八郎の旅立ち

八郎の旅立ち

FRAGMENTS 20 春

 父親を送り出した千鶴は、リビングを片付けて洋菓子の箱を冷蔵庫から取り出した。そろそろ診療所にスタッフがきて、準備を始めている時間。いまの内にスタッフに渡しておけば、お昼の休憩時に食べて貰える。千鶴は渡り廊下のドアに手をかけた。その時、ドアの向こうに誰かが立っている影が映った。

「え、どういうこと?」
「そうなのよ、昨日交付がでて、大学病院は大騒ぎですって」
「米沢先生が来てくださるなら、伊庭先生もいるし」
「違うのよ、伊庭先生は……」
「ええっ」
「……が……ですって」
「うそ、嘘でしょ?」
「……なの。20日付けだって」
「え、それじゃ、先生がずっと来ていないのは」
「……懲戒処分ですって」
「……」
「うそでしょ。どうして、八郎先生が」
「医局人事だそうよ。でも変でしょ。そもそも、伊庭先生は医局には入っていらっしゃらないのに」
「あの事があったから? ねえ、陽子さん」
「わかんないのよ。転院の件だとしても……」
「じゃあ、八郎先生は、どこへ?」

 ドアの隙間から漏れ聞こえる声で、ナースの陽子とスタッフの高山が話をしていることがわかった。八郎兄さんになにかあった。千鶴は、思い切ってドアを押し開けた。ドアの向こうの二人は目を一瞬見開いたようになって黙ってしまった。

「おはようございます」
「おはようございます、千鶴さん」
「おはようございます」

 陽子も高山もその場を取り繕うように、廊下の道を空けて千鶴を通そうとした。

「ごめんなさい、今、陽子さんたちが話されていたこと、聞いてしまって」
「なにかあったんですか?」
「伊庭先生が診療所をお辞めになられるって、きいて……」

 千鶴は衝撃を受けた。八郎兄さんが、どうして。陽子は千鶴に心配そうな表情で頷いた。

「千鶴さん、綱道先生から何もきいていない?」
「八郎先生、研究センターを懲戒解雇になったそうよ」

 衝撃で目を見張る千鶴に、陽子が静かに話を続けた。

「昨日、私、大学病院に用があって。偶然、人事異動の交付掲示板の前を通ったの。そこに懲戒処分の開示報告があってね」
「新しい研究センターの主席研究員職から免職になったって」
「ここも辞めてしまわれるって聞いて、ショックで……」
とスタッフの高山が呟いた。千鶴は父親から何も聞かされていないと答えた。

「八郎先生は?」
「今日、診察を担当されるって」
「八郎先生がみえたら、教えてください」
「それと、これ頂きものですけど、よろしければ皆さんで召し上がってください」

 千鶴は洋菓子の箱をスタッフの高山に手渡し、急いで部屋に戻った。

 八郎兄さんが診療所を辞める……。研究センターの、確か主席研究員の中でも重要なポストに就くと聞いていた。父さまは八郎兄さんを一番頼りにしていた。なのに、どうして……。千鶴は、気が気ではなかった。急いで着替えて、直接兄さんに会って話をきこう。

*****

 スタッフの高山にインターフォンで診療所から呼ばれた千鶴は、急いで渡り廊下を走って行った。午前中の診療が長引いているという。暫く待っていると、ドアの内側から八郎が千鶴を診察室に招き入れた。

「久しぶりだね」

 千鶴に笑いかけた伊庭は、少し髪が伸び以前と違った様子に見えた。伊庭は、診察椅子に腰かけるように千鶴に促すと、千鶴の左手首をデスクに載せて脈をとり始めた。陽子に血圧計を持って来させ測定し、下瞼を確認して「少し貧血が残っているね」と呟いた。カルテにペンを走らせて、指で何かを数えている。その横顔は、いつもの優しい八郎兄さんだった。白衣を着て診察室に腰かけている姿は本当にいつもと変わらない。今朝、陽子から聞いた話は、嘘だったのではと思う。なにかの間違いで、これからも八郎兄さんはずっと診療所で患者さんを診てくれるはず。きっと。

