第八部 梵天
薄桜鬼奇譚拾遺集
西本願寺に屯所が移ってから二年目の夏の頃。
朝餉の席で、斎藤はずっと黙ったまま食事をすると静かに膳を持って台所に行ってしまった。その後、巡察にでるまで斎藤の姿が見えず、千鶴は気になって三番組隊士が集合している場所まで斎藤を探しにいった。もう陽が高くなり始め、表階段の前は影も引いて暑くなってきた。きょろきょろと斎藤を探す千鶴の背後に、斎藤の姿が見えたらしく、平隊士が「組長」と声をかけた。
振りかえった千鶴は、斎藤がゆっくりと歩いてくる姿を見た。俯き気味で、いつものような覇気を感じない。普段から物静かな斎藤だが、今朝から本当に元気がないのが気になった。斎藤は、平隊士を整列させるように伍長に声をかけると、最後尾に立った。
千鶴が、斎藤に駆け寄ると「行ってくる」と言って斎藤は微笑んだ。その時、初めて斎藤の顔が見えた。右目が真っ赤になっている。まるで、血塗られたように眼球全部が真っ赤だった。
「斎藤さん、どうされたんですか?」
千鶴は、思わず斎藤の二の腕を掴んで顔を覗き込んだ。背伸びをして、斎藤の前髪をかき分けようと手を伸ばした。斎藤は、俯きがちに首を向こうに向けて「大事はない」と一言呟いた。
「ただのものもらいだ」
千鶴は、「みせてください」とずっと腕を掴んで離さない。仰け反る斎藤の肩に千鶴はぶら下がるようになっている。
「真っ赤じゃないですか」
「とっても痛そうです」
「手当をします。部屋に来て下さい」
必死な千鶴を見て、背後の隊士達が微笑んでいる。伍長が先頭から駆けつけて来た。
「組長、具合がお悪いようでしたら、お控えください。私たちで四条を中心に廻って参ります」
と言って、伍長の伊藤が頭を下げたが、斎藤は首を横に振って「休むわけにはいかぬ」と一言。結局、千鶴が制止するのも聞かずに巡察に出てしまった。千鶴は門の外まで追い掛けて行きながら、斎藤に話しかけ続けた。
「お薬を用意して待っています」
「お昼に必ず屯所にお戻りください」
「前髪が眼にかからないように」
「斎藤さん……」
黙っている斎藤の背中を見送った千鶴は、急いで部屋に戻ると、山崎から貰った手当法の帳面を出して、眼病の手当ての仕方を調べた。土方の部屋に走り、薬代と外出の許可を貰うと急いで表階段に向かった。背後から、相馬と野村が走って追い掛けてきた。二人とも道場で稽古をしていた途中らしく、道着のままで汗だくだった。千鶴は、二人に護衛の礼をいいながら、堀川通を足早に歩いた。
二条通の薬問屋で、「御眼あらい」を買った。帰りに醒ヶ井に立ち寄り、湧き水を水筒に入れて持ち帰ると、鉄鍋で塩を焼いてから冷まし湧き水に溶かした。それから、昼餉の支度をして斎藤の帰りを待った。午を過ぎた頃に、ようやく三番組が帰って来た。斎藤に直ぐに手当をするからと言うと、斎藤は、汗を流したいと言って、隊士たちと井戸に向かって行ってしまった。
千鶴は、手当道具一式をお盆に用意して斎藤の部屋に向かった。斎藤は廊下を歩いてくると、濡れ手拭いで眼を覆ったまま、「大事はない。先に昼餉にする」と言って広間に行ってしまった。千鶴は手持ち無沙汰で居ても立っても居られず、広間に行くとずっと斎藤の隣に座って、「直ぐに手当てをしたい」と改めて伝えた。 斎藤は黙ったまま頷いた。一通り主菜は食べたようだが、茶碗は伏せられたまま。おかしい。こんなに食が進まないのはおかしい。千鶴がずっと心配そうに座っているので、斎藤は再び、「心配には及ばぬ」と言うと、みずから膳をさげた。
斎藤の部屋は風が通りにくい。障子を開けるといくらか風が通った。千鶴は斎藤の部屋の襖を全て開け放った。お盆を廊下に持ってきて、斎藤の手を引いて廊下で横になってもらった。
「ここは幾分か涼しいです」と言って千鶴が斎藤の肩を持ち上げると、そっと自分の膝に頭を載せた。斎藤の頬が紅くなっていた。
「少し顔を下にしてください。眼を洗います」
と言って、千鶴は斎藤の顔を斜めにさせると、水を受けるように手拭いを顔の横に重ねた。竹水筒に入れておいた塩水で真っ赤になっている眼を洗った。斎藤は冷たい水が気持ち良く、目覚めた時からずっと続いていた異物感と痛みが和らぎ楽になった。
