第七部 予言
薄桜鬼奇譚拾遺集
慶応二年七月
西本願寺の屯所に朝から伊庭八郎が訪ねてきた。
大坂城から早馬で駆けつけた伊庭は、旅装束のまま表階段を足早に上がると、そのまま土方の部屋に直行した。千鶴は、お茶を用意して土方の部屋に向かった。部屋では、伊庭が旅装束を解きながら土方へ無沙汰の詫びを言うと、突然屯所を訪ねたのは、あるお願いに上がったためだと説明を始めていた。いつになく、深刻な様子に千鶴は邪魔をしないように、伊庭の前にお茶を差し出し、土方の文机にもお茶を置いて部屋を後にした。
千鶴の差し出した小さなお盆には、大きな客用の広口の茶碗にぬるめの煎茶。その上に真新しい小さな箸が渡されてあり、白糸で結んであった。箸の先には梅干しの実をちぎったものが挟んである。
ありがたい。
伊庭は、喉の渇きが一気に潤った。一緒に口に含んだ梅干しの塩気で身体の疲れが吹き飛ぶように感じた。まだ暗い内に大坂を経って、馬を千石船に載せたが陽が昇ってからは陸路。途中の山道は馬を引きながらひたすら登った。なんとか洛中に朝の内に辿りつけたのも、馬廻りの案内が的確だったからで、自分一人ではとうていこんなに早く上洛は叶わなかった。
「急な用とは、なんだ?」
土方は単刀直入に尋ね返す。局長の近藤が、ずっと春から西国視察で屯所を留守にしていて、今は土方が実質的に新選組の局長代理として京都守護職や幕府からの連絡をとりしきっていた。
「大坂城から公方様のお付きの者を追っています」
「洛中に潜伏しているという情報を得て、急ぎ馬を走らせたのです」
伊庭の深刻な表情と「人追い」と聞いて、土方は事が重要だと思い姿勢を正した。そこへ、お茶をお持ちしましたと、千鶴の声が障子の向こうから聞こえた。
千鶴は、伊庭の飲み終えた茶碗を下げると新しい湯飲みの載ったお盆を置いて下がって行った。今度は、熱い濃く入れた宇治茶。小皿に鳩の形の落雁と塩昆布が添えてある。盆に濡らした小さな晒しが畳んだものがあり、手を拭えるようになっている。どこまでも気が利いている。伊庭は熱いお茶をすすって一息ついた。
「私がその者を保護しなくてはなりません。できれば隠密に」
「今日訪ねてきたのは、その為です。出来れば歳さんに力を貸して頂きたく」
伊庭は、両手をついて畳に頭をつけた。
「幕臣としてでなく、かつて江戸の道場で刀を交えた者としてお願いしたい」
「これは、一大事なのです。秘密に事を運ばなければならず、わたし一人ではとうてい」
伊庭の真剣な懇願に土方は驚いた。人捜しに協力を願うのに、ここまで頭を下げるとは。
「相解った。八郎、頭を上げろ。巡察にでている隊士全員で探せば済むことだ。だが、秘密って事なら監察方に手を廻す」
顔を上げた伊庭は、土方の返事に心底感謝している様子で、再び深く頭を下げた。そこに千鶴が障子の向こうから声をかけてきた。朝食の用意が出来ました。そう言って、障子を開けると、土方に膳を広間に用意したが、必要であれば土方の部屋に運びますと言うと、伊庭に会釈した。土方は、少し手間をかけるが部屋に運んでくれと千鶴に伝えると、千鶴はすぐに膳を用意して再び現れた。
白米に目刺し、香の物と野菜の味噌汁だけの質素な膳だが、胡瓜の三杯酢漬けがふんだんに小鉢に盛り付けてあった。伊庭の大好物だ。酸味のものは疲れた身体が欲しているのか、すぐに喉にかき込みたくなる。千鶴が土方の小姓として新選組に身を置いていると聞いてはいたが、茶のもてなし方、伝言、所作、食事の準備、全てに申し分ない。このようなそつの無い小姓なら、明日にでも江戸城で城勤めも叶うだろう。
傍らで給仕をする千鶴に、「何を頂いても美味しい。感謝します」と伊庭が笑顔で伝えると、千鶴は嬉しそうな笑顔を返す。土方も、一緒に食事をしながら千鶴に、剣撃稽古を終えた斎藤に直ぐに部屋に来るように伝えるように頼んだ。千鶴は、はいと返事をして部屋をあとにした。
千鶴が廊下を歩いていると、平助に声を掛けられた。
「千鶴、ちょうど良かった。団子を買って来たんだ。一緒に食べよう」
そう言って、手に持った包みをかざして見せた。千鶴は、うん、と返事をすると。道場の斎藤に伝言があるから、直ぐにお茶を入れると言って渡り廊下を道場に向かって走って行った。平助は、そのまま台所に行って、薬罐に火をかけた。千鶴が戻って来て、お茶の準備をして二人で表階段の所で団子を食べた。
「今日は、出掛けずに屯所に居れば良かった」
開口一言、平助は暗い顔をして言う。
「久しぶりの非番だから、朝から街に出たけどさ」
「独りでぶらぶらしてて。それは良かったんだ」
平助は団子を頬張りながら話を続ける。
「四条通りの路地で、辻占いに会って。俺も暇だったから、一見占ってもらって」
「それが変な胡散臭い奴でさ」
「二十文も取って、ぷいと建屋に入って、次に出てきた時は、『あなたさまは近く背に火がつきます』って」
「わけわかんねえ。だろ? よくもあんな出鱈目で二十文もふんだくるもんだ」
「オレ、頭来ちゃって。こんななら屯所に帰って千鶴と団子食ってる方がいい。そう思ってさ」
と云いながら、平助は次々に団子を食べて行く。
「辻占いって。私は江戸の神田で見かけた事はあるけど。当たるも八卦、当たらぬも八卦って父様が言ってた」
千鶴が微笑みながら話した。
「そうだよな。でも今日のは駄目だ。あんなの誰が信じる? あなた様は遠く、腹に穴が空き。その向こうには真っ赤な眼が見える」
「背中に火、腹に穴、死ねってことかよ。縁起でもねえ……。でもなんか笑えるな。素っ頓狂過ぎて」
そう言って、平助は笑う。
「オレ、今夜はぱっつあんと出掛ける。朝まで飲んで験直しだ」
平助は、やはり気晴らしに外に出掛けたいようだった。千鶴がお茶のおかわりを入れると、
「外に馬がとめてあるけど、幕府のお偉いさんでも来てるのか」と千鶴に尋ねた。
「伊庭さんが、大坂から見えて。幕府の御用みたい。とても急いだ様子だったから。今、斎藤さんも呼ばれて」
千鶴がそう話してると、平助は立ち上がって土方の部屋の方に向かって廊下を歩いていった。曲がり角で千鶴に振り向いて、手を振って呼び寄せた。
「ちょっと、盗み聞き」
千鶴にそっと耳打ちすると。そーっと廊下を歩いて、土方の部屋の前でしゃがみ込んだ。
***
「客を装うってのが一番手っ取り早い」
締め切った障子の中から、土方の声が聞こえた。
「ですが、副長。昼日中に捕縛となると、ある程度はひと目に付きます」
斎藤の声が聞こえた。なんだ、市中で捕り物の相談か。平助は一段と聞き耳をたてた。
「おおっぴらに通りで人をつらまえりゃあ、誰の目も引く。千鶴に行かせる」
「女の客なら、相手も警戒しないだろ。千鶴に行かせて。そいつに伊庭八郎が迎えに来ていると言って、それとなく屯所に連れてくればいい」
平助は、千鶴の名前が出た事で、伊庭と土方達が何を相談しているのか益々気になって来た。
「彼女に、彼女をこの件に関わらせるのは、わたしは反対です」
伊庭の声が聞こえた。
「追っ手は私ひとりではない・・・・・・。幕府の者、禁裏も一部反対勢力の者が動いているのです」
暫く静けさが続いた。平助は、更に障子に耳をはりつけて中の様子を伺っている。
「事が深刻なら尚更だ。隠密にその者を捕らえるなら、客を装って裏口に連れ出して駕籠に乗せて屯所に連れ帰るのが一番だ。大通りはいけねえ。俺等の顔が割れている」
おい、平助!そんなとこで、聞き耳たててねえで入ってこい!
