
第四部 反響
薄桜鬼奇譚拾遺集
鸚鵡がえし
西本願寺に屯所が移って間もなくの頃のこと。
夜中に千鶴は、部屋の外にけたたましい鳥が鳴くような声を聞いた。それは今まで聞いた事のないような鳴き声で、驚いた千鶴は布団から出て廊下に出た。外は真っ暗で、漆黒の闇のむこうから、再び鳥の鳴き声が聞こえた。耳をつんざくようなその声の衝撃に千鶴は耳を塞いだ。そして、渡り廊下の向こう側に見える阿弥陀堂の屋根の上に、何かの影が見えた気がした。
その瞬間、自分を見詰める光が見えた。暗い紅色の光が二つ。眼。千鶴は、その光に射貫かれたように動けなくなった。その直後、屋根から影が飛び降り千鶴に襲いかかった。千鶴の上に降り立ったのは、猫のような顔をした獣で、大きなかぎ爪の前足で千鶴の喉を押さえつけた。
千鶴は、助けを呼ぼうとしたが声が出ない。野獣は千鶴をその真っ赤な眼で覗き込むと、大きな口を開けた。千鶴の喉から青く輝く珠が浮かび上がった。野獣はその珠を吸い込むように咥えると、千鶴の身体から飛び立ち暗闇の中へ消えていった。耳に野獣の鳴き声が響くのを聞いたまま千鶴は気を失った。
廊下に千鶴が倒れているのを見つけたのは斎藤だった。羅刹隊との鍛錬を終えた斎藤が部屋に戻ったのは、もう丑三つ刻。廊下に横たわった千鶴の身体は冷え切り、顔の色を失っていた。斎藤は千鶴が既に事切れていると思った。咄嗟に、胸に耳をあてて心の臓の音を確かめた。微かに鼓動が聞こえた。良かった。生きている。だがどうして。
斎藤は辺りを確かめた。千鶴の部屋の障子が開いているだけで部屋の中に異変はない。廊下や境内の暗闇に不審な様子もなかった。斎藤は千鶴を抱えて部屋に戻り布団に寝かせた。そして、山崎を呼びに行った。寝ぼけ眼の山崎は、千鶴を一通り診察すると、体温も戻ってきている。怪我もしてない。厠に向かって血の気が失せてしまっただけかもしれない。朝にもう一度様子を診る。そう言って、部屋に戻ってしまった。斎藤は、明け方まで千鶴の傍で様子をみた。千鶴は静かに眠っているようだった。手を触ると、暖かくなっていた。安心した斎藤は自分の部屋に戻って、少し眠った。
斎藤は目覚めると、再び千鶴の様子を確かめに行った。千鶴は布団に眠ったままだった。静かに息をして、特に変わりはないようだ。斎藤はそのまま広間に向かった。広間では朝餉に千鶴が起きて来ないと、幹部が心配していた。斎藤は、夜中に千鶴が廊下で倒れていたのを見つけて、部屋で寝かせた。具合が悪いかもしれない。後で、山崎が診察するとその場で土方にも報告をした。皆は、斎藤の話を聞くと、それなら千鶴の膳は後で部屋に持っていってやろうと言って食事を終えた。
左之助が千鶴の部屋に膳を運んだ。丁度、千鶴が寝間着のまま廊下に立っていた。
「よ、千鶴。どうだ具合は?」
左之助が問いかけると。
「……ちづる、どうだぐあいは……」
千鶴が呟く。小さなその声は、左之助には聞こえていなかった。
「あまり顔色が良くねえな。布団に横になった方がいいんじゃねえか」
左之助は、千鶴の顔を覗きこんだ。
「…よこになったほうが……いいんじゃねえか……」
千鶴が呟く。その目はうつろで、どこにも焦点が合っていない。左之助は真顔になった。
「おい、千鶴。どうした?」
「おいちづる…どうした……」
千鶴は、左之助の言うことをぼんやりと繰り返す。様子がおかしい。左之助は、膳を床に置いた。そして千鶴の頬に手をかけて自分に向かせた。
「千鶴、俺だ。わかるか」
千鶴の眼を覗き込んで、左之助は驚いた。その瞳は、光を失いぼんやりとして生気がない。
「ちづる…おれだ…わかるか……」
千鶴は、左之助の言った通りを繰り返すだけ。左之助は、千鶴の様子をみて、全身を確かめた。寝間着のままの千鶴は、裸足で手足が冷たい。怪我はねえようだな。ぼんやりと立つ千鶴は、「ねえようだな」と左之助の言った通りを繰り返している。その力の無い様子に、左之助は、千鶴を抱きかかえた。その時、斎藤が廊下を歩いてきた。
「おい、斎藤。すぐに土方さんを呼べ。山崎もだ。千鶴の様子がおかしい」
斎藤は、左之助が千鶴を部屋の布団に寝かせるのをみて、廊下を走って山崎を呼びに部屋に向かった。山崎は、千鶴の部屋に直行した。土方は、大広間でまだ食事をしていた。斎藤から千鶴の様子がおかしいと聞いて、土方は直ぐに千鶴の部屋に向かった。
千鶴の部屋では、山崎が千鶴を診ていた。脈も血の気も正常。意識はあるが、反応が乏しい。こちらが話しかけても、そのままを繰り返す。確かに様子が変だと首をかしげる。昨夜、廊下で倒れた時に頭の打ち所が悪かったとしか思えない。だが、頭にこぶが出来た様子もない。どこも打った様子もない。山崎は原因がわからないと首を振った。そして、土方に、蘭方医の松本先生に診て貰ったほうがいいと言った。ずっと、しかめ面をして、千鶴の様子をみていた土方は、すぐに松本良順を呼びに出掛けていった。
斎藤は、横になる千鶴に食事を与えた。千鶴は、最初は横になったまま食べ物を口に運ばれていたが、途中で起き上がると。自分で食べ始めた。ゆっくりと食べる様子は、いつもと変わらないような気もした。だが、その目線はうつろで、ただ食べている。そんな様子だった。平助が湯飲みのお茶を盆に載せて持ってきた。
「千鶴、だいじょうぶか?」
そう言って、千鶴の膳に湯飲みを置きながら、平助は千鶴の傍に座って顔を覗き込んだ。千鶴は全く表情を変えず、畳の先をぼんやり眺めたまま。
「ちづる だいじょうぶか」
