
第六部 八方睨みの猫
薄桜鬼奇譚拾遺集
西本願寺に屯所があった時のこと。
斎藤が夜中の鍛錬の後、渡り廊下を通って北集会所の周り廊下を歩いていると。廊下の先に人影が見えた。頭に手拭いを被った小柄な者が廊下を横切って行く。不審に思った斎藤は足早に近づくと、阿弥陀堂への渡り廊下に繋がる階段を抜き足差し足で下りていく者の姿が見えた。寝間着のまま裸足で、こっそり抜け出すように歩く様は不審極まりない。
「おい」
斎藤が背後から声を掛けると、不審者は飛びあがるように驚いて振り返った。顔をよく見ると、雪村千鶴だった。何故か手拭いを頭に被って顎の下で結んでいる。けったいな格好だ。
「雪村、何処に行く?」
千鶴は、斎藤の姿を認めると。「斎藤さん」と呟き、ばつが悪そうに頭を下げた。
「すみません。ちょっと阿弥陀堂の裏庭に・・・・・・」
しどろもどろに千鶴が答える。夜間は、阿弥陀堂への渡り廊下は新選組隊士は通行禁止とされていた。阿弥陀堂への出入りも禁じられている。千鶴はそれを承知の上で、こっそりと裏庭に行こうとしているらしかった。
「裏庭に何用だ。斯様な時間に灯りも持たず、そのような頬被りで。盗人と見紛われても仕方あるまい」
斎藤は咎めるような口調で問いただす。千鶴は、頭を垂れたまま観念したように手拭いを取った。「ごめんなさい」と小さな声で謝っている。
「どうしても・・・・・・。猫の集会が見たくて・・・・・・」
千鶴が小さな声でぼそぼそと言い訳をしている。「なんだ。その猫の集会とは」と斎藤が詰問する。
「夜中に境内の猫が、裏庭で集会をしているって」
千鶴が顔を上げて説明を始めて、斎藤はようやく合点が行った。たしか、数日前の夕餉の時に本願寺中の猫が夜中に裏庭に集まっているという話で盛り上がった。斎藤は、夕餉の席で近藤が本願寺の住職から注意があったと話をした日の事を思い出した。
***
猫じゃ猫じゃ
数日前の夕餉の席のこと。
ここのところ、屯所の台所から食材が無くなる事件が起きていた。野菜や行商から買い求めた目刺しの干物などが、忽然と消えてなくなる。戸棚の中にしまってある乾物も被害にあっていた。ここ西本願寺には猫が生息している。寺が建立された頃より鼠退治の為に、猫が飼われているのだ。鼠は建屋の柱や壁に穴を開ける害獣。猫は鼠を捕まえて寺を守る。殺生を嫌う僧侶たちは猫を保護することで、鼠を駆除する方法をとっていた。そして実際、境内のいたるところに猫が居た。中でも、白に黒のぶち猫が本願寺の主らしく、いつも阿弥陀堂の屋根の上にその巨体を横たえてじっと、下界の人々を眺めていた。
夕餉の席で、千鶴が食材が消えるのは猫が台所に立ち入っているのが原因ではと言い出した。確かに、壬生村の屯所では猫に食材を奪われる事件が起きていた。猫から食料を守るのに、八木邸では皆で血眼になって猫を追いかけ回していた。千鶴から話を聞いた局長の近藤が皆に聞いて欲しいと話を始めた。実は本願寺の和尚から、新選組が境内で行っている大砲訓練で隊士が猫を追いやるのを止めて貰いたいと苦言があった事を伝えると、それを聞いた平助が反論しだした。
「でも近藤さん、ここの猫ってさ。オレ等が大砲運んでもでーんと居座って、邪魔だっつうの。あのデブのブチ猫なんてさ、太々しいにも程がある」
「調練を寺の御猫さまに邪魔されてもな」
新八も平助に同調して、文句を言い出した。
「ここの境内は猫だらけだ。あいつらが台所から食べ物盗んだりしてるなら、せめて北集会所からは首根っこ掴んで追い出しても文句を言われる筋合いはないはねえだろ」
近藤は皆の不満を一通り聞いて頷いていた。そして千鶴に顔を向けると、食材は本当に猫が盗んでいるのかと尋ねた。千鶴は首を横に振って答えた。
「いいえ、確かではありません。ですが、日中は台所の戸は開けっ放しになっているので、誰でも入って来れます……」
「でもやはり猫を疑ってはいけません。すみません、床の上に食材を置かないように井上さんと工夫してみます」
千鶴は近藤に向かって頭を下げた。近藤は、頷くと皆に向かって猫を追い立てる事を控えるように注意した。平助たちは、ふて腐れながらも「わかりました」と返事したが、それにしても【あの猫の主】は太々しい輩だと言って話が止まらなかった。
「あいつらさ、夜中に裏庭で集会してんだぜ」
平助が非難するように話すと、左之助も頷いて「俺もみたことがある」と応えた。