突然土方の声が響いた。ばれてたか。平助は、障子を開けて中へ入って行った。千鶴も直ぐに呼ばれた。土方は平助を睨みつけていたが、千鶴が席に着くと静かに話を始めた。
「これから、千鶴に市中に出て貰う。護衛は斎藤が付く。人探しだ。場所は四条。千鶴に客を装って辻占いに接触してもらう。それで、平助。お前は今日非番だが、千鶴の代わりに夕餉の当番を源さんとやって欲しい。すまねえが、別の日に非番をとってくれ」
「辻占いって?」
平助は、丸めていた背中を伸ばして眼を丸くしている。
「詳しくは話せないが、辻占いを装った者を捕らえる」
「四条の辻占いって、裏寺町の?」
「なんだ、知ってるのか?」
「うん。でもあれは、当たらない。それに辻占いでもねえのかよ。胡散臭いと思ったぜ」
平助は、胡座をかいたままふて腐れた顔をしている。伊庭が驚いて平助を見ていた。平助は、朝に四条通りからそれた路地で辻占いに占って貰った。小さな長屋の入り口に女が張り紙の前で立って占う。だが実際は、建屋の奥に隠れた誰かがいて占いの結果ができたら呼びに来る。障子の向こうから声だけがする。二十文とられて、出鱈目の占いをされて建屋から出ておしまい。詐欺商売もいいとこだ。
平助の占い師の話を聞いて、伊庭は土方に向かって黙って頷いた。探している公方さまのお付きの者。確かにその者の疑いが強い。伊庭はすぐに四条に向かうと言って支度を始めた。
「千鶴、お前にやってもらいたいのは、占いの客だ。女のお前なら相手は警戒しない。占い師とそのお付きの女を屯所へ連れてくる。会津藩お預かり新選組が身許を保護すると伝えろ」
千鶴は、状況がわからない様子だったが、静かに頷いている。
「相手が抵抗したら、斎藤たちが対処する」
土方の一言に、千鶴が驚いた顔をして斎藤の顔を見た。斎藤は静かに傍らの刀に手を置いて座っている。対処。平助くんの辻占い。そのものを捕らえる。伊庭さんが探す者……。千鶴は、なにか深刻な事が起きていることは解った。「はい」と返事をして立ち上がった。
土方の指示で、平助が道案内をすることになった。伊庭は、外に馬を用意していた馬廻りに先に二条城に馬を戻しておくようにと指示をすると、斎藤と千鶴と一緒に屯所の門を出た。
*******
辻占い
四条に向かう道すがら、伊庭は千鶴に謝った。
「こんな事に貴方を巻き込むのが忍びない」
千鶴は謝る伊庭に首を振った。
「わたしがお役に立てるなら……。それに占いは初めてなので、楽しみです」
「貴方のように、若い女の人なら」
「想い人や将来の伴侶。そういった人を占うものでしょう」
伊庭はいつもの優しい声で千鶴に尋ねる。千鶴は、おもいびと、伴侶と心の中で呟いた。眼の前には、通りの少し先を平助と並んで歩く斎藤の後ろ姿が見えた。
「わたしは……、そんなことは考えたことも……」
千鶴は、小さな声で答えた。
「もし、占って貰えるなら、父様のことを。父がどこに居るのかを……」
千鶴の切実な様子に、伊庭は自分の気遣いが足りなかったと再び謝った。
「貴方はそうでした。お父上を探してこうして、新選組に身を置いていた。僕はどうかしている。肝心なことを……」
伊庭の表情が翳ったように見えた。朝に屯所に現れた時から伊庭はずっと深刻な様子だ。千鶴は首を横に振った。前を歩く平助が振り返って、こっちだと手招きした。四つ辻からそれた路地の手前で立ち止まり、千鶴に占いの入り口を教えた。
「あそこだ。入り口に張り紙がある」
斎藤と伊庭は、路地の入り口に待機していると言った。平助も斎藤も隊服は着ていない。平助は念のために、長屋の裏側に廻って待機していると走って行った。屯所で保護をすると伝える。それだけ。千鶴は少し緊張してきた。心の中で自分自身に落ち着くようにと言い続けた。
辻占いの建屋から中年の女が丁度でてきた。すれ違いざま、「けったいな、占いや」と呟いた。千鶴に向かって、
「当たりまへんで、こないなもん」
そう言って女は、千鶴にお金の無駄だと耳打ちして通りに歩いて行った。千鶴は、建屋の中に入って行った。
***
薄暗い土間に女が独り立っていた。占いは一見二十文。先払いだと言われて千鶴は見料を納めた。占いたい事を聞かれたが、千鶴は探し人をとだけ伝えた。
女は千鶴に待っているようにと告げて、障子の向こうに消えた。物音も何も聞こえない。ただ静寂だけが続く。千鶴は、今自分が立っている建屋にたった独りでいる様な気がした。千鶴は、障子の向こうの様子を伺った。その瞬間、ドサッという物音が聞こえた。直後に、さっきの女の叫ぶ声が聞こえた。
「真如さま、真如さま」
千鶴は、障子の向こうで誰かが倒れたのだと思った。「失礼します」、そう言って断ると千鶴は障子を開けて中に入った。障子の向こうの畳の上に、人が倒れていた。打ち掛けをまとった小柄な女は、顔の色を失っている。小刻みに痙攣している様子は、卒中を起こしたようだった。駆け寄った千鶴は、懐から手拭いを出して、横たわる女の口を開けて舌を噛まないように手拭いを歯の間に挟んだ。身体を横にさせて、脈を取った。早い。脈を数えながら、部屋の周りを見回した。何もない。占い師の受付の女は、そばでおろおろしている。
「卒中のようです」
「急いで対処しないと」
千鶴は、脈を取り終わると。傍の女に、倒れた女の首を横に保ったまま抑えておくようにと頼んだ。自分の持ってきた巾着袋を横たわる女の足の下に置いた。少し足が持ち上がったが、これでは高さが足りない。だが、部屋には何も使えるものが見当たらなかった。
「すみません、外に連れの者がおりますので呼んできます」
そう言って千鶴は建屋の入り口に向かった。外に出ると、千鶴の様子に直ぐに気づいた斎藤が走って来た。占い師が途中で倒れた。卒中を起こしている。すぐに屯所に連れて行きたい。矢継ぎ早に話す千鶴は、再び建屋の中に入って行った。斎藤が後に続くと、建屋の奥で倒れた女とその傍で泣き続けている女の姿が見えた。
地面に付くほどの長さの束髪
打ち掛け
幕府のお仕え者と聞いていたが、その出で立ちはおおよそ武家者とは見えない。千鶴が斎藤に振り返って、車を用意してほしいと言う。身体を横にしたまま運びます。車が無理なら、畳か戸板でも。早く。千鶴の性急な様子に斎藤は、戸板をはがして女を横たえようとした。伊庭と裏口に居た平助が駆けつけた。屯所に急いで運びましょうという千鶴に皆が従った。
通りは人がいる。裏口に廻ろう。
斎藤と伊庭がそう言って、平助に裏通りを通る道を案内させた。少し、広い道に出ると、平助が荷車を見つけて借り受けてきた。その車に女を載せて、屯所に急いで戻った。車を押して、油小路を下っている間。伊庭は何度も周りを警戒していた。時折、斎藤に伊庭が話しているのが聞こえた。
「公家筋の……御紋がはっきりはしないが、四条を廻っていた」
斎藤は、足早に歩きながらじっと聞いている。巡察中に何かが起きている時と変わらない。常に背後、建屋の影、数軒先の建屋の二階屋の窓や隙間、全てに注意を向けている。千鶴は、西本願寺の門が見えて、安堵した。屯所に山崎は不在だ。だが、意識のある卒中なら山崎が教えてくれた対処方で様子をみることが出来る。町医者も手配をして貰おう。
屯所の客間に寝かせられた女の様子は落ち着いていた。お付きのものも、静かに眠る主人の様子に安堵しているのか、じっと黙ったまま傍らに座っていた。千鶴は、一通りの診断をして。脈も安定している。お医者様が必要なら、すぐに呼べる状態だと女に説明した。
「ありがとうございます」
そう言って、女は深く頭を下げた。
「ご安心ください。ここは会津藩お預かり新選組屯所です。ご養生ください」
千鶴は微笑み掛けると、「私は、雪村千鶴と申します」と自分から名乗り出た。
「わたくしは、【音羽】と申します。真如さまにお仕えするものです」
そう名乗りあっている所に、障子の向こうから千鶴を呼ぶ井上の声が聞こえた。井上からお茶の用意を受け取ると、音羽にお茶を差し出して、すぐに戻ると伝えると、井上に言われたとおり急ぎ土方の部屋に向かった。
土方の部屋では、伊庭と斎藤が今後の相談をしていた。一旦、新選組で占い師とお付きの者二名を預かることとなったと土方が千鶴に話した。千鶴は倒れた状態から今の様子は安定している、そう伝えると。土方は引き続き、女が眼を覚ますまで様子を看ていてくれと指示した。
「かたじけない。今すぐに二条城にあの者たちを連れて行くことができれば良いのですが」
伊庭が土方に頭を下げた。
「今日、四条で見かけたのは、公家方の衛士です」
「朝廷と幕府の立場上、事は説明したとおり複雑なのです。あの方々の身許をここでは明かせません。公方様とお方様にお仕えする者ですが、奥詰の私も面識がない。元は、宮仕えをしていた方々です。ここに匿っていただくのが、今は最善です。私は、これから急ぎの文をご家老様に。二条城であの二名を保護する準備をしてきます」
