接近禁止令

接近禁止令

FRAGMENTS 21 春

 雪村鋼道は翌朝に目覚めた。一晩中付き添い続けた千鶴は、急ぎナースコールで父親の意識が戻った事を伝えた。綱道はまだ意識が完全に戻っては居ない様子で病室を見回し、千鶴に微笑みかけた。

「……母さんの夢をみていた」

 少し掠れた声。千鶴は父親の手を握り、顔を父親の口元に近づけて何を話しているのか聞き取ろうとした。

「父さま、気分はどう?」
「大丈夫だ。わたしはどれぐらい眠っていた?」
「昨日の午後から。一晩ぐっすり」
「いま、ナースさんが来るから」
「父さま、喉は乾いていない?」

 父親は頷いた。千鶴は水を用意しようと立ち上がった。棚の中から吸い飲みを取り出し、ペットボトルの水を注いだ。綱道は再びゆっくりと瞼を閉じて、枕に頭を預けた。
「父さま」
 千鶴は優しく呼びかけて、父親に水を飲ませた。一口、二口、問題なく水分をとることが出来ている。千鶴は安堵した。タオルで口元を拭うと、綱道は再び目を閉じた。間もなくナースが診察ワゴンを押して部屋に入ってきた。検温や血圧、点滴を確認した後、すぐに主治医が入れ替わりにやって来て、容態を確認した。

「しばらく、亜硝酸アミルを続けます」
「安静にしていれば、よくおなりになるでしょう」
「食欲はありますか?」
 綱道が頷いた。
「すぐに用意させましょう」

 主治医はてきぱきとナースに指示をして部屋を出て行った。千鶴がベッドまわりを整えていると、ナースが朝食を運んできた。五分がゆ、野菜の煮物、ヨーグルト。消化しやすいものばかり。千鶴が綱道の口に運んで食べさせた。半分しか進まなかったが、綱道は満足している様子だった。主治医の説明では、安定剤を投与しているため眠りやすいということだった。再び瞼がゆっくりと落ちていき綱道は眠り始めたようだった。千鶴はナースステーションで着替えとタオルのセットを受け取った。廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。振り返ると、そこに風間千景が立っていた。

「主治医と話をした。容態は安定しているようだな」
 千鶴は会釈をするように頷くと、そのまま「失礼します」といって踵を返した。
「部屋に案内しよう」
 風間は千鶴の腕を引くように廊下の角を曲がって、スタッフ用のエレベーターのドアを開いた。
「父の所に戻りたいので」
「ナースに付き添うように頼んでおいた」
 風間は強引に千鶴をエレベーターにのせると、階上に向かい南側の棟の部屋に案内した。柔らかい色合いの壁紙、ベッドとテーブル、カウチ、壁側にデスクもあった。風間は、もう一つのドアを開けて中を見せた。小さなキッチン。冷蔵庫とオーブンレンジが置いてあるのが見えた。
「患者の家族用の部屋だ。ここを使うとよい」
 風間はデスクの上にあるタブレットを手に取ると、画面をスワイプした。
「必要なものは、ここで全て揃うようになっている」
 画面にはオンラインショップのカタログが開き、食材から日常品、雑貨まで注文ができるようになっている。
「朝食は済ませたか?」
「はい、さっきナースさんが。半分だけですが、少し進んで」
「綱道先生のことではない」
 風間はふっと声をたてて笑った。千鶴の正面に立って見下ろすように「まだのようだな」と呟いた。そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、電話を掛けた。
「ああ、モーニングを頼む」
 風間はスマートフォンを顔から離すと、千鶴に尋ねた。
「玉子は、何が好みだ?」
「たまご……ですか?」
「スクランブルか」
 千鶴が何も答えられないでいると、風間は再びスマートフォンに話かけた。
「ウフブルイエ、ああ、いつものでよい」
「すぐに頼む」
「15階南棟1号室だ」
 風間はスマートフォンで注文し終えると、再びどこかに電話をかけた。
「雪村先生の様子はどうだ。そうか、わかった」
「家族はいま15階の部屋にいる。なにかあればこちらへ連絡を」
 風間はスマートフォンから顔を離すと、
「ナース長と話している、先生は眠っているそうだ。何か訊きたいことはあるか?」
「着替えをさせたいので、すぐに戻ると伝えてください」
 風間は再びナース長と話をしながら、窓辺に歩いていきカーテンを開いた。眩しい光が差し込んで部屋は明るくなった。
「わかった。目覚めたら、この番号に電話をくれればいい」
 電話を切った風間は暫く、窓から外を眺めていた。千鶴は手に持っていたタブレット端末を机に戻し、テーブルの上に置いたままの父親の着替えとタオルを丁寧に畳んで手に持った。
「朝食をここへ運ばせる。先生が目覚めるまでゆっくりしていればよい」
 風間は千鶴に背中を向けたまま窓に向かってそう云うと、再び電話を誰かに掛けた。仕事の話なのか、何かを指示しているようにずっと話を続けている。千鶴は手持ち無沙汰だった。階下の父親の傍に行きたいが、風間は通話中で部屋から出るとことを伝えられない。結局、千鶴は、台所の中に入ってキッチンの設備を確認することにした。食器やキッチンリネン、全てが揃っている。父さまの入院が長引くなら、付き添う間はこの部屋を利用させてもらうことが叶うのだろうか。

