ブログ【柴司事件】武士の死生観
前回のブログのつづき。「明保野亭事件(柴司事件)」について書きます。
池田屋事件後に起きた会津藩と土佐藩の諍い。新選組五番組の組頭武田観柳斎が関わっています。ゲームではさらっと新選組からみた部分しか説明されておらず、武田がどうして土佐藩から嫌われてしまったのかが、少しわかりにくい。この騒動は、会津藩、土佐藩の立場、藩政や気質的な部分が浮き彫りになっていて興味深いものがあります。それに関わった新選組がどう立ち回ったのか、ゲームや史料を見比べるとまた面白いです。
最初に背景について考えてみます。池田屋前後の土佐藩の立ち位置。
元治元年頃、土佐藩藩主山内容堂は佐幕派のお殿様でした。容堂さんは、新選組の近藤さん同様、結構思想がころころと変わっていく人物です。池田屋が起きた頃、容堂さんは「朝廷」と「幕府」が一体となって、国の政を行う「公武合体運動」に賛成していました。会津藩も賛成派です。この頃は薩摩藩も賛成派でした。この三つの藩はがっつり協力関係を築いていました。
池田屋事件では長州藩士が沢山命を落とし、土佐の脱藩浪士(尊攘派)も亡くなっています。坂本龍馬の仲間の望月亀弥太もそのひとり。ですが望月たちは脱藩浪人なので、土佐藩は表向き文句を言わず放置。一方、長州藩は優秀な藩士を池田屋の夜に失い、兵を挙げて上洛し蛤御門の変が起きます。池田屋騒動で、長州藩に対し新選組と会津藩は大きな仇を作ってしまいました。
土佐藩は長州藩と少し違う開明的で過激な勤皇思想をもった草莽の士がでた土地です。土佐勤王党。この人達は新選組が成立する二年前、佐幕派家老を暗殺し門閥家老を引き込み藩内で実権掌握します。江戸にいる容堂さんは、頭は良かったので、藩士たちの思想の潮流をよく理解していました。国を開き、天皇を敬い、将軍は朝廷の下で政を行えばいいという考え方。ところがどっこい、元々容堂さんは幕閣のバックアップで、藩主となったこともあり、江戸(幕府)に盾突くことはできない。池田屋の前年におきた八月十八の政変で、尊攘派の長州が京から追い出されると、容堂さんは土佐に戻って土佐勤王党を捕まえて投獄します。こんなふうに池田屋騒動が起きた時も、土佐藩の立ち位置的に、藩主は佐幕派、藩士たちは勤皇派(朝廷に政を返上しろ思想)というねじれ構造状態が背景にありました。
池田屋事件で新選組には沢山負傷者がでます。残党狩りをするには人手が足りない。会津藩は助っ人に藩士五名を派遣し、この中に二十一歳の柴司がいました。ゲームで描かれたように、会津藩士を武田観柳斎が率い張り切って市中の浪士探索に出ます。清水寺近くの料亭で長州藩士と思われる不審者たちが会合しているという情報を得て、勇んで駆け込みました。武田は、とにかく武功をあげたい。近藤さんから一目置かれたい一心です。ゲームでは近藤さんに媚びへつらい、やたらと軍事方としての自分の地位をアピールする癖の強いキャラです。(実際、武田は池田屋でも活躍し、斎藤さんより報償を多く貰っていて、近藤勇の信任が厚いです)
史料によると、武田の討ってしまえという指示で、柴司は廊下から障子越しに座敷にいた不審者を鎗で突きました。懐中に刺し傷を負ったのが土佐藩士麻田時太郎。麻田は傷を負いながらも、自分の身分を名乗り、身の潔白を訴えました。不審者と思ったのが土佐藩に属する藩士だった。誤認逮捕の上に手傷まで負わせてしまった。武田の大失態です。池田屋事件から5日目の夜のこと。武田は柴司たちを連れて屯所に戻ります。すぐに町奉行所と会津藩に報告し、会津藩は公用方を土佐藩邸に謝罪に向かわせました。ですが、土佐藩士(ばりばり過激勤皇派)たちは激昂して明保野亭に押しかけ、家老たちはそれを止めにいこうと後を追い藩邸はからっぽ。会津藩は謝罪を伝えることもできないまま黒谷へ引き返します。記録では新選組も会津藩公用方もこの激昂土佐藩士たちとすれ違いになっていたため、斬りあいには発展しませんでした。
新選組では、池田屋騒動の報復として、長州藩や尊攘派志士が屯所を襲ってくることを予想し厳戒態勢です。ゲームではその様子がよく描かれています。
武田は誤認という失態を必死で言い訳します。薄桜鬼では、この会津藩士を率いての残党狩りを永倉さんも原田さんも気が進まないところを、武功を挙げたくて必死な武田観柳斎に押し付けるような形で行かせています。(ゲーム内のこの場面はコミカルで笑えます)この時に、武田ではなく斎藤さんに行かせていれば、誤認撃ちは発生しなかっただろうなと個人的に思います。土方さんも、自分の采配が悪かったと少し反省をしているのでしょう、ずっと眉間にしわがよった表情を見せています。
史料では実際に、池田屋騒動の前に捉えていた古高俊太郎を前川邸の座敷牢から、数軒先の六郷獄舎に移動させています。いつでも襲撃に備えている緊迫した状態が伺えます。