土方が、「宮仕え」と呟いた。千鶴は、それを聞いて納得した。客間の二人は出で立ちも武家の者ではない。だが、公方様とお方様に仕える高官が、なぜ大坂城を離れて四条で辻占いに身をやつす必要があったのだろう。伊庭の話す「複雑な事情」とは一体……。千鶴は自分の預かり知れない何か深刻な事態が起きているのではと思った。暗い表情の伊庭の事が心配だったが、こうして無事に二名を保護できた。あのお二方を精一杯お世話しよう。千鶴はそんな風に思いながら、じっとその場に座っていた。
斎藤は、ずっと黙って話を聞いていた。四条から屯所まで影がついた様子はなかった、と一言土方に報告した。それから伊庭に付いて二条城まで護衛すると言うと、急いで帰りの支度をする伊庭と足早に屯所を出ていった。二人が門を出たのを確かめた土方は、大きく溜息をついた。長州征討では、会津藩も新選組もずっと洛中で足踏みをしているだけだ。近藤からの連絡もなく。幕府の中枢で何が起きているのか全く把握が出来ていなかった。ただ、明日戦に出ろと命があれば出る。その準備だけは万全にしていた。その矢先の「人追い」と保護。
宮仕え者を匿う
これは、土方にとって預かり知れない事態に足を踏み入れている感覚だった。
嫌な予感
それは否定できない。だが、ここで臆することはならない。八郎はまだ全部を明かしていない……。そんな風に考えながら土方はじっと腕組みをしていた。千鶴は、廊下を行ったり来たりして、客間の病人の世話をしている。女の千鶴なら、病人の世話なら、屯所中で一番適任だろう。土方は、千鶴を呼び止めると、何かあれば、夜中でも直ぐに報せに来るようにと千鶴に行って、部屋に戻った。
******
客間の【音羽】に夕餉の膳を持って行くと、音羽は静かに食事を摂った。褥に横たわる主人は、じっと動かないままで、千鶴が脈をとろうとすると、【音羽】がそれを止めた。
「真如さまは、【夢見】に入っておられます」
音羽に、【真如】に触れてはいけないと言われて。千鶴は、言われた通りに手を引っ込めた。じっと、心配そうに眠る女を見詰める千鶴に、音羽が静かに話を始めた。
「真如さまは、【夢見】に入られると、暫く目覚めません。ずっと夢を見ておられますゆえ」
「夢を」
そう繰り返す千鶴に、「はい、夢をみておられるのです」と答える。
「朝になっても目覚めることはないでしょう。夢見は短くとも、三日三夜続きます」
三日三夜。そんなに。でも昼間の卒中は。あれは……。
千鶴の心中の問いかけを全て見透かしたように、音羽は話を続ける。
「昼間は、追手の者が近づいた為・・・・・・、取り乱されたのです」
そう言って、恐ろしそうに打ち掛けの袖で顔を覆ってしまった。震える肩は、静かな声で泣いているようで、千鶴は音羽の傍に駆け寄ると、そっと肩に手を添えて安心させた。禁裏高官の所作や礼儀には反しているかもしれない、それでも千鶴は恐れる人には、手をとって励ますことを幼い時から身につけていた。
あたたかい千鶴の手に触れて、不思議と心が落ち着き暖まるのを感じた音羽は、初めて千鶴と瞳と瞳を合わせた。そして、ここ数年の間の激動を思った。天子様の御妹で有らせられる和宮さまの御降嫁に伴い、宮中を離れて、主人の真如について江戸に下った。慣れない江戸の城の中の暮らしは、しきたりも違い。ただ慣れぬ空気の中で宮様にお仕えする事だけに主人と心を砕いてきた。こうして追われる身となった今、目の前の、この者は。慈悲深いこの瞳は……。
千鶴の瞳をみたまま、はらはらと涙を流し続ける音羽を千鶴は優しくなだめた。余程、恐ろしい思いをしていたのだろう。千鶴は二人が大坂から上洛して今までどのような思いでいたのだろうと考えると胸が痛んだ。千鶴は、必要なものは何でも用意いたします。そう言って、どうかご遠慮のないよう申しつけてくださいと頭を下げた。
音羽が真如の傍で休めるように夜具の用意をすると。音羽は、蝋燭の火を三日三晩絶やさないようにしたいと言った。千鶴は蝋燭立てを準備した。二条城から戻ったばかりの斎藤が広間から夜具や蝋燭立てを運ぶのを手伝ってくれた。そして、斎藤はずっと自分が護衛をしているからと、千鶴に先に休むように言った。千鶴は、斎藤が客間の隣の部屋にずっと待機していると聞いて安堵した。そして、自分もそこに布団を敷いて休むと言って、布団を一式持ってきた。
斎藤は、千鶴が二組の布団を準備するのに驚いた。護衛とはいえ、同じ部屋はまずい。斎藤は、自分の布団を出来るだけ千鶴から遠くにひきずって行った。
「俺がいては、ゆっくりできぬであろう」
そう言うのが精一杯だった。千鶴は、布団に正座したまま笑っていた。
「斎藤さんがお側にいてくださるだけで、安心できます」
そう言って立ち上がると、後ろを向いて袴を脱ぎ始めた。斎藤は、あわてて千鶴に背を向けた。背後から千鶴が、「おやすみなさい」という声が聞こえた。
斎藤は、薄い月明かりの射す部屋で、千鶴の寝顔をみながら、客間の様子を伺っていた。特に物音はしない。外からも侵入してくる者の気配は感じなかった。未明に自分も寝間に横になって明け方近くまで短い仮眠をとった。
****
伊庭の話
翌朝、再び伊庭が屯所に現れた。千鶴が、真如の様子を土方の部屋で報告すると、伊庭は安堵したようだった。
「ありがとうございます。貴方の手当が的確だったので、容態が安定しているのでしょう」
「従女が、【夢見】に入ったと言っていたのですね」
千鶴は頷いた。三日三晩目覚めないと伝えると。「ずっと眠りつづけるのか、それは病か、何かか?」と土方が尋ねる。
「わかりません。四条で倒れられた時は、卒中を起こされていました。痙攣を起こしていましたから」
「ですが屯所に着いてからは、その症状はありません。脈はとれていませんが、呼吸の様子をみても深い眠りについている様子で、とても安らかに眠っていらっしゃいます」
「追手が来るのを、とても恐れていらっしゃいます。昨日も、追手の者が近づいたから、怖くて倒れられたと」
追手の者と聞いて、伊庭と土方が眼を合わせた。
「誰に追われていると、言っていました?」
伊庭が訊ねるが、千鶴は「誰とも」と言って首を横に振った。伊庭は溜息をついた。暫く、沈黙した後に、
「真如殿は、【夢見司】です。大奥でもその役目は変わらず。天子様の命で、御降嫁された和宮さまと城中大奥に」
「上洛された公方さまをご心配された御台所さまが、この春に真如殿を江戸から大坂城に差し向けられた。以来、真如殿は従女と供に大坂城に滞在されていたのです」
「城内での扱いは特別です。公方様に準ずる扱いで、奥詰の私たちも近づくことは許されず」
伊庭の説明に、土方が訊ねた。
「夢見って、いってえ何だ? 夢見る役か」
「はい、【夢見司】は、夢を見て、その夢で政の吉凶を占う役です」
「真如殿は、歴代夢見を司る家柄。陰陽寮での卜術や陰陽道の術の心得が。御台所様をお守りするために、天子様が真如殿を女官の一人として江戸に遣わされた」
「じゃあ、あながち占い師に身をやつしてたのは、間違えじゃないんだな」
土方が確認する。伊庭は、如何にも、と答えた。
「大奥では真如殿を朝廷の間者と見る者も居ます。今回、大坂城から真如殿が姿を消したのも、大坂城内で何かが起きたのかもしれず」
伊庭がそう話すのを、千鶴は驚きの表情で話を聞いていた。
「春に上洛した際、真如殿はお付きの音羽殿と一緒に参内しました。陰陽寮で、半日過ごされた後に二条城に戻る筈が、そのまま「夢見」が始まったとされ、その五日の後に宿下がりをして大坂城に入城されました」
「以来、頻繁に大坂城内で【夢見】が起きて」
普段、真如殿には【禁裏付きんりつき】という護衛が付くが、春の上洛以降は御所に戻ってしまっている。伊庭が疑問に思っているのはその点だと言う。実質、公方様付きの自分が傍に行くことを許されず、護衛は無しのまま二人は放置されているらしい。
「一番の問題は、【夢見】の結果です。凶夢と。それもまったく信じられない内容です」
ここで、土方と斎藤が顔を上げた。凶夢。
大樹倒れ
城は墜つる
悲しき哉
無常の夏の風
忽ちに御姿を散らし
情けなきかな
伊庭が、夢見の結果をそのまま繰り返したと判るまで、部屋に沈黙が続いた。
「……冗談じゃねえ……」
土方が眉間に皺を寄せて呟いた。大樹公が倒れるだと。幕府は、一万とも一万五千ともいわれている軍を率いて長州に向かっている。大坂城で戦になってもいいように、城固めは充分に行っている。そんな、不吉な夢見をこんな時期に聞きたくもない。土方は、今客間に滞在している二人が、ただの疫病神でしかない気がしてきた。
「ご安心を。真如殿の夢見は、誰も信じない。誰も取り合わないのです」
「天子様が御妹の和宮さまに仕えさせたのも、幼きときより参内していた真如殿を御台所様が重用したため」