「痛くないですか?」
「ああ、冷たくて心地よい」
「念のために、悪くない左側の目も洗います。こちらを向いてください」
千鶴はそういうと、両手で斎藤の頬優しく持って、左側が下になるように傾けた。同時に、上から斎藤の頭を覗き込んだ。指で斎藤の前髪を優しく梳かし上げる。冷たい指先が心地よい。 千鶴は新しい手拭を左目の下において、塩水で眼球を流すように洗った。冷たい。何度も目を瞬いた。
「こちらは、熱を持っていないので、うんと冷たいはずです」
そういいながら、千鶴は斎藤の目の周りを手拭で拭うと、まっすぐに向かせた。
その時だった、斎藤の脇腹になにか固いものが当たった。とっさに斎藤は右手で脇腹にあたった棒を握ると、思い切り引きながら起き上がった。
「痛いよ、はじめくん」
いつの間にか、総司が斎藤の隣に寝転がって手を伸ばしていた。手の先には竹の棒を持っている。
「つつくな」
と斎藤は手を放した。総司は仰向けになって、手に竹棒を持って振り回している。
「これ、孫の手」
そう云いながら、今度は千鶴の傍に置いてあった団扇を孫の手で引っ掛けて自分に引き寄せた。団扇を手に取ると、ゆっくりと扇ぎながら微笑む。千鶴は再び斎藤の肩を優しく持って横にならせ、膝枕をした。
「左の眼から先に、御目洗を付けます」
そう言って、千鶴はお盆の上から薬を手にとると、斎藤の左目の瞼の上から、薬をそっとあてがった。
「瞼を開け続けてください」
目に当てられた小さな濡れ布には、薬が染み込ませてあるらしい。変な感触がしたが、痛くもかゆくもない。次に、悪い方の目に薬を付けられた。痛い、だが、薬は冷たくて気持ちが良かった。痛みも引いて来るような気がした。
「変若水飲んだみたいに赤いね」
隣でひじ枕をした総司がのぞいて来る。斎藤の目を羅刹の目と言われるのは心外で、千鶴は動かしていた手を止めた。気まずい沈黙が走ったのに、気にしていないのか、再び総司は斎藤の脇腹を孫の手でつついた。
「やめぬか」
斎藤が静かに言うと、総司は嬉しそうに突き続ける。
「ねえ、はじめくんのお手当が終わったら、今度は僕の番だから」
「あんたもものもらいか」と斎藤が目を開けて、総司の顔を見た。
「違うよ、僕のはこれ」そう言って、孫の手の柄から、小さな棒を取り出した。竹製の耳かきだった。
総司は、腕を伸ばして、耳かきで斎藤の首元をこそばした。耳かきの先には真っ白な綿毛がついていた。途端に、斎藤は身をよじって仰け反った。千鶴の手から、薬が床に落ちた。
「やめぬか!!」
斎藤は、声を荒げた。総司はさも面白そうに肩を震わせている。
「ほんと、首が弱点だよね」
千鶴が床に落ちた薬を拾って、残念そうにしている。もう一つの薬をお盆からとって、再び斎藤の眼に浸した。斎藤は発熱しているようだった。ものもらいが原因かは分からない。食事も進まず、目の下には青白い輪が出来ている。よほどお疲れのようだ。千鶴は、斎藤の額に手を当てた後、首筋の後ろに手を伸ばした。斎藤は、心配そうに覗き込む千鶴の顔が近いことが照れくさい。目の前に、千鶴の小さな顎があって、自分の鼻の先が触れそうだった。
「斎藤さん、床の用意をします。熱があります。今日はこのまま横になって休んでください」
斎藤の顔を上から覗くようにして、千鶴はそっと斎藤の身体から膝を解いて、手拭いの上に斎藤の頭を載せた。そして、もう一度確かめるように、首筋の後ろに手を当てた。濡れた手拭いを右目の上に置くと、斎藤の部屋に布団を敷いて、斎藤を寝かせた。
「世話をかける」斎藤は一言そういうと眼を瞑った。
やはり、余程体調が悪かったのだろう。斎藤は深く息を付くと、そのまま眠ったように見えた。千鶴は、もう一度濡れた手拭いを右目の上に載せて廊下にでた。
「沖田さん、沖田さんも横になってください」
千鶴は、廊下に寝そべったままの総司のそばに膝をついて額に手をやった後に、首筋の後ろを触って微熱があることを確かめた。斎藤ほどではないが、いつもの微熱が出ている。千鶴は総司が起き上がるのを手伝おうとした。