「南棟はすべて患者の家族が生活できる施設だ」
「患者と物理的に離れることがない。学校、商業施設、必要なものは全て揃っている」
「難病患者が通える公立学校も敷地内にある」
「調度品はどうだ。必要なものがあれば用意する。遠慮せず云え」

 風間は千鶴の手を引いて、バスルームやクローゼットのドアを開いて部屋を全て見せた。こんなに行き届いた場所があるのだろうか。患者と家族が病院の中で一緒に生活が出来る環境。闘病しながら、幼稚園や学校に通うことが出来る。家族が入院中でも離れ離れになることがない。理想的な医療施設。

 その時、ドアフォンの音がした。「失礼いたします」という声とともに、ドアが開いて黒服を着た男性が美しい黄金のワゴンを押して入室してきた。シェフの制服を着た男性と二人で、テーブルに薄緑色のテーブルクロスを敷くと、ワゴンから食事を運んで並べていく。部屋の中が美味しそうな朝食の香りで充満している。黒服の男に椅子を引かれて、千鶴は席についた。風間も一緒に椅子に座ると、黒服を着た男性とシェフは「ごゆっくりお楽しみください」と丁寧に挨拶をして下がっていった。

「何を飲む?」
 風間は、ワゴンの上のドリンクを選ぶようにと云ってグラスを手にとった。
「ミルクでいいのか」
 と、云ってピッチャーから注いで千鶴に手渡す。千鶴は戸惑った。風間は自分のグラスに水を注いでいる。じっと動かずにいる千鶴に、「どうした。食欲がないのか」と訝りながら、風間はナプキンを広げて膝にのせた。千鶴は、首を横にふりながら、慌てて自分もナプキンを広げた。風間は手を伸ばして、千鶴の皿の覆いを取った。そして、自分の皿も準備してシルバーを手に取って食べ始めた。美味しそうな玉子料理。ふわふわのスクランブルに、これはなにかしら。美味しそうな玉ねぎがたっぷり入ったブラウンソース。この味。羊のひき肉。濃厚だけど玉子と合う。千鶴が感心していると、風間がパンの入ったバスケットを千鶴に差し出した。温かくてとても良い香りのする焼きたてのバゲット。

 風間は千鶴が食べている姿を微笑みながら眺めている。同時に美しい所作でサラダや付け合わせを味わい、千鶴のグラスに水を注ぎ、皿を片付けていく。

「食後は紅茶か?」
「あの、わたしがやります」

 千鶴は席から立ち上がって、ワゴンの傍に来ると、紅茶の用意をして風間に差し出した。風間は千鶴が席に戻るのを待って、一緒に紅茶を飲んだ。

「昨夜は休めていないのだろう。先生が目覚めるまで、ここで休んでおればいい」
「テーブルは片付けさせる」

 風間はスマートフォンをとって、テーブルを片付けるようにと連絡した。そして、別の誰かに電話をかけて、仕事の指示をし始めた。千鶴は食べ終わった食器をワゴンに戻しておいた。ドアフォンが鳴った。ドア口に出ると食事を下げに来たと云って、さっきの黒服の男が丁寧な所作でテーブルを片付けた。

「俺は事務所に戻る。昨日渡したスマホを持っているか?」

 風間が上着を着直しながら千鶴に尋ねた。千鶴はバッグの中から風間から貰ったピンク色の端末を取り出した。風間はそれを手にとると、「なんだ、電源を切ってあったのか」と不満そうな声を漏らした。手の中で操作をすると、千鶴に渡した。スマートフォンの画面には、風間の番号とナースステーションの電話番号が表示されていた。風間は部屋の鍵を千鶴の掌に載せた。

