鬼火 壱

鬼火 壱

明暁に向かいて その53番外篇

 五月も終わりに近づいた午後。千鶴は夕餉の仕度を終えると、風呂を沸かし昼寝から起きた千桜を抱き上げて玄関に出た。坂の下から息子たちが手を振っているのが見える。長男の豊誠が剛志を背負い風にのる勢いで門に辿りついた。二人とも足が泥だらけ。剛志は尻まで真黒になっている。井戸端で盥に水を溜めて二人に泥落としをさせ、立ち上がろうとしたその時、「かあさま見て」と剛志が差し出した掌をみて驚愕した。手のひらの真ん中に一匹の青蛙。目を見開いた千鶴の顎に向かって緑の生き物が跳びはねた。千鶴は悲鳴を上げ叩き落とそうとしたが、小さな蛙は千鶴の着物と帯の隙間にすっぽりと潜りこんでしまった。
「どこ、どこ?」
千鶴はバタバタと自分の身体を叩いて探し回っている。下の子供が膝に凭れ掛かり抱っこをせがんでいるが、千鶴は「まってね、ちいちゃん」と慌てている。次男の剛志はけらけらと笑いながら答えた。
「かあさまのおなかのなか」
「ええっえ?」

 千鶴は完全に気が動顛していた。剛志は下着を脱いで素っ裸になっている。長男の豊誠が褌一丁になって丸めた着物を千鶴に渡し、濡れた下駄をもって庭を駆けていく。その後ろを次男と千桜がとことことついていった。

「ちょっと待って。あなたたち。かあさまを置いていかないで。蛙をとって」

 千鶴は半泣きになりながら中庭を走り風呂場に直行した。豊誠が千桜の着物を脱がせている。千鶴が勢いよく着物を脱ぐと青蛙が飛び跳ねた。叫び回る千鶴のそばで次男が蛙を捕まえて大事そうに風呂場の中に連れていった。
「捨ててしまいなさい」
「いやだ」
「お湯にいれたら死んでしまいます」
「いやだ」
駄々をこねる剛志の手から豊誠が蛙を預かった。
「窓のところに置いておこう。庭に跳んでいってもすぐに見つけられる」

 剛志は納得したようだった。千鶴は何度も次男の掌を糠袋で擦って、生臭さが消えるまで水で濯ぎ続けた。夕焼けの光が射す洗い場で、一通り子供たち全員の身体を洗い湯船に浸かろうとした時、弦打ちが始まった。空気が震動し全身から光が放たれる。湯船に張られたお湯が光を跳ね返し明るく揺れている。剛志は硬直したように湯船の縁に掴まり、豊誠は妹を抱きかかえ共鳴が終わるまで静かに待った。徐々に目や髪の毛の色が戻っていく、身体が温かくなり全身に力が漲る。豊誠は利き腕を宙に掲げてみた。太刀の柄を持つ感触。その瞬間丹田にまで力がこもり、しっかりと刀を握っている実感がした。
「剛志ちゃん、こっちいらっしゃい」
 千鶴は次男と末の子を膝に抱いて湯船に浸かった。豊誠が湯船から出て窓から外を眺めた。窓の桟に置いた蛙は庭に跳んで行ったらしく姿がなかった。弟たちはわらべ歌を歌ってもらい、湯船の中で機嫌よく遊んでいる。豊誠は先に風呂から上がり、外から帰ってきた猫の坊やの世話をして過ごした。

 斎藤が間もなく帰宅した。久しぶりに皆で揃って食卓を囲む。外は風もなく蒸し暑い。いつもは閉めている廊下側の障子をあけ放っておいた。子供たちが善光寺前の草むらで見つけてきた青蛙の話をして盛り上がった。
「かえると一緒にお風呂にはいった」
「はいっていません」
「母上、盥で飼ってもいい?」
「蛙は池で飼わねばならん」
「善光寺の池にいるのだろう。水辺で暮らすものを無理矢理連れてきてはならん」
 父親が蛙を飼う事に反対し、息子二人は口をつぐんでしまった。

