屋で大根や里芋も手に入れた。市場を後にして烏丸通りを下った。陽が昇って、辺りは明るい。
「今日、総司は例の男を探しに出るつもりであろう」
斎藤は、前を見たまま呟いた。千鶴は、はい。そう答えた。病に倒れて以来、こんなにも真剣に病を治そうと努力されるのは、たぶん初めてです。千鶴がそう話すのを、頷きながら斎藤は静かに歩き続けた。
「元気になったと。そう言っていたが、起き上がって、巡察できるまで回復して」
そこまで尋ねたところで、千鶴が遮った。
「大丈夫です。私が責任を持って。朝ご飯も普通にご飯を食べて貰います」
「山崎さんが、献立を作ってくださいました。力が出るものを。消化の良いもの。おこわもお魚のすり身も全部少量でも身体がしゃんとすると」
千鶴が意気込んで話すのを少し驚いた様子で斎藤は聞いていた。そうだな。そう言って、斎藤は笑った。自分が総司に付いていよう。決して無理はさせず、「例の男」を捕縛。いや、総司の事だ、きっと意地でも見つかるまで探し続ける……。あの者。手練れであることは間違いがない。逃げ足も早い。だが総司と二人でなら、問題はなかろう。
黙って考え込んでいる斎藤の顔を、横でじっと眺めながら千鶴が歩いて居ることに気がついた。心配そうな眼をしている。
「案ずるな。俺が付いていく」
そう言った斎藤に、千鶴はほっとした表情で微笑んだ。
「斎藤さんも、しっかり【おこわ】を召し上がってくださいね。力がモリモリでますから」
千鶴は、嬉しそうにそう言って笑った。二人で屯所に着いた時には、既に広間に皆が集まって朝餉を食べていた。斎藤は、このまま支度をして、巡察に出ると言って部屋に戻っていった。千鶴は、ご飯をおむすびにして、野菜の煮物、ふわふわ卵を持って、総司に持っていった。総司は、すっきりとした顔をしていた。ここのところ一番体調がいい。そう言って嬉しそうに朝餉を食べた。千鶴は「これで昼餉もとれば、もう午後にはきっと」と言って微笑みながら給仕をした。
食事を取り終わった頃に、山崎が煎じ薬を持って現れた。山崎の見立てで、朝餉が終わったら床上げしてもいいという事だった。だが、のんびりと過ごしてもらいたい。そこを念を押された。総司は、頷いた。千鶴は、総司の着替えを手伝った。ほぼ数ヶ月ぶりに、普段着姿になった総司の髪を結い直すのも手伝った。血色も良い。きっと大丈夫だ。
それから千鶴は、大量の洗濯物を洗って干した後におこわと魚のすり身のあんかけを作った。幹部の食事には、鰯の団子汁を大量に作った。お昼頃に、巡察から斎藤たち三番組が戻ってきた。今日は、市中に変わった様子はなかった。総司に似た男の目撃情報もない。そう報告を受けた土方は、これから黒谷に用事に出掛けて夜遅くまで戻らないと、急ぎ出掛けてしまった。
総司は、昼餉を斎藤と一緒に部屋で食べた。食べる量は、斎藤と比べると圧倒的に少ない。それでも、普段の総司からは、想像もつかない位の食欲と快復した様子で、斎藤は驚いた。
「はじめくん、これから手合わせお願い」
総司が頼むと、斎藤は頷いた。感覚を取り戻したいのか。よかろう。斎藤は心の中でそう応えながら、市中捜索は三条を中心に。今日は三条だけ。そう納得させよう。そんな事をじっと考えていた。
それから、道場で半刻ほど二人は手合わせした。総司は、少し息を上げると咳が出る。無理は禁物だ。斎藤は、「これまで」そう言って、切り上げた。「昼七つに屯所を出よう」、そう総司と約束して道場を後にした。斎藤は、部屋に戻って、黒八丈を身につけた。二人だけの巡察だが、斬り合いになれば、隊服を着ている方が都合が良い。廊下にでて表階段に回ると、総司が既に黒い隊服姿で待っていた。しっかりと草鞋の紐も結び、いつでも出られると言う。斎藤が草鞋を履きかけると、背後に千鶴が山崎と一緒にやって来た。二人とも出かける様子で、風呂敷を斜めがけにして腰には、竹水筒まで下げている。