「ね、その前にこれお願い」
総司は仰向けになったっまま、耳かきを千鶴の目の前にかざす。総司は、一度言い出すと梃子でも動かない性分なのを知っている千鶴は、そのまま正座をして耳かきを受け取った。総司は千鶴の膝に頭を載せて横になった。千鶴がそっと総司の耳をかいていると、涼しい風が吹き始めた。よかった。斎藤さんの部屋の障子も襖も開けておいて。
「ねえ、もっと上のほう掻いて」
総司は腕組みしたまま、眼を細めている。千鶴の冷たい手が頬にあたるのが気持ちいい。
「どう?」総司は、眼を瞑ったまま千鶴に訊ねる。
「沖田さんの耳の穴は、大きくてお掃除の甲斐があります」千鶴は、手拭いで耳かきの先を拭うと、総司を反対側に向かせ、もう片方の耳の掃除も始めた。
「ねえ、最後に梵天をお願い」
総司が頼む声が部屋で寝ている斎藤の耳にも聞こえた。千鶴が「ぼんてん?」と聞き返している。
「うん、このふわふわの。これを耳の穴に入れて、穴のなか綺麗にして」
「これが、梵天なんですね」千鶴がくすくす笑う声が聞こえた。
「そ、梵天で仕上げて」
斎藤は、薄眼を開けて廊下を見た。総司が満足そうな顔で微笑んでいる。千鶴がさっきのふわふわの綿毛で総司の耳掃除を仕上げているのは、確かに気持ちが良さそうだった。
「沖田さん、梵天って凄いですね。沖田さんのお耳の中、反対側の耳が見えそうなぐらい綺麗いになりました」 そう言って、千鶴は笑顔で総司の耳の中を覗いていた。総司は、「こっちもお願い」と反対側の耳も梵天で仕上げをして貰っていた。
「僕、お嫁さんに毎日梵天やってもらいたい」
総司の機嫌のよい声が聞こえる。もう斎藤は全身耳になって聞き耳をたてていた。
「お嫁さんになると、毎日旦那様の耳を梵天でお掃除するんですね」と千鶴がくすくすと笑っている。
雪村。笑っておるのか。
「そ、君がもし僕のお嫁さんになったら、毎日梵天やってもらうから」
斎藤は寝たふりのまま薄眼を開けた。総司が背中を向けたまま千鶴の膝に横になっていた。千鶴も背中を向けている。総司が雪村を嫁にだと。梵天とは、あのふわふわか。右目が痛い。熱い。身体が熱い。雪村の膝は柔らかかった……。心地よかった。
半分眠っているような、意識が遠のきそうな状態だった。千鶴が、自分の隣に総司の布団を持ってきて敷き始めた姿が見えた。気がつくと、総司が隣に横になっていた。額に濡れ手拭いを載せている。そうか。総司も熱をだしたのか。雪村が、離れた所から団扇で風を送っている。心地よい。瞼が重い……。
****
二人で養生
目覚めた時、部屋には行灯がともっていた。千鶴が、斎藤の顔をのぞき込み、濡れ手拭いを替えて、「お腹が空いていないか」と訊ねた。斎藤は首を横に振った。【御眼洗】をつけたいからと、千鶴は再び、斎藤の眼を塩水で洗って、薬をつけた。斎藤は煎じ薬も飲んだ。千鶴は、今晩はずっとお側についていますから、このまま眠ってください、と言って行灯を遠ざけた。隣を見ると、総司も静かに眠っているようだった。
次に目覚めた時は、朝になっていた。斎藤の枕もとに千鶴が座っていた。熱はだいぶん引いたようです。そういって千鶴は微笑んでいた。斎藤の右目は、いくらか赤みが引いて、痛みも昨日よりましになったという。隣に眠っていた総司も、平熱に近くなったらしい。それから半刻ほどして、総司が目覚めると、千鶴は朝餉にお粥を炊いたものを持って部屋に戻ってきた。二人で、布団の上に座ったまま膝にお盆を載せて匙で粥を食べると、また横になるように言われた。すっかり病人のようになってしまったと思っていると、土方が廊下に現れた。
「今日は、二人で養生しろ。巡察は、代わりに原田と永倉に行かせる」
そう言って、土方は黒谷に軍議に行くと言って朝の内に屯所を出ていった。千鶴が洗濯や掃除をする間、開け放たれた斎藤の部屋で、斎藤と総司は二人で布団を並べて横になっていた。普段から、部屋で独り寝ていることの多い総司は、斎藤が一緒にいるのが嬉しくて堪らないらしく、眼の上に濡れ手拭いをのせたまま寝入りそうな斎藤の脇腹を孫の手で突いては邪魔をしていた。