「鉄剤はもう少し続けよう。前より改善してきている。手も暖かいし」
「少し寝不足かな」
「夜は眠れている?」

 千鶴は首を横に振った。心に沈む重たい影。こうしていても悲しい気分が降り積もっている。夜は特に。はじめさんのことを思い出して、はじめさんの言葉をひとつひとつ思い返して自分に言い聞かせている。

 かならず、きっと、かならず。

 朝の眩しい光も、暖かい春風も、道で出会う近所の人の笑顔も、どこか自分をすり抜けて行ってしまう。

「千鶴ちゃん?」
 伊庭の優しい声がきこえ、瞳を覗き込まれた。
「ごめんなさい、わたし、ぼんやりしちゃって」
「診察は終ったよ」
「あとで鉄剤をもらって、夜に一錠を飲むのを忘れずに」
「はい」
「この後は、家にいる?」
「はい」
「お昼を一緒にどう? 久しぶりに外で」
「はい」
「じゃあ、車で待っているよ」

 千鶴が診察室を出る時、既に伊庭は白衣を脱ぎ始めていた。千鶴は自宅に戻って、コートをはおり玄関の外に出た。駐車場では、伊庭が沢山の荷物を車のバックトランクに詰め込んでいた。
「先に乗っていて」
 と伊庭に言われて、千鶴は助手席に座った。フロントガラスから見える空は青く、久しぶりに家の外に出たと思った。毎朝、仕事に出掛ける父親に「今日は家に居なさい」と釘を刺される。それははじめさんに逢いに出掛けてはいけないということ。胸のあたりに冷たいものが溜まっていく。重い暗い悲しいもの。大きな深い渕みたいに。

 運転席のドアが開いて、伊庭が隣に座った。エンジンのかかる音。通りにでたところで、「少しかかるけど、美味しいランチを食べにいこう」と八郎は前を向いたまま云った。車はアスファルトの上を滑るように走っていく、内堀通を進み代官町出入口で高速にのった。あっという間に渋滞を抜けて、窓から見える風景が広がった。遠くに見える山の稜線。ずっとカーラジオからは、静かな音楽が流れている。千鶴は朝から八郎に訊きたかったことを頭の中で考えているが、隣で何も言わずに運転を続ける八郎に自分から切り出すことが出来ずにいた。

「思ったより道が空いていてよかった」
「お腹は空いている?」
「はい」
「ならいい」

 車は高速の出口をでて、中央道をずっと進み続けた。多摩霊園の駅が見えたところで、車は交差点を曲がって進む。

「霊園の桜。まだ早いね」

 千鶴は木々が連なる道をぼんやりと眺めた。

「ここに僕の母方の大叔父のお墓があってね。小さい時にお墓参りに来ていた」

 八郎はよく知った道のように車を走らせた。閑静な住宅街。車が停まると、「着いたよ」といって笑顔でドアを開けてくれた。敷石の続くアプローチの向こうに木の門が見えた。立派な日本家屋。八郎は千鶴の手を引いて最後の段差を上がると、大きな玄関にかかった暖簾をよけるように中に入って行った。
 薄暗い店内は大きな吹き抜けになっていた。天上に立派な梁が見えた。美しい土壁に格子の窓から入る光が当たっていた。土間の奥から「いらっしゃいませ」という声とともに、女性が奥のテーブルに案内してくれた。レンガで出来た立派な暖炉が傍にあった。席について、辺りを見回す千鶴に八郎は優しく微笑んで顎で向こうを見るように促した。土間の向こうには板の間と大きな囲炉裏が見えた。その向こうに畳敷きの和室も見える。何を見てもどこか懐かしい。

「この建屋は築150年。明治初期ごろだよ」

 八郎の声を聞きながら、千鶴は板の間の上り口や柱時計を眺めた。明治の頃のもの。テーブルに上にメニューが開かれていた。八郎は「定食でいいかな」と千鶴に尋ねた。千鶴は頷いた。八郎は慣れた様子でオーダーをすると、ゆったりと椅子の背もたれに身体を預けて思い切り伸びをした。大きく深呼吸するように息を吐き出すと笑顔をみせた。