「わたしたちもお伴します」
千鶴は微笑む。
「急に具合が悪くなったとき、お腹が空いて力がでなくなっても、ちゃんとおこわのおむすび持ってますから、お薬もありますから、どうぞご安心を。捜索は必ずご無事に」
千鶴は山崎と顔を見合わせて総司と斎藤に笑いかけた。斎藤と総司は頷いた。
「心強い。三条を中心に回る」
斎藤が静かに言って、立ち上がると。四人で門に向かっていった。ちょうど昼七つの鐘の音が境内に響き渡っていた。
******
三条大橋
斎藤達は、堀川通りをずっと北上してから三条通りをずっと東に向かっていった。人出も多くて、通りは賑わっている。ゆっくりと路地を確かめながら歩いた。不審な者は見当たらない。不穏な空気も一切感じない。朝に巡察した時と変わらず。それからずっと東山まで歩いた。かなりの道中だったが、総司は疲れた様子も見せない。一旦、四人で休んだ。千鶴は、総司におむすびを勧めた。総司は仕方ないといった表情で小さなおむすびを受け取ると、ゆっくりと食べきった。
「ありがとう。僕、もうお腹いっぱい。これ以上お腹が膨れると、勘が鈍る」
そう言う総司は、顔は笑っているが、眼は真剣だった。斎藤は、総司と千鶴のやりとりを見ていた。今まで歩いた様子だと、不審な者は居ない。新選組の浅葱色の隊服は嫌が負うにも目立つ。見つけやすい筈だ。このまま、通りを引き返して見つからなければ、今日の捜索は切り上げよう。そう思った。
それから、四人で元来た通りを戻っていった。すっかり陽も落ちて辺りは夕闇につつまれ始めた。暮れ六つ頃か。通りの店先に行灯が灯り始めた。店をたたみ始めるところもある。斎藤達は、ゆっくりと進んだ。西の空は、紫と桃色の間のような色で、たなびく雲が空を覆い始めている。闇が迫る。早く、戻った方が良い。そんな風に思った時、ふと辺りが霞むように感じた。霧か。斎藤は、辺りを見回した。前日の夜中に雨が降った記憶もなかった。だが、さっきまで肌寒さが増した気がしたが、風がやんで妙に空気が生ぬるい。
不思議に思いながら、斎藤は歩を進めた。どんどん霧は濃くなって来た。花見小路通にさしかかった所で、総司が、道端に佇む駕籠かきに声をかけた。
「一丁お願いできる? 西本願寺まで」
直ぐに駕籠は用意された。総司は、千鶴に声をかけると手を引いて駕籠に載せた。あっという間の出来事で、千鶴はきょとんとしている。
「急ぎでお願い。それから五条橋を通ってくれる?」
総司は御代を駕籠かきに渡すと、山崎の背を押した。
「千鶴ちゃんの護衛をお願い。必ず屯所に無事に戻って」
そう言って、否応なしに山崎を駕籠と一緒に追いやるように返した。霧はどんどん濃くなっている、出発した駕籠と山崎の背中は直ぐに霧の向こうに見えなくなった。それから総司は斎藤に振り返った。
「行こう」
斎藤は頷いた。総司の翡翠色の瞳が輝いている。おそらく。総司は何かを察知しているのだろう。総司の勘の良さは研ぎ澄まされている。常人とは違う。昔からそうだった。だが総司、一体何を感じている。霧は更に濃くなってきた。これ以上歩き回るのは危険。
斎藤が心中で考えている間、総司は腰から提灯を取り出して、蝋燭を灯すと中に入れて歩き始めた。気をつけねば手を伸ばした先も霧で霞んで見える。辺りは人通りもなく静かだった。鴨川の流れの音が近づく。今日は水量が多い、勢いよく流れる轟音で橋のたもとに自分達が立ったのが判った。三条大橋。総司は立ち止まった。さっきまで見えていた紫の空は霞の向こうにぼんやりとしている。辺り一帯のなまぬるい空気。