平助の言ったとおりを繰り返す。平助は何も言えず黙ってしまった。酷く心配した様子で、千鶴の食べる姿をじっと眺めると溜息をついた。千鶴は食事を半分食べただけで、箸を置いた。膳を持って立ち上がり、ゆっくりと障子に向かって歩いた。平助が、片付けなら俺がやると千鶴から膳を取り上げて、そのまま台所へ戻っていった。千鶴は、山崎に促されて、再び布団に戻り、横になった。うつろな目線のまま、布団に横たわる千鶴は無表情で、斎藤は、ずっと傍に正座したまま、夜中に廊下で倒れた千鶴を見つけた時のことを思い返していた。
俺が見つけた時は、雪村の身体は冷たかった。廊下で倒れて暫くそのままになっていたのだろう。夕餉の時は、普通だった。膳に出された煮物が美味しいと笑っていた。繕いものを出してくださいと、斎藤に言って、行灯の油も足さないといけないと慌てて部屋に走って戻っていった。いつもの元気な雪村だった。笑顔で、くるくると動く黒い瞳。斎藤は、千鶴の様子を思い返していた。光を失った瞳は、まるで別人。何があった。一体、何が。
*********
二条城へ
幹部の皆が心配しながらも、それぞれ巡察や剣術の鍛錬に出掛けなければならず、その日非番だった斎藤が山崎と千鶴の看病についていた。土方が屯所に戻ったのは、お昼も近い頃。土方の後をついて、駕籠が到着すると、中から松本良順が降り立ち、幕府大御番士の伊庭八郎が駕籠の後ろについて来ていた。
伊庭は、奥詰として家茂将軍上洛の為に二条城に滞在していた。伊庭は江戸の練武館道場を営む伊庭家の長男で、年齢は二十歳。試衛館道場の近藤や土方、斎藤たち門弟とも懇意だった。伊庭は上洛すると、必ず壬生の屯所に挨拶に現れた。剣術の腕はさることながら、その気さくな性格は新選組幹部の皆に好かれ、同じ幕府に仕える同志として幹部の皆から信頼を得ていた。
伊庭はまだ元服前の十代前半の頃、雪村綱道に師事し蘭学を学んでいた。雪村診療所の母屋の離れが蘭学講習所で、そこでは綱道の一人娘の千鶴が一緒に読み書きを学んでいた。千鶴はその頃、数えで十。四書五経を諳んじる様子は聡明で、練武館に小太刀の稽古にも来ていた。伊庭は千鶴を小さな妹のように可愛がった。元服してからは、剣術の修行で蘭学を断念し講習所に出向くことがなくなっていたが、千鶴の事はずっと忘れずに覚えていた。
伊庭が数年ぶりに千鶴と再会した時、千鶴は伊庭の事を覚えていないようだった。伊庭は内心がっかりしながらも、それ以上は追求せず、江戸を遠く離れた京で千鶴と再会出来た奇遇を殊の外喜んだ。伊庭は、千鶴が男の姿に身を窶(やつ)して壬生の屯所で暮らしている事に驚いた。土方の態度から、何か深い事情を察した伊庭は、いつどんな事が起きても、必ず駆けつけて千鶴を守ろうと心に決めていた。今回、将軍上洛に追従した伊庭は、朝から土方が厳しい表情で二条城に駆け込み、御典医の松本良順に千鶴の異変の相談をしたときに居合わせた。
伊庭は土方から、此処だけの話だと千鶴の詳しい境遇について説明を受けた。松本は千鶴を二条城に引き取ると以前から近藤に申し出ていたが、父親探しの為には、新選組と一緒に暮らす方が良かろうという判断で諦めていた。だが千鶴の容態を聞いた松本は、この際、二条城で詳しく診察して経過を診ていきたいと千鶴を屯所から引き取ると再び言い出した。伊庭も千鶴の護衛につくことを家老に許可をとると言い、土方は取り敢えず、屯所に千鶴の診察に今すぐ来て貰いたいと伝えて、松本を屯所に連れて来た。
松本の見立てでは、千鶴は外的内的なものによる心因。なにか恐ろしい、悲しい思いをしたときに、このように生気を無くしてしまうことがある。自分の言葉を失う。鸚鵡返しについても同じ原因だと言う。何か、余程の事が起きたのだろう。松本は土方に千鶴が何か悲しいと思うことや恐ろしいと思う出来事が起きなかったかと尋ねた。土方は、変若水の秘密や山南の羅刹化を知った夜の事を思い出した。土方の思い当たる節がある様子に、松本は改めて千鶴を二条城に引き取ると強く言い張り、そのまま千鶴は屯所を出て身柄を松本の元に預けられることになった。
まだ午後の陽も高い内に、千鶴は荷物をまとめられて駕籠に乗せられた。屯所の階段を下りる時も、伊庭に手を引かれてぼんやりとしている。千鶴は、自分が屯所を出ていくことを解っているようには見えなかった。斎藤は自ら二条城までの護衛を申し出て、千鶴の駕籠に付いて歩いて行った。二条城では、既に千鶴の部屋も用意されて、斎藤が伊庭と荷物を運び入れると身の回りのお付きの下女を紹介された。大人しそうな娘で、千鶴より少し歳が上に見えた。斎藤は、松本から近藤と土方宛の文を預かると二条城を後にして屯所に戻った。
その夜、幹部が集まり巡察や隊務報告の後、千鶴が松本の元に預かりの身となったと土方が説明をした。巡察から戻った時に、既に千鶴が屯所を出ていってしまったと聞いた幹部は、千鶴が松本の元で養生している事に安堵しながらも、自分たちは何もしてやれなかったと声を揃えて残念がった。平助に至っては、病気の千鶴を二条城に追いやったと土方に対して怒り出す始末で、左之助が「土方さんは最善を考えてのことだ」と土方を庇って平助をなだめた。
松本からの要請で、二条城に幹部が交代で千鶴の護衛に出ることの説明があった。日中や夜中に伊庭が留守をすることもある、身近に自分たちが居ることで、千鶴が環境の変化にも順応しやすい。土方はそう言って、巡察の当番表をみながら、誰がどの日程で二条城に護衛に出向くかを決定した。最初は、二人ずつで行くように。慣れてきたら、一人だけ出向くように様子をみようということだった。翌日、平助と斎藤が二条城に行くことになった。簡単な着替えを風呂敷に包んで用意した二人は、朝餉の後に二条城に向かった。新八や原田、井上までが門まで二人を見送った。千鶴によろしくな、様子を詳しく帰ったら教えろ、何かあったら直ぐに屯所に報せろ、ずっと通りに出て歩く二人に背後から皆が大声で言い続けた。