「前も亀を飼うって、はじめさん、池を造るっておっしゃっていたじゃありませんか」
「厩に引いた樋を反対側にも持って来なければならん」
「植木を東側に移したとしても、やっと馬が通れるぐらいだろう」
「物干し場を西側にやるのは、おまえが反対した」
「ですけど」
「亀なら池も必要だが、青蛙ごときに池を掘るのは大掛かりすぎる」
「小さな池なら、瓦の鉢を土に埋めて造ることができるって植木屋の長次郎さんが言っていました」
「金魚を飼ったら、千桜も喜びます」
 千鶴は膝に抱いた娘に「ねえ、ちいちゃん」と同意させるように言った。真っ黒で大きな瞳の娘は、母親がそのまま小さくなったような表情で斎藤を見ている。斎藤は思わず頬がほころんだ。
「ならば、池を造る」
 子供たちの表情がぱーっと明るくなった。斎藤の非番の日に家族みんなで庭掃除をすることが決まり、池が出来たら亀と金魚を飼うことになった。食後、すぐに千桜が眠り始め斎藤が一緒に床についた。奥の部屋に長男と次男の布団を並べて敷いた千鶴は、剛志を厠に連れて行った。暗い廊下の向こうを先に歩く豊誠の足が浮かぶように見えた。豊誠は裸足のまま器用に敷石の上を跳び移って厠の中に入った。千鶴は廊下で立ち止まったまま動かない次男の手をとった。子供は半分しゃがむような恰好で廊下の板の上で踏ん張っている。首を突き出すようにおかしな態勢で中庭に向いている子供に千鶴は名前で呼びかけた。

「剛志?」
「つよしちゃん」

 子供は目を見開いたままぶるぶると震えている。踏ん張った足の指先を丸め、腰だけを後ろに引いた。その瞬間、水がこぼれるような音がして子どもは失禁した。千鶴は驚いた。剛志は千鶴にしがみついた。

「大丈夫よ、つよしちゃん」
「大丈夫」

 千鶴は子供を抱き上げて風呂場に連れていき尻と足をお湯で流してから新しい寝間着に着替えさせた。暗がりを怖がる子供のために行灯を布団のそばに置いて添い寝をした。静かな寝息をたて始めた息子の背中を優しく撫でた千鶴は、枕元に犬の張り子人形を置いた。籠をかぶった犬は虫封じのお守り。疳の虫が悪さをしているからだろうと土方夫妻が月初めに剛志を八王子の子安神社に連れて行きお祓いをうけた。しばらく寝小便はおさまっていたが、さっきのように起きていても厠に行けないのは初めてのことで、千鶴は子供の全身が震えていたことが心配でならなかった。

 翌朝、出勤前の斎藤に剛志が廊下で怯えたように小便を漏らしたことを伝えた。斎藤は縁側に立って庭を見渡したが、朝日が燦燦と照らす中庭や隣家との間を隔てる塀にこれといって変わりはなく、子供が暗闇を怖がるなら廊下に行灯を灯しておくようにと言って出かけていった。豊誠が尋常小学校に向かい、千鶴は朝の用事を済ませると人力を呼んで、剛志と千桜を連れて牛込のミルクホールに出掛け、搾りたての牛乳を一杯もらい子供たちに飲ませた。それから日日新聞一週間分を台に拡げて隅々まで読んだ。巾着から小さな帳面と矢立を取り出した千鶴は千桜をあやしながら、気になる事柄を新聞から書き写した。

「稲妻強盗こと坂本慶次郎を捕縛したる。土浦警視庁から浦和裁判所に護送……坂本慶次郎の従兄を身元鑑定に呼びたるが別人……、まあ、別人だったの?」
「かの曲者は真の坂本慶次郎とはならざりし……その後の取り調べでは三重県伊勢国一志郡久井町……平民養見長男、家里養成と云い東京にて人力車夫を営みし」
「三重県にて窃盗の罪にて重禁固刑二カ月の前科あり……、それじゃあ、この人も罪びとってこと?」
「坂本慶次郎は稲妻の如く行方をくらまし、この間にも埼玉県北足立郡木崎村の材木商真喜屋こと石井萬吉宅に押し入り抜刀を振り回し五圓を奪いし逃走」