「やめぬか」
眼を瞑ったままの斎藤が孫の手を払いのけた。総司は、今度は耳かきの綿毛で斎藤の鼻の穴をくすぐろうとしたところを、腕を掴まれて思い切り払いのけられた。
「これ、源さんが嵐山に行った時の僕へのお土産」
「竹細工屋で、寝たきりの僕に丁度いいだろうって」
「梵天、ふわふわでしょ。孫の手はさ、背中掻いたり、寝たままお盆を引き寄せたり出来る」
源さんが買い与えたのか。源さんらしい。そう思いながら、斎藤は総司の話をじっと聞いていた。
「はじめくんも、耳を掻いて貰うといいよ」
斎藤は、薄眼を開けた。総司はうつぶせて、梵天をくるくると廻している。
「やってもらいたいんでしょ? これ」
総司は斎藤が自分を見ているのに気づいているかのように、耳かきの綿毛を斎藤の目の前にかざした。黙っている斎藤に、総司は微笑むと、孫の手で斎藤の枕元のお盆を引き寄せて、その上に耳かきを置いた。
「貸してあげる」
「ただじゃないよ。五文」
そう言って、総司は斎藤に掌を伸ばした。
「銭をとるのか」 静かに斎藤が問うと、
「あたりまえじゃない」と総司は笑った。
「あの子の膝枕つきなんだから、文句はないでしょ」
斎藤は考えている事が全て総司にばれている気がして内心狼狽した。耳かきを総司のように雪村に頼めるのか。果たして、そんなことが可能なのだろうか。差し出された総司の掌を見ながら、斎藤は仕方なく起き上がった。着物入れから、銭入れをとって五文を総司に渡した。総司は、微笑みながら銭を受け取ると、自分の枕元のお盆を引き寄せてそこに置いた。
暫くすると、千鶴が部屋に戻って来た。昼餉の前に、二人の着替えと身体を拭きたい。そう言って、新しい寝間着と手拭いを置いて、桶に水を溜めたものを持ってきた。斎藤から、着替えを手伝われた。固く絞った手拭いで丁寧に顔から首と背中を拭われた。下帯もとれと言われて狼狽した。立ち上がって、千鶴に背中を向けたが、千鶴は正座したまま新しい褌を手渡してくる。斎藤は、自分で後はやるからと言って、濡れ手拭いで手早く身体を拭いて、下帯を取り替えた。布団に戻った時、千鶴は既に総司の身体を拭いていた。総司は、着替えを手伝ってもらうのに慣れているようだった。背中から寝間着を羽織ると、立ち上がって褌を脱いで、新しい褌を閉めると、また座って裸になって全身を拭って貰っている。
(総司は、はずかしくはないのか)
斎藤は、ずっと二人の様子を見ていた。千鶴は総司の前にしゃがんで下腹から股から足の裏まで丁寧に拭っている。手慣れたものだ。思えば、総司の具合が悪くなって以来、ずっと傍で世話をしているのは雪村だ。
「せっかく拭ってもらって悪いけど。今日はお風呂に入りたい」
総司が呟く。「日中お熱が下がったら、入れますよ」と千鶴が応えている。懐から櫛をだして、総司の髪を梳かし始めた。総司は、千鶴がうまくまとめた髪の束に自分で組紐を通すと、千鶴は手早く紐を結んで結い上げた。
「ありがと」
総司は、そう言うと床にごろんと横になった。千鶴は、敷布も取り替えた。洗濯物を持って部屋を出ていくと、やわらかく煮込んだ「にゅうめん」を持ってきた。食べやすいように、冷ましてあり、なすびが入っていて美味い。斎藤は、食欲が戻ってきた。綺麗に平らげた斎藤のお椀を見て、千鶴は嬉しそうに膳を下げて行った。まだ微熱があるからと、二人とも煎じ薬を飲んだ。斎藤の、右目は赤身が引いて痛みが随分と和らいだ。千鶴は、再び【御目洗】をつけた。
その時、廊下を相馬と野村が通って行った。総司が、二人を呼び止めると、さっき別宅から近藤を護衛して戻ってきたと言う。総司は、それを聞くと、「僕、ちょっと近藤さんの部屋に行ってくる」そう言って立ち上がった。斎藤は、自分も一緒に行こうかと思った。千鶴は手早く薬をつけるのを終えようとしていた。総司は寝間着の紐を締め直しながら千鶴に笑いかけた。
「千鶴ちゃん、はじめくんが耳掃除してほしいって」
千鶴が顔を上げると、総司は更に続けた。
「梵天、やってあげて」