「彼奴ら、徒党組んで何企んでやがんだ?」
新八が目刺しの干物を頬張りながら、左之助に尋ねている。
「さあな、昼間俺らの事を高見の見物したって報告しあってんじゃねえか」
左之助が笑いながら答えた。千鶴は、もう食事をするのも忘れて皆の会話を夢中になって聞いている。
「一通り、オレらの噂話したら、皆で踊ってんじゃねえの」
平助が、そう言って箸を両手に持って、茶碗を叩くと唄いだした。
猫ぢや猫ぢやと
おっしゃいますがー
猫がー猫が下駄はいて
絞りのゆかたでくるものかー
あー、おっちょこちょいのちょい
おっちょこちょいのちょーい
平助が立ち上がって猫踊りを始めた。千鶴がケラケラとお腹を抱えて笑っている。皆が酒の席のように手拍子をして盛り上がりだした。平助は調子に乗って手拭いを頬被りして、広間の真ん中に踊り出た。「あ、おっちょこちょいのちょい」と派手に踊る。新八が、あーそりゃそりゃ等と合いの手を入れて盛り上げる。手の先を猫の様に丸めて、千鶴も真似しながら笑っていた。
斎藤が思い出していたのは、この夜の事だった。もしかして。「猫じゃ踊り」を見物したいのか。斎藤は、千鶴がわざわざ頬被りまでして裏庭に行こうとしていたのに気がついた。
千鶴はばつが悪そうにずっと俯いている。斎藤は、腰の打刀を鞘ごと抜くと手に持って阿弥陀堂に向かう階段を先に下りて行った。千鶴がじっと動かないでいると、斎藤は振り返って、
「ついて参れ」
そう言うと、足元の草履を二足分とって背中側の帯に挟んだ。千鶴がそれを不思議そうに見ていると、
「万が一、本願寺の者に見咎められたら謝って境内へ下りて戻ってくればよい。その時の草履だ。あんたの分も俺が持っている」
斎藤はそう言って微笑んだ。千鶴はようやく斎藤が一緒に阿弥陀堂に行ってくれる事を理解した。斎藤は規則や理のようなものを必ず守る人だ。そしてそれを破る人間を捉える。噂では粛正のために刀を振るわれる事もあると聞いた。とても厳しい人。己にも他人にも。でも、こうして私の前を歩いてくださる。本願寺のお坊様に見つかれば、見咎められるばかりか、新選組全体に迷惑をかけるかもしれないのに。一緒にお坊様に謝ってくださると言う。
千鶴は胸の辺りがじんわりと暖かく感じた。怒られて恥ずかしい気分が少し無くなった。千鶴は斎藤の後ろを阿弥陀堂への渡り廊下をつたって歩いていった。斎藤はお堂の裏に曲がる廊下で一旦止まると、身を低くするようにと、千鶴に囁いた。
「よいな、呼吸に合わせてつま先から床につけて歩け。猫は気配に聡い」
千鶴は頷いた。斎藤の眼は深い青色に輝いている。斎藤は頷くと、先に身を低くして廊下を壁伝いにそっと歩き出した。千鶴は緊張してきた。本願寺の僧侶もだが、集会をしている猫に見つかってはならない。千鶴は手に持っていた手拭いを再び頬被りして顎で結んだ。なぜだか解らないが、そうした方が気配を消せる気がした。
半月の夜だった。阿弥陀堂の裏側の廊下を身を低くして動く影が二人。怪しい、怪しすぎる。遠くから二人をみると、盗人のように見えた事だろう。斎藤は打刀を身体に近づけ、全く音を立てずに進む。そしてその後ろを、薄紅の寝間着姿の千鶴が何故か左手を前に、右手を後ろに伸ばしたまま半腰で進んでいる。きっと絵双紙の忍者の絵姿を真似ているのだろう。二人の様子は怪し過ぎた。
斎藤が止まった。ちょうど猫の集まりのはす向かい辺り。斎藤は千鶴に身を低くして、廊下の欄干に向かうように合図をした。千鶴は斎藤の隣にそっと近づいた。そして欄干の隙間から裏庭が一望できた。いる。猫たちだ。おびただしい数で集会をしている。
斎藤と千鶴は息を凝らして集会を見学した。猫たちは車座になって座っている。互いに鼻を突き合わせ、なにやら相談ごとをしているような様子だった。車座の上手には、【本願寺の主】がでっぷりと座っていた。皆の相談を一通り聞き終わると、主(ぬし)は起き上がった。そして前足をついて綺麗に座り直すと、それまで車座になっていた皆がぱたぱたと動き出した。不思議なことに、まるで整列するかのように【主】の前に列を作って並んだ。
斎藤と千鶴はその不思議な光景をじっと見ていた。昼間のんびりと気紛れに寝そべっている猫たちが、奇妙に整然とした動きをしている。そして、並んだ猫は静かに全員が鼻先を【主】に向けている。すると、【主】が鼻先をひょいと上に向けた。猫達は、その途端全員が身を低くして構えた。おもむろに、【主】が立ち上がった。二本足でむっくと立ち上がる姿は、まるで小さな子供が猫の皮を被っているようだった。千鶴は、思わず声を挙げそうに口もとが開いた、その瞬間斎藤の右手が千鶴の唇を覆った。斎藤は横目で千鶴に、静かにするように合図をしてくる。