「夢見司として、夢見で吉凶を占う事は形だけのものだと聞いています。ですからご安心ください。肝心なのは、この夢見を利用して、あらぬ噂や、陰謀に利用されることなのです」
「春の上洛の際、先ほどの夢見の結果がでたらめだと禁裏の陰陽師、太政関白が主張し、真如殿は大坂城で幽閉されることになりました」
幕府内、朝廷内、それぞれの中に、開国を良しとする者、大攘夷、小攘夷、思惑はまちまちです。公方様のお味方がどれだけ、幕府内にいるのでしょう。私は疑問です。天子様も然り。御所筋の者、七卿に加担する者。もし朝廷や大坂城内に公方様や天子様を亡き者にしようとする者が居るとすれば。
奥詰として、公方様をお守りするには。
真如殿を匿う必要があります。幕府を見限る者、御所やそれに盾突く勢力との接触を防がなければなりません。
ここまで、一気に伊庭は話した。
「それじゃあ、【真如殿】が目覚めたら、大坂城へ連れ帰るってのか」
土方が腕を組んだまま訊ねた。伊庭は、はい、と答えた。千鶴は、今聞いた話が信じられない。【夢】を見たことで、お城に幽閉されてしまうなど。客間に滞在している、あの小さな女性にそのような事が待ち受けていると思うと、ただただ気の毒で。自分自身が新選組に身を置くきっかけとなったあの恐ろしい夜と翌日の詮議を思い出す。
「これから、私は一旦大坂に戻ります。御家老様に会って、報告とお二方の移動の相談です。明日、戻ってきます」
「あと、歳さん。二条城から【本山小太郎】という者がこちらに来ることがあるかもしれません。私と同じ江戸の者です。評定所の書物方で、普段より二条城に勤める大人しい男です。彼がもし、ここに現れて言づてをする場合、どうか聞いてやってください。私の親友です。唯一、信用のおける者といってもいいかもしれません」
そう言って、伊庭は出立の準備を始めた。夢見が終わるのは二日後だろう。それまでには戻ると、千鶴にくれぐれも容態を見ていてほしいと願って、伊庭は屯所を後にした。
*****
音羽の話
千鶴は、土方の部屋から客間に戻った。真如は静かに眠り続けたまま。傍らで、音羽がそれを見守っている。千鶴が、昼餉が近いことを告げると、だまったまま音羽は畳に手をついて頭を下げた。
昼餉を客間に運んだ後、千鶴は時々お茶を運ぶ以外は、客間の二人をそっとしておいた。ただ、蝋燭は切らさないように。それだけを気をつけた。夕方に千鶴が客間に行くと、音羽がそろそろ【夢見】が終わると千鶴に告げた。千鶴は驚いた。伊庭が戻るのは明日。早くに目覚めたのなら、明日にでもまた、大坂城へ連れ戻される。
千鶴は、目の前の二人が大坂城を出て洛中に向かったのなら、きっとどこかに行くあてがあったのではと思った。辻占いでお金を集めて、もっと遠くまで逃げるつもりだったのかもしれない。幕臣の伊庭が大坂から追ってきた事をこの二人は知らないようだった。
「お目覚めになった時のために、何かご用意をするものはありますでしょうか?」
千鶴はそう尋ねた。音羽は、墨と硯、紙が欲しいという。
「お目覚めと同時に、【夢見】の詠が始まります。それを書き取るのがわたくしの役目です」
千鶴は驚いた。三日近く眠り続けて、目覚めとともに夢の内容を詠うなど。本当なのだろうか。千鶴は不思議に思いながらも、自室から硯と紙を持ってきて、文机の上に並べておいた。
音羽は、じっと静かに待っていた。千鶴は、自分が真如の目覚める時に同じ部屋に居ていいものかも判らない。千鶴は、そっと頭を下げて部屋を出ようとした。その瞬間、背後から、
「お目覚めになられました」
そう静かに囁く音羽の声が聞こえた。千鶴が振り返ると、真如はゆっくりと目を開けて、ぼんやりと天井を眺めている。その表情は穏やかだが、どこかまだ意識はないような様子だった。音羽が、そっと布団の中から真如の手をとって背中を支えるように起こし、打ち掛けを着せかけた。真っ白な絹の打ち掛けを重ねた様子は、白拍子のようで、袖から覗く真紅の中袖と、色の戻った唇が赤く、真っ黒な髪で縁取られた卵型の顔は、雅な様子だった。一見老成したように見えるが、その瞳は赤子の目のようで。壮年の女性なのか、少女なのか、判らない。
一旦、姿勢を正すと、袴着を綺麗に後ろに持って行って正座をした。そして、丁寧に頭を下げた後に、両手を上げて起き上がると、ゆっくりと膝に下ろしながら、詠い出した。
東をすべる鬼の元
紅き目のものおびただしく
父の屍に血をあやさん事も心憂し
碧き者鬼を守り候へば
一樹の陰に宿りあひ
同じ流れを結ぶもみなこれ
前世の契り
文机の前で音羽がずっと筆を動かし、詠を書き綴っていた。千鶴は、ずっと繰り返される「あおきもの、鬼をまもりそうらへば・・・・・・みなこれ前世のちぎり」という真如の声に聞き入っていた。夢見の夢。吉凶を占う。だが、これは一体何の事なのだろう・・・・・・。
真如は詠み終わると、頭を深くさげた後に再び顔を上げた。その瞳はうつろで、伏せがちに佇む様子は、まだ意識が完全に戻っていない様子だった。筆を置いた音羽がかしずき、一度畳に両手をついて深く頭を下げた後真如の手をとって再び褥に寝かせると、真如は薄らと微笑みをたたえた表情で目を瞑った。
静かに再び眠りについたようだった。
夢見へ再び。
音羽は、文机から紙をとると千鶴に振り返り丁寧な仕草で千鶴に綴った詠を渡した。
「真如様の夢でございます。雪村さま、こちらは貴方さまの【さがし人】を占ったものと思われます」
流れるような筆跡は見事だった。だが千鶴は美しい仮名遣いに【父に屍に血をあやさん】という文字を見て、胸が凍りついた。父様、とうさま。
紙を持ったまま涙を流し続ける千鶴を心配そうに見詰める音羽は、千鶴につられたように一緒に涙を流し始めた。千鶴は、畳に突っ伏して泣き始めた。父様、もう亡くなってしまわれたの。血を流されてしまうなんて、
父様の身になにが。なにが。父様、とうさま。もう会えないの。
千鶴の嗚咽はずっと続き、音羽は千鶴の背中をずっと優しくさすり続けた。ようやく顔を上げた時には、千鶴の目は真っ赤に腫れ上がり、涙で頬も鼻も濡れていた。音羽は優しく自分の袖で千鶴の涙を拭った。
「貴方様の悲しみは、真如さまの夢を信じてくださるものと存じます」
「真如さまはその名が表しますよう、如実。生まれながらに【ぬるたま】であられる真如さまの見る夢は未来そのものなのです」
音羽の言葉は、千鶴の胸に突き刺さる。夢は未来そのもの。やはり、そうなのだ。千鶴は、真実に気が遠くなりそうになる。だが、自分の手をとる音羽の手のぬくもりは暖かく、なんとか身を真っ直ぐに保っていられた。
「この春に参内した折、真如さまは恐ろしい呪詛を受けました。以来、誰も夢をとりあわなくなりました」
真如さまの夢を誰も信じない。
これは強い呪いです。恐ろしい。以来、夢見が起きていますが、結果は吉凶問わず葬られてきております。この呪詛の為、真如さまは日に日に弱って来られています。
千鶴の手を握る音羽の目は、真剣そのものだった。怯えるその表情は哀しみに満ちていて、千鶴は自分の父親が命を落とすという預言を真実だと実感した。そして同時に、不思議とその未来に立ち向かおうという想いがふつふつと沸いて来るような気がした。
父様をみつけなければ。必ず。
千鶴は、哀しそうな瞳でじっと佇む音羽と目を合わせ続けた。互いに涙で濡れた顔をじっと見つめ合う。千鶴は、音羽にそっと話した。
「真如さまの容態は安定しています。再び、夢見に入られたようですが、お目覚めになった時に滋養のある食事を用意します。こちらで養生されれば、きっとお元気になられます」
千鶴は音羽の手を握り返した。
「私は、呪詛のことはわかりません。この頂いた詠が未来であるのなら・・・・・・、それでも私は父様に会いたい。とうさま、救いたい・・・・・・」
音羽は、驚いた表情をしていた。互いに涙で濡れた顔を向け合い、手を取り合う二人は静かに頷きあった。
「前世の契りのあるもの、碧きものが貴方さまをお守りくださるでしょう」
音羽は、不思議なもの云いをした。千鶴は、音羽が真如の夢見をそのまま繰り返していると気づくまで暫く間がかかった。千鶴は、思い切って音羽に尋ねてみた。
「立ち入る事をお尋ねいたしますこと。どうかお許しください。四条で占いをされていたのは、追手の者と仰っていたのは、真如様はどなたからか追われていらっしゃるのでしょうか」
黙ったままでいる音羽に、千鶴は畳みかけるように尋ねた。
「もし、四条に戻る必要があれば、私がお連れいたします」
「四条では、ございません。洛外に。急ぎ洛外に向かいたいのです」
「洛外にお心当たりがあるのでしょうか」
「はい、八瀬の里に古いにしえより我々を守る血族がおります。宮中で受けた呪詛から真如様を守る為に八瀬に、八瀬の里に行かなくてはなりませぬ」