と総司は廊下から振り返りながらそう言って斎藤に笑いかけた。斎藤の頬が真っ赤になっていた。千鶴は新しい手拭いを出して、お盆の上の耳かきを手に取ると、斎藤が起きるのを手伝った。
「ここより、廊下のほうが明るくて、耳の中がよく見えるので、あちらで」
斎藤は言われるままに、廊下にでて横になった。千鶴の膝に横向けになって頭を載せた。千鶴は優しい仕草で、斎藤の耳をそっとひっぱりながら、息を吹きかける。くすぐったい。斎藤は、腕を組んで身を縮めた。
「斎藤さん、斎藤さんのお耳は、丸いんですね。いつも目にしているのに、こうやってじっと見ていると、初めて目にしたような……」
千鶴は、そういいながらまたふーっと息を吹きかけながら耳を掻いた。気持ちいい。たまらなく気持ちがよい。それに心地がよい。雪村の指が頬に触れる。雪村の膝は柔らかい。至福だ。斎藤は幸せだった。
「ほとんど耳垢はありません。とても綺麗です。かゆい場所はありますか?」
やさしい声が聞こえる。斎藤は、ないと応えた。すると、今度は、ふわふわの綿毛が耳に触れた。そのまま耳の穴の中に綿毛が入る。梵天をくるくると廻しているのか、ごそごそという音がした後、そっと綿毛の先を取り出すと、今度は耳の穴の周りも綿毛で掃除された。気持ちいい。気持ちが良すぎる。
「はい、こちらはおしまいです」 千鶴は優しく微笑みながら、斎藤の体勢を逆側に向けるのを手伝った。次は左側の耳。千鶴は、再びふーっと息を吹きかけた。耳かきが耳の中でごそごそと音をたてる。斎藤は目を瞑っていた。
「斎藤さん」
千鶴が驚くような声で自分の名前を呼んだ。「これは」と言って、千鶴は何度も斎藤の耳をひっぱって、顔の向きを変えて耳を覗き込んでいる。耳かきが動くとごそごそと大きな音がした。千鶴は斎藤の目の前に掌を持ってきた。掌の上には小指の先ほどの真っ黒な塊が見えた。
「斎藤さん、左の耳からこれが。血の塊です」
「こんなに沢山、耳の中で血液が固まっています。今は血が止まっているようなので大丈夫ですが、いつから耳に血が溜まるようになったのでしょう」
千鶴は、心配そうに何度も耳の中を覗いている。左側の壁に大きな傷が出来ているみたいだ。もうかさぶたになっているから大丈夫そうだ。そう呟いている。
「梵天はしません。そっとしておく方がいいでしょう」
そう言うと、耳からでてきた血の塊を手拭いに載せて、再び斎藤に心当たりがないかと訊ねた。
「四、五日前に、耳を掻いた。爪楊枝だ」ぼそっと斎藤が呟いた。千鶴は目を開いて驚いている。
「三条の煮売り屋の楊枝は、一寸ほど長い。耳かきに適している」
千鶴は、楊枝でなんて。あんな尖ったもので、と驚いている。衝撃を受けたような表情だ。
「耳の中が切れてしまっています。こんなに血がでて」
千鶴がそう呟いた。斎藤は、起き上がると自分の左耳に小指を突っ込み、血が流れていないのを確かめると、「大事はない」と言って立ち上がりかけた。
「そんなわけありません。何を考えていらっしゃるんです」
「爪楊枝のような、とがったものを耳に入れるなんて、無茶が過ぎます」
「耳かきは、刀と一緒じゃありません、力任せにそんなことをしたら、怪我をします」
千鶴はもの凄い剣幕で捲し立てる。
「俺は、刀を力任せで扱ってはおらぬ」
斎藤が、強い口調で遮った。不本意な事を言われたことを怒っているのか、千鶴を厳しい目で睨み返している。千鶴は、俯いて項垂れた。
「ごめんなさい……」
「出過ぎた事をいいました」
千鶴は膝の上の手拭いに載せた血の塊をみて、手を握りしめている。二人の間に沈黙が続いた。
「……斎藤さんは、ご自分をおろそかにし過ぎです」
「もう少し、ご自身の事をいたわってください。耳を掻くのも、もっと気をつけてください。もし、耳が聞こえなくなるような事になったら、どうされるのですか」
千鶴の手は震えていた。千鶴の声も、肩も。
「右目もそうです。お疲れになっているのに、十分休息をとらずに。我慢しすぎて。無理が祟って、ものもらいに……。高熱が出たのもそうです」
千鶴の膝の上に置いた手に、ぽとぽとと涙の粒がこぼれた。斎藤は驚いた。雪村、泣いておるのか。