【主】は右側の前足を、一番端の列の先頭を指さすように向けると、ひょいっと払うような仕草を見せた。その途端、前足を向けられた方向に先頭の列が走り出し、瞬く間に暗闇に消えていった。次に【主】は二番目の列を別の方向へ出発させた。左側の前足は腰の辺りにおいて、堂々としている。最後に八列目が出発するとようやく【主】は前足を下ろして、四つん這いになった。そして、くるっと顔をこちらに向けると、ゆっくりと阿弥陀堂めがけて歩いて来た。
斎藤は千鶴の腕を引いて再び壁側に身を引いた。千鶴は尻餅をつくように後ろにさがった。すると、半間先の欄干の上に、件の【主】がすっくと登って来ていた。千鶴は息を呑んだ。
【主】はそのまま欄干から廊下に音もなく降り立った。大きな大きな猫だ。真っ白な毛に黒ふちが背中から尻尾まで広がり。頭の上にも黒い模様をつくっている。まるで鬘(かつら)を被っているような、そしてその両目は金色に輝いていた。【主】は身体を横にしたまま、顔だけを斎藤と千鶴に向けて、光る二つの眼で睨んできた。
カチリ
斎藤が打刀の鯉口を切る音が聞こえた。千鶴は恐ろしくなり、思わず斎藤の背中に手を伸ばした。斎藤は少し首を傾けて千鶴を庇うように低く構えた。【主】はじっと斎藤と見詰めあうと、さっと踵をかえして、廊下の向こうの暗闇に消えていった。一瞬の出来事だった。斎藤は鯉口を戻すと、千鶴に振り返った。千鶴は跪いたまま茫然としていた。
「なにゆえ、そのように頬被りをしている」
斎藤は千鶴を見下ろしながら、体中を揺らしている。千鶴は斎藤を見上げた。斎藤は右手の拳を口元に持って行き、手の甲で口を覆うように肩を揺らして笑っている。微かな声だが、くっくっくという笑い声が聞こえた。これは、斎藤の大笑いする声だった。普段めったに聞くことはない。斎藤は余程愉快な事があっても、大声で笑うことがなかった。腹を抱えて笑う姿も見たことがない。だが、平助や新八が皆を笑わせていると、このように肩を震わせて静かに笑う。いつしか千鶴は、斎藤が愉快に笑う姿が判るようになった。決して大声ではないが、ひとたび笑いの壺にはまると、ずっと肩を揺らし続ける。必死に笑いをこらえようとして苦しそうに息をつくこともあった。千鶴は、斎藤が笑う姿を見るのが大好きだった。
「わかりません。自分の気配を消そうと思って……」
千鶴が答えると、斎藤は更に肩を揺らしてくっくっくと笑っている。千鶴はだんだんと気恥ずかしくなってきた。余程滑稽なのだろうか。千鶴は手拭いをそっと取ると、丁寧にたたんで袂にしまった。斎藤は、千鶴の手を引いて立ち上がらせた。
「今夜は、集会だけで【猫じゃ踊り】はなさそうだ。そろそろ戻るぞ」
そう言って、廊下を北集会所に向かって歩いていった。廊下から境内を見ると、さっき走って消えていった猫の姿は何処にも見えなかった。斎藤は、階段の下で草履をしまうと、台所に水を呑みに行くと行って台所に向かった。千鶴も一緒について行った。
水瓶から水を汲んで二人で飲みながら、二人で一息ついた。
「今夜は、【猫じゃ踊】」より珍しいものを見たのやもしれぬ」
斎藤はそう言って千鶴に微笑んだ。
「あの【主】さんは、まるで隊長のようでした」
千鶴は斎藤から湯飲みを預かると、溜め水で洗って片付けた。
「あの身は十貫はある。俺は寡聞にして【猫又】に会ったと言う者を知らぬが、あの【主】がそうであったと聞いても驚きはせん」
斎藤は微笑んだ。
「私は、随分とご立派な【主】さんだと思いました。威厳があって。きっと本願寺の【猫じゃ隊】の局長さんです」
「そうだな、【猫じゃ隊】は夜の巡察にでたのであろう。八方にそれぞれ本願寺だけでなく市中を見廻っているやもな」
「きっと市中の狼藉鼠を捕物されているのでしょう」
千鶴はそう言って笑顔で戸締まりを始めた。斎藤も、一緒に全ての出入り口の戸締まりを確かめた。それから斎藤は大浴場に向かうと言って、千鶴を部屋に送ると廊下の向こうに歩いて行った。
*****
黄色い眼
翌日斎藤は朝から巡察に出た。夕方に屯所に戻ると、井上が大変だと廊下で斎藤を見かけて話掛けてきた。