「今朝はひっきりなしの診察だった」
「季節性感冒。ここのところ寒暖差があるからね」
「お疲れ様です、八郎兄さん」
「今朝、八郎兄さんが診療所を辞めちゃうって聞いて。本当なの?」
「ああ」
「今日で診察は最後だ。引継ぎも終わっている」
「どうして急に。研究センターも辞めたって」
「今朝陽子さんから聞いて、とってもびっくりした」
「転院のことが原因なの? 父さまは何も言っていなかった」
「違う。千鶴ちゃん、あれは転院でもなんでもない。患者の無茶な移動だ。医療的に何の根拠もなく誤送し、患者を危険な目に遭わせた。あってはならないことだ」

 八郎はきっぱりと断言した。その目は厳しい様子でさっきまでの優しい表情が消えていた。

「でも……」と千鶴は言葉が続かない。
「あの事と研究センターの人事はまったく関連ない」
「方針の相違だ。研究員として僕の目指す医療とセンターの方針に齟齬があった」
「……僕は頑固だから、どうしても従えない」
 八郎はテーブルの上で拳を握りしめている。千鶴は何も言えないでいた。
「心配させてしまったね。綱道先生ともよく話をしたんだ。十分に」
「父さまはなんて?」
「仕方がないと言っていたよ。先生が一番大変な立場にいる。センター立ち上げで、人事問題にまで関わるのは、先生も不本意だったと思う」
「診療所は? どうして診療所を辞めちゃうの?」
 千鶴が懇願するように尋ねたが、八郎は黙ったまま何も応えなかった。千鶴を見詰める瞳にはどこか寂しそうな影が射し、口元は仄かに口角が上がっているが、話を続ける様子はなかった。その時、店員がテーブルに食事を運始めたため、二人は話を中断した。
「頂こう」
 と八郎は千鶴を促した。二人で手を併せて食事を始めた。優しい味のお料理は野菜や食材の滋味に富んでいて、千鶴は感心しながら小鉢をひとつひとつ味わった。八郎は千鶴が美味しそうに食事を進めている様子をみて優しく微笑んでいる。今朝は青白く血色が悪い千鶴のことが心配だったが、食欲がある様子に安堵した。

「兄さん、お肉を食べて貰える? わたし、もうこれ以上は」
 と言って、千鶴は自分のお皿を八郎に差し出した。八郎は頷いて全てを平らげた。
「デザートはどうだい? ここのホットクは格別だよ」
「お腹いっぱいだけど、どうしよう」
 千鶴の瞳が輝いたのを見て、八郎はくすくすと笑っている。
「千鶴ちゃんはきっと好きだよ」
「僕が手伝ってあげよう」
 千鶴は嬉しそうに首を縦にふって笑った。店員に手を振って、追加でデザートとコーヒーを注文した。

 デザートを食べながら、八郎はスリランカのリトリート施設の食事の話をした。アーユルヴェーダに則った食生活が基本で、患者の症状を全体的にみてバランスをとるようにする。食材は庭や森の中に自然に育つ果物や野菜、木の実、ハーブを使う。とても豊かな森に山頂から流れる清涼な水。緩和と滋養療法のどちらにも最適だと話す。千鶴は大学の授業で習った通りアーユルヴェーダは医食同源なのだなと感心しながら聞いていた。

「僕の先生のいる森へ行くことにした。ホリスティックセラピーを実践する」
「僕が今一番やりたい事なんだ。診療所を辞めてスリランカに行くことにしたよ」

 千鶴は、手に持っていたカップをソーサーの上に置いた。やっぱり。心の中でそう思った。いつか診療所の机の上に飾ってあった写真を思い出す。褐色の肌に白髪の女性。顔には沢山の皺があって、美しいサリーを纏い何とも言えない優しい笑顔だった。八郎兄さんの先生。きっと目指すものが同じなのだろう。兄さんが決められたことなら、きっと。