「やだ、まだ捕まっていないのね」

 千鶴は溜息をついた。一度は捕縛されて北海道に送られた後も脱獄を繰り返す稀代の大悪人。東京以外に埼玉や土浦の巡査が血眼になって追っている。新聞に載っているだけでも、何人もの別人が「坂本慶次郎」と名乗らされて誤認逮捕が起き、明らかに警視庁も裁判所も攪乱されている。きっとはじめさん達も追っているのだろう。千鶴は新聞の束を棚に戻し、子供たちを連れて自宅に戻った。二日後の夜勤明けの朝、帰宅した斎藤はいつものように黙ったまま。しばらく下の子供をあやし、朝食の後は奥の間で横になった。千鶴は世間を騒がしている稲妻小僧のことを尋ねたかったが、ぐっすりと眠っている斎藤は一向に起きる様子がなく陽が高くなると庭師がやってきて池造りのための測量が始まり、ぱたぱたと忙しく時が過ぎて行った。


******

 朝から剛志が中庭の大きな糯の樹に登っては飛び降りることを繰り返している。猫の坊やは縁側で箱座りになって時々あくびをしては目をゆっくりと閉じてじっとしていた。千鶴は家の反対側の物干しに洗濯物を干し、背中におぶわれた千桜は機嫌よく母親の鼻歌を聞きながら空を見上げている。明るい陽射しに汗ばむぐらいの陽気。

 剛志が玩具の木刀を振り回しながら駆けてきた。千鶴は盥を抱えたまま、腰に抱き着いてきた剛志を受け止めた。
「捕まえた。さ、かあさまはお洗濯が終わったから。お掃除しなきゃ」
 子供が踵を返そうと振り返ったとき、頭の後ろに何かが光ったように見えた。
「ねえ、なにかついている」
 千鶴は子供を呼びとめると、髪の毛に手を伸ばした。
「なに、これ」
 剛志の黒々とした髪の毛にべったりと鳥もちがついていた。
「まあ、どうしましょう。木の上の鳥もちが」
「こんなにたくさん」

 千鶴は、手拭を出して髪の毛についた薄緑色の樹脂を拭きとろうとしたが、固まりになったとりもちは容易にはとれない。千鶴は熱い湯に浸した濡れ布巾でふやかして取ろうとしたが、鳥もちは髪の毛に絡まって固まってしまっている。千鶴は途方に暮れた。遊びたがる子供を風呂場に連れていき、米ぬかを頭にふりかけてぬるま湯で洗い流してもとれない。仕方なく、縁側に子供を座らせ糸切り鋏で鳥もちのついた髪の毛を根本から切った。後頭部の一部分から束になった毛が飛びでている。千鶴は不憫でたまらなくなり、豊誠が尋常小学校に通うときに被る帽子を被らせた。
「兄様のお帽子をかぶっていなさい。もう、糯の樹の上に登っちゃあだめよ」
 子供はこっくりと頷き、縁側で伸びをした猫の坊やを誘って厩に遊びに駆けて行った。

 その日の昼過ぎに突然、土方が診療所に現われた。

「近くに来たから、寄った」

 ちょうどおしめを替え終わった千桜を抱き上げて高い高いをした土方は、もう片方の腕で剛志を掬いあげるように抱き上げると、大きな声で笑い頬ずりした。

「明日は久しぶりに仕事が休みだ。市川に子供たちを連れて行こうと思ってな」
「本光寺の鬼子母神に。お多佳が坊主を連れて行こうって」
「朝が早い。だから剛志をこのまま預かって行こうと思うが、どうだ?」
「剛志をですか?」
「ああ、あそこは虫封じの祈祷で有名だ」

 千鶴は合点がいった。剛志が夕暮れに廊下で失禁し、以来おまるを勝手口に置いて用をたすようになった。昼間は活発に駆け回る子供が夕暮れになると庭の暗闇に怯えだす。お多佳は千鶴から聞いた子供の様子が心配で、遠く千葉に霊験あらたかな鬼子母神の祈祷が受けられると聞いて、土方に連れて行くように頼んだらしい。千鶴は、急ぎ子供の着替えを用意して風呂敷に包み、重々に礼をいいながら玄関から息子を送り出した。