「雪村くんが寝込んでしまってね。今、山崎くんが診ている」
斎藤は驚いた。朝に千鶴をみた時は普段と変わらず元気だったはずだ。井上は、夕餉の支度が少し遅れると幹部に伝えて欲しいと斎藤に頼んだ。斎藤は、直ぐに自分も炊事を手伝うと申し出た。
斎藤が千鶴の部屋に立ち寄ると丁度、山崎が千鶴を診察した後だった。台所で倒れて、今はだんだんと熱が上がってきている。山崎は薬を用意するといって部屋に戻っていった。斎藤はずっと眠る千鶴をみた。確かに熱が出ている。疲れがたまっていたのか。昨夜も遅くまで起きて夜風にあたらせてしまった。そんな風に思いながら、山崎が薬を持って戻るまで待ち、井上を手伝いに台所へ向かった。
「雪村くんは、土間で倒れていてね」
井上が炊事をしながら隣の斎藤に、千鶴が卒倒していた様子を話した。
「あそこの戸棚の前だよ。それが戸棚の中は、土埃とおが屑だらけでね。雪村君の周りも塵だらけになっていたんだよ」
斎藤は振り返って戸棚を見た。井上の説明では、戸棚の壁に大きな穴が空いていて、土壁も大きく掘られていたらしい。おが屑はまるで、大きな【ノミ】で木を削ったようでね。誰があのような穴を開けて、雪村くんを襲ったのか、よく判らないのだよ。井上は心配そうな顔でずっと話す。
「雪村くんは、私が駆けつけた時には意識があった」
「きいろいめが、きいろいめが」と言ったきり気を失ったんだ。そう井上は斎藤に話した。
きいろいめ。【黄色い眼】ということか。雪村を襲ったものが黄色の眼をした者。斎藤はじっと考えた。余程、恐ろしい思いをしたのだろう。高熱を出すほど衝撃を受けたのか。斎藤は、千鶴の容態が気になった。
斎藤は一通り炊事の支度が終わると、件の戸棚を開けてみた。井上が中を片付けた様子があったが、確かに奥の壁には大きな穴が空いていた。
(この壁の向こうは何処に繋がっているのだ……)
斎藤は建屋の壁の奥が気になった。
夕餉の時間に千鶴が寝込んでいることが幹部に知らされた。斎藤は、食事を終えるとずっと部屋で刀の手入れをしていた。そして、夜中になるとそっと旧御堂に羅刹隊との鍛錬に向かった。夜半過ぎに戻ると、一日朝から出掛けていた左之助が廊下を歩いていた。非番で、北山にずっと出掛けていたらしい。
「遅くなった。今日は一日外だった」
そう言って、左之助は手元の酒瓶を斎藤に振って見せた。これから部屋で飲むが一緒に斎藤もどうだと誘う。斎藤は、つきあうと返事をした。
「なにか肴を台所でみつくろう。さっき千鶴が何か作っていた。千鶴に尋ねればちょっとしたつまみぐらい見つかるだろうよ」
左之助が振り返りながら廊下を歩く。斎藤は驚いた。
「雪村が起きていたのか?」
「ああ、寝間着のまま、なにか炊事場で一生懸命作ってたぜ。俺が話しかけても振り返りもしねえで」
斎藤は、駆けだした。まさか、高熱で寝込んでいる筈の雪村が……。廊下を急に走り出した斎藤を左之助が、「なんだ、急に」と驚きながら走ってついてきた。
台所には誰も居なかった。だが、食料庫の蓋があいたまま、全てが空っぽになっていた。土間の上に下げてあった乾物なども全て下ろされた後があった。そして、勝手口の引き戸が開けっ放してあった。不審に思った斎藤は、千鶴の部屋に再び走って戻った。部屋は行灯の灯りがついたまま、布団の中はもぬけの殻。斎藤が布団を触ってみると冷たかった。
左之助が見たのが雪村だとしたら、雪村は起き出して台所に立っていたということか。
では一体どこへ。
左之助が斎藤を追い掛けてきて、千鶴の部屋の廊下の前で、「どうしたんだ?」と訊ねてくる。
「雪村は昼間に倒れた。さっきまで高熱で寝込んでいた筈だ。でも姿を消した」
そう言いながら、斎藤は厠や総司の部屋も探してまわったが千鶴の姿は見えなかった。左之助は、千鶴に何が起きたんだと訊ねながら、一緒になって探し回った。
「台所の戸棚の前で何者かに襲われたようだ」
斎藤の話を聞いて、左之助は「なんだって!」と驚いている。それで、下手人は?と大声で背後から聞いてくる。
「わからぬ」
雪村は【黄色い眼】と言っていたそうだ。台所の戸棚の壁を破って襲って来た者が下手人だ。そう言いながら、斎藤は草履を履いて境内に降り立つと、阿弥陀堂の裏に向かって走り出した。
「おい、斎藤。俺は皆を呼んでくる。阿弥陀堂の裏だな。後を追い掛ける」