「もっとご自身の身体の事を考えてください。無理はしないでください」
そう言ったまま、千鶴はさめざめとなき続けた。斎藤は、どうすればいいのか分からず、ずっと膝をついたままだった。
わかった。無理はしない。
そう言いながら泣き続ける千鶴を見下ろしていると、千鶴は、「そうして下さい」と鼻をすすりながら返事をしている。
「お耳は、私が掻きます。もう決して煮売り屋さんの楊枝は使わないでください」
少し、しゃくりあげながら続ける。
相わかった。約束する。二度とつかわん。
斎藤は、頷きながら返事した。
「斎藤さんが、掻きたい時は必ずわたしが掻きますので」
しゃくりあげながら千鶴は、続ける。
「絶対に、ご自分ではお掻きにならないでください」
なんどもしゃくりあげながら念を押される。斎藤は、頷いて、ああ、わかった。と応え続けた。斎藤は、床に戻るように言われて、再び布団に横になった。千鶴は、鼻をすすりながら、濡れ手拭いを斎藤の目の上にのせた。そして、いまから片付けをして、お茶を用意して戻って来ると言って部屋を後にした。
斎藤と、盆の上の梵天がぽつんと部屋にとり残されたまま午後の時間が過ぎた。
****
孫と梵天
夕方になって、ようやく総司が部屋に戻って来た。近藤の部屋に長居をしていたらしい。
「近藤さん、来月、西国視察に行くって」
総司が布団にうつぶせになって呟いた。総司の目は翳ったように見えた。きっと局長に随行したいのだろう。
「洛中で聞こえる長州の動きは、はっきりとせん。幕府の視察団が直接交渉に出向く必要もあるのだろう」
斎藤がそう言うと、総司は「こっちから敵陣に乗り込むなんて、不利になるかもしれないのにさ」と不満な様子を見せた。暫く沈黙した後、総司は身体を横にして斎藤に向き直った。
「ね、ところで、どうだった、はじめくん」
揶揄するような表情で訊ねる総司に、なんだ、という表情で応えた。
「やってもらったんでしょ、梵天」
そう言って、孫の手で、斎藤の枕元の盆を引き寄せると、耳かきを手に取った。
「千鶴ちゃんの膝枕で梵天やってもらうと、気持ちいいでしょ?」
総司はそういいながら、自分の耳を掻いている。斎藤は、ずっと黙っていた。確かに梵天は気持ち良かったが、その後、耳かきのことで雪村を泣かしてしまった。耳かきは、これから雪村にしてもらわねばならぬ。
「これから、耳かきは雪村に頼むことになった」
斎藤がそう呟いた。総司は、そうなの、とからかうような顔で返事する。そんな約束をあの子に取り付けるなんて、はじめくんにしては珍しいね。そう言って笑う。
「じゃあ、僕の梵天を一回五文で貸すよ」
斎藤は、総司の申し出に仕方なく頷くしかなかった。雪村に納得して貰える。自分も梵天をしてもらえる、五文は安いだろう。膝枕もだ。斎藤は、梵天の大義名分が自分の不注意から発していることも忘れて、次回の耳かきはいつになるのだろうと楽しみに思った。
翌日には、完全に斎藤の熱は下がった。目の赤みも引いて、痛みも目やにも殆ど出なくなった。斎藤は、朝から床上げをして、具合の良くなった総司と朝餉の後に、風呂に入って数日間の垢を落とした。千鶴は、総司と斎藤の布団を干して、部屋を綺麗に掃除すると。昼餉には精のつくものをと言って、卵ふわふわとおむすびを用意した。斎藤は、午後から巡察に復帰した。
それから数日後、千鶴が斎藤の部屋で、洗濯物を畳んだものを渡していると、土方が廊下を歩いてきた。厳しい表情をして、手には何か紙を持っている。
「千鶴、総司はどこだ?」
土方は、千鶴の姿を見つけると訊ねた。千鶴は、お部屋にいらっしゃると思いますが、と答えた。
「斎藤、おまえ、これは何かわかるか?」 そう言って、手に持っている紙を斎藤に見せた。それは、古半紙に何か書かれていた。
孫 五文
梵天 十文
「これが、屯所の柱に貼ってあった。これは、俺の字に似せてあるが、俺の字じゃねえ」
土方は、しかめ面をしてそう言う。
「総司の真似字にちげえねえ」 そう言う土方に、斎藤は紙を見て頷いた。土方は訊ねた。
「これは、無尽かなにかか。もし、隊内で許可もなく【講】を起こしていやがるなら、切腹ものだ」