 八郎も千鶴もその後は何も話さず、静かにコーヒーを飲んで過ごした。客足が落ち着いた店内で、お店の人に頼んで、奥座敷や中庭を見学させてもらった。古い調度品や美しい廊下。千鶴はずっと昔からこの建屋を知っていたような不思議な感覚のままレストランを後にした。

「ちょっと立ち寄りたいところがあるんだ」

 車を発進させた八郎は、そう言って来た道とは反対方向の道に出た。千鶴は、今日は夕方までに家に戻ればいいと答えた。住宅街を抜けて広い道に出たところで、前方に郷士の森公園の標識が見えた。府中体育館がある場所。いつもはじめさんが仕合に行っている。千鶴は車が大きな駐車場の入り口を通った時に、もう一度公園の名前を確かめた。運転席の八郎は、空車スペースを探して素早く駐車した。

「千鶴ちゃん」
 八郎はシートベルトを外して千鶴に呼びかけた。
「さっきの話だけど。本当は、もうひとつしたい事があるんだ」
 千鶴がシートベルトをとったのを見た八郎は、身体を千鶴に向けて一息つくように黙った。

「僕と一緒にスリランカに行って欲しい」
 千鶴は驚いたような表情で八郎の顔を見上げた。

「君を連れていきたい。それが一番僕のしたい事だ」
「あの森へ行けば、君はきっと元気になる。空気も水も全てが浄化してくれる」
「いい気に満ちた場所なんだ」
「毎日ゆったり散歩をしたり、泳いだり、自由に過ごせる」
「僕がついている」
「僕は君に自由に生きてほしい。千鶴ちゃん、君のしたい事をなんでも」
「誰にも邪魔はさせない」
「君を守りたい。僕なら出来る。どこまでも君をつれて行く」
 一気に話した八郎は、千鶴の手をとった。

「僕について来てほしい」

「誰にも奪われたくない。君のことが好きなんだ」

 深い緑の瞳が真っ直ぐに千鶴を見詰めている。千鶴は「八郎にいさん」と小さな声で応えた。緑の森。いつか夢でみた美しい場所。木洩れ日の中で、優しく八郎兄さんが笑っていた。車の窓から入る光がまぶしい。八郎兄さんの瞼が降りて顔が近づいてきた。突然のキス。驚く千鶴の顔を見て、八郎は唇を離した。引き込まれそうな深緑の双眸。ためらいがちに、もう一度顔が近づいた。千鶴は思わず首を横に向けてのけぞった。

 しばらくの沈黙の後、「ごめん」と呟く声が聞こえた。八郎の手を離した千鶴は首を窓に向けたまま首を横に振った。

「わたし、行けません」
「……スリランカには行けない……」
 千鶴の声は震えている。
「どこにも……行けない。行っちゃいけないの」
「ずっと家にいないと……いけないから」

 千鶴の瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。

「いけない……どんなに願っても……行っちゃいけないから」

「逢いたくても、あえない」

 千鶴の声は嗚咽に変った。両手で顔を覆って、さめざめと泣く千鶴の全身が震えている。八郎は千鶴を抱きしめた。

「逢いたいひとがいるんだね」
「あいたい、はじめさんに逢いたい」
「でも、だめなの……兄さん、会ってはいけないの」
「くるしくて、どうしようもないの」

 千鶴は声を上げて泣いた。八郎は千鶴の髪を優しく撫でた。小さな頃と変わらない。なんでも我慢をしてしまう。

「我慢しなくていいんだよ」
「逢いたい人がいるなら、会いにいこう」
「僕がついている、千鶴ちゃん」

 ひとしきり泣いた千鶴は、ようやく落ち着いて車から降りることが出来た。暖かいそよ風が吹いている。「おいで」と云われて、千鶴は顔をあげた。駐車場から公園の中に入っていくと、大きな建屋が見えた。