斎藤はなぜか千鶴が御堂の裏に向かった気がした。昨夜の事もあってだが、妙な胸騒ぎがした。すると、なにか北集会所の裏に影が見えた気がした。斎藤は一目散に走って行った。
斎藤が北集会所の周り廊下の下でそっと身を隠すように伺うと、裏の土蔵に向かって千鶴が歩く背中が見えた。千鶴は髪を下ろし、寝間着のままで何かを抱えて歩いている。まるで誰かに呼ばれているかのようだ。ぼんやりとした足取りで進んでいる。斎藤は声を掛けそうになったが、様子がおかしい事に気づきそっと様子を伺った。
千鶴は、蔵の壁の前で立ち止まっている。不思議な事に千鶴の影が、土蔵の白壁に映っていたが、それは千鶴の影ではなかった。
大きな獣のすがた。丸い背中に丸い耳のようなものがついている。そして獣の影は、黄色い眼を爛々と輝かせていた。その獣の影は大きな口を開けた。千鶴は、それに向かってゆっくりと足をひきずるように歩いて行く。斎藤は抜刀した。草履が地面を蹴って、一気に走り出した。
雪村、下がれ。
斎藤はそう言いながら、千鶴の吸い込まれて行く獣の影に向けて刃を振った。その途端、土蔵の影は斎藤に襲い掛かってきた。斎藤は驚いた、斎藤の倍ぐらいもある大きな鼠が眼の前に立っていた。真っ黄色の眼を斎藤に向けて、前足の爪を光らせて斎藤に襲いかかってきた。斎藤は、素早い動きで化け鼠の爪をかわした。
千鶴は、斎藤に庇われて持っていた大きな駕籠を地面に落とした。斎藤が後ろに下がると、そのまま千鶴は斎藤の背中に押されてよろめいた。一瞬振り返った斎藤が見た時、千鶴の眼の色は化け鼠と同じ黄色の光を放っていた。
「雪村」
斎藤は驚いて千鶴の名前を呼んだが、千鶴は体勢を立て直す様子も無くゆっくり倒れた。それに気をとられた瞬間、斎藤の右肩に化け鼠が鋭いかぎ爪を振り下ろした。
激痛が肩に走った。斎藤は身を低くして次の攻撃を避けた。千鶴が襲われる。斎藤は千鶴の身に覆い被さるようになって千鶴を抱えようとした。その瞬間、背後で大きな音がした。何かがぶつかったような。斎藤は、刀を握り直すと千鶴を腕に抱えながら振り返った。
土蔵の前でさっきの化け鼠が四つん這いになり、その頭の上に猫が襲いかかっていた。鼠はさっきの姿より幾分身体が小さくなったようだった。襲いかかった猫と鼠は、砂利の上で転がり廻るように、互いに上下になる事を繰り返している。
本願寺の主か。
斎藤は、化け鼠を押さえ込んでいるのが白地に黒の斑模様の猫であることに気がついた。そのまま千鶴を抱えながら、後ろに下がった。背後から、左之助が平助を連れて「斎藤、そこにいるのは斎藤か」と叫ぶ声が聞こえた。
千鶴は気を失ったように目を瞑ったままぐったりしている。左之助達が駆けつけると、さっきまでもみ合っていた化け鼠と猫は、互いに身を離した。左之助と平助は、千鶴と斎藤の無事を確かめると、目の前の光景に驚いて声を上げた。
「なんだありゃ」
二人とも目を見開いている。土蔵の向こうの暗がりに無数の光る目があった。おびただしい数の光る眼が壁のようになってこちら側を見ている。斎藤は、立ち上がって千鶴を抱えたまま後ずさった。その隣で左之助も平助も刀を抜いて構えている。そして、その光る眼の前には、犬ほどの大きさの鼠と西本願寺の主が対峙しあっていた。互いに、四つん這いのまま睨み合いをして牽制しあっている。
無数の眼の壁は、じりじりと前にゆっくりと迫ってきていた。土塀の手前に来ると、その壁は猫の大群であることが解った。本願寺の猫たち。いや、違う。洛中の猫が一同に会したような。皆が眼を光らせて、目の前の鼠と猫の対戦を見守っているようだった。
猫の壁から、灰色の大きな猫が一匹のっそりと歩いて来た。おもむろに立ち上がった猫は、灰色の陣羽織を着て手には軍配を持っている。老成した様子の猫は、互いに睨みあう鼠と猫の前に軍配を置いて、二匹に合図を送った。左之助も平助も刀を構えたままあっけにとられている。
鼠と主は互いに一歩下がった。そして、鼠がむっくりと起きがった。さっき斎藤を襲った時のように、また背が伸び、まるで人が鼠の皮をかぶったように立っている。本願寺の主も立ち上がる。十貫ほどの猫が、三倍の巨体になって立った姿は皆を圧倒した。