千鶴は、目を開いて衝撃を受けていた。切腹。沖田さんが、一体何をされたのだろう。
「副長、これは講ではなく、総司が貸し出している道具代では」
「なんだ、道具って」
「はい、おそらく、総司の持っている孫の手と耳かきのことだと」
説明する斎藤に、土方が声を荒げた。
「なんだと、何を勿体つけて金なんてとってやがる、あいつ、とっつかまえてとっちめてやる!」
そこに、廊下の向こうから総司が戻ってくる姿が見えた。土方は、怒り心頭で総司の名前を呼んだ。総司は、「なに、一体?」と面倒そうな様子で、斎藤の部屋に入って胡座をかいた。土方は、貼り紙を総司に突き付けて、問いただした。
「これは、講の呼びかけか。影で、こそこそ無尽をしてるのか、白状しろ!」
総司は、そこ吹く風で笑っている。
「なにを言ってるの、これは、源さんに貰った、嵐山土産の孫の手と梵天耳かきのこと。使いたい人に貸し出している、その貸料」
土方は、納得が行かないという顔で問いただす。
「孫の手が五文なのはわかる、背中を掻きたいときにあれがありゃあ便利だ。だが耳かきが十文ってなんだ」
総司は、ごろんと横になって答えた。
「僕の耳かきだよ。梵天つき。それに千鶴ちゃんの膝枕もついてくるからね」
土方は、目を見開いて凄い剣幕で怒り出した。
「千鶴の膝枕だと。なにを考えていやがる」
総司の上に跨がると、胸ぐらを掴んで持ち上げた。
「千鶴にそんなことさせて、おおかた平助や新八あたりから金を巻き上げてんだろ」
まだ、お客は誰もついてませんよ。と総司は涼しそうな表情で答えた。土方は、「いい加減にしろ!」と叫ぶと、そのまま耳をひっぱって廊下に引きずりだした。
「歯、くいしばれ」
「その性根は一発殴らねえと」
そう言っている内に、総司は土方の腕からすり抜けて廊下を走っていった。土方は悔しそうに舌打ちをして、部屋に戻ると、千鶴を呼びつけた。
「いいか、お前が隊士の耳かきなどする必要はねえ。お前はおれの小姓だ。総司の紐付きにさせた覚えはねえ」
正座をしている千鶴を威圧的に上から睨み付けた土方は、完全に怒りの矛先を千鶴に向けていた。斎藤は、千鶴を庇おうと立ち上がったその時、
「私は一度も土方さんのお小姓であることを忘れたことはありません」
千鶴がきっぱりと答えた。背筋を伸ばしたまま斎藤の前に座った千鶴は、話しを続けた。
「沖田さんの紐付きになった覚えはございません。私の役目は、隊士さんの健康と衛生の管理です。山﨑さんがご不在の間、私には、隊士さんひとりひとり健やかに、清潔に暮らせるようにする責任がございます」
「隊士さんの耳かきをするなと仰るのは、不衛生のまま放置し管理を怠ることです。その命には従えません」
凛とした態度で土方の命に背く千鶴を、土方も斎藤も目を丸くしてみていた。土方は、それでもしばらく腕を組んで思案したあと、千鶴に改めて命令をした。
「総司の孫の手と梵天は没収だ。お前の膝を借りようと総司に金を払う輩が居たら、すぐに報せろ」
「斎藤、お前がそいつを捕まえて、俺の所に連れてこい。詮議はなしだ、その場で腹を切らせる。介錯はお前がしろ」
斎藤は、一瞬目を見開いたように見えたが、畳をみたまま「承知」と一言応えた。千鶴は動けなくなっていた。
*****
終章 梵天もどき
翌月になって、近藤が西国に出立した。近藤が不在の間は、土方が局長代理となり黒谷への軍議に出向くことが多くなった。屯所のある西本願寺の境内で、砲術の調練を行うようになり、幹部達は、巡察と調練に明け暮れ、忙しい毎日を過ごしていた。
斎藤が、朝の砲撃訓練の後に広間で昼餉をとっていた。千鶴は、斎藤が連日の暑さに負けることなく元気で居ることが嬉しかった。井戸から冷やしておいた黄桃を持ってきて、皮をむいて広間に持っていった。斎藤は、初物だと言って喜んで食べた。
「昨日、夕方に市場にいったら、傷物だからって二つ貰えて。お代もいいって。井戸に一晩入れておいたから、よく冷えています」
千鶴は、お盆の上に載せた桃の小皿を持って、土方と総司にも食べて貰うと言って広間を出ていった。斎藤が、部屋に戻ると文机に置き書きがおいてあった。