「八瀬・・・・・・。八瀬の里」
千鶴は、八瀬と聞いて葵を思い出した。いつも屯所に花を納めに来る小原女。葵は八瀬の里から花を市中に運んで来ていると話していた。千鶴を気に掛け、島原の君菊との文の使いをしてくれている。常に、困った事があればいつでも声を掛けてくださいと親切な言葉をかけてくれる葵を千鶴は慕っていた。
「八瀬の里に、わたしの知り合いがおります。こちらに定期的に来ている小原女の女性です。荷車で花を納めに来ます。非常に親切な女性です」
「真如様が、お目覚めになって移動ができる位に体力がついたら・・・・・・」
葵に頼んで花車に乗って八瀬に移動することが可能かもしれない。音羽達を守る者がいる山の里。大坂城に連れ戻される前に、なんとか八瀬の里に目の前の二人を送り届けることができないか。千鶴は、考え続けた。
「屯所から花車に乗って市中を抜ければ、怪しまれずに八瀬の里まで辿りつくことが出来るかもしれません」
音羽は、思い出したように自分の持ってきた小さな袋のような物の中から巾着袋を取り出した。
「僅かですが、こちらで花車をお頼み願えますでしょうか」
千鶴は音羽の巾着を受け取った。中には小銭が沢山詰まっていた。音羽と真如が辻占いでこつこつと貯めたものだろうと思った千鶴は、このような大切な金子は受け取れませんと断った。小原女は定期的に屯所に現れるので、荷車を用意してもらえるように頼んでみますと千鶴は音羽に伝えた。音羽は安堵した様子で、深く頭を下げて千鶴にお礼を云った。
千鶴は、畳の上に置いたままになっていた真如の夢見の詠を丁寧に畳んで懐にしまった。真実に立ち向かう。何故かはわからないが、千鶴は胸に仕舞った夢見の結果を着物の上からそっと手で押さえながら、真如の夢を信じようと思った。如実。真実であるのなら・・・・・・。
再び、深い眠りについている真如の様子をもう一度確かめてから、千鶴は音羽に挨拶をして客間を後にした。
******
二人を八瀬へ
伊庭が屯所に現れたのは、その翌々日の事だった。早馬で現れた伊庭は、土方の部屋に直行した。
「大坂城には雄藩の軍が集結して長州へ向けて順次出陣している。朝廷からも使いの者の出入りが多く、急ぎ大坂に戻らなければなりません」
開口一番に大坂城の状況を土方に伝えた伊庭は、客間で匿われている真如の容態を尋ねた。千鶴は、夢見がずっと続いていて、従女の音羽よりまだ数日は目覚めることがないと云われたと土方と伊庭に伝えた。
「宮中で強い呪詛を受けた為、真如様は弱っていらっしゃるそうです。追手の方については、何も話されていません」
「呪詛と、宮中で受けたと、そう仰っていたのですね?」
伊庭が千鶴に尋ねた。千鶴は頷いた。
「宮中ってことは、禁裏方か・・・・・・」
土方がそう呟く。眉間に皺をよせたまま、じっと考え込んでいる。伊庭も黙ったままだった。
「容態は安定されているそうですね。眠られているまま、ここから連れ出すことは可能でしょうか」
暫くたって伊庭が千鶴に尋ねた。眠ったまま大坂城に連れ戻されてしまうのだろうか。千鶴は内心、心配になった。だが、客間の二人が八瀬の里を目指して大坂城を出たことを伊庭や土方に伝えてはならない。そう思った。
「従女の音羽様のお話では、【夢見】の間は、決して真如様に触れてはならないそうです」
「今は、夢見の最中です。あと数日はこちらで安静にされている必要があります」
千鶴は、数日の間になんとか八瀬の里に二人を逃す準備をしなくては、と内心思いながら話続けた。
「ずっと、屯所で護衛はつけている。八郎、禁裏からも追手がここへ来る様子はねえ」
土方は、伊庭に状況を説明した。
「夢見が終わったら、大坂城に移動できるように準備をしてもらうようにする」
千鶴は土方に向かって、
「もう、丸三日経ちます。水も食事も摂らずに排泄もなしに。どのように眠り続けておられるのか。容態は、目覚めてから確かめることになりますが、こちらで養生をしてもらってからの方が大坂までの移動が叶うかと思います」
伊庭は、優しい目線を千鶴に向けた。
「貴方が付いていてくださるので、私は安心しています。【夢見】が終わられて、大坂までの移動に耐えられる体力がつくまで、看てもらえるなら」
伊庭は土方に両手をついて頭を下げた。
「歳さん、お手を煩わせて大変忍びない。このまま、屯所に暫くあの方達をお匿い願えますでしょうか」
土方は、「顔をあげろ」と一言。
「八郎、悪いが禁裏を敵に廻す事になるなら、新選組はこれから手を引かなくてはならねえ」
「新選組は会津藩お預かりだ。会津中将さまが天子様と手を取りあっているのに俺達がそれに逆らうことは出来ねえ」
土方は、厳しい表情で伊庭に告げた。千鶴は驚いた。新選組が手を引く。客間の二人がもし身柄をこのまま禁裏に預けられたら。
参内した折に、強い呪詛をうけた。
千鶴は、音羽の云っていた事を思い出した。宮中におそらく、真如に呪詛をかける誰かがいるのだろう。天子様のおられる禁裏。呪詛から逃れる為に大坂城から抜け出した二人。
(禁裏はならない。大坂城も呪詛からは逃れられない。やはり、八瀬に。八瀬の里にお二人を)
千鶴は決心した。土方にも、伊庭にも気づかれないように、お二人を八瀬へ。事を運ばねば。
そう千鶴が考えていると、伊庭が土方に向かって話始めた。
「我々が天子様を裏切る事は決してありません。今上天皇と公方様は良好なご関係です。今朝方も、天子様は大坂城へお使いと典薬寮の御典医を差し向けて来られました」
伊庭が静かに話す。
「御典医、なんだ。大坂城に病人が出ているのか」
土方が尋ねる。
「……はい、公方様のご容態は芳しくありません」
土方は驚いた表情をした。眉間に皺をよせたまま静かに尋ねた。
「戦の総大将が伏せってるってのは、どれだけ知れ渡ってるんだ」
伊庭は首を横に振った。
「誰もこのことは知りません。公方様が倒れられたのは、先月の終わり。征長軍を動揺させないため、一切外には洩らさないようにしてい
ます」
「江戸老中の内、それを知る者も極限られています。誰かが公方様を亡き者にしようと毒を持っているという噂が江戸城にもあり。御台所様が心を痛めていらっしゃると」
「真如殿が幽閉されていた千貫櫓から姿を消されたのは、公方様のご容態が急変した頃」
千鶴は伊庭の話を聞いて衝撃を受けた。消された。
「御所に真如殿を引き渡すよう勅使が大坂城に到着した際、既に真如殿は従女と一緒に姿をくらましていました」
「勅使とは名ばかりのものです。天子様の使いではない者と直ぐに判明しました。おそらく右大臣が差し向けた者。朝廷の反対勢力です」
土方が遮った。
「右大臣」
「そいつらが追手ってことなら。新選組で預かるのも危ねえ。洛中に潜伏出来るのもたかが知れている」
伊庭が畳に両手をついた。
「解っています。こちらにこれ以上ご迷惑はかけられない。ですが、あと数日。どうかご猶予を」
「必ず、あのお二方を大坂か安全な場所に移動させます。いま一つご猶予を」
千鶴は、伊庭の切実な様子に胸が詰まる思いがした。
「もう一度訊く。あの二人を追っているのは、禁裏方。それは確かだな」
土方が伊庭に尋ねる。
「はい、それと大坂より幕府老中方からも追手が。真如殿を利用して征長を阻止するもくろみです」
「長州に寛大な処分をという話が幕府内に出ていることは知っている」
土方は厳しい表情で、
「どのみち、客間にいる二人に追手が回るのは防ぐ必要がある。江戸に送り返すのはどうだ」
「はい、それも考えています。江戸の御台所様より真如殿の身柄の安全と保護をとの御命も」
土方は腕を組んで思案した様子だった。
「夢見が終わったら、移動だ」
土方が静かに話した。千鶴が容態を看ている。目覚めたら、様子を報せる。伊庭は、「有り難うございます」と深々と頭を下げた。
伊庭の指示で、客間の二人の様子を二条城で待機する書き物方の本山小太郎に報せることになった。伊庭は急ぎで大坂に戻る為、再び早馬に乗って屯所を後にした。
土方は文机に向かうと、
御台所様の命により
夢見の後
公方様奥詰が
貴方御身柄を保護致し候
と文をしたため記名した。丁寧に文をたたんで和紙に包んだものを千鶴に音羽へ渡すようにと言付けた。そして客間の二人の様子を見ておくようにと指示した。千鶴は「はい」と返事をして土方の文を携えて客間に戻った。ちょうど、その日の午後に小原女の葵が屯所に現れた。千鶴は葵をいつものようにお勝手に招き入れ、お茶を進めた。お勝手の周りに誰も居ないことを確かめてから、葵にお願いしたいことがあると、事の次第を打ち明けた。
葵はじっと黙ったまま千鶴の話を聞いていた。千鶴が話終わると、
「そのお二人を八瀬にお連れいたします」
静かに葵は言うと、千鶴の手を取った。
「今日のうちに段取りを整えます。お目覚めになられた時にお迎えにあがります」