二条城に付くと、斎藤と平助は松本良順が住まう旧本丸の一室に案内された。立派な客間のような部屋で待っていると、松本が障子を開けて入ってきた。さっき千鶴は朝餉を済ませて、じきにこちらに来る、特に容態は変わりがない、そう説明した。障子に人影が見えた、斎藤が障子の開いた先を見ると、伊庭が千鶴の手を引いて現れた。千鶴は、女の着物を着て、髪を後ろでゆったりと束ねてあった。美しい着物姿で、着物の色味のせいか、顔色も幾分か明るくなったように見えた。斎藤は、千鶴の女らしい様子に息を呑んだ。平助は、ぽかんと口を開けたままになっている。だが畳の半畳先をぼんやりと見る千鶴の眼は相変わらず生気がない。伊庭がゆっくりと千鶴の手を引いて部屋に入ると、そっと背中を支えるように手をそえて千鶴を座らせた。その様子は、大切な物を扱うように優しく慎重で、斎藤達は何も言葉が出てこなかった。
伊庭と千鶴が並んで座ると、松本が今日は大坂に日帰りで出向き夕方に戻る、伊庭君も御所に向かわれる公方様の護衛で市中に出る。自分たちの留守中に千鶴の様子を見て欲しい。そう言って、昼餉の時間や城内の自由に歩き回れる場所などを説明した。千鶴は鸚鵡返しをするが、普段と変わらないようにどんどん話かけてやって欲しい。松本は、そう言うと支度をして大坂に出発した。
千鶴は、自発的に動くことが殆どないように見えた。食事にしても、厠に行く時も、ぼんやりと自分の意思で動いている様子が感じられない。だが、斎藤達が渡り廊下の前の広場で剣術の稽古をしていると、部屋から縁側にでて正座をして静かに座っていた。斎藤は、千鶴が自分の気配を少しでも感じていているのかと心の中で安心した。
夕七つを報せる鐘が鳴った。千鶴は、それまでうつろな様子で自分の部屋に座っていたが、急に立ち上がると、廊下に出て玄関に歩いて行った。斎藤と平助は、千鶴の後を追った。千鶴は中門まで歩いて行き、そこでじっと立っている。斎藤と平助が話かけても、ずっと鸚鵡返しをぼんやり続けている。その目線は、夕日が落ちていく向こうにずっと向けられている。何を待っている?平助と斎藤は千鶴の見詰める宙の先をじっと眺め続けた。道の向こうから、伊庭が戻って来るのが見えた。伊庭は千鶴の姿に気がつくと、駈け足でこちらに向かってくる。逆光で立ち姿の輪郭だけが迫る中、伊庭は優しいまなざしで真っ直ぐに千鶴を見詰め。
「ただいま戻ったよ」
見下ろすように千鶴の前に立って、千鶴の頭を撫でた。千鶴は、「ただいまもどったよ」と鸚鵡返しする。斎藤は千鶴の横顔が一瞬微笑みをたたえた様に見えた。ほんの少しの変化だが、元の千鶴の表情を見た気がして、胸が温かくなった。だがそれは一瞬だった。千鶴は、うつろな瞳でじっと立ったままだった。その手を引いて、伊庭は千鶴を連れて部屋に戻った。斎藤と平助はその後ろを付いていった。
伊庭は、お土産だと言って、千鶴に小さな千代紙で出来た箱を渡した。中には、飴玉が並んでいて、その色とりどりの美しさに、千鶴のお付きの下女が驚きの声を上げた。千鶴は、ぼんやりと掌の上の箱を眺めているだけだが、伊庭は気にした様子は見せず、もう一つと言って、袂から紙の包みを出した。中には、帯揚げが入っていた。深い緑の総絞り。今、千鶴が身につけている山吹の着物に良く映える。早速、付けてあげよう。そう言って、伊庭は千鶴の手をとって自分に引き寄せると、今身につけている真紅の帯揚げを解きだした。
斎藤は、衝撃を受けた。目の前で、伊庭が千鶴の帯に手を掛けている。何をする。咄嗟に斎藤は傍らの打刀に手をかけた。そして膝を立てて構えてしまった。平助の左手が自分の右腕に手をかけて止めているのに気づいて、初めて自分が伊庭に斬りかかろうとしてしまって居たのに気がついた。背中を向けている伊庭は、気づいていないが、千鶴は真っ直ぐに斎藤に向いていた。だが、斎藤と平助の様子が視界に入っていながら、うつろな千鶴は全く何が起きているか解っている様子ではなかった。だが、斎藤は狼狽した。自分が、我を忘れてみっともない真似をしてしまった事、千鶴がそれを見ていること、全てが恥ずかしかった。
伊庭は、手際よく千鶴の帯揚げを取り替えた。千鶴を抱きかかえるように背中に手を回し、優しく胸の前で結ぶ。とても可愛い。よく似合っている。そう、優しく話しかける声のあとに、千鶴のぼんやりと繰り返す声が聞こえた。伊庭は笑いながら、
「そうだよ、とても可愛い。よく似合っているよ」
繰り返す千鶴に愛おしそうに話しかけている。その後ろで、斎藤と平助はふて腐れていた。伊庭は非情に優しい男だ。人柄も申し分ない。そしてその外見もだ。伊庭が道を歩けば、老若男女を問わず思わず振り返るだろう。伊庭は非常に男前なのだ。その上、身のこなしは育ちの良さから品性が際立っている。そんな伊庭が、愛情全開で千鶴に接するのを目の当たりにして、斎藤と平助はぐうの音も出ない。
なんだ。
なんだよ。
斎藤も平助も心の中で呟いた。千鶴と壬生の屯所で一緒に生活するようになってからもう二年経つ。斎藤も平助も、自分は千鶴に近しい人間だと思い込んでいた。だが、目の前の伊庭は、全く臆することなく千鶴に触れ、近くに佇み、まるで自分のもののように振る舞う。
なんだ。
なんだよ、全く。
斎藤と平助は心の中で文句を言った。馴れ馴れしくするんじゃない。
雪村は、俺のもの。
千鶴は、俺のもんだ。
斎藤と平助は、背後から悋気丸出しで伊庭を睨み付けていた。千鶴にお付きの下女が、夕餉の支度があるからと部屋を出ようとすると、千鶴は急に振り返って立ち上がり、下女と一緒に台所に付いていった。ここ数日で初めて、千鶴が能動的に動いた瞬間に見えた。斎藤と平助は、目を合わせて千鶴の後を追い掛けた。千鶴は、台所の土間に立つと、屯所の台所に居るときと同じように、炊事を手伝い始めた。刃物や火を扱う作業のため、平助と斎藤は千鶴に危険が及ばないようじっと見守った。千鶴は、うつろな目をしながらも、流しの前に立って下女と一緒に作業をしている。習慣だからか。毎日のように炊事をし続けている千鶴は、台所に立つことは身体が覚えているかのように、しっかりと動いているように見えた。千鶴の後ろ姿を、斎藤と平助はじっと見詰め続けた。こうしていると、いつもと変わらない。いつもと……。