「今、向かっています」
「正面玄関に。はい」

 八郎はスマートフォンで誰かと話している。千鶴は辺りを見回した。

「こっちだよ」

 八郎が手招く方に歩いていくと、階段の上のエントランスに斎藤が立っていた。剣道防具一式を足元に置いている。

「待ち合わせたんだ」と八郎が千鶴に語り掛けながら、斎藤に手を振った。斎藤は丁寧に会釈をしている。千鶴は驚いた。また涙が溢れてくる。

「涙をふいて、さあ」

 八郎が千鶴の背中を押した。千鶴は階段を上がって行った。最初はゆっくりと、だんだん駆け上がるように、そして斎藤の腕の中に飛び込んだ。しっかりと両手で千鶴を抱きしめた斎藤は、すすり泣く千鶴の髪を優しく撫でた。階段の下で、八郎は笑顔で二人を見詰めていたが、斎藤が会釈をすると、「じゃあ」と声をかけて手を振った。光の中にゆっくりと歩いていく八郎の背中を斎藤は見ていた。

「八郎兄さんは?」

 暫くして泣き止んだ千鶴が顔をあげて呟いた。

「帰ってしまわれたみたいだ」

 千鶴は、階段のところまで走っていき八郎の姿を探したが見つからなかった。背後から斎藤が千鶴の手をとった。

「兄さんが連れてきてくれたの。はじめさんが今日府中に来ているって知らなくて」
「伊庭先生は、千鶴を送ったら帰ると云っていた」
千鶴は振り返って斎藤の顔を見た。
「連絡していなくて、悪かった」
「道場の武田さんから剣友会の仕合に誘ってもらえた」
「仕合はこれから?」
「朝の内に終わった。二試合とも勝った」
「おめでとう。まだ仕合は続くの?」
「いや、もう今日はしまいだ」
「これから稽古?」
斎藤は首を横に振った。
「どこにも用はない。千鶴に逢いたいと思っていた」
「わたしも」

 再び二人で抱きしめ合った。嬉しい。斎藤が父親の綱道と会った日曜日から、もう何日も会えていなかった。外出を禁じられてから、連絡も途絶えたままで。気分が塞ぎこんでいた。こうして陽の光の中に二人で居られるのが嬉しい。斎藤は防具を肩から背負って、千鶴の手を引いて歩きだした。電車で帰ろうと云って、公園からバスに乗った。車中でも話が尽きない。新宿から地下鉄に乗り換えて、駅前のカフェに立ち寄った。それから自宅まで斎藤が送ってくれた。名残を惜しみながら、繋いでいた手をゆっくりと離して門の中に入った。家の玄関は静かで、誰も帰っている様子はない。千鶴はほっとした。

「ただいま」

 ガランとした上り口でひとり靴を脱いでいると、突然廊下のドアが開いた音がした。

「千鶴さん?」
ナースの陽子の声がした。
「よかった。戻ってきて」
「大変なの、綱道先生が倒れてしまわれて」
「研究センターの救急外来に運ばれたって」

 千鶴は言葉がでてこない。父さまが……。今朝は食欲がないといって、食事をとらずに出て行った。殆ど何も言葉を交わさないまま。千鶴は、慌てて脱いだ靴をまた履いて、玄関のドアに手をかけた。

「千鶴さん、大丈夫?」
 陽子が心配そうな顔で一緒に外に出て来た。
「タクシー呼んであげる。もう今日は米沢先生も帰ってしまわれたから」

 動揺する千鶴を落ち着かせるように、陽子は病院側の玄関先で待つようにと言って電話を掛けに診療所の中に戻っていった。千鶴は渡り廊下の外側を壁伝いにでて診療所の玄関にまわった。すぐにタクシーが到着して、研究センター病院に向かうことができた。

 タクシーの中で、陽子から何度も着信履歴があったことがわかった。時刻は午後三時過ぎ。ちょうど食事を終えて府中体育館に向かっていた頃。父さまは研究センターで倒れ、そのまま病院に運ばれた。陽子さんも詳しいことは判らないと言っていた。父さま。千鶴は、病院に到着すると、急いで救急外来病棟に走っていった。