総司が斎藤に提灯を渡した。それから二人で並んで歩き始めた。総司の右側を斎藤が、斎藤の左側を総司が。ゆっくりとゆっくりと前に進む。足元の木の板は二人の踏みしめる音でギシっと音を立てる。目の前の白い靄(もや)は更に濃くなる。霧がまとわり付くような。前に進むのに抵抗を感じる。まるで夢の中で、進みたいのに前に進まないような。隣の総司は、黙って前を見たままゆっくりと一歩一歩前に進んでいる。
どれぐらい歩いたのだろう。後ろを振り返っても、もう橋の東詰は見えない。手を伸ばした提灯の先までがせいぜい見えるぐらいで、二人は白い煙に包まれているように、その視界は限られていた。
——逢魔刻。何かが起きている。
総司が、斎藤の提灯に手を伸ばした。
「灯を消して、はじめくん」
と静かに言った。斎藤は提灯に息を吹きかけて消すと、畳んで腰に下げた。隣の総司は、真剣な表情で前をじっと見ている。ただならぬ。総司が何かを感じているのは確かだ。斎藤は、眼をこらして前方を見詰めた。ゆっくりゆっくり前へ進む。暗闇と霧の中を、二人で息を凝らしながら。もう、水の音も聞こえなくなっていた。自分が踏みしめる足音のみ。
人の気配。
誰かが向こうから来る。
斎藤は咄嗟に刀に手をかけた。この夕闇で提灯もなく歩くなど。不審きわまりない。辻斬りか。斎藤は鯉口を切った。
——カチリ。
その音は、ひときわ大きく響いた。一軒、半軒先か、どれぐらいの間合いがあるのかも判らぬ。その時、斎藤の前に総司が右手を伸ばした。「抜くな」の合図だ。斎藤は総司の横顔を見た。瞳が爛々と輝いている。じっと前を見る先に、居る。誰かがこちらに向かってやって来る。
白い靄の中に人影が二人
左側は背が高く手前に
その後ろに黒い影
総司は、右手をずっと斎藤の前に伸ばしたまま、ゆっくりと進む。一瞬とも眼を離さず。その先に近づく人影。一旦鯉口は戻したが、斎藤の左手はずっと刀に手を掛けたまま。
一歩、一歩、近い。
靄の向こうの影がぼんやりと姿を現す。
黒い羽織の背の高い男
土茶の袴の裾に脚絆
光る眼光
翡翠色の瞳
胡桃色の髪が無造作にかかるその顔、総司。
斎藤は息を呑んだ。
ゆっくりと近づく相手は、眼を輝かせている。斎藤の隣の総司もうっすらと微笑むかのような口元。全ての動きが止まっているかの様に、無音のまま。見つめ合う二人の総司。総司は刀の柄に手をかけながら挑むように相手を見た。相手も同じように刀の柄に手をかけている。斎藤は再び鯉口を切った。もう一人の人影を見ようと眼をこらすが、黒い人影が近づいても、姿が見えぬ。総司が手前の男と対峙するなら、自分はその隣の者を。そう思うが間合いはとれているのに、相手の輪郭がはっきりしない。何だ。何が起きている。斎藤は、自分の身の中の血が逆流するような奇妙な感覚が走った。
鏡。これは、鏡に移った姿か。
そうとしか思えぬ。霧の中に鏡が立っていて、それに二人は対峙している。
己の姿か。
総司は眼を輝かせたまま、ゆっくりと前に進んだ。総司は、己の影に近づく。斎藤は眼を凝らして前に進んだ。今一歩。もう一人の影。己の影。しっかりその姿を見据えよう。斎藤は覚悟を決めた。全てがゆっくり。二人ともまるで、剣術の真剣試合のように摺り足で前に進んでいた。
挑む、どうでる。
近づく
刻が止まったような瞬間。
総司は、もう一人の己と見つめ合ったまますれ違った。もう一人の総司は、右側の口角を上げて皮肉な笑みを浮かべ、ゆっくりと瞼を落とし双眸を伏せた。全てが止まった瞬間。
そして、総司からは、その鏡の総司の隣に斎藤が立って、じっと自分の隣の斎藤と対峙している姿が見えていた。黒八丈に深い藍色の瞳はじっと己の前の影を見据えている。その左手は鯉口を切った刀の柄に掛けられ、一歩一歩擦り寄る草履の真っ白な足袋の先まで見えた。はじめくん。はじめくんも自分が見えている?