鼠が思い切り尻を下げて踏ん張った。かぎ爪のある両手を拡げて伸ばし、じりじりと前ににじり寄る。太くて大きな尻尾は砂利の上を音をたてて引きずられていっている。それを見ていた本願寺の主は、ぺろっと右足の肉球を舐めると、おもむろに自分の腹を「ぱん」っと叩いた。堂々としたものである。そして、思い切り後ろ足を拡げ踏ん張ると、両前足の肉球を合わせて二回、拝むようにすりあわせた。そしてゆったりと右前足を横に高くあげ、左前足を脇に畳むようにつけた。次に摺り足で左後ろ足に重心を動かし、左の前足をのばして高く上げると肉球を綺麗に天に向けた。思い切り右後ろ足を頭の上まで上げて四股(しこ)を踏むと
猫の壁から、
「みゅあーー(よいしょっ)」
と一斉にで掛け声がかかった。主は、左の四股も見事に踏むとせり上がった。
「雲龍型かよ。凄えなあ……」
平助が感嘆の声を上げている。もう既に刀を下ろして口を開けたまま茫然と眼の前の光景に魅せられているようだった。左之助も刀を仕舞って、腰に手をやって感心している。
次に鼠も負けじと、さっきと同じ不知火型で四股を踏む。こちらも堂に入って見事だ。行司が軍配を上げた、二匹ががっつり組みあう。ともに上手を取り合っている。互いに腰の皮と肉を掴みあって、廻しを取り合っているよう。先に鼠が主を釣ろうと持ち上げたが、主は伸び上がるだけで、その内に左を下手に持ち替えた。鼠は警戒するように腰を引いている。
「いい勝負だ……」
平助は、嬉しそうに前のめりになって見ている。再び、四つに組みあった二匹は、なかなか次の手に出られない。主は、下手投げを狙うように右後ろ足を時どきひっかけに出る。猫の壁がどよめく。息を呑む勝負。左之助も膝に手をつくように前屈みで勝負を見守っている
あっという間だった。本願寺の主は一気に押しはじめ、後ろに下がった鼠を左前足で思い切り投げ飛ばした。行司が軍配を上げると、主は土俵の端に戻ってしゃがんだ。行司の掲げた軍配に手刀を切って下がる。堂々としたその様子に、平助はただただ感嘆と賞賛の声を上げた。
「すげえなぁ。よっ、本願寺まだら関」
勝手に四股名をつけて喜んでいる。そして花道を帰って行くまだら関は、おびただしい数の猫と一緒に暗闇に消えていった。灰色の行司もなにか土俵を清めるような仕草をみせたが、すぐに四つん這いに戻り、暗闇に走って消えて行ってしまった。
平助達は、土蔵前に取り残された。しーんとなったその場には、砂利の上に腹を天に向けて伸びている大きな溝鼠(どぶねずみ)が横たわっていた。さっきまで人ぐらいの大きさだったが、今は一尺ほどまで縮んでいた。まだ生きている様子。斎藤は、千鶴を抱えたまま近づいた。鼠の化け物。黄色い眼の光で千鶴を操っていた。
食料を運ばせ、そのまま雪村ごと食おうとしたのか。
今は片手で持ち上げられる位の大きさの鼠。本願寺の主との名勝負に破れた。猫達は何故この者をそのまま捨て置いた。鼠は猫の戦利品であろう。
「それにしても、でけえ鼠だな」
左之助は、鼠の尻尾を持って持ち上げた。逆さまに吊り下げられた鼠は、口をあけたまま完全に伸びてぐったりしている。左之助はその顔を見て呟いた。
「このまま盥の水につければ、朝にはお陀仏だ」
斎藤は、猫達が去った暗闇をじっと見詰めた。そして、腕の中の千鶴を平助に預けた。
「平助、雪村を頼む。怪我をしている様子はない。熱も下がっているようだ」
平助は、すぐに山崎に診て貰うと行って北集会所に千鶴を抱えて戻って行った。
斎藤は、左之助に千鶴が持って来た駕籠の中に気を失っている鼠を入れるように頼んだ。そして、砂利の上に散乱した食料を集めると鼠と一緒に駕籠に入れた。
「雪村は、この食料を持って化け鼠に付いて歩いていた」
左之助は、斎藤の言っている事が解らないようだった。ただ斎藤が鼠と食料の駕籠を持ち上げると、斎藤に言われるままに土蔵の周りや北集会所の縁の下を一緒に鼠の巣を探した。
「雪村は、台所の戸棚に入ったこの者を見たのだろう。戸棚の向こうの土壁をつたって、この者は台所に侵入した。食料を大量に集める必要があったのは確かだ」
左之助は、斎藤が静かに話すのを聞くと、
「それじゃあ、こいつが屯所の食料を盗んでやがったのか」
そう言って、駕籠の中の鼠を顎で差すような仕草をした。
「ああ」
返事をしながら、斎藤は考えた。昨夜の猫の集会。本願寺の猫は、この者を探していたのか。だがどうして見つけたのに始末してしまわぬ。斎藤は、これが一番大きな疑問だった。ただ投げ飛ばしただけ。相撲の勝負は見事だった。だが、それであの化け鼠を退散させる事になるのか……。
「それじゃあ、尚更、この化け鼠は始末しねえと」