*****
伊庭八郎の決意
松本は夕餉刻に戻って来た。全員で一緒に食事をした後、松本は千鶴を診察した。特に変わりがないが、規則正しい生活ができているのは、非情に良い兆候。そう言って、いつもの屯所での生活はどうなのかと斎藤達に尋ねた。千鶴は雑務に追われて眠るのは遅い。斎藤は松本に普段の千鶴の様子を伝えた。
月明かりが明るい夜だった。外が暖かい、そう言って伊庭が城内の庭を歩こうと千鶴を誘った。手を引かれて歩く千鶴の後を斎藤と平助はついて行った。広い庭をゆっくり歩いた。本丸の裏側には、庭園とその向こうに溜池があった。広大な池は火消し用に人工的に掘られたもの。伊庭がそう説明した。溜池は広大で、その向こう岸は闇の向こうでよく見えない。池の右端には、大きな岩があった。築城の頃に、山陰の山奥から運ばれたが、その大きさのため一度丸木から落とされたまま、二度と動かすことが出来なくなったという。二百年はその場を動いていないその岩は不動石として、神格化されているという。
丁度、溜池のほとりに近づいて、伊庭が岩を指さして説明したとき。耳をつんざくような声が響いた。それは溜池の向こうの闇からで、斎藤は刀の柄に手をかけた。ドサッという音が聞こえて、傍らを見ると千鶴が気を失って倒れていた。斎藤が駆け寄ると、伊庭が千鶴を抱きかかえた。千鶴に呼びかける伊庭と平助の声は千鶴には聞こえていない。ぐったりと完全に意識を失った千鶴を伊庭は抱き上げると足早に部屋に運んだ。
斎藤は、気配を感じて背後を振り返った。一瞬溜池の水が真っ赤になった様に見えた。血の池。斎藤は驚いて、もう一度溜池の辺に戻った。池の水は、元の黒い水面に変わっていた。そしてその向こうの暗闇は静寂のまま。
さっきの声
あれは一体
鳥の鳴き声のような
それに、池の水が一瞬真っ赤になったのは。
斎藤は、何度も池を振り返ったが溜池も辺りにも変化は見られなかった。
千鶴の部屋に行くと、松本が再び千鶴を診察していた。気付け薬でも千鶴は目を覚ます様子がない。溜池のほとりで鳥の鳴き声を聞いて、気を失ったと説明すると。松本は、溜池に千鶴を近づけないほうがよいかも知れない。池や水辺に千鶴が恐れを感じる原因があるやも。松本は、朝までこのまま眠り続けたら、もう一度気付け薬で起こす。朝まで自分がついているからと、斎藤達に休むように促した。
伊庭は、今夜は公方様の元で宿直だと言って、斎藤達に千鶴に何かあれば二の丸御殿まで直ぐ報せて欲しいと言って廊下の暗闇の向こうに消えて行った。斎藤と平助は、二人で交代で起きていることに決めた。二人とも、千鶴が突然気を失う様子が心配で仕方がなかった。そして、斎藤はさっきみた血の池の光景が千鶴の容態と何かしらの繋がりがある気がしてならず、朝に伊庭が戻ったら必ずそのことを話そうと決めていた。
翌朝、千鶴は目を覚ました。意識はあるが、瞳の色は生気がない。松本が話かけても、言葉の語尾だけを鸚鵡返しに繰り返すだけ。その声は抑揚が全く無く、鸚鵡返しというより、ただの音が喉から出てきているようだった。頻繁に起きる自失。松本は気因とすると根が深い病だと思った。江戸の蘭方医仲間に文を書いて、気の病に詳しいものがいないかと問い合わせた。千鶴は、朝餉を殆ど受け付けず、松本の勧めで一日床に横になっている方がいいという事だった。今日は、昼前に左之助と新八が二条城に宿直に来る。また、あの二人が来れば、千鶴の反応も変わるかもしれない。兎に角、千鶴に皆は普段通りに接するようにという事だった。
斎藤は、朝餉の後に本丸から戻った伊庭に話が有ると伊庭の自室に向かった。伊庭に昨夜の溜池でみた異変の事を伝えた。あの場所で千鶴が倒れた時に聞こえた奇妙な声、そして、一瞬だが池の水面が真っ赤な血色に変わった事。千鶴の容態になにか因果関係は無いかと尋ねた。伊庭は暫く考え込んでいた。二条城には、様々な言い伝えがあって、伊庭自身二の丸御殿以外では庭園と溜池ぐらいしか近づいたことはない。溜池は、古来魔物退治の伝説があると聞いたことがある。唐門には鬼が出る。鬼門に夜は近づくなと言われている。斎藤は、城内に禁域が有ることを知って驚いた。物の怪の類いか。昨夜のあの奇妙な声も森の中に住まう魔物やも知れぬ。そして、千鶴が水辺ではなくあの声に怯えて気を失ったとしたら。斎藤は、じっと溜池の向こうの暗闇と血色の水面を思い返した。伊庭は、城内に詳しい者に溜池に何かないか尋ねてみると言って二の丸御殿に向かって行った。
床に横になったままの千鶴を平助と見ている間に、左之助と新八が二条城にやってきた。千鶴の様子が、屯所を出た時より悪くなっているのではないかと、歯に衣を着せぬ物言いで松本に尋ねている。左之助は、ずっと千鶴の枕元に胡座をかいて座り千鶴の頭を優しく撫でている。
「もう、俺たちが来たから、大丈夫だ。千鶴。安心していいぞ」
「これは総司からだ。あいつは今は熱を出していて起き上がれねえ。けど、これを言付かってきた」
そう言って、左之助は紙につつんだ金平糖を一粒とると千鶴の口に放り込んだ。
「どうだ、千鶴。甘いだろ?」
千鶴は、ぼんやりとしたまま口に入った金平糖を舐め続けた。「あまい…だろ……」と繰り返している。振り返って新八を見た左之助は、寂しそうな表情で溜息を付いた。新八は、心配そうに左之助のとなりに座って、千鶴の様子を見守った。