「横になって休んでいればいい。先生が目覚めると連絡が入るようになっている」
「風間さん、ありがとうございます」
 千鶴はドア口に向かっていく風間に頭を下げた。
「いろいろとお世話をおかけして、すみません」
「当たり前のことだ。礼にはおよばぬ」
「顔色がよくない。ゆっくり休め」
 風間はそう言って、ドアを開けて出て行った。

 千鶴はカウチに腰かけ溜息をついた。明るい陽射しが入る部屋は静かで、昨日からの緊張がやっと解けたように感じた。手に持っていた風間のスマートフォンをテーブルの上に置き、バッグから自分の端末を取り出した。斎藤からlineが入っていた。

 おはよう。雪村先生の容態はどうだ?
 午前中のバイトが終わったら連絡する。

 千鶴は返信を打った。

 はじめさん、おはよう。
 父さまは今朝目覚めて、容態は安定しています。
 お医者さまはしばらく安静が必要だって。
 今日も父の病院にいます。
 連絡ください。

 千鶴はそのままカウチで横になって、うとうとと寝入っていた。テーブルの上のピンクのスマートフォンの着信音で目覚めた。慌てて電話にでると、ナースステーションから父親が病室で千鶴の事を呼んでいるという連絡だった。千鶴は着替えを持って階下に降りていった。

*****

 病室で綱道は眠っていた。ナースが、「さっき一度目を覚ましてお嬢さんの事を呼んでいました。また暫くしたら目が覚めるでしょう」と云って部屋から出て行った。千鶴はベッドの傍に腰かけて、父親の手を握った。暖かい。病室は窓のブラインドの間から明るい光が射しこんでいた。千鶴は安心感から、ベッドに伏せるように父親の手を握ったままうとうとと寝入っていった。

「千鶴」

 父親の声がして目覚めた。窓の光が逆行のようになって、父親が頭を起こして自分に呼びかけている。千鶴は身体を起こして目をこすった。

「父さま、眼が覚めたのね」
「……母さんの夢をみていた」
「母さんがお茶をたててくれていた」
「母さまが?」
「ああ、いつものように……」

「父さま、喉が渇いていない?」

 千鶴はベッドのサイドテーブルの上の吸い飲みを手にとった。父親はゆっくりと水を飲むと、ふうっと息を吐き出すように、頭を枕の上に戻した。

「何か、欲しいものはない?」
 千鶴が顔を覗きこむと、綱道はゆっくりと頷いた。
「父さま、お着替えを用意したの。身体を拭いて寝間着を着替えましょうか?」

 綱道があとでよいと応えたので、千鶴はそのまま椅子に腰かけた。

「母さんが部屋にいると思ったよ」
「そこで、お茶をたててくれていた」

 父親はとつとつと話をした。どうも、夢の中で母様がお茶をたてていたらしく、嬉しそうに壁側につけてある移動式のテーブルを眺めている。

「父さま、お茶を飲みたい?」
「わたし用意してくる。父さまのお茶碗と野点を」

 綱道はゆっくりと頷き嬉しそうに微笑むと、「頼めるかい」と言った。千鶴は「はい」と云って、鞄を持って立ち上がった。

「とうさま、一度家に行って、また直ぐに戻ります」

 綱道はゆっくりと頷いた。そして、再び眠るように目を閉じた。千鶴は、ナースステーションに自宅に荷物を取りに戻ると伝えて病院の玄関に向かった。エントランスホールを歩いていると、天霧に声を掛けられた。千鶴は会釈をして挨拶した。

「どちらへ行かれるのですか?」
「自宅へ。必要なものを取りに帰ります」
「それでしたら、車をお出ししましょう」
「いえ、タクシーを使えば済む事ですから」
「ご遠慮なさらず。エントランスでお待ちください。今すぐ車をまわします」

 天霧は踵をかえすようにエレベーターに向かって足早に歩いて行った。千鶴は言われた通りに玄関の外で待っていると、間もなくリムジンが目の前に停まり、中から天霧が出てドアを開けてくれた。

「ありがとうございます」

 千鶴が礼を云うと、天霧はドアを閉めて運転席にまわり、車はゆっくりと病院のエントランスを後にした。自宅は変わりなく、千鶴は野点のセットと自分の着替えや泊まりの準備をボストンバッグに入れて、診療所に向かいスタッフに声を掛けた。そして、自宅の前で待つ天霧の車に再び乗ると、天霧は車を走らせ病院に戻った。