葵の手は暖かく、千鶴はだんだんと不安な気持ちが落ち着いて来た。手の震えがおさまって来ると、ようやく息をつくことが出来た。葵は、優しいいつもの笑顔で「大丈夫でございます」と言って千鶴を励ます。
一度瞳を伏せた葵は、千鶴の目を見て微笑むと、
「丁度、あと二日で新月を迎えます。夜の闇は身を隠し移動するのに最適です」
そう言って立ち上がった。
「急ぎます。雪村様、どうぞご安心を。準備が整い次第ご連絡いたします」
葵は最後に両手で千鶴の手を包み込むように握ると、お辞儀をして足早に屯所を出て姿を消した。千鶴は、葵の言っていた「新月の夜の闇」という言葉を繰り返した。あと二日。私も準備をしなくては。
*******
千鶴が客間に戻って、八瀬への移動の手配を開始したことを伝えると、音羽は深く頭を下げて千鶴に感謝した。
「宮様より真如さまの身柄を保護くださるよう御命があったことも喜ばしい限り。八瀬で呪詛を取り除いた上で宮様の元に真如さまをお連れできれば」
そう話す音羽を見ながら、千鶴は八瀬の里で【呪詛を除く】事が可能なのだと思った。千鶴は、真如様にかかった呪詛が速やかに無くなりますようにと祈りながら頭を下げた。
「八瀬の里でそれが叶いますね」
そう笑うと、音羽は微笑みながらもどこか哀しそうな目をして千鶴を眺めた。
「調伏は叶わないかもしれません」
「ですが、雪村さま。貴方様は真如さまの夢見を信じくださいました」
「・・・・・・ですので、それも叶うと、私も信じたく存じます」
千鶴は音羽を励ました。二日の後、新月を迎えます。そう伝えると、音羽は頷いた。千鶴は自室に戻り、伊庭に文を書いた。
伊庭八郎様
真如様と音羽様がご上洛向かわれんとされた先
八瀬の里に相成り候
古より真如様をお守りする者の元へ
二日後新月
御二方を八瀬の里へ送りし候へば
勝手致すこと誠に申し訳なく
この文にてご理解お許し願奉り候
雪村千鶴
千鶴は、文をたたむと二条城の本山小太郎様に届けるように手配した。伊庭さんなら、きっと解ってくださる。この文が伊庭さんの元に着く頃にちょうど新月だろう。千鶴は、台所に行き滋養によい食事を用意できるように準備をした。
草履、市女笠、打ち掛け
お二人の装束は目立ち易い。あの姿で、どうやって屯所の外に連れ出せるだろう。千鶴は全てを想定した。屯所内の見廻りに見つからない手立て、どの経路で外にお連れすればよいか。そっと廊下に出て、動線を確かめる。廊下の死角、見通されてしまう廊下は避けなければ。いざとなった時の為に自分が護衛しよう。千鶴は自分の腰に差している小太刀に手をかけた。
どうかお二人をお守りくださいますよう。全てが上手くいくように。
そう心中で願った。廊下の外が巡察から戻った隊士達の声で騒がしくなった。千鶴は、夕餉の支度をしに再び台所に戻った。
*****
翌日の朝、起き上がった千鶴は、自分の部屋の前に文が置いてあるのに気がついた。小さくたたまれた文には葵の葉が結んであった。いい香りを放つその文を部屋に戻って開いた。
雪村様
新月 亥の刻 太鼓楼の門内
お待ち申し上げております
葵
亥の刻。太鼓楼の門内。千鶴はそれを覚えると、葵の葉のみ残して文を燃やした。太鼓楼までの移動。客間から表階段、境内を横切る必要がある。何日も寝たきりの真如の足元も気になった。目覚めの後。どれぐらいまで回復されるだろう。千鶴は、滋養によい食材を買い求めに市場に出た。護衛に相馬と野村が付いて来てくれた。鶏卵を買い求めた千鶴に二人が驚く。一個五十文を二個も。
「先輩、これっぽっちのものに百文もかかって。土方副長は金が要りようだと仰っているのに」
「そんなに、沖田さんの具合、お悪いのですか」
二人がずっと心配そうに尋ねてくる。総司の具合は安定している。だが、決して良好だとは云えなかった。八百屋で冬瓜、水菜、賀茂茄子を買った。相馬と野村は、「やったー、田楽だ」と二人で喜んでいる。この二人は、幹部との食事を許されるようになってから、千鶴が食事当番の日を毎日待ちわびている。千鶴の作るものを食べると、二日は生き延びられる。三日目にまた千鶴の当番が来る。今日まで屯所で死なずに来れたのも、先輩のおかげだ。そう言う二人に千鶴は冗談だと思って笑っているが、二人は至って真面目にそう思って居た。
夕方に屯所に来る豆腐屋からお揚げと絹ごし豆腐を買った。ちょうど巡察から隊士たちが戻ってきていた。暑くて参りそうだと平助が言っていた。千鶴は、冷たくてさっぱりした食事を用意するからと伝えると、平助は喜んで走って行った。斎藤も巡察帰りだった。千鶴の持つ豆腐の入った大鍋を代わりに運んでくれた。
「変わりはないか」
斎藤は千鶴に客間の二人の事を訊ねる。千鶴は、はいと答えた。巡察や調練に出掛ける以外は、ずっと夜も斎藤は客間の護衛についている。
明日の夜。二人を連れ出す事を斎藤さんはお許しにならないだろう。
千鶴の一番の懸念はそこだった。土方の指示では、真如の回復を待って新選組は二人を江戸に送り返すのを手伝う。それはきっと、大坂城に二人を一旦連れ戻すことになる。
私が八瀬にお二人を逃がしたら
それは勝手な振る舞いだ。新選組にご迷惑をかける。土方さんの指示も守らず、幕臣の伊庭さんを裏切り、斎藤さんを裏切ること。
——斎藤さんを裏切る。
千鶴の心に暗い影が差した。客間の二人を八瀬に送り出したい気持ちと同じぐらい、この影は重い。自分は決して裏切りたくない。斎藤さんを……。
「どうかしたか?」
斎藤が尋ねる声でお勝手の入り口に着いたのに気がついた。千鶴は、礼を言って豆腐の入った鍋を斎藤から受け取った。
「湧き水を汲みに行くのだろう」
そう言って、斎藤は桶を持ってお勝手を出て門に向かって歩き出した。斎藤は千鶴がいつも湧き水で豆腐を冷やして夕餉に出すことを知っている。茗荷、青葱、生姜をたっぷりのせた小鉢は斎藤の好物だ。いつも冷や奴を作る時は、千鶴は屯所から近い醒ヶ井さめがいまで湧き水を汲みに行く。門の向こうに出ると、陽が傾いて来ているが、うだる様な暑さは変わらず。それでも伸びてきた日陰を探して歩くと幾分涼しかった。隣を歩く斎藤に向かって千鶴は頭を下げた。
「斎藤さん、巡察から戻られたばかりなのに。すみません」
「かまわぬ。醒ヶ井でついでに俺も汗を流す」
醒ヶ井に着くと、気持ちよさそうに汗を流す斎藤を見て千鶴はほっとした。冷たい湧き水で汗を拭えば気持ちが良いだろう。そうだ。客間のお二方にも冷たい水をお出しすれば、喜ばれるかも。千鶴は、湧き水のそばにあった竹水筒を借り受けてその中にも水を汲んで持ち帰った。
屯所に戻った時に、随分と勝手まわりが騒がしいのに気がついた。井上が、大変なことが起きたと行って水桶を探していた。斎藤が、湧き水の入った桶を差し出すと、井上はこれは丁度良いと言う。
「藤堂くんが、さっき熱湯をかぶってね」
「なんの用があったのか、台所でお湯を沸かしていたみたいで。火加減を見にしゃがんだ瞬間、へっついが崩れてね。鍋がそのまま傾いて背中に熱湯を浴びて」
そう説明しながら、井上が廊下を走るそばを、斎藤は桶を抱えて足早に歩いている。千鶴も小走りについて行った。平助の部屋には、布団の上で上半身裸でうつぶせに横たわる平助が居た。背中には濡らした手拭いがあてられている。千鶴は、やけどの状態を確かめた。背中に酷いやけどを負っていた。もっと冷やし続けなければ。千鶴は、湧き水に手拭いをつけて冷やした。そして、部屋から膏薬を持ってきてそっと皮膚の表面につけた。台所で冷やしていた豆腐を青菜の葉につぶして拡げたものを用意して、やけどの皮膚の上を覆い冷湿布をした。
「冷たくて楽になった。千鶴、ありがと」
ぐったりとしている平助が小さな声で礼を言う。
「うん、平助くん、寒くない?」
平助は、寒くないと言ってうっすらと笑った。腹が減ったと言うので、千鶴は安心した。直ぐに夕餉を用意して匙で平助の口に運んでやり、冷湿布を取り替えた。念の為に薬草も煎じて飲ませた。沈痛成分が効いたのか、しばらくすると平助は眠り始めた。
その後、千鶴は客間で夜具の準備をした。音羽は、きっと明日にお目覚めになるだろうと静かに話した。千鶴は隣の部屋に待機していますと伝えた。夕闇で暗くなり始めた部屋で、真如の横たわる傍に立てた蝋燭の光が揺れていた。
****
二度目の夢見
翌朝、朝餉を客間に持って行った時に、真如が目覚めた。じっと天井をみつめたまま、その表情はうつろだった。音羽が身体を起こすのを助けた。千鶴は真如が何日も食事も水もとらずに居ることが不思議でならない。背筋を伸ばして座った真如は、再び夢見の詠を歌い始めた。
あらましき風の音
前世の十善戒行の御力により
今万乗の御主と生まれさせ給へども
悪縁に引かれて
御運既に尽きさせ給へぬ
日おつる天子の御光