斎藤と平助は、千鶴を溜池に近づけないように左之助達に念を押して屯所に帰った。昨日と全く同じように。日中、ぼんやり過ごした千鶴は、夕七つの鐘の音で起き上がると、寝間着のままで中門まで歩いていき、じっと宙をみつめるように佇んだ。二の丸御殿から伊庭が出てきて、千鶴を迎えに来た。
「千鶴ちゃん、ただいま戻ったよ」
昨日と同じように、伊庭は優しく千鶴の頭を撫でてから、手を引いて部屋に連れて行く。左之助は、伊庭が千鶴を優しくいたわっている様子に安堵した。新八は、夕餉の席で起き出してきた千鶴が、着物を着替えて伊庭の隣で下女と一緒に給仕する姿を見て、まるで千鶴が伊庭の妻になったように思った。二人は仲むつまじい新婚といった佇まいだった。ずっと千鶴の手をひき、背中を支える伊庭は、千鶴に溢れかえるような愛情を注いでいる。そんな伊庭の態度に新八も左之助も当てつけにあっているような、妙に白けた気分になった。
夜に御殿で宿直をする伊庭に代わって、左之助と新八で千鶴の護衛についた。
「千鶴ちゃんをよろしくお願いします」
そう言って、頭を下げる伊庭を廊下で見送った二人は。部屋に戻ってから、悪態をつき始めた。
「なんかよ、伊庭の奴。千鶴ちゃんのこと自分の嫁とでも思ってんじゃねえか」
新八が、開口一番にそう言うと、左之助が「声が大きい」と諭した。
「ああ、千鶴を大事にしているのは感心するが、たった二日こっちに預けただけで、ああも当てつけられるとな」
女の事では、普段は余裕の左之助も、伊庭の千鶴への急接近には心が落ち着かないと言う。
「俺等が散々守って、可愛がってよ」
「なのに、なんで、ぽっと出の伊庭みたいなのによ」
新八は、だんだん声が荒くなってきた。左之助は、千鶴に聞こえるから静かにしろと諫めたが、新八は止まらない。
「なんで、ひょいっと持って行かれなきゃならねえんだ。俺は納得が行かねえ」
左之助は新八に頷きながら、
「だな。伊庭は良い奴だ。ご身分も申し分ない男だろうよ。だが、こうやって体調の悪い千鶴に便乗して手籠めにするってやり方は、俺も気にくわねえ。女に惚れるのは勝手だが、欲しけりゃ、正々堂々とまっとうに貰い受けるってのが道理だ」
「ああそうだ。俺は伊庭に恨みはねえが、こんな二条城みてえな場所に女を連れ込んでってやり方がよ」
二人は悪態つきで大いに盛り上がった。酒でも呑まなきゃやってられねえ。これが屯所だったら憂さ晴らしに朝まで飲んでもられるが、今夜は護衛だからな。そう言って、ぐだぐだと文句を言いながらも、夜更けに千鶴が静かに眠りについた様子を確かめると、千鶴が無事で良かったと安堵した。そして、交代で朝まで起きて、千鶴の寝顔を見守った。
翌朝、早くに斎藤が二条城に現れた。今日は、平助が来られなくなったから、自分が護衛につく。巡察の予定も変更されたから、左之助と新八に直ぐに屯所に戻るようにと土方からの伝言を伝えた。左之助達は朝餉を終えると、すぐに二条城を後にした。斎藤は、千鶴がまだ床の中で眠っている傍に座って、その安らかな様子を確かめた。頬にかかった髪をよけてやり、ついでにそっと頬にこっそり指先で触ってみた。ひんやりとした肌は、すべすべでなめらかで柔らかく、衝動が止められなくなった斎藤は部屋に自分が一人きりなのを確かめた後、そっと掌で包み込むようにもう一度頬に触れてみた。千鶴の桜色の唇は貝殻のように見えた。そっとそのまま親指を伸ばしてなぞってみた。じんわりと胸が締め付けられるような変な感覚がした。その時、背後で障子の向こうから伊庭が、千鶴に呼びかける声が聞こえた。斎藤は、慌てて千鶴から離れた。
静かに障子が開いて、「やあ、斎藤くん。みえていたんだね」と言いながら、伊庭が部屋に入ってきた。今、宿直が終わって、朝餉を取りにいくところだと言う。昨夜は千鶴に何事も無かったと、斎藤から報告を受けて伊庭は安堵したようだった。そして、千鶴の顔を覗き込むと、優しく微笑みながら、頭を撫で、頬を撫でて、そのまま千鶴の唇に親指をのばして優しく触れた。斎藤は、それを見て鳩尾をおもいきり殴られたような衝撃を受けた。
なにをしている。
また、心の中で刀に手を掛けてしまった。今すぐ伊庭を斬り殺したい衝動を必死で押さえて。斎藤は息を止めて平静を保った。
「斎藤くんも朝餉がまだなら、僕とご一緒にいかがですか」
伊庭は斎藤に笑いかけた。
「千鶴ちゃんは、あともう少ししたら起きるでしょう。先生の診察の後に着替えたりで、彼女とはもう暫く後まで逢えませんからね」
伊庭は、千鶴の予定は全て把握しているようだった。そして、自分の宿直や護衛の仕事以外はずっと千鶴と【逢っている】という言い方をする。まるで逢瀬のような、万感が籠もった話しぶりに斎藤の心にはさざ波が立った。
別の部屋で、斎藤は伊庭と向かい合わせに膳を並べて朝食を摂った。伊庭は背筋を伸ばして座り、美しい箸使いでどんどん食べ進める。合間に下女に、「今日も美味しいお支度で、至福だ」そう話しかけて笑っている。下女は嬉しそうに返事をして給仕をしている。斎藤は、同意して下女に向かって頷くのがやっとだった。伊庭は、斎藤にも話しかける。
「歳さんにしか話していなかったんですが。僕は、千鶴ちゃんを彼女が幼い頃から知っていて」
伊庭が千鶴の名前を出したところで、一瞬箸を止めたが、斎藤はそのまま黙って食べ続けた。
「僕は彼女の父上に蘭学を学んでいました。まだ剣術を本格的にやり出す前です」
「毎日のように、講習所に通って。千鶴ちゃんも一緒に手習いをしていました」
斎藤は、黙々と食べ続けた。そうか。やはりそうだったか。旧知の仲。江戸に居た頃からの。斎藤は、衝撃を受けながらも、平静を装った。
「幼なじみみたいなものです。朝に蘭学、午後は練武館で剣術。千鶴ちゃんは小太刀を習っていましたから」