「ありがとうございます。父の容態は安定していて、数日こちらで療養することになりそうです」
「そうですか。千鶴様、なにか必要なものがあれば、いつでもわたしに御言いつけください」
「ありがとうございます。風間さんにも大変お世話になっています。父の容態は安定しておりますとお伝えください」
「わかりました。それではわたしはこちらで失礼いたします」

 天霧は丁寧に会釈をして、千鶴と階下で別れた。

*****

「とうさま、お茶をたてました」

 新しい寝間着に着替えた綱道は、ベッドの上で少し身体を起こして座っていた。千鶴は簡易テーブルの上に懐紙の上にのせた落雁と、薄茶のたてた茶碗を丁寧な所作で置いた。

「ありがとう」

 父親は、点滴の管を庇うように茶碗を手に取ってゆっくりとお茶を飲み干した。

「ああ、美味しい」

 満足そうに微笑んでいる。千鶴は椅子に座って父親が落雁を口に運ぶ様子を見ていた。

「母さんはいつも父さんにお茶をたててくれた」
「父さんに一服するようにといってね」
「根を詰めすぎては駄目だと……」

 父親は微笑みながら話を続けた。

「父さんは研究のことばかり考えていて、母さんに心配をかけたものだ」
「母さんは自分の身体のことより、いつも父さんのことやお前のことを気にかけていた……」
「最期まで……」

「母様はきっと天国で見守ってくれています」
「父さまが元気になるように」
「そうだね」

 父親は微笑んだ。そして、千鶴がお茶碗を片付けるのを眺めながら、「母さんが亡くなった時、ホスピスケアができなかった」と呟いた。

 ——母さんは家に帰りたがっていた。お前と家で暮らしながら最期を迎えたいと。

「父さんは母さんの望みを叶えてあげられなかった。あらゆる手立てをしたい。病院でできることは全て。一秒でも長く、一瞬でも」

 父親の話を聞いて千鶴は衝撃を受けた。母親が亡くなった前後の出来事を、父親から聞いたことがなかった。千鶴は病院で入院している母親の姿は薄っすらとしか覚えていない。母親が亡くなった時のことは頭の中に薄もやがかかったような、気がつくと家に母親の姿がなく、とても寂しくて泣いていた記憶がある。優しい母さま。難病の血液疾患で亡くなった。

「母さんと同じ病気で千景くんの母親も亡くなった」
「今のような研究が進んでいれば、二人とも助かったはずだ」

 千鶴は驚いた。風間さんのお母様も難治の血液疾患で……。

「千景くんは中学生だった。余程悔しかったのだろう。私の医務室を訪ねて、病を撲滅するにはどうすればいいのか教えて欲しいと言ってきてね」
「それからだ。わたしの研究を一緒に手伝うと決心したのは」
「……医学を志すのかと思っていた」
「優秀な千景くんならどこでも進めただろう。だが、彼は宗家も継ぎながら、経済学を修めビジネスで成功し、莫大な資金を投じた」
「難治治療の研究のために。彼の目的は母さんのように苦しむ患者やその家族を助けることだ」
「千景くんは非常に大きな志を持っている。立派な青年だ」
「研究センター設立は父さんにとっても千景君にとっても特別なことなのだよ」
「あともう少し。もう少しで実現する」
「父さんはこんな風に寝てばかりは居られない」
「千鶴、千景君を呼んできてくれないか。病室で寝たままで申し訳ないが、どうしても話したいことがある」

 千鶴は父親の急な頼みにどうしようかと思った。研究センター設立に風間さんがそんなに以前から関わっていたことを千鶴は初めて知った。父さまと同じように、大切な家族を亡くして、病がこの世から無くなることを望み、ひたすら努力してきた。千鶴は鞄からピンクのスマートフォンを取り出して、風間に電話をかけた。

「風間さん、雪村です」
「父が、風間さんに」と千鶴が言いかけたところで、電話の向こうの風間が遮った。
「今、事務所だ。先生の様子はどうだ?」
「安定しています。風間さんに会いたいと言っています」
「わかった。今すぐ向かう」

 直ぐに電話は切れた。千鶴はテーブルを片付け、ベッドまわりを整理した。間もなく、風間が病室に入ってきた。

「おはよう。お世話をかけているね」

 父親は自ら身体を起こし、笑顔で挨拶した。風間は、「どうかそのままで」と言って、ベッド脇に立つと、リクライニングのスイッチを押して綱道が身体を起こせるように手伝った。