壬生の屯所に待機する柴司の元へ、実兄の柴生馬と外三郎がかけつけ詳しい説明を聞きにきました。土方さんは、この段階ではただの誤認撃ちで、会津藩から土佐藩に正式に謝罪すれば穏便に事が済むと思っていました。
翌日の六月十一日、朝早くに柴司は黒谷へ戻り、藩邸で尋問を受けます。同時に、会津藩は再び医者と家老を土佐藩邸に謝罪しに送りますが、謝罪面会は一切受け入れて貰えません。実は、土佐藩邸内で被害者の土佐藩士が、不面目を恥じて自刃してしまいました。麻田の残した申し伝え文には次のようなことが書かれていました。
「不慮の事故で疵を負ってしまい、一旦は平癒して相手を存分に相果てるつもりでおりましたが、この炎暑の中、もしこのまま疵を治すことができなければ、士道の本意を立てることが叶いますまい。よって恐れいりますが自刃いたします」
不面目に耐えられないという理由。会津藩公用方は、面会謝絶だったことから、麻田が自刃したと悟ります。実際、麻田自刃の風聞は物凄い勢いで会津藩邸に伝わっていて、土佐藩からの抗議に会津藩はどうしようかと頭を悩ませます。風聞は壬生村にも伝わりました。ゲームでは、土方さんは状況の見極めに慎重で、斎藤さんも事の成り行きを心配しずっと土方さんの部屋に詰めています。新選組としては、土佐藩にしろ長州藩にしろ、屯所を襲ってくる奴がいれば、応戦する気満々です。襲ってきたらというのが大義名分になるという感じ。
しかし、上位組織の会津藩は違います。公武合体の同志である会津藩と土佐藩は、ここで諍いを起こしたくない。でも土佐勤皇過激派の藩士たちは怒り狂い、黒谷と新選組を襲おうと躍起になっている。柴司は身の潔白を訴えていましたが、家老たちの判断では、麻田の死に対して、会津藩でも処分を下すしか方法はなく司に切腹要請します。柴司も責任をとって自刃するしかないと決心します。自刃をするにあたり、容保公は柴司を気の毒に思い涙を流して許可したと伝わっています。(松平容保公は、ずっと春先から病身でした。池田屋から禁門の変ぐらいまで、実質指揮をとっていたのは、家老たちです)会津藩邸で四ツ半時に切腹が執り行われ、実兄の柴外三郎が介錯しました。
この柴司自刃の報せに土方さんはめっちゃ動揺します。武田の失態は新選組の失態。土佐藩との溝を会津藩に作ってしまった責任は重大です。ここで、武田に責任をとらせて自刃という風にならなかったのが不思議なぐらいです。(想像するに、武田自身、気が気でなかったでしょう笑笑)
翌日六月十三日、柴司の葬儀が執り行われました。近藤勇、土方歳三、井上源三郎、武田観柳斎、河合耆三郎、浅野藤太郎が参列し、土方さんは柴司の遺体を撫でて声をあげて泣いたと伝わっています(こういう土方歳三の人情味のある部分、薄桜鬼の土方さんにも滲み出ていて好きです)。五人は酒を振る舞われ、武田は柴司へ和歌を奏上し、墓所まで相送したと記録されています。
我もおなし 台やとはんゆくすえは 同じ御国にあふよしもかな
武田の和歌は、事の発端をつくってしまったことから痛々しくもあり、会津藩にこびへつらう風味が漂っています笑笑。 悲しみにくれながらも、自身のアピールは忘れない。こういったしたたかな部分、薄桜鬼の武田観柳斎に顕著に表れていて、プレイしていると本当におもしろいです。武田は特に罰則を与えられたという記録はありません。ですが、土佐藩の藩士たちには、新選組五番組組頭の武田観柳斎は、麻田時太郎に仇した不届き者としてしっかり覚えられてしまいました。
この騒動で亡くなった土佐藩の麻田時太郎と柴司は、どちらも武士らしい身の処し方をしたと考えられるでしょう。麻田は無実無根なのに槍傷を負い、炎暑でこのまま疵が治らずに死ぬぐらいなら、自分で果てるほうが士道を通せると考え、柴司は騒動で会津中将さまが困った立場で苦しまれるぐらいなら、自刃して責任を全うしようと考えた。両藩にひとりずつ犠牲者がでたことで、おあいこさまで済ませられます。
記録を読んで凄いなと思ったのが、柴司の兄生馬がもう一人の兄寛治郎に送った書簡。自刃が執り行われたことを知らせる文ですが、「外三郎は立派に介錯いたしました。司の首を抱き申し候。二人とも誠に潔きこと御座候。中将様は惜しい者を失くしたと涙を流されたそうです。御家来一同の方々、皆がこのことで落涙しておられました。実に国家の誠忠。わたしたちご先祖代々の美名となりましょう。誠にあっぱれ事に御座候」と、弟の相果てた姿を褒め称えています。これは、もう本当に会津藩気質そのもの。生き永らえても恥ずかしい想いをするのなら、己で相果てる。武士の死生観は凄まじいものがあります。
こういった価値観の中、必死に立ち回り、根回しして自分の立場や地位を守ろうとした挙句に斬られて死んだ武田観柳斎は、この亡くなった二人や斎藤さんとは真逆のベクトルに進んでいて、お気の毒というか本人は必死に生きておられたのだろうけれど、滑稽に感じます。薄桜鬼ストーリーでも相当に変な人に描かれていて。キャラづけの濃さが最近病みつきになってきました。
(トップの写真は黒谷の会津藩殉職者墓地の柴司のお墓)