左之助は、斎藤から駕籠を取ろうとした。だが斎藤は、躊躇した。己でも不思議だが、肩に怪我まで負わされた化け物だというのに、気を失ったこの生き物を殺める気持ちにどうしてもならなかった。何か、大きな手がかりを失うような。きっと何かがある筈だ。
「この者が雪村を連れて行こうとした所へ行かなければならぬ」
突然、きっぱりと斎藤が言い放ち、左之助は驚いた。
「おい、こんな暗がりで、どうやって化け鼠の巣を探せばいいんだ?」
「それに、もし見つかったとして、こんな奴らが大群で襲って来たら、溜まったもんじゃねえ」
「俺は、槍を取りに行ってくる」
左之助は踵を返すように北集会所に向かって走りだそうとしたが、その時、斎藤の持っている駕籠の中の鼠が動きだした。斎藤は駕籠を集会所から灯りが差す砂利の上に置いて、刀に手を掛けた。左之助も隣に並んで構えた。再び化け鼠になって襲ってきたら、その時は退治しよう。だが、もし鼠が食料を持って巣に向かうなら、そのまま付いて行けば良い。
斎藤達は、駕籠から少し離れてじっと待った。暫くすると、駕籠から鼠が出てきた。口には野菜片を咥えている。そして鼠は一目散に走り出した。斎藤と左之助は、そのまま鼠について走っていった。鼠が向かったのは、北集会所の北の裏側、縁の下は大きく空いていて、その向こうに大柱が壁のように立っている。鼠はその向こうに消えて行った。斎藤達は四つん這いになりながら進んで行った。柱の向こうは、小さな部屋になっていた。斎藤と左之助は目を合わせた。二人で一旦、北集会所の廊下から片手蝋燭を持って来ると、もう一度縁の下に潜って行った。
柱の向こうの小さな部屋。
真綿が沢山つまった中に、真っ白な二十日鼠が横たわっていた。二人は、生まれて初めて巨大な白鼠を見た。美しい毛並みで、鼻先や小さなつま先は桃色をしている、微笑むように横たわるその姿は高貴な様子だった。よく見ると、小さな二十日鼠の赤子が五匹、横たわる母鼠の乳を吸っているようだった。その傍らで、かしずく黄色眼の鼠の姿があった。鼠はその後も、土蔵の前の駕籠からせっせと食料を運んで来ていた。父御か。果ては家来の者か。斎藤は、目の前の光景を驚きとともに眺めていた。化け鼠は、さっきの恐ろしい姿からは程遠く、慈愛にみちた表情で必死に白鼠の世話をしているようだった。
そういえば、雪村の持った駕籠には粥がはいった容器があった。
斎藤は、土蔵の前に散乱した食料を思い出した。雪村は、この白鼠のために粥を炊いたのか。斎藤は、黄色い眼の鼠がこの白鼠を生かすために、盗みを働いていたことを思った。
本願寺の主は、それを知った上で懲らしめたのか。
斎藤は左之助に戻るように言うと、そっと手蝋燭の灯を消して縁の下から這い出た。北集会所に戻り、千鶴の様子を見に行った。千鶴は、布団に横たわっていた。山崎と平助が見守る傍ら、すでに平熱に戻り苦しそうな様子もないという。このまま朝まで寝かせて、様子をみるという事だった。斎藤は安堵した。おろらく、黄色眼の鼠はもう取り憑くのを止めたのだろう。山崎が朝まで千鶴につくと言っていたが、斎藤がその役を買ってでた。陽が昇って、明るくなるまで油断は出来ぬ。奇妙な出来事は、まだ終わっていないような気がした。
左之助と平助が自室に戻った後、明け方まで斎藤はじっと千鶴の寝顔を見ていた。安らかな表情で息も静かな様子は変わらず。恐ろしい目にあった事で、夢に魘されているようでもない。斎藤は安心した。朝早くに山崎が千鶴の容態の確認に部屋に入ってきた。山崎は初めて、斎藤の着物が肩から裂けて怪我を負っていることに気づいた。手当をするといって、薬箱を持ってくると消毒をして膏薬をつけた。斎藤は自分の肩の傷を見て、昨夜の出来事が本当に起きたのだと実感した。さほど酷い傷ではないが、普通の刀傷とは様子が違っていた。
膏薬の匂いに刺激されたのか、千鶴がゆっくりと目を開けた。目の前に、斎藤が半身になって肩に包帯を巻かれている様子をぼんやり見ていたが、突然布団から起き出すと、
「斎藤さん、怪我をされたのですか」
そう言って、あわてて布団から這い出ると斎藤の顔を覗き込んだ。斎藤は、真っ黒な瞳で畳に両手をついて心配そうな顔をしている千鶴に微笑むと、「大事はない」と呟いた。山崎は、斎藤の手当を終えると、千鶴の様子も診るからと千鶴に再び布団に戻って横たわるように言った。
斎藤は着物を着直すと部屋を出ていると山崎に言って襖を開けて廊下に出た。