 雪村鋼道は病室で眠っていた。モニターで心音がとられている。ナースに呼ばれて、主治医と話しができた。

「少し狭心症の症状がでているので心電図とエコーをとりました」
「命には別状はありません。暫く安静にしていればよくなるでしょう」
という主治医の言葉に、千鶴は安堵の息を漏らした。

「冠動脈を拡張させる薬を点滴で与えています」
「モニターしながら、投薬を経口に切り替えていきます」
「先生、父は食欲も落ちてしまっていて、心臓の他にもどこか悪いところはないのでしょうか?」
「全体を見ました。循環器系ですね。雪村先生は以前からカルシウム拮抗薬を服用されている」
「父はどこか悪いのでしょうか?」
「検査の結果、心筋梗塞の心配はありません。疲れやストレスが原因で血流が滞ってしまうことがあります。拮抗薬は冠動脈を広げる薬です」
「カルシウム拮抗薬は極めて一般的な薬で、副作用も少ない。それに、先生の症状は安定している」

 父親のカルテを見ながら話す主治医に、千鶴は突然倒れた原因を訊ねた。

「おそらく過労でしょう」
「食欲減退はゆっくり療養すれば改善します」
「しばらく入院してください。入院の手続きはナースから説明があります」

 千鶴は隣の部屋でナースから入院手続きの説明を受けて、総合受付のあるフロアーで手続きを済ませた。診療所に電話をすると、ナース長の陽子が出た。父親の容態が安定していることを伝え、暫く入院することになると云った。このまま父に付き添う為、自宅の戸締りを陽子に頼んだ。

 病室に戻ると、父親のベッドの傍らに風間千景が立って居た。スーツ姿で、千鶴が部屋に入ると、脇に寄って軽く頭を動かし傍に来るようにと云った。千鶴は父親に近づき、布団の上に置かれた手を握った。父親はずっと静かに眠ったままだった。

「先生が倒れた時、偶然俺が居合わせた」
「打ち合わせ前に確認がしたいと書類を取りに部屋に戻ろうとしたところを、胸を押えて倒れた」
「無理がたたったのだろう。ゆっくりと療養して貰いたい」
「先生が気に留められている事は俺が全て解決する」
「そう伝えてくれ」

 千鶴は振り返って「はい」と返事をした。

「何か必要なものはないか? 食事は済ませたのか」
 風間は優しく尋ねる。千鶴は何も応えなかった。
「病室に食事を用意させよう。必要なものは俺に連絡をくれれば、全て用意する」
 千鶴は立ち上がって、深く頭を下げた。
「父を助けてくださって、ありがとうございます」
「遠慮はいらぬ。俺も今夜はセンターの事務室にいる」
 風間は千鶴の手をとり、掌にスマートフォンを載せた。
「これを使え。必要な連絡先が登録してある」

 風間は静かに部屋を出て行った。真新しい最新型のスマートフォン。薄いメタリックピンク。千鶴は付き添い用の簡易ベッドのそばのテーブルに端末を置いた。父親は目覚める様子はない。鞄から自分のスマートフォンを取り出した。斎藤からメッセージが入っていた。

 伊庭先生に今日の礼を伝えた。
 先生は明後日のフライトで日本を発つそうだ。
 空港まで一緒に見送りに行こう。

 ——明後日、そんなに早く。

 千鶴は斎藤に返信した。

 はじめさん、八郎兄さんがそんなに早く行ってしまうなんて。
 父さまの具合が悪くて暫く入院することになって。
 今夜は付き添って病院に泊ることにしました。
 明日、また連絡します。

 わかった。面会が可能ならお見舞いに行きたい。
 千鶴の体調も心配だ。
 無理はせず、ゆっくり休んだほうがいい。
 返事はいい。
 明日、俺から連絡する。

 ありがとう。おやすみなさい。
 今日は逢えてうれしかった。

 俺もだ。
 おやすみ。

 千鶴はスマートフォンを抱きしめるように胸にあてて、父親のベッドに凭れ掛かりながら、目を瞑った。そして、心に溢れかえる想いを抑えることはやめてしまおうと強く思った。

つづく

→次話 FRAGMENTS 21

(2022/06/16)

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