 土曜日の昼過ぎ、千鶴は向島に剛志を迎えに行った。空の家の庭で遊ぶ子供たちの笑い声が道の先まで聞こえている。小さな千桜を抱えて玄関から中庭にまわると、お多佳が鞦韆に子供たちを乗せて揺らしていた。
「いらっしゃい」
 お多佳は千鶴を縁側から招きいれた。剛志は髪の毛を短く刈られ丸い頭がくりくり坊主になっていた。
「まあ、こんなに短い頭になって」
「ええ、歳三さんが銀座の洋髪店に連れていって西洋鋏で刈り込んでもらって。剛志ちゃんは毛が強いから直ぐに伸びますって」
「ありがとうございます。鳥もちがついてしまって、どうしても取れないから後頭部だけ短くなってしまっていたの」
 千鶴は子供の丸い頭を何度も撫でてお礼を言った。
「鬼子母神さまの御祈祷も無事に済ませて戻ってまいりました。夕べはぐっすり朝まで眠って。もう大丈夫です。悪い虫は封じてもらってきましたから」
「ほんとうにありがとうございます。よかったね、つよしちゃん」

 膝の上で甘えたように頷く息子を千鶴はしっかりと抱きしめた。仕事に出ている土方にお礼を伝えてもらい、千鶴は子供たちを連れて帰宅した。斎藤が泊まりの巡察から戻り、馬は日向水で汗を流してもらい上機嫌で子供たちの相手をしている。その間に、斎藤は庭の植木まわりに置かれている大工道具を納屋に運びいれ汚れた制服を井戸端で脱いで泥を落とした。千鶴が風呂の用意が出来たと呼ぶ声が聞こえ、再び厩に戻った斎藤は綺麗に水を拭きとってもらった神夷にたっぷりと草をやって母屋に戻った。

「銀座の洋髪店で刈ってもらったんですって。くりくり坊主。こんなに似合うなんて」
 千鶴は息子の頭を愛しそうに撫でている。
「湯を頭からかぶれば風呂も楽だろう」
「豊誠はずっと散切りだから、毛先を私が摘まんでいます」
「あの子ははじめさんに似て毛が柔らかいから。でも剛志は強い毛で真っ直ぐでしょ、切りそろえるのに難儀していたの」
「御祈祷も無事に済んで。空の家ではぐっすり朝まで眠っていたそうです」

 子供たちを寝間着に着替えさせた千鶴は、奥の間に敷いた布団に千桜を寝かせ、子守歌を歌っている。斎藤は居間で独り晩酌をしていた。廊下を息子たちが寝間着姿で駆けていき、猫の坊やが縁側から飛び降りふわふわの尻尾が暗闇に消えて行った。

 突然、神夷の嘶きが響き渡った。直後に子供の叫び声。斎藤は晩酌していた手を止めて、立ち上がり縁側に降り立った。厠の向こうに子供たちの影がみえた。青い光が射す。走りだした斎藤は庭の端に浮かぶ奇妙な光を見た。豊誠が弟を庇うように前に走りだした。

「さがっていろ」

 叫ぶ斎藤の声が庭に響く。その瞬間、目の前の植木に炎が上がり辺りが明るくなった。青い焔が勢いよく空に舞い上がり再び落ちて地面を這うように燃え広がった。斎藤は子供たちを抱き上げ炎から離れた。

 縁側の大きな御影石の上に子供たちをおろした。豊誠はそのまま縁側へ上がろうとしたが、剛志は腰を後ろに引いてしゃがみこんだまま動かない。その目は大きく見開き、青く輝いている。
「つよし」
 斎藤は子供の眼にうつる炎を見た。中庭の植木に再び青い炎が浮かび、まるで生き物のように焔が揺れている。斎藤は再び子供たちを抱えて縁側に上がらせた。