ゆっくりとすれ違う斎藤たちを見詰めながら、そのまま総司は前に進んだ。抜くか。抜くかもしれない。そうなったら、一瞬で。どちらが先だ。僕は後れをとらない。決して。
そのままずっと前に進み続けた。背後の気配は、だんだんと遠ざかった。さっきの影、だんだらの隊服でなく。黒八丈を纏っていた。総司と斎藤は考え続けた。それにしても、自分たちは何処を歩いているのだろう。三条大橋の東詰めから、もう半刻は進み続けている。橋の終わりが見えない。二人で黙ったまま。ひたすら歩を進めた。床を踏みしめる音にだんだん遠くに水の流れる音も聞こえてきた。
目の前の霧がだんだんと薄くなってきた。絡みつくような靄が瞬きする毎に晴れて行く。さっきまでの生暖かい空気もだんだんとひんやりとしてきた。心なしか、自分たちの動きも元に戻って、いつもの早さで身体が動くような。斎藤達は、沈黙したまま前に進み続けた。背後の気配からは、一瞬たりとも気を離さず。
靄の向こうに、暗い空が見えた。木の欄干。橋の西詰。見えたぞ。ぼんやりと向こうの通りの灯りも見える。渡り終えたか。一体。この橋はどれだけの長さだったのだろう。狐にでも化かされたか。斎藤は、橋上での出来事を思い返した。もうひとりの総司。あれは、昨日逢った男だ。総司の分身。捕らえる事なく終わった。もうひとりの男の影も。だが、あの者たちに刀を当てたら、どうなっていたであろう。
斎藤は橋から離れて霧が晴れてきた通りを歩きながら、隣の総司を見た。総司はずっと沈黙したまま。斎藤同様、鯉口は戻し、刀から手を離して歩いている。斎藤は腰の提灯を灯した。ずっと三条通りを西に向かう。人通りもあり、ほっとした。戻った。元の世に。うつし世に。
総司はずっと黙ったまま。その様子からは、何かを察知したような緊張感はない。総司。さっき刀を抜くなというのは、あれは。問いかけたいが、何も話さぬ総司に何か考えがあるのだろう。そう思って斎藤も前を向いてひたすらに歩き続けた。角を曲がり、人通りが途切れた暗い通りに出た。堀川通りに繋がる裏通りで、狭い空はぼんやりと暗い。辺りは静かで、総司が急に話し始めた。
「夏からずっと床に伏せてる間、千鶴ちゃんがずっと本を読んできかせてくれててね」
「伊東さんの書庫から源氏物語の写し本を借りたって。古い言葉や仮名遣いでさ。僕が、全くなに読んでるのかわからないって怒ったら。その中の話を教えてくれた」
「主人公の光源氏の恋人が、嫉妬に狂って生き霊になって光源氏の女を呪い殺しちゃう。恐ろしい話。とても高貴な美しい人なんだけど、眠って居る間に魂がさまよい出ちゃう」
斎藤は、総司が何故そのような話をするのか、不思議に思いながらじっと話に聞き入った。
——可哀想な女のひと。
「光源氏の正妻が病に倒れて、薬師がお香を炊いて悪霊を払うんだけど。その高貴な人が夢から目覚めると、髪から魔除けの芥子の匂いがしてね」
「何里も離れているんだよ。寝ている間に、魂が正妻や脇の女をとり殺す。生きたまんまでね」
総司は、微笑みながら話す。こっちといいながら、その路地から明るい堀川通りへ出た。斎藤は、隣を歩く総司に尋ねた。
「それで、その女は。その生き霊は退治されたのか?」
「ううん。でも、光源氏が正妻の枕元に立つ御息所の姿を見ちゃう。知られちゃうんだよ。生き霊になって自分のお嫁さんに仇してるって」
「それで、光源氏は、その者を討ったのか」
総司は、斎藤の真剣な表情を見て笑った。
「はじめくんなら、すぐ斬っちゃいそうだね。光源氏はね。当代一の色男。生き霊になってまで自分を想ってくれたって、女を哀れに思った」
「見逃したのか?」
斎藤は驚く。おおよそ、人をとり殺す悪霊なれば切り捨てるのが武士の心得。渡辺綱も悪鬼を退治した。総司は考えこむ斎藤を見ながら話を続けた。
「その後もずっと生き霊になって現れるんだよ。その女の人。千鶴ちゃんは、恐ろしいけど、御息所の気持ちが解るって言っていたよ」