雲隠れ
繰り返される詠は、千鶴の耳にも響く。真如の歌う未来は、光を失い闇が迫るようだった。暗い闇。雲隠れ。
(でも恐れてはならない)
千鶴は不思議と迫り来る闇に自分は立ち向かえるような気がした。たとえ闇が迫っても、自分は立ち続けるだろう。
(きっと、新選組の皆さんも……)
千鶴は独りではない気がした。決して、ひとりぼっちではない。怖くはない。
胸に手をあてながら確かめた。闇の中で差し出される手を感じた。節ばった長い指。斎藤さんの手だ。千鶴はその手を握り返した。じんわりとあたたかい。大丈夫。きっと……。
紙をめくる音がして千鶴は気がついた。文机から振り返った音羽が真如にかしづき、立ち上がるのを助けた。真如は、しっかりとした足取りで千鶴の前に座ると、深々と頭をさげた。
「わたくしは空蝉真如と申します。このたびは連れの者と私をお助け頂き真に有り難うございます」
千鶴は、自分も名乗ると、真如の体調を伺った。真如は、喉の渇きを訴えたので直ぐにお茶を用意した。食事も消化に良いものを用意して運ぶと、真如はゆっくりと少しずつ摂って行った。
食事の後に、音羽は土方からの文を真如に見せた。真如はそれを読むと静かに座ったまま、目を閉じた。しばらくしてゆっくり目を開けると、
「今宵、八瀬童子の担ぎ手がお運びくださる」
「宮様の元へ戻ることも叶おう」
そう言って音羽に向かって微笑んだ。千鶴は、今夜二人を八瀬に送る事を真如が知っている事に驚く。
(よかった。宮様の元へお戻りになられるなら)
千鶴は目の前の二人を眺めながら、
今宵亥の刻に必ず
そう決心した。
******
日中は、平助の看病と客間の二人への食事作りに千鶴は追われた。合間に、夜の準備も怠らない。千鶴は、台所に向かうついでに、二人の草履を手拭いにくるんだものを表階段の裏に隠した。
真如は、昼過ぎに自分から土方の部屋に出向き挨拶をした。
明日にも大坂から、親衛の伊庭が迎えに上がり、大坂城へ向かうことになると、土方は二人に伝えた。
真如は深々と頭を下げただけで、何も言わなかった。
(伊庭さんに送った文、もう伊庭さんは読まれたかしら)
千鶴は、その傍らでずっと考えて居た。亥の刻までに大坂城から迎えが先に来たら……。千鶴は気が気ではない。客間に戻った二人は、屯所を旅立つ準備をしていたが、大坂城に向かうと思っている幹部は特に怪しむ様子はなかった。
客間の障子は開け放たれたままだった、真如と音羽は静かに落ち着いた様子で過ごしていた。幹部は、やんごとなき客人を決して邪魔をしないよう気遣っているのか、客間の前の廊下を通る事もない。
このまま、日が暮れて、夜になれば。
千鶴は、体調も良く、足取りもしっかりしている真如の様子を見て、廊下から太鼓楼まで、充分に歩いて移動が出来ると思った。
夜が来るのをこんなに待ち遠しいのは初めて。
千鶴は、陽が傾き始めた境内を眺めて念入りに夕餉の準備をした。井上が平助の冷湿布用に大量に木綿ごしの豆腐を買って来てくれた。斎藤が相馬と野村を連れて、醒ヶ井から沢山湧き水を汲んで来てくれた。千鶴は平助の背中の火傷を冷やし続けた。平助は食事を食べさせてもらったり、着替えや薬、冷湿布の取り替えに千鶴が甲斐甲斐しく自分の世話をするのが、嬉しくて仕方がない。
「背中に火がついちまったけど、千鶴がいるからいい」
そんな風に笑って、小さく切った桃を口に運んでもらっている。そんな平助に、新八と左之助が「鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ」と呆れていた。
平助の部屋は、客間の反対側にあった為、見舞いに訪れる幹部はひっきりなしに北側を行き来している。客間のある南側の廊下をめったに人が通ることはなかった。ただ、本堂のある南側には渡り廊下が道場や浴場に続き、若干人の出入りはある。夜間には、隊士が持ち回りで境内の見廻りをしている。誰にも気づかれずに、客間の二人を外に連れ出すのは至難。
月明かりがない闇夜
これだけが千鶴の頼りだった。
そして、亥の刻。客間の隣の部屋に斎藤の姿はなかった。今のうちに。千鶴は、そっと二人を廊下に連れ出した。長い廊下の欄干の柱の上に、蝋燭が灯っている。それ以外は、境内も廊下の反対側の幹部の部屋も灯りがなく暗闇が続いている。千鶴は、二人を案内して歩き始めた。その矢先に背後から声がした。斎藤の声だった。
「斯様な時間にどこへ行かれる」
斎藤は、じっと虫垂れ衣を被っている二人を見ている。千鶴は、二人を自分の背後に隠すように立った。
「おふた方は、ここを発たれます」
斎藤は、真剣な表情で千鶴を見詰め返す。
「明日、大坂城より千石船が淀に着く手筈。我々は淀まで護衛致す」
斎藤は、千鶴の背後の二人に語り掛けるように話した。
「大坂城はなりません」
千鶴は、首を振りながら背後の二人を守るように手を拡げて斎藤を遮ろうとした。
「どうか、斎藤さん。お見逃しください。お二人には向かわれる場所があります」
斎藤は、厳しい表情をしたまま一歩前へ出た。千鶴は、背後の二人を自分の背中で押しやるように後ずさる。斎藤の目が碧く光っている。前に進む斎藤が刀に手を掛けた。鯉口を切る音が聞こえた瞬間、千鶴は、咄嗟に両手を拡げて背後の二人を庇い両目を瞑った。
空を切る音
一瞬の後、目を開けると。暗闇の中に斎藤がゆっくり歩く姿が見えた。隣の柱の蝋燭の火を刀で消していく。どんどんと闇が拡がる。斎藤の白い足袋が前を進むのが見えた。千鶴は、二人を促して斎藤の後に付いて廊下を表階段に向かって歩いていった。
斎藤は、最後に東側の廊下の灯りを全て消すと、背後の千鶴に境内に向かうように顎を少しだけ動かした。千鶴は、階段の下に隠しておいた草履を用意すると、二人を促し境内に降りていった。北集会所の北側には灯りのついた部屋があり、人の気配もする。急がねば。
暗い、漆黒の闇の中を前へ進む。月のない夜がここまで暗いとは。
千鶴は、ほぼ己の勘だけで太鼓楼に向かっていた。何も見えない。もう亥の刻。門内。葵はどうやって迎えに現れるのだろう。砂利を踏みしめる音だけが響く中、千鶴は一歩一歩前へ進む。左手で腰の小太刀を握り、右手は柄を握りしめ、ただ心で祈り続けた。
どうか、どうかお二人をお守りください。
太鼓楼がある場所の小さな門口の前に黒い御輿が見えた。総漆の立派な乗り物には、金の御簾がかかっている。まるで、古い絵巻から抜け出てきたような美しい様子に千鶴は声も出ない。
御輿の傍には葵が立っていた。千鶴と真如達に深々と頭を下げた葵は、静かに二人を促して輿に載せた。御簾から、真如が手を伸ばし、千鶴の手をとった。
「雪村様、貴方様のお力添えに感謝いたします。貴いご信念により調伏が叶い、我が身の呪いが撃ち消えんことを」
碧き者に寄り添い
同じ流れに身を結ばれん
これ前世よりの契り
真如はそう詠うように千鶴に微笑むと、音羽と一緒に御簾の向こうに隠れてしまわれた。御輿は軽々と宙に持ち上げられたが、それを担ぐ者の姿はうっすらとしていて闇夜の中でその輪郭を確かめることも叶わない。それでも、しっかりとした様子で輿は進む。太鼓楼の小口門は閉まったままだ。どちらへ。
いずこへ
千鶴は御輿が進んで行く先が気になった。だが、輿の最後に付いた葵が振り返り深々と頭を下げた後、風に浚われていくように一瞬で目の前から輿も担ぎ手も葵も、全員が忽然と姿を消した。あっという間の出来事だった。
八瀬の里へ
きっとご無事に
千鶴は二人が望んだ行き先に向かって旅立てた事を喜んだ。さっき握りしめた真如の手のぬくもりを思い出す。
調伏が叶い、我が身の呪いが撃ち消えんこと
真如の言葉を思い出す。良かった。本当に。千鶴は恐ろしい呪いが解かれることをひたすら祈った。真っ暗な闇の中に立ちながら、これで良かったのだと思った。
背後から砂利を踏みしめる音が聞こえた。ゆっくり振り返る。暗闇に白い襟巻きが見えた。
「無事に送り出せたようだな」
静かな声で呟く斎藤の声に、千鶴は、はいと応えて、頭を下げた。
「ありがとうございました」
漆黒の闇の中、千鶴はずっと黙ったままじっと立っていた。斎藤も沈黙したまま佇んでいる。静寂の時が過ぎた。
「お咎めは全て受けます」
千鶴は小太刀を腰から抜くと、覚悟を決めたように項垂れた。
「どうぞひと思いに・・・・・・。部屋の文机に土方さんに書いた文があります。事情はそこに全て」
暫く沈黙があった。砂利を踏みしめる音がした。千鶴は目を瞑った。
一瞬の後、小太刀を握りしめていた自分の手を斎藤が引き寄せた。見上げると碧い双眸が優しく千鶴を見詰めていた。
「小太刀を仕舞え。副長の元へこれから参る。あんたは一切なにも語らずにいろ。よいな」