(雪村は、大丈夫そうだ)
さっきの黒い千鶴の瞳を思いだし安堵した。陽が昇り始めた。土方がもう起きる頃だろう。昨夜の出来事を報告せねば。斎藤は、廊下を下りると一旦井戸水で顔を洗ってから自室に戻った。
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衆生いたわりの条
朝餉が終わって、平助と左之助と斎藤は土方の部屋に向かった。もう既に部屋には山崎が居て、土方に千鶴の容態の説明をしていた。井上が盆に皆のお茶を入れて部屋に入って来た。間もなく、別宅から近藤が屯所に着くという。
「千鶴はもうなんともないんだな」
左之助が山崎に確認した。山崎は頷いた。今日は一日大事をとって部屋でゆっくりさせた方が良いと言うことだった。千鶴は朝餉も自室でとって元気にしているということだった。皆は、ほっとした。
そこに障子が開いて近藤が入って来た。千鶴が台所で襲われたと聞いて飛んで来たと土方の傍に座って、斎藤から事の顛末を聞いた。千鶴が倒れてから、昨夜の化け鼠と本願寺の猫との大相撲、屯所の縁の下の巨大な二十日鼠の話。近藤も土方も、「嘘だろう」「担いでんじゃねえだろうな」と言って、半分笑いながら聞いていた。それでも真剣に話続ける斎藤に。
「では、雪村くんはその化け鼠に取り憑かれて、縁の下の二十日鼠に粥を炊いて持っていこうとしたのか?」
「はい」
斎藤は、これから縁の下に案内すると言って立ち上がった。皆は、念のためにと刀を持って埃だらけになりながら縁の下に潜っていった。大柱の向こうには、真綿に包まれた二十日鼠の親子が静かに眠っていた。そして、それを守るように背後でうずくまる昨夜の溝鼠の姿が見えた。黄色目の鼠は半目を開けたまま息絶えていた。
驚いた近藤は、このまま捨て置けないと言って、鼠たちを大きな駕籠に移すと大広間に運びこんだ。二十日鼠の親子は逃げる様子もなく警戒もせず静かに佇んでいる。近藤は、腕組みをして駕籠の前に立つと、
「本願寺の境内に住まう衆生は全て本願寺管理のもの。決して無闇に殺めてはならぬ」
そう皆に注意すると、本願寺の広如和尚に自ら出向いて面会し、事の顛末を報告した。和尚はその二十日鼠と化け鼠を本願寺で引き取ると申し出た。絶命している鼠に関しては、寺で手厚く弔うと言う。そして午後になって、和尚自ら、寺の小僧二名をつれて大広間にわざわざ出向いて来た。駕籠の中の二十日鼠は、尾が三つに分かれて生えている珍しい鼠だった。ひとしきり鼠に向かい念仏を唱えた和尚は、近藤に法話をし始めた。和尚の話では三つ尾は縁起生のもの。新選組でこれを見つけて貰えた事に感謝をすると優しく微笑まれた。鼠の親子は寺で大切に育てるという。そして、今後も境内で生き物を見かけたら、猫や鼠に限らずやさしく扱ってほしいと願って帰って行かれた。
近藤は、和尚の言葉に心から安堵した。新選組を疎む本願寺の和尚から、鼠を助けた事で礼を言われるとは。そのまま近藤は、土方の部屋に行くと、二人で【衆生いたわりの条】を新しい隊則に加えねばなと笑い合った。
その夜、夕餉の席で改めて近藤から事の顛末の説明があった。後日、隊士全員にも本願寺内での動物の扱いについて注意がされると言う。斎藤は、千鶴に膳を運んだついでに昨夜起きた事を話して聞かせた。千鶴は、屯所の台所で【黄色い目】に見られた瞬間から今朝目覚めるまで、一切を覚えていなかった。
そこに障子の向こうから、誰かが千鶴に呼びかける声がした。平助と左之助と新八だった。三人はがやがやと部屋に入って来ると、元気そうな千鶴の様子を見て喜んだ。そして、平助が昨夜の【本願寺まだら関】の名勝負の話を始めた。千鶴はあっけにとられていたが、左之助と平助が立ち上がって向かい合い、化け鼠と本願寺の主の取組を再現し出すと、布団に起き上がって、腹を抱えてケラケラと笑った。
千鶴の部屋の大騒ぎに、寝込んでいた総司も起き出して寝間着のままやって来た。そして土方と近藤、山崎や井上まで現れて千鶴の部屋は幹部でぎっしりになった。興が乗り、諸肌を脱いだ左之助の【鼠の不知火型】と同じく半裸になった平助の「横綱まだら主の雲竜型」の立派な土俵入りを見て、皆が腹を抱えて笑った。千鶴の隣で斎藤が、拳の甲を口元にあてながら肩を震わせていた。
千鶴はそんな斎藤を嬉しそうに眺め、屯所の夜は更けていった。
了
(2017.11.30)