「彼女が作った昼餉を母屋で綱道さんと一緒に頂いて。あの頃から、彼女は食事作りをそつなくこなしていて、いつも美味しいものを作ってくれました」
元服するまでの二年間。楽しい毎日でした。小さな妹のようで。よく笑って、素直で、聡明で。可愛くて。今も愛らしい。
それに、美しくなった。
眩しいぐらいに。
微笑みながら、話し続ける伊庭の前で。斎藤は、もう食べ続けられなくなった。箸を置いて食事を終えた。じっと静かに呼吸を整える。もうよい。十分わかった。相解った。伊庭は雪村に惚れている。それも何年も前から。俺がたかだか二年の付き合いなら、伊庭はもっと長く雪村を見てきた。元服前に自分が雪村に出会っていたら、どうであっただろう。一緒に寺子屋で学び、道場に通い。子供同士で一緒に遊んだ事だろう。
小さな妹、良く笑う素直で聡明な雪村か。
俺だって思う。あのように女の格好をする雪村は眩しいと。雪村は美しい。だが、誰にも言えぬ。本人にさえ伝える事は困難だ。難しい。どんな風に伝えればいいのだ。わからぬ。
「僕は今日の午後、屯所へ行って歳さんと近藤さんに会うつもりです」
「千鶴ちゃんを貰い受けたいと正式に申し込みに」
斎藤は目を見開いた。なん、だと……。
「公方様は、もうすぐ江戸へ帰還される。その時に、僕は江戸へ千鶴ちゃんを連れ帰ります。江戸で療養をさせて、僕がお世話をする」
「これからずっとです」
斎藤は動けなかった。息もできない。なんだと……。
「雪村を……嫁御に、すると」
斎藤は、やっとそう聞き返すのが精一杯だった。伊庭は微笑みながら頷いた。もう心は決まっている。そんな様子で話す。そして、思い出したように。二条城の伝説について、古くからここに勤める城代にこれから会うと云った。城代は溜池の魔物退治の話にも詳しい。伊庭は、斎藤にも同席したければと誘った。斎藤は二つ返事で一緒に行くと答えた。
*********
鵺池
松本良順が千鶴の診察をしている間、斎藤は伊庭と二の丸御殿で城代と面会した。腰も曲がった長老で、この高齢でもまだお役を下りないのは、若い頃からの手腕と、建屋や庭の整備についてあらゆる知識と技術に精通しているからだという。そして、二条城が建立される前からの洛中での出来事を知っている、正に生き字引のような城代だった。
斎藤と伊庭が溜池で起きた異変を話すと、溜池には別に【鵺池】という名前がある。今の溜池は人工的に掘ったものだが、元々はあの場所に自然に出来た小さな池があった。
もう千年近く前、平安の都があった頃の話。都には鵺という妖怪が出没して、その鳴き声を聞くと災いが起きた。御所にも鵺の鳴き声が響き、天子様が病に倒れて怯えられた。そこで弓の名手である源頼政が闇夜に鳴く化け物を退治したところ、
顔は猫
身体は狸
手足は虎で長いかぎ爪を持ち
口は赤く裂けて牙を剥き
尻尾は蛇のように長い
これが件の鵺の姿だったという。そして、この物の怪を見事に射った鏃(やじり)を洗ったのが二条城にあった池で、池の水が真っ赤な血色に染まったという。その後鵺の遺骸は鴨川に流され、最後には清水寺に埋められた。
斎藤はここまで聞いて、二日前の夜に溜池の向こうに聞こえた声も【鵺】のような気がした。千鶴が失神するなど、具合が悪くなったのも、もしや屯所の廊下で鵺の声を聞いたのかもしれぬ。斎藤は、全ての辻褄が一致するような気がした。
城代は、まだ話があると続けた。頼政の鵺退治は伝説だという。今は、【鵺池】は掘り返されて溜池になった。築城の際に落とされた池の右側にある【不動石】が災いを封じ込めている。心配には及ばない。そして、最近、清水寺で鵺が掘り返されたと噂になっているが、あれは禁門の騒ぎで火事にあった事に乗じての悪い噂。おそらく幕府に盾突く長州藩が流しているのだろう。そう言って笑った。天子様や公方様に禍事がないよう、長州こそ成敗せねばな。そう言って、面会した部屋から城代は出ていった。
鵺が掘り返されて、祟りが起きている。
これは、捨て置けない噂だった。さっき聞いた鵺池の伝説は、あまりにも千鶴の症状と合致している。もし、本当に一度は退治され葬られた物の怪が千年の後に、地面から掘り返され再び生き返り洛中に住まう者に災いを起こしているとしたら。それこそ、退治をして再び葬り去る必要があろう。だが、どうする。源賴光でも、頼政でも、渡部綱でもない自分が。伝説の弓矢や宝剣もなしに闘えるのか。斎藤は、自分の傍らに置いた国重に手を置いた。我が刀。それでも、この鬼神丸は斎藤にとっては宝剣だった。数々の修羅場をくぐり、人を斬ってきた。そして、たとえ物の怪でも、雪村を襲ったものは許さぬ。
悪と判ったからには成敗する。
斎藤は心を決めた。伊庭は、城代の話を半信半疑で聞いていた。池の水面が血色に変わった。それと千鶴の容態は確かに繋がっているが、もしそうであるなら。祟りの起きている京から出来るだけ早く千鶴を連れ出した方が良い。やはり、歳さんと近藤さんに千鶴を江戸に連れ帰る許可を頂こう。そう決心すると、部屋に戻った。
その午後は、斎藤はずっと持ち寄った道具を使って刀の手入れを念入りにした。千鶴はじっと斎藤が手入れをする姿をうつろな表情で見詰めていた。静寂の中で、斎藤は夜遅くに千鶴が繕いものをする傍で刀の手入れをしてきた日々を思い出した。行灯の油を節約する為だが、千鶴はよく斎藤の部屋でいろいろな手仕事をしていた。口下手な自分と何が楽しいのか、ずっと傍に座って、くるくると表情を変えては頷き笑っていた。
もう元気になったとしても、あのような日々は戻らぬのかもな。
斎藤は、障子を開けて伊庭が入って来た時にそう思った。伊庭は昼餉をここで一緒に食べたら、午後は屯所に行って留守をするからと千鶴に優しく話掛けている。
「歳さんと近藤さんにお許しを貰ったら、江戸に一緒に帰ろう」