「母のもとへ行け」

 青く光る眼のまま動かない剛志の手を引いて豊誠は奥の間に駆けていく。斎藤は納屋の壁に立てかけた鍬を手に取り炎の上がった植木を根本から叩いて鎮火しようとした。だが、再び焔が火柱のように空に上がり、今度は庭の西側に舞い降りた。怪火。京で遭った不思議な炎。まるで生きているかのように火柱が動く。音もなく青く、近づいても熱さを感じない。だが、燃え広がる様子は庭木を焼きつくすようだった。神夷の嘶きが響いた。厩が燃えたか。斎藤は駆けだした。炎は西側に移っていたが厩には上がっていない。神夷は手綱の限界まで前足を上げて仰け反るように後ろへ下がろうとしている。斎藤が綱を解いた瞬間、神夷は厩から駆け出て門の向こうの闇に消えていった。それを遮るように再び炎が目の前に上がる。斎藤は桶に入った水を思い切り炎にかけたが、炎は消えたかと思うと、再び別の場所に上がり消える様子がない。斎藤は母屋に戻り打刀を手にとった。走りながら鞘から抜き炎の上がる植木を根本から水平に切り取るように居合いで捌いた。炎は宙に消えたが、再び空から舞い降り、一間先の庭木の上を灯すように焔が立った。駆け出しながら斎藤は次の一打を浴びせる。怪火は消えては再び炎を立てる。焔はゆっくりと揺れて音もなく静かに広がっていく。斎藤は続けざまに斬りつけた。その時背後に気配を感じた。地面をぱたぱたと走る音。振り返ると、豊誠が宙を飛んできた。青い光。両手に刀を持ち飛び上がった姿は碧い光に包まれ、炎にめがけて振り上げた刀を下ろした。一刀目は小太刀。怪火は縦に引き裂かれ、真二つに割れるように崩れ落ちた。地面に降り立った豊誠は、左手に持った大太刀を背後に引いた。その瞬間、二つに分かれた炎が大きな火柱をたてて空に舞った。
「さがれ」
斎藤は息子を庇うように前へ出ると、燃え広がる炎を根本から断ち切るように左構えから駆けながら厩の向こうまで炎を根こそぎ切り離した。炎は宙に消え、辺りは暗闇に戻った。
だがそれもつかの間、今度は中庭に炎が上がった。その光に豊誠が向かっていく。斎藤はあとを追った。

「下がっていろ」

 斎藤の叫び声が響くなか、大通漣の光が炎を根こそぎ切り裂く。小さな子供の背中は、見事な居合の構えで次の一手を打った。長い大太刀は青い焔の先までを捉え消し去った。
 残心。斎藤が教えた通り息子は次の一手を迫る。暗闇に浮かぶ大太刀。斎藤は助太刀をするように隣で構えた。西か東か。背後の母屋に移るなら、根こそぎ捕らえて討つ。二人の碧い瞳が暗闇を見つめ続けた。

「つよし」

 千鶴の叫び声が聞こえた。何度も子供の名前を呼んでいる。奥の間で何が起きた。怪火が母屋の中にたったのか。斎藤は踵を返して家の中に駆けて行った。奥の間の襖を開けると、真っ暗な部屋に青い小さな光が見えた。二つの丸い光。しゃがむように腰を引いた剛志が両目を見開いている。千鶴が呼びかけても無表情のままの息子は全身が硬直している。斎藤は刀を壁の刀掛けに置き、子供を抱きかかえた。両目は大きく開かれたまま、まるで鏡のように青く輝く瞳を覗いた斎藤は、さっき見た怪火の色にそっくりだと思った。

「剛志」

 呼びかけても、一向に反応しない。千鶴が整えた布団の上に子供を寝かせた。千鶴が添い寝をして額から頬を撫で「大丈夫だから」と話しかけ続けた。剛志の瞼がゆっくりと下りていく。斎藤は再び刀を持って庭にでた。豊誠は不動の構えで辺りを警戒し続けている。

「火は消えた」
「皆無事だ」
 静かに言葉を交わした二人は、母屋まわりを確認した。
「寝間に戻れ」

 斎藤は朝まで厩の外で見張りをするからと言って、息子に休むように言ったが、豊誠は奥の間から刀袋を持って太刀を中にしまうと、玄関から靴を持ってきて履いた。

「空の家に行ってきます」

 父親に断ると、一瞬で御影石の上から飛び立ち隣の家の母屋の屋根に飛び移り、暗闇に姿を消した。

つづく

(2024/02/27)

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