「自分も夢でも父様に会いたい。時々、父様の夢を見るから、きっと自分の魂が抜け出て父様に逢っているかもしれないってね」
斎藤は驚いた。雪村が生き霊。そんな事があるのか。さっきの橋の上での出来事は……。己の分身を見た総司は刀を抜かなかった。もうひとりの影。あれが鏡でみた自分の影なら。あれも己の生き霊か。あれを斬っていたらどうなった。己で己の影を討ったら。俺の魂は死ぬのか。
本願寺の門の前に辿り着いた。門番は誰もいない。そのまま門をくぐって境内を横切った。表階段に、左之助や新八、平助、山崎や土方まで座っていた。千鶴が、「戻っていらっしゃいました」、そう叫んで、階段を下りてきた。
「おかえりなさい。よくご無事で。なかなか戻っていらっしゃらないので、さっき原田さん達が三条大橋までお二人を探しに出てくださっていたんです」
原田たちが立ち上がって、総司と斎藤に尋ねた。
「何処に行ってたんだ。千鶴が、三条通りで別れたまま二人が戻らないって大騒ぎしてたから、皆で探しに行った。いってえ何処にいた?」
「霧が濃くてね。ずっと足止めくらってたよ」
総司が笑った。そして、じっと段の上に立つ千鶴の瞳を見つめた。
「霧? ちょっと靄が出たが、すぐに晴れたぞ。こんなに冷え込んだら、また朝方出るかもな」
と新八が言って空を見上げている。
「お二人ともご無事で。夕餉になさいますか。こんなにも冷えて」
千鶴は階段から手を伸ばして、総司の羽織の上からそっと腕を触った。総司は、黙ったまま千鶴を抱き上げた。
「沖田さん」
千鶴は驚いて眼を丸くしている。総司は強く千鶴を抱き絞めた。平助が驚き、原田達も立ち話を止めて総司を見た。
「僕は生きてるよ。こうしてね」
千鶴の瞳をじっと真剣な表情で見詰めると、総司は笑いかけた。千鶴は、「はい」と返事した。そのまま総司は振り返ると、斎藤に千鶴を渡した。斎藤は一歩下がりながら千鶴を受けとめると、そのまま茫然としている。千鶴は頬を紅くしながら、「あの、下ろしてもらっても……」と小さな声で斎藤に伺っているが、斎藤はずっと千鶴を抱きかかえたままでいた。
「千鶴ちゃん、思い切り抱きしめてやって。はじめくん、ずっと死神でも見たような顔してるからさ」
と言って総司は草鞋を脱ぐと、あー疲れた。と大きい声で欠伸をしながら階段を上がった。
「僕に似た男は、見かけたけど。全くの別人。はじめくんと脅したら逃げていった。もう現れないよ」
土方に向かって総司は報告すると、廊下をそのまま自分の部屋に向かって行った。それから斎藤はゆっくりと表階段を上がって廊下を自室に戻った。ずっと抱っこをされたまま千鶴は斎藤の顔を眺めた。
——死神を見たような。そんな風だろうか。いつもの斎藤さんだ。沖田さんと三条で不審者と斬り合いになられたのかしら。でも、どこもお怪我の様子はない。
部屋の前で千鶴を下ろすと、斎藤は「今日はご苦労だった」と言って微笑んだ。
「今回の一件は解決した。総司は疲れているだろう。また世話をしてやって欲しい」
斎藤は千鶴の瞳をじっと見詰めた。千鶴は斎藤の双眸を見詰め返した。ご無事に生きて戻ってくださって。良かった。よくお休みください。そう心の中で話しかけた。
斎藤は、千鶴の顔を見ながら、じんわりと屯所に無事に戻ったと実感した。橋の上での出来事は。誰に話しても信じて貰えぬだろう。狐狸に化かされた。そんなところか。だが、生きて戻れたことは有り難い。雪村のぬくもりがそうだ。温かい。生きている心地がする。
「おやすみなさい」
そう挨拶して障子を開けて部屋に入る千鶴を眺めながら、斎藤は総司と自分の無事を有り難い事だと改めて思った。そして、そのまま自室に戻ってぐっすりと朝まで夢も見ずに眠った。
総司は、その後暫く体調の良い日が続き、道場での稽古を再会した。巡察も暖かい日中に限り、数日おきに出られるようになった。
そして、あの三条大橋での夜を境に、もう一人の総司が市中で目撃される事はなくなった。
了
(2017.08.10)