「主治医から容態について、説明を受けています。養生なさってください」
「ありがとう。もうすっかり良くなった」
「あれを持ってきてもらおうと思ってね」
「書類のことでしたら、手配は済んでいます」

 風間と父親は仕事の話をしているようだった。千鶴はしばらくテーブルの傍に立っていたが、風間が千鶴にも席につくようにと手を差し伸べてきたので、首を横に振って断った。

「お茶を煎れてきます」

 棚からお盆と湯呑みを出して、廊下に出た千鶴はそのまま給油室に向かった。

*****

 風間と父親が面会をしている間に、千鶴は自宅から持ってきた荷物を整理するために15階の部屋に戻った。父親の着替えと自分の着替え、洗面道具、春休み中に読もうと思っていた本やノートブックを取り出してデスクの上に置いた。その時、鞄からスマホの着信音がした。斎藤からのLine。

 今バイト先を出た。そっちに向かっている。
 十二時半ごろ着く。

 バイトお疲れさま。
 父さまの病棟は13階A棟10号室。
 病院に着いたら連絡ください。

 斎藤から「わかった」と返信があった。千鶴は父親の病室に戻り、昼食が配られたので父親が食事をするのを介助した。風間は既に病室から立ち去ったようだった。斎藤から病院に着いたと連絡があり、階下に降りていくと、エントランスが騒然としていた。誰かが大きな声を出している。千鶴が近づくと、警備員が二人で両手を広げている。千鶴は斎藤が警備員に肩を押されてドアから引きずりだされる姿を見た。

「はじめさん」

 千鶴の声が響く。駆け寄った千鶴に気付いた斎藤は、落とした荷物を地面から拾い再び玄関に向かった。エントランスのドア口で再び警備員ともみ合いになった。

「これ以上接近すると、警察を呼びますよ」
「どういうことだ」

 斎藤の憤った声。千鶴も一緒になって「どうしてですか」と訊ねた。警備員は胸ポケットから畳んだ書類のようなものを取り出した。拡げて見せた表紙には「厳重注意リスト」と書いてある。

「斎藤一さんですね。一か月前に無断で当院に侵入した」
「あなたは施設内に入ることはできません」

 警備員は乱暴な様子で書類を開くと、斎藤の顔写真と経歴が載っている場所を千鶴に見せた。接近禁止人物と書かれてある。一体、どうしてこんなことが。千鶴は衝撃を受けた。斎藤は、その書類を見て応えた。

「院内に用がある。入院している知り合いに面会に来た」

 静かな声だが、斎藤の両目の光は厳しく、相手を下から睨むような視線で「通してもらいたい」と言った。千鶴も斎藤の隣に並んで頷いた。

「すみません。わたしは雪村鋼道の宅のものです。父は研究センターの責任者です。いま父は入院をしていて、この方は父に面会するために来たのです。ここを通してください。こんなことをされては困ります」

 千鶴は屹然とした態度で抗議した。

「何用だ」

 そこに斎藤の背後から、風間千景が現れた。

「何を騒がしくしている?」

 警備員が風間に気付くと、一礼をして答えた。

「当院に立ち入り禁止の方が来たので、お引き取り願っていたところです」

 風間は斎藤を一瞥した。

「ご苦労。引き続きよろしく頼む」
「はい」

 警備員は風間に直立不動で応えると、深々と頭を下げた。風間は千鶴に「中へ入るぞ。昼食を用意させた」と声をかけ、千鶴の手を強引に引いて斎藤から引き離した。完全に斎藤の存在を無視しているかのような態度。斎藤は千鶴を引き留めようと一歩前に出たが、再び警備員が二人がかりでそれを遮った。

「はじめさん」
 千鶴の叫ぶような声が響いた。風間の手を振りほどいた千鶴は、斎藤に駆け寄った。
「どこへ行く?」
 風間が苛立ちながら尋ねた。
「病院に入ることが出来ないので、外に行きます」
 千鶴は風間を睨み返すと、警備員の前に立った。