伊庭は、千鶴の両手をとって千鶴の顔を覗き見るように笑いかけている。斎藤は、手に持っている刀を落としそうになった。己が身が崩れ落ちていくような、伊庭が千鶴をこのまま江戸に連れ帰ったら、もう会うこともないだろう。斎藤は千鶴を見詰めた。千鶴は、やさしく笑いかける伊庭には一切反応せず、いつもの鸚鵡返しもしなかった。ただ目の前に座る伊庭を通り越した畳の半畳先を見詰めつづけ、ただ静かに座っている。斎藤は、千鶴が伊庭に一切の意思表示も返事もしなかった事に、少しだけ救われた気がした。
斎藤は、刀を片付けた。間もなく、下女が部屋に膳を運び始めた。斎藤は千鶴が下女を手伝いに台所へ向かうのではと思ったが、千鶴は席を立つと斎藤の傍に正座した。そして、斎藤の長着の袖を持って、じっと縫い目を確かめた。斎藤は左側の袖に綻びを数日前から作っていた。千鶴は、立ち上がって針箱を持ってくると、それを繕い始めた。斎藤は、じっと座って千鶴のするままにさせておいた。千鶴の針運びは、普段と変わらず素早く丁寧だった。表と裏を確かめる表情は真剣で、ここ数日のうつろな表情が消えて、いつもの表情になる。斎藤は、千鶴が長い睫を伏せがちに自分の腕の中で作業する姿に、昔に戻ったような気分になった。そして、最後に結び目をとめると、斎藤の脇の中に潜るように入って、口で糸を咥えるとそっと糸切りをした。千鶴の髪から、いつもの甘い芳い香りがした。ふっと顔を上げて糸目と縫い目を確かめると、出来上がったという表情をみせた。微かに笑顔が戻ったような。瞳に色が戻った気がした。斎藤は千鶴と見つめ合った。
礼を言う、雪村。
微笑み掛ける斎藤と千鶴は目線を合わせていた。千鶴も微笑んだ。だがそれは一瞬で、瞼が再び半分下がり、うつろな目になった。斎藤の胸に冷たい氷が走った。悲しみの刃がすっと胸を撫でるように。気がつくと、伊庭はお膳の前でじっと千鶴が作業を終えるのを待っていた。そして、千鶴が丁寧にお針箱を片付けると、一緒に座るように千鶴を促して昼餉を食べた。伊庭はその後支度し、屯所に行ってくると二条城を後にした。
斎藤は、千鶴が京を去る前に必ず鵺を退治しようと思った。闇夜に鳴く物の怪。夜中に備える必要がある。江戸に帰る前に、必ず千鶴から禍を取り去り、千鶴が幸せに暮らせるようにしよう。
「雪村、もう、恐れる必要はない」
「俺が、鵺を成敗してやる」
ずっと、障子の向こうを見るようにぼんやり座る千鶴の横顔に斎藤は話かけ続けた。千鶴は時折、
「ひつようはない……」
「して…やる……」
鸚鵡返ししている。聞こえているのだな。自分の言うことを聞いていることが嬉しく。ずっと午後は千鶴に話しかけた。
*******
伊庭が戻ったのは、夜も遅くなってからだった。斎藤は、千鶴と先に夕餉を済ませた事を伝えた。伊庭は、千鶴の様子を見ると、これから二の丸御殿に用向きがあると、出掛けて行った。千鶴は湯浴みをするからと、下女に連れられて、二の丸御殿に向かった。二の丸の湯殿は新しく造られた施設で、特別に千鶴はそこで湯に浸かる事が許されていた。斎藤は、念の為に千鶴が湯浴みを終えて、本丸に戻ってくるのを渡り廊下で待っていた。
斎藤は、じっと庭園を眺めていた。今夜は月もない暗い夜。生暖かい空気は、もう梅雨入りも近い事を感じさせる。千鶴が渡り廊下を歩いてくるのが見えた。下女に手を引かれてまだ濡れ髪のまま、浴衣の上に、薄い涼し単衣を羽織っている。斎藤はじっと千鶴が歩いてくるのを眺めていた。屯所でも浴場の見張りをして部屋まで送るのは斎藤の役目だった。湯上がりの千鶴は、いつも女らしく、その姿を目にするのが嬉しかった。斎藤がそんな事を考えていると、突然、庭園の暗がりからけたたましい音が聞こえた。耳をつんざくような、鳥の鳴き声。
斎藤が庭園を見た瞬間、黒い影が暗闇から飛び出し千鶴に襲いかかった。斎藤は抜刀しながら走り出した。大きな獣の姿。
おのれ、物の怪
斎藤が背中から思い切り斬りつけると、獣は飛びあがった。目の前を大きな後ろ足が横切る。大きなかぎ爪。そして獣は千鶴を前足で抱くように宙を飛び。暗闇に消えて行った。鳥の声は、笑っているかのような、何か叫んでいるようにも聞こえた。
「ハ、イタダイタ」
斎藤は、渡り廊下から庭に降り立つと、暗闇の向こうへ突き抜けて行った。鵺池の辺に、千鶴が横たわる姿が見えた。その上に襲いかかるように野獣がその四肢で千鶴を押さえつけている。
放せ、化け物
斎藤は、思い切り斬りつけた。獣は顔を千鶴の喉に近づけ今にも頭もろとも食いかかろうとしている。斎藤は、何度も獣の肩や脇腹を刺し続けた。ちょうど、千鶴の喉から青い光る珠が浮かび上がっていた、それを咥えた野獣は、千鶴の身体から離れた。
その瞬間、斎藤は野獣の懐に潜りこんだ。首の横を斬りつけると、野獣は後ろ向けに跳ね飛んで、溜池の向こうの不動石の上に降り立った。
「言霊(ことだま)はいただいた。我言葉をあやつりて禍を成す」
野獣は人の言葉を話した。さっき千鶴から奪ったのは言霊か。許さん。斎藤は、溜池の中に走って入っていった、そして不動石によじ登った。空に雲が立ち籠めて、雷が鳴り出した。野獣は、雷電を呼び起こすように天に向かって叫ぶ。その声は、地響きを生み、辺りは揺れ出した。つんざくような叫び声は、斎藤の耳も体中を引き裂くようで、耳を塞ぎたいが、岩に摑まっている両手を放すことは出来ない。
その時、揺れているのは自分が摑まる石だと気づいた。見上げると、不動石の表面に亀裂が走り中から、光が漏れている。その光は後光のように暗い池の上に何本もの光の線を放っている。斎藤は自分の摑まる岩が眩しくて、光で前が見えなくなった。石の上の野獣はその光で四肢が縛られたように岩に繋ぎ止められて、身動き出来なくなっている。斎藤は、今だと思った。全力を込めて、よじ登った。そして、苦しむように大きな口をあけてもがいている大きな生き物の心の臓をめがけて、両手で刀の柄を持つと一気に全身の力を込めて突き刺した。斎藤は、おもいきり身をよじった野獣に弾き飛ばされて、岩から溜池に落ちた。