午後は非番です
耳のお掃除は如何でしょう
雪村
斎藤は、耳掃除のことをすっかり忘れていた。梵天騒ぎのあと、総司は竹道具を土方に没収された。総司の貼り紙を見た者が居たのかはわからない。だが、斎藤が知る限り、耳かきを持って千鶴の膝を借りようとする者は居なかった。総司と土方の諍いは、季節の暑さもありずっと尾を引いた。総司は、「孫と梵天の恨み」と言って悪態をつき続けた。斎藤は、土方の命は絶対、そう思って自分の耳を掻きたい時も千鶴に耳かきを頼まずに、ひたすら我慢し続けていた。
千鶴の置き書きを文箱にしまって、斎藤は部屋を出た。ちょうど千鶴が、廊下を台所から戻ってくるところだった。千鶴は、「斎藤さん」と言って駆けて来た。斎藤に時間があれば、耳掃除がしたいという。斎藤は、返答に困った。断ろう。そう思って口を開けようとすると。
「ちょうど、良い風が吹いてます。こちらで」
千鶴は、斎藤の手を引いて廊下の端の影になった所に横になるようにというと、袂から手拭いを出して床の上に敷いて、「ここに頭を載せて」と言って更に斎藤の手を引いて、横にならせた。そこは、ひんやりとした場所で、涼しく快適だった。
「道具を持って参ります」千鶴は、笑顔で部屋から小さな木箱を持って来た。そして、斎藤の頭の横に正座をして斎藤の頭を持ち上げると自分の膝の上に載せた。あっという間の出来事で、斎藤は、一瞬だが身じろいだ。
いかん。膝を借りてはいかん。
斎藤は肘をついて起き上がろうとしたが、もう既に千鶴の指は斎藤の髪の毛を優しく梳かして、耳をひっぱりながら、ふうっと息を吹きかけ始めた。斎藤は動けなくなった。耳かきで優しく掃除される。動けん、気持ちがよい。斎藤は、自然と瞼が閉じていった。
「沢山、垢がとれましたよ。お痒いとこはありませんか?」
千鶴の優しい声までが心地よい。斎藤は「ない」と答えた。ふわふわとした感触が耳の穴にあった。梵天か。再び、耳の中を掃除される。その後は、耳の外も優しく綿毛で撫でられた。千鶴は斎藤の肩を持って、反対を向かせると、「これ」と言って、手に持った道具を斎藤に見せた。
「わたし、作ったんです。真綿で」
千鶴が手に持っているのは、竹の耳かきの先に丸められた綿が巻いてあるものだっった。とても上等な真綿を大事にとってあったんです。すこしずつ重ねて巻いてあるので、綿毛と変わりません。そう言って、嬉しそうに斎藤に見せた。それから、ゆっくりと、左の耳の中を掃除した。涼しい風が吹いている。さっきまでの、調練の喧噪から離れて、こんな場所が屯所にあるとは・・・・・・。斎藤は完全に身体の力が抜けてしまっていた。千鶴の膝から良い匂いもする。斎藤は優しい心地よさの中に居た。
「この梵天、梵天もどきですが。掃除のたびに新しい綿に取り替えられて、清潔です」
千鶴は独り言のように静かに話している。
「土方さんに、沖田さんに竹道具を戻してもらうようにお願いしました」
「わたし、土方さんに耳掃除をしたんです。そうしたら、土方さん、梵天はいいもんだ、って笑ってらして」
「だが、お金をとるのはいけないって。貼り紙をしたら、耳掃除の列が出来る。収拾がつかなくなるのは目にみえているって」
斎藤はずっと千鶴の話を聞いていた。千鶴は、自分の非番の時に、どうしても掃除が必要な隊士さんのお掃除をする許可をもらったと言う。「お前は、ほんとうに強情なとんだ変わりもんだ」と土方は笑っていたらしい。
「非番は、月に一度は貰っているので、またその時にお掃除しますね」
千鶴は、起き上がって礼を言う斎藤に溢れるような笑顔でそう言うと、木箱を持って部屋に戻って行った。斎藤は、連日の疲れが一気に吹き飛んだような気持ちがした。短いひととき、全身の力を抜いて楽になった。
梵天と膝枕、
雪村の声と。
斎藤は微笑んだ。不思議なものだと思った。
境内には、休憩を終えた三番組隊士達が午後の巡察に出るために集まり始めていた。斎藤は、隊服に着替えると刀を持って表階段に向かっていった。蝉の声が煩く境内に響いていた。
了
(2018.05.10)