「あなたのお名前を教えてください。警備室の方ですね」

 警備員は頷いたまま黙っている。千鶴は男の胸についている名札を確かめた。もう一人の警備員の名前も確認した。

「お二人の責任者に後ほど会いに行きます。このような事は絶対に起きてはならないことです」

 千鶴は震える声でそう言うと、踵を返すように斎藤の腕を引いて通りに向かって歩いて行った。

****

「ごめんなさい」

 病院の敷地を出た所で、斎藤に謝った千鶴は、両手で顔を覆ったまま泣いている。

「千鶴が謝ることはない」

 優しく腕の中で抱きしめられた千鶴は、斎藤の大きな手が自分の頭や背中をなだめるように撫でているのを感じた。温かい手。ショックを受けた心が少し和らいでいく。

「お父さんの具合はどうだ?」
「良くなっている。意識もしっかりしているし。さっきもお昼をしっかり食べて」

 千鶴は鼻をすすりながら答えた。

「お医者様は養生していれば、良くなるって」
 千鶴は顔をあげて、無理に笑顔を作ってみせた。
「良かった」
 斎藤は優しく微笑み、千鶴は頷いた。
「病院に入れないのは残念だ。騒ぎを起こしてすまなかった」
 千鶴は首を横に振った。また泣きだしそうな表情で俯いている。斎藤は千鶴の肩を抱いた。
「また日を改めてお見舞いに伺う」
「はじめさん、お昼は?」
「まだだ」
「わたしもまだなの。近くで食べよう」
「ああ」

 二人でカフェに入り窓辺の席に座って軽いランチをとった。斎藤は午後二時から稽古だという。

「今日は稽古の前に総司とZoomで話をする。大会は順当に勝ち進んでいるらしい」
「Zoomで?」
「ああ、平助がパソコンを持ち込んで、いつも夕方に総司に連絡をとっている」
「沖田先輩、向こうにはもう慣れたって?」
「ああ、水を得た魚のようだ」
「先輩らしい。わたしも先輩とお話したい」
「Zoomなら病院からでもスマホで出来る」
 と斎藤が言うと、千鶴は嬉しそうに頷いた。千鶴はカフェで斎藤と別れた。斎藤からお見舞いの菓子折りを受け取った千鶴は、そのまま病院に戻り警備室に向かった。

*****

警備室で

「こちらの責任者ですが」

 三十分待たされた千鶴の前に現われたのは天霧九寿だった。いつものスーツ姿で、千鶴の姿を見て一瞬驚いたような表情をした後、深々と頭を下げた。千鶴はエントランスの騒動を天霧に説明し、警備員の名前と厳重注意者リストに斎藤が載っていて、院内への立ち入りが禁止されていることがおかしいと訴えた。

「一か月前に斎藤さんは、無断で入院病棟に侵入し、入院患者を連れ去りました。その際、エレベーターホールで止めに入った風間に真剣を振り回して威嚇しました。全て、院内の監視カメラにその様子が写っていました」
「病院側は被害届を警察に提出しようとしましたが、風間は院内の警備を厳重にすることで対応すればよいと言って、今に至っています」
「当院内に接近禁止令がでているのは、伊庭八郎元医師も同様です」

 千鶴は、天霧が伊庭八郎のことを「元医師」と強調するかのように呼ぶ事に驚いた。八郎兄さんが言っていた事と違うと千鶴は強く思った。

 ——僕が研究所を辞めることと転院騒動とは全く関連はない。

 違う。八郎兄さんはあの事があったから懲戒処分になった。わたしを連れ戻すために、はじめさんも。わたしを助けようとして……。

「接近禁止のリストから……はじめさんを外してください」
「伊庭先生も外してください。お願いします」
「わたしが悪いんです。私が病気になったから」
 千鶴の手は震えている。
「あの二人は悪くありません。熱を出した私が……ふたりとも私のために」
「お願いします。どうか……」

「警備強化方針については、院内会議で決定していることです」
「ご要望は伝えます」
「……伝えるのは、風間さんに?」
「それなら、風間さんに……直接会ってお願いします」

 千鶴は震える手で鞄からスマートフォンを取り出した。「風間プライベート」の文字が画面に浮かんで見えた。

「風間さんですか、雪村です。警備室に来ています」
「お願いします。斎藤一さんと伊庭先生の接近禁止を取りやめてください」
「今すぐに、取り下げてください」
「父に、父のお見舞いに来てくれた人を追い返すなんて……、酷過ぎます」
「お願いします。取り下げてください」

 千鶴の激昂する声に、天霧は驚いた。直後に千鶴は身体の均衡を崩し、床に倒れた。

 ピンクのスマートフォンが床に落ちてガラスが割れるような音がした。

つづく

→次話 FRAGMENTS 22


(2022/07/17)

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