水面になんとか浮かび上がった斎藤は、岩の上で最期の断末魔に苦しんでもがく野獣を眺めた。けものは仰向きに背中からひっくりかえり不動石から溜池に落ちた。斎藤は水しぶきをやり過ごすと、鵺の胸に刺さった鬼神丸を取り返しに水面をかき分けて進んだ。
四肢を宙に上げたままゆっくりと鵺は溜池に沈んで行った。刀の柄を抜き去り、とどめにもう一度腹を突き刺して水中に沈めた。暫く、水中の中で相手が絶命したのを確かめてから、刀を抜いて水面に上がった。
そして、水をかき分けて池のほとりに必死で戻った。横たわる千鶴は、絶命したようにぐったりしている。魂を奪われたか。斎藤は千鶴をかき抱いた。救えなかったのか。絶望でもう動けなかった。ずっと千鶴の胸に頬をつけていた。斎藤は、溜池の水面が明るく輝いているのに気づかなかった。
溜池の水面から青い珠が何個も浮かび上がって来た、天に昇るかのような珠は、それ自体が意思を持っているかのように輝き、くるくると宙に回っている。そして、無数の青い珠は、洛中の空に一斉に散らばって飛んでいった。その内の二つの美しい珠が千鶴の頭上に飛んできた。くるくると回転しながら、二つの珠は、千鶴の喉にゆっくりと溶けるように入って消えていった。
その瞬間、千鶴の全身が痙攣した。斎藤は、千鶴の身体の反応に驚きようやく顔を上げた。千鶴の身体がゆっくり動き出した。驚いた斎藤は、「雪村」と呼びかけた。
千鶴はゆっくりと目を開けた。そして、斎藤の姿を見ると、「斎藤さん?」と名前を呼び返した。いつもの、千鶴の声だ。そして、起き上がるとずぶ濡れの斎藤に驚き、
「斎藤さん、どうしてこんなにびしょ濡れになって」
と言って斎藤の顔をいつもの心配そうな顔で覗き込んだ。斎藤は千鶴を強く抱きしめた。生きている。生きていたのか。言霊も魂も戻ったか。斎藤は、不思議そうにしている千鶴を暫くそのまま抱きしめ続けた。そして、千鶴が、「斎藤さん、ここはどこでしょう」、「こんなにずぶ濡れで」、「斎藤さん、大丈夫ですか?」と斎藤の腕の中で、ずっと質問し続けた。
斎藤は、ああ、大丈夫だ。池で泳いだ。ここは二条城だとゆっくり千鶴に答えた。斎藤は傍らの打刀を鞘に収めて腰に差すと、不思議そうにしている千鶴を抱きかかえて、本丸へ戻った。渡り廊下で気を失っていた下女を助け起こした。下女は千鶴の無事を知ると涙して喜んだ。本丸へ戻ろうとしたところで、御殿から伊庭が現れた。千鶴の元へ駆けつけると、千鶴が「伊庭さん」と呼びかけた。伊庭は千鶴が元の千鶴に戻ったことに驚き喜んだ。ずぶ濡れの斎藤といっしょに本丸の千鶴の部屋に戻って、千鶴から屯所で野獣の声で夜中に目覚めた夜の話を聞いた。そして、千鶴にはここ数日間の出来事は、全く記憶がないことが判った。
松本が改めて千鶴を診察した。どこも悪いところはない。反応もいつも通りだ。いつも通りの元気な千鶴に戻ったと笑顔で診察を終えた。そして、斎藤に向かって、斎藤の診察もすると言った。斎藤は、脇腹と肩に野獣に引っかけられた傷が出来ていた。打撲が数カ所。だが、数日で治るということだった。それから、斎藤は、伊庭と松本に、渡り廊下から千鶴が鵺に浚われたこと。鵺は、千鶴の言霊を奪って言葉を得たと叫んだこと。これからは言葉で人をあやつり禍を成すと鵺が言い放ったと説明した。そして、鵺の遺骸が溜池の真ん中辺りの底に沈んでいる筈だと言うと、斎藤は着替えて松本と伊庭を連れて一緒に溜池に向かった。
溜池は血色に染まっていた。それは、数日前に斎藤が見た光景そのものだった。ただ今回は、一瞬でもとの黒い水面には戻らず。翌朝になってもそのままだった。鵺の祟りだと、二条城の者は城代を筆頭に大層恐れた。そして、御所にも出来事を報告して、洛中の至るところでお祓いを行った。血色の池は、三日を過ぎる頃に、だんだんとそのおどろおどろしい色は薄れて行った。溜池の底には鵺の遺骸は見つからず、斎藤が沈めた鵺は池を血色に染めただけで忽然と消えてしまっていた。そして、不動石は、今回の出来事でその神格化は決定的なものになり、注連縄(しめなわ)は新しく取り替えられて、溜池は神域とされるようになった。
千鶴は、翌朝屯所から出向いた近藤と土方と面会した。今までの経緯の説明を受けた千鶴は、近藤と土方に江戸に戻りたければ喜んで送り出す。千鶴の意向を最優先にすると言われた。千鶴は、今まで通り、新選組の皆さんと屯所で暮らしたいと答えた。土方と近藤は、その一言で松本と伊庭に本日中に屯所に千鶴を連れ帰ると宣言した。松本も伊庭も千鶴の意向を尊重して首を縦に振った。皆で昼餉を一緒に食べてから、荷物をまとめて二条城を後にした。
帰り際、伊庭は斎藤に向かって、「彼女をよろしくお願いします」と深々と頭を下げた。そして、前日に、土方と近藤の元に千鶴を貰い受けたいと申込みに行ったら、千鶴が正気に戻ってから千鶴が嫁に行きたいと言うのなら渡すが、そうじゃなければ、悪いが渡せないときっぱりと断られたという。彼女をいつか貰い受けることが出来るように、僕は精進する。彼女に認めて貰えるように。そう新たな決心を斎藤に伝えた。
斎藤は頷いた。自分も精進しよう。不覚にも屯所に今回のような事件が起きた。もう二度と雪村をこの様な目には遭わせたくない。また上洛の際には、今度は手合わせが出来るといいなと斎藤は伊庭と笑いあった。そして伊庭は、駕籠に乗った千鶴がのぞき窓からずっと笑顔でお礼を言って手を振る姿をずっと微笑みながら道の向こうに消えるまで見送った。
了
(2017.11.11)