そう言って、踵を返すと北集会所に向かって歩き出した。千鶴は、斎藤の後に続いて歩いて行った。土方の部屋には灯りがついていて、斎藤が廊下から声を掛けると「入れ」という声が中から聞こえた。土方は、沢山の帳面が積んである文机に向かって書き物をしていたようだった。千鶴が続いて部屋に入ると、意外な顔をしている。
「副長、ご報告にあがりました」
「先ほど、客間のお二方が屯所から姿を消しました」
土方は眉間に皺をよせたまま、斎藤の説明を聞いた。千鶴と客間の二人が居ないことに気づいて、境内を探していると、見慣れぬ者の輿に乗り込む二人を見かけた。
「菊の御紋もなく。幕府の者でもない。追い掛けましたが、時既に遅く。俺が目を離した隙の出来事で」
「申し訳ございません」
斎藤は、深々と頭を下げた。千鶴も、一緒に頭を下げた。土方は、ずっと腕を組んだまま黙っている。暫くの沈黙のあとに土方は溜息をついた。
「斎藤、明け六つに屯所を出て淀へ向かえ。大坂城からの迎えの者には事情があって客人は屯所から動けないとだけ伝えろ」
「八郎に俺から文を書く」
土方は、斎藤と千鶴に部屋を下がるように言うと。大きく溜息をついた。
「何が起きるんだか……頭が痛え」
そう呟いた。斎藤は、千鶴をつれて障子を開けると深々と頭を下げて部屋を出ていった。
****
千鶴の部屋に斎藤は付いて来た。土方に書いた文を見せるようにと言われた千鶴は、廊下に黙って立つ斎藤に文箱から文を取り出して斎藤に渡した。斎藤は、廊下の蝋燭の灯りの下で文に目を通した。そして、その直後に文に蝋燭の火をつけて燃やした。斎藤は一番近い階段の下に降りて燃えくずを始末すると、再び千鶴の部屋の前に戻って来た。正座をして待つ千鶴に向かって廊下から声をかけた。
「明日、俺は早い内にここを出る」
「事情を知った伊庭が、どう出るかによる。だが、あんたは一切他言無用だ」
「あの二人には、向かう先があった。そこに向かった」
「それだけのことだ。あんたが責任を感じる必要はない」
返事も出来ずにいる千鶴に、斎藤は「良く休め」と一言最後に言うと、障子を閉めようとした。暗闇に浮かぶ、青い髪、深い碧い瞳。千鶴が見上げると優しく見詰めかえしている。
碧き者に寄り添い
同じ流れに身を結ばれん
これ前世よりの契り
真如の言葉を思い出す。
碧き者。
(同じ流れに身を結ぶ……)
じんわりと胸の辺りが暖かくなる。
「斎藤さん、くれぐれもお気をつけて」
斎藤が頷きながら障子を閉めた。
これ前世よりの契り
千鶴はそのまま床に入った。胸に拡がるぬくもりを想い朝まで眠った。
*****
終章
慶応二年八月
千鶴が八瀬の里に客人を送り出してから数週間が経った。
屯所は普段と変わらぬ日々が続いている。大坂の伊庭八郎から返信もなく、土方は静かに大坂の動向を伺っていた。平助の背中の火傷は、処置が早かった為快方に向かっている。千鶴は、平助の看護と総司の世話を中心に、屯所内で雑務に明け暮れていた。そんなある日、二条城より本山小太郎が屯所を訪れた。
本山は、千鶴を見て笑顔で話掛けてきた。千鶴は以前、市中で伊庭に本山を紹介された事があった。確か新選組を大層恐れて居た方だ。千鶴は、記憶をたぐり寄せて思い返す。
伊庭八郎からの伝言と聞いて、あえて客間には通さずに直接、土方の部屋に本山を案内した。本山は酷く緊張した様子で部屋に入った。千鶴が、お茶を持って土方の部屋に戻ると安堵したような表情を千鶴に向けた。
「申し伝えたいことが、すこし憚ることなので、文にしたためて参りました」
そう言って頭を下げた本山は、懐から書状を出すと大仰に土方に差し出した。
土方は書状を受け取ると、すぐに開いて読んだ。驚愕の表情の後に、苦々しい様子でみるみる間に眉間に皺が寄っていく。それを伺うように見ている本山は、完全に縮み上がってしまっているようだった。文から顔を上げた土方は、静かに本山に尋ねた。
「これが公にされるのは」
「はい、もう間もなくの内に」
「戦は中止か……」
土方が小さな声で溜息をついた。
「伊庭は、公方様の亡骸を江戸にお運びする手筈を整えるのに忙しく、暫く上洛は叶いません」
本山の言葉を聞いて、千鶴は耳を疑った。公方様の亡骸。将軍様が、将軍様が亡くなられた。千鶴は身体が震え出した。なんという事だろう。
「こちらに預けられていた御台所様の女官達については、改めて上洛して事情を伺いたいと、伊庭は申しております」
土方は、伊庭があの二人の事情を知りたがっている、既に屯所から姿を消した二人の行方を案じていると思った。だが、敢えて本山には二人について詳しくは語らなかった。
本山は、伝言を終えると早々に屯所を後にした。門まで見送る千鶴に本山は、伊庭が今は大変な思いをしている。必ず、江戸に帰還する前に千鶴に逢いに来るだろうと言って去っていった。
伊庭が屯所に現れたのは、月が明けた九月。既に、新選組に大樹公が大坂城で病に倒れて亡くなったという正式な報せが来ていた。久しぶりに現れた伊庭は、少しやつれた様子だった。土方に、三日後に江戸に軍艦で帰還する。ようやく公方様の亡骸を江戸に連れ帰ることが叶うと言って目尻に涙をにじませた。
「公方様亡き今、私は御親衛である意味がありません」
そう言って、江戸への帰還とともに奥詰を辞すると話した。
「しかし、私は幕臣です。幕府に忠義を尽くす。これは変わりません」
そう言って微笑んだ。そして、屯所で預かり置いて貰えた真如達についてお礼を言った。
「あの方達を匿い置いて貰えた事に大変感謝しています」
「あの混乱の中、大坂城の外であの方達の身柄を安全に保護できて居たことは、今思うと奇跡に近い」
土方は、大坂城に二人を送り返す事が出来なかったことを悔やんでいたので、伊庭のこの発言には驚いた。
「それじゃあ、あの二人は、洛中で姿を消してしまった方が良かったってことか」
土方は伊庭に尋ねた。
「はい、おそらく」
伊庭は、微笑みながらそう言うと、千鶴に向かって頷いた。
土方との面会を終えた伊庭は、これから二条城に向かうと言って、境内に待機させていた馬に乗ろうと千鶴と表階段を降りた。
「真如殿たちを安全な場所へ送り届けてくださった事に感謝しています」
「八瀬の里へは、あなたから文を頂いてから直ぐに私は向かったのです。ですが、道標を辿ってもどうしても見つからず、諦めて大坂に戻りました」
「あれぐらい山深ければ、きっとあの方達は安全なのでしょう」
伊庭は優しい表情で話す。千鶴は、伊庭が真如達の身の安全を一番に考えてくれて居ることに安堵した。
「勝手な振る舞いをしたことを。どうぞお許しください」
千鶴は、深々と頭を下げた。伊庭は、千鶴の肩を持って顔を上げるように言うと、そのまま千鶴の手を引いて自分の腕の中に取り込むように固く抱きしめた。突然の事で千鶴は目を見開いた。
「僕は、しばらく京を離れます。江戸に戻って己の身の振り方を考えるつもりだ」
「……あなたの傍にいて守りたい。その為にも僕はもっと強くならなければならない」
千鶴は伊庭の肩を見上げるような姿勢のまま、耳元に聞こえる声を聞いていた。何か強い決断をこめた力強い響き。それでも千鶴は抱きすくめられながら、黙っている事しか出来なかった。
伊庭は、優しく微笑んだまま身を離すと。首を横に振った。
「まだ、」
「まだ返事はしないでください。僕はもう少し、あなたの答えを聞くことに猶予が欲しい」
千鶴は、まだ驚きが隠せない。返事。猶予。伊庭さんは、本当にそんな風に自分を想ってくれているのだろうか。
茫然としている千鶴に、伊庭は優しく微笑んだまま馬に乗り込んだ。
「千鶴ちゃん、どうか壮健に。僕は、貴方に何かあれば必ず助けに来る」
そう言って、一気に馬首を返し門の方向に向けると馬の腹を蹴って進み始めた。そして門から去り際に振り返って一瞥した。その笑顔はいつもの八郎兄さんの笑顔で、千鶴は同じように笑顔を返し大きく手を振って見送った。
この後、長州征討は勅命で停止宣言された。同じ頃、新選組は三条制札事件や島原騒動など、長州藩ばかりでなく、薩摩、土佐藩など、反幕に傾きはじめた勢力と対立を深めて行くことになる。不穏な空気の中、年の瀬を迎えようとしていた頃に、まるで追い打ちをかけるかのように、孝明天皇が崩御されたという報せがあった。
天子様がお隠れになった
暗闇が迫る
それでも千鶴はずっと前を見続けた。新選組も同じ。常に全力で前に進み続けている。千鶴は不安を感じない。不思議だが、新選組とともに居る限り、自分は大丈夫だと思った。精一杯やるしかない。この強い意志。これは無意識のうちに心のもっと深い場所に夢見の詠が刻み込まれていたからかもしれない。暗闇でもずっと携えあう手、深い青い瞳、その存在にずっと寄り添って生きていく事を千鶴は信じて止まなかった。
碧き者鬼を守り候へば
一樹の陰に宿りあひ
同じ流れを結ぶもみなこれ
前世の契り
たとえあらましき風が吹こうとも
了
(2018.03.14)